「人というもの」7月29日
『指導基準なく行政困惑』という見出しの記事が掲載されました。いわゆる「脱法ハウス」規制についての記事です。記事では、現場を視察をした担当者に言葉を、『区建築課の担当者は「こうした形状が望ましいとは思わない」としながらも、「居室に置く通常の2段ベットとの違いを、現行法令に基づく明確な根拠をもって言うのは難しい」と話す』と紹介しています。
また、『違法かどうかの判断を現場に任せれば、相当に混乱するだろう。法令上のシェアハウスの統一基準を作ることが急務だ』という建築士に意見も紹介しています。重要な指摘です。何かというと、行政の硬直した対応を批判し、もっと柔軟性をもたせて、と現場の裁量を重視する方々に噛みしめてほしいと思います。
法治主義を嫌う人は、基本的に「性善説」です。法の趣旨さえ正しく理解されていれば、人はそんなに間違ったことはしないという考え方です。そして、細かなことまで規則で縛ろうとするのは、人を信じようとしないからであり、「性悪説」に立つ歪んだ人間観の発露だという見方をします。
私は「性悪説」の立場をとる人間ではありません。ただ、現実を知る者として、善人であっても、人はときに悪事を働く、ということを知っています。脱法ハウスを進める人だって、極悪人ではないでしょう。家族や友人には優しい人であったり、街で困っている人を見かければ手を貸す人であったりすることでしょう。しかし、「こうしたやり方をすれば儲かる」と思えば、そしてその行為を罰する法令がないことを知れば、法の抜け穴を潜って「悪事」を働くのです。もしかしたら、愛する家族に楽な生活をさせたいという「優しさ」が動機かもしれません。
学校教育においても、法治主義が必要です。子供のためだという「信念」の下に、過激な性教育を行ったり、国旗や国歌について自分の考えを押し付けたり、愛のムチという誤解に基づいて体罰を行ったりする「善意の問題教員」が存在するからです。学習指導要領や学校教育法、地方公務員法などの法令があるからこそ、確信犯である教員に対しても、強制力を持って是正指導ができるのです。
もし、上記のような法令が整備されていない状況で、教委や校長が指導するとしたら、とてつもない困難が伴うことでしょう。教委や校長の指導を「不当な介入」として裁判に訴えるケースが頻発し、学校が機能不全に陥ることは確実です。
そうでなくても学校教育は他の行政分野とは異なり、「命令」ではなく「指導」に頼る部分が多いのです。教育行政に携わる人は、学校教育における法治主義の徹底に力を注ぐべきです。それは、教育への不当介入ではありません。むしろ、政治家からの不当介入を阻み学校教育を守る武器となるはずです。
『指導基準なく行政困惑』という見出しの記事が掲載されました。いわゆる「脱法ハウス」規制についての記事です。記事では、現場を視察をした担当者に言葉を、『区建築課の担当者は「こうした形状が望ましいとは思わない」としながらも、「居室に置く通常の2段ベットとの違いを、現行法令に基づく明確な根拠をもって言うのは難しい」と話す』と紹介しています。
また、『違法かどうかの判断を現場に任せれば、相当に混乱するだろう。法令上のシェアハウスの統一基準を作ることが急務だ』という建築士に意見も紹介しています。重要な指摘です。何かというと、行政の硬直した対応を批判し、もっと柔軟性をもたせて、と現場の裁量を重視する方々に噛みしめてほしいと思います。
法治主義を嫌う人は、基本的に「性善説」です。法の趣旨さえ正しく理解されていれば、人はそんなに間違ったことはしないという考え方です。そして、細かなことまで規則で縛ろうとするのは、人を信じようとしないからであり、「性悪説」に立つ歪んだ人間観の発露だという見方をします。
私は「性悪説」の立場をとる人間ではありません。ただ、現実を知る者として、善人であっても、人はときに悪事を働く、ということを知っています。脱法ハウスを進める人だって、極悪人ではないでしょう。家族や友人には優しい人であったり、街で困っている人を見かければ手を貸す人であったりすることでしょう。しかし、「こうしたやり方をすれば儲かる」と思えば、そしてその行為を罰する法令がないことを知れば、法の抜け穴を潜って「悪事」を働くのです。もしかしたら、愛する家族に楽な生活をさせたいという「優しさ」が動機かもしれません。
学校教育においても、法治主義が必要です。子供のためだという「信念」の下に、過激な性教育を行ったり、国旗や国歌について自分の考えを押し付けたり、愛のムチという誤解に基づいて体罰を行ったりする「善意の問題教員」が存在するからです。学習指導要領や学校教育法、地方公務員法などの法令があるからこそ、確信犯である教員に対しても、強制力を持って是正指導ができるのです。
もし、上記のような法令が整備されていない状況で、教委や校長が指導するとしたら、とてつもない困難が伴うことでしょう。教委や校長の指導を「不当な介入」として裁判に訴えるケースが頻発し、学校が機能不全に陥ることは確実です。
そうでなくても学校教育は他の行政分野とは異なり、「命令」ではなく「指導」に頼る部分が多いのです。教育行政に携わる人は、学校教育における法治主義の徹底に力を注ぐべきです。それは、教育への不当介入ではありません。むしろ、政治家からの不当介入を阻み学校教育を守る武器となるはずです。