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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

法治主義

2013-07-31 07:41:13 | Weblog
「人というもの」7月29日
『指導基準なく行政困惑』という見出しの記事が掲載されました。いわゆる「脱法ハウス」規制についての記事です。記事では、現場を視察をした担当者に言葉を、『区建築課の担当者は「こうした形状が望ましいとは思わない」としながらも、「居室に置く通常の2段ベットとの違いを、現行法令に基づく明確な根拠をもって言うのは難しい」と話す』と紹介しています。
 また、『違法かどうかの判断を現場に任せれば、相当に混乱するだろう。法令上のシェアハウスの統一基準を作ることが急務だ』という建築士に意見も紹介しています。重要な指摘です。何かというと、行政の硬直した対応を批判し、もっと柔軟性をもたせて、と現場の裁量を重視する方々に噛みしめてほしいと思います。
 法治主義を嫌う人は、基本的に「性善説」です。法の趣旨さえ正しく理解されていれば、人はそんなに間違ったことはしないという考え方です。そして、細かなことまで規則で縛ろうとするのは、人を信じようとしないからであり、「性悪説」に立つ歪んだ人間観の発露だという見方をします。
 私は「性悪説」の立場をとる人間ではありません。ただ、現実を知る者として、善人であっても、人はときに悪事を働く、ということを知っています。脱法ハウスを進める人だって、極悪人ではないでしょう。家族や友人には優しい人であったり、街で困っている人を見かければ手を貸す人であったりすることでしょう。しかし、「こうしたやり方をすれば儲かる」と思えば、そしてその行為を罰する法令がないことを知れば、法の抜け穴を潜って「悪事」を働くのです。もしかしたら、愛する家族に楽な生活をさせたいという「優しさ」が動機かもしれません。
 学校教育においても、法治主義が必要です。子供のためだという「信念」の下に、過激な性教育を行ったり、国旗や国歌について自分の考えを押し付けたり、愛のムチという誤解に基づいて体罰を行ったりする「善意の問題教員」が存在するからです。学習指導要領や学校教育法、地方公務員法などの法令があるからこそ、確信犯である教員に対しても、強制力を持って是正指導ができるのです。
 もし、上記のような法令が整備されていない状況で、教委や校長が指導するとしたら、とてつもない困難が伴うことでしょう。教委や校長の指導を「不当な介入」として裁判に訴えるケースが頻発し、学校が機能不全に陥ることは確実です。
 そうでなくても学校教育は他の行政分野とは異なり、「命令」ではなく「指導」に頼る部分が多いのです。教育行政に携わる人は、学校教育における法治主義の徹底に力を注ぐべきです。それは、教育への不当介入ではありません。むしろ、政治家からの不当介入を阻み学校教育を守る武器となるはずです。

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想定問答

2013-07-30 07:46:17 | Weblog
「想定問答集」7月27日
 『おうちで性教育 シンプルに事実伝えて ごまかさずきちんと』という特集が組まれていました。記事は、『おうち性教育カフェ』の取り組みを伝え、参加した主婦の『今は何も不安はない。「何を聞かれてもきちんと答えられる」』という感想で締めくくられています。
 私は、このブログで繰り返し、学校教育と家庭教育がそれぞれの機能と特性を生かし、役割分担することによって全体の教育効果が高まるという趣旨の主張をしてきました。そうした立場から、家庭で性教育が適切に行われるということは大歓迎です。しかし、記事に書かれていることは、あまりにも「きれいごと」という印象がしてなりませんでした。
 そして、家庭でもできるのだから学校でもできる、家庭で基本的なことは教えたから後は学校で、となることを恐れてしまうのです。例えば、「性欲」についてどのように教えればよいのでしょう。性の快感についてはどうでしょう。薬や道具の使用など性の快楽を追い求めてきた古今東西の人類の歴史についてはどう扱えばよいのでしょう。SMや獣姦、ロリータ性愛などについても聞かれたら答えなければならないのでしょうか。現在でも一部の国では合法となっている売春についてはどういう立場で臨めばよいのでしょうか。乱交やスワッピングは、など、正直なところ私は指導する自信がありません。
 私は、教委勤務時代に人権教育を担当していました。ですから、人権教育としての性教育、パートナーの意思の尊重、同性愛への偏見の是正などの視点で教員を指導したことはあります。性教育が性交教育でないことも理解しているつもりです。しかし、子供の質問に対し、「そんなことは学校では勉強しません」とか「時間がないので後で」などといういい加減な対応は、かえって逆効果となることも理解しています。
 私の不安に対して、取り越し苦労だという人がいるかもしれません。しかし、私は、「教員はできる限りのシミュレーションをしてから子供の前に立て」ということを指導の柱にしてきました。
 子供同士のけんかを止めに入って指導したとき、「税金から給料もらっているくせに偉そうなこと言うな」「他人の気持ちなんか分かるわけないだろう。超能力者じゃないんだから。あんた分かるっていうんなら、俺が今考えていること当ててみろよ」こんな返事が返ってきたらどうするか、あり得ないと思われるようなケースについても考えておくからこそ、自信をもって子供の前に立つことができるというのが教員のあり方です。
 性教育についても、様々な場面を想定して具体的に考えてみることが必要だと思います。

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どちらから見るか

2013-07-29 07:27:24 | Weblog
「どちらから見るか」7月27日
 評論家荻上チキ氏が、『「若者の政治離れ」ではない』という標題でコラムを書かれていました。その中で荻上氏は、『不整備を放置しながら、「若者」の心に還元しても、効果はないと言いたいだけだ。まずは、今起きていることを、「選挙の若者離れ」あるいは「政治の有権者離れ」と言い換えよう』と書かれていました。
 ある出来事について語るとき、何を主語にするか、誰の視点で語るかによって、異なる姿が浮かび上がり、別の解決策が見えてくることがあるという提言だと思います。学校教育でもこうした例はたくさんあります。「落ちこぼれ」といえば、学習意欲も能力も乏しい子供が授業についていけない、というイメージになり、責任は子供側にあり、子供の自覚を促す以外に解決策はないという方向に話が進みます。一方、「落ちこぼし」といえば、学校や教員が適切な指導や支援を怠った結果、授業を理解できない子供が出てきてしまったということになり、授業の改善策や指導体制の見直し、学習指導要領の改訂などの方策が浮かんでくることになるわけです。
 こうした視点の転換は、不登校などの学校不適応全般について有効です。では、いじめ問題についてはどうでしょうか。いじめ問題には、いじめる子供、いじめられる子供、傍観する子供、教員、保護者など様々な関係者が存在します。従来は、教員といじめる子供、傍観する子供の視点からいじめ問題が分析されることが多かったように思います。いじめ問題は「被害者にも原因がある」という被害者有責論では解決できません。そうした意味で、上記3者の視点からアプローチするのは理屈に合っています。
 しかし、実際のアプローチと研究・分析は違います。今まで余り行われてこなかった「いじめられる子供」視点での分析・研究も進めるべきです。さらに、実際の問題解決に当たっては重要な要素となる保護者・家庭についての分析・研究も重要だと思います。以前このブログでも書いたように、いじめ加害者側の保護者が、問題解決の最大の障害となるケースが多いのですから。

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独占ゆえに尊からず

2013-07-28 08:07:31 | Weblog
「別の誤解」7月24日
 山口県のO氏が、『学校に来る意味は』という標題の投稿をなさっていました。その中でO氏は、『(前略)YouTubeで授業を受けて卒業する生徒もいていいはずだ。だが、本当にそれでいいのか学校に来る意味は、生身の人間がぶつかり合うところにあるはずだ~(中略)~それに意味がないというのであれば、学校なんか今すぐ閉鎖してしまえばいい。情報や知識を学校が独占している時代は、とっくの昔話であることは十分に承知されている』と書かれています。
 O氏は、知識の切り売りのような学校を否定し、教員と子供の交流こそ学校教育の神髄だと主張しているのです。この主張に賛成という方は多いのではないかと思います。しかし、私はO氏の考え方には問題があると考えています。
 O氏の主張は、かつては「学校が情報と知識を独占」していたのであり、その時代には学校は保持している「知識と情報」の量と質によって存在する意義があったというように受けとれます。O氏が、学校という言葉で何をイメージしているかは不明ですが、「生徒」という言葉を使っていることから大学や大学院を想定しているのではないことは確かです。つまり、O氏は、かつての小中高等学校は「情報と知識」の集積センターであったと言っていることになるのです。
 こうしたO氏の考え方を敷衍していきますと、学校の教員もまた、「情報と知識」をもっているがゆえに、その職にあるという理屈になります。これは、教員は学問のある領域について専門知識をもっている人であるという捉え方であり、その領域についてもっている専門知識の量と質こそが教員の能力・資質を左右するという教員観に結びついていきます。
 このブログをお読み頂いている人には「耳タコ」の話となりますが、こうした教員観は間違っていると言わざるを得ません。教員はあくまでも「教えること」の専門家であり、授業の職人え、授業の目標を具体化し子供のレディネスに合わせて多様な授業法の中から最適なものを選択し駆使することができる技量が大切であり、科学や文学、歴史などについての知識は二の次なのです。そこに、学者と教員の明確な違いがあります。
 インターネットでの授業が本当の意味での授業たり得ないという点では、O氏の意見に賛成ですが、教員観には同意できません。

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不幸の目は

2013-07-27 07:58:38 | Weblog
「体質の問題」7月23日
 東京都調布市で起きた給食での食物アレルギーに起因する死亡事故について、『「完食」に協力しようと』という見出しの小さな記事が掲載されました。記事によると、『この日、チヂミをおかわりする児童は少なく、女児は自分からお変わりを申し出た。給食後、おかわりをした理由を友人に「完食記録に貢献したかったからだよ」と答えた。女児の両親は、「みんなと同じ物が食べられない日も多い中、周囲の役に立ちたいという思いが、このような結果を引き起こすことになろうとは」とのコメントを発表した』とのことです。
 女児が所属する学級では、給食の残菜をゼロにする「給食完食」を目標としていたのです。私は、このブログで学校給食廃止を訴えてきました。戦後の食料不足の時代とは異なり子供の栄養確保の使命は終えていること、食は家庭の文化を象徴するものであり学校が提供するものではないこと、多忙化する学校から何かを削減するとしたら給食が相応しいこと、などの理由からでした。そして、学校給食が教員にとって大きな負担となっていることを具体例を挙げて示してきました。その中の一つが、完食プレッシャ-であることも述べてきました。
 ここで、その主張を繰り返すことはしませんが、今回の不幸な事故も、給食を残さず食べることを善とする「学校の体質」がなければ起きなかった可能性が高いのです。食べ物の好き嫌いという当然のことを「悪」とし、小食の子供もいれば、食欲のない日もあるという当たり前のことを無視し残菜ゼロを半ば強制する体質です。そこでは、食べられない子供が肩身の狭い思いをし、公然とあるいは暗黙のうちに食べられない子供が「お前の所為で…」という非難を感じるという体質です。
 学校給食の残菜は、持ち帰ったり、欠席した子供に届けたりすることは許されません。ですから、残菜を出すことは「農家の方や漁師さんが一生懸命作ったり獲ったりしてくれた食べ物を無駄にする」「給食調理員の人が朝から一生懸命似作ってくれたおかずを残したらおいしくなかったのでは気を悪くさせる」行為となります。それは、勤労に感謝する精神に反し、世界中で飢えた人がいる中で、「Mottainai」精神に「反することだという大義名分が振りかざされ、今回のような悲劇の温床となるのです。
 だからといって、学校給食がある限り、「嫌いなものは食べなくてもいいよ」「みんながのこすことと世界の飢餓は関係ないんだから気にする必要はないよ」「残そうが食べようが、農家の人には同じ金額の代金が払われて居るんだから問題ないよ」「残したおかずは肥料や飼料になるから無駄じゃないんだよ」「給食が残ったからといって、調理員の」人の給料が下がるわけじゃないんだよ」などとは、指導できないのです。
 給食制度はやはり廃止すべきだと思います。子供のための制度ではなく、保護者が楽をする制度という性格が濃い、と思うのは私だけでしょうか。

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飲みニケーション

2013-07-26 07:49:52 | Weblog
「飲みニケーション」7月23日
 ADK社長の上野信一氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中に、『広告主との酒席を増やすなど付き合いを深め、プライベートな話題も積極的に交わした。やり方を変えると仕事も自然と回り始めた』という記述がありました。上野氏の支店長時代の経験のようです。
 いわゆる「飲みニケーション」の効用です。こうした類の話はよく聞かれます。でも、私はアンチ「飲みニケーション」派です。それは、「飲みニケーション」に限らず、仕事に関係のないものを媒介にした人間関係作りは、排他的になりやすく、好悪の感情が影響しやすいと考えるからです。
 私が教委に勤務していたとき、教育長がゴルフ好きで、何人かのゴルフ好きな校長と休日にコースを回ることがありました。ゴルフをしない校長は、「ゴルフ場で校長人事が決まっているなんてことはないんだろうね」と冗談めかして話していましたが、内心気にしているようでした。そんな「疑念」をもたれるだけでも、マイナスです。
 また、私が尊敬する大校長であったM先生は、一滴も酒が飲めない人でした。M先生は無理をして酒席に顔を出していましたが、新米校長のころは、「俺の酒が飲めないのか」というようなアルハラを受けたそうです。やがて、校長会は酒好き派と酒嫌い派に分かれていったそうです。
 さらに、校長人事の時機に、校長会長が「○○さんを△△校の校長に」と推薦してきたことがありました。その理由は、大変有能だから区内の「有名校」にふさわしいというものでした。私たちの評価とは異なるので、具体的に「有能さ」について訊ねると、「宴会の取り持ちが抜群にうまい」とのことでした。呆れた話ですが、真実です。
 さて、これまで書いてきたことについては、いろいろと異論のあることでしょう。ですから、ここでは別のことについて考えてみたいと思います。教委の幹部と学校管理職の酒席は、いわば身内同士のものです。企業でいえば、職場で部長と課長が飲んでいるようなものだと言ってもいいでしょう。しかし、外部の人間との酒席はどうなのでしょう。上野氏が広告主という「外部」の人との酒席を活用したように、教委の幹部が、議員や地域の有力者やPTAの会長などと「飲みニケーション」を利用して職務を円滑に進めるということは許されるのでしょうか。もちろん、「接待」ではなく、すべて割り勘でという前提で、です。
 私は望ましくないと考えています。そうした仕事の進め方は、その「サークル」からはずれた人たちに不信感を与え、それが教育行政への信頼まで損なうことにつながると思うからです。しかし、実際には、上記のようなメンバーでの酒席は決して少なくありません。そして、「酒の上のことだから」ということを免罪符に、公式ではない情報提供や下交渉が行われ、そうしたことに長けている人が有能という評価を得ている実態があるのです。
 上野氏にインタビューした西浦記者は、上野氏の「飲みニケーション」について一切批判めいたことは書いていません。これが、「公職」にある者へのインタビューだとしたらどうだったのでしょうか。

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体罰多発期

2013-07-25 07:47:04 | Weblog
「体罰の瞬間」7月23日
 精神科医の香山リカ氏が、『どう防ぐ「感情の爆発」』という標題でコラムを書かれていました。呉市で起きた16歳女子生徒の死体遺棄事件を取り上げ、『自首して逮捕された元同級生の少女やその友人たちは、スマートフォンの無料通信アプリを頻繁に使っていた』ことに焦点を当てて述べられています。その中で香山氏は、『熟考、推敲(すいこう)よりもまず発信、そして反応。こんなコミュニケーションを繰り返していると、知らない間に自分の感情をコントロールする習慣が失われるということはないだろうか』と問題提起し、『瞬間的にそれを多くの人に発信できる装置があれば感情を抑え込む必要はなくなる。それどころか、過剰なイラストなどでその時の気持ちを表現できるので、逆に当初よりエスカレートすることさえあるかもしれない。感じたこと、思ったことを、常にすぐに顔に出し口にするのは、自分にとっても相手にとっても危険なことだ』としています。
 よく分かります。怒りっぽい人に「瞬間湯沸かし器」というあだ名を付けることがありますが、人間は誰しも、怒りが爆発する瞬間があるものです。私は、このブログで再三体罰問題を取り上げてきました。そして、体罰の原因として教員の指導力不足があると指摘してきました。それは今でも変わりませんが、この場合の「原因」とは、間接的な遠因とでもいうようなもので、直接的な「原因」としては、この「瞬間的に怒りの感情が沸点を超える」状態をあげることができるのです。
 私は、体罰をしてしまった教員を対象にした事情聴取を何十人と行ってきました。彼らは、体罰禁止が法によって定められていること、体罰を行うと処分を受ける可能性が高いこと、体罰をしてしまうと子供や保護者、教員仲間の信頼を損ない職場に居辛くなることなどを知っていました。そのことを確認した上で、「自分にとって不利になることが分かっていてどうして体罰をしたか」と問い詰めると、「とにかくカッとなってしまって」「子供の小馬鹿にしたような顔を見ていると頭に血が上って」などと、その瞬間に感情が激していたことを告白するのが常でした。
 体罰については、私が主に指摘する「指導力不足」以外にも、「人権感覚の麻痺」、「誤った師弟観」「愛のムチ論的考え方」などいくつかの遠因がありますが、直接的な原因としては、この激情があるケースがほとんどです。
 今どきの「若い教員」は、その多くが「無料通信アプリ」を利用していると思われます。そして、たとえ教員であろうとも、香山氏が懸念するように「感情のコントロール」が苦手になっていく危険性は高いと思われます。その対策は大丈夫なのでしょうか。教委関係者に問いたいところです。
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元も子もなし

2013-07-24 08:03:43 | Weblog
「元も子もなし」7月19日
 『東電、管理職に10万円 退職歯止め』という見出しの小さな記事が掲載されました。記事によると、『東京電力は19日、増加する管理職の退職に歯止めを欠けるため、月内に1人当たり10万円を一時金として支給する方針を固めた』とのことです。記事ではこの方針に対して、『事故の処理や賠償が進まない中での支給は批判を呼ぶ可能性もある』としていますが、可能性などではなく、批判は必至でしょう。
 しかし、私はこの方針に反対しているわけではありません。むしろ、『使命感の維持は非常に大事』という広瀬直己社長の「言い訳」に共感を覚えるくらいです。
 2.11の事故以降、東電は天下の極悪人として、凄まじいバッシングに遭ってきました。我が国には、一度悪人として「公認」されればとことん叩かれるという体質があります。その間は、何をしても何を言っても、聞く耳をもってもらえないのです。批判している側の論理にどんな矛盾があろうが、事実誤認があろうが、反論は許されず、真っ当な反撃権さえも認められないのです。組織としての東電は、逆風の中必死に立ち続けようとしています。しかし、組織の中にいる個人は、生身の人間です。彼らには家族もおり、その幸せを願う思いもあるはずです。大幅な給与削減を受け、それでも同情されるどころかまだ我慢が足りないと非難され、家族まで学校や集団の中で肩身の狭い思いをし、しかも将来の展望も開けないという状況下では、退職という道を選ぶひとが増えるのは当然です。
 そんなことは関係ない、という人もいることでしょう。しかし、経験と能力を有する管理職層の大量退職は、組織としての東電の力を低下させることは確実です。それは、福島の賠償、電力の安定供給、電力の安定供給を基盤とした産業の維持・発展などにとって大きなマイナス要因となり、国民の生活に関わってくるのです。
 10万円の一時金に引きとめ効果はないと思います。そういった意味では愚策です。しかし、組織は生身の人間で構成され、生身の人間の夢や誇りを奪う手法では、組織がその責任を果たすことができないというのは古今東西の歴史が証明する真理です。
 教委攻撃、学校批判、教員叩きも、行き過ぎれば我が国の学校教育の衰退を招き、我が国の将来をくらいものにしてしまうということを自覚してほしいものです。

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無菌化

2013-07-23 08:02:32 | Weblog
「リスク回避」7月19日
 『「遊びの力」を成長に』という見出しの記事が掲載されました。全国に広がりつつある「プレーパーク」についての記事です。その中に、NPO法人「日本冒険遊び場づくり協会」理事の『リスク回避能力を身につけるには、危険を除去せずに危険と向き合わせる必要がある』という言葉がありました。プレーパークの基本理念を表す言葉だと思います。
 私もこのブログで「大人の監視が過剰に行き届いた環境では子供の社会性は育たない」という趣旨の主張を繰り返してきました。同じ趣旨です。では、この考え方の延長線上に「いじめ」問題を置いてみたらどうでしょうか。
 「いじめ」をプレ-パークの穴ぼこや木の枝などの危険物だと考えるのです。落ちたら大怪我をするような穴は塞がなくてはなりません。同様に、長期の不登校や自殺につながるような重篤な「いじめ」は大人が解決しなければなりません。しかし、擦り傷で済むような穴はそのままにしておくように、日常的にどこの学校でもある小さな「いじめ」は、子供が集団内における人間関係のリスク回避能力を高める「機会」として、見守るということです。
 「いじめ」が学校以外では起きないものであるならば、学校在学中は「いじめ」を封じ込めておくという発想にも意味はあります。しかし、現実には、大人になっても、職場でも、地域でも、趣味のサークルにおいてさえ、「いじめ」はあるのです。そしてそこには、教員のような仲裁役はいないのです。だからこそ、小さな軽微な「いじめ」に対しては、そうした事態に対する対応力を身につけておく必要があるのではないかと思うのです。
 もちろん、「いじめ」を称賛するわけでも、黙認するわけでもありません。ただ、いじめ防止対策を法律で定め、根絶を目指すなどと現実離れした目標を掲げるよりも、「いじめ」をコントロールするという発想は教育的であるとも思うのです。
 私は、「子供がいじめられていると感じたらそこにいじめがあったと考えて対処する」という原則を繰り返し説いてきました。教員時代も教委に勤務してからも、いじめ問題には「被害者」の立場に立って厳しい姿勢で対処してきました。その信念は今も変わりません。ただ、学校の「無菌化」志向に懸念を覚えるのです。

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そんなもんじゃない

2013-07-22 07:30:14 | Weblog
「間違った現状分析」7月19日
 『小学英語 先進1600校調査』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、文部科学省が小学校における英語授業の課題分析を行うのだそうです。その中に、『教員の多くは、大学の教職課程で指導法を学んでいないため、試行錯誤しながら授業をしているのが現状だ』という記述がありました。
 大変違和感を感じる記述です。要するに、英語学習が十分な成果をあげていないのは、教員が教職課程で英語教授法を学んでいないから、と言っているのです。また、授業法については、こうあるべきだという形が確立されているのが好ましく、教員が試行錯誤するのはよくないことだという考え方をしているのです。どちらも間違いです。
 現在の小学校の教員は全員が教職課程で国語や社会、算数などの指導法を学んでいます。しかし、現職の教員にアンケートをしたとして、大学で学んだ指導法が実際の授業で役に立っていると答える人はほとんどいないはずです。私自身もそうでしたし、私が知る「指導力がある」とされる教員もそうでした。拙著「教員改革」に掲載した小学校出身の指導主事を対象に行った調査結果でも、ほとんどの指導主事が、学校現場における日々の授業や研究を通して授業力を向上させたとしていました。教員養成系大学に「小学校英語」という単位を設ければ英語授業が充実するなどということは机上の空論にすぎないのです。
 また、「小学校英語」という講座をすぐに設けることができると考えていることも認識不足です。先ほど述べたように、現在ある「小学校国語」や「小学校社会」という数十年の積み重ねを経た講座ですら、十分な効果を上げていないのです。ここ数年の間にそうした講座を担当することができる人材が揃うはずはないのです。もし、「中学校英語」の専門家を充てればよいと考えている人がいるとしたら、それも認識不足と言わざるを得ません。「中学校国語」の指導法を担当している「専門家」は、国語教育に対する造詣は深いかもしれませんが、「小学校国語」の指導法には通暁していないのです。要するに、「中学校英語」と「小学校英語」は、多少の共通点はあっても本質的には異なるものと考えた方がよいのです。
 さらに、教員の試行錯誤を好ましくないものとする発想に至っては、教員が「授業の専門家」であることを否定し、学校教育を崩壊させるものです。60年以上の歴史をもつ既存教科の授業でさえ、現在も毎日全国の学校、それぞれの学級で教員が試行錯誤しながら、より良い指導法が生み出されているのです。授業法については、「授業の専門家」である教員だけが、新しい価値ある手法を創造することができるのです。
 以前このブログで、インターネットを使って授業名人の授業を全国の学校に発信する構想について問題点を指摘しました。インターネット授業にも今回の英語授業にも共通しているのは、どこの学校、どこの学級においても通用する「最高の授業」というものがあるのだという発想です。それが間違いの源なのです。子供が違い、地域の雰囲気が違うように、「最高の授業」は、各学級の数だけあり、しかも今日最高の授業だった指導の形も、明日にはうまくいかない可能性があるというのが授業というものなのです。
 せっかくの全国規模の調査ならば、正しい授業観に基づいて行ってほしいものです。

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