ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

寂しい限り

2009-01-31 07:55:53 | Weblog
「施政方針演説」1月26日
 麻生首相の施政方針演説が行われました。その中で学校教育に触れた部分は、130字ほどにすぎません。内容を要約すると「新学習指導要領を4月から一部先行実施し、理数系の授業時間を1割増やすことにより、学力を向上させ、豊かな心や健やかな体を育む」ということだけです。
 「一部先行実施」は麻生政権が決めたことではありません。福田政権の時代に決まっていたことです。さらに疑問なのは、理数系の授業時間増と学力向上(理数系だけが学力ではありません)や豊かな心、健やかな体はどのように結びつくのかということです。
 何もしないし、関心もないというのが本音なのでしょう。寂しい限りです。学力を向上させるためには、教員の授業力の向上が王道です。そのための施策が必要です。豊かな心と健やかな体の育成には、学校だけでなく家庭の教育力の向上が不可欠です。そのための社会労働政策が必要です。ワークシェアリングの導入を進め、ライフワークバランスの見直しを進めることが重要です。大きな視点で国家像を考え、その中に教育の役割を位置付ける、それは首相にしかできないことです。そうでなければ、「国づくりは人づくり」という首相の言葉が泣いてしまいます。
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信頼関係を損なう、の決まり文句で終わらせないで

2009-01-30 08:01:17 | Weblog
「指紋採取」1月27日
 三重県の私立高校、1年生の生徒の携帯電話のメモリーカードが紛失し、盗難を疑った担任教諭がクラスの生徒たちの指紋を集めていたことが明らかになりました。同教諭は、「生徒に納得してもらった上で指紋を取った」と説明していますが、校長は「教諭が生徒の指紋を取ることは許されない。保護者の同意も得ておらず、行き過ぎだった。保護者にもおわびと説明をする」と話しており、担任教諭は何らかの処分を下されることになったようです。
私も担任をしていたときに、学級内で子供の物がなくなるという経験をしています。正直に言ってそれほど珍しいことではありません。その際、指紋を採ろうと思ったことはありませんし、実際に採ったこともありません。でも、今思い出してみると、指紋を採らなかった理由は、「指紋を採ったところで素人の自分に鑑定はできない。したがって犯人を見つけることはできない」「指紋を警察にもっていけば犯人を見つけることができるかもしれないが、そこまでやっては大事になる」ということであったように思います。もちろん、何となく「指紋採取はやりすぎ」という感覚はありました。しかし、それはあくまでも「感覚」であり、きちんと考えたことはありませんでした。校内で盗難事件があったとき、指紋採取をしてはいけないのはなぜなのでしょうか。
被害者の保護者から、「貴重な物なので、指紋採取をしてでもなくなった物を取り返してほしい。学校内で起こったことなのだから学校には責任がある」と指紋採取を求められた場合、断ることが正しいのでしょうか。そもそも、窃盗という間違った行為をした生徒を放置してしまうことの方が教育的なのでしょうか。悪いことをしたら必ず罰を受けなくてはならないということを身をもって知らせることの方が教育的なのではないでしょうか。また、校長は「保護者の同意も得ておらず」と言っていますが、保護者の同意を得れば問題なかったのでしょうか。
学校には、長年、何となく行ってきてそれが一つの慣例のようになっていることがたくさんあります。これもその一つです。私自身は、今回のケースは校長の言うとおり「行き過ぎ」であると思いますが、従来の感覚で何となく処理するのではなく、自分が勤務する学校で起こったらどうなのか、真剣に話し合っておくことが必要なように思います。
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全否定でよかったのか

2009-01-29 08:02:56 | Weblog
「天使か化け物か」1月23日
 自衛艦衝突事件について述べるコラムの中に、「習慣というものは、悪い行いに対する感覚を麻痺(まひ)させてしまう化け物ではあるけれど、一方、よい行いに対してもお仕着せを与え、次第に身につけるようにしてくれる天使でもあるのです」というハムレットのせりふが引用されていました。
さらに、「悪い習慣は化け物で、よい習慣は天使。なるほどうまいことを言う。新年を期して、化け物とは縁を切り天使を友にしようと一念発起した方もあろう。が、残念なことに習慣にはもう1つ、嫌らしい特徴がある。よい行いのはずだったのに、身につくにつれて天使から化け物に変わっていく習慣。「惰性」である」と続きます。
安倍内閣が、教育再生会議を立ち上げたとき、「再生」とは公教育は死んだという認識を表すものだといわれました。公教育の全否定だったのです。確かに、学校現場には、長年の間に天使から化け物にかわってしまったものもありました。しかし、天使であった習慣まで化け物と見なして退治してしまった面があったのではないでしょうか。
 学校選択制は、地域と学校のつながりを壊し、学校評価制度など競争原理の導入は、目に見えにくい校務を軽視する風潮を生みました。地道な授業改革よりも、目立つ活動の導入に重点が置かれるようにもなりました。わが国の学校、教員がもつよさとはなにだったのか、改めて考えてみる必要があるはずです。
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形だけ真似ても

2009-01-28 07:51:03 | Weblog
「システムではなく本質を」1月21日
 あるコラムで、「仕組みをいくらまねても、本質が分かっていないと同じようにはいかない」という言葉が紹介されていました。教育ではなく、福祉についての話です。
 デンマークの福祉システムについて、「どうしたらそんな社会システムが構築できるのか」と訊かれたときの担当大臣の答えは、常に「できないと思います」なのだそうです。その意味は、長い民主主義の歴史の中で培われた、「社会に対する高い信頼感」があって初めて成り立つ仕組みだからなのだそうです。
 学校教育についても同じことが言えそうです。学力が高いとされるフィンランドの教育について、わが国も見習うべきだという論が盛んです。また、国内に限っても、全国学力調査の結果が悪かった自治体は、結果がよかった自治体の試みを参考にすべきだという指摘がなされています。いずれも、半分は正しいのですが、半分は間違っているのです。
少人数指導、読書運動、外部講師の活用など、目に見えやすい「システム」にばかり注目が集まりやすいのですが、そんな「システム」を導入したところで思ったほどの成果は上がりません。それぞれの地域で長い年月をかけて培われてきた教育風土、生活習慣、家庭の雰囲気などの総体が子供の学力を左右している最大の要素なのです。もちろん、そうであるからといって、改革には意味がない、何も努力する必要はないといっているのではありません。教委も学校も個々の教員もそれぞれの立場でできる努力をしていくべきです。ただ、そうした改革の結果、予期したような成果が上がらなかったときに、教委や学校を責めるだけでは何も解決しないということを知ってほしいのです。
 まず、学校という場所が神聖な場所であり、教員は専門職であるという認識と敬意をもつことなしには、学校改革は成功しないと思います。学校教育がよい成果を上げているところに学ぶべきは、そうした雰囲気が醸成されているところなのです。

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社会保険庁と都教委

2009-01-25 08:14:20 | Weblog
「生活保障が目的」1月20日
 卒業式における国歌斉唱時に起立するよう職務命令を受けていたにもかかわらず従わず戒告処分を受け嘱託として再雇用されなかった元教員S氏が再雇用を求めていた裁判で、都教委に賠償命令が出されました。そのことを報じる記事の中に「再雇用制度は退職者の生活保障などを目的とし」という表現が目につきました。いつからそうなったのでしょうか。
 再雇用というのは、現役時代に勤務成績が良好だった人について、その経験や知識を公務生かすことが組織全体の公務遂行上プラスになる、ひいては国民のためになるという場合に行われるというのが建前であったはずです。もちろん「建前」なのですが、制度設計や裁判などでは、建前こそ大事にされるべきなのではないでしょうか。戒告処分(それ以上の処分も含む)を受けたことのある教員は、全体の数%にすぎません。つまり、戒告処分を受けたS氏は、間違いなく勤務成績が良好とは言えない人なのです。ただし、1回の戒告処分で30年以上の教員人生の勤務成績全てを判断するのかという疑問は当然あるでしょう。
 この点について考える際留意すべきなのは、同種の問題で偏りがないかという視点です。
新組織に移行する社会保険庁。戒告処分を受けた職員は新組織に採用されないという方針が決まりました。その中には、軽微な交通事故を起こしてしまったというような、勤務そのものとは無関係なことで処分を受けた人も含まれています。たまたま接触事故を起こした人と上司の命令に従わない人、どちらが勤務上大きな問題かと言えば後者に決まっています。しかも、定年退職後の再就職というのではなく、まだ働き盛りの人が採用されないという本人にとってより深刻な事態なのです。1回の戒告処分を根拠に職を奪われるのです。しかし、この方針に異議を唱えるマスコミは少ないようです。そうであれば、今回のケースについても、都教委の立場が支持されるというのが論理的帰結として正しいことになります。それにもかかわらず、都教委の方針に対する非難報道が多いのはなぜなのでしょうか。
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本道は

2009-01-19 07:54:31 | Weblog
「いじめ防止条例」1月17日
 埼玉県自民党県議団が、子供のいじめを許さない環境づくりを目的とした条例案をまとめました。条例案は今後PTA等との意見交換などを経て正式に決まるようですが、県、学校、県民、保護者の責務を明記したものになるそうです。
 この記事を素直に読むと、市町村の責務は盛り込まれないのかという疑問が生じてしまいます。そんなはずはありませんよね。また、一般の県民にはどのような責務が課せられることになるのでしょうか。さらに、いじめの機会と場を提供する可能性がある塾やサイト運営者には、一般の県民とは異なるより重いどのような責務が課せられるのでしょうか。条例違反は、営業停止や逮捕、罰金を科されるなどの罰則規定はあるのでしょうか。ないのであれば、単なる精神規定にすぎませんが、それで実効は上がるのでしょうか。
 何だか文句ばかり並べたようですが、別に埼玉県自民党県議団の取り組みを否定するつもりはありません。ただ、いじめの解決は、条例を作るというような発想ではなく、学校の教育力を高めるという一見地道な対応こそが王道であり、県の教育予算を審議する県議の方には、教育環境の充実を通していじめの解決に当たっていただくことこそ希望したいと思います。
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本当の姿を見せることから

2009-01-18 08:15:44 | Weblog
「何を見せる?」1月15日
 教員採用試験の競争率が低迷している都教委が、東北各県で「『東京の先生になろう!!』バスツアー」を企画しているのだそうです。「保護者の苦情が多い」「荒れている」といった先入観を取り除き、人材を確保するねらいだそうですが、どうでしょうか。
 荒れているというのも保護者の苦情が多いのも、先入観ではなく事実でしょう。どちらも、大都会では避けることができないことです。隠そうという姿勢では、受験者が増え採用者を確保できたとしても、「話が違う」ということになりかねません。
 ツアーで見学する先が世田谷区というのも気になります。どうして、足立区や葛飾区の北部にしないのでしょうか。すごい実態を見ることができます。そうした実態を見せる一方で、東京都ならではの強み、例えば充実した研修体制なども見せ、熱意ある学生を確保することの方が王道なのではないでしょうか。教育に偽装やごまかしは似合いません。
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校長は官僚であれ

2009-01-17 08:02:18 | Weblog
「校長は教育行政の管理職」1月14日
 宮崎県五ヶ瀬町日渡円教育長が取り組む改革について報ずる記事に目がとまりました。様々な施策が紹介されていましたが、一番気になったのは、「校長らには議会の傍聴を義務づけ、学校に予算要求をさせる」という取り組みです。
 私が教委に勤務していた頃、毎月、教委主催の校長会が開かれていました。どこの教育委員会でも同じようなものでしょう。議会開催月には、教委関係の請願や条例案、予算審議、文教委員会での質疑などについて報告するのですが、校長たちの関心は大変低かったものでした。
 議会での審議について説明する教育部長は、「俺の話なんか誰も聞いていない。室長(私)の話になると急にメモを取り始める」とこぼしていたものでした。私が勤務した他の教育委員会でも同じようなものでしたから、多くの教委でこうした情景が見られるのではないでしょうか。
 校長は学校という教育機関の管理職です。教育行政の出先機関の所長なのです。役所の管理職は誰であっても議会の動向に強い関心をもっています。全体の公僕である公務員なのですから、市民の代表である議会の動向に関心をもつのは当然です。そうでなければ失格です。ですから、校長は区市町村議会の動きに関心をもち、保護者だけでなく、広く市民の思いを知るべきなのです。また、首長部局が教育についてどのような関心と優先順位をもって予算化を図ろうとしているかを知ることも大切なことです。是非、多くの自治体で取り入れてほしいものです。
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どの学校でもやっている

2009-01-15 07:59:29 | Weblog
「学校色出せばお金出します」1月11日
 ユニークな授業や地域との連携など、特色ある取り組みに力を入れている学校に対して、より手厚く運営予算を配分することを想定したモデル事業を、文部科学省が来年度から始めるそうです。教育再生会議が第3次報告で「適正な競争原理の導入により、学校の質を高める」と提言したことを受けたものだそうですが、学校現場を知っているのでしょうか。
想定されている「学校色」というのは、児童生徒へのきめ細かな指導▽児童生徒の個性を伸ばすユニークな授業▽スポーツ活動への特化▽地域ボランティアとの共同などだそうですが、きめ細かな指導などしていない学校があるのでしょうか。少なくとも、我が校ではきめ細かな指導はしません、と宣言している学校は1校もないでしょう。
 きめ細かな指導とはどのような指導を指すのでしょうか。TTをしていればよいのでしょうか。何らかの形でTTを導入している学校は数え切れません。宿題を出してきちんとチェックしていればよいのでしょうか。そうでない教員も相当いますが、既に実行している教員も何万人といるでしょう。
 個性を伸ばすユニークな授業とはどの程度のものをイメージしているのでしょうか。外部講師を呼んでの特設授業はどこの学校でも行っています。さらに、個性が伸びたかどうかは誰がどのように判断するのでしょうか。
 スポーツ活動への特化は、小中学校では無理でしょうし、してはいけないでしょう。
 こんなことをするくらいならば、全国学力調査で、各区市町村トップの学校に支給とした方が余程はっきりしています。そうでなければ、導入は、教育委員会によって恣意的に運用されてしまうことになってしまう可能性が高いと危惧します。
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美化しすぎ

2009-01-14 07:50:45 | Weblog
「フィンランド方式」1月11日
 世界トップ級の学力を生み出すフィンランドの学習法への関心の高ま利に応じて、「フィンランドメソッド(方式)」をうたう読書法や作文の書き方、算数ドリルといった学習関連本が相次いで出版され、教育関係者ばかりではなく、一般家庭にも普及し始めているそうです。記事では、「知識詰め込み型の学習法から脱却しようとしている日本にとって、自ら問題を発見して、自分の言葉で表現し、考える力を身につけるフィンランド式は大いに参考になりそうだ」としていますが、「知識詰め込み型」というのは、わが国の学校教育を語る場合の決まり文句で納得いきません。
 フィンランドで10年間、小学校教師をしていたリッカ・パッカラさんによると、「フィンランドでは、母国語をとても大切にしています。新聞や本をよく読み、家族で社会のいろいろな問題について語り合う機会が多い」のだそうです。
 母国語を大事に、という主張を見習うべきとするならば、小学校で英語を導入するよりも国語の充実を図った方がよいのではないでしょうか。また、後段は、学校教育の話ではなく家庭教育の分野でしょう。
 さらにパッカラ氏は、算数の問題を解かせる際には、「おもちゃ屋さんに車の模型が15台あり、このうち6台を友達のプレゼントに買うと、お店に残るのはいくつ?」といった具合に、日常生活の中で扱えるよう指導していたとも語っていますが、こんなことはわが国でもやっています。それも特別熱心な教員が行っているのではなく、誰でもやっているのです。そもそも教科書の文章題がそうなっているのですから。
 ただ、最後にパッカラ氏が語っている「勉強は強制ではなく、楽しんで身につけるもの。そのためには、教師も子供のレベルに合わせてさまざまな方面から教えられるようトレーニングを怠りません」については同感です。もっとも、教員の研修は昔からわが国でも熱心に行われてきています。私は、欧州の教育視察にいったことがありますが、正直に言って指導法はわが国の法が格段に優れていました。さらに、教員の指導法研修について、その重要性を強調するのであれば、ここ数年の風潮、教員に組織論や経営論、苦情対応や相談業務など授業以外の能力を求めることについても問題点として指摘してほしいものです。

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