「個人の体験」6月25日
MMJ編集長高野聡氏が、『「がん体験談」に学ぶ』という表題でコラムを書かれていました。その中で高野氏は、先月末に亡くなった俳優今井雅之氏の闘病会見について触れ、『「夜中に痛みと戦うのはつらい」「モルヒネで殺してくれと言いました。安楽死ですね」』という告白について、感情を揺さぶられたとしつつも、『「『がんの痛みは緩和できない』という誤解をまた広めてしまう」と感じた』と述べていらっしゃいます。
私はがん治療については何も分かりませんが、専門家からは『適切な緩和ケアを受けられていなかったのでは』という疑問が寄せられているのだそうです。そうした指摘を前提に、高野氏は、『今井さんの体験は事実でも、それががん患者全員に当てはまるわけではない点は忘れてはならない』とおっしゃっているのです。
大変貴重な指摘です。我が国の長寿化を受け、国民の2人に1人はがんになると言われています。それだけに、様々な体験があり、その体験談が患者や家族によって広まっているのです。特に、当事者が著名人の場合、あるいは劇的でドラマ性に富むケースでは、社会全体に大きなインパクトを与えるのですが、それはあくまでもある個人の特別な体験に過ぎないということです。
私は同じことが、学校教育についてもいえると思っています。がんは2人に1人ですが、学校教育、特に義務教育については、99%の国民が自分なりの物語をもっているのです。しかも、多くの人々が自分の経験が自分だけの特殊な事例かもしれないとは考えず、その経験に基づいて学校や教員について語るのです。
体罰を、子供と教員のむき出しの魂の交流であるかのように語る人。いじめが自分を強くしてくれたと美化する人。ルールを逸脱して自分を特別扱いしてくれた教員を教育者の鑑のように評価する人。その逆に、規則や制度の下で精一杯努力してくれた教員を融通の利かない冷たい人間として批判する人。様々ですが、何れも全体像を示すものではありません。
専門家である医師が今井氏の事例を一般化することの間違いを説いたように、教員や教育行政の担当者は、自らの豊富な体験を基に、一般化できる学校や教員像について語るべきなのです。私のような者でも、300人以上の子供を担任し、同じ数の保護者と接してきました。指導主事として500回以上の授業を見、延べ1000人以上の教員を指導してきました。市民団体や教職員団体と数えきれないほど「交渉」を重ねてきました。それでも、学校教育を多角的に一般化して語るのに十分かどうかは分からないと考えています
学校教育についても、個人の体験の限界を弁えた議論が必要なのです。