ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

今井さんの死

2015-06-30 07:41:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「個人の体験」6月25日
 MMJ編集長高野聡氏が、『「がん体験談」に学ぶ』という表題でコラムを書かれていました。その中で高野氏は、先月末に亡くなった俳優今井雅之氏の闘病会見について触れ、『「夜中に痛みと戦うのはつらい」「モルヒネで殺してくれと言いました。安楽死ですね」』という告白について、感情を揺さぶられたとしつつも、『「『がんの痛みは緩和できない』という誤解をまた広めてしまう」と感じた』と述べていらっしゃいます。
 私はがん治療については何も分かりませんが、専門家からは『適切な緩和ケアを受けられていなかったのでは』という疑問が寄せられているのだそうです。そうした指摘を前提に、高野氏は、『今井さんの体験は事実でも、それががん患者全員に当てはまるわけではない点は忘れてはならない』とおっしゃっているのです。
 大変貴重な指摘です。我が国の長寿化を受け、国民の2人に1人はがんになると言われています。それだけに、様々な体験があり、その体験談が患者や家族によって広まっているのです。特に、当事者が著名人の場合、あるいは劇的でドラマ性に富むケースでは、社会全体に大きなインパクトを与えるのですが、それはあくまでもある個人の特別な体験に過ぎないということです。
 私は同じことが、学校教育についてもいえると思っています。がんは2人に1人ですが、学校教育、特に義務教育については、99%の国民が自分なりの物語をもっているのです。しかも、多くの人々が自分の経験が自分だけの特殊な事例かもしれないとは考えず、その経験に基づいて学校や教員について語るのです。
 体罰を、子供と教員のむき出しの魂の交流であるかのように語る人。いじめが自分を強くしてくれたと美化する人。ルールを逸脱して自分を特別扱いしてくれた教員を教育者の鑑のように評価する人。その逆に、規則や制度の下で精一杯努力してくれた教員を融通の利かない冷たい人間として批判する人。様々ですが、何れも全体像を示すものではありません。
 専門家である医師が今井氏の事例を一般化することの間違いを説いたように、教員や教育行政の担当者は、自らの豊富な体験を基に、一般化できる学校や教員像について語るべきなのです。私のような者でも、300人以上の子供を担任し、同じ数の保護者と接してきました。指導主事として500回以上の授業を見、延べ1000人以上の教員を指導してきました。市民団体や教職員団体と数えきれないほど「交渉」を重ねてきました。それでも、学校教育を多角的に一般化して語るのに十分かどうかは分からないと考えています
 学校教育についても、個人の体験の限界を弁えた議論が必要なのです。

 

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荒涼とした世の中

2015-06-29 07:40:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「長期戦略」6月24日
 社会活動家湯浅誠氏が、『生活保護化進む介護 施設利用者の資産チェック』という表題でコラムを書かれていました。その中で湯浅氏は、介護費用抑制の手段として資産チェックが導入されれば、『負担軽減措置の見返りに丸裸になることを求められる制度設計はスティグマ(恥の意識)を強める。「お上の世話にはなりたくない」と感じる高齢者の「自立心」を刺激すれば、軽減措置の申請者は劇的に抑止されるだろう。それが目的でもある』とした上で、『こうした抑止策が所期の効果を上げたとしても、人心は荒廃し、社会の連帯感は失われていくだろう。当面の帳尻を合わせるために、社会の最も根幹的な価値を犠牲にするのだとしたら、それは長期的な戦略の欠如をあらわにすることでしかない』と警鐘を鳴らしています。
 社会保障のあり方については、詳しく論じる資格はありませんが、湯浅氏が指摘する「当面の帳尻を合わせるために、社会の最も根幹的な価値を犠牲にする」ことの愚については、考えてみたいと思います。今、進行中の学校教育改革において、同じ「愚」が潜んでいないか、ということです。
 私は、我が国の学校教育が、特に義務教育が、今日までの社会の発展に寄与してきた最大の点は、勤勉性と協調性の定着にあると考えています。我が国には、キリスト教やイスラム教のように、人々の規範意識や価値観に影響を及ぼす宗教が存在しません。戦前の儒教的な価値観、生き方は戦後否定されてしまいました。しかし、ある程度共通基盤となる価値観や生き方の指針がないままでは、社会は混乱を克服することは出来ませんし、国家として成り立つことさえ難しくなります。
 戦後長きにわたって続いた冷戦構造が崩壊したとたん、いくつもの国が国内の分裂と対立で自壊していったように、歴史や伝統を無視した外部からのお仕着せの価値観は、その外枠が壊れてしまえば、社会統合の機能を喪失してしまいます。
 我が国が、国民の一体性を保ち、大きな混乱なしに安定した社会を築いてこれたのは、勤勉と協調という、我が国の風土が育んできた価値観を守り通すことが出来たからだと思います。そしてその維持継続に、小中学校の教育が大きな役割を果たしてきたのです。
 そんな義務教育が、今は多くの非難に曝されています。確かに、「運動会の徒競走でみんなが手をつないでゴールイン」という、あるときある学校で行われた極めて稀な出来事が広く一般的に行われているかのようなプロパガンダが信じられ、国会で堂々と既成事実として語られるように、行き過ぎた同調圧力が学校の、と言うよりも一部の教員の体質にあったことは事実でしょう。
 しかし、特殊な例に焦点を当て、拡大解釈で欠点ばかりを問題視し、学校教育が果たしてきた勤勉性と協調性の涵養という貢献を無視しては、将来に大きな禍根を残すことになるように思います。
 競争原理で、成績の良い子供に出来ない子供への侮蔑感をもたせ、成績の悪い子供に劣等感と諦念を植え込んでしまえば、10年後、20年後には荒涼とした世の中が待っていることになりかねません。

 

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そういう考え方もあるね

2015-06-28 10:25:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「多様な見方」6月23日
 『検定で「多様な見方」要求 道徳教科書 文科省が骨子案』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、文部科学省は、『検定基準の骨子案を明らかにした。考える道徳」を重視する観点から、多様な見方が出来るよう配慮されていることなどが主な条件』ということです。
 誤解を受けやすい表現だと思います。この記述を読んだ人の中には、「場合によっては人を殺してもよい」というような考え方も認めなければいけないのか、と思う人が出てくる可能性があります。実際、そうした主張をする人もいます。
 もちろん、新しい教科道徳も、今までの道徳も、そんなことを言ってはいません。例えば、「いじめられている人を見つけたらその子供の気持ちにより添うべき」という命題があったとします。これはそれ以外の見解を認めてはいけません。
 しかし、この命題を頭ごなしに押しつけるのは良くない、ということなのです。この「命題」に対して、「その通り、私は絶対にそうする」と言いきれる子供もいるでしょう。「それが正しいとは思うけど、そんなことをしたら自分がいじめられるかもしれないから、怖くて出来ない」という思いの子供もいるでしょう。また、「仲のよい子がいじめられていたら助けるけど、気にくわない奴だったら分からない」という本音を漏らす子もいることでしょう。さらに、「いじめはダメだし、その子には同情するけど、自分一人では行動できない。誰かと一緒ならやれるけど」という子供もいるかもしれません。
 そうした意味での多様性を認める、ということなのです。子供の葛藤や迷いを肯定的に受け止め、よく本音を言えたねと評価し、そこから小さくても良いから一歩前進しようと言う気持ちをかき立てる、そうした指導が、多様な見方への配慮ということなのです。
 もちろん、個人の価値観は多様であることが許されるべきです。現実社会でも、原発再稼働、同性婚、集団的自衛権、夫婦別姓、死刑廃止など様々な問題について意見の対立があります。こうした問題について、まだ判断力が十分ではない子供に一方的な価値観を注入し押しつけることは教育の名に値しません。
 一方で、人間として基盤をなす、生命尊重、誠意、正直、思いやり、など圧倒的多数によって支持され承認されているものもあります。そうしたことについては、教員はしっかりとした軸をもち、ぶれないことが必要なのです。
 考える道徳においても、「気にくわない奴はぶっ飛ばせばいいんだよ」「そういう考え方もあるね」などというやりとりは行われないのです。

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偏見のない教員はいない

2015-06-27 07:07:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これも偏見」6月23日
 読者投稿欄に海老名市のI氏の『ガス屋さん?』という表題の投稿が掲載されました。その中でI氏は、ガスが故障し修理を頼んだときのことを書かれています。『午前10時前、予想に反して作業服姿も初々しい、モデルのような美人さんがやって来ました。「本当にガス屋さん?」と、思わず言ってしまいました』と。
 何気ない記述ですが、この部分にはIさんの「偏見」が潜んでいます。それは、3つあります。まず、ガス屋は男の仕事であるという思いこみです。そして、ガス屋に女性が就労しているとしても、それは不細工な人であるはずという考えです。さらに言えば、ガス「屋」という言い方です。一般的に○○屋という呼び方は好ましくないとされているのです。私自身、教員研修で講師の「ポッポ屋」という発言で紛糾した経験があります。
 しかし、I氏が偏見に満ちた人物であると言いたいわけではありません。全文を読んだ印象では、おそらく、平均的な感覚の持ち主であろうと思われます。正直に言えば、私も同じようなレベルです。家族と夕食後の団らんで話すとしたら、「今日、すごい美人のカス屋がいて、~」などと言ってしまうかもしれません。
 ただ、もし教員が、子供の前でこうした発言をしたとしたら、それは問題視されるでしょう。保護者等から指摘されれば、校長は謝罪をし、今後こうした不用意な言動がないよう指導し、研修を充実させていくと約束することになります。議会で取り上げられれば、教委は遺憾の意を表し、やはり指導と研修について約束することになります。
 子供は大人が教え注意したことは無視し、何気なくやっていることを真似するものです。教員の普段の言動の中から、教員の人間性を象徴する事柄を察知し、それを教員の本音として、自分の価値観を育んでいくのです。
 つまり、教員がI氏のような発言をすれば、「女性には相応しくない職業がある」「女性は外見的な美しさによって得られる職が異なる」というような価値観を刷り込まれていくのです。
 教員も普通の人間です。育った場所や時代の影響から完全に自由になることは出来ません。当然、公にすれば何らかの形で非難されるようなものの見方・考え方の一つや二つはもっているものです。しかし、それを表に出すことは許されないのです。
 教員は、自分の中に潜む偏見や思いこみについて、日頃から自己チェックを怠らないよう留意すべきなのです。

 

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働くということ

2015-06-26 07:50:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「働くということ」6月21日
 漫画家の蛭子能収氏が、『私だけの時間』という表題でコラムを書かれていました。その中で蛭子氏は、『子供の頃、母から言われていたのは「中学校でも高校でもいい。とにかく学校を卒業したら働くんだよ」と。大事なことは、とにかく働くこと。生活費を自分で稼ぎなさい、ということだった』と書かれていました。
 私は母から言われた記憶はありませんが、全く同じことを考えていました。大人になること、一人前になること、イコール働くことであり、自分の食い扶持を稼ぐこと、というのは、私の中では、地球は丸いとか朝日は東から昇ると言うのと同じくらい、自明のことでした。
 私は末っ子の跡取り長男で、祖父母とも同居していたため、家は貧しかったにもかかわらず、甘やかされて育ちました。アラカンの今でも、姉や母から「○○ちゃん」と呼ばれているくらいです。そんな私でも、学校を卒業しても働かずにいるなどということは想像もつきませんでした。
 私が現在中高で盛んに行われているキャリア教育や職業教育に対して感じる違和感は、この「食い扶持を稼ぐために働く」という感覚が乏しいことなのです。自分の能力を高める、適性を知る、生き甲斐ある職を探す、働くことを通して社会に貢献する、どれも素晴らしいことです。では、自分の適性が分かるまでは働かないのか、お試し就労するのか、ということになると首を傾げてしまいます。3ヵ月働いても生き甲斐を感じられなかったら辞めて別の職を探すべきなのか、となると「おいおいそれはないだろう」といいたくなってしまいます。
 先ほどは「違和感」と上品な言い方をしましたが、飾らずにいえば「胡散臭さ」や「いかがわしさ」という表現の方が実感に近いです。綺麗事過ぎるという思いも捨て切れません。まず、「自分の食い扶持を稼げ」からスタートするキャリア教育はあり得ないのでしょうか。貧しい時代の遺物なのでしょうか。そんなことはないと思うのですが。

 

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いいね!

2015-06-25 08:17:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いいね!」6月21日
 放送タレントの松尾貴史氏が、『フェイスブックの「いいね!」ニュアンスの違い言葉はないか』という表題でコラムを書かれていました。その中で松尾氏は、フェイスブックの「いいね!」について、『「追突された」「失業しました」「離婚調停中です」などという、好ましからざる記事、投稿に対しても、本来なら呑気に「いいね!」などと言っていられないはずなのに、どんどん数字は増えていく』と違和感を表明しています。
 私はフェイスブックを利用したことがないので、よく分からないのですが、何でも「いいね!」という指摘から、ある教員を思い出してしまいました。私が「指導力不足教員」の研修を担当していたときの、I教員です。
 Iの課題は、子供を評価できないことでした。授業中に子供を指名し発言させても、その発言内容について、どのような点が優れているのか、どのように優れているのか、見落としているのは何か、よりよい結論に到達するためには何が必要か、という判断が全く出来ないのです。
 最初は、苦手な評価をしないで済むように、Iが一方的に話すだけでした。あまりにも知識注入的であるとの指摘を受け、次の授業では、子供を指名するようになりましたが、どう評価していいのか分からないため、「はい、次」と言うだけで、どんどん指名する形になってしまいました。
 「せっかく発言したのに、何も評価してくれないのでは、子供は意欲をなくしてしまう」と注意すると、その次の授業では、「大きな声で言えました」「もう少し大きな声で」など、内容には触れずに「評価」を繰り返しました。こんなことを続けていると、子供は褒められようと怒鳴るような大声だ話すようになってしまいます。
 「発言の内容を評価するように」と指導すると、「よかったね。よく考えられました」と声を掛けるようになりました。少しは進歩したかな、と思ったのもつかの間、2番目の子供にも、3番目の子供にも、同じ言葉掛けなのです。そう、書かれている内容にかかわらず、「いいね!」ボタンを押すフェイスブック利用者のように。
 結局Iは、最後まで子供の発言を適切に評価をすることが出来ず、退職していきました。学生の頃からフェイスブックで「いいね!」ボタンを押してきた若者が教員になって、教室でも、子供の思いをくみ取ることなく「いいね!」を連発している、なんてことがないように祈りたい思いです。

 

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やはりそうだったのか

2015-06-24 07:50:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「やはりそうだったのか」6月19日
 『国立大文系が消滅』という見出しの特集記事が掲載されました。、『文部科学省が、全国の国立大に対し、人文社会科学系や教員養成系の学部・大学院について、廃止や他分野への転換を求めている』ことについての特集です。
 その理由として『日本を取り巻く社会経済状況が急激に変化する中、大学は社会が必要とする人材を育てる必要がある』が挙げられています。つまり、哲学、倫理学、文学、社会学、法学、経済学などは、社会が求めていないという認識です。記事では、あくまでも文部科学省の見解として紹介されていますが、安倍政権としての見解だと考えることが出来ます。
 今月初めから、安全保障法制を巡って「違憲論争」が起きています。きっかけは、国会の憲法調査会に参考人として呼ばれた憲法学者が、3人そろって政府が提出している安保法案を違憲であると断じたことです。その後、政府与党側からは、「憲法学者は字面にこだわりすぎ」「憲法を守って国が滅んだのでは本末転倒」「憲法学者のいうことを聞いていたら自衛隊も日米安保なく国を守れなかった」など、専門家の意見を無視、軽視する発言が相次ぎました。
 政府与党の本音は、いつも政府の政策や法案に文句ばかり付ける学者なんかいらない、というものなのでしょう。確かに、経済政策でも、外交政策でも、文教政策でも、社会保障についてでも、専門家、有識者と言われる人が政府の方針に、疑問を呈したり、問題点を指摘したりしています。そして、そうした学者は、そのほとんどが人文社会科学系の学者です。
 それに比べて、いわゆる理系の学者は政府の政策にもの申すことは多くありません。医学者が、我が国の医療政策について発言したり、物理学者が原発政策について発言したりすることはないに等しいのです。彼らは、自分の専門とする技術的なことについては盛んに意見発信しますが、多くはそこ止まりです。
 我が国では、メーカー等の企業にも多くの専門家がいますが、自社や国の経済成長に資する発明や開発にしか目を向けていないように思われます。つまり、政府にとって都合のいい専門家なのです。
 国立大から人文社会科学系の学部が消えれば、次は中高の社会科です。社会科を縮小して理科と数学を、という大合唱が起きるのです。国民の要望という形で。嫌な世の中になったものです。

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民主主義の欠陥と暗部

2015-06-23 07:54:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もしかしたら」6月18日  
 『アイスクリームに賛成ですか?反対ですか?宿題に賛成ですか?反対ですか?』そんな書き出しで始まるコラムを、政治アナリスト横江公美氏が書かれています。タイトルは『18歳投票権と有権者教育』です。
 横江氏は、先の問いを例に、情報収集と判断を具体的に行う有権者教育の必要性を強調なさっています。ここ数日、同じような趣旨の記事や提言をよく目にします。私は以前からこのブログで、模擬投票や討論会のような、一見すると主体的で考える力や判断力の育成を重視しているかのように見える有権者教育に懐疑的な考えを述べてきました。ですから、横江氏の主張にも簡単には同意できません。
 ただ、横江氏のコラムを読み、氏の「政治アナリスト」という肩書を目にして、少し違うことを考えました。おそらく、横江氏は、政治というものについて造詣が深い専門家なのだと思われます。一方で、子供や学校における社会科の授業の実態にはそれ程詳しくはないのでしょう。そこから誤解が生まれているのでは、というのが私が感じた問題意識です。
 望ましい有権者であるためには、我が国で行われていることになっている「民主主義」「自由主義」「法治主義」「立憲主義」といったことがらについて、正しく理解されていることが大前提になります。そうした基礎理解なしに情報収集し、考え、判断しても、導き出される結論は間違ったものになってしまう可能性が高いのです。
 実際には、民主主義はよいもの、民主主義は多数決、自由が認められるのはよいこと、などというような単純な理解に留まっている中高生が多いのです。民主主義の濫觴として位置付けられるフランス革命の目を覆う残虐さ、第一次大戦の拡大を後押ししたのは皇帝や王ではなく好戦的な人民たちであった事実、民主的な手続きで生まれたヒットラー政権、こうした事例を通して、民主主義の欠陥と恐ろしさを十分に理解することなしに、単純な民主主義礼讃からは、衆愚政治、民衆の民衆による民衆の弾圧に陥ってしまうのです。
 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい、というような浅薄な自由の解釈では、ルールなきジャングルのごとき社会を招来してしまうのです。法治主義や立憲主義という人類の知恵の重みを理解しなければ、独裁と強いリーダーシップの違いさえ判断できなくなってしまうのです。
 現代の中高生は試験でよい点を取るために教科書の丸暗記を強いられているので、民主主義に基づく政治のあり方についての基礎的な知識はもっている、というような誤解が、政治について詳しい識者ほど強いのではないか、と考えました。だからこそ、「応用」、「実技編」が必要だという考えになり、それが模擬投票や討論会という発想に結び付いているのではないかというのが、私の推論です。
 基礎という土台のないところに、模擬投票という家を建てたところで、それは見栄えだけが良い砂上の楼閣にすぎません。真の有権者教育は、民主主義の欠陥と暗部を知り、それでも民主主義以上の統治システムはないのだと理解することを目指すべきです。

 

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道徳と教科「道徳」

2015-06-22 07:28:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分からなくなってきた」6月16日
 『「道徳性」評価課題多く』という見出しの記事が掲載されました。『2018年度以降、正式教科になる「道徳」について、成績評価のあり方を検討する文部科学省の専門家会議の初会合』について報じる記事です。
 道徳の教科化や評価の問題については、このブログでも再三取り上げてきました。しかし、今回の記事を読み、議論の根幹が定まっていないようで、とても混乱しました。まず、『「感想文では表せない内面をどう評価したらいいのか」』という発言についてです。
 教科の学習指導においては、評価は子供の外面に限定して行うというのが大原則です。分かりやすく言えば、算数のテストで間違った答えが書いてあったが、本当は頭の中では理解しているのかもしれない、と考えていたら評価は成り立たないということです。あくまでも、数式に表されたものだけを評価するのです。
 実際には、他の教科においても、子供は正答や教員の望む答えを知りながら、何らかの思惑からわざと間違えるということは、数は多くはありませんがあることなのです。例えば、教員が戸惑うところが見たいという理由だったり、単に教員が嫌いだったりという思いで。他人の、それも30人もの内面を理解し、評価できるなどという思い上がりは、教育者としても失格です。
 現実問題として、表面に現れた言動に基づいてのみ行う、ということでない限り、会合で話題になった『評価の妥当性、信頼性を担保すること』など不可能です。内面を~などと言い出せば、それは教員の主観で、と言っているのと同義語になってしまうからです。
 また、『どんな力が伸びたのか』という視点を主張なさった大学教授がいらっしゃったようですが、それも勘違いです。道徳については従来から、道徳的心情や道徳的判断力、道徳的実践力などが評価の視点として示されています。そこでは当然「~力」が対象になります。しかし、ここで取り上げられている道徳は、学校の教育活動全般を通じて行う道徳教育であり、教科「道徳」ではありません。
 ですから、委員会やクラブといった特別活動、清掃や給食などの当番活動、休み時間や教科の授業で見せる多様な人間関係など、すべてが評価対象であり、そこでは実践力や判断力を具体的な行動を通して見ることが出来ます。しかし、教科「道徳」では、主に教室内で行われる小学校45分、中学校50分の中だけで評価しなければならないのです。「~力」の評価など困難であるに決まっています。
 もし、体育の成績評価を、運動会でのリレーや休み時間のドッチボールを含めて行ったとしたら、公正でも公平でもないと批判されるでしょう。リレー選手には選ばれない子供がいますし、ドッチボールをやらずに友達とおしゃべりしている子供もいるのですから。
 同じように、休み時間に転んだ下級生を優しく保健室まで連れて行った子供の行動を元に、他者への思いやりとか上級生としての責任感に優れていると、教科「道徳」の評価とすることはできないのです。
 今回の会合においては、今までの道徳と教科「道徳」の違いについて曖昧なまま、共通理解のないまま話し合いが進んでいるように感じられました。それでは、迷走するだけです。

 

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絶望の直視から

2015-06-21 09:50:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「荒れ果てた畑」6月14日
 書評欄に、小林美希氏著「ルポ 保育崩壊」についての、中島岳志氏による書評が掲載されました。書評のタイトルは『正しく絶望することから始まる希望』です。同著は、『崩壊する現場を克明にルポ』したものであり、中島氏は、『泣き声をあげる子供がいると、経験不足の保育士が怒鳴りつける』『食が進まない子供がいると、無理やり口に入れる』『遊びのスペースは狭く、子供たちは狭い柵の中に閉じ込められる』といった惨状を紹介しています。
 さらに、『空前の保育士不足だ。離職率が高く、なかなか定着しない』現状も指摘し、『著者曰く、保育所は今や「ブラック企業化」している』と、「絶望」の状況をあますところなく暴き立てています。
 私は、こうした「絶望」の原因は、コスト至上主義と現場を数字でしか見ることの出来ない素人政治家にあると考えます。予算を切りつめるには、毎年計上されるランニングコストを減らす必要があります。ランニングコストの大部分を占めるのが人件費である以上、いかに安く雇用するか、が担当者の工夫となります。そこで生み出される工夫は、非正規雇用の増大、給与の高いベテランの退職を促し低賃金の若手を採用すること、低賃金で雇用できる新資格の創設ということになります。その結果が、上述のような怒鳴り、口に押し込み、放置する未熟な保育者の蔓延なのです。
 また、担当部署の作成した書類で現状を判断し、その判断も数値の裏に潜む現状に対する想像力を欠いた表面的な理解に基づく杜撰なもので、公約は保育所の数でしか示せず、現場視察は担当部署が用意した「優良施設」を見て知ったつもりになっている素人の政治家も事態の悪化に貢献する存在です。
 保育に関するこうした図式は、学校教育にも当てはまります。ボランティアの活用という美名に隠れて大学生をカウンセラーや補助講師として活用し、何の資格もない者を短期の講習で図書館補助員として雇用し、その配置人数を教育重視の証左として議会に提出する、私もしてきたことです。70歳を過ぎた教員免許保持者を学生バイト並みの報酬で雇用して講師として配置するという隠し技も使いました。
 議員や教育委員の学校視察は、地域の名門校を選定し、事前に指導主事が日参して校長、副校長、主幹と綿密なシミュレーションを重ね、掲示物まで全ての教室廊下を点検して当日を迎えるのです。これもさんざんやってきたことです。
 こうした取り組みによって、「絶望」は多くの市民の目には見えず、したがって「希望」も始まらないのです。学校の教員は、地方公務員法と教育公務員特例法によって身分が保障されていますが、学校で働く、ELTやカウンセラー、図書館補助員や日本語指導教室の通訳補助などそれこそ「ブラック企業」顔負けの待遇に甘んじている人は年々増加しています。はやく「絶望」を直視する教育行政を、と願います。

 

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