ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教えなければ

2010-12-31 07:52:50 | Weblog
「教えないこと」12月28日
 茶道裏千家元家元千宋室氏が、インタビューに答えていました。千氏は、軍隊で特攻部隊に属していたそうです。その軍隊経験に基づいた一言が印象に残りました。『この家を継ぐ者は、千家の菩提寺の大徳寺で禅の修行をしなければならない。僧堂に入ったら、軍隊の方が楽でした。軍隊は何をすべきか殴ってでも教えてくれます。お寺では、自分の修行なので誰も教えてくれない』というものです。
 重い真理が含まれているように思います。一般的に世間の多くの人には、無理矢理教え込まれることを「苦行」とし、自由に考えてよいと言われる方が楽だという思い込みがあります。学校においても同じです。強制的に教え込むことは悪であり、教育的ではないという考え方です。そして、それが、「教員は教えすぎてはいけない」「子供に自由に考えさせる教育が真の教育だ」という発想につながり、考えるために必要な最低限の知識すらもってはいない子供に対して、「自由に考えなさい」と指示するという残酷な仕打ちを強いていながら、それを自覚していない教員を生みだしてしまったのです。
 千氏は、長い月日継続されてきた名門の跡継ぎとして、子供時代からその重圧と格闘し、特攻部隊という極限状態の中で、自分の生について考え続けていたことでしょう。しかもこのとき、既に20代の半ばという年齢に達していました。それでもなおかつ、「教えられない」ことに苦しんでいたのです。千氏に比ぶべくもない幼い子供たちにとって、「教えられないこと」が、どれくらい厳しいことか、少し考えれば分かることです。
 ですから、教員は、強制的に教え込むことを躊躇ってはいけないと思います。誤解のないように補足しておきますが、「殴ってでも叩き込め」とか「罰や褒美や競争で教え込め」と言っているのではありません。それらは方法論にすぎません。そうではなく、教育の基本的な考え方として、考える上で欠かせない知識を与えたり、良き市民として必要な習慣を身につけさせたりするのは教育者の使命であり、自主性を隠れ蓑に、それらを教える努力を怠ってはならないということです。難しいのは、教えすぎてもいけないという点です。
 教育の専門家として教員に求められるのは、教えることと考えさせることを見極める能力と、そのことを子供の内発的な興味に基づいてどのように獲得させるかという技術なのです。ヘレンケラーの恩師であるサリバンさんは、ものには固有の名前があるということはどうしても教えなくてはならないと考え、水に触らせ掌にwaterと書くという方法を工夫したのです。自主性や主体性の陰に逃げ込んではいけないのです。

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無意味な先取り

2010-12-30 07:56:53 | Weblog
「無意味な先取り」12月25日
 東レ経営研究所特別顧問の佐々木常夫氏が、連載コラム「経済観測」の中で、ある企業への入社を希望する大学生が「仕事で重視する点は」と訊かれ、「ワーク・ライフ・バランス」と答えたという事例を挙げ、次のようなことを書かれていました。『仕事というものが十分分かっていないというか、まだ経験もしていないことを先取りして学習しても無駄になってしまうことが多い。それに会社では、若いうちはまずは自分に与えられた仕事に全力で取り組むことが必要で、そうでないと一人前にはならない。職務に全力投球しているうちに社会のことや多くの人間を知るようになり、その過程で自分が生きる意味や働く意味を学んでいく』というのです。
 当たり前といってしまえばそれまでのことですが、案外この「真理」を理解していない人がいるのではないかと思います。今、学校では職業体験学習が盛んに取り入れられようとしています。しかし、小学生や中学生が、「仕事」というもののもつ意味を理解しているわけはありません。私は、そうした状態で、中途半端に上辺だけの体験をすることは「無駄」なのではないか、という疑問をもっています。偏った先入観や間違った理解を身につけてしまい、かえって弊害の方が大きいのではないかと思ってしまうのです。
 それでも、「学校」が無尽蔵に時間をもっているのであれば、まだしもです。しかし、実際には、限られた時間の中で、あれもこれもと要求され、肝心なことが疎かになっているのが実状なのです。真に「まっとうな職業人」を育てるためには、基礎的な知識を身につけさせること、その過程で頑張ることの大切さを体感させることの方が重要ですし、それこそ学校の役割だと思います。
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国際化の時代に

2010-12-29 08:04:49 | Weblog
「悩ましいこと」12月23日
 台北駐日経済文化代表処代表の馮寄台氏の寄稿が掲載されていました。『教科書の台湾表記に危惧』というタイトルから分かるように、我が国の教科書における台湾についての記述に危惧の念を表明するものです。
 その内容は、『台湾を「中華人民共和国の一部」として扱ったり』『地図上で台湾を中国の国境線の中に含め台湾と中国が同じ色に塗られたり』という事実を指摘する一方で、『台湾住民が「もっとも好きな国」のトップは日本であり、「もっとも旅行に行きたい国」も日本であった』『70%以上の日本人が「日台関係は良好」と答えた』『台日間は1年間に250万人近い観光客が相互往来している。日本は台湾にとって第2の貿易パートナー、台湾は日本にとって第4の輸出先』など、両者の緊密な関係を強調するものになっています。
 つまり、馮氏は、台湾を中国の一部と認識させるような教科書の記述は現実の日台関係に合わず、我が国の若者が間違った認識をもってしまうと主張しているのです。
 私が6年生を担任していたとき、台湾出身の李という男児がいました。ある日の社会科の授業のとき、李さんが、「どうして台湾は( )書きなの」と質問してきました。私は、返答に困り、「日本では、台湾は中国の一部という中国の考え方に反対しないことになっているんだよ。その約束があるし、かといって台湾というところは中国とはいろいろな面で違うから、( )で書いてあるんだと思うよ」という趣旨の答え方をしました。李さんは、腑に落ちないというような顔をしていましたが、それ以上は発言しませんでした。しかし、他の子供が、「李君の国、国じゃないの」と声をあげました。私には、李さんの気持ちを傷つけずに、なおかつ他の子供の素朴な疑問に答え、さらにその「答え」が李さんへのいじめやからかいの原因にならないような内容にし、李さんの保護者から「苦情」がこないようにするという自信がありませんでした。結局、「今日の授業には直接関係ないから、後でね」ということで、うやむやにしてしまったのでした。
 さて、皆さんが私の立場であったら、どのように答えるでしょうか。不誠実な私は、今回の馮氏の寄稿を読むまで、当時のことを忘れていました。あれから、真剣に考えたこともなかったのです。国際関係は複雑です。我が国とロシアや北朝鮮の関係は、米国や韓国との関係とは、法的に見れば同じではありません。イスラエルを国家として現状のまま承認することは、多くのアラブ諸国からみれば認めがたいことでしょう。他にも、一部の国だけが独立を承認している「国」があります。国際化ということは、そうした「国」の子供たちが自分の教え子としてクラスの中にいるということです。教員のあなた、あなたは大丈夫でしょうか。
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繰り返しになりますが

2010-12-28 07:55:45 | Weblog
「繰り返しますが」12月22日
 仏文学者鹿島茂氏が連載している「引用句辞典」の今回のタイトルは「教育崩壊」でした。見出しは『学生の「お客さん」扱いが役立たずを量産する』です。そこに書かれているのは、正に「我が意を得たり」という内容なのです。私が繰り返し書いてきた、「学校=教育サービス提供機関説」への反対論を、シャープに述べていただいているのです。
 『少子化に伴う競争の激化により、近年の教育は「顧客満足度」の向上を至上目的とする「サービス産業」の一部となりつつある。ワガママなお客様(生徒・学生)が次々に繰り出す「要求」にいちいち対処することが教育だと、教育機関も文部科学省も思い込み』という記述は、主に大学を対象に述べられたものですが、学校のサービス産業化が、広く「学校」を覆っていることを表しています。我が意を得たり、と心強く感じます。
 また、鹿島氏は、学校のサービス産業化がもたらす深刻な結果についても詳述しています。『お客様が嫌うこと、すなわち「面倒臭い」ことは一番に排除される』『逆に「いきなり役立ちそうな」科目は学生の「子ども基準」でそう判断されるから受講者が増え「顧客満足度」の高い科目とされ』『「顧客満足度」の高い科目を履修し、そうした学科、学部に学んだ学生は、これまた理の当然として「顧客満足度」の高そうな企業を探して、そこへの就職を希望する。~(中略)~つまり、「顧客」として満足したい固めに就職するのである』『「顧客」として、小学校のときからチヤホヤされ続けてきた学生・生徒は、こうした(企業が求める)「規律に従う」という習慣行動を身につけていない』『その結果、「自分のやりたいことができない」ような会社にはいたくないという理由で、激烈な就活戦線をくぐり抜けて就職した企業をいとも簡単に辞めてしまう』などです。
 それらをまとめて、鹿島氏は、『学校において「社会の中で一個の真面目な人間として立派に生きていくのに欠くことのできぬ力の習慣を習得」するという経験を積んではいない』と結論付けています。ますます「同感」です。
 学校、特に義務教育は、「子供の嫌がること」を強制することを躊躇ってはいけません。元々、「義務教育」の「義務」は、「強制する」ということを意味する言葉を訳したものだと言われています。大切なのは、子供が「楽しい」と感じることを優先するのではなく、大人が、社会が、歴史と経験の積み重ねの中で必要だと判断したものを、きちんと子供に教え込むことなのです。教員も、そのときは嫌われても、10年後、20年後に、「あのとき先生に教わったことが今生きている」と感謝されることを目指すべきです。そうした面からも、子供や保護者の人気投票のような「授業評価」「教員評価」は見直すべきでしょう。

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評価と評定

2010-12-27 07:40:08 | Weblog
「評定と評価」12月22日
 川柳欄に、『A席と B席どこで 線を引く』という静岡の寺田ハンナ氏の作品が掲載されました。確かに、2倍近い料金を払ったのに、B席のすぐ前のA席に案内されたときには、何か腑に落ちない思いがするものです。
 私は、この川柳から、学校における「評定」を連想しました。5段階相対評定の「3」の場合、「4」とはどのくらい違うのか、「2」とはどれくらい違うのか、どこで線が引かれたのか、気になるところです。しかも、同じ「3」でも、「2」に近い「3」と「4」に近い「3」との差は、「2」と「3」、「4」と「3」の差よりも大きい場合があるのですから、なかなか納得がいきません。
 学校には、「評定」と似たようなものとして「評価」があります。しかし、似てはいても「評価」と「評定」には大きな違いがあります。その最も大きな違いが、寺田氏の川柳にある「どこで線を引いたか」というときの「線」の存在なのです。
 学校における本来の意味での「評価」には、「線」は存在しません。「Aさんは、1学期には算数の学習の目標に92%まで到達した」「Bさんの達成度は、1学期は84%だったが、2学期は87%まで向上した」という考え方が、本来の「評価」だからです。つまり、ある目標への到達度で計る達成度評価か、個人の進歩の度合いを見る個人内評価こそが、教育的に意味のある評価とされているからです。
 そしてこの「評価」は、期末テストの結果などでなされるのではなく、日々の授業で行われているものなのです。Aさんの発言、Bさんのノートの記述などから、それぞれの子供の理解度や考え方を把握し、そのことを「評価」し、その「評価」に基づいて次の発問や助言、指示を決めていくというのが授業本来の在り方だからです。ですから、教員の授業力の大半を占めるのが、実は「評価」力なのです。
 しかし現実には、多くの教員が、「評価」と「評定」を混同し、それがそのまま子供や保護者の誤解となってしまっているのです。そしてその誤解が、点数至上主義、順位偏重となっているのです。安易に「線」を引く「評定」は最小限に抑え、困難ではあっても「評価」の考え方を教員と子供と保護者が共有していくことが大切です。

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3つの学校

2010-12-26 08:06:35 | Weblog
「エリート育成」12月21日
 『韓国で、英語を公用語にした学園都市をつくる国家プロジェクトが進んでいる』という記事を目にしました。記事によると、済洲島に『東京ドーム約80個分に当たる379㌶の敷地を造成し、欧米の名門私立校の分校を誘致する』というもので、小中高大、12000人が通学するうちの半数は中国人や日本人の子供を想定しているそうです。まさに、「済洲英語学園都市」の名称にふさわしい構想です。
 国際社会で外国人に伍して活躍することができる日本人を育成するという目標を達成するために我が国に必要な政策は、まさしくこうしたものではないかと思います。我が国では、平等主義と足して2で割る妥協主義が、人々の意識の中に染み着いています。教育政策についても同じです。世界伍する英語力育成といった目標を掲げたとき、意欲と資質を併せもつ子供に特別な教育を提供しようという発想は浮かばず、すべての子供に英語に触れる機会を、となってしまうのです。さらに、それでは小学校から英語の時間を国語並みにというような改革については、反対論者に配慮した結果排除され、小学校で週1時間という中途半端な内容になってしまうのです。
 教育政策を司る者に必要なのは、ある分野におけるエリートとして期待される者が学ぶ場、国民の大多数が学ぶ教育の場、特別な支援が必要とされる者が学ぶ場を分けて考え、第一の「場」については大胆な改革を、第二の「場」については絶え間ない微調整を、第三の「場」については現場の最良重視を、基本理念にすべきことなのです。
 さらに、それぞれの施策を貫く思想は、競争原理、最低限のレベル維持、個の需要の充足であるべきです。それらを混同し、教育という言葉で一括りにする取組からは、実効政のある施策は生まれません。韓国の決断に学びたいものです。

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無駄から得るもの

2010-12-25 08:23:24 | Weblog
「無駄から得るもの」12月21日
 川柳欄に『辞書を引き 知る道草の 面白さ』という相生のブー風フー氏の作品が掲載されていました。味わい深いです。インターネットで検索し、必要な情報にすぐたどり着き、無駄な回り道をせずに回答を得る学習スタイルへの警鐘となっています。
 私は、知識はあるレベルを超えると質的に変化をする、と考えています。知識が乏しい間は、ここの知識が点として存在しているに過ぎません。しかし、知識が増え、あるレベルに達すると、ここの知識が意味を持ち始め、相互に関連付けられるようになり、知識の集合体となって厚味をもち、今度はそれぞれの集合体が関連付けられ情報ネットとでも呼べるような立体的なものに変わっていきます。それを「質的変化」と呼んでいるのです。
 例えば、教科書である歴史上の人物を知ります。この時点では、まだ「点」としてしか存在しません。そのうち、何気なく読んだ小説の中の脇役としてその人物が登場します。後日、テレビ番組の中で、その人物の知らなかったエピソードに遭遇します。さらに、久しぶりにあった叔父さんとの会話の中でその人物についての思いがけない蘊蓄に触れる機会を得ます。そして、新聞の書評欄にその人物について新解釈を打ち出した新書の紹介が掲載されていることに気付き、目を通すことになります。こんな風にして、ある歴史上の人物について、ここの知識が集合体に変わっていくということです。これは私の体験でもあります。
 こうした「知識との出会い」は、短期間に意図的に仕組まれた場合よりも、ある程度の長さの中で偶然の出会いを繰り返した場合の方が、知識がほどよく発酵し、強固な集合体が築かれるのです。
 学校における授業は意図的な営みです。限られた時間の中で、学習指導要領に定められた学習内容を終えなくてはならないのですから、当然のことです。しかし、その中でも、図書室に行き、「あれかなこれかな、こっちの本かな」と百科事典や辞書のページをめくり試行錯誤する中で、思わず目を奪われて読みふけってしまうような経験が、実は貴重なのです。クルマのハンドルに一定の「あそび」があるように。また、こうした経験が子供一人一人の「学習における個性」の基となり、「個性」がぶつかりあう場としての話し合い活動を実りあるものにするのです。検索機能なしで知識の海に漂う経験は、学校教育においても貴重なものです。教員はその効用を忘れてはなりません。
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中学校夜間学級、特別な場所

2010-12-24 08:03:15 | Weblog
「特別な話」12月21日
 教育活動家の高野雅夫氏が、「時代を駆ける」の連載の中で、ご自身の中学校夜間学級時代のことを振り返っていらっしゃいます。そこには、当時の担任教員である見城慶和氏の様子が書かれています。
 『生徒が結構、先生を裏切るんです。借りたお金を返さないとか…。見城先生は独身だった頃は、給料の大半を生徒のために使っていたんじゃないかな。警察の厄介になった生徒を引き取りに行ったり、残業させて夜間中に通わせない雇い主に文句を言いに行ってけんかしたりね』といった様子です。
 私が指導主事として勤務した区にも中学校の夜間学級がありました。その担当をし、夜間学級の先生方とも顔見知りになりました。研究会に参加したこともありますし、授業を見たこともあります。高野氏や見城氏がいた頃(昭和35年頃)から40年近く経っていましたが、その雰囲気には共通するところがありました。
 中学校夜間学級については、「学びの原型がある」「教育の原点がある」というような評価をする人がいます。ある意味ではその通りです。しかし、敢えて言えば、あくまでも特別な学校です。私は、大学を出て新卒教員として中学校夜間学級に勤務した2人の若い教員のことを思い出します。2人とも、見城氏ほどではありませんでしたが、与えられた環境の中で一生懸命に取り組む若者でした。2年目、3年目と、彼らは逞しさを増し、教員としての自信をもつようになっていきました。生徒の役に立っているという自負が彼らの自信の根源にあるようでした。
 東京都の人事異動制度では、3年が過ぎると異動することができました。彼らは他の区の中学校に異動していきました。2カ月も経たないうちに、その区の指導主事から電話がありました。隣接区でもあり、私とは顔なじみのその指導趣旨は、「Aさんてどういう人?4年目なんでしょう。全然授業できないんだよね。校長先生も困っているんだよ。保護者から苦情もきているし。自分も授業見てきたけど、正直言ってひどいよ。そちらにいたときはどうだったの。指導力不足だったんじゃないの」と、私の勤務していた教委が、問題のある教員を「押し付ける」ために、異動票にいい加減なことを書いたのではないか、と責めるのでした。もう一人もやはり同じような状況のようでした。
 これは、ある意味当然のことなのです。夜間中学校では、1学級の人数は10人以下、授業の内容も、クラスによっては小学校低学年並みで、簡単な漢字の読み書きなどをおこなっていたのです。つまり、彼らは、新卒以来3年間、通常の教員が経験するような授業や生徒指導を体験せずに、過ごしていたのです。それにもかかわらず、新しい赴任校では、一定の経験を積んだ教員として期待されてしまったのです。でも、彼らが生意気盛りの中学生相手に授業ができないのは当然です。
 当時、中学校夜間学級の教員は、通常の学級で経験を積んだベテランが赴任するのが一般的だったのですが、そのときは、たまたま新卒が2年続けて着任してしまったのでした。
 それからさらに3年が経ち、彼らはまた中学校夜間学級への異動を希望し、異動していきました。彼らは、教員生活のスタートにおいて、あまりにも特別な環境に身を置いたために、通常の学級の教員として必要な授業力を身に付ける機会を失ってしまったのです。特別支援学校、特別支援学級、中学校夜間学級などと通常の学級の教員とでは、求められる授業力が異なります。指導力不足教員とされた教員の中にも、特別支援学級で数人の子供を担当する形で教員生活のスタートを切ったものが少なくありませんでした。教員の人事交流は必要ですが、若いうちに少人数の指導だけを経験してしまうと、通常の規模の学級dの指導は難しくなってしまうケースが多いのです。そのことを踏まえた教員人事が大切です。

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授業の専門家?

2010-12-23 08:18:02 | Weblog
「専門的知見」12月21日
 宮城県教委が、仙台大学の荒井龍弥教授を県内公立中学校の校長に任用するという記事を目にしました。荒井氏は教育心理学専攻で、小中学校の授業の在り方を研究している方だそうです。その専門的な知見に期待しての任用ということですが、疑問です。
 私は、荒井氏が不適格だと決めつけるつもりはありません。そうではなく、大学で研究する「授業論」なり「授業学」というものは、実際の授業には役立つことが少ないということを、教委の人事担当者が理解していないのではないか、ということなのです。
 より正確に言えば、大学における「授業論」は、あくまでも基礎理論なのです。実際の授業は、基礎の上に、個々の教員が自分の個性に合わせて身に付けてきた「業」を駆使して初めて成り立つものなのです。それは、職人世界と言ってもよく、大学の授業論を武器に、自分が校長を務める学校の授業の質を向上させることができるうものではないのです。そうした意味では、教員経験のない、民間出身校長と変わらないのです。それどころか、より大きな弊害が生じる可能性があります。
 民間出身校長は、自分は経営や組織運営のプロではあるが、授業については素人であるという自覚をもっています。しかし、大学で教育を専攻している学者の場合、本人も周囲も、「この人は一流のプロなんだ」と錯覚してしまう可能性があるからです。
民間出身校長の数は頭打ちになっています。顕著な効果は見られないと考える教委が増えてきているからです。そうした状況の中、しかし、何か新機軸を打ち出さなければならない、という教委の担当者の思惑から、大学における知的資源の活用という名目が見つけ出されたのでなければ幸いです。

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1人1資格

2010-12-22 08:11:09 | Weblog
「そこまで」12月19日
 今日は2つの記事を取り上げます。一つは、「この子のためにできること 緩和ケアのガイドライン」という手引きが発行されたという記事です。これは小児がんのために余命が限られた子供の親向けに作成されたものだそうです。『子どもの思いを尊重するのが最善とし、そのために家族・医療チーム・学校の教師らがよく話し合うべきだと指摘する』内容だそうです。
 次は、「吃音 長い目で付き合って」という見出しの記事で、吃音について、従来の「親の愛情不足」「ストレス」などが原因という説は否定されていること、治療法が確立されていないことが説明されています。学校の担任の接し方についても記述されています。
 いずれも大切なことです。子供本人や保護者にとっては、学校の教員が不適切な対応をして子供を傷つけることがあったとしたら、絶対に許せないという思いをもつことでしょう。それはよく理解できます。しかし、同時に、教員が身に付けなくてはならない知見は増える一方だなぁ、とため息が出る思いもします。
 私自身は、教員時代に吃音の子供は受け持ったことがありますが、小児がんの子供を担任したことはありません。教委に勤務していたときにも、「小児がん患者の子供二度のように対応したらよいのでしょうか」という問い合わせを、教員や校長から受けたこともありません。もし、そうした事態になったら、きちんと対応できたか、正直自身はありません。
 もちろん、教員が自身の不適切な言動で子供や保護者を傷つけることは、悪意がなくても許されることではありません。しかし、今後ますます多くのことを求められるようになってくると、多くの教員が対応できなくなってくることが予想されます。かといって、そうした「知見」の獲得に力を注げば、肝心の授業力の向上が疎かになる怖れもあります。
 そこで大切になってくるのが、組織としての対応力の向上です。つまり、様々な課題について学校内に一人は専門的知見を有する教員がいるという体制作りです。教委、この場合は都道府県教委が、今後必要となる「知見」について精査し、それぞれについて研修会を実施し、すべての教員が一「知見」については研修を受講し修了認定を受けることを義務化し、そのことを異動履歴書に記載し、異動の際の配慮事項として、各校に1人体制を実現させるのです。 
 教員はスーパーマンではありません。一人の教員に何もかも求めることはやめなければなりません。

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