ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「教育」の意味するもの

2009-12-31 07:40:18 | Weblog
「教育の意味」12月27日
 読者投稿欄に、「子供は十人十色 教育も多様に」というタイトルの投書が掲載されました。投稿者は書道教授を務める60歳の男性で、自らの経験をこう語っていました。『学業では人より一歩も二歩も遅れている生徒でした。しかし芸術選択で書道をとってからは、書道の楽しさに目が開きました。学業では駄目でも、自分には書道の世界があるのだと感じた時は、何とも言えない希望を持ちました』と。そして『いかにして人生を渡っていけるかの方向を示してあげるのも教育ではないでしょうか』と教育の在り方について、ご自分の考えを披瀝なされていました。
 まったく同感です。ただ、ここで問題になるのが「教育」という言葉です。投稿者は、教育=学校というニュアンスで、「教育」という言葉を使われています。私は、この場合の教育は、家庭や地域、職場など幅広い場所での教育だと思っています。舞台やスポーツの試合を見て、職場の先輩の感化を受けて、読んだ本に影響されて、黙々と働く親の背中を見て、難病を治してくれた医師を見てなど、人は様々な場面で人生を方向付ける出会いをするものです。もちろん、「あのときの○○が」と明確に言える劇的な体験がある人は少数でしょうが、潜在意識の中で何らかの影響を受けていない人はいないでしょう。それが、私の言う「教育」です。
 もちろん、その中に尊敬できる教員の影響や感化が含まれてもよいのです。しかし、影響や感化が、学校の役目だとされてしまうと、学校は重荷を背負わされることになりますし、教員にとっても精神的負担は大きくなってしまいます。学校は、様々な進路の土台となる学力を身に付けさせることに責任を負い、他の様々な教育機能をもった「場」が、多様化を担うという分業こそが大切なのではないでしょうか。少なくとも、義務教育学校はそうあるべきだと思います。
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正直に話しても

2009-12-30 07:19:49 | Weblog
「正直に話す」12月29日
 「風知草」で、山田孝男氏が、鳩山首相の釈明記者会見について触れていました。その中に、次のような一節がありました。『新情報、説明の工夫や話者の気迫を欠いては、民心に響かない。繰り返しの追及に音を上げた鳩山は「いくら正直に真実をお話申し上げても、この種の問題、なかなかご理解いただけない」とボヤいた。本当に知らなかったかどうかは、確かに水掛け論である』
 私は鳩山氏に同情的な立場です。私も似たような経験があるからです。教委の管理職であったとき、ある事件について、マスコミや議員から説明を求められたことがありました。いくら正直に隠し立てなく話しても、「そんなはずはない」「常識では考えられない」「誰かを庇っているのではないか」、最後には「あなたは正直な人だと思う。だから何かの圧力がかかっているとしか考えられない。私はあなたを守るから正直に話してほしい」という「ありがたいお言葉」まで頂戴したものでした。 
 もちろん、筋論として、管理職である私に責任があり、私の不手際であったのです。しかし、おそらく多くの教委で同じような事件が起きたとすれば、私と同じ立場の者は同じような対応をしたはずなのです。つまり、質問し追及する側の者と学校や教委の側の「常識」が食い違っていたのです。
 教委と学校の関係は、監督する者とされる者という関係ではありますが、他の行政分野とは状況が異なります。「命令」という形式をとることはほとんどなく、「指導」や「依頼」というソフトな手法がとられることが大部分なのです。「アメとムチ」という言葉がありますが、教委が、予算面で学校間に差をつける機会はほとんどなく、人事についても
本人と校長の考えが重視されるのが慣例となっているのです。
 具体的な例を挙げてみましょう。他の自治体から学校参観の依頼が来たとします。私は、参観の狙いに相応しいと思われる学校の校長に連絡を取り、参観を受け入れてほしい旨を依頼します。しかし、校長が「難しいですね」と言えば、それを押し切って「教委としては○○中学校に決定します」とは言えないのです。実際には、「困りましたね。でも、分かりました。今回は他の学校と連絡を取ってみます。でも、校長先生、これは私からの貸しとさせてもらいますよ」と言うくらいがせいぜいなのです。
 そうした状況であることを理解せずに、教委と学校は上意下達の関係なのだから、という発想で質問されても、食い違いが生じるだけなのです。もちろん、こうした現状がすべてよいといっているのではありません。しかし、学校の独自性を重んじることが求められるという条件下で長い間かけて創り上げられてきた現状には、それなりの意味があることも事実なのです。
 いじめ自殺や教員の不祥事、会見する教委の幹部や校長が本当のことを話しても、「隠している」「教員を庇っている」「自己保身だ」と責められているのを見ると心が痛みますが、「学校という世間」が変わらない限り、こうした光景は続いていくと思います。学校と教委の関係について、上下関係を強めるのか、教委の権限を弱め学校の独立性を強めるのか、教委制をなくすのか、説明責任を果たすという視点からも検討が必要です。

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中途半端な改革ではなく

2009-12-29 07:31:57 | Weblog
「新しい時代観」12月26日
 大井浩一記者が『「戦後」の耐用年数』という標題で「発信箱」を書かれています。その中で大井記者は、『「戦後を代表」は著名人の死に際し、よく使われる形容だ。筆者自身、そうした記事を何度も書いてきたが~中略~つまり「戦後を代表」には、のんべんだらりと続く「戦後」としか現在をとらえられない価値判断の弱さが表れているのではないか』と書いています。
 「戦後」という枠組みで現在を考えることの「弊害」は教育界で顕著です。その最たるものが「日教組」問題です。学力低下は教員の切磋琢磨を嫌う日教組の所為、子供の犯罪や非行の増加は道徳教育に反対してきた日教組の所為という主張は今も一定の力をもっています。民主党政権の発足に際しても日教組出身者が我が国の教育行政を牛耳るという危機感を煽る報道が週刊誌などで見られました。全国学力テストの縮小、教員免許更新制の廃止など、具体的な改革についても日教組の影響を指摘する意見が見られます。一部は事実でしょう。しかし、日教組は最早それほどの力を持ち得ません。それでも、日教組批判をすればこと足れりとする「似非保守派」の態度にこそ、「戦後」の見方でしか現在の社会を見ることができない限界を見ることができます。
 今こそ、「戦後」を脱して、新しい時代観で教育を根本から考えることが必要であると思います。日教組の活動が最盛期を迎えていた時代から30年以上がたち、人生80年の時代になり、白紙の状態から学校教育の在り方を考えることが必要なのではないでしょうか。その際の視点は、義務教育の期間の延長、履修主義から習得主義への転換、現行教科の削減であると考えています。
 具体的には、義務教育を10~11年間にし、増加する学習内容を余裕をもって学習できるようにすることです。また、年度末に一斉学力テストを行い、基準に達しない子供は次年度再履修を義務付け再度テストを受けさせるようにするのです。さらに、国数社理英の五教科のみを必修教科とし他の教科は選択制で週2時間程度とするというのが私のイメージです。検討期間に3年、次期総選挙で是非を問い、10年の準備期間を設けて、平成36年からの本格実施となります。「戦後」80年となります。そのときにも「戦後」で教育を語っているわけにはいかないのですから。
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合宿

2009-12-28 07:39:01 | Weblog
「合宿」12月26日
 菅直人副総理が、年明けに数日間、「全閣僚で合宿を」と提案したそうです。「合宿」というと思い出すことがあります。指導主事になりたての頃、勤務した教委では、夏季休業中にいくつもの合宿研修がありました。新任校長宿泊研修、教頭宿泊研修、新任教頭宿泊研修、道徳宿泊研修、新規採用教員宿泊研修、教務主任宿泊研修、生活指導主任宿泊研修などです。そうした研修会には夜の飲み会がつきもので、酒席が嫌いな私には苦痛な毎日でした。教育長をはじめとする上司や外部からの講師、参加する教職員への気配りや様々な苦情への対応で、1週間の研修終了時には数㎏も痩せてしまうのが通例でした。数年たつと、不景気から教育予算が削られ、経費のかかる宿泊研修は姿を消すようになりました。そのときは正直、ホッとしたものでした。なお、他の教委でもその頃、宿泊研修は中止されていきました。
 しかし、そうした苦労はともかく、宿泊研修で得ることができたものは少なくないような気がします。一言で言えば、人脈づくり、人間関係の深化ということです。それは、学校訪問や各種会合での情報交換だけでは築くことのできない財産だったような気がします。
 文部科学省の発表によると、昨年度精神疾患で休職した教員は過去最悪の5400人になったそうです。その原因の一つに教員同士のコミュニケーションが減り、相談相手がいないということが挙げられています。そうだとすれば、教員間のコミュニケーションの回復が重要になるはずです。その一つの手段として、宿泊研修の復活を検討してみてはどうでしょうか。アルコール厳禁で夜遅くまで、日々の指導、興味のある分野についての実践、教育界の大きな動向、最近参加した研究会や読んだ本について感じたことなどについて語り合うことは決してムダではないと思います。場所は、休業中の学校で構いません(校舎内なら禁酒も徹底されます)。実施主体は教委でも研究団体でも学校でも構いません。是非、検討してもらいたいものです。
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校長職の位置付け

2009-12-27 08:05:04 | Weblog
「それぞれの資質」12月25日
 スポーツライター玉木正之氏が、貴乃花親方が相撲協会の理事に立候補する死生を見せていることに関して、「貴乃花親方若いのが問題か」という標題のコラムを書かれています。その中で、玉木氏は『本来別個に独立して評価されるべき現役選手時代の成績と指導者としての能力と経営者としての才能が、ごちゃ混ぜにして語られることが多い』とスポーツ界の「悪習」を指摘しています。
 教育界でも事情は同じです。教員としての実績と校長などの学校管理職としての能力と教委など教育行政において求められる資質を個別のものとして評価するという面が不十分なのです。私の経験からしても、教員として力のない者がよい校長になることはありませんが、教員として力のある者がよい校長に成れないというケースは数多くあります。また、校長として声望を集めた人が、指導室長になった途端非難を浴びるということもありました。 
 相撲協会の場合、土俵の上で相手を倒す力士、弟子の育成者としての親方、相撲協会という組織を運営する理事と、それぞれの「職務」は明確です。しかし、教育界の場合、校長は、学校という組織を経営する者という一面と教員という専門家を育成する師匠という面を併せもっています。近年、経営者としての側面が強調される傾向があり、そこから民間人校長という存在が見られるようになってきました。しかし、民間人校長に授業の専門家である教員を育成することはできません。具体的には、指導力不足教員の指導と認定や指導に悩む教員へのアドバイスなどは、民間人校長には難しいのです。多くの教員が精神疾患に悩まされている現状からも、校長の育成者としての側面が再評価されるべきだと考えます。
 新しい校長像、校長の位置付けを明確にすることが教育行政に求められています。

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指針づくりを

2009-12-26 08:26:51 | Weblog
「指針づくりを」12月23日
 医師中川恵一氏が、連載コラム「がんから死生をみつめる」の中で、中学生からのがん教育を提唱しています。中川氏は以前からがん教育の必要性を主張なさっていますから特に驚くことではありませんが、多くの人がそれぞれの立場から「○○教育」の必要性を主張し学校教育への導入を声高に求める状況が、学校の多忙化の大きな要因であることは、私が以前から指摘してきたとおりです。
 国際理解教育・環境教育・福祉教育・人権教育・消費者教育・性教育・租税教育など従来からの「定番」ともいえる「○○教育」に加え、がん教育、食育、銃教育、北方領土教育、服育、美育など、次々に登場してくる「○○教育」について、今、整理が必要な時期になっていると思います。
 現状は、市議会などで、議員から「○○教育が必要だと思うが、市教委として今後の計画はどうなっているか」という質問の形での圧力を受け、「とりあえず○○教育研究校を1校だけ指定しておきましょうか」というような対応になってしまっています。そして、研究校の指定期間が終われば、それまでの取り組みもうやむやになってしまうというのが一般的な姿です。
 そこで、100近い「○○教育」を3つのグループに分けることを提案してみたいと思います。例えば、A「このグループの中から教委が3つを選択して義務付ける教育課題10」、B「このグループの中から学校が1つを選択して義務付ける教育課題30」、C「校長の承認の元に学年もしくは教科単位で取り組むことができる教育課題30」、などという分類をし、全体で1校当たり5課題程度に抑え、学校・教委の裁量と公教育に求められる共通性を確保しつつ、「なんでもかんでも学校へ」という社会風潮を断つのです。このグーループ分けは、3年に一度、文部科学省が各省の要望や各団体へのヒアリングを通して見直すようにしていけば、時代の変化に対応することも可能ですし、突発的な出来事に強く影響され深い検討もなしに新たな教育課題が導入されることも防ぐことができます。
 Aには、国際理解教育・環境教育・福祉教育・人権教育・消費者教育・性教育・租税教育・平和教育・伝統文化理解教育・心の教育などが位置付けられることになると思われます。そして、教育課程届にそれぞれの計画を明記することを義務付けることにより、教員の意識も高まり、実践事例の蓄積が進み、大きな教育成果が期待できるようになるはずです。また、学校を知らない無責任な外部からの圧力については、グループ認定をした文部科学省が砦となって学校を守ることになります。
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障害のある教員の採用

2009-12-25 08:14:36 | Weblog
「住民の選択」12月21日
 『求められる「職場介助」』という標題の記事が目にとまりました。障害者を採用した後、職務の手助けをするワークアシスタントを配置する自治体がある、という記事でした。具体例として、神奈川県庁の全盲の職員に書類などを読み上げてサポートするアルバイト職員の例が紹介されていました。障害者団体の幹部は「職場介助は必要不可欠な支援だ」と語っていましたが、神奈川県民は、どの程度この制度を知り、そのための負担について知っているのでしょうか。
 記事からは分からなかったのですが、人件費はどうなっているのでしょうか。障害者の職員の人件費にアルバイト職員の人件費がプラスされるのだとしたら、年間300万円は人件費が増えている計算になります。障害者の職員が10人いれば年間3000万円になります。その他のコストとして、アルバイト職員の業務スペースの確保や光熱水費、福利厚生費や交通費などを加えれば、額はさらに膨らみます。また、障害者である職員の業務遂行の速さが遅ければ、その分も潜在的なコストとなります。1人の職員が平均30年勤務するとすれば、約10億円の経費となります。それらのコストはすべて県民の負担となります。こうした情報がすべて周知された上で、半数以上の県民がこうした方針を支持しているのでしょうか。
 障害のある人の採用ということでは、教員においても同様な事例があります。その場合、職場介助のための職員が雇われることはなく、他の教員が子供とのコミュニケーションや教材づくりなどを補助するケースがほとんどのようです。こうしたシステムの場合、新たな人件費は生じませんが、他の教員の負担が増し、結果として学校全体の教育力が低下していくことになります。
 現在、民主党政権下で「事業仕分け」が行われ、行政経費削減が進められています。経費削減という視点、行政サービスの効率化という視点から見れば、職場介助などとんでもないということになるはずです。一方で、友愛の精神からすれば障害者の自立支援は重要課題であるはずです。この矛盾を解決するために、最も安直な方法は、現場の職員に「もっとがんばれ」という発破をかけるだけで、すべての負担を負わせるという方法です。つまり、学校現場で進められているシステムの更なる推進です。
 多忙化する学校で苦しむ教員を押しつぶすことのないように、学校における障害のある人の教員採用の在り方について、文部科学省は早急に方針を明らかにし、必要な予算の計上を進めるべきだと思います。
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キャリア教育再考

2009-12-24 07:36:16 | Weblog
「キャリア教育再考」12月21日
 「高卒者の就職難」というタイトルの社説が掲載されました。その中では、10月末現在の内定率が過去最大の下げ幅になったことを受け、『不安定な採用状況を改善するため、早い段階から勤労観や職業観をはぐくみ、適性や意欲を引き出し伸ばす「キャリア教育」の充実も急務だ』という主張がなされています。
基本的な考え方に疑問を感じます。まず、現在の「不安定な採用状況」の原因は、生徒側にあるのではなく、景気の先行きが不透明で雇用や設備投資を積極的に増やすどころか削減せざるを得ないという経済状況、すなわち企業側にその原因があるという認識が不足しているということです。ただ、これについては詳しくは触れません。経済にはまったくの素人ですから。
 しかし、長年、教委に籍を置いてきた者として、「キャリア教育」に関するとらえ方については一言言っておきたいと思います。「社説」が言うように、「キャリア教育」の背景には、フリーター増加やニート問題がありました。若者の離職率の高さを改善しようという目的の下に、「キャリア教育」の導入が進められてきたのです。しかし、私は、『地元産業人を教壇に招き、キャリアを積んできた「プロ」の意識や誇り、喜びを伝えてもらったり、職場実習教育を拡充・多様化させる』取り組みは、離職率の低下をもたらすものではないと考えています。このことについては、以前にも書いたことですので、重複を避けるため、同じ新聞社の平成17年6月23日の記事について書いた私の原稿を引用してみます。

『「ニート」になる割合は、中学卒や高校中退者の方が、大学や大学院卒より高いことが、厚生労働省所管の研究機関の調査で分かった。こうした調査は初めてで、担当者は「学校での職業体験を充実させ、中退者を減らす努力が必要」と訴えている』という内容です。また、この記事の後半では、研究員の分析として『就職機会は高学歴ほど多く、学校中退者にはほとんどない実態を反映している』とも書かれています。
 私はこの記事を読んで違和感を感じました。記事では、中退者と卒業者、低学歴と高学歴を比較した場合、前者の方が「ニート」になる割合が高いとされています。そのこと自体については、多くの方が漠然と感じているとおりの結果だと思います。私もそう感じていました。おかしいと思ったのは、  の部分です。「職業体験の充実」と「中退者減」の関係がよく分からなかったのです。
 この調査結果を報じた記事からいえるのは、「ニート」を減らすには中退者を減らすことと大学や大学院まで学ぶ人を増やすことが大切であるということだけです(調査自体には他の内容も含まれているのでしょうが)。職業体験の充実が「ニート」減少とどのような関係があるのかということについては、記事の中には一切書かれていません。職業体験を充実させれば、子どもたちは働くことの意義や喜びを体感し「ニート」は減るということを暗黙の了解としているのでしょう。これは、「ニート」である人は勤労意欲が乏しく、そのことが「ニート」という問題を発生させている主たる原因であるという考え方を表しています。本当にそうなのでしょうか。
 「ニート」である人の大部分は、「ニート」でありたいと考えてはいません。適当な就職先がなく、しかたなく「ニート」という現状に甘んじているのです。それは、先ほどの記事の中の『就職機会は高学歴ほど多く、学校中退者にはほとんどない』という実態分析からも明らかです。だとすれば、「ニート」を減らすために学校教育関係者が配慮すべきことは、学校を中退させないこと、高い学歴をもつことができるようにすることの二つになるはずです。
 学校を中退する子どもの多くは、授業内容を理解できず、授業についていけないという実態があります。素行不良による中退者もなぜ素行不良になったという原因を探ってみれば低学力という実態に突き当たります。つまり、単純化して示せば、授業を充実させる→授業内容が理解できる→中退者が減る→「ニート」が減るという図式が成り立つのです。以前も書いたことですが、学校生活の多くは授業を受けている時間が占めています。その時間が苦痛であれば学校生活全体が耐え難いものになっていくのは当たり前のことです。学校は、学業だけでなく、友人や教員との触れ合いを通して人間関係を学んだり、部活や生徒会活動などを通して協力や努力の素晴らしさを学ぶところだという趣旨のことを言う人がいます。そうした面もありますが、学校生活の中核をなすのはあくまでも学業であるべきだと思います。
 話がそれてしまいますが、教員は子どもの成績だけでなく、子どものいろいろな面をみて評価すべきであるという考え方があります。私は大反対です。教員は子どもの学習の状況を適切に評価する(成績による順位付けではありません)ことに全力を注ぐべきなのです。考えてもみてください。休み時間に友人と話していることまで教員が把握し「優しく思いやりがある」とか「自己主張が強く、相手の気持ちを考えない」などと評価され、通知票に書かれ、個人面談で親に伝えられるような生活では息がつまります。自分自身の問題として考えてみればすぐ分かるはずです。職場において、同僚との私的な会話や退勤後の行動などが勤務評定の対象とされるとしたら、自分を殺し仮面をかぶり続けるしか対処法はありません。
 学校では勉強で、会社では業績で評価されるのが正しい姿なのです。野球部では野球が上手いか下手か、陸上部では遠くに跳べるか否か、水泳部では早く泳げるか否かで評価されるのが当然であることと同じです。あの子は下手だけど心が優しいからレギュラーにするとか、記録は低いけど責任感が強いから今度の試合に出場させるというようなことをすれば、優遇された子どもも反対の立場の子どもも傷つくでしょう。ずっと補欠だった選手が、三年生最後の試合で九回に代打で出場するのは実力ではなくお情けです。選手自身がそのことを知っています。子どもはきちんとした基準で公平に評価されるのであれば、評価が低くても傷つくことは少ないものです。子どもが傷つくのは、一つの基準で自分という人間全体が低い評価をされたときなのです。教員は、「学校は勉強という物差しで君のことを評価するところだ。勉強という物差しで測ると君は○○だ。でも、勉強は君の人間としての価値の一部にすぎないし、勉強が○○であることは、君が□□であることを意味しているわけではない」ということを徹底すべきなのだと思います。 
話を戻します。高学歴という点ではどうでしょうか。数年後には、大学全入時代を迎えます。大学を選びさえしなければ、すべての子どもが大学卒の肩書きを手に入れることができる時代がやってくるのです。このことは、大学卒でない者はますます就職機会が狭められる時代を迎えるということを意味します。つまり「ニート」になっていくのです。大学に進学するか否かは本人の選択の問題です。しかし、大学に行こうと思えば行くことができるだけの学力を付けさせるのは学校の責任です。大学に行こうと思ったけど、数学の学力は分数の足し算もあやしいという程度というのでは進学という選択肢はなくなってしまうのですから。そして、学力を保障するための手だては授業の充実ということになるのです。
 もちろん、学歴が何の意味ももたない分野もあります。しかし、そうした分野ほど実力主義の競争の激しい世界なのです。「ニート」の問題は、もっと一般的な「真面目に人並みに働いて、そこそこの生活をしたい」という意識の人々にとっての問題です。二十六歳までに四段になれなければクビになる棋士や売れなければ何十年たとうが家族を養うこともできない芸人の世界を目指す人や新規事業に参入して一攫千金を求める人の問題ではありません。そうした分野で成功した一部の人を取り上げて、就労の問題を考えることはあまり意味がありません。
 要するに、冒頭の記事にある調査結果を素直に読むならば、授業を充実させ子どもたちの学力を一定水準以上に高める努力をすることが、学校にとって最も有効な「ニート」対策であるということです。
 「職業体験の充実」は、授業に充実、学力保障という前提が実現した上で行われるべきものです。すべての中学校において一週間の「職業体験」をという施策を進めている自治体があります。忘れてならないのは、一週間の職業体験をさせるということは、約三十時間の教科等の授業ができなくなるということです。事前事後の学習も含めると、より多くの時間を費やすことになります。何でもかんでも学校教育に持ち込んできた結果、最も大切な学力向上が疎かになる。そんなことにならないようにしてほしいものです。
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ごちゃごちゃ言うな

2009-12-23 08:08:34 | Weblog
「ゴチャゴチャ言うな」12月20日
 岡崎勝氏の「しかり上手のABC」で、「理屈で追及する危うさ」が取り上げられていました。その中で、『先日、地下鉄のつり輪で遊んでいる子どもに「いま、あなたは何をすべきときなの?それを考えなさい!」と、理路整然と追及しているお母さんに出会った。正直これはたまらないなあと思った』というエピソードが紹介されています。実際、たまらないですね。だからこそ、岡崎氏の、『子どもにとっては、その「じっくり」が、長すぎ、回りくどくて、結局は、大人の論理と都合を延々と聞かされることになってはいないか?』という問いかけはとても重要です。
 私の経験から、教員には素直の人が多いように思います。子供のころから教わることに抵抗がなかったからこそ「学校」という文化に馴染むことができ、「学校」への肯定的印象が教職を選ばせるということが、背景にあるのかもしれません。ですから、「子供を頭ごなしに叱ってはいけない」「叱るときは、子供に分かるように、叱る理由をきちんと説明しなければいけない」「子供には子供の論理がある。子供に反論や弁解の機会を与え、子供の声に耳を傾けることが大切だ」などと教育書や「偉い先生」にいわれると、素直に「なるほど、そういうものか」と受け入れ、それを金科玉条とし、上記の母親のような対応をしている教員は少なくありません。
 教育はコミュニケーションです。教員の善意がいつも通じるとは限りません。むしろ、岡崎氏が最後に紹介している『しかられ慣れている子どもと話をしていたら、「お母さんが叫び始めると、シャットダウンするんだ」と言っていた』という状態になってしまうことの方が多いものです。「ダメなものはダメ」もときには必要です。その使い分けは、経験を積み体得するしかありません。
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都教委ならできる

2009-12-22 08:27:18 | Weblog
「子供の脳」12月20日
 書評欄で「戦国武将の脳」という本が取り上げられていました。『信長の独創性や先見性は前頭葉・頭頂葉とかかわりが深いという。しかし、前頭前野には問題があったらしい』
『秀吉の人をひきつける資質も脳の構造に深く関わるらしい。重要なのは楽観的な脳。これは側頭葉にある扁桃核との関係が深い』など、歴史好きを、すぐにでも本屋に駆けつけたい気持ちにさせる内容が紹介されています。
 それにしても、脳科学が人気のあるテーマとなっているにもかかわらず、脳科学の成果が学校における指導法の工夫や授業構成の研究、生活指導の手法に生かされているという状況にはなっていません。もちろん、教員側の怠慢が大きな要因であるとは思いますが、私が教員だとしても、興味はあってもどのようにして脳科学の成果を生かせばよいのか、見当もつかないというのが本音です。
 こうした面でこそ、教委のリーダーシップを期待したいものです。今、教委は教員採用、免許更新講習、インターンシップなど様々な形で大学との連携を深めています。しかし、教育研究における連携はまだまだ不十分です。その最大の理由は、短期的視野では成果の検証が難しく、予算化ができないことにあります。また、教員の異動により、複数年単位で研究体制を整えることが難しいこともあります。
 しかし、大学の脳研究者との共同研究は、教員に「研究」というものの厳しさと重要性を再認識させる効果もあります。校長や副校長などの管理職同様、教育研究教諭という職層を設け、その異動要綱を一般の教員とは異なることとし、継続的な研究を行う体制を整えるということも可能であるはずです。東京都など、大学が多くあり、自治体の財政基盤も強固な自治体の教委でこそ、チャレンジしてほしいものです。

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