ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

体罰には共犯者がいる

2013-01-31 07:52:09 | Weblog
「共犯者」1月27日
 愛知県立豊川工業高校で体罰が発覚しました。記事によると『(陸上部)監督の体罰をきっかけに昨年4月以降、部員2人が転校や退学をしていた』『他の部員10人への体罰が確認された』という状況のようです。同校の体罰事件では、私が考える体罰の「共犯者」の姿が浮かび上がっています。
 まず、校長です。同校の竹本校長は『体罰後の退学・転校を把握しながら、県教委にすぐに報告しなかったことについては、「保護者や生徒の意向を優先させた」と釈明した』そうです。この体罰に融和的な姿勢が、体罰事件の背後にあるのです。建前では「体罰は許されない」と言いながら、本音では「多少の体罰は仕方がない」と考えている校長の存在が、監督の体罰を誘発・継続させた原因の一つであることは間違いありません。
 2番目は、保護者です。全国大会への出場、全国大会での好成績を望むあまり、体罰を隠蔽することに協力、もしくは体罰を明るみに出すことに抵抗した、部活に過熱した保護者たちの存在です。本来ならば、被害者である保護者たちが、監督を守る側に立つのですから、監督が「これなら大丈夫だ」と思い込んでしまったのも無理はありません。
 最後は、県教委です。前日の記事によると、この監督は『09年7月にはデッキブラシで部員に体罰を加え、頭を縫うけがをさせた。県教委は当時、教諭を訓告処分としたが事実を公表しなかった』ということです。驚きです。記事では訓告処分と書かれていますが、訓告は、いわゆる行政処分ではありません。行政処分は、重い方から、免職・停職・減給・戒告の4種類があり、こうした処分歴はどの学校に異動してもついてまわります。一方、訓告や口頭注意は、処分歴に含まれず、当該教員が不利益を被ることがありません。教委によって若干の違いはありますが、物差しや黒板消しなど「モノ」を使って殴った場合、手で殴ったよりも重い処分となるのが普通です。ましてデッキブラシというのでは、仮にかすっただけでも訓告で収まるはずはないのです。まして、縫合が必要なほどの怪我であれば、どのような事情であれ戒告以上の処分になるのが「相場」というものです。私の経験から言えば、軽くて減給、重ければ停職3カ月といったところでしょう。要するに、県教委は、全国大会で上位常連校である同校陸上部が今後も同様な成績を修め、愛知県の名を高めてくれることを期待し、「特別な配慮」をしたと疑われるのです。こうした行為が、監督をして「俺は特別」という意識をもたせてしまったことは容易に推測されます。
 体罰対策は、「実行犯」だけではなく、周囲の「共犯者」への対応を考えておかないと成果を上げることはできません。しかし、校長と教委が共犯者では、明るい見通しは持てませんが。
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効果が明確?

2013-01-30 08:05:24 | Weblog
「効果が明確」1月27日
 『教職員増員見送る』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『財務省は「35人学級による学力向上などの効果が明確でない」と指摘、地方公務員の給与削減を求める政府方針とも整合性が取れないとしていた』ということのようです。複雑な思いがします。
 私は教委に勤務していたとき、議会で野党議員から少人数学級実現を迫られました。しかし、市の財政が苦しく、教員の独自採用が不可能であったため、「少人数学級の効果は研究では明らかになっていない」という表向きの理由を掲げ断り続けていました。実際、約20年前に、当時の都立教育研究所で少人数学級における指導効果についての調査研究が行われ、その報告書では、学級の人数と教育成果の間に明確な関係はみられないと結論付けられていましたので、根拠のない嘘をついたわけではありません。
 とはいえ、教委幹部で唯一とも言える学校教育の専門家として、自分の本心とは異なる答弁をし続けなければならないことについては、苦しい思いをしたものです。旧都立教育研究所の研究から20年、子供を取り巻く状況は大きく変化しています。その間、文部科学省は、少人数学級の教育的効果について、説得力のある調査研究を怠ってきたのでしょうか。そうだとすれば情けないことですし、そうでないならきちんと主張すべきだと思います。私の認識不足かもしれませんが、国立教育研究所が研究を行っていたはずなのですが。
 安倍政権は、教育復興を掲げています。いくつもの会議を立ちあげ、様々な課題を列挙していますが、その本気度が疑われます。私の10年あまりの教委勤務経験からしても、政治の意思は予算に反映されるものです。教員採用を増やさないという行動にこそ、この政権の本心が表れているような気がしてなりません。
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レッテル人事

2013-01-29 07:40:46 | Weblog
「レッテル人事」1月25日
 『桜宮高校長更迭へ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると『橋下徹市長や松井一郎大阪府知事、府・市の教育委員長らが24日、市役所で対応を協議した』ということです。その席で市教育長が『同校の佐藤芳弘校長を年度内に更迭し、外部人材を登用する方針を示した』のだそうです。
 そもそも独立して教員の採用を行っている大阪市の教員人事の問題に、府が関与すること自体がよく分かりませんが、何よりも理解しがたいのが市教育長の「外部人材登用」発言です。大阪市教委にとって、桜宮高校の体罰事件は大きな問題です。ですから、問題の深刻さを理解していない現校長の更迭は当然です。そしてその後任には、大阪市教委が人事権を持つ範囲で最も有能な人物を配置すべきです。そのことについて、市教育長は、外部から登用すると言っているのです。つまり、何人もいる市立高校の校長の中には、桜宮高校を立て直すことができる人材はいないと言っているのです。
 校長を初めとする幹部教員の育成は教委の重要な責務です。大阪市教委は、人材育成という責務を果たしてこなかったということを自ら認めたことになるのです。これは、「だから教委制度ではダメなんだ」という橋下氏らの主張が正しいと認めていることにもなります。そこまでの自覚があったのでしょうか。
 また、教委が全員能力不足であると評価している(?)現在の市立高校校長たちよりも明らかに経営能力の高い人物について、心当たりはあるのでしょうか。この難局を打開することができる人物はそうはいないはずです。まさかこれから探すのではないでしょう。高校の卒業式や終業式まで2カ月を切った中で、今から探すというのでは、結局、コネに頼ることになってしまう危険性が高いと思います。
 私の人間性が劣っているからなのかもしれませんが、橋下氏の、改革姿勢を示すというパフォーマンス重視路線に抵抗することができず、まず外部人材招聘という結論が先にあったように思えてなりません。そして橋下路線に沿う形の教委の内部に、「これで失敗しても、外部招聘を主導した市長の責任だ」という責任転嫁の発想があるような気もしてしまいます。
 大阪市の教育行政はそこまで学校教育に対して無責任ではないと思いたいです。私の「げすの勘ぐり」であることを祈りたいと思います。

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誤解を生じる発言

2013-01-28 07:19:50 | Weblog
「誤解を生ずる発言」1月24日
 下村文部科学相の記者会見での発言が報じられていました。下村氏は、『(教員の駆け込み退職希望者が相次いでいる問題について)できたら最後まで勤め上げていただきたい。ましてやクラス担任など責任ある立場は、最後まで誇りを持った仕事として、まっとうしてほしい』と語ったそうです。
 下村氏は、文部科学行政のトップとして、クラス担任はそうでない教員よりも責任ある立場であるという認識を示したことになります。これは、クラス担任ではない教員、小学校の専科教員、養護教員、中高の副担任などは、責任の軽い立場であると言っていることにもなります。本当にそれでよいのでしょうか。
 私は拙著「教員改革」の第2章「指導力不足と呼ばれる教員に共通してみられる傾向」の中で、小学校教員の場合少人数指導やTT担当など学級担任をはずれるケースが多いこと、中学校教員の場合副担任とされる割合が急増すること、を指摘しています。これは「事実」なのですが、それでも私は、この部分を書く際にとても迷いました。学校の実情を知らない世間の人に、学級担任をしていない教員=指導力不足教員という偏見を植え付けてしまわないかと懸念したからです。私のような無名の人間でも、自分の発言の影響を懸念したのに、文部科学相という立場にある人が、こうした発言をしたことに首を傾げてしまうのです。
 この発言を目にした一般の方や保護者、児童生徒は、「○○先生はずっと担任をもっていないから、問題があるのでは」とは思わないでしょうか。教員側も、「保護者や子供たちは自分のことをダメな教員だと思ってはいないか」という不安にかられることはないでしょうか。
 この「駆け込み退職」については、メディアも学級担任とその他の教員を区別して人数を報じるなど、下村氏と同じような発想で記事を作成していました。学校は、教員相互、教員と保護者や子供たちの信頼関係があってこそ成り立つものです。私自身、初任者指導と教務主任を兼ねたとき、教員研究生として派遣されるとき、担任をはずれたことがあります。そのとき、当時の校長がとした説明を保護者にしてくれたお陰で、誤解を受けずに済んだ経験があります。それだけに、学級担任ではない教員の方々の心情を考えてしまいます。責任ある立場の人は、自分の発言に慎重であってほしいと思います。

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特別な職

2013-01-27 08:14:44 | Weblog
「特別な職」1月23日
 『駆け込み退職 教頭、学級担任も』という見出しの記事が掲載されました。『埼玉県内で100人以上の教員が退職手当引き下げ前に「駆け込み退職」を希望している問題』に関連する記事です。
 この問題については、上田清司埼玉県知事が『無責任のそしりを受けてもやむを得ない』と教員の行為を批判しています。年度末に退職した場合と1月末に退職した場合では、2月3月分の給与を差し引いても約70万円の差が生じるということですから、上田知事は、「教員たる者、たかが70万円くらいのことで子供や保護者、同僚教員や校長に迷惑をかけるのはけしからん」と言っているのです。露骨に言えば、教員は教育者なのだから70万円くらいの損は甘受せよ、ということです。
 この主張は正しいのでしょうか。私は心情的には知事と同意見です。しかし、それには前提条件があります。教員は一般の公務員とは違う存在であるということをきちんと認め、その認識を広めるということです。
 私は教員=聖職論者ではありません。聖職者ではないが、特別な専門性を有する教える専門家であると考えています。だから一般の公務員やサラリーマンとは違うのです。
 医師や弁護士には、その職と不可分のモラルがあります。警察官や消防士、自衛隊員などは他の職に人にはない義務、危険を甘受するという職務を背負わされています。船長が真っ先に遭難した船から逃げ出せば猛烈な批判が浴びせられるでしょう。それぞれの職には、その職に期待される行動があるのです。
 そうした点から考えると、教員が経済的損得だけで子供を放り出して退職するというのは、批判されるべきだと思います。しかし、重い義務はそれに見合う「特権」と引き替えでなければなりません。そうでなければ、教員のなり手はいなくなってしまいます。私が考える特権とは、「尊敬」です。
 教員を教育サービス産業の従業員とみなし、住民や顧客にサービスを提供するという意味では公務員や企業の従業員と同じとする立場をとるのであれば、今回の「駆け込み退職」を批判する資格はないと思うのです。
 教員にも、家族がいます。親の介護や看護の費用、我が子の進学や婚姻の費用も必要です。愛する家族の幸せを考えるのは当然です。その当然の感情をもつことを禁じるのであれば、教員に「敬意」という反対給付をお願いしたいと思うのですが。

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ロボットになれ

2013-01-26 07:34:04 | Weblog
「ロボットになれ?」1月22日
 『「一兵卒の覚悟」維新新人に要求』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『国会議員団の政策研修会では、橋下徹共同代表が「皆さんの意見なんて世間の誰も聞きたくない」と述べ、新人に「一兵卒」の覚悟を求めた』ということです。また、橋下氏は『新人が独自性を発揮しないようクギを刺した』とも書かれていました。
 考えさせられます。言うまでもなく国会議員は国民の代表であり、国民はその議員の経歴や能力、信条などを評価し期待して一票を投じたという「建前」になっています。だからといって、一人一人の議員が常に自分の思い通りに勝手に政治活動をしていたのでは、政党政治は機能しません。先に民主党政権がそのことを証明してくれました。しかし、「新人は黙って幹部に従え」と言わんばかりの橋下発言には、問題がありそうです。
 企業であるならば、「上司」の命令に従うのは当たり前でしょう。ただ、政治家の場合、執行部と議員の関係が上司と部下の関係でよいとは言えないでしょう。では、学校の場合はどうなのでしょうか。校長と教員は上司と部下です。地方公務員法においても、上司の職務上の命令に従う義務を明示しています。それでは、校長が「先生の意見なんて保護者の誰も聞きたくない」とか、「教員は独自性を発揮しないように」言ったとき、多くの賛同を得られるでしょうか。
 学校教育においては、かつて「教員の教育権」という主張がなされました。教育内容や方法について、教員に決定権があるという考え方です。学テ裁判や教科書裁判で争われた経緯があります。現在では、学習指導要領や主たる教材としての教科用図書の位置付けへの理解も深まり、学校経営者としての校長のリーダーシップの必要性への認識も浸透してきました。それでもなお、教員の自主的な工夫は大事だとされていますし、実際に同じ学校の同じ学年でも、学級によって、あるいは担当教員によって違う授業法をとっているものです。
 近年、学校が組織体として機能することが重視され、教員が外部に向かって意見を表明したり、教委や管理職批判を口にすることはタブーとされています。私も教委に勤務していたころ、情報管理の徹底を校長に求めたものでした。しかし、統制が行き過ぎて、教員が授業法について創意工夫、試行錯誤をしなくなっては教育の質が低下することは必至です。教員が教えることの専門家でなくなってしまいます。  
 教員は専門家であり、職人です。校長は、組織人としての統制と専門家としての独自性尊重のバランスをとらなければなりません。組織人としての自覚をもった教える専門家集団、それが学校のあるべき姿だと思います。橋下学校の真似をしてはならないと思います。

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誤解そして掛け落ちた視点

2013-01-25 08:24:11 | Weblog
「“体罰問題”の問題点」1月21日
 『体罰問題 私の視点』が連載されています。この日は、セレッソ大阪U18監督の大熊裕司氏がインタビューに応えていました。タイムリーな企画ではありますが、内容には問題がある、と思います。
 まず、登場するのが、スポーツ関係者ばかりだという点です。これではM新聞社が、体罰が体育系の部活における問題だと考えているのではないかと疑われてしまいます。もちろん、体罰は部活以外の場面でも頻発しています。スポーツ関係者ばかりに語らせることは、こうした実態を誤解させることにつながってしまいます。
 次の問題点は、体罰を否定する理由についてです。例えば、大熊氏は『自殺した生徒は体罰に納得していなかったんじゃないかなと思った』と語っています。ご自身の経験として『部活動でプレーがうまくいかないなどの理由で、だいぶ殴られたけれど、全く納得できなかった』とも語っていらっしゃるので、大熊氏が、体罰を否定する理由は「納得の有無」なのだと推察できます。これは、納得できさえすれば体罰も可という論理に転換しやすい考え方です。実際、体罰肯定論者のほとんどが、教員が愛情を持って体罰をすれば子供も納得する、という言い方をしているのです。そういう意味で大変危険なのです。
 またそこには、加害者である教員と殴られる子供という狭い視野でしか問題を捉えていないという問題もあるのです。体罰問題を正しく理解するには、体罰を見ている子供という第三者を想定することが必要なのです。仮に、加害者と被害者の間に愛情と納得があったとしても、それを見ている第三者の子供は、「自分もいつか殴られるかもしれない」という恐怖感を抱いたり、大人や教員、学校というシステムへの嫌悪感をもったりしているかもしれない、という視点が欠けているのです。実はこの第三者の子供も体罰問題の被害者であると言う認識が必要なのです。
 さらに、どのスポーツ関係者も、体罰をしないけれども見て見ぬふりをしている教員に言及していないことが問題なのです。いじめ問題では、直接の加害者だけでなく傍観者の立場をとる子供も加害者なのだという考え方が浸透してきています。悪事を傍観するのは罪なのです。子供でさえそうなのですから、教員でありながら同僚教員の不法行為を見逃している教員は、それ自体処罰の対象とすべきなのです。現在指導的立場にある方々が、誰一人として、傍観の罪に触れていないことは遺憾です。
 公器である新聞は、「総集編」で、こうした点を取り上げ、補ってほしいものです。

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民意反映は方便か?

2013-01-24 08:12:13 | Weblog
「二重基準」1月21日
 『桜宮高入試中止へ』という見出しの記事が掲載されました。橋下大阪市長が、『同校の体育系2科の入試中止について在校生らに自らの考えを説明した』ことを報じたものです。まだ、市教委の会議がもたれていない段階で『入試中止へ』という記事が掲載されることに違和感を感じます。教育行政の権限を有するはずの教委が軽視され、ないがしろにされていることを当然視するメディアの見識を問いたいところです。
 でも、今回この記事について気になったのは他の部分です。それは、『市長は訪問後、市議会で「子供の声を聞くだけでは十分でない。ストップをかけるのが大人の役割」の述べ、入試中止の意向を改めて表明した』という記述です。
 私は、いくら当事者とはいえ子供の声を万能視すべきではない、という考え方には大賛成です。しかし、橋下氏がこうした考えを述べることには違和感を感じます。橋下氏は、教委を廃止し、首長が教育行政を管轄すべきという主張を繰り返してきました。その理由として橋下氏は、民意を素早く反映させることができるから、と言っています。
 しかし、今回の橋下氏のやり方は、入試の実施を求める保護者や在校生、受験生の「民意」を踏みにじるものです。教育行政の専門家である教委を無視し、「民意」も考慮しない決定を首長が下すという図式です。これでは、橋下氏が主張する教委廃止論は、要するに首長が思い通りにするというだけのことになってしまいます。
 「民意」が自分の考えに沿うときには、「民意」を錦の御旗にし、そうでないときには切り捨てる、あるいは、そもそも「民意」を探る努力などせず自分が直感を基に口にしたことだけが「民意」であるとするのであれば、それはリーダーシップというものを曲解した独裁でしかありません。
 余談ですが、独立性が重要な機関に様々な手段で圧力をかけ、無理矢理自分の考えに従わせた上で、圧力をかけたことなど忘れたかのように「判断に敬意を表したい」と持ち上げる、安倍首相と日銀、橋下市長と市教委の関係が共通して見えてしまいます。ネオ保守の体質なのでしょうか。

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思い付かない!

2013-01-23 07:43:11 | Weblog
「思い付かない」1月17日
 『全教員人事異動橋下市長が要請』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『男子生徒が自殺した問題を受け、橋下徹市長が16日、同校の佐藤芳弘校長ら教員44人の全員を人事異動させるよう要請したことが分かった』ということです。さらに橋下氏は『学校そのものを一から立て直さなければならない』とも語っているそうです。
 市教委は『現実的には難しい』と言っているようですが、教員人事を担当していた身としては、その驚きと当惑は十分に理解できます。しかし、常に大向こうを狙った過激な提案で注目を集めようとする橋下氏ですから、こうした要請は十分予想できたところです。市教委幹部は予想していなかったのでしょうか。
 私も橋下氏の要請は非現実的だと思いますが、一方でこの要請には、橋下氏のものの考え方が象徴的に表れていると思いました。その特徴は、連帯責任、即効性、マイナス要因の無視、です。バスケットボール部とは関係のない教員にまで異動を強いるというのは連帯責任的な発想ですし、校長を初めとする関係教員だけの処分や異動に止めないのは一瞬で学校の体質を変えるという即効性を重視したものです。さらに、一斉異動による混乱が予想されるにもかかわらず強行しようとするのは、混乱というデメリットは承知の上でそれよりも体質改善というメリットの方が大きいとすれば断行すべし、という考え方でしょう。
 正直に言って、いずれも学校現場に最も不足している考え方です。学校は企業などの組織濡比べて、一人一人の教員の自由裁量に委ねられる部分が大きく、良い意味でも悪い意味でも教員同士が相互に干渉することが少ないという体質をもっています。そこから、連帯責任ではなく、その教員の責任だけを問題にするという意識が強いのです。また、私も再三述べてきた言葉ですが、教育は継続性が大切という考え方から、少しずつ変えていくことを良しとする発想が染み着いています。さらに、マイナス面に着目し、それを軽減することを重視します。それは、学校が子供一人一人の「幸せ」を追及する場であり、一時的な混乱であってもその渦中にある子供にとっては生涯一度だけの貴重な成長の機会を奪うことになってしまうという思いがあるからです。
 教員異動は、管理職、主幹、一般の教員など、それぞれの職層に応じて、数度のヒアリングを重ねて、現時点ではほぼ異動案が固まっているはずです。44人を一斉異動させるということになれば、今までの作業が無駄になってしまいますし、人事担当者は文字通り徹夜の作業を続けなければならなくなるでしょう。無茶な提案です。それでも私は、今回は橋下氏の要請どおりに対応してみたはどうかと思います。それは、体罰などについて自分の学級や部活の話しではないからと見て見ぬふりをすることは体罰を行ったのと同じように許されない行為であるという意識を教員にもたせること、継続する体罰・学校ぐるみの体罰は全員強制異動に値するという危機感を教員にもたせること、という点で意味があると思うからです。それは、ありふれた処分に慣れっこになっている全国の教員に対して、良い意味でのショック療法になるはずです。
 大阪市教委が、自らこうした発想を持てれば更に良かったのですが。同市教委の人事担当者の皆さん、健康に留意して今回の一斉強制異動を成功させてください。 
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文部科学省の公式見解?

2013-01-22 07:30:38 | Weblog
「情けない!」1月15日
 『義家文科政務官「体罰線引きを」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると義家氏は、『「強くなるために(体罰は)一定ある」と発言し、線引きが必要との認識を示した』ということです。別の部分では、『「あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」とも話し、部活動での体罰を定義づける考えを示した』とも書かれています。
 隠すことではないので、今までも明らかにしてきましたが、私は基本的に保守派で、自民党支持です。特に、在職時代に職員団体への対応に苦慮させられた経験もあり、教育政策では、自民党の掲げる主張に賛同することが多かったものです。国旗国歌問題も、教員の政治活動問題も、同党の主張に正当性を感じてきました。
 それだけに、この義家氏の発言は残念でなりません。義家氏が教員出身で、横浜市の教育委員の経験もあり、現に政務官という教育行政に重い責任を有する立場にあることを考えると、怒りさえおぼえます。
 学校教育法第11条は、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と明確に体罰禁止を定めています。この解釈には、良い体罰悪い体罰という概念が入り込む余地は全くありません。また、授業と部活など、その場面によっては体罰が許されるというような発想も含まれていません。
 私が指導主事時代、校内研修等で体罰についての講義をすると、必ず出される質問が「どこまでが体罰になりますか」という境界論でした。その際私は、「ここまでは体罰ではない、ここからは体罰と線を引く考え方は好ましくない。いじめ問題と同じ捉え方をしてほしい。子供がいじめられたと感じたら、いじめがあったという前提で調査・指導には入る。体罰も子供が体罰を受けたと感じたら、体罰があったのではないかという前提で調査する。それが教委の姿勢です」という趣旨の話をしてきました。後に指導室長になってからも、そうした姿勢を貫いてきました。
 私は指導室長として、子供の腕をつかんで強く引っ張ったという事例についても、体罰として対応したものです。教委内部からも校長からも厳しすぎるという声を聞かされましたが、基本姿勢を変えることはしませんでした。
 悲しい事実ですが、学校には体罰体質が存在します。それだけに教員に影響力のある立場の人間が、少しでも体罰容認と受け取られかねない言動を取ると、教員や学校はそれを拡大解釈し、体罰の許容範囲を広げていってしまうものなのです。
 政務官という立場は、一地方の教委の指導室長などとは次元の違う影響力を有しています。「ヤンキー先生」というネームバリューもその影響力を増幅します。これは、本当に文部科学省の公的見解なのでしょうか。自民党の共通見解なのでしょうか。そうであるならば、国民の代表が集う国会の場で、学校教育法の改正という形で正々堂々と投げかけてほしいものです。荒れた学校で教員をしていたという義家氏の間違った個人的信条で学校教育をゆがめることはあってはならないと思います。

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