ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

暗黙知

2008-10-31 07:46:10 | Weblog
推薦廃止(10月29日)
 大分県教育委員会は、教員汚職事件を受け、校長と教頭の昇任試験について、これまで出願時に必要だった市町村教育長らの推薦を廃止し、年齢などの受験資格を満たせば自由に受けられるようにするなどの改善策をまとめたそうです。昇任が、上司との関係などに左右されないようにするのが狙いだということですが、これでよいのでしょうか。
もちろん、年齢や教職年数などの条件を満たし、本人が管理職として力を振るいたいという意欲をもっている人が、上司から嫌われているために受験できないというのでは、困ります。私が勤務していた教育委員会でも、推薦が受験の必須条件ではありませんでした。
 しかし、筆記と論文だけで決めるのがよいのでしょうか。教諭から教頭を目指す場合、普段の職務遂行ぶりを毎日見ている校長や教頭といった上司の人物評価は不要なのでしょうか。校長や教頭もまた教育委員会から評価されています。好悪感情に左右されたいい加減な人物評価をしていては、自分の評価が下がってしまうはずです。校長や教頭と言った管理職であれば、職務遂行上、直接教育委員会の職員と接触することが多く、市町村教育委員会が信頼性の高い評価を行うことが可能であるはずです。
そしてこうした「人物評価」は、長年学校教育に携わってきた校長や教育委員会の幹部職員であれば、概ね間違わないものです。勘というと非科学的という人がいますが、いわば長年の経験の中で培われた「暗黙知」なのです。暗黙知ですから、観点別に基準を設け数値化するということが難しい部分もあります。しかし、こうした「暗黙知」を軽視し、透明化を求めるばかりに、筆記や論文といった客観的といわれる評価に偏り、民間人など外部の門外漢を面接官にするなどの改革を進めすぎれば、かえって適材適所の人事が行えない可能性があります。
 私自身、多くの教員の評価を行い、面接官や論文の採点を行った経験がありますが、そうした経験からも「暗黙知」を軽視してはいけないということを痛感しています。今、教員採用や昇任人事などにまつわる不信感が蔓延しています。こうした時勢を考えると私のような考え方は批判が多いと思いますが、安易にこうした時勢に妥協し、形式的な選考に陥らないようにしたいものです。
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甘い?処分

2008-10-30 07:51:29 | Weblog
教育審議監の処分(10月27日)
 大分県教育委員会の汚職事件の中心人物である富松氏が、教員の昇任について20万円の商品券を受け取っていたという容疑で起訴された件について、教育委員会が処分するための事実確認を行うために面談を申し込んだにもかかわらず断られたため、起訴休職処分にしたことについて、「そんな大甘な処分では~」と苦言を呈する読者からの投書が掲載されていました。
 気持ちは分かりますが、感情論です。当人にとって不利益な処分は憶測や噂ではなく事実に基づいて行われなければならないというのが、公務員の処分における大原則です。このことについては、多くの人が首肯されると思います。ですから、教育委員会は、事実確認のために面談を要求したのです。これはあくまでも要求であり、命令ではありません。体調が悪いといって自宅療養している人に対し面談を強要する権限は教育委員会にはありません。そんなことができるのは捜査権をもつ警察だけです。事実確認ができなければ処分はできません。そこで、起訴されたという事実に基づいて処分を行ったのです。そして、富松氏がこのまま面談を拒否していても、有罪が確定すれば免職にすることができます。大分県教育委員会は、富松氏を庇って甘い処分をしたのではありません。現行法規の中で可能な手だてをとったに過ぎないのです。そもそも、全国から批判され、厳しい目を注がれている大分県教育委員会にとって、富松氏を甘やかすことによる利益もなければ、甘やかす動機も存在しません。むしろ可能であるならば、即座に懲戒免職にしたかったはずです。私自身、教育委員会で人事や処分を担当していたとき、何度「この野郎」という気持ちに駆られたか、数え切れません。それでも、そんな気持ちを抑え、根気強く事情聴取を行い、話の矛盾点を付き、話した内容を調書にまとめ、調書を見せて本人に確認印を押させるまで、長い時間を費やしたものです。この手続きを疎かにすれば、裁判に訴えられたとき敗訴することになり、結果として市民に大きな迷惑をかけることになってしまうのです(慰謝料は税金で支払われるのですから)。
 そうはいっても、そんな規則そのものがおかしいという人がいるかもしれません。では、事実確認なしに処分できるように規則を改めればよいのでしょうか。そうなれば、任命権者が恣意的に懲戒権を行使できることになり、公務員は上司の顔を見てビクビクしながら職務に当たることになり、その悪影響は全ての市民に及ぶことでしょう。そもそも、公務員や教員になろうという人が激減してしまい、優秀な人材確保ができないことになってしまうでしょう。
 感情論で大分県教育委員会を批判することが大分県の教育を再生させることにつながるのではないこと、むしろ再生への努力の足を引っ張ることを理解すべきだと思います。
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体罰幻想

2008-10-29 08:06:10 | Weblog
橋下知事発言2(10月27日)
昨日紹介した教育討論会で、橋下知事は「ちょっと子どもをゴッツンとしようものなら、やれ体罰だと叫ばれる。これでは教育はできない。どこまで認めていくのか、家庭地域と合意を形成していきたい」という趣旨の発言をしたそうです。学校教育法第11条で体罰は禁止されています。法律家である知事はそんなことは百も承知でこの発言をしたのでしょう。知事と同じような考えの人は少なくありません。でも、私は反対です。
 以下の『 』内は、ある新聞の「学校と私」というコラムの中の一文です。『小学校四年の時に、女性の先生が男の子を平手でたたいたことがありました。授業中に席を立ったり窓から外を見たりしていた男の子でしたが、先生が「何度言ったら分かるの」と注意し思いっきりほおをたたきました。先生が手を上げられたのはショックだったけど、先生は男の子を抱きしめて泣きました。男の子も泣き、クラス全員が「ワーッ」と泣きました。先生はまだ独身で、姉でありお母さんのような存在でした。暴力との線引きは必要ですが、先生が心を込めた平手打ちだと子供心にも分かりました。その子のために、体を張って守ってあげたいと考えていたと思います』。体罰と暴力の間には線引きが必要だという話です。知事の考え方と同じ発想です。体罰と暴力は違うものであるという考え方は理解できますが、両者の間に線引きが可能であるという考え方は現実的ではありません。
 私が関わったいくつかの事例をあげてみます。
 部活の試合で動きの悪い生徒に対して、前後半の間の休憩中、腕を強く引っ張りディフェンスの動きを指導していた教員が、体罰をしたということで処分を受けたことがありました。このことについて保護者説明会をしたとき、「そんなことが体罰になるのか」と疑問を示した保護者がいました。また、音楽会の練習のとき、再三の注意にもかかわらず一人だけ整列しないでよそ見をしていた児童の肩を強く押して列の中に戻した教員が、体罰で処分を受けたとき、保護者の中に「校長はこんなことまで教育委員会に報告するのか」と言った保護者がいました。最初の事例の教員は、休日を返上して部活の指導にあたる熱心な教員で、多くの保護者が、「こんなことで先生が部活の指導をはずされたら子どもたちが悲しむ」と教員を擁護しました。
 次の事例では、体罰を受けた児童の保護者自身が、「先生のおかげでウチの子は明るくなりました。先生には感謝しています」と言っていました。
 これらの事例は、体罰を受けた児童・生徒ではなく、その現場を目撃していた他の児童・生徒の保護者から校長に訴えがあり、体罰の事実が明らかになったものです。このことは、腕を強く引っ張るとか肩を強く押すというような行為に対し、ほどんど気にならないという者(教員を擁護した保護者やその児童・生徒)と恐怖心を感じる者(保護者に訴えた児童・生徒と保護者)がいるということを示しています。
 実際、最初の事例では、保護者説明会の後、二人の保護者が校長を訪ね、「保護者会では、みなさんが先生の味方という雰囲気だったので言えなかったが、ウチの子どもは先生を怖がっている。部活の練習も厳しすぎて一学期で辞めた。今年はしょうがないが、来年度はウチの子の担任の学年からははずしてほしい」と訴えています。
 体罰と暴力の間に線引きをするということは、この程度のことに恐怖を感じるのは異常だと言うのと同じことで、教員が子どもに物理的な力を行使するということに恐怖や嫌悪を感じる子どもの心情を無視することなのです。十人の子どもがいて、六人はビンタされてもさほど気にせず、四人は怖くて学校に行けなくなったという場合、「平気な子どもの方が多いのだから体罰ではない」ということになるとしたらどうでしょうか。また、殴るという行為の有無ではなく、そのことに対する感じ方が体罰か否かを決定するということになれば、人気のある教員は殴っても体罰にはならないのに、人気のない教員は軽く押しただけで体罰になるという事態が生じます。こうなれば、体罰教員を処分することは事実上不可能になります。こんな状況の中で処分をすれば、処分を受けた教員が「アイツは三回も殴ったのにお咎めなしで、自分は一回叩いただけで戒告処分なんて承伏できない」と不服申し立てをするのは必至だからです。結果として、悪質な「体罰」も放置されることになります。
 また、普段から子どもの人気を得ておけば多少のことは大目に見られるということになり、教員と子どもとの関係が不純なものになってしまう危険性があります。子どもにおもねる教員が現れたり、教員と子どもの間で「友達が殴られているのを見ても気にならなかったと言ってくれ。言ってくれたら…」というような取引が行われる可能性さえあります。まさか、と思う人がいるかもしれませんが、体罰の訴えが出された後、その生徒に「校長に訊かれても、、先生には殴られてないと言ってくれ」と迫った教員は実在するのです。
 さらに、最大の問題点は、体罰を訴えた子どもなり保護者が、「おまえが余計なこと言ったおかげで先生が処分を受けた。先生のやり方に文句があるのならおまえが出て行け」と、他の保護者や子どもから村八分に遭うという状況が生まれるということです。実際、体罰などで教員を訴えた保護者の子どもが転校していくという例は少なくありません。こうしたケースの中には、その教員や学校に愛想を尽かして出ていくという場合もあるでしょうが、転校に追い込まれるというケースもあるのです。まさに、「正直者が馬鹿をみる」の典型です。
 今まで述べてきたように、「体罰と暴力の間に線引きが可能である」という考え方には、問題が多いのです。線引き可能論者の中には教員も多く、体罰についての研修を行うと、「~することは体罰になりますか」と訊く者が必ずいます。この質問の背景には、体罰にならない範囲(体罰として処分されない範囲)で力で押さえ込もうという発想があるのです。こうした発想の教員がいる限り体罰はなくなりませんし、体罰に傷つく(体罰を受けた子どもに限らない)子どもは後を絶たないのです。そして、長年学校教育に携わってきた者としては「責任転嫁」と言われるかもしれませんが、体罰暴力線引き可能論の保護者の存在が体罰をなくす上での大きな障害であると思うのです。
それでも、愛情に基づく体罰と暴力は異なり、愛情に基づく体罰は必要だと主張する人がいるかもしれません。愛情の基盤に立った体罰なのか暴力なのかは、当事者である子どもの声を聴けば分かるはずだという人もいるかもしれません。そこで次の事例についても考えてみたいと思います。
『愛媛県四国中央市の小学校で行われているスポーツ少年団の保護者から、コーチの四十代男性が今年八月、女子児童を裸で体育館内を走らせるなどしたという訴えが市に寄せられていることが十一日、分かった。この男性は同市職員で、走らせた後は裸のまま体育館内で正座させて説教をしていたともいう。男性は市に対し、裸にした事実を否定しているが、頭を叩くなどの体罰もしており、児童が恐怖感を訴えているという』。先ほどのコラムが掲載されてから数日後の同じ新聞の記事です。
 大変腹立たしい事件です。このコーチのしたことは弁解のできることではなく、ことの是非を論じるつもりはありません。
私は長年、小学校の学級担任教員をしてきました。そのうち、十二年間を五・六年生の担任として過ごしてきました。それほど指導力がある教員ではなかった私は、高学年の女子児童の指導にはいつも苦労をしました。そんな私にとって、このコーチが女子児童を裸にすることができたということは驚きでした。何を的はずれなことを言っているんだと思われる人もいるかと思いますが、もう少し続けて読んでくださるようお願いします。
 言うまでもないことですが、高学年の女児にとって、他人の前で裸を見せるということは大変な苦痛です。まして、異性の前でということになれば耐えられないほど恥ずかしく屈辱的なことです。どのような指導力があり、説得力があり、子どもから信頼されている教員であっても、「裸になりなさい」「はい」とはならないはずです。まして、集団心理というものが働き、一人では教員に逆らえない子どもでも大勢集まれば教員のいうことに反対したり、間違いを指摘したりするものなのです。「何いってるの」「エロい」「ロリコン親父」などの声があがるのが当然なのです。それにもかかわず、この事件ではコーチは女児を裸にしているのです。
 記事では、このコーチは暴力をふるうこともあったと書かれており、コーチは暴力によって子どもたちを支配していたのではないかと思います。一昔前に流行った言葉ではありませんが、「マインドコントロール」というものです。コーチの暴力に支配されていた女児たちは、コーチの前では精神的な奴隷になっていたのでしょう。
 私が教育委員会に勤務していたときにも、暴力で子どもを支配している教員がいました。あるとき、教育委員会にかかってきた匿名の電話で某小学校のA教員が日常的に体罰を繰り返しているという情報がもたらされたのです。校長に連絡して調べさせると、同僚の教員がA教員の体罰を目撃していることが分かりました。校長がA教員を呼んで問いつめると、体罰をしていたことを認めました。
 校長から連絡があった直後、A教員が担任をしていた児童の保護者が大挙して、教育委員会に押しかけてきました。私は、A教員への不満を訴えたり、これまで放置していた校長や教育委員会の責任を追及したりするために来たのだと思い、保護者の前に出ました。ところが、保護者が口々に言うのは、「A先生のような素晴らしい先生はいない」「子どもたちもA先生を尊敬している」「子どもを叩いたことはあるかもしれないが叩かれた子どもも自分が悪かったと反省している」などとA教員に対する賛辞なのです。どんなによい教員であったとしても体罰という行為は許されないと伝えると、「子どもも親も納得しているのだから体罰ではない」「A先生を処分するようなら、私たちはA先生を守る運動をする」とまで言うのです。予期しない保護者の反応をもてあまし気味だった私が、「皆さんはA先生が体罰するところを実際に見ていたわけではないでしょう。目の前で我が子が殴られているのを見てもそうおっしゃいますか」と言うと、「私たちは、子どもから話は聞いていますが、子どもは『何回も注意されているのに言うことを聞かなかった自分が悪い』と言っています。叩かれた本人がそう言っているのですから、A先生が素晴らしい先生だということが分かるでしょう」という返事が返ってきます。
 結局、校長を通じて厳重注意ということでA教員に対する処分は行われず、その年度末にはA教員は他の区の学校に異動していきました。翌年度の四月末、その小学校の校長が教育委員会にやってきました。昨年度A教員のクラスだった子どもたちが、A教員に対する不満を言い始めたというのです。子どもたちの話を聞いてみると、体罰は特定の子どもに集中し、叩くだけではなく、窓から落とされそうになる、教材準備室に閉じ込められるなどすさまじい様相であったことが明らかになりました。A教員は、校長なんか怖くないとも言っていたらしく、子どもたちはA教員が怖くて逆らうことはもちろん、学校を休むことさえできなかったというのです。当然、体罰についての調査があったときにも、A教員を非難することはできなかったというのです。保護者は、子どもたちの言葉をそのまま信じ、保護者会では子どもの人権を守るということについて熱く語るA教員のことを素晴らしい教育者だと思っていたのです。校長は、今までにも体罰をする教員を見たことはあるが、ここまでひどい教員は初めてだと言い、A教員の実態を見抜けなかったことを謝罪して帰っていきました。
教員の指導力不足が問題になっていますが、一方で指導力があるといわれる教員の中に、マインドコントロールの巧みな教員がいるというのも事実なのです。こうした教員は少なくありません。教育委員会に勤務していたとき、私たちはこうした教員を密かに「指導力過多教員」と呼んで警戒していたものです。
 つまり、教員に叩かれた子どもが、「僕が悪いんで先生が悪いんじゃない。先生は立派な先生です」と言ったからといって愛情に基づく指導としての体罰であったとはいえないのです。 愛の鞭幻想は、個人の思い出やドラマの中だけにとどめておいてほしいものです。
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1割のダメ教員

2008-10-28 08:20:23 | Weblog
橋下知事発言1(10月27日)
 26日に行われた教育討論会に出席した橋下知事が「1割のどうしようもない先生を排除してください」と発言したそうです。橋下知事らしい、何の根拠もない閃き発言です。 1割という数字の根拠は何なのでしょうか。先日発表された指導力不足教員は、全国で300人余。1割はおろか0.1%にも達しない数です。セクハラやわいせつ行為などで処分される教員も1%以下です。では、1割までの残り9%はどんな教員なのでしょうか。 確かに組織を考えるとき、全体の1割くらいの落ちこぼれがいるというのは常識です。これは教員に限らず、会社員でも他の公務員でも同じでしょう。しかし、「あなたはどうしようもない」といって1割の社員をクビにする会社があるでしょうか。ありません。どこの企業でも官庁でも、トップはそうしたいと思っているでしょうが、そうはできないというのが現実というものです。橋下知事の足下の大阪府の知事部局の職員でも同じでしょう。
 特に、公務員をクビにするのは簡単なことではありません。指導力不足教員の認定のためには、校長以下、教育委員会の担当職員が長期間にわたって指導し、その結果を記録にとり、「不当解雇だ」と裁判を起こされても負けないだけの証拠固めをした上で、分限免職を言い渡すという手続きが必要なのです。法律家である知事が、そうしたことを理解していないはずはないのに、安易に府民を扇動する行為は、光市母子殺人事件の弁護人を巡るトラブルを想起させてしまいます。
 さて、仮に1割の教員をクビにできるとして、実際にクビにしたらどうなるでしょうか。1割の教員を補充しなければなりません。通常の採用数の10倍近い大量採用が必要になります。集められるのでしょうか。倍率が下がれば合格者のレベルが下がるというのは常識です。そうなればかなりレベルの低い人物まで採用しなければならなくなるでしょう。決して、大阪の教育がよくなるとは思えません。
 教育の問題を教員の問題に単純化したり、よい教員と悪い教員に分けて悪者を創り出したりすることで解決できるほど、学校教育が抱える問題は簡単なものではありません。大向こう受けする感情論ではなく、苦しくても現実に立脚した解決策を模索する態度が求められています。
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会費横領

2008-10-27 08:09:50 | Weblog
PTA会費横領(10月24日)
 大阪府東大阪市の市立英田北小学校の元PTA会長の男性が、会費を私的に流用していたそうです。告発した保護者は、「学校や市教育委員会の調査は不十分。PTAの体質改善のためにも厳正な捜査、処罰が必要だ」と話しているそうです。
 この保護者の気持ちはよく理解できますが、誤解に基づいた部分があると思います。PTAの会計監査は学校の仕事ではありません。PTAは学校とは別の組織であり、会全体の責任は会長にあり、会長の不祥事を関知できなかったのは、補佐の役割にある副会長や会費の支出を担当する会計の責任です。この学校の場合は分かりませんが、多くの学校では、校長はPTA内で何ら役職に就いていないのです。また、PTAは教育委員会何の事務分担に従えば、社会教育関係の部課が担当であり、学校教育を担当する部課の管轄ではありません。しかし、この保護者のように、多くの保護者がPTA規約を熟読することもなく、PTAを学校と一体化した組織、学校の下請け組織のように認識しているのです。しかし、こうした保護者が不勉強であると非難することもできません。なぜなら、実際には、校長や副校長がPTAの広報紙をチェックしたり、PTAの仕事を代行していたりする現実があるからです。そして、こうした事務が学校、特に副校長や主幹など幹部にとっても負担となっているのです。ここにも我が国特有の学校依存体質の弊害が現れています。
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意欲的な取り組み

2008-10-26 08:05:01 | Weblog
他学年参観 自主性生む(10月23日)
考える力を育成することをねらって、他の学年の授業を参観する試みを行っている小学校の実践が紹介されていました。同じような実践に取り組んでいる学校は他にもありますが、まだ多くはありません。意欲的な試みとして紹介されているのですが、一般の読者はこの記事をどのように読むのでしょうか。
 この記事を読んで、他の学年の授業を見ている児童は何の授業を受けているのか分かる人はどれくらいいるのでしょうか。小学校で行われる授業は、教科、道徳、特別活動、総合的な学習の時間のいずれかです。おそらく「総合的な学習の時間」でしょうが、道徳や特別活動の授業だという可能性もあり得ます。
 道徳にしろ、特別活動にしろ、「総合的な学習の時間」にしろ、学校で行われる授業には全て学校の年間計画があり、その計画に基づいて事前に今日はこういう授業をするという計画を校長に提出し許可を得る必要があります。さらに、全ての授業において評価が行われなければなりません(ただし、評価とは点数を付けたり順位を付けたりすることではありません)。この評価は教員が恣意的に行ってはならず、評価の基準を設けなければなりません。これらの条件が揃って初めて授業を行うことができるのです。もちろん、この小学校では、こうした条件を全てクリアしていることと思われます。そして、この試みの評価は、こうした指導計画や評価計画を精査した上でなければできないはずなのです。でも、この記事では紙面の関係もありそこまでは書かれていません(取材はしたと思われます)。学校が新たな取り組みを始めるときに一番大変なのが、こうした条件を整えることなのです。
 学校教育は意図的な営みです。思いつきや模倣で行うことはできないのです。なぜなら、公的機関として説明責任があるからです。学習指導要領のどの部分を受け、どのような成果が見込まれ、成果の有無はどのように検証されるのか、上司の許可の下できちんと行われているのか、ということがきちんとしていないと、何か問題が生じたとき非難されるからです。実は、かつては、学校はこうした公的機関であるという意識が乏しかったのです。もちろんそれはいけないことなのですが、そのことが学校や教員の意欲的な取り組みを可能にしていた面もあったのです。人々が学校に公的機関としての説明責任を求め、教員に公務員としての側面を強く求めるようになることが、学校の意欲的な取り組みを阻害している側面もあるのです。
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通知行政

2008-10-25 16:11:38 | Weblog
給食指導徹底通知(10月22日)
 千葉県で小学校6年生の男児が給食のパンをのどに詰まらせて窒息死した事故を受け、文部科学省が、よく噛んで食べることの指導を徹底するよう各都道府県教委に通知したとのことです。これがいわゆる「通知行政」です。教育行政に携わったことがある者としては、この後の流れ、情景がはっきりと浮かびます。教育委員会は校長宛に通知分を送付するとともに、校長会、副校長会において教委担当者から口頭で指導の徹底を求めます。更に、給食主任なり学校栄養士なりを招集し、学校における給食指導の徹底を指示します。 こうしておけば、文教委員会で、「今回の千葉県での事件をどう考えるか。また、本市における学校給食の実態に問題はないと考えているのか。どのような対応をしたのか」という追及に対し、「子どもの生命・安全を守るはずの学校で、このようなことは絶対にあってはならないことであると考えております。教育委員会といたしましては、事の重要性に鑑み、早速、○日に各校の給食主任を集め、直に学校給食の実態や問題点の把握に努めたところでございます。その結果、現時点では、大きな問題はないということが明らかになっております。しかし、そのことに安心することなく、今後も指導の徹底を図ることを文書で通知するだけではなく、校長会・副校長会等で周知を図ったところでございます」と答えることができるわけです。そして、それで終わりです。こんな通知をしなくても、元々、どの学校でも、給食指導はしているのに。
 この一連の対応にはほとんど予算を必要としません。必要なのは対象となる教職員の教育委員会への交通費だけですから。よくも悪くも、これで関係者は皆責任を果たしたことになります。そして、学期末か、年度末に教育委員会は、「学校給食指導について」というA41枚の調査用紙を配り、指導の状況について各校に報告を求めることになるのです。思い出したように議会で質問されたときの対応です。様々な分野で、こうしたことが繰り返される結果、学校はほんの少しずつ事務量が増えていきます。毎年毎年こうしたことが積み重なり、学校事務は肥大化し、その分本務である授業が疎かになっていくのです。事故の度に世間は騒ぐ。そして世間は忘れても学校にはお荷物が積み重ねられていくのです。そして教育の質が低下していくのです。騒ぎすぎが結果として、子どもにプラスにならないことを理解してほしいものです。
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教員の給与

2008-10-24 08:07:52 | Weblog
教員の給与(10月20日)
この記事は、教職調整額を廃止し、教員にも残業代を認める動きがあることを報じ、そのことによって教員の仕事ぶりが変わる可能性があることを指摘しています。その背景には、教員給与が一般公務員よりも高く恵まれている、学力低下が問題となる中で、米国やドイツなどの先進国よりも高く、OECDの学習到達度評価世界一のフィンランドの一.五倍という水準であり、教員給与を下げる必要があるという認識があります。この記事は、最後の部分で「かえって給与総額が増える可能性がある」「そもそも本当に教員給与を下げる必要があるのか」という疑問を提示していますが、同感です。
 教職調整額は時間外勤務手当に代わるものとして位置付けられています。月当たりの勤務日数は二十二日程度ですから、一日八時間で計算すると百七十六時間となり、その四%ということは、一月約七時間分の時間外勤務に相当することになります(実際には、時間外勤務手当は通常勤務に比べて支給額が高いのが通例だがここでは同額と考える)。月に七時間ということは、三日に一回、一時間の残業という計算になります。
 現代の労使関係は、働いた分については報酬を与えるという原則で成り立っています。逆にいえば、報酬を与えずに働かせることはできないということです。つまり、教員は一月に七時間以上時間外勤務をすると働き過ぎになるということなのです。しかし、実際には、学校の教員で午後五時以降に勤務した時間が月に七時間以下という人はほとんどいません。教員は日常的にサービス残業をしているということなのです。
 私はいくつかの教育委員会に勤務してきましたが、教育委員会の職員は、市長部局の職員と同じように時間外勤務手当を受け取っています。二日に一時間の時間外勤務をしたとしても、月に十一時間になります。私が課長を務めていた課では、五十時間を超す者も珍しくなく、課長よりも手取額が多いという職員も珍しくありませんでした。私の甥と姪が今年民間企業に就職しましたが、残業時間は月四十時間を超えています。こうした実態から考えてみても、教員に想定されている時間外勤務というものが非常に少ないことが分かります。
 だからというわけではありませんが、校長は緊急な場合を除き、規定されている場合にしか教員に対して時間外勤務を命ずることができないことになっています。東京都の場合、・生徒実習にかかわる業務、・学校行事に関する業務、・職員会議に関する業務、・非常災害に関する業務(超勤四項目と呼ばれる)などに限られています。これは、どこの自治体においてもほぼ同様な規程になっています。
 具体的にいうと、その日学校で怪我をした子どもがいて、保護者が勤めから帰った時間にお見舞いに行った方がよいと校長が思っても、教員に対して「五時半になったら○○君の家にお見舞いに行って来なさい」とは言えないということなのです。もちろん、実際には、多くの教員はお見舞いに行っていますが、あくまでも自主的にということなのです。
また、教員は勤務の特殊性から、いわゆる昼休みをとることができません。多くの学校では、教員の勤務時間の割り振りは次ページのようになっています。休憩時間とは、企業や官庁では昼食の時間帯に置かれていることが多く、自由に外出できる時間です。教員は給食指導があるため、昼食の時間帯ではなく、午後四時以降に休憩時間が置かれているのです。したがって、この時間帯は、教員は喫茶店にコーヒーを飲みに出かけても、パチンコをやりに行ってもかまわない時間であり、校長が教員に勤務を命ずることができない時間なのです。たとえば、外部から電話がかかってきても「電話が鳴っているから出てください」とは言えないし、保護者が訪ねてきた場合でもきちんと話を聞いてあげなさいと言うことができないということなのです。しかし、実際は、この時間にもほとんどの教員が校内におり、教員にとっての休憩時間であることなど気にしない(知らない)地域の人や保護者、役所の関係者や警察・消防の職員などが相談や打ち合わせに訪れているのです。子どもも「先生」と言って教員室に来ます。それらに対して知らん顔をするわけにも、「休憩中だから後で」とも言えずに、仕事をしているのが現実なのです。
さらに、近年、教員の職務は多忙化しています。また、開かれた学校が標榜され、地域行事や会合等への教員の出席が求められることも増えています。地域の人は、校長が「○○先生、今日は午後六時からの地域の育成会の会合に出てください」と命じれば済むと簡単に考えているようですが、校長は、教員に時間外の勤務を命ずることができず対応に苦慮してきたのです。 もし、「教職調整額」が廃止されるようになれば、当然のこととして、他の公務員と同じように時間外勤務手当が支給されることになるはずです。そして、校長は必要に応じて時間外勤務を正式に命ずることができるようになります。教育委員会の指導室長として校長の苦労を目の当たりにしてきた私としては、「教職調整額」の廃止は是非進めてほしいと思います。年金への反映もなくなり、大変すっきりした形になると思います。
 もちろん、新たに毎月の時間外勤務手当に関する支出が増えることになります。平均毎月二十時間の時間外勤務手当を支給すると考えて計算してみます。給与を四十万円とすると、時間給は二千二百七十円になりますから、増加分は二千二百七十×十三(二十―七)=二万九千四百十円になります。十二ヶ月では、三十五万円余りとなります。しかし、時間外手当は賞与には反映されませんから、年間では、二十九万円ほどになります。東京都の場合、約六万人の教員がいますから、百七十四億円が新たに必要になることになります。言い換えれば、今まで、教員は、「教育者であるという誇り」に基づいて、自主的にこれだけの無料奉仕をしてきたのです。教職調整額を廃止し、他の地方公務員と同じように時間外勤務手当を支給する制度に切り替えることにより、教員も特別な職ではないということが明確になります。学校は教育というサービスを提供するサービス業であるという流行の考え方にはあっているのだと思いますが、そのことが、学校教育の改善に資することにつながるかどうかは怪しいと思っています。教職調整額の廃止を主張する人はこの辺りをどう考えているのでしょうか。
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万引き

2008-10-23 07:42:08 | Weblog
万引きは誰が(10月20日)
 社説の中で、高校生の16%が、「万引きはよくはないが大したことではない」と考えていること、保護者も万引きを軽視しており、「盗品を買い取れば盗みではない」と主張したり、補導は行き過ぎだと主張したりするという現状をあげ、善悪の価値観をしっかりともたせることが大切だと結ばれていました。
 そのとおりですが、誰がそうしたことを教えるのでしょうか。もちろん、家庭です。親が教えるのです。私が5歳くらいの頃、おもちゃ屋さんの前でいろいろなおもちゃを眺めていたら、店の人が「欲しいの」と言って小さな電車のおもちゃをくれたことがありました。喜んで母に見せに行くと「これどうしたの」とものすごい形相で怒り出しました。「もらった」と言っても信用してくれません。「盗みはいけないことだし、嘘をつくのもとてもいけないことだ」と言い、おもちゃ屋まで私の手を引いて連れていき、店員さんに問い質しました。その結果、疑いは晴れたのですが、この思い出は私にとって決して忘れることができないものになりました。そのせいか、今でも嘘をつくのが下手になってしまったくらいです。
 しかし、現状はこうはなっていません。万引きがあると、多くの店は学校に連絡をしてくるのです。休みの日に学校に連絡が来て、担任と副校長が1時間以上かけてその見せに出向き、頭を下げて子どもをもらい下げて来るというようなことが繰り返されているのです。ある店の人は、保護者はお得意さんなので学校の方が言いやすいと言い放ちました。どうして、学校外でしかも休日に起こったことまで学校が責任をもたなければならないのでしょうか。
 人間としての基本的な倫理観の醸成は家庭の役割です。ここでも、安易な学校依存が見られるのです。
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味覚教育

2008-10-22 07:52:42 | Weblog
味覚教育(10月19日)
 フランスで70年代から取り組まれている「味覚教育」について、わが国でも取り組んでいる教員の実践が紹介されていました。実践されている教員はなかなか指導力のある教員であるという印象を受けました。紹介されているやりとりから、生徒に対する質問の仕方がよい意味で生徒を追い込んでいくように構成され、生徒の感覚を尊重しながら教員が意図する方向に進める腕をもっていると思われたからです。
 実はここに問題があるのです。今、学校には、○○教育と呼ばれるものが大量に持ち込まれています。消費者教育、環境教育、福祉教育、人権教育、租税教育など一般的なものから、服飾教育、銃教育、北方領土教育など最近になって導入が提唱されているものもあります。全国で行われている○○教育は、100を超えるといわれています。これらが、学校教育を圧迫し、教員の多忙化に拍車を掛けているのです。しかも熱心な教員ほど、こうした教育課題に真剣に取り組み、その結果、有為な人材が過労に倒れたり、燃え尽き症候群に陥ったりしてしまうこともあるのです。
 学校教育はブラックホールではありません。時間も、教員の数も、教育予算も、カリキュラムもある一定の限界の中で営まれるものなのです。何かを加えるのであれば、何かを省略したり軽減したりしなければ、破裂してしまうのは当然の理屈です。
 教育は学校だけが行うものではありません。家庭や社会がそれそれの場でそれぞれの特性・機能を発揮して行われるべきものです。しかし、わが国では、教育問題=学校教育の問題というような意識が強く、必要な教育課題は全て学校に委ねようとする姿勢が顕著です。学校は何をするところであるかという原点を確認し、本当に学校でしか行えないもの、学校で行う方が効果的であるもの、学校以外で行うべきもの、学校以外で行った方が効果的であるものを精選し直すことが必要です。安易な学校依存は、学校の活力を減退させ、結果としてわが国の教育全体を衰退に導くことにつながりかねません。
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