ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

それができれば苦労はしない

2024-06-17 08:21:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誤解」6月11日
 専門記者大治朋子氏が、『「もしトラ」のトリセツ』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、『トランプ前米大統領を「いじめっ子」に例えたある政治家の発言』を紹介しています。『いじめっ子に屈すると、さらなるいじめにあう』です。
 元豪州首相ターンブル氏の言葉だそうです。ターンブル氏は、トランプ氏との1対1の交渉の場に臨むとき、『各国の指導者がやってしまいがちな「へつらい」は禁物だという。「いじめ」、つまり過酷な要求がエスカレートし、「権力と気まぐれ」の支配を強めるのがオチ。トランプ氏から敬意とそれに伴うフェアな合意を勝ち取りたければ、まず「立ち向かうこと」が唯一最善の方策だ』としているのです。
 いじめに一度屈してしまうと、さらなるいじめを呼び込んでしまう、これは誰しもが感じていることですし、真実でもあります。学校におけるいじめでも同じことが言えます。30年ほど前、いじめが社会問題化したとき、多くの人がそれぞれの立場から意見をぶつけ合いました。その中の一つに、この「いじめに屈するな」論がありました。しかもかなりの支持を集めて。
 教員の中でも、この論の支持者はたくさんいました。彼らは、子供たちに向かって、「いじめにあったら、先生に言え。先生が味方になるから、一緒になっていじめに負けずに立ち向かおう」という趣旨の働きかけが有効だと考えていました。
 いじめで苦しんでいる子供が、あるいは次のいじめの矛先が自分に向くのではないかと恐れている子供が、いじめっ子にへつらい、卑屈にオドオドと接するんではなく、立ち向かう道を選んでくれたらいいのに、と私も考えていました。でも決して口にはしませんでした。
 それは、この考え方は理想論であり、非現実的なものだからです。私が一人で街を歩いているとき、一見して反社と分る5~6人の集団とすれ違い、わざとぶつかってこられたとします。ぶつかってきたのは相手側です。でもおそらく私はすぐに「すみません」と口にし、うつむき加減のまま足早に立ち去ろうとするはずです。「どこに目玉付けてんだ」と怒鳴られても、すみませんを繰り返して一刻も早くその場を立ち去ります。
 誰でもそうでしょう。「ぶつかってきたのは君たちの方だろう。謝りたまえ」と顔を上げて言い返せる人はいないと思います。理由は怖いからです。同じなのです。いじめの被害者は怖くてたまらない心理状態なのです。
 相手にはとてもかなわない。周りに人はいるけど助けてはくれず、見てみぬふりをするだけ、可哀想にと同情はしても自分の身が可愛いから何もしてくれない、と考えてしまうのです。反社の人間に毅然として言い返せというのが、非現実的なように、いじめ被害者に「立ち向かえ」というのは非現実的なのです。
 こんな何の役にも立たない「立ち向かえ」論を振りかざす教員は、いじめ被害者に、この先生は何も分かっていない、何の役にも立たない存在なのだという絶望感を与えるだけなのです。子供に対して強い影響力をもつ担任の自分が味方に立てば、いじめっ子もいじめをやめるだろうなどと考える能天気な教員は、教員の目が届かない場所や時間がどれほどあるか、考えたことがない愚か者に過ぎません。
 トランプ氏はたしかに「いじめっ子」ですが、ターンブル氏もまた百戦錬磨の政治家です。だからこそ「立ち向かえ」論が意味をもったのです。いじめの被害者は、ターンブル氏のような強者ではありません。教員は、被害者に強者たれと説く愚を犯してはなりません。そうではなく、教員が一人ででもいじめと向き合い闘うのです。

 

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