「データの解釈」9月22日
『シュートわずか4本で1ゴール 150得点興梠の決定力』という見出しの記事が掲載されました。『Jリーグ戦で史上6人目の通算150得点を達成した』興梠選手についてその特徴を分析した記事です。
記事によると、興梠選手の特徴は、『今季は出場13試合でシュート6本ながら3得点。決定率の高さが際立つ』ことだそうです。通算得点ランキング上位選手と比べても、大久保は6.0本で1点。佐藤は4.5本で1点。マルキーニョスとジュニーニョは7本以上で1点。興梠は4.1本で1点ということで、決定率が高いというわけです。
記事ではこの決定率の高さをもって、興梠選手のストライカーとしての能力を評価しています。そうなのかなあ、というのが私の疑問です。サッカーにおけるシュートの決定率は、野球における打率とは違います。野球では、自分の力で他席に立つ回数を増やすことはできません。一方でサッカーでは、自分のポジショニングや身体能力、ゴールへの嗅覚、アグレッシブなプレースタイルなどによってシュート機会を増やすことができます。
つまり、興梠選手は、FWであるにもかかわらずシュート機会を得ることに貪欲でない、という解釈も可能なのではないか、ということです。サッカー解説者はよく「シュートで終えることが大事で、チームにリズムを作る」という趣旨の発言をします。外れても一連のプレーをシュートで終える方が、相手にボールを奪われて終わるよりもよいという考え方に立てば、シュート数の多い選手の方がチームに貢献していると考えるのはおかしなことではありません。
なぜこんなことを長々と書いているかというと、ある事実やデータの解釈は、一通りではないということを言いたいからです。私は、学校教育に関しても、政治家や評論家といった人々から、あるデータについて恣意的な解釈で、新たな改革が主張され、方向性が決められてしまうことがあると考えています。
小学校における英語学習の教科化、学校選択制の導入、社会人経験者の積極的教員採用、少人数学級の推進、リモート教育の体制整備、ここ数年に限っても様々な改革が行われ、今もまた進行中です。これらの改革が、初めに推進ありきで、都合のよい解釈にもとづいて、反対論や疑問を軽視して行われてしまったという懸念が消えません。