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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

否定が正解?

2025-07-03 08:43:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「支持せず、が正しい?」6月23日
 『「反自衛隊」の意識変化 県民の世代交代 増える容認派』という見出しの記事が掲載されました。沖縄県民の意識について、『日本に復帰すると、県内に自衛隊が配備された。当初は「反自衛隊感情」が強く、隊員の住民登録を拒否する自治体もあった(略)22年に沖縄県在住者を対象に実施した世論調査では、自衛隊の強化に賛成が40%、「どちらともいえない」が32%、反対が28%。18~34歳では肯定的な意見が多く、賛成が47%、反対派21%だった』という結果を報じています。
 そしてその背景として、『(沖縄)県内では6月の「慰霊の日」前に沖縄戦に詳しい人から話を聞く機会を作るだけの学校も多い。学校や家庭で沖縄戦や基地問題について学び、話し合う機会が減っている』を挙げています。要するに、平和教育が充実していないから、自衛隊肯定派が増えているということです。
 沖縄の平和教育が、体験者から話を聞くという形が主流になっているということは、私が再三このブログで指摘してきた、戦争の怖ろしさを強調する情緒的平和学習にとどまっているということであり、それだけでは戦争を未然に防ごうと考え行動する戦争阻止教育=真の平和教育になっていないという、私の主張を裏付ける結果とも言えます。
 そのことは繰り返し述べてきたので、これ以上触れません。今回私が気になったのは、この記事が、平和教育が充実すれば自衛隊への支持は減るはずだ、という発想で書かれていることであり、自衛隊を支持しないことが平和を求める国民として正しい姿だ、という考えを根底に秘めているということです。
 そうなのでしょうか。50年前のように、全国各地で、自衛隊員の子供は入学を認めないというような運動が広がる状況が望ましいというのでしょうか。私は違うと思います。それこそ、戦争のメカニズムに無知な、戦争の歴史を知らない人の言うことだと思います。
 過去の戦争を見ると、戦争と戦争の間の期間に、軍人が軽んじられ、軍人や軍隊が自分たちは不当な扱いを受けていると不満を募らせているときに、戦争の芽が育ち始めているのです。軍はその恨みを忘れず、自分たちの存在価値を認めさせたいという願いをもつようになり、それが戦争開始の圧力となるのです。
 我が国の歴史においても、第一次大戦後、軍人への軽視の風潮が強まり、軍人は軍服で外出するのを避けるようになったということが記録されています。娘の嫁ぎ先として、軍人だけはダメだというような考え方も広がっていたそうです。
  自衛隊否定が戦争を遠ざけるのではなく、かえって戦争を引き寄せてしまう可能性さえあるのです。自衛隊は、災害救助などにより、国民の信頼を得つつあります。殺さない「軍隊」としての歴史を積み重ねてもいます。実際問題として、一定の軍事力が他国の侵略意図を低下させることも事実です。
 自衛隊を過剰にでも過少にでもなく、正当に評価することは、戦争を阻止し、平和を構築する上で必要なことなのです。もちろん、国民による統治、政治によるコントロールの大原則を厳しく適用しながら、です。
 平和教育における自衛隊の扱い方をどうするか、教員は研究と研鑚を重ねなければなりません。

 

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現実的不正義

2025-07-02 08:21:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「トランプ流はダメ」6月21日
 『イスラエルへの自制促しは困難 トランプ氏』という見出しの記事が掲載されました。トランプ氏が、『イスラエルに対してイランへの攻撃をやめるように促すことは「非常に難しい」と述べ、交戦で優位な状況にあるイスラエルを抑えるのは困難だとの見方を示した』ことを報じる記事です。
 トランプ氏は、ロシアのウクライナ侵攻について、大統領就任前に24時間で解決できると豪語していました。いまだに何ら進展がありませんが、これまでの発言から、「劣勢な方が譲歩するのが現実的解決であり、正義不正義は関係ない」という考え方をしていることは明らかです。
 今回も同じです。正義不正義、戦争で言えばどちらが先に侵略攻撃をしたかには関係なく、今優勢な方の主張が優先されるべきという考え方です。優勢であるイスラエルが戦争は止めないと言っているのだから止めさせられないという理屈です。最悪です。
 しかし、こうした考え方を現実的という一点から支持する人もいるようです。スケールは違いますが、同じような発想で問題解決に当たろうとする人たちがいます。それは、いじめ問題を加害者寄りの立場で解決しようとする教員や学校管理職たちです。
 いじめ問題は、常に加害者側が優勢です。人数も多いですし、学級内の影響力も上回っていることがほとんどです。学級内世論も、加害者側がコントロールしているケースが多いのです。そうした背景の中で、教員は「多くの子供が納得する解決には、加害者側の顔を立て、メンツを守ることが現実的で早期の実現が可能」と「冷静に」判断します。
 そこで形式的正義、つまり表面的な軽い謝罪、「いじめているつもりはなかった。ふざけて遊んでいるつもりだった。そんなに嫌な思いをしているなんて思いもしなかった。でも嫌な思いをしていたのなら、それに気付かずにごめんね」という謝罪と、悪意はなかったんだから許すのが人の道という倫理観の押し付け、その裏には謝っている相手を許さないというのなら今度はお前が悪者だからなという脅しで、双方に握手をさせ、「これでお終いにしよう。みんな同じクラスの仲間なんだから」という教員の終結宣言で解決を装う、ということです。
 こんな茶番を解決と呼ぶならば、トランプ氏ではありませんが、どんないじめも24時間で解決してみせると豪語したくなります。いじめも戦争も、正義という観念抜きには真の解決はあり得ません。
  いじめ問題解決における正義は、人権の尊重です。極端なことを言えば、被害者が加害者とは絶対に口を利かない、永久に許さないと考えているならばそれでよいのです。被害者が自分の人権が尊重された、人として認められたと考えるならば、加害者との人間関係の修復など不要なのです。学校はまず第一に正義の実現を目指す場所でなければなりません。

 

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トランプ氏と同じ

2025-07-01 08:13:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「将棋より麻雀?」6月21日
 書評欄に、作家佐藤優氏による『「老いの思考法」山極寿一著 文藝春秋』についての書評が掲載されていました。その中に気になる記述がありました。『類人猿は自分と相手の2者間で交渉する際に相手の考えを読むことができますが、人間は3者間、4者間の社会交渉でそれぞれが何を考えているかを推し量ることができます』という記述です。
 この記述を読み、正直少しがっかりしました。私は類人猿に近いのではないか、と思ったからです。私は将棋が趣味です。自分ではやりませんが、新聞の囲碁欄にも目を通します。ですが、マージャンは大嫌いです。誘われたことはありますが、断固として断りました。理由はというと、自分以外の3人の相手について心を読まなければならないのが鬱陶しいのです。混乱してしまいますし、落ち着いてじっくり考えることができないのです。
 その点、将棋はたった一人の相手の心だけを読めばいいのです。楽ですし、深く掘り下げることができます。スポーツでも同じです。バレーボールは好きではありません。12人が一つのコートで同時に動く、やはり混乱してしまうのです。中高と部活は卓球部でした。1対1で向かい合う方が性に合っています。教員になってからも、新たに馴染んだのはバドミントンと軟式テニスでした。やはり1対1です。
 つまり私は4者間の社会交渉は苦手な類人猿型の人間なのだと思い、遅れた人間であるような気がしてしまったのです。まあそれはともかく、学校教育では、類人猿型ではなく、大勢の人々と同時に関係性をもつことができるタイプを目指すべきであることは言うまでもありません。
 特にネットを通じた交流が多くなり、自分と同じタイプの「仲間」都の交流ばかりが増えていく現在、意図的に大勢の人の心を読んで行動できる能力は大事です。一時期、学校教育に囲碁を取り入れるという取り組みが注目を浴びたことがありました。もちろんそれも悪くはありませんが、大勢の、ということを考えると麻雀の方が望ましいのではないでしょうか。
 また、読書や映画やドラマの鑑賞も効果がありそうです。スポーツも大勢が同時に動くもの、ラグビーやサッカー、バスケットなどが有望ということになります。と、ここまで書いてきて何かおかしいという思いも湧いてきます。広く浅く型ではなく狭いけど深い洞察をするタイプの人間も必要なはずですから。ただ、差別的な意味ではなく、類人猿型の子供にも、その逆の型の子供にも、今の自分に足りないものを身につけさえるための意図的な選択肢の提示という視点で考えてみることはあってもよいと思います。
 ところで、多国間の協議を嫌い、二国間のディールを好むトランプ氏、典型的な類人猿型なのでしょうか。私は彼とは反対のタイプでいたいのですが。

 

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見てるだけでいい

2025-06-30 08:15:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「嫌なんだけど」6月21日
 『広がる「ペット婚」 当世結婚式 主役は嫌!?』という見出しの記事が掲載されました。『近ごろはペットを前面に押し出した「ペット婚」が定着しつつあるらしい。新郎新婦たちが「目立ちたくない」「主役になりたくない」と考えるためだとか(略)令和の結婚式事情を探ってみる』という趣旨の記事です。
 私は犬も猫も大嫌いです。ペット婚など想像もできません。でもそれはここでは触れません。気になったのは次の記述です。『最近は「ゲスト全員が参加できるイベントがしたい」との声も多い。例えば、クイズだと、テーブルごとにチームを組んで対抗戦にするといった具合だ。新郎新婦とゲストとの距離を縮めるため、新郎新婦のメインテーブルをなくしてソファにすることもある(略)ウェルカムスペースで自撮りができるように鏡を置いたり、ゲストが一筆ずつ描いて完成させる絵画を準備したりと、ゲストの参加を促す取り組みが多い。インスタントカメラやレンズ付きフィルムをテーブルごとに準備して、周囲の様子を撮影してもらうことも珍しくない』。
 最後に結婚式に出席したのは、もう15年ほど前になります。最近の結婚式事情は全く知りませんでした。私はこの記事を読み、こんな結婚式には招待されても出席したくないと思いました。
 理由は、結婚式で何かさせられるのは嫌いだからです。私が教え子などの結婚式に呼ばれたころ、よくあったのが新郎新婦への寄せ書きでした。字が下手なこともあり、これが苦痛でした。気の利いた言葉を考え出すのも苦手でした。自意識過剰な面があることは否定しませんが、おかしなことを下手な字で書き、「先生」の権威を損ないたくなかったのかもしれません。
 それなのに、今では、同じテーブルの初対面の人と一緒にクイズをするというのです。嫌ですね。周囲の写真を撮る、センスが問われそうです。嫌ですね。私は、静かに飲食しながら、「○○さん、卒業してからそんなことがあったのか」などと感慨にふけりたいのです。私にとってそれが良い結婚式なのです。
 結婚式に関していえば、もう呼ばれることもないでしょうから、どうでもよいのですが、私は似たようなことが学校でも行われているのではないか、と考えました。授業参観日、我が子の様子を見て安心し、ホッとした気持ちで帰宅し、下校してきた我が子に「教は頑張っていたね」と声をかけ、夕食には少しごちそうを奮発する、そんな昔風の授業参観を好ましく感じる人はいるはずです。
 しかし、せっかく保護者が来校したということで、親子で共に体験学習、などの企画をする学校が増えているように思います。子供をよく知ってもらいたい、家庭とは異なる学校における我が子の姿を見てほしい、学校の教育活動への理解を深めてほしい、そんな善意に基づく試みです。
 でも、そんな配慮が裏目に出て、いろんなことをさせられるのなら授業参観は欠席しよう、と考える保護者もいるのではないでしょうか。授業参観に限らず、学校でも、保護者とともに活動という発想で、行事等が組まれることが増えています。それが、学校に行きづらいという意識を生んでしまうとしたら、本末転倒になります。
 そんなことを考えるのは私だけでしょうか。思っていても言い出せない保護者はいると思うのですが。

 

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専門分野のはずなのに

2025-06-29 08:29:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知ってる?」6月19日
 『小学生向けピル外来誕生』という見出しの記事が掲載されました。『初潮を迎え、生理痛などの不調を抱える小学生からの女性が受診できるピル外来が東京都内に誕生した』ことを報じる記事です。
 記事には、『思春期は子宮の過収縮による生理痛などの月経困難症が多い』『不妊の原因にもなる子宮内膜症も10~20代で増加』『生理痛については43%が「我慢している」、35%が「薬で我慢している」、15%が「勉強や体育がつらい」』などの実態が紹介されていました。
 そして、『小中高生らが婦人科を受診する心理的ハードルは高い』『ピルには否認目的のイメージが強く、敬遠されがち』『婦人科では「内診台での診察が必須」と勘違い』など、医療に結びつきにくい状況も記されていました。
 私自身、知らないこともありました。つれあいが高校生のときに婦人科の診察を受けに行ったとき、緊張して体が硬くなり、診察を受けられなかった話を聞いていたにもかかわらず、心理的なハードルの高さについて真剣に考えたこともありませんでした。ピルについては知っていたものの、私の現役時代には今ほど使われておらず、小学生に~など考えることもできないことでした。
 猛省するとともに、さすがに今の学校では改善されているはずと思っていましたが、記事では『生理痛がつらく、体育のマラソンを座って見学したいが、男性の熱血系教師に「ゆっくり走れ」と促され、座らせてもらえない』という声が掲載されていました。何たることでしょう。体育の教員ということは、体の仕組みについては他の教科の教員よりも詳しいはずですし、保健の授業で生理や生理痛などについて指導する立場であるはずです。それなのに、この無知さかげんは犯罪的です。
 性教育について、いろいろな議論がなされていますが、その前にまず教員が生理や生理痛、ピルの効果などについて正しい知識をもち、子供たちと向き合い、保護者にもアドバイスができるようにならなくてはいけません。各教委はそのための研修機会を設けるべきです。早急に。
 まさか、ピルについて教えると、安易な避妊につながり不純な性行為が蔓延してしまう、などと主張する寝ぼけた反動派に遠慮しているなんてことはないでしょうね。

 

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刑事の勘は無視できない?

2025-06-28 08:42:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「珍しい」6月19日
 『中3英語スピーキングテスト 量と質 効果検証を』という見出しの記事が掲載されました。『中学3年生を対象に、2022年から導入された「英語スピーキングテスト」(略)英語教育に詳しい明治学院大の新多了教授に、スピーキングの必要性や同テストの方向性について聞いた』記事です。
 私はこのブログで英語教育についても再三触れてきました。しかし、今回は英語教育とはあまり関係のないことについて述べます。新多氏は、英語スピーキングテストについて、『コストに見合う効果があるかどうかで判断すべき』と述べています。そして具体策の一つとして『生徒の点数が上がったかどうかという「量」と、教員が子どもたちの能力向上を感じられるかどうかという「質」の両方を検証した方がいい』ともおっしゃっているのです。
 今どき、とても珍しい見解です。いけないと言っているのではなく、最近このようなことを口にする「専門家」はほとんどいないという意味です。私自身は、新多氏の考え方に賛成です。
 私が着目したのは、『教員が生徒の能力向上を感じられるかどうかという「質」を検証すべき』という指摘です。これは極端に言えば、教員の感じ方、直感のようなあいまいな感覚を尊重すべきという主張に他なりません。専門家の勘を信用するということでもあります。
 現在、企業でも行政でも、エビデンスに基づく意思決定が正しいという考え方が主流になっています。それは、情報公開につながる考え方で、意思決定の理由を住民やステークホルダーに説明するためには、エビデンスに基づかなければならない、ということが半ば常識のようになっているのです。そこでは、現場の人間の勘とか、感じ方などを持ち出す余地はありません。
 学校教育における施策の立案と実行においても事情は同じです。テストの結果によって自作の効果を検証するということは広く受け入れられても、教員の「何だか生徒のやる気が感じられないんですよね」というつぶやきが重んじられることなどないのです。新多氏の提言は、そうした意味で画期的なのです。
 ドラマでは、「刑事の勘」などという言葉がよく登場します。多くの場合、若手の刑事やデータ重視の管理職から時代遅れと疎んじらながらも、最終的にはベテラン刑事の勘が事件の解決に寄与するという流れが多いようです。
 現実が同じであるかどうかは分かりません。しかし、人々の心の奥底に、長年その分野に従事してきた者の「勘」には何か理屈では説明できない真実が含まれている、という神話が生き残っているのではないでしょうか。
 教育政策における現場教員の感じ方や捉え方を生かすすべはあるのか、研究課題としてもよいのではないでしょうか。

 

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知恵者にかかれば自由自在

2025-06-27 08:40:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当は知っていたはず」6月18日
 『農水省 コメ在庫量調査へ 今月末時点 小売業者も対象』という見出しの記事が掲載されました。農水省が『国に届け出ている全てのコメの出荷・販売業者に対し、食糧法に基づき、6月末時点の在庫量の報告を求める調査を実施すると発表』したことについて報じる記事です。
 記事によると、『大規模な在庫調査は現行のコメの流通制度となった2004年以降で初めて(略)国のコメの需給見通しが正しかったかどうかを検証する材料にもする』とのことです。20年以上、不正確な調査を行い、それに基づいて農政を行ってきたのか、と驚く人もいるかもしれません。私もその一人です。
 と同時に、もっと恐ろしい想像もしてしまいます。それは、今回の騒ぎになるまで、調査の不備に気付かなかったというミスがあったのではなく、調査に不備があることは百も承知だったが、自分たち(農水官僚や農水族の政治家)にとって都合の良い数字を出すことができるやり方を続けようという確たる意思の下で、調査を続けてきたのではないか、という勘ぐりです。
 私は長年教委に勤務してきました。巨大な利権が絡む農水省とは比べものになりませんが、一応行政機関です。行政機関である以上、思い付きや勘で施策を打ち出し、実行するわけにはいきません。説得力のあるデータが必要です。そこで、「調査」が行われます。
 しかし、この「調査」というのが曲者です。意図的にあることについては訊かない、選択肢を増やしある回答に集中するのを防ぐ、設問に否定的な事実を潜り込ませ回答を誘導する、回答者をある立場のものに限定する、自由記述を増やし賛否様々な意見があったと集約するなど、自分たち(行政側)にとって着手しやすい施策への指示が増えるように誘導する手立てをとることもあったのです。
 さすがに、調査結果を改竄することはしませんでしたが、調査をする段階で「悪だくみ」をすることは、むしろ知恵者として認められるような雰囲気さえあったのです。そして私たちのレベルでは、こうした「悪だくみ」は個人的な利益や損得勘定で行われるのではなく、施策の実現、早期着手など、主観的には「善意」に基づいて行われるケースがほとんどだったのです。
 一見すると公平・公正なものと思われる調査や情報収集にも、担当者の「善意」から偏向や不備が生まれ、長い間にそれが慣習として疑いもなく定着していったしまう、そんな怖ろしさがあるのです。今も文科省や教委の行う調査にそんなものがあるかもしれません。

 

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友達はいなくなっても

2025-06-26 08:14:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうすれば」6月17日
 オピニオン編集部小国綾子氏が、『NO!と言えるために』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『NOって言えたら、自分を守ることができるし、まわりの人に大切にしてもらうことができる。そうやって私たちは大きくなるんだ!NOと言えるようになったとき、自分が決めたYESが言えるようになる』という『NO!と言えるようになるための絵本』の言葉を引用して紹介なさっています。
 そして、『必要な時きっぱりとNOと言えるようになるには幼い頃からの練習が必要ではないか』ともおっしゃっています。全く同感です。コラムでは、同絵本に書かれた『具体的な提案』も紹介されています。『自分の中の小さな声に耳を傾けてごらん』『小さい紙にNOと書いてポケットに入れておくと勇気が出る』『一人で言うのが難しい時は信頼できる人を見つけよう。きっと手伝ってくれる』などです。
 正直ガッカリしました。これらの方法で、NOが言えるようになるとはとても思えないからです。昔、「NOを言える日本」という本がありましたが、ノウハウ本というわけではありませんでした。まして、小学生を対象にした、心構えだけを述べるようなものではなく具体的に役に立つものとなると全く思いつきません。
 実は私は、自覚はありませんが、相手の気持ちや場の雰囲気を無視して「NO」を口にしてしまう人間のようなのです。ですから、自分はどんな人かということを基に考えれば、多少は役に立つ考えが浮かぶのではないか、と思いました。
 まず、迎合的な相槌をうたないということです。「そうですね~」「なるほど~」などと相手の言葉を受けとめてしまうと、その後に否定や拒絶の言葉を口にすることは難しくなってしまいます。「ちょっといいですか」「そうかなあ」などと納得できていない、質問がある、という反応を口にすると、少なくとも本意ではないYESを言わずに済みます。
 もう少し否定の度合いを上げるとすれば、「ごめんね」と返すことです。この言葉を出してしまえば、もうYESは言えません。しかも最初に同意できないことを謝ってしまっているのですから、相手のきつい言葉で追及しにくくなっているはずです。
 また、比較的使いやすいのが、「どういうこと、よく分からない」という対応です。NOという立場を自分の中で確認しながらも、もう一回最初から話させることで、断り方を考える時間を確保するのです。できれば、二回目の説明を聞く際には、盛んに首を傾げたり、頬を膨らませたりして、疑問が高まっていることをさりげなく伝えるようにするといいでしょう。
 こうしたことを繰り返し、この人は「断る人」という評判が立つようにすれば、よりNOを言いやすくなります。でもその結果、私のように友達がいなくなってしまうという状況に耐えなくてはいけなくなるかもしれませんが、迎合で結ばれる人間関係ならない方がましと割り切ることも必要です。
 学級内の人間関係を大切に考える教員には役に立たなかったかもしれませんね。

 

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中高では無理でした

2025-06-25 08:28:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「性教育で取り上げたら」6月17日
 『性風俗の除外 最高裁「合憲」』という見出しの記事が掲載されました。『新型コロナ対策の持続化給付金などの対象かた性風俗事業者を除外した国の規定が、法の下の平等を定めた憲法14条に反するかが争われた訴訟の上告審判決』について報じ、解説する記事です。
 記事では、『デリバリーヘルスは、子どもの健全な育成を阻害しないように営業場所が限定されるなど様々な規制が設けられていると指摘。規制がなければ風俗環境が害される恐れがあるという現行法上の位置付けからすれば合理性を欠くとはいえない』と判決理由が要約されていました。
 さらに、『裁判官の個別意見に目を向けると。職業差別を容認するような誤ったメッセージとならないように配慮』されているとも指摘されていました。私はこの問題について、地裁判決段階で、職業差別という視点で教材として取り上げ議論させることを提案しました。今、上告審判決が出た段階で、この問題を「性教育」の領域で取り上げることはできないのか、考えてみました。
 そもそも「デリバリーヘルス」という事業がなぜ存在するのか、社会にとって必要なのか、ということについて考えさせることによって、性の問題の本質に迫ることができるのではないか、ということです。
 性教育の歴史をたどれば、昔はいわゆる「純潔教育」でした。欲望を抑え、淫らな行為を慎むことが大切とされてきました。ときは移り、現在では、性は恥ずかしいこと隠さなければならないものではなくなり、性の自己決定権も認識されるようになってきています。その前提に立って、デリバリーヘルスが子どもの健全な育成を阻害するものと位置づけられていることの適否について考えさせるのです。
 それは、愛情の発露や人間同士の絆としての性とは異なる欲望としての性、快楽としての性について考えるということでもあります。そしてそうした側面こそ、我が国の性教育が「苦手」としてきたことでもあるのです。
 外国の事例、宗教による違い、売春の歴史、様々な面からのアプローチが考えられます。中高では難しいでしょうから、大学での取り組みはどうでしょうか。あれ、大学には「性教育」ってないんでしたっけ?

 

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3つともに不満が

2025-06-24 08:21:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「3つとも不満」6月16日
 勝田友巳氏が、連載コラム『映画のミカタ欄に、『戦争を記憶する』という表題でコラムを書かれていました。その中で藤田氏は、『日本の戦争映画の基調は「反戦」だ。鑑賞後に「だから戦争はいけない」と考えさせる』と述べ、『いくつか傾向があ』ると指摘なさっています。
 そして、『一つは「非人間多岐な戦場や軍隊が、人間を狂わせる」(略)もう一つは「罪のない庶民が理不尽な暴力に苦しめられる」(略)それから「未来を担う若い命が、理不尽に奪われた」』と、具体的な作品名を挙げて解説なさっています。
 分かりやすい解説でしたし、映画について博識さには脱帽させられました。ただ私は、そこに日本人の戦争観、ひいてはそうした戦争観を植え付けてきたことに一役買ってきた戦後の「平和教育」に対する物足りなさを感じてしまいました。
 これらには、戦争を起点としてそれが及ぼす負の影響を描くという機能しかなく、なぜ戦争を防ぐことができなかったのか、誰が戦争への道を推し進めたのか、どうすれば戦争を防ぐことができたのか、と考えさせる機能に欠けていると思うからです。
 さらに、3つのパターンに共通するのは、描かれる人々は受け身の姿勢だということです。最初の例では、人々は狂わされる被害者ですし、次の例でも苦しめられる被害者です。そして最後の例も未来を奪われた被害者です。ただ、戦場に駆り出された兵士、銃後の民間人で主に女性や子供、若人と微妙に立場が変わるだけで、加害性のない被害者です。
 私は戦後行われてきた「平和教育」が戦争の悲惨さを強調する情緒的なものが主流になっていると批判してきました。戦争という事象を、歴史的、文化的、経済的、地政学的に分析し、戦争学とでもいうべき領域を構築して、戦争に至る萌芽や経緯、戦争を食い止めるための行動や思想などについて子供の発達段階に応じて学ばせる、科学的、論理的な戦争阻止学的な学びこそ「平和教育」の名にふさわしいと訴えてきたのです。
 映画の作り手は、見てもらえる映画を作ろうという本能のようなものをもっていると思われます。ですから、国民がどのような戦争映画を望んでいるかを肌感覚で把握しているはずです。そしてそれは、今回の勝田氏の戦争映画分析にあるように、戦争は避けられない歴史上の大きな歯車のようなもので、それに押しつぶされる善良で力のない庶民を描けば共感が得られるという物語なのです。
 これでは次の戦争は防げません。よく考えることなく異論を排し、自分と異なる意見の者を敵視し、プロパガンダに熱狂し、法や制度や慣習を無視するリーダーを救世主と勘違いする、これらこそが戦争への道の第一歩であることに警鐘を鳴らすような平和教育が待たれます。

 

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