「分析なくて対策なし」8月14日
客員編集委員伊藤和史氏が、『戦後80年 国立の「昭和館」へ』という表題でコラムを書かれていました。その中で伊藤氏は、昭和館について、『戦中戦後の苦難に満ちた暮らしを生活用品や写真、映像、ポスターなどで紹介している。不思議というのは、これほどの事態を招いた戦争がなぜ起きたのかという問題提起がほとんど見られないことである』と書かれています。
その後、具体的な展示内容に触れながら、『「国民は忍苦して頑張り、ついに復興を果たしました」という物語以上のものは得にくい』と述べ、『そもそも日本が何のために戦ったのかすらよくわからない』と指摘なさっています。
私は、伊藤氏の不満を象徴する記述として、『パンフレットには「大きな戦争が起こり」とか「日中戦争が始まり」といった記述があるが、戦争は自然に起こったり始まったりはしない。必ず誰かが起こすものだ』が印象に残りました。
この昭和館の展示内容は、我が国の戦争への向き合い方を象徴しているように思います。開戦の原因、原爆投下後まで終戦を実現できなかった原因を分析研究することのないまま、台風や地震などの自然災害に遭って復興したかのような感覚で、歴史を捉えているのです。台風や地震は防ぐことができません。だから、防ぐための研究をする人はいません。同じように、戦争を避けるための研究も、それを実現するための政治も進歩しないのではないでしょうか。
小中高ほとんど全ての学校で行われている「平和教育」も、この悪弊に染まり切っています。戦争という時代に苦しんだ人々の「感動的なお話」を知り、大変だったんだ、頑張ったね、もう二度とこんなことがないように(お祈りしましょう)、という感想を述べ合って終わってしまうのです。
昭和初期からの社会の動き、人々の意識、政治家や軍の上層部の人々の言動、マスコミの動静、日中戦争に至るまでの大陸政策、米国の世論などを開戦へのロードマップとして整理し、個別のエピソードをそこに位置づけて調べたり話し合ったりする、そういう形に再構成すべきです。
歴史学者や社会学者と教育界の連携、学教連携を進める必要があります。
「教えられますか」8月14日
旧ソ連地域の政治を専門とされる慶応大教授廣瀬陽子氏が、『ロシアのハイブリッド戦 社会守る包括的安保が肝要』という表題でコラムを書かれていました。その中で廣瀬氏は、『今年の防衛白書は(略)「ハイブリッド戦争」への対応強化を強く打ち出した。ハイブリッド戦とは、軍事を用いた正規戦と、軍事に限定されない非正規戦を組み合わせた現代戦を意味する。非正規戦の部分は(略)サイバー攻撃、情報戦、政治的脅迫や経済的圧力、代理勢力の活用など(略)特に民主主義国家においては、選挙や言論空間といった脆弱な基盤を直接攻撃することで、かなり大きなダメージとなることもある』と書かれています。
その後、ロシアに焦点を当てて具体的に述べられていますが、正直私には理解できない部分もありました。そこで浮かんだのが、現職の教員は、このハイブリッド戦について教えることができるのだろうか、ということでした。
8月だからというわけではありませんが、反戦教育、平和教育について報じる記事が目立ちます。先の大戦について、現役の教員は実体験こそないものの、書物や映像などで学び、不正確かもしれませんが映画やドラマなどで大まかなイメージをもっています。銃を手に歩き続ける歩兵、山の形が変わるほどの塹壕戦、火を噴く戦艦の砲撃と襲い掛かる戦闘機、無差別の爆撃など、子供に説明する際にも、映像や絵画など具体的にイメージさせる教材には事欠きません。戦争経験者が語る音声資料も入手可能です。
しかし、廣瀬氏が言う「ハイブリッド戦」についてはどうでしょうか。これは過去の戦争ではなく、廣瀬氏曰く、今現に我が国に対して仕掛けられている戦争、なのです。そして情報戦においては、子供たち自身が知らないうちに操られ誘導されて「戦争」の一部に加担させられているかもしれないのです。ネット上で、軽い気持ちで押す「いいね!」、正確な知識がないままに行う「拡散希望」、子供が加害者になってしまうかもしれないのです。
戦争を避け平和を維持するためには、これからの時代を生きる子供たちには、ハイブリッド戦について正確な知識をもつことは不可欠なのではないでしょうか。だとして、教員は教えることができるのか、心許ない気がします。教委がそのための研修会を開いたり、指導用資料を作成したりという動きも耳にしません。
まあ、そんな研修会や資料作成は、ハト派からの批判を読んでしまいそうですから、二の足を踏む心情も理解できますが。でもそうであるならば、文科省が様々な立場の識者を交えた懇談会なり検討会なりを立ち上げ、下地作りを進めるべきではないでしょうか。これもまた「反戦教育」の一環であることを明確にしながら。今すぐ取り組まないと手遅れになるような気がします。
「○○なら」8月13日
オピニオン編集部吉井理記氏が、『靖国と土用の丑』という表題でコラムを書かれていました。その中で、次の記述が印象に残りました。『憲法学者の小林節さんが、右派団体「日本会議」系の憲法学者に「日本人なら8月15日に靖国に行くのは当然ですよね」と問われ、「違う」とはねつけると「汚物を見るような目で見られた」と明かしていた』という記述です。
私は、8月15日に靖国神社に行ったことはありません。閣僚の靖国参拝にも反対です。でも、8月15日に靖国に行く人を非難しようとは思いません。もちろん、行かない人を「偉い」と褒めるつもりもありません。
それは、自由を尊ぶ我が国において、様々な背景をもつ人がいて、様々な考え方をする人がいるのは当然であり、個人として参拝は自由であるべきだと考えるからです。実際に自分の祖先が靖国に祭られている人であれば、年に一度お参りを、と思うのは自然かもしれません。共に先の大戦を戦った戦友が祭られている人であれば、家族に車いすを押してもらっても手を合わせたいと思う心情も理解できます。
そうしたことの延長線上で、亡き祖父から「8月15日には自分の代わりに靖国へ…」という遺言を伝えられて足を運ぶという人もいるかもしれません。しかしその一方で、自分の祖父の戦地での苦しみを聞いて育ち、当時の政府や軍の上層部に強い恨みをもつ人がいても不思議ではありません。そんな連中(A級戦犯)が祭られているとこへなんか一歩でも足を踏み入れるものか、という気持ちになってもおかしくはありません。
もちろん、先の大戦に直接的な思い入れはなくても、我が国のために働かれた人に感謝の気持ちをという人もいれば、A級戦犯を合祀している靖国を参拝することは帝国主義侵略主義を肯定することだという思いから靖国に背を向けるひともいるでしょう。
そうした全ての人の思いを否定せず、「あなたはそうなんですか、私はあなたとは違って~」と話し合えるのが、自由な社会の良さであるはずです。「日本人なら~」という言い方、考え方は、個人を認めず尊重しない危険な考え方です。
男なら、女なら、○○なら、というように人間をたった一つの属性で括り、ある価値観を押し付ける行為こそ、人権侵害の典型的なパターンなのです。また、○○ならという発想は、○○のくせにという捉え方に転化して、他人を攻撃する手段と化していくのです。朝鮮人のくせに、中国人のくせにといって差別をしてきた歴史がそれを証明しています。
我が国がこれからも引き続き、レッテル貼とは無縁な自由な意見交換ができる社会であるために、学校教育の場からレッテル貼をなくさなければなりません。日本人なら、男なら、お兄さんなら、上級生なら、そんな「なら」は身の回りに残っていないでしょうか。
「私の父母は」8月12日
オピニオン編集部小国綾子氏が、『祖父のハガキと「非国民」』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『非国民』という言葉について書かれています。初めて『非国民』という言葉に出会ったのは、漫画「はだしのゲン」でのこと。『ゲンの父親は「戦争をしてはいけんのじゃ」と言い、官憲らに「非国民め」と暴力をふるわれる。幼かった私は、この国で周囲に流されず、戦争はおかしい、と声を上げ、平和を求めた人はみんな「非国民」とバッシングされたのだ、と理解した』と述懐なさっています。
そして、『母に尋ねた。「お母ちゃんも昔、非国民って呼ばれたん?」子ども心に信じ込んでいたのだ。原爆やベトナム戦争を描いた絵本を涙をこぼしながら読み聞かせてくれた母も、きっと「非国民」と呼ばれていたに違いない!と。「なにアホなこと言うてんねん」。母はあきれて言った。あの瞬間、尊敬する両親だって常に正しいわけじゃない、世の中は自分に見えているよりずっと複雑なんだ、私は悟った』と続けているのです。
この逸話の当時、小国氏が何歳だったのか、よく分かりませんが、脱皮して一つ質的に成長した瞬間だったのだと思います。そしてそのときの「気付き」がジャーナリストとしての小国氏の骨格を形成しているようにも思います。
また、小国氏個人のこととは別に、この『非国民』についての逸話には、いわゆる「平和教育」について考える際の貴重な示唆が含まれていると考えます。それは、絶対的な悪人、好戦的な軍人や政治家、庶民を弾圧する官憲、偏った愛国主義者などが戦争を起こし、戦争を支持し、戦争をやめさせないのではなく、多くの一般人が戦争を後押しし、少数の反戦主義者を「非国民」と攻撃することで、戦争を実現してしまうという構造をはっきりと示すことが必要であるということです。
それは、私たちの祖父母や総祖父母が戦争を支えたという事実と向き合うことであり、私たちやその子供や孫が、再び戦争を支持し加害者の一員となる可能性を直視するということでもあります。
今度我が国が戦争を、たとえそれが自衛戦争だと言い張ってみても、とにかく戦争を始めたとき、我が子や孫は加害者となってどこかの国の、国民の憎悪の対象になって戦争後も何年間、何十年間も過ごしていくということなのだということを理解させていく教育が必要なのです。
そして、いくら反戦の思いを、決して加害者にはならないという思いを強く植え付けたとしても、戦争が始まってしまってからでは、反対をすることはとても難しいということも理解させておく必要があります。戦争が始まってしまえば、反戦や停戦を口にすることは「非国民」というレッテルを貼られる覚悟でなければできないこと、「非国民」のレッテルは自分だけでなく、可愛い子供や孫たちまでも危険にさらす危険性があることを理解させるのです。小国氏の尊敬する父母の場合のように。
ではどうするか。戦争がまだ小さな「芽」のうちに、反戦の声を上げること、反戦の声を上げている人を支持すること、そのための具体的な行動を取ることの重要さを理解させるのです。まだ、反戦を口にしただけで官憲に引っ張っていかれないうちに。
今の平和教育はこうした厳しさに欠けているような気がします。
「言いたい放題」8月9日
読者投稿欄に、神奈川県大学生H氏による『本当の「多様性がある社会」とは』と題された投稿が掲載されていました。その中でH氏は、高校の後輩の学年に同性カップルがおり、そのことが広く知られていることに驚かされたことを綴っています。
そして、同性カップルに寛容な人が増えた一方で、『「受け入れられない」「理解できない」といった否定的な声が表立って聞かれなくなったように感じる』と述べ、『さまざまな性を受け入れるべき』という同調圧力の存在を示唆し、『真に多様性のある社会とは、違う考え方を拒絶』しない社会なのではないか、とおっしゃっているのです。
難しい問題です。H氏の指摘には賛成できる部分もあるのですが、一方で意見を自由に言うということが他人を傷つけることでも言っていい、ということに結びついてしまうことへの危惧も抱いてしまいます。
昨今のネット言論を見ていると、「黒人は白人よりバカだ」「重度障害者は生きている価値がない」「子どもを産まない女は欠陥品だ」などという考えをもっている人はいそうですが、そうした考え方を堂々と口にできる社会は望ましいのか、ということです。
より焦点を絞って、学校における授業や学級会、生徒会などの話し合いの場で、こうした発言がなされた場合、教員は「いろいろな考え方があるんだね」という対応でよいのか、ということです。その場に、黒人も重度障碍者も、生涯不妊という宣告を受けた者もいなかったとして、つまり直接的に自分事として傷付く者はいなかったとして、教員が聞き流してしまってよいのか、ということです。
また、何らかの指導をするとして、どのような指導をすればよいのでしょうか。明らかに事実と異なる発言は、事実を提示するという修正の仕方があります。しかし、価値観に関するものは、修正を試みることは容易ではありません。
さらに、たとえ目の前の人を傷付けることであっても口にしなければ議論が進まないというケースもあります。何人もの幼い女の子に性的暴行を加えた上で残酷な方法で殺し死体をバラバラにして「戦利品」として保管していた男がいるとします。死刑廃止論者は、たとえそういう犯人に対しても、国家が人の命を奪うべきではないというはずです。しかし、目の前に被害者の親がいたとしたらどうでしょう。恐らく親は厳罰を望み、犯人の命を救うべきという主張に傷つくことでしょう。そうであっても、人権や宗教観の視点から死刑廃止を主張するのであれば、廃止論を述べないわけにはいきません。そうでなければ議論は停滞してしまいますから。
もし、私が担任している学級で死刑是か非かというテーマで話し合ったとして、家族が殺人事件の被害者である子供がいた場合、私はその子の面前で滔々と「犯人の命もまた重い」などという言葉を話すことを認めるのか、迷ってしまいます。
真の多様性がある社会における言説はどうあるべきなのか、学校という狭い世界もまた現実社会の反映である以上、考えておかなければならない課題です。
「信頼されない」8月7日
『健全な不信感を抱く』という見出しの記事が掲載されました。哲学者で慶応大教授の杉本俊介氏へのインタビュー記事です。その中で杉本氏は『信頼は裏切られる可能性が常にあり、結構危うい。むしろ不信感を積極的に抱く方がいい場合もある』とおっしゃり、具体例として『政治家に対しては、健全な不信感を常に抱きながら、ちゃんと職務を果たしているかをチェックする方が民主主義にプラス』と語られているのです。
確かにその通りです。選挙で選んだら関心を失い、「まあ何とかやってくれるでしょう」と「信頼」してしまい、政治家の専横をチェックできない、しようともしないというのでは、民主的な社会の形成者としては失格です。
では、教員と保護者や子供との関係はどうなのでしょうか。保護者から見て、学校のことは先生にお任せしておけば大丈夫、と「信頼」して、学校での出来事に無関心でいては、我が子をいじめやその他の問題から守れないということになりかねません。
子供の立場から見ても、先生が私に悪いことをするはずがないと「信頼」して、誰もいない教室に一人だけ呼び出されても無警戒でいたのでは性的被害を被らないとも限りません。悲しいことですが、実際にそんな事件が起きています。
そう考えると、学校においても、「健全な不信感」をもつという発想は正しいのかもしれません。ただ、私は古い人間で頭が固くなっているからでしょうか、学校という場を想定するとき、つい信頼があってこそ教育は成り立つという思いに惹かれてしまうのです。
特に、教員の視点から見た場合に違和感を覚えるのです。教員が、教え子に対して、「こいつらは監視の目がないと何をするか分からない」と不信感をもって接するのと、「いろいろ問題も起こすが、みんな根は良い子」という見方を基に接するのと、どちらが望ましいのか、と考えたとき前者が望ましいとはどうしても言い切れないのです。
実際には、後者のような甘い認識では、学級内で起きているいじめに気づかず、いじめられて苦しんでいる子供を助けることができなくなってしまう危険性があります。むしろ、常に「このクラスでもいじめは起きる」と思って目を配っている方が望ましいという考え方も成り立ちます。
学校現場における「健全な不信感」問題、杉本氏に別の機会にでも語ってほしいものです。そうそう、教員と校長の関係において、もです。
「それでもいい」8月7日
読者投稿欄に、豪州在住救急救命士F氏による『人種差別的な発言に傷つく』と題された投稿が掲載されていました。その中でF氏は、『先日、認知症の高齢女性から罵声を浴びせられた』体験について書かれていました。
『彼女は白人でない私を見た途端に顔をゆがめ「態度が悪い。お前にような者を働かせる国になり、地に落ちたものだ」とののしった。だが、白人が現れると途端に柔和になる。認知症で抑制が利かなくなり、本音が出るのだろう。搬送中も罵倒は続いた』と。
豪州については、私が子供のころには「白豪主義」の国、白人優先の国と教わったものです。しかし近年は、民主、自由、人権、法治を基本的な価値観とする国として、我が国とも近しい国となっています。教委勤務時には、中学生のホームステイ先として、安心して送り出せる国という認識でした。
でもやはり、高齢者、子供のころに「白豪主義」で育った人の中には有色人蔑視の観念が色濃く残っているのでしょう。F氏のような経験をする人は少なくないと思われます。残念なことではありますが、それが現実というものなのでしょう。ただ私は、こうした事例を目にするからこそ、豪州は偉大な国だ、そこに住む国民は素晴らしい人たちだと考えます。認知症の彼女も、病に罹る前までは、非白人にも笑顔であいさつするような人であったと思われるからです。そして、そうなるために努力をし自分を律してきた人だと。
私は、長年の教委勤務で人権教育を担当し、このブログでも人権問題を取り上げ、差別や偏見について糾弾してきました。しかしそんな私の中にも、差別や偏見は確実に根を張っているのです。障害者や外国人に対して、健常者や日本人とは異なる感覚を抱いていることは否定できません。
初めて入る店で、外国人ばかりであったら、居心地の悪さを感じてしまうでしょう。時間の余裕があればさりげなく他の店に移るかもしれません。電車に乗って、二カ所席が空いたとき、片方は両隣が外国人、もう片方は両隣が日本人の場合、多少遠くであっても後者の席に座ろうとすると思います。外国語が話せないから、という理由で。でもそれ以外に、日本人の方が安心というような、日本人と外国人は違うという潜在意識が働いた結果であることは確実です。でもそうした行為がそこにいる外国人を傷付けるかもしれないと考え、一瞬の逡巡の後、近い方に座ります。
私はそんな自分を許しています。人間はそんなもの、自分と違う存在に対しては本能的に警戒感を抱くものだと思っているからです。それを完全に否定すると苦しくなってしまいます。でも、人権の価値が共通理解されている現代日本において、差別や偏見につながる言動は許されないという知識と自覚をもち、それに基づいて自分を律することはできる人間であるつもりです。
それで十分ではないでしょうか。私は人権教育の理想は理想として、現実の目標は、表に現れる行動が他人を傷つけない、嫌な思いをさせないという行動レベルで己を律するものであれば良いという考え方です。認知症になって自分を律することができなくなったときは、勘弁してもらうしかありません。
「基盤は?」8月6日
『東大大学院 授業英語科の波紋』という見出しの記事が掲載されました。『「授業の英語化をスタートします」-。東京大大学院工学系研究科のこんな宣言が話題を呼んでいる』ということで、その背景や反応、課題などについて報じる記事です。
私は、工学のことは全く分かりませんし、大学院教育についても素人です。ですから、この問題に直接言及することはしません。ただ、気になる記述がありました。東京大大学院工学系副研究科長津本浩平氏の言葉です。津本氏は、「母国語で高等教育が受けられなくなるのでは」という懸念に対し、『無理にすべての授業を英語化するということではありません。母国語で学ぶ機会が失われることに対する警戒感は、もちろん私たちの中にもあります。基盤となる学問はこれまで通り母国語で講義します』と話されているのです。
基盤となる学問とは何を指すのでしょうか、というのが私の疑問です。今、高校でも英語で授業、を売り物にしている学校が出てきています。もしかすると、そのうち中学でも、あるいは小学校でも英語で授業をセールスポイントにあげる学校が出てくるかもしれません。私立や小中一貫校、中高一貫校など、いわゆる「出来る子」を対象として、です。
私はそうした動きには反対の立場です。母国語で学び、考えてこそ学習が深まると考えるからです。しかし、理系(古いかも)においては、国際共通語的な存在が必要であることも理解できます。そこで、何は英語で、何が母国語なのか、それをはっきりさせることが必要になると思うのです。
それを考える際に、津本氏の言う「基盤となる学問」が参考になると考えます。まさか、工学系大学院で、日本文学や日本の歴史を「基盤~」とは言わないでしょう。私は母国語で学ぶべきは、哲学や倫理、思想や宗教、法学などの人文科学系の学問だと考えています。そしてそれらは、新しい技術が研究室を出て社会に実装される際には、絶対に必要になると考えています。小中高の教科で言えば、国語と社会に関連が深い内容です。
大胆に言い切れば、算数・数学と理科は英語でもよいが、他は母国語でということです。それでよいのでしょうか。津本氏には、もう少し詳しく語ってほしいと思います。経済学も社会学も、影響力のある論文は英語で書かれているようにも思いますし。
「スマート〇〇」8月6日
『睡眠の質 可視化が大事』という見出しの記事が掲載されました。『睡眠と身体活動の関係を調べる目的で開催』された企画についての説明から始まります。『参加者はガーミン社のスマートウォッチを装着。機器には心拍センサーや加速度センサーが内蔵され、体の動きや血中酸素レベルなどを分析する』と。
科学音痴の私には詳細は理解できませんでしたが、従来対象者の感覚による自己申告を基に分析研究していたため、客観性に欠けていた睡眠と活動の関連性について、機器の活用で正確かつ詳細にデータ収集できるようになったということのようです。
大掛かりな機材ではなく、スマートウォッチ程度の機器で、子供の脳の活発さを測ることができるようになれば、教員の指導、授業の形態、教材の内容などと、学習への意欲や態度との関連が「科学的」に調べられるようになるのではないか、そんな空想をしてしまいました。
教員時代、そして指導主事になってからも、私は、社会科の指導法について研究と実践を重ねてきました。そんな私にとって、忘れられない2つの出来事があります。若手の教員だった私は、ある研究会に所属し、研究発表や研究冊子の制作などに取り組んでいました。先輩や仲間との共同研究は楽しく、やりがいのあるものでした。しかし、ある大学の研究者から、「教員の研究と称するものは、研究とは呼べない。情緒的で分析ではなく感想レベルの作文に過ぎない」と言われてしまったのです。何の反論もできませんでした。
また、指導主事となり、都立教育研究所の所属して研究を続けていたとき、大学4年生になっていた教え子たちと食事をする機会がありました。一人は医学部で学び、もう一人はデザインを専攻し後日大学の教官になった青年でした。彼らは私が教育研究所に勤務していると聞くと、「教育って何か研究することってあるんですか」と質問してきたのです。
どちらも、教員が行う実践研究は、研究ではなく実践報告に過ぎない、授業者の主観的な感想の羅列に過ぎない、なぜなら客観的なデータがなく、同じ条件での再検証もできないから、ということでした。
もし、何らかの機器で、脳波や脳のどの部分がどの程度活性化しているかなどのデータ(正直どんなデータが必要か、あるいは収集可能か全く分からないが)を数値化して表すことができれば、教員が行う様々な指導法の研究が大きな進歩を遂げることができるのではないか。私が受けた疑問に対して明確に反論ができるようになるのではないか、という気がするのです。
もちろん、私個人の思いなどではなく、有効な指導法の開発につながることが期待できますし、それは子供の学力向上につながるはずです。また、指導力不足教員の研修などへの活用も見込まれます。教育学者と脳科学者、技術者などとの合同研究はどこまで進んでいるのでしょうか。自分の目の黒いうちに実用化される姿を見てみたいものです。
「今 、どこまで?」8月5日
『ランドセルの色 ブルーな親心』という見出しの記事が掲載されました。『男の子がピンク ジェンダーレス時代だけどからかわれない?』と悩む親たちの思いに焦点をあてた記事です。
私は10年以上前にこのブログで、男女平等教育研修会に参加した「意識高い系」の女性教員たちと我が子のランドセル選びについて、本音で語り合ったときのことを書いています。当時、彼女たちは「男女で色の違いなんておかしい、とは思うし、そう主張してきたけど、いざ我が子がとなると、息子にピンクのランドセルは…」と語っていたものでした。私が指導主事をし人権教育を担当していた頃ですから、実際には25年前のことになります。
今では、男子がピンクのランドセルは珍しくもないことになりました。時代は変わっているということを感じさせられました。そう思う一方で、次の記述に考えさせられました。発達心理学を専門になされている京都大教授森口佑介氏の言葉です。
『子どもは3歳ごろから慣習や社会的なルールを理解しはじめ、男の子らしさや女の子らしさについての認識もこの頃から形成されていく(略)スカートや人形遊びなど「女の子らしい」と感じるものを自身と同じくらいの男の子が身につけたり遊んでいたりすると、違和感を覚えて、感情的に反応する』というのです。これがいじめやからかいに結びついていくのです。
今時代は変わり、ピンクのランドセルに対する違和感は減じられています。では、スカートはどうなのでしょうか。小1の男児が、「お姉ちゃんみたいなかわいいスカートで学校に行きたい」と言い出したとき、親は、教員はどう対応するのか、あるいはするべきなのか、という疑問です。スカートだけでなく、シュシュやリボンはどうでしょうか。花をかたどったブローチはどうでしょうか。
ジェンダーレスの時代、ピンクのランドセルを認める考え方の流れから言えば、スカートも同じだということになるはずです。スカートは女児という慣習や社会的なルールの方こそ変わるべきだという理屈になります。親がそうした「理論武装」をした上で、息子はスカートで登校させます、と言ってきたとき、教員はどう対応すべきでしょうか。実際にどんな対応ができるでしょうか。現実論だけではなく、理屈の筋が通った対応は。
近い将来には、現実問題として考えておかなければなりません。