「言いたい放題」8月9日
読者投稿欄に、神奈川県大学生H氏による『本当の「多様性がある社会」とは』と題された投稿が掲載されていました。その中でH氏は、高校の後輩の学年に同性カップルがおり、そのことが広く知られていることに驚かされたことを綴っています。
そして、同性カップルに寛容な人が増えた一方で、『「受け入れられない」「理解できない」といった否定的な声が表立って聞かれなくなったように感じる』と述べ、『さまざまな性を受け入れるべき』という同調圧力の存在を示唆し、『真に多様性のある社会とは、違う考え方を拒絶』しない社会なのではないか、とおっしゃっているのです。
難しい問題です。H氏の指摘には賛成できる部分もあるのですが、一方で意見を自由に言うということが他人を傷つけることでも言っていい、ということに結びついてしまうことへの危惧も抱いてしまいます。
昨今のネット言論を見ていると、「黒人は白人よりバカだ」「重度障害者は生きている価値がない」「子どもを産まない女は欠陥品だ」などという考えをもっている人はいそうですが、そうした考え方を堂々と口にできる社会は望ましいのか、ということです。
より焦点を絞って、学校における授業や学級会、生徒会などの話し合いの場で、こうした発言がなされた場合、教員は「いろいろな考え方があるんだね」という対応でよいのか、ということです。その場に、黒人も重度障碍者も、生涯不妊という宣告を受けた者もいなかったとして、つまり直接的に自分事として傷付く者はいなかったとして、教員が聞き流してしまってよいのか、ということです。
また、何らかの指導をするとして、どのような指導をすればよいのでしょうか。明らかに事実と異なる発言は、事実を提示するという修正の仕方があります。しかし、価値観に関するものは、修正を試みることは容易ではありません。
さらに、たとえ目の前の人を傷付けることであっても口にしなければ議論が進まないというケースもあります。何人もの幼い女の子に性的暴行を加えた上で残酷な方法で殺し死体をバラバラにして「戦利品」として保管していた男がいるとします。死刑廃止論者は、たとえそういう犯人に対しても、国家が人の命を奪うべきではないというはずです。しかし、目の前に被害者の親がいたとしたらどうでしょう。恐らく親は厳罰を望み、犯人の命を救うべきという主張に傷つくことでしょう。そうであっても、人権や宗教観の視点から死刑廃止を主張するのであれば、廃止論を述べないわけにはいきません。そうでなければ議論は停滞してしまいますから。
もし、私が担任している学級で死刑是か非かというテーマで話し合ったとして、家族が殺人事件の被害者である子供がいた場合、私はその子の面前で滔々と「犯人の命もまた重い」などという言葉を話すことを認めるのか、迷ってしまいます。
真の多様性がある社会における言説はどうあるべきなのか、学校という狭い世界もまた現実社会の反映である以上、考えておかなければならない課題です。
「信頼されない」8月7日
『健全な不信感を抱く』という見出しの記事が掲載されました。哲学者で慶応大教授の杉本俊介氏へのインタビュー記事です。その中で杉本氏は『信頼は裏切られる可能性が常にあり、結構危うい。むしろ不信感を積極的に抱く方がいい場合もある』とおっしゃり、具体例として『政治家に対しては、健全な不信感を常に抱きながら、ちゃんと職務を果たしているかをチェックする方が民主主義にプラス』と語られているのです。
確かにその通りです。選挙で選んだら関心を失い、「まあ何とかやってくれるでしょう」と「信頼」してしまい、政治家の専横をチェックできない、しようともしないというのでは、民主的な社会の形成者としては失格です。
では、教員と保護者や子供との関係はどうなのでしょうか。保護者から見て、学校のことは先生にお任せしておけば大丈夫、と「信頼」して、学校での出来事に無関心でいては、我が子をいじめやその他の問題から守れないということになりかねません。
子供の立場から見ても、先生が私に悪いことをするはずがないと「信頼」して、誰もいない教室に一人だけ呼び出されても無警戒でいたのでは性的被害を被らないとも限りません。悲しいことですが、実際にそんな事件が起きています。
そう考えると、学校においても、「健全な不信感」をもつという発想は正しいのかもしれません。ただ、私は古い人間で頭が固くなっているからでしょうか、学校という場を想定するとき、つい信頼があってこそ教育は成り立つという思いに惹かれてしまうのです。
特に、教員の視点から見た場合に違和感を覚えるのです。教員が、教え子に対して、「こいつらは監視の目がないと何をするか分からない」と不信感をもって接するのと、「いろいろ問題も起こすが、みんな根は良い子」という見方を基に接するのと、どちらが望ましいのか、と考えたとき前者が望ましいとはどうしても言い切れないのです。
実際には、後者のような甘い認識では、学級内で起きているいじめに気づかず、いじめられて苦しんでいる子供を助けることができなくなってしまう危険性があります。むしろ、常に「このクラスでもいじめは起きる」と思って目を配っている方が望ましいという考え方も成り立ちます。
学校現場における「健全な不信感」問題、杉本氏に別の機会にでも語ってほしいものです。そうそう、教員と校長の関係において、もです。
「それでもいい」8月7日
読者投稿欄に、豪州在住救急救命士F氏による『人種差別的な発言に傷つく』と題された投稿が掲載されていました。その中でF氏は、『先日、認知症の高齢女性から罵声を浴びせられた』体験について書かれていました。
『彼女は白人でない私を見た途端に顔をゆがめ「態度が悪い。お前にような者を働かせる国になり、地に落ちたものだ」とののしった。だが、白人が現れると途端に柔和になる。認知症で抑制が利かなくなり、本音が出るのだろう。搬送中も罵倒は続いた』と。
豪州については、私が子供のころには「白豪主義」の国、白人優先の国と教わったものです。しかし近年は、民主、自由、人権、法治を基本的な価値観とする国として、我が国とも近しい国となっています。教委勤務時には、中学生のホームステイ先として、安心して送り出せる国という認識でした。
でもやはり、高齢者、子供のころに「白豪主義」で育った人の中には有色人蔑視の観念が色濃く残っているのでしょう。F氏のような経験をする人は少なくないと思われます。残念なことではありますが、それが現実というものなのでしょう。ただ私は、こうした事例を目にするからこそ、豪州は偉大な国だ、そこに住む国民は素晴らしい人たちだと考えます。認知症の彼女も、病に罹る前までは、非白人にも笑顔であいさつするような人であったと思われるからです。そして、そうなるために努力をし自分を律してきた人だと。
私は、長年の教委勤務で人権教育を担当し、このブログでも人権問題を取り上げ、差別や偏見について糾弾してきました。しかしそんな私の中にも、差別や偏見は確実に根を張っているのです。障害者や外国人に対して、健常者や日本人とは異なる感覚を抱いていることは否定できません。
初めて入る店で、外国人ばかりであったら、居心地の悪さを感じてしまうでしょう。時間の余裕があればさりげなく他の店に移るかもしれません。電車に乗って、二カ所席が空いたとき、片方は両隣が外国人、もう片方は両隣が日本人の場合、多少遠くであっても後者の席に座ろうとすると思います。外国語が話せないから、という理由で。でもそれ以外に、日本人の方が安心というような、日本人と外国人は違うという潜在意識が働いた結果であることは確実です。でもそうした行為がそこにいる外国人を傷付けるかもしれないと考え、一瞬の逡巡の後、近い方に座ります。
私はそんな自分を許しています。人間はそんなもの、自分と違う存在に対しては本能的に警戒感を抱くものだと思っているからです。それを完全に否定すると苦しくなってしまいます。でも、人権の価値が共通理解されている現代日本において、差別や偏見につながる言動は許されないという知識と自覚をもち、それに基づいて自分を律することはできる人間であるつもりです。
それで十分ではないでしょうか。私は人権教育の理想は理想として、現実の目標は、表に現れる行動が他人を傷つけない、嫌な思いをさせないという行動レベルで己を律するものであれば良いという考え方です。認知症になって自分を律することができなくなったときは、勘弁してもらうしかありません。
「基盤は?」8月6日
『東大大学院 授業英語科の波紋』という見出しの記事が掲載されました。『「授業の英語化をスタートします」-。東京大大学院工学系研究科のこんな宣言が話題を呼んでいる』ということで、その背景や反応、課題などについて報じる記事です。
私は、工学のことは全く分かりませんし、大学院教育についても素人です。ですから、この問題に直接言及することはしません。ただ、気になる記述がありました。東京大大学院工学系副研究科長津本浩平氏の言葉です。津本氏は、「母国語で高等教育が受けられなくなるのでは」という懸念に対し、『無理にすべての授業を英語化するということではありません。母国語で学ぶ機会が失われることに対する警戒感は、もちろん私たちの中にもあります。基盤となる学問はこれまで通り母国語で講義します』と話されているのです。
基盤となる学問とは何を指すのでしょうか、というのが私の疑問です。今、高校でも英語で授業、を売り物にしている学校が出てきています。もしかすると、そのうち中学でも、あるいは小学校でも英語で授業をセールスポイントにあげる学校が出てくるかもしれません。私立や小中一貫校、中高一貫校など、いわゆる「出来る子」を対象として、です。
私はそうした動きには反対の立場です。母国語で学び、考えてこそ学習が深まると考えるからです。しかし、理系(古いかも)においては、国際共通語的な存在が必要であることも理解できます。そこで、何は英語で、何が母国語なのか、それをはっきりさせることが必要になると思うのです。
それを考える際に、津本氏の言う「基盤となる学問」が参考になると考えます。まさか、工学系大学院で、日本文学や日本の歴史を「基盤~」とは言わないでしょう。私は母国語で学ぶべきは、哲学や倫理、思想や宗教、法学などの人文科学系の学問だと考えています。そしてそれらは、新しい技術が研究室を出て社会に実装される際には、絶対に必要になると考えています。小中高の教科で言えば、国語と社会に関連が深い内容です。
大胆に言い切れば、算数・数学と理科は英語でもよいが、他は母国語でということです。それでよいのでしょうか。津本氏には、もう少し詳しく語ってほしいと思います。経済学も社会学も、影響力のある論文は英語で書かれているようにも思いますし。
「スマート〇〇」8月6日
『睡眠の質 可視化が大事』という見出しの記事が掲載されました。『睡眠と身体活動の関係を調べる目的で開催』された企画についての説明から始まります。『参加者はガーミン社のスマートウォッチを装着。機器には心拍センサーや加速度センサーが内蔵され、体の動きや血中酸素レベルなどを分析する』と。
科学音痴の私には詳細は理解できませんでしたが、従来対象者の感覚による自己申告を基に分析研究していたため、客観性に欠けていた睡眠と活動の関連性について、機器の活用で正確かつ詳細にデータ収集できるようになったということのようです。
大掛かりな機材ではなく、スマートウォッチ程度の機器で、子供の脳の活発さを測ることができるようになれば、教員の指導、授業の形態、教材の内容などと、学習への意欲や態度との関連が「科学的」に調べられるようになるのではないか、そんな空想をしてしまいました。
教員時代、そして指導主事になってからも、私は、社会科の指導法について研究と実践を重ねてきました。そんな私にとって、忘れられない2つの出来事があります。若手の教員だった私は、ある研究会に所属し、研究発表や研究冊子の制作などに取り組んでいました。先輩や仲間との共同研究は楽しく、やりがいのあるものでした。しかし、ある大学の研究者から、「教員の研究と称するものは、研究とは呼べない。情緒的で分析ではなく感想レベルの作文に過ぎない」と言われてしまったのです。何の反論もできませんでした。
また、指導主事となり、都立教育研究所の所属して研究を続けていたとき、大学4年生になっていた教え子たちと食事をする機会がありました。一人は医学部で学び、もう一人はデザインを専攻し後日大学の教官になった青年でした。彼らは私が教育研究所に勤務していると聞くと、「教育って何か研究することってあるんですか」と質問してきたのです。
どちらも、教員が行う実践研究は、研究ではなく実践報告に過ぎない、授業者の主観的な感想の羅列に過ぎない、なぜなら客観的なデータがなく、同じ条件での再検証もできないから、ということでした。
もし、何らかの機器で、脳波や脳のどの部分がどの程度活性化しているかなどのデータ(正直どんなデータが必要か、あるいは収集可能か全く分からないが)を数値化して表すことができれば、教員が行う様々な指導法の研究が大きな進歩を遂げることができるのではないか。私が受けた疑問に対して明確に反論ができるようになるのではないか、という気がするのです。
もちろん、私個人の思いなどではなく、有効な指導法の開発につながることが期待できますし、それは子供の学力向上につながるはずです。また、指導力不足教員の研修などへの活用も見込まれます。教育学者と脳科学者、技術者などとの合同研究はどこまで進んでいるのでしょうか。自分の目の黒いうちに実用化される姿を見てみたいものです。
「今 、どこまで?」8月5日
『ランドセルの色 ブルーな親心』という見出しの記事が掲載されました。『男の子がピンク ジェンダーレス時代だけどからかわれない?』と悩む親たちの思いに焦点をあてた記事です。
私は10年以上前にこのブログで、男女平等教育研修会に参加した「意識高い系」の女性教員たちと我が子のランドセル選びについて、本音で語り合ったときのことを書いています。当時、彼女たちは「男女で色の違いなんておかしい、とは思うし、そう主張してきたけど、いざ我が子がとなると、息子にピンクのランドセルは…」と語っていたものでした。私が指導主事をし人権教育を担当していた頃ですから、実際には25年前のことになります。
今では、男子がピンクのランドセルは珍しくもないことになりました。時代は変わっているということを感じさせられました。そう思う一方で、次の記述に考えさせられました。発達心理学を専門になされている京都大教授森口佑介氏の言葉です。
『子どもは3歳ごろから慣習や社会的なルールを理解しはじめ、男の子らしさや女の子らしさについての認識もこの頃から形成されていく(略)スカートや人形遊びなど「女の子らしい」と感じるものを自身と同じくらいの男の子が身につけたり遊んでいたりすると、違和感を覚えて、感情的に反応する』というのです。これがいじめやからかいに結びついていくのです。
今時代は変わり、ピンクのランドセルに対する違和感は減じられています。では、スカートはどうなのでしょうか。小1の男児が、「お姉ちゃんみたいなかわいいスカートで学校に行きたい」と言い出したとき、親は、教員はどう対応するのか、あるいはするべきなのか、という疑問です。スカートだけでなく、シュシュやリボンはどうでしょうか。花をかたどったブローチはどうでしょうか。
ジェンダーレスの時代、ピンクのランドセルを認める考え方の流れから言えば、スカートも同じだということになるはずです。スカートは女児という慣習や社会的なルールの方こそ変わるべきだという理屈になります。親がそうした「理論武装」をした上で、息子はスカートで登校させます、と言ってきたとき、教員はどう対応すべきでしょうか。実際にどんな対応ができるでしょうか。現実論だけではなく、理屈の筋が通った対応は。
近い将来には、現実問題として考えておかなければなりません。
「大事にされる」8月5日
連載企画「学校とわたし」は、こども政策シンクタンク社長白井智子氏が語られていました。その中に次のような言葉がありました。『勉強ができる子が大事にされ、できない子は否定されるということを感じてショックでした』。白井氏が小学校時代に感じていた、我が国の学校に対する疑問です。
もっともです。全ての教員はそんな態度をとるべきではないと思います。その一方で、素朴な疑問も浮かんできました。できない子を否定するのは良くない、と思いますが、勉強ができる子を大事にする、というのはいけないことなのでしょうか、という疑問です。
揚げ足取りのようで心苦しいのですが、大事にするというのは、何らかの肯定的な評価を与えるということだと思います。学校は、第一義的に勉強をするところです。スポーツをするところでもなければ、友達作りをするところでもありません。人間関係は大切ですが、それは学校教育の第一義的な目的ではなく、あくまでも学校生活の様々な場面を通じて豊かな人間関係が築けたら素晴らしいことですね、ということに過ぎません。
読み書き算の基礎的な知識や論理的に考える力については評価するのに対し、仲の良い友達が〇人、言葉を交わす程度の友達が〇人などと評価することがないのは、学校教育が目指すものを端的に表しているのです。
掛け算九九を覚えられない子供には補習をしたり宿題を出したりします。漢字が書けない子供には書き取りの練習をさせます。しかし、友達が○人以下の子供を集めて補習をすることはありません。これも、学校が勉強をするところだからです。
学校が勉強をするところであるならば、勉強ができる子供に何か特別な「ご褒美」があることはむしろ当然なのではないでしょうか。塾ではあります。そしてそれは、ときとして子供を勉強に向かわせる力となります。どうして我が国の公立学校では、勉強できる子に何らかの「ご褒美」をあげることが、いけないこととされているのでしょうか。
私は勉強だけで子供を評価すべきと言いたいのではありません。ただ、学校は勉強をするところという原点に立ち返るとき、スポーツができず、友達作りも苦手だけれど勉強は頑張っているという子供がもっと認められ評価されることがあるべきだと思うのです。がり勉は恥ずべき事ではなく、それもまた一つの勲章になるべきだと。
「こういう対立大歓迎」8月4日
『聴覚障害者理解 社会が「壁」』という見出しの記事が掲載されました。『聴覚障碍者を巡る社会的課題』をテーマにした座談会の様子を報じる記事です。その中にとても興味深い応酬がありました。
事業構想大学院大学学長田中里沙氏が、『聴覚障害のある方がコンサートを楽しむ取り組みに参加(略)音楽を響きや色で感じる取り組みで、参加者はとても盛り上がっていました』と話されたの対し、自らが視覚障害者である東京大学特任教授福島智氏が『水を差すようですが、私はろう者として、聞こえない立場での「音楽」は存在しない思います。振動を感じても、それは音楽とは違う。振動や光を使った新しい芸術というのであれば理解できますが、ろう者も同じコンサートを楽しんでいると思っているのは、主催者だけかもしれません』と疑問を呈していらっしゃったのです。
田中氏も福島氏も、障害者が人としてあらゆる場面で尊重される社会の実現を願い、活動し、発信されている方です。いわば「同志」です。そうしたお二方が「対立」なさっていることにある種の感銘を受けたのです。
今の社会を表すキーワードは、分断と対立です。そこでは、弱者や少数派を邪魔者、あるいは敵として排除しようとする情けない、許しがたい言説が飛び交っています。そんな不毛な対立からは何も生まれません。
一方で、リベラルや人権派と言われる人々の中でも、同じ価値観の人だけで自己完結型の傷をなめ合いのような閉じた議論しか行われないような印象もあります。だからこそ、同じ志をもつ識者同士が「対立」する議論が新鮮に感じられたのです。
私自身、正直なところ、展示物を手で触ることができる博物館や美術館、というような試みを目にすると、それは本当に鑑賞したことになるのか、という疑問を感じていました。しかし、そうした疑問を口にすること自体が、障害者の問題に無理解であることを示す行為であるような気がして、口にできなかったのです。自分が差別者として非難されることが怖かったのです。
同じ志をもつ者同士の中でも、遠慮なく本音をぶつけ合って議論する、そうした積み重ねがあってこそ、理解が深まり、新しい発想が生まれてくると考えます。他の識者、障害のある当事者を巻き込んで議論が深まったら、とても素晴らしいことだと思います。
手で触る美術館、光で感じるコンサート、学校でも、生徒同士で話し合わせる題材として、とても適していると思うのですがどうでしょうか。
「自分はできる?」7月29日
『自由研究を考える』という見出しの記事が掲載されました。『生成AIが台頭し、人間が考える力がますます問われる時代。文字通り「自由」に「研究」する意義が再確認されても良さそうだ』ということで、自由研究の歴史や現状、課題について報じる記事です。
記事の中では、フリージャーナリスト小林美希氏が『各家庭の格差がはっきり見えてしまうのが、夏休みであり、自由研究なのです』と述べていらっしゃいました。全く同感です。しかし、それは経済的な格差で、体験教室のようなものに参加させられないということよりも、保護者が子供の自由研究に適切に関わることができるかできないか、という側面の方が大きいと思います。
広島大准教授の深谷達史は、現場の教員と共に『テーマ設定や問いの立て方、調べる方法などを具体的に示しながら児童を指導。最後に研究計画書の提出を求める』という指導をし、効果をあげた事例を紹介なさっていましたが、自由研究は大人の支援なしには成り立たないのです。
保護者が自由研究を支援しようとする場合、一番のネックは何か、私は保護者自身が「研究」というものを理解していないことが最大の障害だと考えています。もう時効だと思いますが、私は教員時代に、ある子供向け学習書の出版社の依頼を受けて、保護者と子供向けに夏休みの自由研究についての講演会に講師として参加したことがあります。
保護者の参加者は全員母親でした。彼女たちが切実に知りたがっていたのは、「何をやればよいか」でした。そもそも40年も前に、企業主催の講演会に参加するような母親ですから、教育に関心があり、時間的にも余裕がある人たちが大部分だったのでしょう。おそらく、ご本人たちの学歴も高そうでした。でも、「研究」についてのイメージはもてていなかったのです。
私は、「誰も答えを知らないことをするのが研究」だと言いました。例として、徳川家康の一生というテーマを示しました。家康の生まれてから死ぬまでを、詳細に稔表にまとめ、戦い、政策、家族のことなど色分けし、それぞれについてコラムという形でまとめ、一冊の本のような体裁にまとめる、という例を示し、それはどんなに正確に見やすく工夫されていても、「研究」ではない、と話したのです。それは「本」に載っていること、つまり既に誰かが知っていることの寄せ集めに過ぎないからです。
そして、もし、家康を取り上げるのであれば、家康が食べていたものを調べ、3日分の食事の材料を集めて再現し、友人や親せきの人20人に食べてもらい、感想を集め、その感想を味全般、材料について、調理法について、量についてなど分類して考察する、それならば「研究」になる、と話したのです。この研究構想を歴史学者に示したとして、小学生から高齢者、関西人と東北の人の味覚の違い等まで含めて感想を予想できる人はそうはいないはずですから。
そんなことを調べてどうなるのか、と聞かれたら、「関係ない、調べてみたいと思ったから調べただけ」と答えればよいのです。研究に置いた大事なのは、調べてみたい!という思いなのですから。
20人のサンプルに意味があるのか、、と聞かれたら、「学術論文ではない」と言い返せばいいのです。不正確でも、それが世界に一つしかないところに研究の価値があるのですから。
保護者自身が、知りたい!調べてみたい!という思いをもてる知的好奇心に富んだ人間であるか否か、それが子供の良き自由研究の伴走者としての最大の資質です。
「30年も昔から」7月29日
『好奇心の種を一緒に育てる』という見出しの記事が掲載されました。『子どもたちに何を学ばせるべきか』について、リクルート・スタディサプリ教育AI研究所長小宮山利恵子氏へのインタビュー記事です。
その中で小宮山氏は、『好奇心をいかに伸ばし、深めていくかが重要』『「もっと知りたい」と感じた瞬間に自発的な学びが始まる』『大人が正解を与えるのではなく、一緒に探究する伴走者となる』『大人も一緒に動いてくれたという成功体験を持ち、自身と探究心が育まれていきます』『答えのない問いに向き合って粘り強く探る力が必要』などと語られています。
賛成です。と同時に不思議な気持ちになりました。手前味噌だと思われてしまうかもしれませんが、これらのことは、30年前に学校教育の現場で広く言われてきたことだからです。
30年前、私は新米の指導主事でした。指導主事として教員を指導したり、研究会等で講評をしたりするために、たくさんの講義用レジュメを作っていました。教員時代の実践や研究員や研究生として学んだこと、教育心理学等の文献をまとめたものなどを整理し、当時、文科省や都教委が掲げていた理念や指針に沿う形で作成したものです。
そのいくつかは今でも手元に残っています。そこには子供観として「自分が好きなこと、興味があることには誰でも熱中できる」とあります。好奇心の重視であり肯定的評価です。「何かな?もっと知りたいという気持ちが、試してみよう、チャレンジしてみようという行動につながっていく」ともあります。自発的学びへの言及です。
「指導から支援へ」という教員観への言及、一緒に探究する伴走者というイメージと重なります。「人は絶えず誰かから注目され、認められてこそ自信を得て、積極性や集中力を発揮する」という表現、成功体験の重要さへの指摘です。
何よりも当時は学習須藤要領の改訂期でしたが、その大方針は、子供が自ら問題を発見し、予想を立て、粘り強く追究し、自分なりに表現する、だったのです。小宮山氏の指摘とほぼ同じことを言っているのです。
つまり、私が小宮山氏の主張に共感したのは当たり前、それは30年前から言われ続けてきたことだったからなのです。誤解のないように言っておきますが、だから小宮山氏の語られていることが陳腐だなどと言いたいのではありません。逆です。教育という営みの変わることのない真理を語られていると考えるのです。
そして、30年前に文科省や各教委が強く打ち出した方針がまた今小宮山氏のような先端の教育研究者の口から聞かれるということは、30年間かけても、理想が実現しなかったという悲しい現実なのです。それは、私のような立場にいた人間の力不足の証明でもあります。そういう意味では慙愧に耐えません。