ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

子供が好きになれない

2018-11-30 08:38:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員もなる」11月22日
 『可愛いと感じるまでそばに』という見出しの特集記事が掲載されました。ボンディング障害について報じる記事です。ボンディング障害とは、『子どもを虐待する母親の中には、「可愛い」「守ってあげたい」といった情緒的な絆(ボンディング)をわが子に感じられない』ことです。『愛情や慈しみの感情がわかないだけでなく、いらいらしたり、敵意を感じたりする母親もいる』とのことで、悩む人も多いそうです。
 私はこの記事を読んで、こうした感情は母親特有のものではなく、教員にもあるのではないかと思いました。私自身、小学校の教員になるときに家族から、「子どもなんか好きじゃないのに大丈夫なの?」と言われた経験があります。末っ子で甘やかされて育った私は、可愛がってもらうことには慣れていましたが、他者を可愛がる経験は乏しかったのは事実ですし、そう自覚してもいました。だからこそ、私をよく知る家族は、不安を感じたのでしょう。
 実際に教員になってみると、懸念するほどのこともありませんでしたし、経験を積むにつれ、教員にとって子供が好きというのも程度問題であり、あまりに子供を好き過ぎるというのも望ましいことではないと理解できるようにもなりました。とはいえ、実際に教員になってみてから、自分は子供が好きになれないということに気付き苦しむ教員もいるのは確かです。私は、教委勤務時代に指導力不足教員研修を担当していました。そのときの受講者であったT教員がまさにそうした人でした。とにかく子供の馬鹿さ加減が許せないという人でした。なんでこんな簡単なことが分からないのか、と子供を見下し軽蔑し、嫌悪してしまうのです。
 もちろん彼も教職課程を学んで教員免許を取得しているのですから、頭の中には「共感する」とか「寄り添う」といった概念が存在するのですが、子供を目の前にすると、マイナスの感情を抑えきれないのです。彼は教え子たちから「冷たい先生」と呼ばれていました。多くの受講者が、教員を続けるために本心を隠し、研修の評価者でもある私に対して表面的には迎合的な、見ようによっては卑屈な態度をとりましたが、彼だけは常に胸を反らせているような態度でした。そして、最も早く自ら研修を辞退し、退職の道を選びました。最後まで、苦しんでいる様子は見せませんでしたが、私には彼が間違った職業選択によって不幸になった人にしかみえませんでした。
 記事では、ボンディング障害を克服する方法について、『子どもの写真を見ることを勧めた。写真を見る時間を徐々に延ばし、次に子どもを撮った動画を~』という例が挙げられていました。教員に対しても、そうしたきめ細かな指導体制があれば、彼も退職せずに済んだかも知れません。子供が好きではない彼は、良い意味で冷静な対応ができる良い教員になったかも知れないと思うのです。

 

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クリエイター?マネージャー?

2018-11-29 08:25:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「名は体を表さない」11月21日
 『人材不足で「ニンジャ募集」』という見出しの記事が掲載されました。ウォール・ストリート・ジャーナルのテピン・チェン記者の記事です。記事によると米国では、『若い層を狙って「インパクトを与える、または差別化する」ために、肩書きを一ひねりする傾向がある』のだそうです。
 具体例として、データアナリストがデータラングラー、最高コンプライアンス責任者が最高倫理責任者という事例が挙げられていました。ちなみに、データラングラーとは、『カウボーイが牛を操るようにデータを自在に操る』という意味だそうです。また、最高倫理責任者は、『ただ規制を守るだけでなく、企業がいかに社会や政治と関わるかという複雑な領域に対応することが重要な職務となっている』ということです。これらは、『何か意味のある仕事をしたい』という深層心理をついているのだそうです。
 要するに、ある職の名称を変えることでイメージを変え、魅力を感じてもらうという取り組みです。我が国の学校でも、こうした取り組みをしてみたらどうだろうと想像してみました。
 学校には、校長、副校長以外に主幹と主任という職があります。また、○○実行委員長と言う名称の職が置かれることもあります。しかし、何をするのか、どのくらい「偉い」のか、外部の人には分かりにくいでしょう。肩書きを名刺に書いても、教員以外には、何をしているのか分からずに、聞き返されることもありました。さらに、教員の中にも、今度○○主任になったんだけど何をすればいいんだろう、と言う者がいるのです。
 私自身、教務主任になったとき、PTAの役員から「先生、3番目に偉くなったんですってね」と言われ、戸惑ったことがあります。また、PTAの行事の準備の際、「先生から主事さんに手伝ってくれるように言ってください」と言われ、そんな権限はないということを説明するのに苦労したこともありました。さらに、校長と教頭が不在のとき、他の教員から、「急ぐので校長先生の代わりに公印をお願いします」と言われ、驚いた経験もあります。
 たしかに「教務」というのは、何を指すのか分かりにくいです。そこで、チーフカリキュラムマネージャー、またはチーフカリキュラムクリエイターという名称にしてみるのです。なんだか「カッコイイ」ような気もします。教育課程編成の中心となる人というようなイメージです。こんな調子で、他の主幹や主任についても、一ひねりしてみたいのですが、適切な名称が浮かびませんでした。
 まあ、暇つぶしのお遊びのようなものですから真剣に考えることもないのですが、今後こうした取り組みが、広がる可能性は皆無ではありません。学校の独自性が重視される中で、手っ取り早くマスコミの注目を集めるには、費用も要らず簡単な方法ですから。特に、特色が求められる私立校などでは、導入するところがありそうです。
 私は名称を変えても意味がないという立場ですが、新しい名称を考える過程で、その職務内容を再検討したり、学校組織全体を見直したり、必要な適性を吟味したりというような効果が生じる可能性は否定できません。「実験」として取り組む学校があれば注目したいものです。

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問題設定ミス

2018-11-28 08:29:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「問題設定がずれている」11月20日
 『体育会系×学問=難題解決』という見出しの記事が掲載されました。『コンピューターゲームの腕前を競う「eスポーツ」はスポーツなのか。熱血指導とパワハラの境界線は-。スポーツ庁が、科学者の代表機関「日本学術会議」にスポーツを取り巻く難題への知見を求めることにした』ことを報じる記事です。
 面白い発想だと感じました。どんな結果が出るか、楽しみに待ちたいと思います。しかし、学術会議に知見を求める中に、問題設定自体が間違っているのではないかという事項があります。それは、『過度な練習が学業へ悪影響を及ぼしている部活動もある。時代や社会情勢で評価が変わる側面もあり~』というものです。これは、スポーツ庁が狙いとする『スポーツを取り巻く難題』なのでしょうか。確かに「eスポーツ」の位置付けはスポーツ界の問題でしょう。しかし、部活はスポーツ界の問題ではなく、学校教育の問題です。
 中高における運動系部活動を、スポーツ振興やスポーツの普及にとって不離のものとして扱うという前提があっての問題設定となっているのです。当然のことですが、スポーツと学校教育の関係は国ごとに様々な形態があります。学齢期の青少年が地域のスポーツクラブ等でスポーツに親しんだり、競技力を向上させたりすることが一般的な国もあるのです。部活という制度自体がなかなか理解されない国もあります。
 我が国でも、最近活躍している若い選手、卓球の伊藤選手や張本選手、テニスの錦織選手、競泳の池江選手など、中高の部活でスポーツを出合い競技力を向上させたのではなく、別の場で練習を積んで一流選手となっているのです。部活依存型から地域主体の社会教育。生涯スポーツへの移行という形を最初から排除し、学校の授業と部活の両立という狭い範囲での対策を考えるのでは、せっかくの我が国トップの叡智を集める意味がありません。
 ますます進行する高齢化社会においては、健康寿命の延伸・維持のためにも、生涯スポーツの概念が大切になります。そのためには、地域社会にスポーツ施設や指導者がいることが重要になります。そんな方向も視野に、運動系部活動の縮小こそ、学校教育の本務である授業の充実に資すると考えます。

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付属物

2018-11-27 08:24:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その発想が」11月20日
 客員編集委員玉木研二氏が、『監督は笑った』という表題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、道徳教科書の「星野君の二塁打」と関連づけて、大阪市のO氏(70歳)からのお便りを取り上げていました。
 中学校でソフトボール部に所属していたO氏もバントのサインを確認できないまま強打し長打を放つ経験をしています。『しかし結果的にサイン無視には違いない。怒声を覚悟し監督の前で頭を下げた。監督は言った。「こら!バントのサインを出したのに…でも、よく打った」。こわもてが笑っていた。試合を終え、帰校する路線バスの車内でも隣に立って「よく打った」と言った。うれしそうだった』O氏はお便りの中で、このように当時を振り返っていらっしゃっていたそうです。
 そして玉木氏は、『監督の「こら!」に続く笑顔に救われ、何十年も前の懐かしい記憶が心を温める。考えてみれば、これこそ学校教育の真骨頂なのかもしれない』と述べられています。玉木氏が伝えたかったことは、「星野君の二塁打」をルールを守るという訓話として押し付けるような道徳授業への疑念だったと思われます。その考えに異存はありません。ただ、O氏のエピソードに「学校教育の真骨頂」という評価を与えていらっしゃることには疑問を感じました。
 それは、個人の心の中に「心を温める思い出」を残すことが、良い教員の条件のように誤解されるのではないか、という思いからです。人間関係は多様です。教員と子供の関係も、人間同士という意味では同じです。教員の言動が、ある子供には強く印象に残り、別の子供の記憶には何も残さないということは珍しくありません。また、強い印象を与えた場合も、それが「心を温める思い出」なのか、「不快な傷跡」なのか、180度異なることもあり得ます。もしかしたら、O氏のケースも、「監督はいつもOさんだけを贔屓する。私が同じことをしたら怒鳴りつけるのに」という思いを秘めていたチームメイトがいたかもしれないのです。
 このブログで繰り返し触れてきたことですが、私は教委勤務時代に「指導力不足教員研修」を担当していたことがありました。彼らの中には、「私はこんなに子供に慕われている」ということをアピールする者がいました。ある教員は、休日に担当する部活の生徒を勝手に連れ出し遺跡見学をしたときの写真を示し、笑顔を見せる生徒とのつながりを強調し、別の教員は、自らの趣味(特技?)である天体観測での子供の声が掲載された新聞記事をコピーし、子供との絆の深さを教員としての有能さの証拠としてアピールしてきました。
 でも、彼らは紛れもない指導力不足教員でした。一部の子供、相性が合う、あるいは教員の趣味や特技に強い関心をもつ子供からは好かれていても、授業はできず、学級は滅茶苦茶だったのです。
 一部の、あるいは一人の子供に「心を温める思い出」を与えていることで、教員失格者が免罪符を得ることはあってはなりません。それは「学校教育の真骨頂」ではなく、たまたま派生した付属物でしかないのです。

 

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平成の教育

2018-11-26 08:39:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「バランスを欠く」11月20日
 シリーズ「平成の記憶」の今回のテーマは教育でした。『「ゆとり」に揺れた現場 考える力育成模索』『指導要領 重ねた変遷 知識偏重は変わらず』『いじめ自殺やまず 悲劇の根絶 答えなく 網広げ実態把握進む』という3本柱で構成されていました。一読した印象は、ずいぶんとバランスを欠いた記述だなぁ、ということでした。
 記事の冒頭には、『新たな教育改革は生きる力を育めるのか。改革の行方を見定めるためには、平成の教育をまず丹念に検証しなければならない』と書かれています。検証の対象は、「教育」だと言っているのです。それにもかかわらず、家庭教育や地域における教育についての記述がないのです。
 確かに、学習指導要領の変遷については、学校教育だけで論じられても仕方がないと思います。しかし、いじめ問題について、家庭や地域の視点からの分析や提言は必要なかったのでしょうか。地域がいじめ加害者(とその保護者)を擁護し、被害者を苦しめる構造は無視できないはずです。加害者側は多数派であり、被害者側は少数派です。加害者側の主張に地域の有力者やPTAの幹部が同調し、被害者側にも問題があるという考え方で被害者を責め、被害者が学校に居づらくなり転校を強いられるというケースがあるのです。
 また、ゆとり教育においては、地域や家庭の教育力の問題はより大きな比重を占めています。記事の中にも、『根底にあるのは昭和の終わりに打ち出された生涯学習の考え方だ。それまで「教育」は学校期だけで完結する「世界観」。それを「生涯を通じた学びに」という理念に転換~』という記述があります。記事では、時間軸だけを論じていますが、実際には時間軸における学習の延長だけではなく、物理的に学校以外の場における学び、家庭と地域における教育力の向上充実に期待する発想があったのです。
 つまり、学校における学びを相対的に縮小する代わりに家庭や地域における学びを拡大するということです。その具体化が、同じ時期に導入された学校週5日制だったのです。当時の議論として、現状では家庭や地域社会の教育機能は不十分であり、今後その教育機能を充実させる諸対策が求められるということだったのです。しかし、国民はこうした動きを「負担増」と捉え、今まで通り「教育」は学校に丸投げしたい、という態度でした。そして、政治は国民の要求を拒むことができず、「家庭は今まで通り、教育は学校が引き受けます」という方針に戻り、現代に至っているのです。
 ゆとり教育の前提に、学校が躾や基本的な生活習慣の定着などに割いてきた時間と労力を、本来の担い手である家庭や地域が分担することによって、学校の教育資源を授業の充実に集中させていくという構想があったのです。
 学校・家庭・地域が、それぞれの特性を生かして教育機能を発揮し、子供を育てていくという当たり前のことが認められず、学校一極依存が強まってきたというのが平成の教育を語る際に書くことができない視点なのです。
                                           

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ムスリム日本人教員

2018-11-25 09:12:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員として」11月19日
 『日本人ムスリム増え4万人に』という見出しの特集記事が掲載されました。見出し通りのの内容で、『日本人ムスリムは1969年に2000人だったが、16年の推計では4万人に上る』のだそうです。国際化が進み、今後さらに急激に増加することが予想されます。なお、内訳は、結婚で改宗した人が1万2000人、第2世代が2万3000人、国籍取得した外国出身者3000人、自ら改宗した人2000人ということです。
 また、日本人ムスリムの声として、『礼拝は会議室を使うが、礼拝前に体を清めるのに苦労する』『子どもたちの給食は豚肉が出ることも多く、弁当を持たせる』などが紹介されていました。家庭でも職場でも特に大きな問題はないという状況のようでしたが、日本人ムスリムが公立学校の教員になった場合はどうなのでしょうか。
 もちろん、採用に当たって思想信条を理由として差別することは許されませんから、今後多くのムスリム教員が存在するようになるはずです。礼拝の時間には授業を入れないようにする、礼拝用の場所を確保するなどの対応は当然ですし、ある程度は可能でしょう。しかし、移動教室などの宿泊を伴う学習や工場見学などの校外学習では、難しい場面がありそうです。日光東照宮に行って拝殿に上がるなどということはできないでしょうから。
 また、給食指導では、在籍する児童生徒のためのハラル食を教員にも提供すればよいのですから問題ないように思えますが、突発的な状況、子供がこぼしたり、嘔吐したりといったケースの対応には支障が出るかもしれません。女性教員の場合、体育の指導で、水着になれなかったりすることはないのかも気になるところです。
 さらに最も困難なのは、ムスリム同士で、戒律に対する対応に差が見られることです。ムスリムの国の中でも、サウジアラビアとインドネシアやトルコでは、戒律を守る際の「厳しさ」が違うといわれています。ムスリムを教員として採用した場合、A教員は、礼拝の時間は職務上の都合がよいときでいいですよ、と言い、B教員は、戒律の時間も清めも厳格なルールがあると言うのでは、Aは話が分かる柔軟な人でBは融通の利かない頑なな人という評価になってしまいがちです。その結果、教員仲間からも保護者からもB教員に非難が集まるということになってしまうでしょう。実はこうした微妙な問題こそ、管理職が頭を悩ますものなのです。
 ムスリム教員の実態も課題も、話題になることは少ないようです。文科省は、実態調査を行い、検討結果を公にしていくべきです。

 

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正しく美しく

2018-11-24 08:26:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「弱点」11月17日
 『美しい日本語伝えたい』という見出しの特集記事が掲載されました。『「日本語の美しい発声」を伝えたいと活動する元アナウンサーの授業』について報じる記事です。見出しを目にして、」これは我が国の国語教育の弱点の部分に焦点を当てた取り組みだと思いました。
 ここで言われている「美しい発声」とは、いわゆる「美声」とは違うと思われます。だみ声であっても、しわがれ声であっても、美しい発声はあるという立場であると思われます。だからこそ、声楽家ではなく、アナウンサーが問題意識をもって取り組んでいるのでしょう。以下、美しい発声とは正しい発声のことだと考えて話を進めていきます。
 国語の学習においては、読む・書く・聞く・話すという4種類の分野が想定されています。「書く」については、分かりやすい文章を書くということが大部分を占めていますが、書写の時間があるように、正しい字を書くという技術的な指導も行われています。一方で、「読む」については文章の大意を読みとり理解する読解を意識した授業が行われており、正しい発声で音読するということを目的とした授業はほとんど行われていません。もちろん、個々の教員がそれなりに指導している実態はあるのですが、国語科の研究や実践報告で、正しい発声での音読がテーマに掲げられることは少ないという意味です。
 また、「話す」についても、要点を絞る、結論を先に述べるなどの分かりやすく伝えるための指導は盛んですが、その際にも、正しい発声で、が指導事項となることはほとんどないのです。つまり、正しい発声は、軽視されてきたのです。
 さらに正しい発声といえば、音楽の歌唱指導の中にもみられますが、それはあくまでも歌という特殊な場面での発声であり、話すという行為における発声とは似て非なるものです。要するに、学校教育全体において、「正しい発声で話す」についての取り組みは遅れているのです。
 元アナウンサーが指導する授業の内容を見てみると、『「声を出す前に体を柔らかくすると、もっと上手に読めますよ」と声をかける。手をブラブラさせたり全身を動かしたり。運動する前の準備体操のようだが~』『読む前に口の中で舌をグルグル回すといい』『文の頭はしっかり声を出そう』といった具体的な指示がありました。こうした指導をしている教員はほとんどいないのではないでしょうか。
 また、『同じ「が」でも「学校」の「が」は強く発音し、「私が」の「が」は鼻にかけて柔らかい鼻濁音にする』『「ございます」の「す(su)」は母音(u)を発音せず「s」だけになる』など、かつては常識でありながら、今ではほとんど省みられることがないような指摘も行われていました。『ありがとうの「う」を文字通り「ウ」と発音する』『「を」を「ウォ」と発音』することが誤りでありという指摘など、私も意識せずにいた事柄でした。
 私のつれあいは、教員時代に国語科の研究をライフワークにしていました。彼女がよくテレビドラマの登場人物のせりふについて、「ここは鼻濁音じゃないと…」などというのを聞いて、細かいことを言うなと思っていたのですが、彼女は優れた国語教員だったのだと見直しました。彼女は地方の出身で、教員になりたての頃、自分の話す言葉を子供たちに笑われたことがあるそうです。そんな経験から、日本語の発声に敏感になっていったのかも知れません。
 閑話休題。いずれにしても、正しい発声の日本語について、学校教育、特に小学校では、教員が共通認識をもって指導に当たることが必要です。公教育は、伝統の継承もその大きな役割なのですから。

 

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軽薄と紙一重

2018-11-23 08:22:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「宗教教育への影響」11月16日
 『ライトに“仏教”浸透中』という見出しの特集記事が掲載されました。記事によると、『仏教をモチーフにしたアクセサリーや小物を日常的に愛用している人も増えている。仏像の「イケメン」度を評価することも。肩肘張らずライトに“仏教”に親しむ風潮』が広がっているというのです。
 具体例として、『「らほつニットキャップ」。かぶって前髪をしまえば仏頭のようになるというデザインが乙女心に刺さった』『芸能雑誌の美少年コンテストに「阿修羅賞」を特設』『快慶作「十大弟子立像」を人気順にランキング』『「プロジェクションマッピング法要」を行っている。堅苦しさを取り除こうと、わざわざ「コスプレ喪服も大歓迎」』などが紹介されていました。
 統計上、仏教は我が国最大の宗教です。法要や初詣、お宮参りや七五三、結婚式などに神社仏閣、教会などを訪れるだけのイベント宗教が主流の我が国において、どんな形であれ、宗教に関心をもつのは悪いことではありません。ただ、これでよいのかという懸念も捨て切れません。
 「ビルマの竪琴」という名作があります。第二次大戦後贖罪の意識からビルマ(現ミャンマー)に僧として残った日本兵を主人公にする物語です。ある作家が、この小説を読みミャンマーに関心をもった若い日本人女性が、ミャンマーを訪問して僧に話しかけ握手を求めようとでもしたら大変なことになると危惧していました。仏教国であるミャンマーでは、僧は尊い存在であり、厳しい戒律の中で生活する僧は女性に触れることさえ避けるものなのです。ですから、日本の若い女性が無邪気に近づき体に触れようとすれば、僧は驚いて逃げ出すでしょうし、そうした行為をした女性はミャンマーの人々から激しい非難を受け、場合によっては攻撃を受けることさえあり得るということです。
 世界中には、日本人には想像もできないほど、宗教に真摯に向き合って生きる人々がたくさんいます。そうした宗教への熱情を理解せず、「ライト感覚」で宗教を理解した気になってしまうと、国際化の時代、とんでもない事態が引き起こされかねません。
 我が国の学校では、いわゆる宗教教育はほとんど行われていません。私は、今後の学校教育の課題として宗教教育と戦争教育の2つをあげてきました。その思いは今でも変わりません。一方で、我が国の学校教育では、子供にとっつきやすいということが非常に重視される傾向があります。本質的な理解や思考よりも、まず抵抗感が少ない部分で触れてみましょうという発想です。それは、教授論としては正しいのですが、安直に分かった気になってしまうという欠点もあります。
 将来、宗教教育が導入されるようになったとき、このライト感覚がおかしな取り入れ方をされなければよいが、と考えています。

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学校とピーター

2018-11-22 07:34:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校という組織」11月16日
 余録欄に桜田五輪担当相の能力についての疑義を取り上げたコラムが掲載されました。その中で、『ピーターの法則』が取り上げられていました。同法則は、『ピラミッド型の組織の成員は有能ならば上のポストに昇進する。だがそのポストで有能でなければ出世は終わる。人はそれぞれ無能になるレベルまで昇進し、その結果、組織のポストはすべて無能な人間が占めてしまう』というものだそうです。
 つまり、有能な社員は出世して課長になる。でも、係長までは有能だった人物も、課長としては無能であることがあり、その場合は課長から上には昇進しないので無能な万年課長として、職場に居残り続けるという皮肉な見方です。では、学校ではどうなのでしょうか。従来、学校は「鍋ぶた型組織」と言われ、校長の下に教頭、その下には全員同じ教員が多数横並びでいるという組織形態でした。つまり、「ピーターの法則」は当てはまらなかったことになります。しかし近年の改革で、校長・副校長・主幹・主任・一般教員というような疑似ピラミッド型組織に変貌しました。とすれば、無能な副校長、無能な主幹、無能な主任が、多数存在するということになります。
 教委時代のいくつかのエピソードを思い出しました。ある校長が、「校長になるとその先の目標がない」と話していたことがあります。その話を耳にした教育長が管理職対象の研修会で、「校長先生は次に大校長を目指してください」という趣旨の話をしたのです。当時は、分かるけれど抽象的な話だなと思っていましたが、その後統括校長という職が設置されるようになりました。教育長には先見の明があったのかもしれません。
 また、主幹制度ができたとき、無能なベテラン教員を主幹に押し上げ、後任にやる気と能力のある若手を充てたいという校長がいました。これは、「ピーターの法則」について、『それで組織は動くのかと気になるが、仕事はまだ無能レベルに達していない人がやるから心配無用』と言われていることの応用編のような発想です。
 先ほど、近年の学校組織の改編後の校長・副校長・主幹・主任制度について、疑似ピラミッド型組織と言いましたが、学校組織は明確な規則と上司の指示命令で動くような体質ではなく、だから疑似とつけたのです。私は、教委の幹部時代から、学校というある種特殊な組織について、組織や経営の専門家の方に調査分析し、よりよい制度を構築してもらいたいと考えていました。学校に「ピーターの法則」が当てはまるのかも含めて、研究が進むことを願っています。

 

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あるともつ

2018-11-21 08:41:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もしかしたら」11月14日
 法政大総長田中優子氏が、『ユニバーサルマナー』という表題でコラムを書かれていました。その中で田中氏は、『ユニバーサルマナーとは、障害をもつ人、高齢者、3歳未満の子供などとコミュニケーションをとる際に、必要となる意識や行動のことである』と述べていらっしゃいます。
 私はこの中の、「障害をもつ人」という表現に着目しました。このブログでも以前この問題を取り上げました。私が教委で人権教育を担当していたとき、「障害をもつ人」という言い方は避けるのが常識でした。「障害のある人」という言い方を用いていたのです。前者の「もつ」には自らの意思で、というニュアンスがあります。障害者は、自ら望んで障害者になったのではないので、「もつ」は相応しくない表現であり、障害者を傷つけるという考え方からでした。
 田中氏は、「もつ」を使われています。これが人権感覚に乏しい人の発言であれば、無知あるいは無関心を示していると切り捨ててしまうところなのですが、このコラムでも人権問題について深い理解を示されてきた田中氏の表現であるだけに、私の理解とは違う何らかの意味があるのではないか、と思ったのです。
 あくまでも想像ですが、障害を降りかかった災難視する受け身の発想ではなく、障害も自分らしさの一つとして積極的に評価する発想から「もつ」を使われているのではないでしょうか。
 また、障害のあるお子さんの親御さんたちが、「この子のお陰で人間として成長できた」という意味のことをおっしゃっているのを耳にすることがあります。これも障害の積極的評価の一つの表れです。ですから、類い希な運動能力を「もつ」、超人的な記憶力を「もつ」と言い、運動能力がある、記憶力があるとは言わないように、「もつ」を使おうという意思の表れなのではないかと考えてみたのです。
 江戸時代の文化を専門となさっている田中氏は、コラムの後半で『江戸時代に健常者・障害者という概念はない』と書かれています。もちろん江戸時代にも障害者はいたはずですから、田中氏は、障害者という言葉にマイナスのイメージを負わせて特別視するのではなく、『誰もが受け入れられ、さほど不自由しない社会』として江戸時代を認識し、現代社会もそうあるべきと言っているのだと思います。そのためには、障害を積極的に評価するという意識改革が大切だということなのではないでしょうか。
 人権教育における障害者差別の問題の扱い方にも、意識改革が必要なのかもしれません。
 

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