ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

即戦力重視

2009-03-31 08:02:57 | Weblog
「すぐに役立つ」3月26日
 文部科学省が、東京福祉大短期大学部に対し、同大グループの専門学校と明確な区別がないまま、通信教育課程の入学手続きや授業が一体となって運営されているとして、改善するよう指導したそうです。短大の通信教育課程は系列専門学校に同時在籍できる「併修」制度を設けているが、その場合の入学願書提出先や入学許可証の配布元は専門学校になっており、一部授業も短大と専門学校で重複、授業は専門学校の教員が行っていたということです。
 無理もないという気がします。起こるべくして起こった事件とも言えそうです。学校教育法第1条に定める学校はいわゆる「1条校」と呼ばれ、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学などです。普通、学校というとき、この「1条校」のことを指します。大学や高等学校の一部を除き、普通教育を行う機関と考えてよいと思います。普通教育とは、すべての者に共通な教育、一般的・基礎的な教育を意味しています。一方、専門学校は、職業もしくは実際生活に必要な能力を育成することを目的とするものが主となっています。両者は「教育」という大きな概念で括ることはできますが、そもそも異なるものなのです。
しかし、近年、教育にも目に見える成果、具体的な成果を求める風潮が強まり、いわゆる「教養」が軽視され、「実践的な技能の習得」を重んじる傾向が顕著になってきています。その結果、中学校や高等学校でも、職業に直結するような学習が、つまりすぐに役立つ学習が、「意欲的な試み」「新しい取り組み」として脚光を浴びるようになってきているのです。
そうした社会背景があるからこそ、専門学校と短大の混戦状態が大きな問題意識もなく進められてしまうことになったのではないかと推察することができます。学校教育は、少なくとも普通教育は、企業にとって使い勝手のよい人材を創り上げるためにあるのではありません。人としての基礎を作ることこそ学校、特に小中学校の役目であることを再確認する必要があると思います。

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学校では勉強はしない

2009-03-30 08:10:59 | Weblog
「学校の存在意義」3月29日
 内閣府が発表した「世界青年意識調査」の結果によると、学校に通う意義について、欧米では「知識を身に付ける」という回答が多かったのに対し、日本は「友情をはぐくむ」が最も多かったそうです。内閣府は「知識を身に付ける意義を低く見ると、社会に出た時に現実とのギャップを感じることにつながるのではないか」としているようですが、この結果こそ、わが国の教育政策の混迷を表すものです。
 わが国では、「教育」というと学校が連想されるほど、学校教育が突出し、家庭教育や社会教育が全く機能しない状態が続いてきました。特に戦後は、道徳性や社会性の育成、基本的な躾の問題まで学校が行わざるを得なかったのです。むしろ、それらの機能が重視されるようにすらなってきていたのです。そして、教育行政も、実際に過重な負担に喘いできた学校や教員までもが、それを当然のことのように思い、疑問の声をあげることがなかったのです。夜中でも休日でも、子供が事件を起こしたり、行方不明になったりすれば、教員は駆けつけていくことが当然視されていたのです。親が朝食も作らないとき、親を責める声はなく、教員が自腹で食事を与えても、感謝の言葉もなかったのです。
 その結果、わが国では、「学校は集団生活を学ぶ場」であることが重視され、「勉強は塾でさせますから、学校では躾をお願いします」というような本末転倒の意見を当然のことのように言う保護者が現れたのです。そうした中で学校生活を送ってきた若者が、学校は知識を身に付ける場ではないと考えるのは当然のことです。
 それならばそれでもよいのです。しかし、舞台はさらに転換します。最近になって、学力低下が問題視されるようになり、学校できちんと学力を身に付けさせるべきという主張が力を得てきています。その結果、再び学力も躾も何もかも学校でという方向で、今後の教育政策が進められようとしています。これでは、学校は崩壊してしまいます。
 学校は何のためにあるか、学校において最も重視されなくてはならないことは何か、家庭や地域社会は何を担っていくのか、こうした根元的な問いに対する答えを示すことこそ、教育改革のスタートになるべきです。
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トイレの汚れ

2009-03-29 08:02:13 | Weblog
「トイレの汚れ」3月27日
 「社内がおかしくなるとトイレが汚れる」サラリーマン小説を得意とする作家原宏一氏が、様々な企業に取材をする中で、聞き取った話だそうです。いわゆる「勘」というやつです。長年、ある現場で働く人には、特有の勘が働くものです。
 でも、経済評論家が公式の場で、「この会社はこれから問題が起きるでしょう」と述べ、その理由を問われて「トイレが汚れていたから」と答えたのでは、「ふざけるな」といわれてしまうでしょう。株価の動向や不良資産、在庫数などの具体的なデータに基づいて説明しなければ、誰も相手にしてくれなくなってしまうでしょう。しかし、データの分析とトイレの汚れとどちらが結果として正しい予想を導き出してくれるかは分からないのです。
 教育も同じです。長年、学校を見続けてきた人は、学校の活気や腐臭を感じ取るアンテナをもっている場合が多いのです。私も、10数年教委に勤務し、100校以上の学校をみてきました。接した校長などの管理職は300人を超えます。見てきた授業も、500回を超えます。正直に言って、ごく短い時間でも「こりゃあかん」とアンテナが告げるときがあります。10年目くらいからは、あまりはずれたことはありません。
 現代は、開かれた学校が求められています。多くの素人にも分かるように様々なデータが示されます。しかし、そうしたデータよりも学校にかんするベテラン職人の勘の法が正しい場合もあるはずです。「餅は餅屋」。専門家の見方を重んじるシステムを作り上げないと、正しい学校評価はできないのではないかと考えます。
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本音は…

2009-03-28 08:07:24 | Weblog
「本音?」3月27日
 都教委による国旗・国歌の徹底指導を巡る裁判で、東京地裁は立て続けに教員側敗訴の判決を言い渡したということを報じる記事の中で気になることがありました。一つはこの記事の見出しが「君が代訴訟原告敗訴」であることです。この件の本質は、君が代という特定の思想信条を賛美する歌を歌わそうとしたということではありません。法治国家のわが国において、法によって国歌と定められている歌を、法的拘束力があるとされている学習指導要領に定められているとおり指導及び対応しなさいという正式な職務命令に対して従わなかった公務員の「職務命令違反」の適否を問うものなのです。どう考えても、「国歌訴訟原告敗訴」でなければおかしいでしょう。君が代を国歌と認めたくないのではないかと思われても仕方がありません。
 もう一つは、度重なる職務命令違反により、昨春停職処分を受けている2人の教員について、今春の不起立によって「免職の恐れもある」としていることです。停職6カ月は、免職を除き、実際には最も重い処分です。また、処分が科せられるとすれば、免職は当然です。刑法でも、再犯は罪が重いものですし、公務員の処分基準も同様です。ですから、悪質な確信犯的違反者が排除されることは国民の利益にかなうことであるはずなのです。それは、私の主観であるというのであれば、せめて「免職の可能性大」とか「免職処分を受ける見込み」といった主観を差し挟まない書き方をすべきなのです。それが、マスコミのあるべき姿勢でしょう。もちろん、社説という形で、意見を述べるのであれば、「恐れ」でもかまいません。しかし、通常の記事の中に、さりげなく教委を批判し教員側を正義と見なすかのような表現を織り込むというのは、マスコミの姿勢として疑問です。隠していた本音が出てしまったとしか思えません。これからは、M紙の記事は眉に唾を付けて騙されないように気を付けて読まなければならないとしたら悲しいことです。
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幼稚園と小学校の距離

2009-03-27 08:02:23 | Weblog
「幼小一貫」3月26日
 小学校に入った児童が授業中に座っていられないなどの「小1プロブレム」に対応するため、東京都品川区教育委員会は、幼稚園・保育園と小学校の一貫教育のカリキュラムを作ることを決めました。集団生活のルールなどを教え、就学前後の教育の連続性を得る目的で、来年度に導入する計画のようです。
「トイレには休み時間中に行く」など、入学後に必要になるルールを教えたり、簡単な計算やひらがなの読み書きを教えたりすることなどを検討しているということですが、成功するかは疑問です。
様々な取り組みで全国の先頭を切る品川区です。そうした改革を引っ張ってきた教育長は、指導主事として、幼稚園教育にも携わった経験があり、幼稚園の教育についてよく知っている方であるはずです。幼稚園と小学校は全く異なる教育をしているのです。その違いは、小学校と中学校、中学校と高等学校よりも大きいのです。
 公立幼稚園では、いわゆるお勉強はしませんし、授業時間と休み時間の区切りもありません。ですから、小学校1年生のような生活させることはできないのです。トイレは行きたくなったときに行くのです。子供たちは、保育時間中は、室内にいる子供もいれば、園庭を走り回っている子供もいるのです。教員は、園庭から室内へ、教室からホールに、と動き回っているのです。
 公立の幼稚園を、早期教育を売り物にしている私立幼稚園のようにするつもりでしょうか。特色を出すということが目的化してしまっているような気がしてなりません。
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夜スペの問題

2009-03-26 08:16:04 | Weblog
「夜スペの是非」3月22日
 杉並区で始まった通称「夜スペ」について、その是非を論じる特集が組まれました。反対派の主張として「教育の機会均等に反している」ということが取り上げられていました。
私は、「どうでもいい」派です。ただ、「夜スペ」について最も問題なのは、「教育の機会均等に反する」ことではないと思っています。
 そもそも教育の機会均等とは、その能力に応じて教育を受ける機会が保障されるということです。ですから、できる子供、もっと難しい勉強がしたいと願う子供(意欲も能力の一つ)がいればそれを叶えるシステムがあるのは悪いことではありません。むしろ、問題なのは、義務教育は国民として最低限必要とされるレベルの教育を保障するという性格を有するものであるにもかかわらず、分数の計算もできず、小学校で習い漢字も読めないまま中学校を卒業してしまう子供が無視できない数いることです。
 ですから、経済的に余裕があり、勉強したい子供、勉強ができる子供は「夜スペ」に行けばいいのです。そして、経済的な余裕がないか、それほど勉強したくない子供、できない子供は行かなければよいのです。ただし、後者の子供たちも学校で普通に授業を受けていれば、「国民として最低限必要とされるレベルの学力」を身に付けることができるようにするということが大切なのです。そのためには、教員の授業力を向上させることが重要になってきます。
 しかし、「夜スペ」の発案者である藤原氏は、「教員は部活や生活指導で忙しいから、授業は塾の講師に」という発想なのです。そこに真の問題が潜んでいます。教員の授業力向上にきちんとした対策をとらずに、授業を外注してしまう発想からスタートしていることが「夜スペ」の最大の問題なのです。
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実力を示してから

2009-03-25 08:18:28 | Weblog
「教職大学院制度に課題」3月24日
 教職大学院制度について、院生が確保できるかどうかは、先生を送り出す側の教育委員会が握り、院を修了しても給料や採用の優遇もないなどの問題点を指摘する記事を目にしました。
 また、文科省が、大学院に進んだ新卒者が修了時100%採用試験に合格するよう非公式に求めていることを挙げ、「合格しなかった新卒者に2年後、全員合格を求めるのは難しい。それが前提だと、そもそも新卒者の受け入れに慎重にならざるをえない」という担当者の声を紹介してもいます。さらに、現職教員の院生の確保にも問題はあるとし、多くは地元教委からの派遣に頼っており、授業料は本人負担だが、給料は支給する上、代わりの教員が必要になるため、派遣が今後も続くかどうかは予算上の問題もあり不確定であることを指摘しています。
 それ以外にも、東京都のように、実習などの教育内容にも注文を出し、大学側と協定を結ぶケースでは、教委側の要求を何でも受け入れると大学の自立性の問題とかかわり、逆に意向を尊重しないと教員派遣に影響が出る可能性もあるという不安を持つ大学も少なくないようです。
 しかし、教職大学院を卒業しただけで、教員として優れた能力をもつと認定され、給与等の待遇で優遇されるという制度を確立するのは、現職教員の納得を得られないと思います。そもそも、研究中心の大学院ではなく、いくら実践的な課題を掲げているとはいっても、机上の空論で指導力が身に付くとは思えないというのが教員の実感だからです。頭でっかちで理屈ばかりこね回す教員になってしまうのではないかという危惧は私ももっています。
 教職大学院と同列に論じるのは正確な議論にならないかもしれませんが、かつて「教育相談」が「流行」したとき、教育相談研修で上級を終了した教員の中に、学校の現状を無視してカウンセリング理論を振りかざし、子供も学校現場も混乱に陥れた「困ったちゃん」が少なくなかったのです。多くの教員は、同じような結果に陥る危険性を本能的に感じているのです。
 教員自身の学ぶ意欲を重視し、卒業生が現場で一段上の能力を発揮してもらうことしか、大学院卒業生の優遇を認める雰囲気を醸成する方法はないと思います。
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専門的な指導法

2009-03-24 08:07:18 | Weblog
「専門的指導法」3月23日
 全国体力テストでも好成績を収めた秋田県の実態を特集する記事が掲載されました。その中で、教員の指導力を高めるために、「専門的な指導法や高い技術を持つ高校の体育教員を小中学校に派遣する事業」という表現がありました。
 この表現を不思議と思わない人が多いと思います。しかし、実際はこの逆なのです。体育などの技術伝達系の教科を除き、国、社、算・数、理の主要教科についていうと、最も専門的な指導法を身に付けているのは小学校の教員なのです。
 私は30歳の時に、小中高の教員が加盟している全国的広がりをもつ歴史教育の研究団体で、中高の社会科日本史の教員と共同研究をし、授業を公開し合ったことがあります。正直に言って、中高の授業は最低でした。2人とも、中高では研究熱心で、研究仲間の中では有名な教員でしたが、授業は、専門的な用語を用いた講義延々と続くだけのものでした。日本史に興味があり、小学生向けの歴史読本なども執筆していた私ですら、半分以上初めて聞くような話が、続いているのですから、中学生やあまりレベルの高くない高校の生徒が理解できるわけはありません。ずっと別の教科の教科書を読んでいた生徒が印象的なだけの授業でした。つまり、彼らは、歴史学の準専門家ではありましたが、歴史の楽しさ、歴史を学ぶことの面白さなどを味わわせながら、子供たちに考えさせる方法(これが指導法)については、ほとんど意識していなかったのです。
 専門的指導法とは、どのように授業を行うかというハウツーであり、その分野の知識の多寡ではありません。こうした状況は今でもあまり変わっていません。中高の教員は、小学校の教員に指導法を学んでほしいものです。
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○○ばか

2009-03-23 07:30:20 | Weblog
「教師バカ」3月22日
 TV番組情熱大陸で、堺雅人さんを取り上げるのだそうです。その紹介記事では、「役者ばかという言葉がこれほど似合う男は珍しい」「すべては芝居のため、というのが堺流。35歳男の生きざまは壮絶だが、心地いい」と書かれていました。
 堺さんについては、好きでも嫌いでもありません。よく知らないというのが正直なところです。でも、「役者ばか」が誉め言葉であることが羨ましいと思います。授業に一生懸命で、夜中の2時3時まで、教材研究をし、休みの日には自費で教材にする写真を撮りに1日がかりで出掛けてくる。授業の様子を録音し、毎時間ごとに4時間もかけて分析する。こんな教員のことを「教師ばか」と呼んで認めてもらいたいものです。
 そんな教員はいないだろうというかもしれませんが、たくさんいるのです。私にも20代から30代にかけてそういう時期があったのですから。今、教員は、授業とは直接関係のないことにたくさんの時間を取られてしまっています。教員は常識がないということで、民間企業での研修が行われたり、法規や組織論などについて学ぶ研修が行われたりしています。
 私は教員に常識が不要というつもりはありませんが、教員は授業のことばかり考えているような時期が必要だと思います。「教師ばか」復活こそ、教育改革の基本です。若い教員が、「教師ばか」でいられる時代が来て欲しいものです。 
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私立では

2009-03-22 08:19:56 | Weblog
「私立校では」3月15日
 私立皇学館高校の生徒が同級生からのいじめを訴える遺書を残して自殺した問題で、同校は、臨時の保護者説明会を開き、聞き取り調査の結果を報告し、いじめを認めて謝罪しました。いつも繰り返される光景です。気になるのは、「学校側は、再発防止策として、いじめ防止のための対策委員会を立ち上げるとともに、生徒の人権を守るため教員の研修を強化する」という部分です。
 私立校では、どのような研修がなされているのか、実はあまり広く知られていないのではないでしょうか。私も私立校に勤務したことはありません(執拗に誘われたことはありますが)。しかし、公立小学校から私立小学校に転職した後輩から根掘り葉掘り聞き出したことがあります。また、別の私立小学校の校長をしている知人から話を聞いたこともあります。あくまでも、一部の学校の話ですが、研修が充実しているという印象はありませんでした。一番問題だと感じたのは、校内の研修会では多様な講師が呼ばれていないこと、私学間で連携して行われる研修会では、建学の理念の違いもあり、意見交換が遠慮気味であるということでした。
 公立校の場合、あらゆる教育課題、例えば、人権教育、環境教育、消費者教育、福祉教育、性教育などであれば、それぞれについての専門家が教育委員会にいます。時期さえわがままを言わなければ、専門的な話を聞くことができます。長期休業中には、非常に多くの研修メニューの中から選択して受講することもできます。
 また、教科指導法の研究も、校内にはその教科を専門的に研究している教員が少ないのが実状です。公立校では、区市単位で教科ごとの研究会が設けられているのが一般的です。
 こうした違いは保護者には見えません。保護者の中には、私立校の教員の方がレベルが高いと思っている人が少なくありません。別に私立校に対抗するわけではありませんが、公立校はこうした点について積極的にPRすべきではないでしょうか。
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