「過大評価もあるけれど」5月26日
専門編集委員青野由利氏が、『未来を担う「不」登校』という表題でコラムを書かれていました。その中で青野氏は、『新時代を生き抜く人材が「学校に行かない」子どもの中から育つ』というサイエンス作家竹内薫氏の考えを紹介なさっています。竹内氏は、全日制フリースクールを開校なさっており、新時代を生き抜く力は『「足並みそろえた」学習では身につきにくい』という考えの下、『子どもが「やりたい」と思う課題に親子で取り組む』という実践を積み重ねている方だそうです。
今後は、『指揮者、宇宙飛行士、脳科学者、カポエイラ競技者、マリンバ奏者』などを呼び、『ネットを使った探究型学習やIT学習も用意』されているということです。このように書いてきましたが、実は、私にはよく分からない部分が多いというのが本音です。ただ、規格外の人材が必要で、そのためには従来の「学校」とは異なる教育システムが必要だという考えに賛成だということです。
ここで、「今までこのブログでお前が主張してきたことと違うじゃないか」と思われる方がいるかもしれません。そうではないのです。たしかに私は、現在の我が国の義務教育段階、つまり小中学校の在り方を大きく変えることには賛成できないという立場です。それは、義務教育とは、平均的なレベルの子供を平均的なレベルの国民に育てるための、画一的なものであるべきだという考え方に基づくものです。そして、そうした意味で我が国の小中学校教育は、大きな成功を収めてきたと評価しているからでもあります。これは、私の独断ではなく、PISAの学力比較や、「大人の学力調査」の結果についても義務教育の充実が大きく寄与しているとの分析がなされていることから、ある程度の客観性をもっていると言うことが可能だと考えています。こうした現状を踏まえ、義務教育を「個性化」することには慎重であるということなのです。
いくら、新しい時代がくるとは言っても、現実には、今年生まれた子供が成人する20年後に、全ての仕事がAIに取って代わられているとは思えません。私は、我が国の国民性といわれる勤勉性や協調性を発揮し、責任感をもってコツコツと働くという職が大きな部分を占めているはずだと考えています。小中学校を「個性化」し過ぎ、今もっている「良さ」を崩してしまって、その後には中途半端な改革の残滓だけが残っているというのでは、我が国の未来も子供たち一人一人の人生も惨憺たるものになってしまいます。
ですから大衆のための義務教育は現状を維持し、変化が激しく多様性が求められる時代を牽引する「才能あふれる者」のは、それに相応しいエリート教育を施す場を設ければよい、というのが、竹内氏の考えに賛成するわけなのです。ようするに、現在の小中学校はそのままに、ごく一部の子供を対象にした、別メニューの教育機関(それを学校と呼ぶかは?)を創設するということです。
最後に、『新時代を生き抜く人材が「学校に行かない」子どもの中から育つ』という指摘が正しいとしても、学校に以下に子供全てが新時代を生き抜く力をもつようになれるということではないことだけははっきりと指摘しておきたいと思います。私は様々な不登校の子供を見てきました。その姿は多様です。ただ怠惰なだけの子供や明確に非行傾向を示している子供、精神を病み苦しんでいる子供など、革新的カリキュラムとは異なる支援が必要な子供や家庭がたくさん存在するのも事実なのです。「学校に行かない子供」の中も足並みが揃っているわけではないことを肝に銘ずべきです。過大評価は、子供と保護者を苦しめるだけです。