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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「民」に学べ?

2010-02-28 08:01:56 | Weblog
「民に学べ」2月25日
 米下院監視委の公聴会でトヨタ自動車の豊田社長が証言したことについて、記事と解説が掲載されました。その中に『欠陥隠し疑惑の焦点である、顧客からの急加速に関する苦情を認識した時期について「社長就任前で正確には分からない」と答弁。議会側が問題視してきたトップの問題解決能力やリーダーシップを疑わせるもので、米消費者の不安を広げさせかねない』という一節がありました。
 トヨタ自動車の一連の対応については、危機意識の欠如、後手後手に回る手際の悪さが報じられてきましたが、トップの豊田氏も、彼を支えるスタッフも、十分な危機対応力をもっていなかったようです。トヨタ自動車といえば、我が国最大の民間企業です。いわば、「民」の代表です。そのトヨタ自動車にしてこの醜態だったのです。
 別に私は、トヨタ自動車を非難しようというつもりはありません。ただ、ここ数年、「官」に対して行われる批判の多くが「民に学べ」という調子のものだったことを思いだし、複雑な思いにかられたのです。
 学校も同様でした。管理職のコスト感覚のなさが指摘され、民間企業の経営者を講師とした研修会が盛んに行われました。民間人校長制の導入、民間企業経験者の積極的採用なども、「民に学べ」という思想の下に進められました。いじめなど不祥事の後に行われる記者会見では、校長や教委の危機対応力の乏しさが指摘され、ここでも「民に学べ」ということが言われました。しかし、実際には、「民」の代表であるトヨタ自動車にしてもこの程度だったのです。
 また、不思議なのは、トヨタ自動車の体質が、あくまでも一企業の問題として、「民」全体の体質、例えば、利益最優先主義、拡大主義などへの批判とはなっていないことです。もちろん、私も、これはあくまでもトヨタ自動車という一企業の問題だと考えています。しかし、ある教員や学校、教委が問題を起こすと、それはその教員や学校、教委に限ったことではなく、すべての教員、すべての学校、すべての教委に共通する体質の問題として非難する論調が主流を占めていたこととの違いに納得がいかないのです。もちろん、教育界にも問題はたくさんあります。しかし、それ以上に、大部分の教員や学校、教委はまじめにきちんと責任を果たしているのに。
 要するに、当たり前のことですが、「官」にも「民」にも、よいところも悪いところもあるということなのです。過剰な「民尊官卑」は、改めたいものです。

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恋の手ほどき

2010-02-27 07:59:10 | Weblog
「恋の手ほどき」2月24日
 磯崎由美氏の「恋愛教育」という標題のコラムが掲載されました。若者の間でデートDVが深刻な状況にあることを受け、高等学校におけるDV教育の必要性を説くものです。その中に次のような一節があります。『大事なのは、人を尊重すること。デートDV防止教育はコミュニケーション教育としても重要なのだ』。
 まったくその通りです。しかし、「人を尊重すること」などというような人間として最も基本的なことまで、高等学校で行わなければならないものなのでしょうか。正直に言って、こんなことは高等学校で教えることではなく、幼少期に家庭で躾ることなのではないでしょうか。私は、今までにも繰り返し述べてきたとおり、なんでもかんでも学校で、という風潮に反対です。しかし、百歩譲って、高等学校においてデートDV防止教育が必要だとしても、そこでは、ティーンエイジャー特有の問題についての指導が行われるべきであり、「人を尊重する」というような根元的なことまで学校で指導すべきこととすべきではないと考えます。教育には適時性があります。「人を尊重する」ということは、幼少期にこそ指導されるべきなのです。
 また、『性交開始年齢が低下している。深い交際になったとたんに、恋人を自分の物と思って支配する』ことが、デートDVの背景にあるとも書かれています。このことに関して言えば、親子関係が良好な家庭の子供は性交開始年齢が遅いという調査結果があります。人間として成熟してくれば、デートDVの発生率も下がってくるはずです。つまり、性交開始年齢の低下は、未熟な人間同士の「深い交際」の増加をもたらし、デートDVの増加に結びついていると考えることができます。今流行りの言い方をすれば、「親力」の低下という家庭の問題が、デートDVの遠因にあるのです。家庭の教育力の向上こそが、問題解決の本道なのです。繰り返しになりますが、家庭ですべきことと学校が行うべきことをきちんと「仕分け」すべきなのです。

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放置されっぱなし

2010-02-26 08:01:37 | Weblog
「教育の特質」2月22日
 作家で精神科医の帚木蓬生氏が、我が国の「医療崩壊」について、インタビューに答えていました。その中に、教育と医療の共通点についてふれた記述がありました。『医療というのは、国の意思がものすごく反映されます。医療と教育は、国がどうでもいいと思い始めたら、ガタガタになる。医者だって訴訟がない分野に行きたいし、忙しいところでだれが働くか、ということになる』というものです。
 また、直接、「医療と教育」とは言っていませんが、共通性があると思わせる話もしています。『何ごとも患者さんのためという錦の御旗で突っ走れる』というのは、患者を子供と代えれば学校にも通用しますし、『国は医療を立て直すといって経済的な方にばかり気を取られているようですが、医療を大切にしているんだというメッセージが必要です』は、予算の金額や制度いじりだけでなく、教育の理念を示すことが必要だということにつながります。さらに、「(医療は)崩壊してしまえば再建は難しい」という指摘も同様です。
 民主党政権になって5カ月が過ぎました。前政権との違いを見せようと様々な分野で「改革」を打ち出していますが、教育については、ほとんど話題になることがありません。もちろん、現状が概ね合格点だから改革不要というのであれば(たぶん、そうは考えていないはず)、それでも構いません。しかし、そうであるならば、そうした考えをきちんと伝えるべきなのです。また、問題があると考えているのであれば、今すぐ改革に取り組めなくても、改革の方向性を示すべきなのです。そうでないと、国は「学校教育などどうでもよい」と考えているという疑念を抱かせることになります。そうなれば、保護者は公立学校に不信感を抱き、教員は士気が低下します。そして、学校教育は崩壊してしまい、容易に再建できなくなってしまいます。もう時間は余りありません。

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数の論理

2010-02-25 07:16:57 | Weblog
「数の論理」2月21日
 心療内科医の海原純子氏が、「数の論理」という標題でコラムを書かれています。ご自分の著書はベストセラーになったことはないと述べた後に、『一通の手紙を受けとった。それは読者からのもので、「この本は自分のために書かれたと感じて、泣きながら読みました」と記されていた。数の論理の栄光は得られないが、この手紙は私の宝物だ』と自らの体験を書かれていました。そして、『経済や政治は数の論理で動く。しかし、学問や芸術、人間関係という分野では、それ以外の幸せの基準も残しておきたい』と結んでいました。
 確かに学問や芸術では、海原氏の言うとおりでしょう。では、学校教育に関してはどうなのでしょうか。実は、私自身、迷ってしまうのです。それは、私が担当した、ある「指導力不足教員」のことが脳裏に浮かんだからなのです。彼の授業力は、大変お粗末でした。校長も教員仲間も、保護者や生徒からも、相手にされていない状況でした。私も何度も厳しく叱責したものでした。そんな彼でしたが、歴史好きで、自らが担当している歴史クラブの活動には、精力的に取り組んでいました。休日も返上して、4人しかいない部員を連れ、神社仏閣、城址、歴史博物館等を回り、熱弁を振るっていました。4人だけ残った生徒たちも皆歴史好きで、彼との歴史散策を楽しみにしているようでした。彼は、4人の生徒と一緒に撮った写真を見せながら、「私はこんなに生徒から好かれているんです」と、自分が「よい教員」であることをアピールしていたものでした。
 彼は嘘をついてはいなかったと思います。4人の生徒にとっては、(部活の担当者として)本当に「よい教員」だったのでしょう。しかし、だからといって、彼を「よい教員」と評価することはできません。公立学校の教員は、授業が本務であり、彼の授業を受ける百数十人の生徒が、「つまらない」「分からない」と言っている状況を無視できないからです。いわば、「数の論理」による評価です。
 だからといって、私は今まで繰り返し述べてきたとおり、子供や保護者による授業評価、教員評価には否定的な立場です。「人気取り」的な行為が評価される危険性が大きいと考えるからです。学校教育における教員評価の問題は一筋縄ではいきません。

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信頼関係考

2010-02-24 07:44:22 | Weblog
「信頼関係」2月20日
 記者ノートに「体罰と信頼関係」というタイトルの一文が掲載されていました。ある高校の教員が、部員に丸刈りを強制したことが体罰にあたるとして処分された事例を取り上げ、『高校時代は野球部に所属し、丸刈りが当たり前だった私には、ちょっとした驚きだった』と述べ、『最近は「頑張れ」と尻を軽くたたくだけでも体罰と扱われることがある。それは、行為そのものが問題となるのではなく、教諭と子どもの間に信頼関係がないために不快感を与えるからではないだろうか』と、よくある「体罰は信頼関係があれば~論」を展開しています。
 素人の世間話ならばともかく、教育問題を担当している全国紙の記者が、このような見解をもっていることは、困ったことです。間違った体罰容認論については、今までにも何回も書いてきたので、ここでは、「信頼関係」にしぼって述べてみたいと思います。
 記者は、誰と誰のどのような信頼関係について論じているつもりなのでしょうか。学校では、1人の教員が、授業やクラブ活動、委員会活動などを通して、数十人から数百人という子供と接しています。そうした大勢の子供の中には、教員のある行為、例えば、「お前は~」と子供に話し掛ける行為に対して、何も感じない子供もいれば、親しみの表現と受け取る子供もいるでしょうし、威圧的な言葉遣いと感じる子供もいるはずです。このように書くと、教員は、子供たち一人一人の感じ方を把握し、個に応じた対応をすればよいという人がいるかもしれません。しかし、それは間違いなのです。「お前は~」に不快感を感じる子供は、自分ではなく、他の子供が「お前は~」と話し掛けられているのを見ても軽い嫌悪感を感じるものなのです。
 それではどうすればよいか。結論は簡単です。集団の中における「弱者」の立場に寄り添うことです。たとえ軽くであっても尻を叩かれることに嫌悪感をもつ子供がいる以上、そうした行為は慎むのが、教育者としての配慮というものです。
 そうした意味で、丸刈りを強制する行為は、その生徒と当該教員の間にどのような信頼関係があったとしても、許される行為ではないのです。
 記者は、『処分を恐れて子どもと上手な対話ができない教諭が増えないことを祈るばかりだ』と結んでいますが、まったく的はずれな指摘です。繊細な、一部の子供に恐怖心や嫌悪感の我慢を強いる粗野な態度をとらなければ対話ができない者など、教員の資格はないのです。

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学力向上のための学校週5日制

2010-02-23 07:22:30 | Weblog
「次元の違い」2月20日
 都教委が土曜日の授業を認める通知を出したことを受け、元文部科学省審議官の寺脇研氏が、学校週5日制の意義について論じています。寺脇氏は、『学校週5日制を導入した狙いは、家庭や地域がしっかりしているから土曜の使い方を任せたわけではなく、その教育力を取り戻すためだった』と述べ、さらに、『テストの点数に表れない、こうした(社会参加意識の高まり)成果を見ず「学力低下」ばかり叫ぶのは誤りだ』と、5日制見直しの動きを批判しています。
 私も、安易な5日制見直しには反対です。しかし、反対の理由は、寺脇氏とは少し異なっています。「学力低下」が問題だからこそ、学校週5日制の趣旨が大切になってきていると考えているのです。そもそも、学力調査の結果から明らかになったのは、学力と家庭、学力と地域の間に強い相関関係があるということです。学校の質には、それは教員の授業力の質といってもよいと思いますが、実は大差はないのです。教員は一定期間で異動していくのですから、当然です。ですから学力の差は、別の要因、即ち家庭や地域の広義の教育力によって左右されるのです。
 私が指導室長を務めていたK市は、学力調査の結果は都内でトップクラスでした。しかし、特に授業力のある教員が集まっていたわけではありません。最大の理由は、教育熱心な家庭が多いということであったと思っています。
 また、私は、東京都が行っていた教育研究員制度の下で、都内の各区市から推薦されて集まってくる教員の研究を指導していましたが、区市の学力調査の結果と推薦されてくる教員の「優秀さ」との間には、何ら相関関係はありませんでした。
 要するに、学力向上のためには、家庭と地域の教育力の向上が最も近道なのです。ですから、今行うべきなのは、学校週5日制を廃止することではなく、5日制の趣旨である家庭や地域の教育力の充実のための施策を企画し実行に移すことなのです。

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短絡的論議

2010-02-22 07:52:23 | Weblog
「『ほめるか、しかるか』から考えること」2月19日
 中村秀明氏による「ほめるか、しかるか」というタイトルの「論説ノート」が掲載されました。中村氏は、『「ほめる」がブームのようだ』と書き出し、そうしたブームの対極にあるものとして「丁稚のすすめ」の著者秋山利輝氏を紹介しています。そして、「私は30年ほめたことがない」という秋山氏の「驚きの」言動が述べられていきます。
 秋山氏が経営する秋山木工では、『入社したら男女を問わず一度は丸坊主になる、4年間の住み込み期間は親との面会も禁止、連絡手段は手紙だけだ。秋山さん自らが「時代錯誤の徒弟制度」と認めるほどだが、「一人前の職人ではなく、一流のできた職人、スターを育てようとしているのだから当たり前ですよ」と動じない。ほめて伸ばすのはダメなのかと問うと、「できたらほめたいが、人間ができていない私は本気でほめることができない。でも、本気になって怒ることはできます」と答えた』というのです。さらに中村氏は、『ほめるのもしかるのも、実はよく似ている。日ごろから相手をよく見て、気持ちを読み取っていなければほめることも、ましてや本気でしかることはできないのだ』と続け、「しかるには愛が必要です」という秋山氏の言葉で締めくくっています。
 学校教育における「叱ることと褒めること」について考えさせられます。まず、浮かんだのは、秋山氏の言動から、学校教育においても「しかること」が大切だと短絡してはいけないということです。保守派、守旧派の人たちの中に、「今野学校は子供に対して甘すぎる」という感覚をもっている人が少なくありません。秋山木工と学校の違いを忘れてはいけないのです。前者は、意欲と目的意識のある者だけが集まる場であり、適応できない者は辞めていけばよいという論理で運営されているのに対し、後者は、意欲も目的意識も希薄な者が大半を占め、適応できないからといって辞めさせるわけにはいかないという違いがあるのです。その違いを無視して、「ビシビシやればいい」というのでは乱暴すぎるということです。
2点目は、矛盾するようですが、学校教育における「叱ること」の復権が必要だということです。学校教育において、個性の尊重が叫ばれるようになった結果、悪い点を矯正するよりも良い点を伸ばすことが大切であるとされるようになり、必然的に「褒める>叱る」となってしまいました。しかし、学校教育であれ家庭教育であれ、両者のバランスが必要であることは当然のことです。学校は、もっと「叱る」ことを重視しなければなりません。
 3点目は、叱ったり、褒めたりするとき、「本気」にならなければいけないのか、ということです。私は、「本気」は必要ないと考えています。よく宿題を忘れてくる子供が、久しぶりに宿題をやってきたとき、「本気」で感動する教員がいるでしょうか。子供が、給食中、食べ物が口の中にあるのにおしゃべりをしたとします。このことに、「本気」で怒りを感じる教員がいるでしょうか。授業中は、「○○さん」と呼ぶことになっているにもかかわらず、「○○ちゃんが~」と発言した子供に「本気」で怒りを感じる教員がいるでしょうか。少なくとも私は感じませんでした。私自身の子供時代を思い出しても、「子供ってそんなものだよな」というのが本音でした。しかし、そうは思いつつも、いけないことはいけないと根気強く「叱る」ことが必要なのです。
 最後に、「叱るには愛が必要」は、そのとおりです。

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地道こそ

2010-02-21 07:36:52 | Weblog
「つぎ足しの味」2月18日
 今週の松尾羊一氏の「てれび指南帳」は、「つぎ足しカレー物語」という標題でした。神楽坂のつぎ足しカレーで評判だった老舗喫茶にまつわる話から、タレント・役者論議へと広がっていきます。その中に次のような一節がありました。『そばつゆやウナギ、焼き鳥のたれはつぎ足しの味で老舗の伝統を守っているものだ。何も食い物に限らない。役者やタレントにもいえることだ。近ごろは、出来合いの味でごまかす手抜きの一発屋が多すぎる。名脇役と呼ばれ、渋い芸風だと一目おかれる役者たちは、どこか芸のつぎ足しで密かに個性を守り、おのれの芸の継承を考えているものだ』。
 「つぎ足しの味」は、学校でこそ重要になる考え方です。学校は、一人一人の教員の集合体です。学校に自己研鑽、教員間のよい意味での切磋琢磨の雰囲気があり、個々の教員が自分の得意分野で指導法を工夫し、若手がその「芸」を盗み、自分の個性を加えて新しい授業の型をつくりあげていく。こうしたことが伝統となり繰り返されることで、全体として教育力の高い学校が生まれ発展していくのです。これが、学校における「つぎ足し」です。こうした努力は外部からは目立ちません。ただ何となく、「落ち着いているのに活気がある良い学校」という地域や保護者の評価を得ているのです。
 しかし、芸能界と同じように、近年、一発屋的な学校が増えてきています。環境教育、NIE、など、ある特定の教育活動を導入し、それを「売り」にしたり、外部評価や学校選択制など新しい制度の導入によって「開かれた学校」を演出したり、という類です。誤解のないように言っておきますが、新制度や特定の教育課題への取り組みが悪いと言っているのではありません。そうではなく、学校の本質は、教員は入れ替わっても、教員としての責任感、使命感、専門家意識をもった教員が、先人の業績を足場に、少しずつ指導法の改善を積み重ねていくところにあるのだと言いたいだけなのです。校長も教員も、自分の在任中に、学校の伝統に何かひと味つぎ足していくという姿勢が必要なのです。

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マイナスイメージ

2010-02-20 07:09:03 | Weblog
「罰の与え方」2月17日
 「ボランティアは「罰」とは違う」という標題の投書が掲載されました。いままでに様々なボランティア活動に参加してきた投稿者は、自分のこんな経験を披露しています。『1人の少年だけが、なにやらぶつぶつと文句を言いながらけだるそうに作業をしていたのです。話を聞くと、高校での喫煙が分かって停学になり、教師に促されてボランティア活動に参加させられたとのことでした』と。
 そして、『不祥事を起こした有名人などが謹慎中に促されてボランティアを下という話を耳にします』と述べ、『ボランティアを「罰ゲーム」のようにとらえている人たちは、ぜひ考えを改めてほしい』と結んでいました。
 貴重な指摘です。この指摘は、ボランティア活動にだけあてはまるのではありません。学校で教員が与える「罰」についても、同じ視点で考えてみることが必要です。例えば、宿題を忘れた子供に罰として掃除をさせたとします。これは、掃除という行為は、「罰」として与えられるのに相応しいような行為であると教え込んでいることになります。掃除という行為、掃除という行為を仕事にしている人への蔑みを生むことにつながる危険性があります。実際、「罰清掃」がルール化していた学級の子供が、清掃車でゴミ収集をしている人に対して失礼な言葉を吐いたという事例もあるのです。
 授業中に私語した「罰」として漢字の書き取りをさせるとか、当番活動をサボった「罰」として音読10回させるというような「罰」の与え方もよくありません。勉強は「罰」に該当する嫌なことという意識を植え付けてしまうからです。逆なようで同じ意味となるケースもあります。テスト直しが早く終わった子供は外で遊んでよいという「報酬」を与えるケースです。ここでも、遊ぶことは「報酬」に該当し、教室で勉強を続けることは「罰」に該当するという意識の植え付けになっています。
 もちろん、現在では、こんなバカな指導をしている教員はいないでしょう。しかし、ここに挙げた事例は、20年前に、私が実際に見聞した事実なのです。「褒める」ことの難しさが言われますが、罰を与えることも簡単ではないのです。

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分析と考察

2010-02-19 07:14:08 | Weblog
「反省と分析」2月16日
 メンタルトレーナー西田文郎氏が、ストレスへの対処法についてのインタビューに答えていました。その中に、『嫌な上司の小言はすぐに忘れることです。日本人は反省が正しいと思っているけれど、反省してはいけない。マイナスの記憶を反復すると、ますます落ち込んで不調になる』という一節がありました。
 確かに一理あります。しかし、私は、反省、正確に言えば分析と考察のないところに進歩はないと思っています。将棋のプロ棋士について、「敗局を覚えているのがプロ、勝ったときのことを覚えているのは素人」という言葉があります。素人は、自分が成功したときのことを繰り返し思い出しては、よい気分に浸り、プロは負けたときの対局を決して忘れず、納得がいくまで分析し敗因を明らかにして改善策を用意して次の対局に臨むということです。プロに必要なのは、不愉快な現実から目を背けない強さと、抽象的な反省ではなく具体的な分析と考察なのです。
 教員も同じです。授業が想定どおりに終わることはまずありません。そのとき、「そんなものさ」「誰だって失敗の方が多いんだし」といような態度では、いつまでたっても授業力は向上しません。また、「ああ、またうまくいかなかった。自分は教員失格だ」と嘆いてみても、何の解決も得られず、さらに落ち込むだけです。そうではなく、授業記録を復元し、失敗の原因を見つけ出し、どうすればよかったのか考え、明日の授業を構想するというサイクルをもつ教員だけが、授業力を高めることができるのです。
 現在、教員は多くのストレスに悩まされています。ですから、ストレス対策は重要です。ただ、忘れてはいけないことは、西田氏が言う「反省」は、落ち込むだけで具体的な改善策をもたらしてはくれませんが、分析と考察は、具体的な改善策をもたらし、明日への希望を与えてくれるものであり、そうした意味でストレス対策にもなるということです。授業記録は教員にとって必須のものです。

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