ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

危険思想

2017-09-30 07:55:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「聖職への道」9月23日
 連載企画『声 学校から』は、軽井沢高教諭長嶋幸恵氏による『ぞうきんになりたい』という表題のコラムでした。その中で長嶋氏は、『私は皆さんのぞうきんになりたい』と生徒の前で宣言したと書かれていました。そして、ぞうきんの意味するところとして、牧師河野進氏の詩を紹介しています。
 それは、『こまった時に思い出され 用がすめば すぐ忘れられる ぞうきん 台所のすみに小さくなり むくいを知らず 朝も夜もよろこんで仕える ぞうきんになりたい』という詩でした。何だか悲しくなりました。私はこの連載企画で長嶋氏の書かれるものを読み、「良い教員」である長嶋氏に期待し、密かに応援する気持ちをもっていただけに、悲しくなったのです。
 河野氏のことはよく知りませんが、牧師というのですからプロテスタント系の宗教人だと思われます。つまり、聖職者です。聖職者としてみたとき、河野氏の思いは尊いものです。無償の奉仕者こそ、宗教人のあるべき姿だからです。
 しかし、長嶋氏は、宗教人ではありません。教員なのです。授業にしろ、生活指導にしろ、部活の指導にしろ、学級経営にしろ、子供に教えるプロフェッショナル、専門職なのです。専門職に求められるのは、専門家としての自覚と矜持であり、それらに裏付けられた厳しい自己研鑽なのです。
 一方、今でも世間には、教職=聖職という意識の方が少なくありません。そうした考え方が、教員に無限の奉仕を求める風潮を助長し、教員の多忙化の原因となっているのです。我が国の教員の多忙さは、OECD諸国中でも最悪レベルにあり、このままでは学校崩壊に陥りかねないことは、様々な研究調査結果が示しています。こうした現状を考えるとき、長嶋氏のぞうきん論は看過できません。
 教員は、児童・生徒のぞうきんであってはならないのです。朝も夜も喜んで「仕えて」はいけないのです。そんな考え方は、過労死する教員を増やし、教員の家庭を崩壊させ、若者が教職を選択しようとしなくなる危険思想なのです。教員を志す人は、奉仕者に憧れる傾向をもった者が少なくありません。だからこそ、このことを繰り返し強調しておく必要があると考えるのです。

 

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実務家

2017-09-29 07:49:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「実務家」9月21日
 『核兵器禁止条約署名式 廃棄担う機関設置を』という見出しの記事が掲載されました。同条約に関した、米国科学者連盟上席研究員トーマス・シェイ氏へのインタビュー記事です。その中でシェイ氏は、『条約署名国は、核兵器禁止を実施するための新たな国際機関を早く設置する必要がある』と述べていらっしゃいました。
 さらに、その理由についてシェイ氏は、『現時点で検証能力があるのはIAEAのみ』とした上で、『大量の業務を抱えており、追加の業務にどこまで対応できるかは不明』『IAEAの主要任務である核兵器の拡散防止に悪影響を及ぼす可能性が高い』と指摘しています。
 そして『独立性の高い組織の構築には「数年以上かかる」』『30人程度の小規模でいいので、まず組織を作り、議論を始めなくてはならない』と具体的に問題提起しているのです。
 私は核兵器のことも、国際機関のことも分かりません。ただ、シェイ氏の発言に注目したのは、条約の署名という段階で一安心するのではなく、その実効性を高めるために、具体的な組織やシステムの構築に取り組もうとする姿勢に共感したからです。私は、学校教育改革において、最も欠けているのがこうした姿勢ではなかったか、と考えているのです。
 例えば、いじめ問題において、各自治体に防止対策組織を設けるという施策が決定されます。悪いことではありませんが、多くの場合そこで終わりなのです。実際にそうした組織に相応しい人材の確保は可能なのか、一つに自治体では難しい場合、どのような対策を設けるのか、あるいは自治体の事業として人材育成を行うのか、人材育成を行うとして育成を担う人材自体が不足してはいないか、などが同時進行的に検討されていかない体質があるのです。
 また、歴史を振り返ってみても、司書教諭制度やスクールカウンセラー配置事業など、各校に設置という方向性は示されても、何十年も店晒しにされたり、適格性のある人材が不足していることを見ないふりをして、大学院生のアルバイトで表面的なつじつまを合わせたり、という事実があります。すべて、理念法的なものを作って事足れりという姿勢だったのです。
 理念は尊いものです。しかし、理念だけでは人は動きませんし、体質は変わりません。実効性あるシステム、人材の裏付けのある組織を理念と同時に構築する姿勢は、学校教育改革にも必須だと考えます。

 

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変化の速さに

2017-09-28 07:53:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「思いやりと敬意」9月20日
 岩村暢子氏が、毎月1回の連載コラム『家族に見るみんなの知らない日本人』を書かれていました。今回は、『深く交わらない3世代同居』という表題で、祖父母と暮らす家庭の食卓を取り上げていらっしゃいました。
 『70代義母と40代主婦は、冷蔵庫も食糧棚や調味料類も共用しない。「個人個人、全く別の場所」に置いて、「台所で作る時間も片づけの時間もかち合わないようにしている」という。食事も義母と家族は2部制、3部制に分けて、誰もおばあちゃんとは一緒に食べない』『おばあちゃんは、自分が食べたいものがあると、家族が出かけている間に台所を使って「1人で作って1人で食べている」『(おじいちゃんは)用意してもらった食事を1人で自室で食べていた』というような実態が次々と紹介されています。
 そして、こうした状況について岩村氏は、『どの家庭でも、主婦が意地悪なわけでも冷淡なわけでもない。互いにケンカしたり仲が悪いわけでもない』『互いの「個」を尊重しつつ共存する、新しい3世代同居の姿』と解説なさっています。
 私は、生まれてから結婚して家を出るまで、父方の祖母と暮らしていました。一つの家族であり、家族が別々に食事をすることなど考えられませんでした。祖母と父母と姉と私、食卓の5人が揃っていることは、夜寝て目覚めると朝になっているのと同じくらい当たり前のことでした。ですから、岩村氏が紹介する家族の姿には驚きを禁じ得ませんでした。
 しかしそれは、時代の移り変わりであり、私の個人的な違和感は大きな問題ではありません。ただ、こうして家族の形が変わっていくとき、学校教育も変わらなければならないのか、という疑問が浮かんだのは事実です。
 例を挙げるてみます、今回の学習指導要領改訂で教科となる「道徳」でも、従来と同じように、年長者への尊敬や家族への思いやりは、指導内容の一つに含まれることになります。そこでは、「おじいちゃんが気兼ねなく暮らせるように、食事は一緒には食べないようにする」という行動が、思いやりとして示されることになるのでしょうか。「おばあちゃんが好きなものを食べられるようにおばあちゃんの分は作らない」というのが年長者への敬意の表し方の一つとして評価されることになるのでしょうか、ということです。
 もちろんそれでいいのでしょう。ただ、指導に当たる教員の意識はそこまで変わっているのでしょうか。40代50代の教員の頭の中には今でも、家族が揃って食卓を囲むという姿が一つの形として刻み込まれているのではないでしょうか。
 時代が移り変わる中で、社会が変わり、価値観が変わっていきます。そのスピードは近年益々早くなっていますし、今後更に加速していくことでしょう。教員は、自分の価値観を不断に見直して更新していかなければならなくなります。そう思う一方で、伝統的な考え方の継承も教育の重要な役割であることに思いを致すと、「おじいちゃんと一緒のご飯を食べながらいろいろな話しをしようよ」と言いたい私の本音も捨てがたいように思われてくるのですが。

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長期的楽観

2017-09-27 07:53:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「逆がいい」9月20日
 『余録』欄で、真珠湾攻撃についてのエピソードが紹介されていました。『米国の石油禁輸下の日本に為政者は備蓄の枯渇という将来の絶望的悲観論と、今ならアジアで軍事的に優位という短期的楽観論を両にらみして奇襲に賭けた』というものです。よく知られた話しです。
 しかしよく知られた話しでも、「長期的悲観論」と「短期的楽観論」という言葉で見直すと、新たな感慨にとらわれます。それはこの組み合わせは常に失敗をもたらし、逆の組み合わせ、即ち「長期的楽観論」と「短期的悲観論」の組み合わせの方が物事がうまく進むということです。
 長期的悲観論は、対象となっている事象について、基本的には低い評価を与えているということです。また、短期的楽観論は、今採用しようとしている方法について短兵急に成果を求めるという態度につながっています。この2つに基づく改革は、その経過を冷静に判断することを難しくし、次々と起死回生の大逆転を狙った「奇策」を追い求め、思うような成果が得られないときに焦りを生み、それがさらに過激な策を採用させ、最終的に大失敗するのです。
 一方、長期的楽観論は、対象となっている事象について、基本的には高い信頼感があり、じっくりと取り組めば必ず成果が上がるという信念につながります。また、短期的悲観論は、一時は失敗に落ち込んでも、しばらくするとまだチャンスはあるという考えが蘇り、改革への意欲が尽きてしまうことがありません。その結果、短期的には改革が停滞して見えても、焦りを生むことなく、冷静に過程を吟味し修正することが可能になります。そして最終的な成功に至るケースが多くなるのです。
 さて、学校教育改革はどちらのパターンで進んでいるでしょうか。私には、長期的悲観論・短期的楽観論の組み合わせで進められているように思えます。安倍内閣が教育再生会議で打ち出した「教育は死んだ」という認識こそ、「長期的悲観論」の典型だからです。
 OECDで最下位の教育予算で、宗教の教育機能が期待できない中で、家庭や社会の教育力の低下が指摘される中で、学力面でも、道徳面でも高いレベルを維持しているのは、我が国の学校教育が基本的に成功しているからです。このことをきちんと評価し、「長期的楽観論」で改革にあたることこそ、今必要なのです。

 

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同じことでも言う人が違うと

2017-09-26 07:57:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同じことでも」9月19日
 論説委員福本容子氏が、『金融リテラシー』という表題でコラムを書かれていました。その中で福本氏は、『全国の2万5000人を対象に、金融リテラシー調査を行った』ことを紹介し、その結果を示されています。『外国との比較もしているのだけど、日本の成績がぱっとしない』のだそうです。
 さらに、『金融リテラシーが低いとオレオレ詐欺などのお金がらみのトラブルにも遭いやすい』『金融リテラシーが高いと経済に関する誤解も減り、移民の受け入れ度合いも上がるらしい』など金融リテラシーを向上させるメリットを説き、『リテラシーを高めるには教育しかない』お、学校教育において金融教育を充実させるべきだとの見解を示されていました。
 私は以前このブログで、学校で金融教育を、という主張に疑念を示しました。それは、○○教育の導入により、学校の多忙化が助長されるという視点と共に、その主張をしているのが、証券業界のトップの人物であり、金融教育の狙いを、国民の意識を「貯蓄から投資へ」と転換することだと述べていたからでした。つまり、自分たちの業界の繁栄のためにという動機の不純さに反感を感じたということでした。
 しかし、福本氏のように、データを示し、国民自身の利益になること、国や社会としても、人種差別などが広がる余地を狭めるメリットがあることなどを理由にされると、金融教育の重要性が素直に入ってきます。欧米で吹き荒ぶ反移民の風潮の背景には、経済の停滞や所得の後退、雇用の減少などがあるとされるだけに、福本氏の見解にはより惹かれてしまうのです。
 しかしここでもう一度立ち止まって考えてみると、学校教育に金融教育を積極的に取り込んでいくことは、動機はどうあれ、多忙化という面では同じ負担をもたらしますし、結果として「貯蓄から投資へ」という証券業界の思惑を後押しすることに変わりはないのです。あれっ、私はうまく言いくるめられてしまっただけなのでしょうか。
 私ほどではないにしろ、人間には、誰が言うか、どのように話すかによって、自分の考えが180度違ってしまうという危うさがあるように思います。学校教育改革を論じる際にも、「そうだ、そうだ」と手を叩く前に、慎重に考える訓練が必要なように思います。

 

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それを言っちゃお終いよ

2017-09-25 07:43:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それを言っちゃあお終いよ」9月19日
 読者投稿欄に川口市の中学生M氏による『温かみ欠くスマホつながり』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でM氏は次のような経験を紹介しています。『先日、スマホを用いた授業の時、クラスが騒がしかったので先生は声を上げて怒った。「みんなは、紙とペンを使ったあのつまらない授業に戻りたいのか」私は違和感を持った』というものです。
 その後スマホについてのM氏の見解が続くのですが、ここではそれには触れません。ただ、教員の発言を問題にしたいのです。この教員は、かつての自分の授業を「つまらない授業」と言っているのです。それも、生徒の目の前で。教えるプロ、授業の専門家である教員にとってこの発言は、自ら教員失格を宣言したようなものです。
 しかし、この教員には、そうした自覚はなさそうです。なぜなら、今は面白い授業をしているから、ということです。そして、かつてはつまらない授業しかできなかった自分が、面白い授業ができるようになった原因は、スマホを用いたことだと考えているのです。この自己評価は正しいのでしょうか。
 授業における楽しさや面白さとは、知的な発見や成長の実感に基づくものでなければなりません。そして、そうした面白さが成り立つための条件は、自ら問題を発見し、自ら予想し、自ら解決するという学びの過程が保証され、そのための時間が確保され、その時間の中で自分のペースで追究することができるとともに、ここの生徒の学習状況を正確に把握した教員から適宜的確な助言や示唆を受け取ることができるということなのです。
 こうした問題解決過程を構想し、その場で瞬時に子供を評価し関わることができることこそ、教員の指導力ですし、専門性なのです。こうした能力を持たない教員が、いくらスマホを使ったところで、真に面白い授業はできません。M氏に授業をした教員は、表面的なゲーム性に依拠した面白さを、授業の面白さと誤解しているとしか考えられません。
 スマホは始動のための一ツールであるに過ぎませんし、問題解決型の授業を構想することを幹とすれば、枝葉に過ぎません。教員は、教科や校種にかかわらずこのことを忘れてはいけないのです。

 

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お馬鹿さん

2017-09-24 08:47:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「お馬鹿さん」9月16日
 『「心霊スポット」「肝試し」 チビチリガマ損壊 逮捕の少年供述』という見出しの記事が掲載されました。『太平洋戦争末期の沖縄戦で住民88人が集団自決した沖縄県読谷村の自然壕「チビチリガマ」が荒らされた事件』についての続報です。記事によると、『逮捕されたのは、沖縄本島中部に住む16~19歳の無職や型枠解体工の少年4人』ということです。
 この愚行について、沖縄国際大名誉教授石原昌家氏は、『教育の現場で沖縄戦の実態や歴史が伝わっていないのではないか』と述べ、読谷村長石嶺伝実氏は、『歴史の風化が叫ばれているが、それがここまで来たのかという思いだ』と語っていらっしゃいました。
 お二人の心情は分かりますが、やや違和感を覚えました。もちろん、戦争について学ぶ学習のあり方については、見直しと充実が必要です。学校関係者には、そうした面での評価と点検が求められています。しかし、今回の事件は、学校で真剣に授業を受けてこなかった一部の「お馬鹿さん」が起こしたものなのではないかという気がしてなりません。
 算数・数学の授業を工夫しても、帯分数の引き算ができないまま義務教育を終えてしまう生徒がゼロになることはあり得ないと思います。泳げないまま卒業していく生徒も、漢字の筆順がめちゃくちゃなまま卒業していく生徒も、ゼロにすることは難しいのが現実です。つまり、学校教育においては、どのような分野や領域であれ、学習指導要領や教員が求め期待しているレベルには到達しないまま授業を終えていくことは、理想や建前とは別に、避けられない現実なのです。
 善悪の問題ではなく、現実として誰もがそのことを理解しています。当事者である教員だけでなく、世間一般の常識といってもよいでしょう。義務教育どころか、高校を卒業した後でも。「分数が分からない大学生」が話題になったときも、それほどの驚きがなかったことが、この事実を証明しています。
 同じように、「平和学習」「反戦学習」においても、何パーセントかの「お馬鹿さん」がいたはずです。それは異常なことではなく、むしろ普通の状況なのではないかと思うのです。それなのに、帯分数の引き算ができないことにはあまり騒がず、「平和教育」の不出来には大騒ぎして学校教育の在り方を論じるという姿勢に、違和感を感じたということです。そうした姿勢は帰って、「戦争について学ぶ」ことを、良くない意味で特別視してしまう傾向を強めるのではないかと危惧するのです。
 ちなみに大変恥ずかしい話しですが、私は、「チビチリガマ」自然壕に纏わる当時の事実を知りませんでした。しかしそんな無知な私でも、その場に行って看板や額、千羽鶴に触れようとはしないでしょう。知識ではなく、人としての心がそうした愚行を抑えてくれるはずだと思っています。
 今回の事件はむしろそうした面での「教育」が不足していたのではないかと思えてなりません。

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「本末転倒」ではないけれど

2017-09-23 07:24:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「非本末転倒」9月15日
 経営共創基盤CEO冨山和彦氏が、『文科省有識者会議の反「人つくり革命」答申』という表題でコラムを書かれていました。その中で冨山氏は、『文部科学省の有識者会議がエリート校化した国立大学付属校は教員養成機能を果たせない。入試をくじ引きにして引きずりおろせという答申を出した』と批判し、『むしろ優れた才能を伸ばし、豊かな人間性を育むスーパー中等教育機関として国を挙げて強化すべき』と主張なさっています。
 さらに冨山氏は、ノーベル賞受賞者やベンチャー起業家にも付属校出身者が多いことや私立と比べて安い授業料が貧しいが優秀な生徒にとってもつ意義を挙げて、自説の正しさを強調し、『「教員養成の役に立たない」という本末転倒な理由で潰すのか』と憤慨なさっていますが、有識者会議の答申は、決して本末転倒ではないのです。
 国立大学の付属校は、教員養成、即ち教育実習の場であることと、先進的教育実践研究の場として設けられているのです。私の出身大学も小中高と付属校をもっていました。私はそこで3年生のときに2回の教育実習を受けました。そして、4年生のときには公立校で教育実習を受けたのです。ところが、私立の付属校をもたない大学では、公立校における教育実習だけなのです。付属校があるからこそ、貴重な教育実習の場が確保できるのです。
 また、生活科の導入、総合的な学習の時間の創設、小学校における英語教科化など、文科省の新しい試みは、すべて国立大学の付属校で、先駆的検証実践が行われ、その妥当性を実際の授業実践を通してデータ化し、議論の基にしているのです。
 ですから、今回の有識者会議の議論は決して本末転倒ではなく、むしろ原点を意識した議論となっているのです。ただ、だからといって冨山氏の主張する「スーパー中等教育機関」として付属校を位置付けることが間違いだということではありません。むしろ私は冨山氏の意見に積極的に賛成したいと思います。
 それは、現在の付属校か、先に述べて2つの役割を全く果たしていないからです。学力試験で選抜されてきた児童生徒は、学業優秀で家庭も経済的に恵まれ、保護者の教育に関する関心も高い「粒揃い」です。そんな環境の中では、教員は「指導力」が不十分でも、授業は成り立ち、学級経営も問題なくできてしまうからです。
 私は、そうしたエリート校の授業を参観し、教員の指示や説明が曖昧で、何を言いたいのか分からないと感じたことがあります。ところが、「頭のいい」子供たちは、教員の思いを「忖度」し、教員の狙い通りの答えが返ってきて、授業は円滑に進んでいったのです。これでは、教員は自分を磨かなくても済んでしまいます。
 また、優秀な子供ばかり揃ったところで成功した実践は、非常に特殊な条件下での実践であり、全国の9割以上を占める他の学校での成功を約束するものではありません。生活科や総合的な学習の時間は、そんな特殊環境での成功を論拠に導入が進められ、導入当初は様々な混乱を引き起こしたのです。
 さらに、授業中に教室を抜け出したり、私語を続けたり、異装で登校したり、飲酒や喫煙、家出や深夜徘徊、暴行や恐喝、不純異性交遊などで補導されたり、暴走族の下部組織に加入していたりする生徒はほとんどいませんし、親が愛人と性交するために邪魔な子供を部屋から追い出すというような家庭もありません。これでは、公立校に赴任したとき、適切な対応力を身に着けることはできません。ですから、公立校から付属校に移る教員はいても付属校から公立校に移るほとんど教員はいないのです。
  ですから、付属校に対する役割を公的に見直し、冨山氏が言うように、「スーパー中等教育機関」とする方が実態に合うのです。本末転倒か否かということとは別に、です。

 

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見る、看る、観る、視る

2017-09-22 07:39:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「発達段階」9月15日
 読者投稿欄に大学院生添島香苗氏の『自由研究の意義再考すべきだ』というタイトルの投書が掲載されました。添島氏はその中で『知り合いの女性に「小1の娘の自由研究を手伝ってほしい」と言われた』ことを述べ、『お母さんと知恵を絞り、小1でも書けそうな文章を考え、模造紙へのレイアウトと下書きまでした。その傍らで娘さんはお絵描きで遊んでいた』という経験を披露なされています。
 そしてこの経験から『自由研究は小学生の夏休みの定番だが、学校側も親側も、自由研究の意義を考え直すべき』と問題提起なさっています。私はこのブログで毎年のように自由研究について取り上げてきました。それらは、自由の意味、研究であることの条件などから、望ましい自由研究について述べたものでした。
 しかし、添島氏の登校を目にして、今まで言及していなかったことがあるのに気が付きました。それは、研究と発達段階の問題です。簡単に言えば、何年生ぐらいになれば「研究」が可能になるのか、ということです。添島氏の経験からも推察できるように、小1の夏休みに「研究」は無理なのだと考えます。
 「研究」にはいくつかの能力が求められます。疑問を感じること、疑問を問題文化できること、仮説ももつこと、検証方法を考え出すこと、です。一例を挙げてみましょう。朝、ラジオ体操から帰るときにアサガオの花が咲いているのを目にします。学校のプールに行った帰りにさっき見たアサガオが萎れているのに気が付きます。そのとき他の花を見ると、朝見たときと同じように咲いています。そのときは何も違和感を感じません。咲いた花は萎むということを知っているからです。ところが何日かラジオ体操とプールに通い続けるうちに、他の花はいつも咲いているのに、アサガオだけは朝は咲いていてひるには萎れてしまうという違いがあることに気が付きます。「どうしてアサガオは~」というのが疑問です。
 この疑問を「アサガオが朝になると咲いて、昼になると萎れてしまうのはなぜか」という疑問文にまとめます。次に、仮説です。大人は子供にヒントを出してやります。「朝と昼で違では何が違うのかな」と。子供は、暑さ(温度)、明るさ(光)などいくつかの答えを出すはずです。そこでそれを、「アサガオは暖かくなると萎れてしまうのではないか」という仮説に仕立て上げます。
 最後に検証方法です。これが難物です。仮説の検証のためには、他の条件を同じにして「温度」だけを変えて比較することが必要になります。この「他の条件を同じにして~」という考え方は小1では身に付いていません。大人の助言が必要になります。その助言を受けて、「2つの鉢を用意し、朝咲いた後、一つを冷蔵庫に入れる」という方法を子供が考え出します。大人であれば冷蔵庫内の温度では失敗することが分かりますが、子供は分かりません。でもそれでいいのです。子供なりに考えた方法で実証実験を行わせ、失敗させればよいのです。
 ここで大切なのは、「研究」とはその多くが予期した成果を出すことができずに失敗するものだということなのです。ですから失敗は恥ずべきことではありません。ありのままを記録し、失敗でした、冷蔵庫に入れる方法では温度の違いという予想を確かめることはできませんでした、と報告できれば、それは素晴らしい研究なのです。
 さて、こうした過程を踏むことができるのは、何年生くらいからなのでしょうか。もちろん、個人差はありますが、早くても3年生からだろうというのが私の経験からの感覚です。実験を伴う理科や、調査活動が不可欠な社会科が3年生から始まるのも、そうした感覚があるからではないでしょうか。
 添島氏が指摘するように、自由研究の見直しが必要です。まず、1年生から自由研究ということを止め、低学年は観察記録的なものにし、「見る、看る、観る、視る」能力を培うことから始めればよいと思います。

 

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義務教育に求められる学力を

2017-09-21 08:15:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「義務教育の基礎学力」9月13日
 銅山智子記者が、『居場所をつくる』という表題でコラムを書かれていました。その中で銅山氏は、横浜市立中川西中学校の不登校生徒を減らす取り組みを紹介なさっています。『校内にフリースクールのような「別室」を設け、不登校ゼロを目指す』という試みで、『各教諭に授業を多めに受け持ってもらい、余った教諭2人を「SS(スペシャルサポート)」と呼ぶ別室の専属にした。SSで学ぶ生徒自身が週ごとの時間割や学習の取り組み方を決め、担当教諭は学校生活をサポートする』という仕組みだそうです。
 『30人いた不登校の生徒は1人まで減った』ということで、大きな成果を上げているようです。銅山氏は、この取り組みを主導した平川理恵校長の思いと実行力を賞賛なさっています。私も敬意を表したいと思います。
 ただ、忘れてはならないことがあります。それは、我が国の学校教育の特徴とでも言うべき「履修主義」の問題です。このブログでも再三取り上げてきましたが、我が国の学校では、何を学びどのような知識や能力を身に着けたかを問題にするのではなく、授業への参加率で、終了や卒業を認定することが一般的となっています。分かりやすく言えば、授業中ずっと寝ていても、マンガの本を読んでいても、スマホを眺めていても、出席さえしていれば卒業できるということです。出席さえしていれば、中学3年生で、かけ算九九が言えなくても、ABCを書くことができなくても、修了となるということです。
 こうした履修主義は、教育的に見れば退廃そのものです。教員は分かる授業のために工夫をしなくても、十年一日の如く同じノートを板書していれば給料をもらえますし、寝ている子供を起こして授業妨害されるよりも、おとなしく寝ていてくれればよいという事なかれ主義に陥ってしまいます。教育の質の低下につながるシステムなのです。
 中川西中学校の「SS」での学習内容は記事からは分かりませんが、生徒自身が決定するということが事実であれば、中学校に相応しい学習内容となってはいない可能性が捨て切れません。休まずに来てくれているからよい、という考え方は、履修主義が一般的だからこそ成り立つのです。本来であれば、「SS」で学んだ生徒も学習指導要領が想定する内容について、あるレベルにまで到達していなければ卒業を認めないということでなければ教育的ではないということです。
 もちろん、同中の取り組みは引きこもりをつくらず、居場所を確保するという意味で大きな一歩であることは事実です。しかし、教育行政に携わる人たちは、そこをゴールとはせずに、全ての生徒に学習指導要領に定める知識や能力を身に着けさせるというシステムや方法を追及し続けるべきだということを忘れてはならないはずだと思うのです。
 平川校長の取り組みを広げ、それを一段ロケットとし、それに続く二段ロケット、三段ロケットを製作しなければならないのです。北朝鮮とは違い皆に歓迎されるロケット開発を。

 

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