「聖職への道」9月23日
連載企画『声 学校から』は、軽井沢高教諭長嶋幸恵氏による『ぞうきんになりたい』という表題のコラムでした。その中で長嶋氏は、『私は皆さんのぞうきんになりたい』と生徒の前で宣言したと書かれていました。そして、ぞうきんの意味するところとして、牧師河野進氏の詩を紹介しています。
それは、『こまった時に思い出され 用がすめば すぐ忘れられる ぞうきん 台所のすみに小さくなり むくいを知らず 朝も夜もよろこんで仕える ぞうきんになりたい』という詩でした。何だか悲しくなりました。私はこの連載企画で長嶋氏の書かれるものを読み、「良い教員」である長嶋氏に期待し、密かに応援する気持ちをもっていただけに、悲しくなったのです。
河野氏のことはよく知りませんが、牧師というのですからプロテスタント系の宗教人だと思われます。つまり、聖職者です。聖職者としてみたとき、河野氏の思いは尊いものです。無償の奉仕者こそ、宗教人のあるべき姿だからです。
しかし、長嶋氏は、宗教人ではありません。教員なのです。授業にしろ、生活指導にしろ、部活の指導にしろ、学級経営にしろ、子供に教えるプロフェッショナル、専門職なのです。専門職に求められるのは、専門家としての自覚と矜持であり、それらに裏付けられた厳しい自己研鑽なのです。
一方、今でも世間には、教職=聖職という意識の方が少なくありません。そうした考え方が、教員に無限の奉仕を求める風潮を助長し、教員の多忙化の原因となっているのです。我が国の教員の多忙さは、OECD諸国中でも最悪レベルにあり、このままでは学校崩壊に陥りかねないことは、様々な研究調査結果が示しています。こうした現状を考えるとき、長嶋氏のぞうきん論は看過できません。
教員は、児童・生徒のぞうきんであってはならないのです。朝も夜も喜んで「仕えて」はいけないのです。そんな考え方は、過労死する教員を増やし、教員の家庭を崩壊させ、若者が教職を選択しようとしなくなる危険思想なのです。教員を志す人は、奉仕者に憧れる傾向をもった者が少なくありません。だからこそ、このことを繰り返し強調しておく必要があると考えるのです。