ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

自分の都合ばかり

2016-06-30 07:44:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「出せばいい訳ではない」6月24日
 『規制委メール増やし不評』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『災害時に原発が安全かどうかを知らせる原子力規制委員会の緊急情報メールについて、規制委が熊本地震を機に配信を増やしたところ、逆に登録者数が減少に転じた』とのことです。
 その理由として記事では、『繰り返し「安全」と強調されても、情報としては意味がない』という登録者の声を紹介しています。その上で、『異常がなくても1日2回の定時配信をする態勢に切り替えたのが裏目に出た形』と結論しています。まあ、当然だと思います。しかし、このことから学ぶことができる教訓は、誰もが肝に銘じるべきです。
 それは、相手が知りたいことを知らせるのが、望ましい情報提供であるということです。今、学校教育では、子供が主体的に学ぶとか、アクティブラーニングといったことが推奨されています。そのこと自体は間違っていませんし、私も賛成ですが、教員を含め関係者の中に誤解があるように思えます。それは、教えることの否定です。
 授業がどのように変わろうとも、教員が子供に教えるという行為が教室からなくなることはありません。問題とされているのは、教えることの質なのです。質の悪い「教える」を排し、高品質の「教える」を用意し提供することが求められているのです。
 そして「教える=情報提供」ということができます。ノートの取り方や辞書の使い方といった学習方法や台形の面積の求め方といった知識も情報です。そうした情報をいかに効果的に伝達するかというのが、授業を左右するのです。
 そこで大切になるのが、辞書の使い方や台形求積公式といった情報に対して子供の必要感、砕いて言えば「知りたい」という気持ち、「教えて」という切実感をいかに起こさせるかということなのです。授業が巧みで質の高い学びを展開することができる教員は、学習指導要領等に示された狙いと内容を分解し、子供の言葉に代え、それを一つを知ると次にまた知りたいことが出てくるように構成し、知りたい→教えて→分かった→でもこの場合は?→知りたいというサイクルを成立させる教員のことなのです。
 一方、規制委のメールのように『原発の安全性をアピールしたい首相官邸の指示を受け異常がなくても1日2回の定時配信』という知らせたい側の都合を優先させた情報提供はそっぽを向かれてしまうのです。教員は、規制委のようになってはいけません。

 

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理想の学習者

2016-06-29 07:26:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「理想の学習者」6月24日
 大学生が作る紙面きゃんパルに、早稲田大砂田理恵氏の『心のスポンジ』というコラムが掲載されました。その中で砂田氏は、中学時代に補習に呼ばれ仲良しグループから外されることを恐れて勉強に励んだときのことについて触れ、『いつの間にか、友達関係よりも好奇心が勝るようになっていた。知らないことを潰せば潰すほど、それはいたちごっこのように湧いてくる。一つ知ると、一瞬だけ心が満たされる。すぐにこの感覚のとりこになった』と書かれています。
 これこそ学ぶという行為の理想の形であり、その瞬間の砂田氏こそ理想の学習者だと言えます。今、学校選択制や全国学力テストの結果公開など、競争原理で学力向上を図ろうとする取り組みが進行しています。しかし、私はこうした動きの疑問を呈してきました。
 私はこのブログで、子供の知的好奇心を原動力とし、主体的に自らの疑問に取り組み、解決の喜び、達成感、充足感を味わうというサイクルの中で、未知の事象への探求心を高めていくことこそが、本来の学びであり、学校教育、日々の授業が目指す到達点であるということを述べてきました。私自身、教員時代、そんな授業を一度でもしてみたいと思い、授業法の研究や教材開発に打ち込んできました。一人一人の子供の個人カルテを作ったり、授業記録の分析を続けたりしてきました。でも、とうとう一度もそうした感動を味わうことなく教委勤務に移りました。
 指導主事として教委に勤務するようになり、教員を指導するようになっても、教員となった以上は一度でも、「よしっ!やった」という感触を得させてあげたいと思い、研究員や研究生の指導に当たってきました。でも、そんな授業はやはり夢でしかありませんでした。
 それだけに、砂田氏の述懐を目にして、やはり理想の学びというのは実際に存在するのだということを知り、とても嬉しくなりました。理想の学びの実現は、砂田氏個人の資質によるものなのか、環境なのか、第三者の働きかけに要因があったのか、知りたいと思いました。私が行ってきた、教員や学校という「教える側」からの考察ではなく、学習者である「子供」の視点から聞き取り調査をして分析するという迫り方もあったように思うのです。今からでは遅すぎますが、若い教員、研究者の方に取り組んでもらえれば幸いです。

 

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言葉はウソをつく

2016-06-28 06:55:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「言葉は嘘をつく」6月24日
 川柳欄に、行田市ひろちゃん氏の『ごゆっくり言ったそばから食器下げ』という句が掲載されていました。確かに感じ悪いですよね。お店の店員さんが、笑顔で「ごゆっくり」と言っているにもかかわらず、食べ終わったら早く帰って、と言わんばかりに中身を食べ終わった皿や器をどんどん下げて片づけてしまうという情景、私も体験したことがあります。
 人は様々な方法で自分の思いを発信しています。言葉はもちろん、表情や動作、いわゆるボディーランゲージで。また、言葉だけに焦点を当ててみても、発する言葉の字義的な意味だけでなく、声のトーンや口調、速さなどによっても伝わるものは違います。そして、字義的な言葉は最も嘘をつきやすく、表情や動作口調などは本心を露わに出してしまうものです。
 つまり、言葉よりも行動にこそ真実があるということです。教員の中に子供との信頼関係が築けないという人がいます。彼らは、子供の気持ちを理解し、子供の立場に立って、子供の人権を大切にし、受容的な態度で接しているのに…、と言います。それなのに子供が親しみを示してくれないとこぼすのです。
 しかし、そうした教員を見ていると、確かに言葉を録音し、文字に起こせば優しく思いやりあふれる文章になっているのですが、実際には、笑顔を作っていても目は笑っていなかったり、子供の話を聞いているときに貧乏揺すりをしたり膝を叩いていたりというようなイライラした様子を示していたりすることが多いのです。子供はそうした教員の仕草から、実際には話を聞く気がないことや面倒なことをしやがって、という苛立ちを感じ取ってしまうのです。
 それでも、こうした教員はまだましなのかもしれません。人間ですから感情があるのは当たり前ですし、教員という立場を意識して精一杯笑顔を見せようとしているのですから。
 一番ひどいのは、こうした言葉以外のコミュニケーションを意図的に悪用している教員です。つまり後から「先生はこんなことを言った」と責任を問われないように、発する言葉は子供を思っているとしかとれないような内容にし、一方で表情や仕草によって「俺はお前なんか嫌いだよ」というような否定的なメッセージを送り、子供を傷つけて自分の感情を解放するという奴です。冷たい、底意地が悪い、と蔭で言われる教員です。こうした教員は、「証拠」がないだけに校長も指導しにくいですし、保護者からの苦情を受けた教委も指導しにくいものです。
 こんな人間は教員になってはいけません。

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わざわざやることではない

2016-06-27 07:27:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「模擬投票」6月21日
 小国綾子記者が、『親と投票に行く?』という表題でコラムを書かれていました。18歳の新有権者の投票率アップを目指す様々な試みについて書かれたものです。その中で小国氏は、『驚いたのは「親子で投票に行こう、というキャンペーンも効くはず」という指摘。~(中略)~思えば我が家も、小学生まで親が投票する姿を見せてきたっけ。「新有権者」の息子を久しぶりに投票に誘ってみようかな』と書かれています。
 私も子供の頃、両親が投票に行くのに付いていったものです。私の知人も子供の頃、両親と小学生の兄弟2人で近くの学校に行き、帰りにラーメン屋でチャ-シュウ麺を食べるのが恒例になっていて、投票日は特別な日という感じだったと話しているのを聞いたことがあります。
 家族で選挙、50年前には、珍しくない光景だったのでしょう。ですから私は、初めて選挙権を行使するときにも、投票という行為そのものに緊張したり戸惑ったりすることはありませんでした。
 何を言いたいかというと、最近よく報じられる「有権者教育」の内容として、選管から投票箱を借りてきて、高校生に実際に投票させるという取り組みが紹介されることに違和感を感じるということなのです。
 私はこのブログで、真の有権者教育とは、民主主義や憲法、それらの歴史等についてきちんと学ぶことを優先すべきだと主張してきました。それは今でも変わりません。しかし、ある課題について調べたり議論したりして、自分の意思を決めるという学習の在り方について、強く反対するつもりはありません。私自身、最初に行った研究授業が、原子力発電について考えるというものでしたから、むしろそうした取り組みを実際に行ってきた者として、その難しさや効果についても理解しているつもりです。
 ただ、新聞などで、投票箱に1票を投じようとしている生徒の姿を写した写真が掲載されているのを見ると、投票箱に1票という行為に何の意味があるのか、そんなことに貴重な学びの時間を費やすことに価値があるのか、と疑問に感じてきました。自分自身の経験からして、投票場にいっても戸惑わない、というような点が効果として挙げられることに納得がいかなかったのです。そんなこと子供時代に自然に体験しているよ、と。
 私は私のような投票日体験は、私の世代までなのかと思っていましたが、小国氏の子供である現在18歳の世代でも、同じであったとすれば、授業で模擬投票という行為の無意味さを改めて主張したいと思います。
 なお、両親が投票に行かない、連れて行ってくれない子供もいるという指摘については、大人世代の責任であり、自覚のなさであると言いたいと思います。家庭でできることは家庭で行うべきです。学校における貴重な学びの時間を、40人の生徒が並んで投票するというようなことで浪費するのはばかげたことです。

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「分析」で変える

2016-06-26 08:10:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「越えられない壁」6月20日
 社会学者岸政彦氏が、『「できない」は見えにくい』という表題でコラムを書かれていました。その中で岸氏は、連れあいさんにギターの弾き方を教えたときのことを紹介しています。『左手のポジションを教えて、右手の形を教えた。で、これからどうやって弾くの、と聞かれたので、あとはリズムに乗って自然に弾いたらええんやと答えると、「だからその自然に弾くのができへんから聞いているんやろ!」「そんなこと知るか!自然に弾くとしか表現できへんのや!」と言い合いになり、気づけば怒鳴り合いのかんかになっていた』とのことです。
 仲のよい夫婦で微笑ましいし、羨ましい限りです。それはともかく、このエピソードから岸氏が、『できるひとにとってはそれは自然であり、できないひとにとってはそれは、なにか大きな苦痛をともなう不自然な訓練を積み重ねないとできない』という教訓を引き出しているのは、教員であれば心に留めておくべきです。
 しかし、だからといって教員が、理解に時間がかかる子供、習得に手こずる子供の立場に立って指導しようというのは、あまり意味がありません。また、子供時代に勉強が良くできた優等生よりも劣等生であった若者の方が、できない子供の気持ちが分かり、教員に向いているといった考え方も間違いです。
 不景気の時代に安定した職である教員試験に合格するのは、劣等生には無理ですし、そもそも教員の資質向上策として大学院卒の資格を必須にしようという発想の根底にある「偏差値の高い人がよい教員になる(私は賛成できませんが)」という改革の方向ともずれています。
 仮に小学生の頃劣等生だった若者が、その後学習の遅れを取り戻し教員になったとしても、その教員が分からない子供の立場に立てるかといえば、そうではないのです。彼は「分からない」を克服したのですから、克服できない子供の気持ちには重なることができないのです。自然に分かる子供と大きな苦痛を伴う努力の末に分かる子供には大きな壁があるのです。
 ですから、教員はあくまでも、合理的に何通りもの「分かる」に到達する道筋を想定し、子供の「分からない」状況に合わせて、Aさんには第1ルートを行かせ、分岐点aでは体験コースに進ませ、次の分岐点bではヒントαを与えよう、というようにタイプ別に最適の道筋を歩ませる授業を計画するのです。
 分からないという気持ちによりどうのではなく、分からない仕組みを分析するといえばよいかもしれません。そのために必要なのは、授業を積み重ね、自分の目で様々な「分からない」を知り、の対策を試行錯誤して作り上げていくしかないのです。その際に武器となるのが授業記録と分析なのです。授業は「思い」で変わるのではなく、「分析」で変わるのです。「思い」の壁は越えられませんが、「分からない」の壁は分析が越えさせてくれるのです。

 

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大人扱い

2016-06-25 07:09:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大人扱い」6月19日
 書評欄に、詩人城戸朱理氏による『昨日読んだ文庫』というコラムが掲載されていました。その中で城戸氏は、『父親は読書家で、よく買った本を抱えて帰宅したものだった。その日も父は一冊の文庫本を持っていた。そして、その本を私に手渡し、これは、おまえのだと言ったのだ。文字ばかりの文庫本は、大人が読むものだと思っていたから、驚いたが、自分が何となく大人に近づいたような気がして嬉しかったのを思い出す。その本は鈴木三重吉「古事記物語」だった』と、自分を本格的に本を出逢わせてくれた出来事を紹介していらっしゃいました。城戸氏が小学2年生のときのことだそうです。
 いろいろな意味で考えさせられました。一つは、子供は一人前扱いされることが嬉しいもので、それが一段上の段階に成長させてくれる契機となるということです。おそらく、いかに賢かった城戸氏であっても小2で古事記は難しかったはずです。内容の大半は理解不能だったかもしれません。それでも、父親の一人前扱いという行為は、『以来、半世紀、いったい何冊の文庫本を読んできたのだろうか』という読書家への道を切り開いてくれたのです。
 次に、城戸氏の父親観です。もし、城戸氏のコラムを読んで、うちの子も本好きにしたいと考えた親が、同じように大人向きの文庫本を買って帰り我が子に手渡したとして、本好きな読書家が生まれるかと言えば、そうなる確率は低いように思います。その違いは、子供の城戸氏が、自分の父親は読書家だということを、どちらかと言えば誇らしい気持ちで認識していたという点にあります。父親自身が、本は読まずにテレビばかりを見ている、読むのは競馬新聞だけ、というような存在であれば、父親の行為は自分勝手な押しつけとしか受け取られないでしょう。自分が評価している大人の評価すべき点に関わって「お前も仲間だ」という無言の連帯感が、子供を前向きにするのだと思われます。
 三番目には、こうした行為は保護者には可能でも、教員には難しいということです。小学2年生の担任教員が、子供に文字ばかりの「古事記物語」を渡して読みなさいと言ったとしたら、子供理解が不足していると非難される可能性が高いでしょう。また、学校全体の取り組みとして、低学年用の図書室に大人用の文庫本を置いておいたとしたら、発達段階を考慮していない不適切な計画として、教委の指導を受けることになりそうです。それが、公の学校と私の家庭の差です。
 では、教員には城戸氏の父親のような「大人扱い」効果による指導はできないのかといえば、そうではありません。城戸氏の父親の読書家に相当するような、私の先生は○○家と子供が肯定的に評価できるような○○をもつことです。その認識が子供の中に広がっていけば、子供の方から「私にも文庫本を」と言い出すものなのです。そのタイミングで、文庫本を渡す行為と同じ意味をもつ「大人扱い」をしてやればよいのです。
 実は私も、小学校6年生のときの担任だったN先生によって、読書家の道に一歩を踏み出したのです。お陰で2000冊以上の文庫本、1000冊近い新書本が本棚からあふれたままの惨状です。N先生、あらためて「ありがとうございました」。

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違法ではないが

2016-06-24 07:17:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「違法ではないが」6月19日
 日本医大特任教授海原純子氏が、『イギリスにおけるある調査』という表題でコラムを書かれていました。北海道で起きた父親による児童置き去り事件をきっかけとして、しつけと児童虐待について述べた記事です。その中で海原氏は、英国における調査結果を紹介しています。私が気になったのは、『子どもたちが「絶対ゆるせない」と思う割合は、こぶしでなぐるは96%、平手打ちが37%である一方、沈黙が62%となっていて、感情的な虐待が平手打ちを上回っている。親の無関心が、子どもの心をいかに傷つけるかを考えさせられる結果である』という記述でした。
 これは、親の行動に対する調査ですので、教員にそのまま当てはめることはできません。しかし、子どもの意識が、平手打ちよりも沈黙が許し難い虐待だと考えているという結果を、教員は重く受け止めるべきです。
 教員が平手打ちを行えば、弁解の余地なく体罰です。即ち学校教育法第11条違反という違法行為です。一方、子供の言動を無視し、子供からの働きかけを無視する行為、沈黙は違法行為ではありません。咎められるとしても、せいぜい舛添前都知事の会見で流行語になった、違法ではないが不適切レベルでしょう。それどころか、平手打ちについては、「平手打ちをしたことに気付かなかった」という言い訳をすれば笑われてしまいますが、無視(沈黙)について言えば、「他の子供のことに気を取られ、Aさんが言っていることに気が付かなかった」という言い訳は十分に通用してしまいます。
 教員のほぼ全員が、体罰は違法であり、処罰されることを知っています。そのことがある種のブレーキ役を果たしていることは疑いようもありません。一方、気に入らない子供を痛めつけ、自分の怒りの感情を発散するために意図的に特定の子供を無視し傷つけることは、法的には何の責任も問われません。つまり、一部の人格的に未熟な教員失格者の残酷な行為には歯止めがないということです。考えてみれば、恐ろしいことです。
 また子供の側から見れば、体罰ならば文句を言うことも、保護者に伝え教委で罰してもらうという復讐も可能です。実際にそうした行動に出るか否かはともかく、少なくともそう考えることで、少しはストレス緩和になるかもしれません。一方、沈黙=無視については、いくら文句を言っても、校長や教委に訴えても復讐効果は期待できません。その分だけ、強いストレスを感じることになります。深刻な事態と言えましょう。
 教員によるネグレクトについて、校長も教委も危機意識をもつべきだと思います。

 

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職を得るため「サービス残業」しようとする人

2016-06-23 07:27:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校の働き者」6月18日
 『軋む英国EU離脱国民投票 移民、広がる不安』という見出しの特集記事が掲載されました。英国がEUを離脱した場合、現在英国に居住し働いている我々はどうなるのか、という不安を抱く移民の心情や立場に焦点を当てた記事です。
 その中に、『元ビル建設作業員のビル・トーマスさんは安い賃金で働く移民に職を奪われたことがある。「賃金だけでなく、雇い主に気に入られようと時間外も働くので、英国人労働者にしわ寄せが来る」と強い口調で語った』という記述がありました。私は英国のEU離脱問題について自分なりの意見がありますが、それはここでは触れません。ただ、このトーマス氏の言葉から、学校の講師問題を連想したのです。
  以前もこのブログで紹介しましたが、教員が産休等で不在となったとき、産休講師を雇います。その際には、講師の労働組合に加入している方を優先的に採用するという決まりがあります。そして採用された講師には、一定の時間数の授業だけが割り当てられ、それ以外の仕事をさせてはいけないことになっています。
 つまり、授業終了のチャイムが鳴った瞬間、講師は教員ではなくなるのです。教室内で子供同士がつかみ合いのけんかをして血を流していても、仲裁に入ってはいけないのです。集団で虐めに遭い泣きじゃくっている子供がいても、事情を聞くことさえしてはいけないのです。極端な話、窓から飛び降りて自殺しようとしている子供を制止してもいけないのです。もちろん、その結果が重大事故につながっても、講師は一切責任を負うことはありません。
 なぜこんなことになっているかというと、そこには英国が悩む移民問題と同じ構造があるのです。つまり、「雇い主(校長)に気に入られようと時間外も働く(子供のもめ事に対応する)ので、英国人労働者(他の講師)にしわ寄せが来る」という事態が発生することを、講師たち自身が恐れているということです。確かに、校長からすれば、授業だけでなく、休み時間や放課後、清掃や給食の時間まで子供と共にあって指導してくれる講師がいれば、そういう人を雇いたいと思うのは当然です。そしてそうした「サービス」を認めれば、期間雇用という弱い立場の講師たちは、果てしなく「サービス」を求められ、授業だけという建前のまま低賃金で、過剰労働を強いられることになってしまいます。
 そうした事態を防ぐために、強い労働組合が存在するのです。しかし、そうした組合の存在は、一方で子供や保護者にとっては、学校にいても頼れる担任はいないという不利益を生む原因ともなっています。もちろん、講師にも本人が希望するのであれば授業以外の勤務を求めてもよいこととし、その分は適正な賃金を支払うことにすればすべて解決するのですが、それは新たな財政負担、究極的には税を負担する市民の負担が増すということになり、なかなか理解が得られないのです。そして、いくら教委が注意しても、校長等が「教員採用試験を受ける本人が、勉強になるからやらせてくれと言っている」という理屈で法令違反の時間外労働を黙認しているという事件が後を絶たなかったのです。
 移民受け入れ問題は、我が国では大きな問題とはなりません。しかし、底部においては、安い賃金でも働かずにはいられない人々とそうした人から職を守りたい人々という利害相反問題という共通項があるのです。英国やEU諸国が安い労働力に支えられているという事実から目を背けることができないように、我が国の学校教育、とりわけ学級担任制の小学校が、低賃金で働く講師によって支えられているという現実についてきちんと向き合うことが必要です。

 

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参議院選公約の中の学校

2016-06-22 07:28:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「恒例の…」6月18日
 来月行われる参議院選の各党公約が一覧表の形で掲載されました。私はこのブログで、選挙の度ごとに各党の学校教育に関する公約について論じてきました。今回も試みてみたいと思います。
 自民『すべての子どもが無利子奨学金を受けられるようにし、給付型奨学金を検討』、民進『なし』、公明『なし』、共産『・大学授業料を10年で半額にする。・月額3万円の給付型奨学金を70万人規模で創設』、お維『教育予算の対GDP比を他の先進国並みに引き上げる』、社民『・子ども、子育て政策を一元的に進めるため「子ども省」を設置・小学校30人以下学級の早期敢然達成』、生活『・高校授業料を無償化し、私立高校や大学の授業料は減額・給付型奨学金制度の創設』、こころ『公正と秩序を維持するための規範・道徳教育』、改革『子どもの問題に対応する「こども庁」を新設』となります。
 まず、悲しいというのが第一印象です。参議院の議席の7割以上を占め、実質的に参議院の議決を決する自民・公明・民進3党で、学校教育に関する言及は、奨学金問題だけということになります。つまり、今後3年間、参議院では奨学金の拡充以外は学校教育における意味のある議論は行われないということです。
 さらに、この奨学金問題は、基本的に大学教育の問題として意識されているということを指摘する必要があります。つまり、上記3党において、小中という義務教育については視野の外にあるということなのです。私は、既にこの時点で、論評する意欲が萎えてしまいました。ただ、注目したいのは自民党が「すべての子どもが~」と謳っていることです。
 以前、菅官房長官が、大学生の奨学金問題について、貧困のために大学進学を諦めなければいけない状況にある若者が少なくない現状を考えれば、大学生にだけ給付型の奨学金を創設することは公平を欠く懸念があるという趣旨の発言をしていたことがあり、私もむしろ小中高校における保護者の負担軽減を進めることこそ重要だと述べました。もし、自民党の「すべての子ども~」がそうした趣旨であるのならば、期待したいと思います。
  次に個別に見ていくと、教育内容についての提言は、こころの「公正と秩序を維持するための規範・道徳教育」だけということに気が付きます。学校教育については、道徳の教科化が議論の対象になりました。大まかにいえば、保守派が教科化推進でリベラル派は消極的という図式だったと思います。しかし今回の公約では、こころ以外の政党はこの問題に触れていません。このことは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という我が国の体質を表していると考えることができそうです。とりあえず議論はするが、一度決まってしまえば、もう次の話題に目が移ってしまうというわけです。
 しかし、安保政策や特定秘密保護法などの問題については、ねばり強く廃止や改定を掲げていることを考えれば、むしろ、そもそも重要な問題とは考えていなかったという方があっているのかもしれません。そうだとすれば残念です。

 

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評価についての誤解

2016-06-21 07:14:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「評価についての共通理解」6月17日
 『「道徳」の評価入試に使わず 文科相』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、文科相が、『「~国や郷土を愛する態度など個別の評価はしない」と名言した。その上で「入試にはなじまず、調査書に記載はしないとの方針を持って臨んでいる」と述べた』とのことです。
 よく分からない発言です。まず、「評価」という行為の意味するところが不明です。私はこのブログで、全ての教育活動において「評価」は不可欠であること、「評価」に基づいて次の指導を微修正していくことこそが教員の授業力の根幹をなすものであることを訴えてきました。しかし、この記事で使われている「評価」は、いわゆる評定を指しているとしか思えません。以下、そうした認識の下に述べていきます。
 初めに、「個別の内容項目」という表現の意味です。例えば、私が専門としてきた社会科では、社会的事象に関する「知識・理解」「資料活用・表現」「思考・判断」「関心・意欲・態度」などの評価項目があり、それぞれについて3段階なり5段階で、学習指導要録等において評定するということになります。当然、道徳においても同じです。とすれば、大臣がおっしゃっている「個別の評価」とは、道徳における心情・判断・行動というような個別の評価項目を意味しているのでしょうか。そうだとすれば、それを評価しないということは、評価する意義のない無意味なものになってしまうとしか思えません。
 また、愛国心などの個々の内容を指すのだとすれば、生命尊重、畏敬の念、先人への感謝、家族愛・隣人愛といった内容のうち、何について学び何についてどのような考えや思いを抱くようになったのか、何も伝わりません。それが評価と呼べるでしょうか。
 どうしても、「評価」というものの教育的な機能について正確に理解しないまま、道徳の評価=一方的な価値観の押しつけ、という批判を過剰に恐れた結果の発言ではないかという気がしてなりません。
 道徳における評価とは、学習の対象となった価値内容について、身近な問題として本音で考えているかどうか、考える過程で異なる見方や主張を受け入れ自分の考えを磨き上げているか、二項対立的に割り切るのではなく異なる意見の中に自分の考えと通ずるものがあることを認めることができているか、自分の考えや意見を実生活の中で行動に表そうとする姿勢が見られるかどうか、など多面的に見るものであると同時に、優しさや思いやり、命や自然の大切さなどを肯定する価値観を「植え付ける」ことを否定するものではありません。
 例えば、命を大切とした上で、人間が生きる上で家畜の命を奪う行為について考えるとき、によって意見の対立があることを知り、それを認めるのが、道徳の授業なのですから。
  最後に、調査書に記載しないという発言についてですが、賛成です。でも、そうであれば、教科化することによって授業時間数を確保するという狙いは実現しないでしょう。道徳の授業が他の教科にふり返られてしまうことの背景には、受験に影響しないからまじめに取り組まなくてもよいという保護者と生徒の意向があるのですから。

 

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