ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

そのエネルギーこそ

2016-02-29 07:27:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そのエネルギーこそ」2月22日
 『学校と私』欄で、女子ソフトボール日本代表上野由岐子氏が、高校時代の恩師の思い出を語っていらっしゃいます。上野氏は、『先生が怒るのは、自分勝手なことをしたとか、ルールを守らなかったとか、他人に迷惑をかけたとか、ちゃんと私たちにも分かる理由があった。だめなことはだめと、決して見逃さない。ただ感情をぶつけてるんじゃないんです』と、担任教員を分析しています。
 この言葉の中に、上野氏の担任が優れた教員であることが分かる2つの要素が含まれています。まず、浸透力です。「怒る」理由を「怒られる」側である生徒たちが理解している、ということです。つまり、担任の価値観、基準といったものが、生徒と共に過ごす時間の中で、いちいち言わなくても自然と生徒たちに浸透していっているということです。これは言うに易く行うに難し、です。ダメな教員は、子供に理由を分からせないまま叱る、普通の教員はいちいち理由を説明して叱る、そしてよい教員はいちいち言わなくても子供たちは叱られた理由が分かっている、という違いがあるのです。
 次に、例外を作らない努力です。上野氏の言葉の中の『決して見逃さない』がそれです。指導力不足といわれるような教員でなければ、自分が設けた価値観と基準に従って、「賞罰」を行っているはずです。私もそうでした。しかし、教員も人間であり、ロボットではありません。体調や気分にムラがあるものです。そのため、本来ならば叱らなければならないにもかかわらず、「小さなことだし、まあいいか」ということがあるものです。人間だから仕方がない、と言ってしまえばそれまでですが、子供側から見ると、「なんで先生は叱らないんだろう。○○さんを贔屓しているんじゃ?」という疑念を起こさせるのです。こうしたことが重なっていくと、子供は教員の叱責を素直に受け取れなくなってしまいます。その行き着く先は「学級崩壊」なのです。
 そんなことは分かっているという教員は多いでしょう。でも、逆に教員なればこそ、叱ることに費やすエネルギーの大きさも理解できるはずです。叱るのは疲れるのです。だから、教員自身にエネルギーが不足しているときには、叱ることが億劫になってしまい、つい見逃すことになってしまうのです。ですから。上野氏の担任教員が「決して見逃さない」ということは、素晴らしいことなのです。
 教員という職の難しさは、経験を積み、知識や技能が高まったとき、実はエネルギーが枯渇してくるという点にあるのです。

 

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言わないことも「誘導」

2016-02-28 08:10:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「模範回答を」2月21日
 『9都府県 教員向けに指針』という見出しの記事が掲載されました。主権者教育実施における指針の策定状況と内容について報じる記事です。記事では『使用する教材や新聞などの資料について「事前に校長等の管理職が確認した上で指導する必要がある」と明記した』という東京都の対応について、批判的な見解が紹介されていました。
 まったくおかしな意見だと言わざるを得ません。これは何も主権者教育に限ったことではなく、校長の教育課程管理権に基づいて、小学校から高校まで、全ての学校で、全ての教科において、既に実施されていることの再確認に過ぎないからです。教員は、週案簿にその週に実施する授業について、略案を記載し、前週末までに校長に提出し、承認印をもらってからでなければ授業をすることができないのです。ですから改めて問題として取り上げることではありません。もし、この指針が問題だと考える教員がいるとすれば、それはその学校において、きちんと教育課程の管理が行われていなかったということを表しているだけです。
 そんなことよりも私が気になったのは、神奈川県が作成している問答集の内容についての記載でした。『「政策について生徒に質問されたら説明してもよいか」との教員からの問いには、内容の説明は構わないとしつつ「政策の是非など価値判断を含んだコメントは一切してはいけない」と指導している』。
 こんなことが可能なのでしょうか。例えば、原発再稼働について説明するとしたらでしょう。「発電事業者が、停止中の既存の原子力発電設備を再び稼働させようと考えたとき、原子力規制委員会の審査を受け、審査基準をクリアしたとき、地域自治体の同意を取り付けるという条件の下、原発を稼働させることができるという仕組み」とでもするのでしょうか。こんな説明を受けた生徒は、「ああ、そうなのか」と納得するでしょうか。納得してしまうような生徒であれば、それまでの授業における思考力・判断力の育成に問題があったと言わざるを得ません。納得しないのであれば、そんな説明しかできない教員に対して不信感を抱くことになるでしょう。
 安全保障法についてはどうでしょうか。「我が国の国民とその財産、国土を外敵の侵略から守るために、軍事力行使以外に他の手段がない場合には、必要最低限の範囲で、他国との集団的自衛権を行使することを可能とする法律」と言えばよいのでしょうか。憲法違反という指摘があること、他国の戦争に巻き込まれるという懸念があること、平和国家日本という国際的な評価が揺らぐ可能性があることは、説明してはいけないというのであれば、そのこと自体が、肯定的評価に誘導していることになるのではないでしょうか。
 少なくとも私が担当教員であったとしたら、説明はできません。新聞を読みなさい、テレビのニュースを見なさい、としか言えません。それでは授業は成立しません。しかも、後日、新聞を読んだ生徒から、こんな風に書いてあったけど、と訊かれても「そうですか」としか答えられないのです。まるで「木偶の坊」です。
 問答集の作成者には、模範回答を示して欲しいものです。

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「英語」と同じ誤り

2016-02-27 07:30:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「読めなくちゃ」2月20日
 『高校国語、2科目を必修に』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『新たに設ける「現代の国語」「言語文化」の2科目を必修とする。「現代の国語」では「書く・話す・聞く」ことも含め、実生活での国語の能力を高める』のだそうです。
 「読む」の扱いについて、よく分かりません。「~も含め」とあるのですから、当然「~」ではない「読む」については、大前提として位置付けられている、という考え方が可能です。しかし一方で、言語の4分野の中で「読む」だけ触れていないのは、「読む」を重視していないと理解することもできそうです。
 今、小学校に教科として導入された英語科について言えば、従来の「読む」「書く」重視から「聞く」「話す」重視に移行しつつあることは明らかです。同じ「言語」学習であることを考えれば、どうしても国語においても「読む」の比重が軽くなってきているのではないか、と私は思ってしまうのです。
 高校生の生活一般を考えてみても、「読む」行為は、他の3つの言語行為に比べて盛んに行われているように見えます。LINEなどSNSでのやりとりが増え、生での会話、つまり「聞く・話す」が減っているのに対し、「読む」は増えているように感じられます。「書く」がある程度意図的な行為であるのに対し、「読む」は、通学の電車内で何気なく広告に目をやっているときも、時計代わりに付けているテレビの字幕を眺めているときも、行われています。つまり、「読む」は機会が多いが他の3行為は、学校教育で意図的に取り入れる必要がある、というような発想で、今回の改訂が行われているのではないか、という懸念が捨てきれないのです。
 実際には、中学生段階における「読む」能力は低下しているように思われます。特に、論理的な文章を正確に理解する能力が。20年ほど前、教育についての議論の中で、中学校を卒業したときに求められる学力の分かりやすい例として、新聞を読んで理解できる、という表現が使われました。私はそうした指摘に対して、「中学校で授業をしている教員であれば、そのレベルがどれだけ高望みであるか骨身にしみて実感している」と反論してきました。
 確かに乳児や幼児は、意図的な学習を経ずに、自然と言語を習得していきます。しかし、論理的な思考を伴う「読み」の力は、漠然と多くの文字を目にする環境にあれば身に付いていくというものではありません。体系だった意図的な指導によって初めて複雑な論理構成を読みとる能力が身に付くのです。
 未熟な高校生に対して「読み」を軽視するような国語教育を行うという過ちを犯して欲しくはありません。

 

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具体案を並べてみれば

2016-02-26 07:28:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「具体案を並べてみれば」2月20日
 『「自殺予防教育充実を」絵本作家ら文科相に要望』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『(絵本作家の)夢ら丘さんは馳文科相に、小中学校の各学年で自殺予防教育の年5時間の導入や、自殺対策の出張授業への財政支援を要望した』とのことです。
 私はこのブログで、社会問題への対策を何でもかんでも学校教育に持ち込んでくる風潮に異を唱えてきました。様々な団体や業界から持ち込まれてくる「教育課題」が、学校の教育課程をパンクさせ、教員を疲弊化させているという問題意識からでした。ですから、今回、この記事の見出しを目にしたときにも、また新しい要求が…、と少しうんざりした思いでした。
 しかし、記事を読んで、今までによくあった「学校で○○教育を」という話とは違う点に気付きました。それは、具体的に「小中学校の各学年で5時間」という数値を提案していることです。今まで、多くの「教育課題」については、単に学校での指導を求めるという抽象的な要望でした。そのため、学校教育への負担が過重である、と主張しても「現場の工夫でなんとかなる」といなされてしまうケースがほとんどだったのです。そして実際に、小学校6年間で1時間だけ授業を設けて、我が市では全校で「○○教育」に取り組んでいます、とアピールするような事例もあったのです。
 こうしたやり方は、要望を受ける教委・学校にとっても、要望する「圧力団体」にとっても、学校=要望に応えてきちんとやっています、団体=我々の要望を学校に受け入れさせました、という形で、第三者に説明できるという利点があったということです。
 もちろん、6年間で1時間の授業では効果は極めて限られています。教育的な効果の評価よりも政治的な配慮が優先した形であるということができます。こうした欺瞞が通用してきたからこそ、学校はパンクせず、詳しい事情を知らないままそうした状況を外部から見ている人たちは、学校にはまだまだいくつもの「○○教育」を受け入れる余裕があると判断してしまうのです。
 でも、今回の自殺予防教育のように、具体的に何年生で○時間という形で各「圧力団体」の要望を列挙すれば、その全てを満たせば、教科の授業時間を削らなければならないことが明らかになります。そうなって初めて、「○○教育」間に優先順位をつけ、相互に関連づけることで時間数を減らす、例えばLGBTについての学習を充実させることが自殺予防にも通じるということで共通の時間とする、というような議論が可能になってくるのです。
 「○○教育」の学校教育への導入を目指す皆さん、数値化した要望を出し合ってください。いかがでしょうか。

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教職復帰

2016-02-25 07:58:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「許すor許さない」2月19日
 『清原容疑者に復帰の道を ダルビッシュが言及』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、ダルビッシュ氏が、『「良くないことだけど、誰にでも間違いはある。単にたたくだけでは何もならない」と、更生プログラムなどを受けた上で球界などに社会復帰する道を閉ざすべきではない』との考えを示したそうです。
 どう思われるでしょうか。私は半々です。それは清原容疑者については、更生は難しいと考えている一方で、一般論としては、ダルビッシュ氏の『日本もセカンドチャンスが持てる国になっていかないと』という主張には賛成だからです。
 そして、社会復帰は、その人が最も能力を発揮できる分野でなされるべきだと思うからです。もし、私が現役のときに、何かの事件で懲戒処分を受けたとしましょう。私は大学在学中に家庭教師のアルバイトをしただけで、教員以外の職の経験はありません。小学校の教員をし、教育委員会に勤務するようになり、何百という授業を見、指導助言をしてきました。教員の指導力不足や服務事故に関わる研修を担当し、教員の資質や能力について多くの知見をもつことができました。
 そんな私が、犯した罪を償い、社会復帰するとしたら、そして社会に迷惑をかけた償いをするとしたら、やはり教員の育成、授業力の向上に関わる仕事をしてこそ、「社会のお役に立つ」ことができると思うのです。
 中年を過ぎ、それまでしたこともない仕事で周囲の人に迷惑をかけるよりも、自分の人生を大部分を費やして身につけた専門的な能力を生かすことこそ、本人にも社会にとっても、有益だと思うのです。
 もちろん、「罪」を犯した人間を大切な我が子の教育に関わらせるなんてとんでもない、という市民や保護者が多数いることでしょう。しかし、何らかの検証機関を設け、再チャレンジの是非を判断する、その判断の理由を開示するという形で、復帰を可能にするシステムは必要だと思うのです。
 覚醒剤や性犯罪などの犯罪行為の場合であれば、「犯人」の教職復帰は抵抗が強いでしょうが、私生活での交通事故、教材づくりにおける著作権違反、業者からの供応など、私から見て「惜しい」と思われる人材が、教職を追われ復帰できない事例を見てきました。セカンドチャンスの概念は、教育にこそ求められていると思うのですが。

 

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「書く」の復権

2016-02-24 07:31:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「考えること」2月18日
 客員編集委員近藤勝重氏が、『「思う」-「考える」』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、『「思う」がまずあって、「考える」と続くのが一般的な思考の流れだろう。ただ、ぼくの場合は「思う」と「考える」の間で、メモも含め「書く」という作業がしばしば伴う。書かないとちゃんと考えられないからだ』と述べていらっしゃいます。
 私も近藤氏と同じ型の人間です。そしてそれは私や近藤氏だけの特殊な例ではなく、多くの人に共通するものであると思っています。私はこうした考え方を基に、教員時代に、書くことで自分の思考の筋道を意識し問題を解決する、という授業に挑戦しました。授業自体は、私の未熟さもあり、多くの問題を残してしまいましたが、書くことで論理的な思考が可能になり、そうした体験を繰り返すことで、自分の思考の型を認知することができ、進んで考えよう(問題を解決しよう)とする態度が身に付きやすいという仮説は、一定の説得力をもつことができたように思います。
 そうした経験からすると、今、多くの学校で考える手段としての「書く」活動が、軽視されているように思えてなりません。覚える授業から考える授業へ、という流れにあるにもかかわらず、考える授業としてフレームアップされているのは、討論やディベート、調査や体験であり、「書く」活動は脇に押しやられているケースが多いのです。
 そんな中、「書く」活動の出番は、ミニ論文的に、自分の考えを表現し伝える場面にあることが多く、あくまでも表現伝達活動としての「書く」であり、考える手段としての「書く」とは異なるのです。手段としての「書く」は、言い方を変えれば、自問自答、脳内対話であり、沈思黙考でもあります。
 つまり、現在の学校では、他者との交流に重点が置かれ、その反動として、一人で孤独に考えることが、量的にも質的にも軽視されているということでもあります。「書く」思考の復権を真剣に考えるべきだと思います。

 

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ゲスの勘ぐり?

2016-02-23 07:21:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「国会議員がそこまで」2月17日
 『組み体操事故防止へ超党派議連発足』という見出しの小さな記事が掲載されました。記事によると、『児童・生徒の骨折が相次ぐ組み体操など学校での重大事故の防止を目指す超党派の議員連盟が16日発足』したのだそうです。会長は元文科相で、総会には現文科相も出席し、『組み体操を否定しないが、エスカレートしないようどのように対応すべきか議論することは重要』と述べたそうです。
 政治の世界には詳しくありませんが、様々な議連が存在することは知っています。日韓議連が政府間の対立を緩和するための模索をしている、などの記事も目にします。そうした議連に比べて、今回の「組み体操」議連には、違和感を感じます。
 その理由はいくつかありますが、その一つが、こんなに「小さな問題」についてまで、国会議員が提言をするのか、ということです。教育に関する提言であれば、歴史教育のあり方、英語教育振興、理科教育の充実というような広がりのあるテーマについては、まさに我が国の今後のあり方に結びつく課題であり、民意を受けた政治の役割があるように思うのですが。
 次には、これが何か別の意図をもった活動なのではないか、という疑念が浮かびます。今まで、教育に関する政治家の提言は大きな方向性を示すもので、具体的な指導についてあれこれ言うことはありませんでした。新しく教科化すべき、授業時間数を増やすべき、専門の教員を配置すべき、というような提言はあっても、組み体操のタワーは小学校では4段まで、というような提言、悪く言えば介入はなかったのです。
 安倍総理、麻生副総理、谷垣幹事長という現在の政権中枢を占める3氏が小泉総理の後継を争った自民党総裁選においては、教育クーポン制や義務教育の延長など教育問題が争われましたが、そのときも、指導の方法は現場の教員に委ねるという姿勢は貫かれていました。今回の議連結成が、今後学校での指導の細かい部分についても政治が介入する前例作りとなってしまうのではないかという思いを捨てきれないのです。
 さらに、記事によると、『組み体操に関する提言を2月中に文部科学省に提出』とのことで、わずか2週間あまり、実質2,3回の議論で提言が作られることについても、そんな軽い扱いなのか、という感じがします。おそらく、実態と問題点をざっとおさらいし、それで一部の議員によって元々用意されていた結論を微修正して提言、というのが実情でしょう。それでいて、超党派の国会議員による提言となれば、その重さは確実に教育行政を縛ることになります。こうした前例を積み重ねて欲しくはないという思いです。そもそも、今回の組み体操についていえば、文部科学省が通知を出せば済むことなのですから。
 こうした手法は、やがて地方自治体にも浸透し、地方議員がいくつかの自治体を超えて議連を作り、公平公正な提言という形で教育行政に介入するというケースが多発するというのは、私の勘ぐりすぎでしょうか。

 

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その先の展開

2016-02-22 07:25:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そこからの発展」2月17日
 『証言でつづる戦争』シリーズの第9回は、『加害語った被爆者』でした。そこでは、末端の兵隊として中国での加害行為に加担した人の生々しい証言が列挙されていました。
 『男を捕らえ、拷問する。先端にひし形などの金属を付けた棒で殴り、ろうそくの火で鼻柱も焼く』『壕の前に座らされた男は、故郷に向かい手を合わせて何か唱えている。「突っ込めえ」の号令で、原田は思いっきり走って刺した。銃剣は背中まで達し、壕に落ちた男の腹から内蔵が出ている。銃で頭を撃ち、とどめをさした』『10畳ほどの一室に毒ガスを充満させ、そこに5,6人の捕虜を押し込む。涙や鼻水が流れ、瀕死の状態で外に出し、再び部屋に入れる。全員絶命した』『のどを弾が貫通し息をするたびに血が噴き出す瀕死の中国人を前に、昼食をとらされた』などなど。
 読んでいると気分が重たくなってきます。おそらく誰でも同じでしょう。もちろん、こうした資料を授業で読まされた子供もです。今までも、こうした事実は、「平和教育」の中で取り上げられてきました。そして問題なのは、「平和教育」でこの事実に触れさせた後の展開なのです。
 従来は、戦争は恐ろしい、戦争は人を獣にしてしまう、戦争は勝ち負けに関係なく大きな不幸をもたらす、戦争は決してあってはならない、などという子供の感想を引き出すところで終わってしまうことが大部分でした。あるいは、少し「進んだ」実践となると、子供をその場面の兵隊の立場に立たせ、「もし自分がこの兵隊だったらどうするだろうか」と考えさせ、その気持ちを吹き出しに書かせる、というようなことも考えられます。この心の葛藤を更に焦点化し、上官の命令に従う派と良心を貫き通す派に分かれて討論させるというような試みもあるでしょう。
 しかし、それでは不十分なのです。戦場の狂気は支配する場においてどうすべきかを考えさせるのは、あまりにも戦争というものに対して無知だと言わざるを得ません。仮に自分が上官の刺殺命令を拒んでも、自分は殴られ、他の兵隊が捕虜を刺殺するだけのことで、自分の小さな良心を満足させることはできても、それは自己満足に過ぎないのです。
 本当に「平和」を求めるのであれば、こうなる前の段階、愛国心が偏狭なものへと変化しようとしているその時点、メディアが自由な報道をすることができなくなろうとしているその瞬間、特定の国や民族が嫌○、反○の対象にされていく雰囲気、そうした戦争の芽に敏感になり、戦争という大きな石が転がりだし勢いがついて止められなくなる前に、声をあげることに重要性に気付かせる展開を計画しなければ、本当の「平和教育」にはならないのです。
 必要なのは、「可哀想」という情緒ではなく、言論統制の危うさについての知識なのです。

 

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東京都の主権者教育に

2016-02-21 08:08:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「首長の正論」2月17日
 東京都の桝添知事の記者会見でのやりとりの概要が掲載されていました。『選挙権年齢が18歳に引き下げられる。若い世代にいかに都政をわかりやすく伝えるかが必要になる』という問いに答えて、知事は『基本は義務教育の社会科の授業や高校で憲法とか基本的なことを教える。その中で都政の仕組みとかをやっていきたい』と語られたようです。
 常識的かつ現実的な正論だと思います。私はこのブログで、主権者教育というとすぐに「模擬投票」「身近で具体的な事例を話し合う」というような目に見えやすい学習活動に焦点が当てられることに懸念を表してきました。そして、社会科で学ぶ「基礎」を充実させることこそが、本当の意味での主権者教育になると主張してきました。
 ですから、知事の発言は、まさに我が意を得たりの思いです。憲法が権力者の権力乱用を防ぐものであること、三権分立による相互チェックが独裁を防ぐ装置であること、民意の反映の全体には正しい情報の公開が必須であることなどを基礎中の基礎として位置づけ、そのことを学ぶために、先の大戦に至る我が国の歴史、第一次大戦を誘発した暴走する世論の危険性などを具体的な教材として、学ばせることが必要なのです。
 そうした基礎がしっかりと定着した後に、原発再稼働の問題や基地移転の問題、機密法制定や集団的自衛権の解釈改憲などの問題について、調べたり話し合ったりするのでなければ、一見活発な学習が行われているように見えても、それは上辺だけのものになってしまいます。
 教員時代に、上辺だけ活発な社会か授業の実践家であった私が言うのですから間違いありません。識者の中に、「基礎は十分だ。今問われているのは応用だ」「基礎的な知識はたっぷりと注入されているが、自分で考える授業な不足している」というような主張をする人がいますが、その現状認識は間違っています。
 小中学校でも、高校でも、政治の関わる基礎的な知識の習得は全く不十分なのです。二院制や与野党、違憲立法審査権などの言葉を覚え、その事典的な意味を説明できるということをもって、基礎的な知識は十分というのであれば、あながち間違いではありませんが、それは理解ではなく暗記に過ぎません。
 民主主義を支える諸要素が確立されてくる歴史を背景にその真の意味を理解することこそが今の時点での主権者教育に求められているのです。
 東京都の主権者教育に注目です。

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先細り

2016-02-20 07:26:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「先細り」2月17日
 『ひずむ介護現場 川崎・入所者殺害』という見出しの特集記事が掲載されました。川崎市の介護施設で高齢者3人が従業員に殺害されて事件を受けて、その背景を探る記事です。記事の中に、『「中・小規模施設は人員が足りず、研修にも行けない」。介護の現場では人材不足や、介護のプロを育てられない現状を嘆く声が多く聞かれる』という記述がありました。
 私の両親も、特別養護老人ホームやグループホームにお世話になり、私自身、介護施設の過酷な労働環境については、深刻な問題意識をもっています。そして同じ危機感を、学校現場にも感じています。
 我が国の教員が世界的に見て多忙であることは、多くの調査結果が示しています。その弊害として、学校の教育力の低下が指摘され、対策が練られるようになってきました。しかし、それでもまだ危機感が足りないと思うのです。
 現在、教員の多忙化にいての議論では、多忙→教員の疲弊→教育力低下という図式で語られることが多いです。間違いではないのですが、それが現在の問題として語られている傾向が強いのです。そうではないのです。
 学校の現状を表現するとすれば、個々の教員の頑張り、自己犠牲をいとわない教員文化の伝統、若い頃に授業力を身につけた中堅・ベテランの存在などが、かろうじて学校の教育機能を維持し、大きな破綻を防いでいるということになります。
 では、将来はどうなるか。子供のために自己犠牲をいとわない教員文化は、教員の業績評価が浸透し、協業の意識が薄れ、数値化しやすい成果にばかり目が向くという風潮の中で、消え去ろうとしています。若い頃(今よりも教員が「ヒマ」だった頃)に研修や先輩の指導によって授業力を向上させてきた中堅以上の教員の退職が本格化し、校内のお手本がいなくなります。つまり、目の前の危機だけを見ていると、10年後、15年後に控えているより大きな危機が視野に入らなくなってしまうのです。
 このままでは、大学で教員免許を取得しただけの素人が、プロになる機会を得られないままに学校を担い、様々な問題が頻発し、そのことの対応に追われる日々の中で、素人のままの中堅とベテランを生み出し、学校制度全体が漂流してしまうという惨状を迎えてしまうのです。
 その前に、学校の悲惨な現状を知って教員を志望する優秀な人材が激減するということになり、とにかく頭数を集め退職者の穴埋めを経験のない臨時職員で補うという、介護現場と同じ状況に追い込まれる可能性もあります。
 「手のかかる子供だから殺そうと思った」などと自供する教員が現れないうちに、教員がプロになることができる学校環境を作り出す必要があります。

 

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