ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

自責の念だけでは

2024-06-14 08:18:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の責任」6月8日
 読者投稿欄に、千葉県H氏の『カンニングを責めなかった先生』と題する投稿が掲載されていました。その中でH氏は、大学時代に導入の男子学生がカンニングをしたときのことについて書かれていました。
 『しばらくして先生の部屋から出てきた彼は、肩を落としながら私たちに言いました。先生は「カンニングさせて悪かった。そんなふうに君を追い詰めたのは、私の指導が足りなかったからだ」と涙をこぼしたと』。
 H氏は、『若い頃あのような先生に巡り合えた私たちは、幸せでした』と結んでいらっしゃいました。私は頭が混乱してしまいました。この大学教員の行為は肯定的に評価されるようなことなのか、という疑問が浮かんできます。もちろん、何でも頭ごなしに叱ればよいというものではありませんし、問答無用で罰すればよいというものでもないことは理解しているつもりです。
 教え子の問題行動に直面したとき、一方的に教え子を責めるのではなく、自分の指導の至らなさを反省することも、教員には必要な資質であり、態度であることも分かっています。それでもなお、この教員の教え子に対する接し方を肯定することはできません。
 まず、教員が指導するに当たっては、相手の成長段階への配慮が必要です。同じ行為をしても、入学したての小学校1年生と6年生とでは対応が異なるということです。大学生なのですから、カンニングがいけない行為であるということは十分理解しているはずです。ですから、悪いこと、卑劣な行為であると知っていながら実行したという悪質性への注目が必要になります。
 次に公平性への配慮です。多くの児童・生徒・学生を指導する場合、同じ行為に対しては、同じ叱責、懲罰で臨むということが大切です。この教員の場合、今後カンニングが遭った場合、常に「私が悪かった」と涙を流して見せることが必要になります。そんなことが可能でしょうか。次のカンニングをした学生にも、その次にカンニングした学生にも、自省の涙で接する、それは不可能でしょう。
 また、罰には、問題行為を抑制するという効果も期待されています。公平・公正な罰は、他の者に、ああした行為をするとこのような罰を受けるのだ、と理解させることで、自分はあんなことは決してしないと思わせる働きがあるのです。カンニングがばれても、部屋に呼ばれて先生の名無駄を見ていればそれで済む、それならカンニングをした方が得だ、と思わせるようでは、指導は逆効果になってしまうのです。
 私はこのブログで、教員時代のいじめ問題への対応について書いたことがあります。クラス全員の前で、いじめがあったことを報告し、自分がいじめの芽の段階で気付くことができなかったため、いじめが深刻化し、Aさんが登校できなくなってしまったこと、いじめをしたBさんたちにも嫌な体験をさせてしまったことを謝罪したという話です。
 しかしこの話は、いじめ加害者たちに対し、個別に面談し、いじめはどのような理由や経緯があっても決して許さない、しかしそれは君たちの行為を許さないということであって君たちの存在を否定することではない、自分のしたことを意味を考えいじめを反省し、Aさんの苦しみを理解した君たちは今もこれからも私の大事な教え子だ、ということを伝えた上でのことでした。
 行為を責め、責任を自覚させたうえでの、教員自身の未熟さへの謝罪だったのです。その過程なしに、未熟さを反省するだけでは、指導の名に値しないと考えます。

 

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