ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

おしゃべり

2022-08-25 08:06:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「おしゃべり」8月19日
 特集ワイドは、評論家與那覇潤氏へのインタビューでした。『濃淡ない社会の危うさ』というタイトル通り、濃淡のグラデーションなく、白か黒か、善か悪か、敵か味方かと決めつける風潮に懸念を示す内容でした。
 とても興味深い内容でしたが、私が注目したのは、最後に付記された次の記述でした。『人の心を知るのに、インタビューはどうなのだろう。尋問みたいで、聞き手がいつも物欲しそうだ。最善はその人がポツリと漏らした独り言だが、盗み聞きなどそうそうできない。だとすれば残るのはおしゃべり。テーマを決めず、浮かんだ言葉をキャッチボールしていると、時に、その人の本音がこぼれ落ちる。結論や成果を考えず、ひたすらおしゃべりしていたい。そんな人たちを訪ねるしりーずです』。
  教員の仕事は、授業でも、学級経営でも、生活指導でも、根底には子供を理解するということがあります。子供理解には様々な方法があります。私も、一人一人の子供の個人カルテ的なものを作ったり、アンケート調査をしたり、授業記録を残したり、いろいろと試行錯誤してきました。そうそう、エゴグラムを作ったり、ソシオメトリック調査をしたこともありました。
 しかし、教員として経験を重ねていくと、○○法と名付けられた調査方法などよりも、いわゆる「子供との触れ合い」こそが、子供理解を深める最善のやり方だと思うようになりました。私は小学校の教員でしたから、一緒に遊ぶというような触れ合いもできましたが、やはり最も適しているのは、「おしゃべり」だったのです。
 5分休み、10分休みのちょっとした時間、子供たちが教卓にいる私の周りに集まってきて、「昨日ね~」「○○って、おかしいんだよ~」「ねえ、××って知ってる~」などと話しかけてきて、だらだらと続くくだらない話、そんな「おしゃべり」こそ、子供を理解し、教員である自分を理解してもらう機会だったと思うのです。
 相談や面接とは違い、教員も理解してもらえるからこそ、相互信頼が深まり、それがまた子供たちの自己開示を促す、という好循環が生まれれば、もう学級経営は半ば以上成功したようなものです。
 最近、教員の多忙化が問題になっていますが、あまり意識されないことですが、こうした「おしゃべり」の時間が真っ先に失われていくことの弊害は、長い目で見たとき、確実に学校の教育力を低下させます。多忙化への対応として無駄と削ることが言われます。そのとき、「おしゃべり」の効用を知らない者が、「おしゃべり」を削ることを考え出すと、学校は土台を崩されていってしまうのです。
 外部の人が学校を訪れるといつも教員は子供とくだらない話をして「怠けて」いる、そんな批判を聞くことがありますが、そうした表面的な見方は、教員の仕事の本質を理解していない愚論なのです。
 「おしゃべり」のある学校、そんなことを経営理念に掲げる校長はいないものでしょうか。

 

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