ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

何でも~はさすがに

2022-08-17 08:29:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「前提がある」8月12日
 新宮達記者が、『16歳からの起業塾』という表題でコラムを書かれていました。『中小企業の経営者らでつくる公益社団法人関西ニュービジネス協議会のメンバー』が開いている『「16歳からの起業塾」と銘打った出前授業』の様子について書かれたものです。
  その中に次のような記述がありました。『発言を求め、どんな回答でも褒めて周囲に拍手を促していいる。「発言を否定されないと分かると、子どもたちの顔は次第に上がり、目も輝いてくる」』という記述です。
 普段の授業では、発言を否定されてしまうことが多いこと、そのことが子供たちの前向きな意欲を削いでいることへのアンチテーゼという意味で、同意できる内容です。しかし、同時に気になることもありました。
 私はこのブログで、かつて教委勤務時に担当した指導力不足教員の授業の様子について、再三取り上げてきました。その中でも一番多く取り上げたのが、I教員でした。彼は、「授業中に子供の発言や作品について評価をしていない」という指摘を受け、次の観察授業では、「はい、よく言えました。頑張りました。はい拍手」という彼なりの「評価」を延々と繰り返しました。金太郎飴という言葉がありますが、彼の「評価」はまさにそれで、10人も15人も同じ「はい、よく言えました。頑張りました。はい拍手」を繰り返すだけで、どこが素晴らしいのかなど内容については全く触れませんでした。子供たちは、白けて教室の中におかしな静寂が訪れましたが、I教員は気付かず、授業後の反省会では、「今日は全ての発言に対して評価することができた」と得意満面で話しました。
 私は、新宮氏のコラムを読んで、I教員の授業を思い出してしまったのです。褒めること、認めることは相手の意欲を刺激します。しかし、「どんな回答でも」褒めるという行為は、本当の意味での評価にはなっていません。子供を馬鹿にしてはなりません。子供なりに「今、Aさんが言ったことはおかしいのでは?」「Bさんの考えには賛成できないな」「Cさんの意見はDさんが言ったことを繰り返しているだけだ」などと、評価を下しています。
 それなのに、どんな意見でも「~拍手」では、教員の「評価」に不信感を抱くようになってしまいます。私は授業力の大半を占めるのは評価力であると考えています。評価力とは褒めることではなく、子供の発言への敬意を示しつつ、「Aさんの意見は前提となる事実認識に間違いがある。でも、とてもよく考えられていて筋が通っている。その論理展開はいいね」などと、何がよいのか、何については改善の余地があるのか、などきちんと指摘することこそ大切なのです。
 こういう姿勢の教員には「認められたい」と思いますし、「認められた」という喜びも感じることができます。一方、なんでも「~拍手」という教員には、「褒められたい」とは思いませんし、「褒められた」という満足感も抱きません。
 新宮氏のコラムは、子供の発言の敬意を払うという基本姿勢と受け取れば賛成ですが、問題点の指摘は×、何でも褒めるのが○という意味だとすれば、到底受け入れられません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする