ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

二転三転

2022-08-09 08:41:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「二転三転」8月1日
 読者投稿欄に、東京都の中学生S氏の『相手を気遣える人になりたい』というタイトルの投書が掲載されました。学校帰りのバスで隣の席にヘルプマークを付けた男性が座るという書き出しです。
 ここまで読んで私は、S氏が男性のヘルプマークに気付かず、後から気遣えなかった自分に反省する話だと思いました。ヘルプマークに対する認知度は高くありませんから。しかし、そうではなかったのです。
 男性はS氏に、『どこで降りますか』と聞いてきたというのです。何故そんなことを聞く?と訝るS氏。『私の降りるバス停についた。その時だ。隣に座っていた男性は、早めに席から立ち上がって体をよけてくれた。そしてお辞儀までしてくれた。やっとわかった。男性は体が不自由なため、私が下りることがわかってから自分が立ったのでは時間がかかってしまう。だからあらかじめ私が降りるバス停を聞いたのだ。私がスムーズに降りられるように』という展開が待っていたのです。
 私は「感動」してしまいました。私は、気遣うというとき、どうしても弱い立場の人に対して気を配るというようなイメージをもってしまいがちです。投書の場面では、健康な中学生S氏は強者、ヘルプマークを付けた体が不自由な男性は弱者という位置付けになります。そうした関係性の中で、弱者である男性が自分の出来る範囲で他者に気遣うという構図を美しいものとして感じたのです。
 私は自分がまだ教員をしていたとしたら、この話を紹介し、普段子供という保護される立場にいるみんなにも、何かをしてもらうというだけではなく、他者のために何かをすることができるのだということについて考えさせる授業をしたいと思ってしまいました。
 そしてもう一度投書を読み返してみました。えっ、と思いました。早めに席から立ち上がるという行為は、×なのではないかと気づいたのです。私が乗るバスでは、「危険なので完全に止まってからお立ちください」という注意が車内で流されています。まだ完全に停止していない状態で立ち上がると、急なブレーキ等で転倒の可能性があるからだと思われます。まして、この男性は体が不自由なのです。つまり、男性の気遣いは、自分を傷つけかねない危険な行為だったのです。これでは、美しい行為どころではありません。
 結局、この投書をどう扱えばよいのか、分からなくなってしまったのです。でも考えようによっては、どう捉えればよいのか迷うようなものこそ、子供に与えて考えさせるのによいのかもしれません。教員が答えを押し付けずに済みますから。あなたが教員だったら、この話をどう教材化しますか。

 

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