ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

似ているから、嫌ということも

2022-08-27 08:14:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「鏡を見るようで」8月21日
 心療内科医海原純子氏が、『真夏の世の夢』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『趣味や考え方が全く異なるように見えても共通点を探そうとしていると何か見つかったりする。見つかるとちょっとした微笑みが生まれ相手との間に親密感が生まれる』と書かれています。
 また、『普段の生活の中では、相手との違いや相手の許せないことに注目しているものだから共通点など見つかるわけはなく~』とし、『「共通点がないか」ということを念頭に置いて会話していないと見つかることがない』と、常に共通点探しを意識して人と接することの人間関係構築における大切さを説いていらっしゃるのです。
 海原氏の指摘が正しいのであれば、共通点探しという手法は、教員が子供や保護者との信頼関係をつくる上でも有効だということになります。同じ趣味をもっている、同じことに関心をもっている、出身校や出身地などに共通点がある、ある事柄に対して同じ意見をもっている、同じような成功・失敗体験をもっている等々、意識して会話をしていけば、親密感が湧いてくる、そして親密感は信頼の土壌になる、ということです。
 一方で、少し違うのではないか、という気もするのです。例えば、「この子を見ていると、私の子供時代と同じで、ぐずぐずしているくせに頑固で自分を曲げない意固地なところがそっくりだと感じ、嫌なものを鏡で見せられているような気がして、憎たらしくなってしまうのです。母親失格でしょうか」というような愚痴というか悩みを打ち明けられることもありました。
 似ている、共通していることでかえって反発を感じてしまうという心理は、小説などでもよく目にするテーマです。私自身を振り返ると、目の前の相手と何か共通点を見出したことで親密感が増したという経験がほとんどないのです。とはいえ、私は自分と共通点がある人が嫌なわけではありません。正確に言うならば、自分と共通点が多い人の集団の中にいることは好きで心地よいのです。
 教委勤務時で言えば、スーツにネクタイという人の集団にいるのはリラックスできるのですが、ポロシャツにチノパン、ブレザーという人たちの中では緊張してしまうという感じでしょうか。○○ちゃんとか、下の名前で呼びかけてくるような人たちの中にいると居心地が悪く、△△さんときちんと姓で話しかけてくるような人の集団の方が安心感がありました。しかしあくまでも集団であって、個人ではありませんでした。
 話を個人対個人に戻しますと、教員と子供、特に小学生の場合、共通点探しは可能なのでしょうか。子供のころ野球が好きだったから今少年野球チームに入っている子供と親密感を深める、というような経験はありませんでした。勉強ができたから勉強ができる子供に、というのではかえって教員としてよくないように思いますし。チビで運動音痴だったからと言って同じ様な悩みを持つ子供と傷をなめ合うのも後ろ向きな気がしてしまいます。海原氏の言う共通点探しは大人と子供との間では通用しないのでしょうか。
 かといって、保護者とヤクルトファンということで盛り上がっても、その子供の指導にプラスになるとも思えませんし。まだまだ探求が必要そうです。

 

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