ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

硬直

2022-08-07 08:51:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「信頼」7月31日
 早稲田大教授中林美恵子氏が、『米最高裁 揺らぐ権威』という表題でコラムを書かれていました。その中で中林氏は、『政治色が強まったことで、米国民が最高裁の判断を信頼しなくなっている可能性がある』と書かれています。
 『6月23日のニューヨーク州銃規制法に対する違憲判決、6月24日の人工妊娠中絶の権利を保障してきた1973年のロー対ウェイド判決の否定、そして6月30日の環境保護局が石炭火力発電所からの温室効果ガス排出規制権限を持つことを否定する判決』など、政治的対立を一刀両断するような判断が示され続けていることを受けての指摘です。
 ここで大切なのは、保守的な判決が続くことでリベラル派が憤慨し、保守派が喝さいを送るということではなく、多くの中間的な立場の人々の間で、最高裁に対する信頼が低下しているということなのです。
 ここでかなり飛躍しますが、米最高裁を学校の教員に置き換えてみます。ある教員がいます。子供は無限の可能性をもっており、子供を信用し、子供に自己決定権を与えて見守れば、子供は伸びるという信念をもっています。移動教室のルールもこの教員の学級だけは変わっていて、就寝時間は子供たちが話し合いで決める、持ち物も子供たちで決めるといった調子です。
 他の学級が寝ているのに、この学級だけは、騒がしくしないというルールを守れば、夜中の12時まで起きていてもよく、スマホを見たり、お菓子を食べたりしていてもよいのです。一部の子供と保護者は、行き過ぎた放任だと批判的ですが、子供の主体性の信奉者である教員は意に介しません。実際、多くの子供が支持し、主体性らしきものも芽生え始め、移動教室でも問題は起きませんでした。
 この学級でいじめが起きてしまいました。教員はここでも、子供たちの主体的な判断を信じ、どうすべきか話し合わせました。結果は、声の大きいい加害者とその見方をする子供たちの声に影響され、いじめというほどのことはなく悪ふざけの一種だから気にしすぎる方が問題だというものでした。この結論に基づき、加害者と被害者は、お互いに悪いところを認めて謝り合うという解決方法がとられました。
 表面的には解決したかのように見えたいじめ問題も、実際には解決せず、被害者は欠席が続き、子供たちの間で、悪ふざけだという判断が間違っていたのではないかと反省する声が出てきました。教員は、また話し合いの場を設けたところ、「お前も、悪ふざけ説に賛成したじゃないか」「裏切るのか」「コロコロ意見を変えるなんて卑怯だぞ」という声と「だって実際にAさんは不登校になっているじゃないか」と言う声がぶつかり、容易にまとまりません。
 教員は、「みんなが自分なりに考えて意見を言うことができて、良い話し合いだったと思う。先生はそのことが嬉しい。今日はここまで。また機会を設けるから、そのときまでにもう一度よく考えておいてほしい」と言って、その日の話し合いをまとめました。
 何人かの子供は、「先生はどう思うの。Aさんこのままでいいの」「先生の考えを聞かせてよ」と言いましたが、教員は「先生が決定して、みんながそれに従うだけ。そういう学級にはしたくない」と言い切りました。
 放課後、悪ふざけ派の子供も、いじめ派の子供も、中間で迷っている子供も、教員の態度に不信感を持ち、「先生なんだから、大人なんだから、もっとはっきり言ってほしいよな」と不満を口にしました。
 これは、ある学校でのことを基にした創作です。私が言いたいのは、教員が、あまりに一つの主張や信念に凝り固まっていると、教員の考え方を基本的には支持している子供や保護者からも、信頼を失う結果に陥るということです。教員が自分なりの信念や価値観、考え方や理想をもつことを否定するわけではありませんが、行き過ぎた○○原理主義は、かえって信頼を失うということです。これは、上記の例と反対の、徹底した管理主義の教員においても同様であり、主張や価値観自体の優劣や正誤とは関係なく起こるのです。

 

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