秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

味味香のカレーウドン

2009年01月22日 07時43分32秒 | Weblog
昨夜は四条烏丸で着付けの仕事を終えた相方と合流して、「鶏ちゃん」で
k君たちと打ち合わせ。

久しぶりに飛騨牛堪能させてもらいました。

その後、河原町六角に知り合いの娘さんが経営しているバーがあるので、
行ってみたけどお休みでした。

仕方ないから、ちょいと饂飩でも、ってことで「味味香」へ。
このお店はカレー饂飩で有名らしいけど、最近河原町界隈を徘徊しないし、
私は始めてでした。

運ばれてきた饂飩は超極細。お店のホームページで見たらそんなに細くなかった
から、最近細めの麺にされたのかも知れません。

ところで、今朝起きたら相方が台所でなにやらごそごそしております。

「ナニしてんの?」って聞いたら、「ニュウ麺作ってんの」

あれ?昨夜帰宅したときは「明日は面倒だしモーニング食べにいこ」って言ってたぞ。

って言ったら「ハハハ、ぜんぜん覚えてないわ」だと・・・。

まぁ、ちょっと飲みすぎた胃にはニュウ麺はありがたいやね。

明日はどっちだ?

2009年01月21日 07時41分15秒 | 着物話
以前の工房のメンバー4人が顔を揃えたのは数年ぶりでした。

自然と車中や飲みながら話題に上るのは、私たち同様、前の工房を去っていった
職人たちの消息。

「あの糸目の色挿しが抜群だった平○さん、どうしてんの?」
「なんか、小物の彩色で食いつないでるそうやで」

「護○さんは?」
「マンションの管理人してるけど、24時間勤務で辛いからいうて、ハローワーク
に通ってるらしいわ。」

「○は?」 「運転手」  「×は?」 「ガードマン」「△は行方不明」

結局着物の仕事についているのはゼロ・・・・。

これだから最近「着物話」のカテゴリー休業してたんですけど・・・。

しかし現実から目を背けてばかりもいられません。

私が昨年から始めた「誂え師」、そして今春から工房の存続をかけた新企画が
スタート。

いろいろ迷走していたアトリエも、どうやらオーナーk君の腹も決まったし。

なんやかんや言っても着物創りが好きなんやね、わしら・・・。

昨夜、京都駅で、「来年も生きてたら、前の工房のメンバーも加えて温泉に
行こうよ」と言って解散。

そうだよね、生きていりゃ「恩の字」だよね・・・・。

どうなることやら・・・。

2009年01月19日 06時08分02秒 | Weblog
昨日少しお話したけど、今日、明日と以前働いていた工房の仲間四人で温泉へ。

場所は和歌山。詳しいことは忘れてしまった。まぁ行きゃわかるでしょ。

ではメンバー紹介。

まず発起人のTさん。もと糸目友禅師。かなりアルチュハイマー。(私が言うんだ
から相当なもんです。)
昔、神戸のサウナ付きホテルに宿泊した折、用紙から文字がはみ出して、カウンター
にまで住所を記入したヒトです。以外にも武勇伝はぎょうさんあるけど、思いだす
と、今からの旅行が不安になってしまうからヤメときます。

今は焼き物の絵付けをしてるらしいけど、絵筆、震えてないか心配です。

口癖は「ボカァもと湘南ボーイだから」なにが湘南やねん、山口県出身でしょが!!

実は氏は昨年かなり長期にわたって入院してました。私たちは口をそろえて
「ありゃもうダメやね。生きてるうちに見舞いに行っといたほうがエエで」

と、言ってたのに。去年の暮れに無事退院。いきなりヨーロッパ旅行に出かけ、
帰るなり今回の旅行を企画。ゾンビかも知れない・・・。

Kさん。素描を担当してました。先日三条商店街でであったのが彼です。
私より年上のクセに髪の毛はふさふさ!(というかゴワゴワ)

酔っ払ったTさんの介抱役兼通訳。なんせ酔っ払うとナニ言ってんだか分からんの
です、Tさん。(日常でもそのケはあるけど)

皆が「おい、Tちゃん、ナニゆうとんねん?」
と、聞くと「多分、こうゆうとんのとちゃうか?」と通訳してくれます。

学生時代、大映の大魔神にエキストラで出演していた、濃い目のお顔。

Hさん。もと辻が花染めの職人さん。今は株で生計を立ててるらしいけど、大丈夫
なのか?今回の四人のなかでは一番酒量の少ないヒトだから、ちょっと気の毒かも?

で、ワタクシ。考えてみたら一番年下なんですよね。

サテ、どんな一泊二日になることやら・・・・。


三条商店街。

2009年01月18日 08時15分39秒 | 京都商店街巡り
地方へでかけても時間があると必ず商店街を歩きたくなります。
もっとも、閉店中の店が多くて気がなえることが多い昨今ですが。

では、京都の商店街はどうか?といえばやはり活気一杯、とまではいえませんが、
まだマシなほうかも知れませんね。

つらつら考えるに、私の商店街好きは、幼児から少年期にかけて、七条商店街の
近所で育ったことに一因があると思えます。

幼稚園の同窓生には魚屋の娘やバナナ屋の娘、食堂の息子などがいました。

まだ繁華街などに縁のない頃、人が賑やかに行き交う通りは別世界に思えました。

そんな思いもあって、商店街の前を通るとついそぞろ歩きたくなってしまう・・。

今までにも迷所案内で、幾つかの商店街を紹介しましたが、新たにカテゴリー
を設けて京都の商店街にエールを送ってみようかな、などど考えてみました。
(なんの役にもたたないのは分かってますケド。)

まず最初は三条商店街。別に特別の思いがあって、というわけではなく、
こんなときでもないと、まず歩くことがない商店街です。

堀川通りから千本までの7~800メートルの間に200店舗前後の店が連なる
京都でもかなり大規模な商店街です。

しかし、ガレージがほとんど無いもんで、よそからわざわざ買い物に来る酔狂な
人はまれでしょう。

歩いてみて、通行人より自転車で通過する人が多いのに少し戸惑ってしまいました。

車が通れない(時間によっては可)もんだから、通り道として利用されているの
でしょうが、はっきり言って危険ですね。

魚屋や八百屋に並ぶ商品は、スーパーに比べると若干高めなのは、仕入れ価格
が違うから仕方ありません。でもちゃんと商売がなりたっているのは固定客が
ついているからでしょうね。

でも商店街中ほどでシャッターを半分だけ開けて蝋燭と線香を売っている店が
あったけど、商売になっているんだろうか?(余計な心配ですな)

新旧の入れ替わりもあるようで、しゃれた美容室や、ベーカリーも目立ちました。

人口密度の高い地区なので、スーパーとの住み分け(中に二軒大手スーパー有)
も可能だと思えますが、やはり新手のスーパーに人は流れている様子でした。

惣菜と(なぜか天麩羅屋さんを見かけると芋の天麩羅を買ってしまう習性アリ)
ベーカリーでトースト用の食パンを購入。

千本通りでUターンして堀川まで戻ってきました。途中で以前一緒に働いていた
職人さんとばったり遭遇。

「こんなトコでナニしてんのん?」とびっくりしてはりましたけど、そりゃそうだ。

彼とは来週の月曜に四人で温泉旅行に行く(他の三人も以前いた工房の仲間)だっ
もんで余計驚きましたね。どんな旅行になるか想像はつくけど・・・・。

それはさておき。

以前迷所案内で紹介した商店街をコッチのカテゴリーに移そうとしたけど、途中
で面倒になってやめちまった。まぁいいやね。

商店街好き、と書いたけど、本当はその中にあるマーケットに魅せられるんですが、
現在ではマーケットはその姿を見かけることはごく稀です。

なんとなく薄暗くて、地元民以外を拒絶しているあの空間。

マーケットと商店街は同義なのかも知れませんが、ワタクシのイメージでは数軒
の小さな店が寄り合った特別な世界。

そういえば、大好きだった七条マーケット、今でもあるんだろうか?今度探索
してみよう。


京都非観光迷所案内57.

2009年01月17日 07時27分01秒 | 京都非観光迷所案内
この迷所案内、始めた動機はガイドブックに紹介される場所だけが
京都じゃないよ、という、いささか自己満足を満たす部分がありました。

最近では、見逃しそうな小さな社や、なにげなく暮らしていた場所にも色々な
由縁、ゆかりがあったんだ、と再認識できるカテゴリーになってきました。
(それも自己満足か・・・。)

それは京都に限らず、どんな街でもいえることなんですけど、京都の利点は
残された資料が豊富だという点です。

これは古文書など読む能力のない素人には大変ありがたいことです。

前置きが長くなったけど、今回の「円光寺」や、「梅林寺」も卒業した小学校
のすぐ近所です。

この二つの寺は陰陽師で有名な土御門家所縁の寺でした。

陰陽師といえば、※安部清明。昔はだれも見向きもしなかった清明神社も
いつのまにかりっぱな駐車場ができたりして脚光をあびてますね。
(若干ブームも一段落したようですが。)

清明の住まいは現在の神社より東南にあったそうですが、※その子孫の屋敷が
あったのが、この梅小路界隈だったそうです。

陰陽道は加茂保憲が実子の光栄に暦道、弟子の清明に天文道を譲りました。
それ以来安部家(土御門)は堂上となり、陰陽頭として加茂家の上位にたつ
ようになったそうです。

その土御門家が使用した※渾天儀の台石が両寺の境内に残されています。

その天文をつかさどる土御門家が、加茂家の暦道の実権まで取り上げようと
して貞享の頃、渋川春海の「やまと暦」採用に協力した、という話もあります。

すでに陰陽頭(加茂家は幸徳井家と称し陰陽助)として昇殿を許されていた
土御門家がそこまで画策した、と、いうより純粋に中国暦では正確な天文道が
つかさどれないため、ではなかったか。などど好意的に解釈してしまうのは
お人よしすぎるか・・・。

この寺のすぐそばで、小学校時代の同級生が惣菜屋を営んでいます。
店の名は向かいにあった駄菓子屋の店名を拝借。

そうだよなぁ、あの頃は渾天儀なんかより、一文菓子屋(その当事はそういって
いました)だったよな・・・・。

※安部清明 清明が生きた平安時代は音読みは僧侶に限られていたので、
清明は本来は「はるのあきら」と呼ばれていたと考えられる。

※渾天儀 複数の輪を回転させ、天体の運行や星座の移動を測る機械。(他の資料
には天球儀と書かれています。)

※阿部家は清明の子吉平のあと時親、円弼、秦親の三流に分かれた。
 

山田製油の「ごま油」

2009年01月16日 06時04分34秒 | グルメなのか?
去年の暮れから切れていた「ごま油」。

どうせ買うならこの店で、と決めていた相方。地図をみたら「遊時(蕎麦屋)」の
すぐ近所。そんなら蕎麦喰いのついでに、と桂まで行ってきました。

隣で営業されているイタリアンの店でも良かったけど、この日は定休日でした。
(やはり定休日男・・・・。)

この店のごま油はかなりこだわって作ってはります。

ごま油の他に、ドレッシングやラー油、クッキーなども販売されています。

使用されるのは一番絞りのみで、一月かけて出来上がったごま油、さっそく夕食
の「ほうれん草のおひたし」にかけていただきました。

西京区桂巽町四番地 9時~5時30分 定休日 日・祝




愛宕山も雪化粧。

2009年01月15日 07時40分30秒 | Weblog
寒おます。

写真は桂(八条)大橋から見た愛宕山。

京都人には千日参りなど、火伏せの祭神として馴染みのお山です。
台所によく御札が貼ってあります。

その愛宕神社の祭神(火の神)のホノカグノチ出生の際、母神はみほとに火傷を
負い亡くなったといわれます。だから母神に仇をした子でアダコ→アタゴ。

また、アダ、アタはともに儚い、寂しいの意味で、コ、ゴは此処其処のコとか、
オタギ、アタギの「オ、ア」は「アフ(逢う)」、タギは狭くて屈折した様で、
険阻な山の出会うところ、という意味もあるとか。

ま、そんな難しいことより、伊勢には七度、熊野へ三度、※愛宕山には月参りと
親しまれたお山です。

この山に住まう天狗は太郎坊で、比良が次郎坊、高野山が三郎坊、那智山が四郎坊。

中国の是害坊という天狗が日本の仏法を妨げようと太郎坊のところへやって来て、
比叡山を襲うが、不動明王に撃退される、というのは能の善界(ぜかい)の話。

また「愛宕の方より黒雲にわかに出で来て洛中にかかると見えれば」というように、
愛宕の方、という叙述は昔の常套的表現だったようです。

恐れ、崇め、そして親しまれたお山。

私の卒業した小学校では、高学年になると、この山の麓から山頂付近まで駆け上り
、そして駆け下りてくるマラソンが定例行事でした。

今思うとかなりハードなマラソンで、今でもやってるのだろうか?
多分モンスターペアレンツなど出現する昨今、幻の行事になったかも知れません。

ワタクシも参加したって?当然。(走るのは嫌だから、歩いてましたけど・・。)

※本来はお多賀様、という説もあります。

鴨の流れ。

2009年01月14日 07時55分49秒 | 京都非観光迷所案内
小雪の舞う五条大橋の上から下流をぼんやり眺めながら、シバシ感傷にふけって
いました。

この寒空で中年オヤジが橋上でボンヤリしてると、職を失った男が世をハカナンで
飛び降りるのでは?と、思われそうだけどご心配無く。

水深は膝下ほどしかありまへん。飛び降りても骨折が関の山。

かつて歴代の天皇のなかで最強の専制君主といわれた白川法王に、
「叡山の僧兵、双六のサイの目、それと鴨川の流れだけはどないもナラン」
と言わしめた流れも今はチャラ瀬が延々と続く平坦な川となりました。

かつて、このずっと下流に石川五右衛門を茹でた釜が沈んでいたそうです。
そこから「釜が淵」という名がついたそうです。

また、昨日お話した源融邸にあった大梵鐘も沈んでいたそうで、その鐘は栄西禅師
が信者たちと引き上げ、建仁寺に安置したとか。

そんな色々な物が沈んでいたくらいだから、相当な深さが想像できます。

加茂川と呼ばれる上流域は神の住まう神聖な川、鴨川と呼ばれるようになると、
そこは死体が放置されたり、芝居興行や、処刑の場所などに変っていく・・。

川は変化の「かわる」が語源ともいわれます。

そんなことなど考えながら、流れる水を眺めていたらすっかり体が冷えてしまった・・。