秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

京都非観光案内62.西陣界隈1。

2009年01月25日 10時36分28秒 | 京都非観光迷所案内
西陣に父親の妹(叔母ですな)が暮らしています。

子供時分、時々泊りがけで遊びにいかせてもらいました。

市電の22番(だったと思う)にごとごと揺られて行くのが楽しみでしたな。

その西陣宅でTVを見てたら、日清食品から「日清ランチ」という、インスタント
ピラフのようなモノが新発売、ってCMが流れてました。

叔母に「食べてみたい」、「じゃあ買っておいで」、とお金を貰い近所の食品店へ。

ところが、まだ店には入っていなくて、その店のオバちゃん曰く
「日清ランチ?知らんなぁ。西陣団地やったらそこにあるけど・・。」

今なら「上手い!座布団一枚!」なんて言ったかも。

そんな(どんなやねん)西陣界隈をちょっと歩いてみました。
と、いっても西陣は広いもんで、ごく一部ですが・・・。

まず、今出川智恵光院を北へ。一筋目を左に曲がると見えてくるのが「首途神社」
(かどでじんじゃ)。もとの名は内野八幡宮ですが、源義経が奥州へ向かうさい、
この社に参って武運長久と旅の無事を祈ったことから、首途神社と呼ばれるように
なったとか。

同行したのは金売吉次、物語では陸地伝いに奥州へ向かった、となっていますが、
当時はすでに海路も開発されており、実際は船で行ったのではないか、とも言われています。

その頃奥州に膨大な領地を持っていた藤原秀衝は情報収集や、物産の保管場所
としての出先機関をこの地に置いていたのではないか、といわれています。

吉次は今でいう、支社長みたいなもんでしょうか。

ところで、この社ができる以前は、この地は桃園と呼ばれていたそうです。
由来は貞純親王の邸がこの辺りにあったからだそうです。
(貞純親王は清和天皇の第六皇子で、桃園親王と称されていた)

ん?桃園。記憶のどこかにひっかかるモノがあるぞ・・・。

そうだ、日本最古の古墳発掘記で登場する地だった。調べてみたらやはりそうでした。

「宇治拾遺物物語」の巻六「世尊寺に死人を掘出事」。

971年藤原伊尹が太政大臣になったおり、庭にあった墓を取り除き仏堂を建てよう
としたところ、中から石棺があらわれたそうです。

石棺の中には美しい着物を幾重にも纏った美しい尼が生きているように納められ
ていたとか。ところが、突然西風が吹き、棺の中のものは金の器以外は全部塵とな
って消えうせ、翌年伊尹はこの世を去った・・・・。

伊尹(これただ)さんは政敵だった藤原朝成の生霊に取り殺された、という話も
残されているので、よほど不審な死をとげたと思われます。

京都の街はミルフィーユのように、幾層にも歴史がかさなっとりまんなぁ。

あ~、また今回も話が迷走してしまった。

「迷走こそ我が人生ナリ・・・・・。」