秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

京都非観光迷所案内57.

2009年01月17日 07時27分01秒 | 京都非観光迷所案内
この迷所案内、始めた動機はガイドブックに紹介される場所だけが
京都じゃないよ、という、いささか自己満足を満たす部分がありました。

最近では、見逃しそうな小さな社や、なにげなく暮らしていた場所にも色々な
由縁、ゆかりがあったんだ、と再認識できるカテゴリーになってきました。
(それも自己満足か・・・。)

それは京都に限らず、どんな街でもいえることなんですけど、京都の利点は
残された資料が豊富だという点です。

これは古文書など読む能力のない素人には大変ありがたいことです。

前置きが長くなったけど、今回の「円光寺」や、「梅林寺」も卒業した小学校
のすぐ近所です。

この二つの寺は陰陽師で有名な土御門家所縁の寺でした。

陰陽師といえば、※安部清明。昔はだれも見向きもしなかった清明神社も
いつのまにかりっぱな駐車場ができたりして脚光をあびてますね。
(若干ブームも一段落したようですが。)

清明の住まいは現在の神社より東南にあったそうですが、※その子孫の屋敷が
あったのが、この梅小路界隈だったそうです。

陰陽道は加茂保憲が実子の光栄に暦道、弟子の清明に天文道を譲りました。
それ以来安部家(土御門)は堂上となり、陰陽頭として加茂家の上位にたつ
ようになったそうです。

その土御門家が使用した※渾天儀の台石が両寺の境内に残されています。

その天文をつかさどる土御門家が、加茂家の暦道の実権まで取り上げようと
して貞享の頃、渋川春海の「やまと暦」採用に協力した、という話もあります。

すでに陰陽頭(加茂家は幸徳井家と称し陰陽助)として昇殿を許されていた
土御門家がそこまで画策した、と、いうより純粋に中国暦では正確な天文道が
つかさどれないため、ではなかったか。などど好意的に解釈してしまうのは
お人よしすぎるか・・・。

この寺のすぐそばで、小学校時代の同級生が惣菜屋を営んでいます。
店の名は向かいにあった駄菓子屋の店名を拝借。

そうだよなぁ、あの頃は渾天儀なんかより、一文菓子屋(その当事はそういって
いました)だったよな・・・・。

※安部清明 清明が生きた平安時代は音読みは僧侶に限られていたので、
清明は本来は「はるのあきら」と呼ばれていたと考えられる。

※渾天儀 複数の輪を回転させ、天体の運行や星座の移動を測る機械。(他の資料
には天球儀と書かれています。)

※阿部家は清明の子吉平のあと時親、円弼、秦親の三流に分かれた。