アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

春の岩湧の森  山焼と春の花  2019年4月9日   その1

2019-04-29 18:26:39 | 岩湧の森の四季の風景
春の岩湧の森  山焼と春の花   その1

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4月7日に岩湧山頂の山焼がありました。

山頂のススキの葉場山(村落民が共同で草などを刈り取る山場)の保護育成のためです。

二日後の4月9日に岩湧を歩きました。
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登山口の岩湧寺の前の桜は満開です。

桜の下の赤い高級車は 私の愛車のフェラーリです。
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岩湧東峰から一旦下り トイレ前から山頂へ向います。
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山頂付近は 未だ少し焦げ臭い匂いが残っています。
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三角点ポイントをすぎて山頂広場です。 もう真っ黒な灰が舞い上がる事はありません。

山焼は午前中に行われて 午後から立ち入り出来ますが 直後に山頂を歩くと こげ臭いし
足元から灰が舞い上がり 大変です。
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中央のやや上に滝畑ダムが少しだけ見えています。
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今日は珍しく空気が澄んでいて 明石海峡大橋の種痘が2本とも くっきりと肉眼では見えていますが

スマホのカメラには映りません。
ここ数週間は黄砂と花粉とPM2.5のために周りの遠景はほとんど見えませんでした。
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河内平野の真ん中の白いPL平和の塔の左奥に 京都清滝愛宕山、地蔵山の猫の耳ツインピークスが
きれいに見えていますが、ざんねんながらスマホには映りませんでした。
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世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のうち大峰奥駈道も吉野の大天井岳から前鬼釈迦ヶ岳まで
見渡せます。これはスマホでもくっきりと写りました。特に奥駈のサミットの弥山八剣山は2000m
近い山で このまえまで 斜面に雪が残っていましたが 今日はすっかり消えています。
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山頂を越えてそのままダイトレ(ダイヤモンドトレイル)を南へ進みます。
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少し下ると私の好きなお弁当ポイントが見えてきます。
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お弁当ポイントから急降下すると 広場が見えます。平野です。
あそこから上の部分が 山焼されるのです。
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平野に着いて山頂を見返したところです。
トレーニングの為 約15キロのリュックを背負い 山頂へ登り返します。
標高差はここから山頂まで 約100mあります。
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春の岩湧その2へ続く
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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」 穂高神社 2013年9月23日 (再編集しました。)

2019-04-26 10:04:31 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
穂高神社 
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以前山旅の途中で訪れた 穂高神社の再編集です。長野県安曇野市 穂高町  2013年9月23日
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神社入口です。
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手水から湯気が上がっていました。お湯なのでしょう。

諏訪大社のたくさんある社のどこかにも温泉のお湯の手水がありました。
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社務所、拝殿など一連の建物は 新しい建物でした。最近 建替えられたのでしょう。
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広い境内には沢山の人が いらっしゃいます。地域の人の信仰を集めているようです。

中央は舞殿でしょうか。
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神社の説明看板です。
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神社の由緒書きです。
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これによりますと この神社は海の神様を祀っているそうです。

海神(わたつみ)は御伽噺の「海彦、山彦」に出てくる山幸彦が尋ねた竜宮に住んでいるという

豊玉姫の父神ですね。

穂高見の神は綿津見の神の子供と書いてあるので つまり山幸彦の系統を祭っているという事です。
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ここで海幸彦(兄)と山幸彦(弟)について

兄の海幸彦は 徐福の長男 五十猛が起こした海部(あまべ)家をいい、弟の山幸彦は 徐福の次男

穂穂出見が起こした九州物部家を言います。

紀元前3世紀末に 石見の五十猛海岸に 沢山の海童(青年男女)たちを引き連れて上陸したのは

秦国人徐福でした。事前に忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司の祖先)を出雲王家に使わして

上陸許可を取るという 周到な準備のもとに実行されました。徐福は自分が和国の王になるつもりでした。

徐福は和名をホアカリと名乗り 出雲王家第七代主王天の冬衣の姫、高照姫を娶り長男「五十猛」をもうけます。

その後部下の矛卑(ほひ)や海童達に命じて 出雲王家の主王八千矛や副王八重波津身を相次いで

幽閉殺害しますが、結局王にはなれず 一旦秦国に帰国して始皇帝に更なる資金と海童達を貰い

二度目の上陸を佐賀の浮杯に果たします。そして和名を饒速日(にぎはやひ、ににぎね ともいいう)と名乗り 

出雲王家の分家九州宗像家の市杵島姫 を娶り次男穂穂出見と長女穂屋姫をもうけます。

穂穂出見が九州物部家の始祖です。

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一方長男五十猛は 成長して丹波に移住して「海の香語山(あまのかごやま)」と名乗り海部家を名乗ります。

その後大和葛城地方に移住します。徐福に殺された八千矛や八重波津身の皇子たちは既に大勢の出雲族

とともに葛城地方へ移住開拓して 大きな地盤を築いていましたが 遅れてきた香語山は大勢の海童達を

引き連れていたので 出雲王家の皇子の 味鋤高彦や奇日方は 香語山を大和の王と認め味鋤高彦の姫大屋姫を

嫁がせます。生まれた皇子が高倉下です。

一方香語山は 異母兄妹の穂屋姫を九州物部家から呼び寄せて妃として海の村雲(発音が同じなので後に天の村雲とかかれます)

をもうけて 天の村雲が 出雲族(磯城家、高鴨家)の支持を受けて 初代大和大王となります。

これが山幸彦のモデルです。
 
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一方九州物部家は 180年頃に東征し熊野に上陸するも 大和側の抵抗で北上できず熊野川河口の中州で

立ち往生していました。(その跡地に熊野本宮大社が建てられましたが 明治の大洪水で流されて

現在は山の中腹に移転されました)

そこで 当時大王家の力が衰えて豪族達の争いで混乱している大和に密使を送り 富家の加茂建津之身の誘導で

ようやく富家の地盤の磐余の地に入ります。物部稲飯、三毛入兄弟は 「磐余彦」と呼ばれます。

記紀の編集者はこの名を利用して 初代大王の名を神大和磐余彦と作り変えてしかも時代を

古代出雲王朝の始まりの 紀元前6世紀頃まで引き上げたので 嘘が嘘を呼び つじつまがあわなくなり

190歳くらいの大王が何人も作られました。

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その後物部王家は 三代続けて登美家(磯城家)から妃を向かえ 直ぐに磯城王家に飲み込まれてしまいます。

そこで約80年後の232年に 九州物部王家のイ二エ王は再び東征を開始して南下します。

南下して薩摩の阿多津姫との間にイクメ皇子をもうけます。さらに当時の豊王国の豊玉姫を

妃として迎え 物部豊連合王国を造り 東征の準備を始め 豊玉姫との間に豊彦、豊姫をもうけます。

御伽噺のなかで 竜宮城の姫が 豊玉姫とかかれ、その父が海神(わたつみ)とかかれました。

釣り針を兄の海幸彦に返しに行く山幸彦を送って海辺まで来たとき 山幸彦の子を

急に産気ずき 山幸彦が産小屋の屋根をウガヤで葺き終わらないうちに豊玉姫はワニ(出雲では鮫をワニ

と呼びます)の姿になり豊彦を産みます。それで豊彦は「渚建ウガヤ葺きアエズ」と名付けられました。

ちなみに物部彦渚建とは 第一次東征の張本人の王の名前で 第一次東征時紀ノ川の河口で戦死した

物部五瀬や熊野から大和入りした稲飯、三毛入たちの父王です。

豊玉姫が ワニの姿に変身したという事は 宇佐豊玉姫が出雲族の血を引いているという事を示唆しています。

宗像家に始まる宇佐王家は 出雲王家の分家ですから。イズモ族はワニを崇拝していました。

ちなみに 第二次東征で大和入りして 大和大王となったイクメ大王は 後の贈り名を垂仁となづけられました。

そして一度も九州を出ずに亡くなったイ二エ王は 記紀の作り話では 崇神大王と 大和の大王にでっち上げられました。

嘘が嘘を呼び 宮内庁は磯城家の古墳を崇神大王稜として管理しています。馬鹿ですね。

豊彦、豊姫(魏書で台与トヨと書かれました)は大和では 豊来入彦、豊来入姫と呼ばれますが

豊来(とよき)では 征服王朝と言うのがばれてしまうので 記紀では 豊鍬(とよすき)入彦、豊鍬入姫と書き換えられました。

一度嘘をつくと永遠に嘘をつき続けなければバレますからね。
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一方 天の(海の)香語山に始まる海部家の分家として 尾張家が別れます。

これは 高尾張邑を地盤としたからそう呼ばれます。現在のダイヤモンドトレイルの岩橋山の東側で

天の香語山の皇子高倉下が母親で出雲の姫多や姫と共に住み 「大屋」の地名が付いたあたりと思います。

この地域は 竹の内峠の東側でイズモ式の銅鐸の発見された名柄を中心とした地域より少し北の地域と思われます。

また海部家の分家として 阿曇(安曇)連家ができます。

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ということで 前置きが長くなりましたが この神社で祀られているのは「海の神様」ではなくて 海部家なのです。

海の幸と山の幸の両方の神得があるというのは 海幸彦と山幸彦の両方の父親が

饒速日(徐福)だからでしょう。物部系の神社では 饒速日(にぎはやひ)やニニギ、そしてホアカリはすべて徐福の和名です。

主祭神 はニニギノ尊と書いてありますね。

海部家は海の民(うみんちゅ)ではなくて 徐福と出雲王家から生まれた大王家なのです。

穂高見の命は神武の叔父とかいてあり、小説の記紀の中の神武は架空の人物なので それまでの地元の神を記紀が出来た後から

記紀にあわせて リメイクして作られた神なのでしょう。ワタツミノ神も御伽噺の中の神で

アマテラスも古代出雲王国国教の幸の神三神の佐毘売の命をモデルに記紀で作られたので

徐福(ニギハヤヒ、ニニギ)以外は すべて記紀にあわせていますね。

当たり前ですね。時の最高権力者右大臣の不比等には誰も逆らえませんでしたから。
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境内に神馬社がありました。
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神馬のモデルは木曾馬だそうです。
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拝殿の奥に 本殿が見えていますが、本殿の建物は見れませんでした。
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安曇連比羅夫の像です。
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阿曇連比羅夫の説明です。

山背国(やましろのくに)は かつて日本の地方行政区分だった令制国の1つである山城国の別名です。

残念ながらこの注釈は 間違いです。大阪府南河内郡河南町にも そのお隣の太子町にも

ヤマシロ と言う地名はありません。現在の京都府南部で木津川の北の地域です。
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これも少し補足説明が必要です。

660年7月 新羅が唐の援軍を得て百済を攻めます。
    10月 百済が占領されて沢山の百済人が和国に逃れてきて 助けを求めます。

661年5月 斎明女帝が新羅討伐に出発します。
    7月 斎明女帝は筑前朝倉宮で死亡
    8月 海部家の分家 阿曇連比羅夫が将軍となり百済援護に出発
       その後多臣薦敷(太安万侶の祖父)の妹を百済王子豊暲の妻として与え
       百済へ送り届けた。

662年8月 上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)を将軍として新羅討伐に向うも
       白村江の海戦で大敗し百済の民を乗せて敗走帰国

665年   間人皇太后難波宮で死亡
667年   大津京遷都
668年   天智大王即位
671年   天智大王死亡
672年6月 壬申の乱  
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壬申の乱の吉野側の大海人の皇子は海部家ではなくて 摂津の国住吉神社の社家の津守連大海の妻が
宝姫(皇極女帝)の産んだ皇子の姥になったので 大海人彦と呼ばれたのです。

吉野側についた豪族達は 多の臣品治(安万呂の父)、山辺の君安麻呂(太安万侶)、大伴吹負
忌部子人、そして阿曇の連稲敷たちでした。

阿曇連一族は古代史で大変活躍したひとたちです。

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境内には舟の骨組みがありました。
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秋祭りで毎年この舟が使われるそうです。
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例祭のポスターが張ってありました。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」はこちらから入れます。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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参考文献 斎木雲州著 大元出版  飛鳥文化と宗教争乱、古事記の編集室、御伽噺とそのモデル、
                 出雲と蘇我王国

     勝 友彦  大元出版  親魏和王の都
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古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 大阪府太子町その3-2 上之宮法王(聖徳太子)陵の叡福寺 2019年3月12日

2019-04-24 12:05:41 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

その3-2 上之宮法王(聖徳太子)陵の叡福寺 2019年3月12日
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叡福寺門前の駐車場です。
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大きな朱塗りの山門を潜ります。
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広い境内です。
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建物がたくさんありますが、これが本堂なのでしょうか。
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寺の縁起です。これを読むと この墓所には 上之宮法王の生母 穴穂部間人皇后、上之宮法王、
そして法王の后の膳部大郎女の御三方のお骨が埋葬されているそうです。
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広い境内を歩いて 太子陵へ進みます。
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太子陵の入口にも 山門があり
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左右それぞれに
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仁王様がいらっしゃいます。
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門を潜ると墓所です。
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ここは境内ではなくて 宮内庁の管理のお墓だそうです。
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大王は陵と書かれていますが 太子は陵と書かれていなくて 「墓所」と読めます。
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これが納骨堂なのでしょうか。
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望遠で覗くと三人の仏様が掘り込んであります。御三方の墓所だからなのでしょうか。
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太子陵から境内を見下ろしたところです。
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金剛葛城の峰々も すぐそこに見えます。
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毎月11日が 太子の命日で縁日の法要があるそうです。
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造られた聖徳太子像
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様々な陰湿な謀略で 下級役人から上へ成り上がった藤原鎌足の息子が不比等です。

藤原氏への反感から壬申の乱では破れて 天武期には不比等は 渡来系の田辺家に隠れていました。
そのときに「孫子」を読み権謀術算を学びます。

持統期に次第に頭角を現し 刑部省の判事になり 政敵を次々と陥れて抹殺します。
そして奈良時代には 右大臣となり 記紀の編纂を始めます。そして千年以上天皇家と天皇制を利用して
私腹を肥やす 藤原家の基礎を造ります。

不比等は太安万侶と柿本人麻呂をむ監禁し秘密裏に記紀を書かせます。(斎木雲州著 万葉歌の天才、古事記の編集室 参照)

その中で出雲王朝始祖の菅之八井耳(八井耳神)をまねて 上之宮太子を 豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)と名付けて
一度に沢山の人の話を聞き分けたとか 唐時既に伝えられていたキリストのまねをして 馬屋の戸口で生まれたとして
厩戸皇子(うまやどのみこ)と名付けました。また尾治大王の官吏10条の教訓を 17条憲法として太子の業績とみせかけた。

また不比等は 大友の皇子の曾孫 近江淡海を大学頭兼文章博士に採用し 歴代の大王の名を漢字二文字で表記させた。
ですから このときに、それ以前の大王の名は すべて漢字二文字に書き換えられたのです。

不比等は 大王家つまり天皇家を神格化して皇国史観を創り上げて 自分が徹底的にそれを利用して
私腹を肥やすことの仕組みを創り上げて 以後千年以上に渡り 皇室を利用し続けて 藤原家は二条家、一条家、近衛家、
鷹司家 などに別れたものの 一貫して皇室を食い物にして連綿と続くのです。

つまり日本の歴史をゆがめて 己の都合の良いように 書換えたのが 不比等です。

今も沢山の人が記紀の呪縛に取り付かれています。私の山仲間のFさんの奥様もその一人で 我が家の裏山の岩湧山で
会うたびに 私のこのブログに敵意を抱き いつも攻撃的なコメントを寄せられます。

記紀の呪縛に完全に飲み込まれていらっしゃいますので 他人の意見を聞く耳を完全に塞いでいらっしゃいます。
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上之宮太子を祀る 斑鳩寺が放火されて消失し 多くの僧侶達が各地に散りました。今まで斑鳩寺が日本仏教の
始まりだと 自負していた僧侶達は 上之宮太子を偶像化して名前を広めたいと考えます。

そして太子ゆかりの四天王寺などでも 太子の像を作り拝み始めます。そして太子の聡明さ、天才振りを示す説話
が次々に作られて広められます。

太子の死後129年経ち 751年に懐風藻のなかで ついに「聖徳太子」と言う言葉が出て 仏教開祖の菩薩とされました。

この聖徳太子は 上之宮太子、山背大兄、太子の父の用明大王の三社を合体した菩薩といえます。

廃仏派の物部守屋に焼き殺されて殉教した用明大王は仏教を公認した最初の大王であり、山背大兄は斑鳩寺や
中宮寺を建て仏教に尽くしました。つまりこの三者の実績をまとめて聖徳太子としたのです。
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太安万侶について
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多家は日本有数の由緒ある家系です。

初代ヤマト大王「天の村雲」は磯城家のタタラ五十鈴姫(事代主と玉依り姫の姫)と結婚し、その皇子
「沼川耳(ぬなかわみみ)」が二代目大王となります。沼川耳はタタラ五十鈴姫の妹「五十鈴依り姫」と結婚し
玉手看(たまてみ)と八井耳の皇子が生まれます。

王位を継いだのは 弟の玉手看(たまてみ)で 八井耳は「多臣家」の始祖となり、その家系が連綿と続き
今も奈良県田原本の多神社の社家をされています。もともと臣は出雲王族を現す家系です。
そして記紀製作者の太安万侶は 多家の子孫で 多神社に祀られています。

多神社訪問記は 当ブログの2015年12月26日の記事に載せています。

太安万侶は 記紀を書き上げたあと、記紀の秘密を守るため 人麻呂と共に不比等により幽閉されます。
太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 出雲王家東王家の向家の領地に幽閉されます。

太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 多臣家の末裔で
山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と伝えたと言われます。

そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲王家を代表して
お礼を述べたと伝わっているそうです。

太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社
(あだかやじんじゃ)が建てられています。

阿太加夜神社訪問記は 2014年4月10日の記事に載せています。
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この項は 斎木雲州著 飛鳥文化と宗教騒乱  大元出版  に基づいて書きました。

またその他の歴史は 御伽噺とモデル、万葉歌の天才、幸の神と竜、出雲と蘇我王国、古事記の編集室、

親魏和王の都、出雲と大和のあけぼの 以上いずれも大元出版に基づきました。また神社などの訪問記は

すべて私が実際に 尋ねた記録です。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 大阪府太子町その3-1 出雲に赴任した上之宮太子の皇子たち 日置王と財王 2019年3月12日

2019-04-21 13:42:56 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

その3-1 出雲に赴任した上之宮太子の皇子たち 日置王と財王
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上之宮太子は用明大王と穴穂部間人皇后の皇子です。

用明大王は もともと推古女帝が 自らの皇子の竹田皇子を大王にする前の ワンポイントの
大王のはずでした。

推古女帝は 兄の子供の上之宮太子に我が娘(貝蛸皇女)を嫁に行かせるほど一時はかわいがっていたようです。
貝蛸皇女の息子が 額田部の財王と日置王です。お二人は出雲で活躍されました。
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その2の冒頭で書きましたが 587年見4月に物部守屋と中臣勝海は用明大王を殺害します。

用明大王の皇子の上之宮太子は当時16歳でしたが 復讐心にもえて 石川臣麻古とともに 崇仏派を結集して
7月に当時守屋が隠れていた 河内渋川(今の大阪府八尾市渋川付近)の守屋を襲い殺します。
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八尾市の渋川神社です。今は渋川町ではなく 植中町にあります。洪水で流されて16世紀に
移転したと書いてあります。物部氏の神社なので もちろん徐福(饒速日にぎはやひ)を祀っています。
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上之宮太子は戦勝祈願に 信貴山朝護孫子寺を訪れて祈ったとされています。
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朝護孫子寺です。信貴山山中にあり とても大きな古刹です。
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太子がこのあたりを通りかかると 毘沙門天が現れて 太子に必勝法を授けたそうです。
それが寅年、虎の日、虎の時刻だったそうで 境内いたるところに虎がおいてあります。
神様が人を殺す方法を教えてくれたなんて、ほんまかいな!

朝護孫子寺訪問記はこちらです。
https://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-koyotazune2015/e/03620c9fbac23be3bcb1a9e5d620a862
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上之宮太子は 16歳と未だ若かったので炊屋姫太后は初瀬部ノ皇子(炊屋姫の父ヒロニワ大王と母堅塩姫の姉の石川小姉君との間の皇子)
を大王に指名します。588年8月に初瀬部ノ皇子は大王に即位します。(後の贈り名は崇峻)

その4年後の592年に竹田皇子が暗殺されます。犯人はなかなか分からなかったそうですが
竹田皇子が亡くなれば 自分の子を次の大王に狙っていた 崇峻大王の后の小手子妃らしいと分かり
朝廷の正式な儀式の席で 崇峻大王が惨殺されるという前代未聞の事件が起こった。

犯人は東漢(やまとのあや)真駒で 犯人は口封じの為に即刻 石川麻古大臣により処刑されました。

太后の役職では自分の子供さえ守れないと考えた 炊屋姫太后は 未だ年若い尾治皇子を大君にするまでと
姫自身が大王になります。

593年12月に完成した豊浦大宮で即位式を行い 豊浦大王となります。(後の贈り名を推古)
そして上之宮太子を次の大王にすると約束して 大王補佐役とします。(摂政と記紀は表記)

しかし上之宮太子の人気が高まるにつれて 豊浦大王はわが子尾治の皇子の事が心配になり
上之宮太子の勢力を削ぐ為 太子の妻で娘の貝蛸皇女を豊浦大宮に引き上げさせ 貝蛸皇女の産んだ孫の
財王と日置王を遠い出雲の地に赴任させます。
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603年10月に小治田大宮が完成して尾治皇子が入居しますが上之宮太子に遠慮して 自分を東宮(皇太子)
と称します。

その年の11月に 完成した斑鳩大宮で上之宮太子は 沢山の重鎮達を集めて大王就任宣言をします。

それに驚いた 豊浦大王と尾治皇子は息長連系の重鎮達を集めて対策を練った。
そしてすべての官吏を12の階級に分けて 冠の色で階級を表して授けると発表した。

これは 大変効果があり 12月にすべての重鎮達が集まり、官位十二階の授与式がありました。
また官吏に対し 訓戒10条を定めた。これは奈良時代になり聖徳太子が定めた十七条憲法と
書き換えられた。


604年元旦に 尾治皇子は大王に就任し 尾治大王と称した。地方の国造も次々に小治田大宮に集めて
各国の領地の一部を大王家に寄進させて屯倉を造った。

斑鳩大宮の上之宮大王は孤立し 大王の名は有名無実になった。
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暇になった法王(大王になれなかった上之宮太子を後の僧侶や親族は法王と呼んだ)は仏典の勉強や国史
の作成に打ち込んだ。

当時中宮に住む太子の妃の一人伊那部橘婦人が たまたま斑鳩宮を尋ねてきたときに その国史を読むと
推古女帝の次の大王は上之宮大王と書いてあり 自分の父親の尾治大王の名前はどこにもなかったという。

日ごろから 上之宮太子の態度(大王の娘である自分を 妃と呼ばずに橘夫人と皆に呼ばせたり
太子の母の穴穂部間人前皇太后と同居させたり その他もろもろ)に不満を持ち続けていたのが
一度に爆発して 殺意を生んだという。

621年末に穴穂部間人前皇太后が突然倒れた。見舞いに訪れた太子に 母は「橘夫人に毒を盛られた」
と言ったという。それ以後太子は斑鳩宮では食事をやめて妃の膳部姫の飽波宮で過ごしたという。
それで橘婦人はますます太子を憎むようになったという。

太子の母は その年12月に亡くなった。翌年1月22日 母君のひと月の法要が中宮で行われ 参加した太子と
膳部姫が食事後に相次いで倒れて亡くなった。

当時出雲に赴任していて葬儀に参列した太子の息子の 額田部財王は 兄で喪主の山背王に毒殺事件を聞いて
出雲に帰ってきて 出雲旧王家の富家にそのことを伝えたという。

額田部財王も日置王も 都に帰る気を無くし 出雲の地で生涯を終えました。
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出雲の日置王
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イズモに赴任した日置王は 当初都では日奉王と称していました。当時出雲には 欽明大王の時代に
欽明大王の指示で 日置の伴部が派遣されて 欽明大王の父オホド大王の故郷出雲に 古墳を作り続けていました。

都では次第に 朝鮮系の息長家が勢いを強めていたので 日奉王は 朝鮮系からの迫害を恐れて
朝鮮系の名前の日置としたのです。

日置王は 額田部大王から母の貝蛸皇女を通じて引き継いだ 豊富な財力を生かし 大王の希望する
日御碕神社の建設に没頭します。官邸から馬に乗り冠をつけて川へ向い船で日御碕へ向う毎日だったそうです。
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日御碕神社の全景です。沢山の宮があります。
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これはその一つで 日沈みの宮です。夕日に向って建てられています。
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敏達大王が設置して 額田部大王から 日置王(日奉王)が引き継いだ日奉部は 太陽信仰でも 
特に夕日を拝むといわれます。それで夕日に向って建てられたのでしょう。

日御碕神社の完成を聞いて 額田部大王は大そう喜ばれたそうです。
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この写真は出雲市の斎谷に多数築かれた 出雲西王家神門臣家の王家の墓 四隅突出墳丘墓の一つです。
日置王は ご自分で造営された 上塩冶築山古墳に葬られました。
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これがその日置王の古墳から発掘された品々です。このほか黄金の太刀や多数のブレスレットとネックレスもあります。

当時勾玉やネックレスなどの装飾品は王族しか身に付けることを許されませんでした。

「出雲弥生の森博物館」見学記はこのブログの 2014年6月18日の記事にあります。
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これが復元された日置王の写真です。博物館のパンフに載せてあります。
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出雲の財王(たからおう)
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一方兄の 額田部財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。 

出雲国意宇(おう ー今の松江市阿太加夜神社付近 )郡 舎人郷の正倉役として赴任されていました。
そして同じく豊富な財力で弟の建てた日御碕神社の分社を建てられました。(安来市月坂144番地 今もあるそうですがまだ行っていません)

そして当時としては珍しかった五重塔のある 大寺院の教昊寺(安来市野方町)を建てました。しかし今は建物はなく
芯楚のあとがあるのみです。


そして財王も この地で生涯を終えられました。
そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。

岡田山1号古墳から発掘された黄金の太刀には「額田部の臣」と言う文字が読めて発見当時大きな話題となりました。

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岡田山1号古墳です。財王のお墓です。
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発掘された太刀です。その古墳の発掘物は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
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風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。

※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。

岡田山1号墳は 以前訪ねた「山代双子塚古墳」のすぐ近くに、しかもすぐ後に造られた。 
富家の伝承では 富家の王陵の隣に額田部の臣の王が葬られたという。

それは当時 都から赴任していた 額田部財王であります。出雲王家の太彦殿が分家の越前蘇我本家、振姫に養子に行かれ
家業を発展させて 人望を集められ 都に迎えられたのが オホド大王(継体)で その息子ヒロニワ大王(欽明)
の娘が 額田部大王(推古)です。

額田部大王の兄、豊日大王(用明)の息子が 上之宮太子(聖徳太子)でその息子が 額田部の臣財王です。

財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。 出雲国意宇郡舎人郷の正倉役として
赴任されていて この地で生涯を終えられました。

そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。

古墳埋蔵品は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。

※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。


穂日の子孫は 九州物部王家の第二次東征時に東征軍の別動隊(朝鮮人ヒボコの子孫田道間守などの軍)
を 出雲軍の警備の手薄な場所を 案内して出雲王家の滅亡に活躍し、その功績で出雲国造家に
してもらいました。

イクメ王が大和入りしてついに大和の大王となったあと、攻め滅ぼした出雲の進駐軍司令官兼出雲国造として
物部の十千根が派遣されて 旧東王家の王宮に着任します。今の松江市神魂(かもす)神社です。

自分が出雲国造になれるとばかり期待していた 矛卑の子孫の果安はイクメ大王に自分の果たした実績を連綿と
訴えて 自分こそ出雲王国を倒した第一人者だと懸命に訴えて やっと出雲国造にしてもらったということです。

(※そのあたりは 「古事記の編集室、親魏和王の都、出雲と蘇我王国などを参照してください。)

松江市教育委員会は馬鹿ですねえ。徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫が 自分たちの祖先が殺した
出雲王家の富家(向家)のお墓群の中に 自分達のお墓を作るわけがありませんよねえ。

その案内人の叔父さんには 斎木雲州先生の本を読んで もっと勉強しなさいといっておきました。きょとんとしていました。

ちなみに矛卑の子孫が今の出雲大社の宮司です。
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太子町 その3-2 叡福寺へ続く
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古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 大阪府太子町その2-2 孝徳陵 2019年3月12日

2019-04-19 12:33:50 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
太子町 その2-2
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孝徳陵
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前述の敏達大王と息長連広姫の皇子が息長彦人大兄王でその皇子が田村王です。後の舒明大王です。

当時の大王は石川臣系が続いていました。それに対して朝鮮系の息長家は大いに危機感をもっていました。
そこで息長系の田村王は親しかった 中臣御食子に相談しました。

中臣家は鹿島神宮の神官の分家で 豊後に移住して中津彦(記紀では仲哀とかかれ大王扱いですが 
息長姫の部下で 三韓征伐を断り 長姫とは別れています。)の側近となり 
息長帯姫の時代から宮中祭祀の役をもつ家柄となりました。

御食子は まず石川臣の主だった人を一人ずつ誅殺していく事。そして既に石川臣家へ嫁いでいた
息長系の宝姫を離婚させて 田村王と結婚し 息長系の結集を図ることを進言しました。

宝姫は既に 大海人の皇子を産んでいましたが 石川の臣武蔵と別れて田村王と結婚します。

病弱で寝込んでいた 尾治大王のもとへ 御食子の進言で見舞いに訪れた田村王に 尾治大王は
次の大王を譲ったと 大臣の石川雄正に伝えます。

驚いた雄正の弟の境部麻理勢は あくまで大兄である山背大兄が次の大王だと言い張ります。
御食子は それは尾治大王の意思に背く事だと 官兵を集めて 麻理勢を誅殺します。
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629年に田村王は即位し 舒明大王となります。そして630年に宝姫を皇后とします。

宝姫は舒明との間に 葛城の皇子(後の中大兄)を産みます。

その葛城の皇子と中臣鎌子の軍勢が 641年3月に突如 大臣石川雄正の豊浦の邸宅を取り囲み
誅殺します。大豪族石川臣家があっけなく 不意打ちにより倒されてしまいます。鎌子の画策です。

葛城の皇子は雄正誅殺の功績で 大兄に指名されて 中大兄を名乗ります。

その年の10月に舒明大王は没します。しかし中大兄と古人大兄という二人の大兄が居るので跡継ぎが決まりません。
そこで643年に宝姫皇后は 自ら即位して 皇極女帝となります。
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宝姫皇后は中大兄を次の大王にしたいと思いますが 舒明大王には先妻との間に 古人大兄がいます。

そこで 未だ若い中大兄を次の大王にする前に 弟の軽王をワンポイントの大王にしようと思います。
推古がたくらんだ兄用明を利用した方法と同じですね。

軽王を呼びつけて「古人大兄を出家させたら お前を大君にする」と持ちかけます。

軽王は はかりごとをして古人大兄を出家させて吉野へ追いやりますが 古人大兄は最終的に
誅殺されます。
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645年に軽王は即位して 孝徳大王となります。しかし政敵を次々に誅殺したりしたので 人心が離れ
政権が不安定になります。自身も暗殺をおそれて 難波の各地を点々としたり 有馬温泉に逃避したり
しますが 649年に難波豊崎宮が完成し そこに移ります。

その後 年号を白雉に変え 唐からの帰国僧 高向玄理や南渕請安らの意見を入れて中央集権化を
進めていったとされます。
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そして孝徳大王はわが子 有馬の皇子を次の大王にしようと画策を始めます。

このままでは危ないと感じた中大兄と中臣鎌子は654年に「都を飛鳥に移す」と宣言して 孝徳大王の皇后の
間人皇后とともに飛鳥に移った。

間人皇后は 孝徳に誅殺された古人大兄の妹で 兄と その子供達が 全員孝徳に誅殺されたのを恨んでいたと言う。

難波豊崎宮にとりのこされた 孝徳大王は 急激に政治力が衰えて 寝込むようになります。
654年の暮れに寝込んだ大王の見舞いに 間人皇后が 難波の宮へ見舞いますが その時何故か
大王は急死します。

翌年の655年に間人皇后は大王就任を宣言します。

と言うことで 孝徳大王も女帝に操られ、女帝に利用され、中臣の鎌子のどす黒い謀略にかかって死んだ
哀れな大王の一人です。

ちなみにこのどす黒い欲望の中臣の鎌子は 後の世に自分の名前が残るのを嫌い 中臣の鎌足と改名し
その後朝廷から 数々の陰謀のご褒美に藤原性を貰い その後千年以上朝廷を食い物にして藤原家は生き延びます。
明治時代の近衛文麿もこの鎌子の子孫です。

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この時代 毒を相手の食事に与えて 死亡させるというのは 普通におこなわれていたのですね。
「何故か急死します」と書いたのも怪しいですね。

例えば イクメ王が第二次東征で 大和入りしても部下の田道間守(朝鮮人卑矛の子孫)が進軍駐留した大和葛城地方で
勢力を広げて大王のように振る舞います。その地はタジマがなまって タイマ(當麻)といわれます。

困った 生目(いくめ)王(後の贈り名は垂仁)は 旧出雲王家の富太田彦に出兵を頼みます。
太田彦は野見と名前を変えて大和入りして 田道間守の軍勢を蹴散らします。

この事件は 当麻蹶速(たいまのけはや)と野見の宿禰 (のみのすくね)の相撲の試合と言う話に置き換えられて 
相撲の始まりだと 記紀に書かれました。

まったく 持統、不比等はとんでもなく 和国の歴史を捻じ曲げたのですね。

この後イクメ王は磯城王家を倒し 名実共に和国の大王となります。

その功績で野見太田彦は イクメ大王から 大和の磯城、磐余の富家の領地を回復され、また宿禰の称号を貰います。

そして 野見の宿禰 としてイズモへ帰宅する途中にたまたま立ち寄った辰野の地(今の兵庫県龍野市)で受けた接待で
毒を盛られて 急死させられました。後でわかったのですが その家は 朝鮮人卑矛の子孫と言うことだったのです。

卑矛は最初和国に来たときにイズモに上陸しようとしますが 出雲の掟を守るか と聞かれて
イヤだと答え 上陸を拒否されます。

その後出雲王国内を転々としますが 人のすめない由良川の中洲湿地帯に上陸を許可されますが
人が住めるように干拓したり 排水工事が大変だったと 長いこと出雲王国を憎んでいたと言います。

何百年もたった子孫が その仕返しをするなんて 朝鮮人の子孫はこわいですねえ。 
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ここは孝徳陵の駐車場です。後の丘が陵です。
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玉石の敷き詰められた参道を歩いていきます。
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通常はここまでしか入れません。
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少し横に入れたので 正面を見せてもらいましたが特に普通でした。
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昔の石工が手彫りで彫ったような味のある字体ですね。
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孝徳陵は竹之内街道に面しています。
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竹之内街道は昔の官道で国の役人しか歩けませんでした。
難波の宮から近つ飛鳥を通り遠つ飛鳥へ至る道路で道幅も広かったといわれています。

この写真の道は旧道といわれるもので 今は国道166号線になり 幹線道路です。

世界遺産熊野古道の小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路などとと同様に 昔の歴史道はアスファルトの
道路でズタズタにされています。このようにきれいに維持されているのはほんの一部です。

この竹之内街道や熊野古道、町石道などを歩くと悲しくなります。昔の石畳道はごくごく一部で
ほとんどが アスファルトの国道や地方道、林道で破壊されています。中には高野町石道のように
ゴルフ場の中を歩かせるという 非常識な 世界遺産の参詣道もあります。

日本の役人のレベルの低さ、頭の悪さを現していますね。
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次は 太子町その3 上之宮太子の墓のある叡福寺です。
   
太子の子息達の出雲での足跡も載せました。 
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