アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

九州北部の古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて その4 浮盃 4-3 2022年4月1日

2022-07-30 06:09:17 | 季節の風景
 

浮盃4-3  浮盃を訪ねる

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佐賀市浮盃になかなかたどり着けなくて グーグルに「ぶばい」と叫んだらここに連れて来てくれました。

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なるほどすぐ横の交差点は 浮盃交差点でした。

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佐賀市諸富町浮盃の新北神社をまず訪ねました。

これが成功で この神社の奥様がいろいろと親切に教えてくださいました。

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拝殿、本殿が二つずつあり、それぞれ別の神を祀っていると思いきや、おくさまがたまたま出てこられて

社殿がふるくなり 建て替えした時に 古いほうもそのまま残したと言う事でした。

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これが境内のビャクシンの木です。徐福が上陸の記念に植えたといわれています。

この珍しいビャクシンの木は 日本ではほとんど他では見られないそうです。

徐福が植えたのなら 樹齢2200年ほどです。幹はほとんど空洞化していました。

樹齢二千年と言われる 北斗市山高神代桜の幹よりさらに空洞化が進んだ感じでした。

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徐福の像が安置されていました。

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境内をいくら探しても 徐福が上陸後に体を清めたという「御手洗の井戸」を奥様にお聞きすると

ここから2キロほど海側へ行き 今は民家の庭に安置されているという事でした。

その民家の奥様は気さくな方なので 呼び鈴を押せばだれでも拝見できるという事なので

神社の奥様にお礼を言ってから 車で向かいました。

道中は鳥居が続いています。

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教えられたとおり 標識がありました。

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その民家の帰依には説明看板もありました。

この井戸は長い間場所が不明だったそうですが 大正15年の遺跡発掘調査時に 

この井戸が発見されたと書いてあります。

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呼び鈴を押すと奥様がでてこられて 気持ちよく中へ入れて頂きました。

この社の中に井戸があります。

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中を覗くとこんな風になっていました。古そうですね。

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浮盃の横を流れる筑後川の河口付近へ行ってみました。

徐福たちの船はここを通ったのでしようか。

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河口には徐福が建っていました。

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この地では徐福はそんなに 嫌われていないようです。

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出雲王国内では 徐福たちは 出雲の王族を殺したり 海童たちが農作物を壊したり大暴れして

出雲王国内では 悪魔のように嫌われた徐福ですが ここ浮盃では 嫌われるどころか

浮盃の人たちに親しまれているのが 驚きでした。「なんでえ?」と言う感じですが

徐福はここ 浮盃に字揚陸した後 この地には長居せずに すぐに吉野ケ里へ行き そこでお城を作り

住んだので この地ではほとんど暴れることはなかったのでしょう。

それでこの地の人々は 徐福をきらっていないのかなと思いました。

出雲王国民の末裔の私としては 徐福を嫌っていない人がいることが 大いに不思議でした。

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と言うことで今回の 古代出雲を尋ねる旅を終わります。

この項も大元出版の 斉木雲州先生の本をはじめ各本を参考にしました。

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九州北部の古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて その4 浮盃 4-2 2022年4月1日

2022-07-26 22:35:11 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
 

浮盃 4-2

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秦国から大量の技術者や若者ー海童たちを連れて 紀元前2世紀のはじめに 二度目に和国上陸を九州築紫にした徐福は、

宗像家(出雲王家の第六代主王臣津野の皇子吾田片隅が宇佐に移住して開いた王家)の宗像家三姉妹(吾田片隅の三人の娘)

のうち市杵島姫を后にします。

そして生まれた皇子穂穂出見(ホホデミ)が立ち上げた王家が 九州物部王家です。 

それから約300年後の二世紀はじめ 九州物部王家の物部五瀬(いつせ)は大和への第一次東征を開始します。

五瀬たちは 最初紀の国に上陸しようとしました。

 徐福が最初に上陸した出雲で 出雲王家の高照姫と結婚して出来た徐福の長男五十猛の息子高倉下は母親の大屋姫

と共に紀国に移住して勢力を強めます。

 

その高倉下の子孫たちに 紀の皮河口で手痛い反撃を食い 大将の物部五瀬は戦死します。 

残った九州物部軍は 船で南下して 熊野に上陸しますが、ここでも磯城王朝家のゲリラたちに攻撃されて

身動きが出来なくなります。

困り果てた物部軍は極秘にヤマトの登美家に使者を送り 自分たちを遊馬と屁案内してくれるよ絵に頼みます。

出雲王家の分家大和登美家の加茂建津乃身の導きで 無事にヤマトの磐余の地に落ち着いた物部軍は加茂建津之身に

感謝して彼を支那の神話に登場する太陽に住むカラスの八咫烏として祀り感謝します。 

磐余の地に入り 磐余彦(いわれひこ)と呼ばれる物部軍の大将は 物部の五瀬の弟の 稲飯なのか 三毛入りなのか

分からないので 記紀は「物部のウマシマチ」と言う名前をでっち上げました。

それが神大和磐余彦(神武)のモデルの一人です。

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その熊野に上陸した 物部稲飯と物部三毛入りの両方が主祭神 なので驚きました。

記紀には絶対に出てこない名前ですね。

「斎木雲州先生」の出雲王朝の古代史のまさにその通りなので 驚いた次第です。

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39

道路に埋め込まれた標識どおりに歩いていく。これも熊野古道なのです。

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40

突然きらきらした支那風の門が出てきました。見ると「徐福公園」と書いてあり、びっくり。

早速中へ入ってみることにしました。

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41

なんとこれが 道教の導師「徐福」だという。説明を読んで またまたびっくり。

なんと徐福は沢山の海童を連れて この熊野川の河口から 和国へ上陸したと書いてあります。

どこから こんな嘘を思いついたのでしょうか。

 

つまり熊野に上陸したのは 徐福ではなくて、徐福亡き後約350年後の子孫の九州物部王家の稲飯と三毛入りなのです。 

しかし嘘もこう堂々と書かれると 感心するなあ。

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阿須賀神社が分からなくて、地元の方に聞きまくり やっと到着しました。

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43

この阿須賀神社の由来書を読むと大変面白い。

フトニ大王(考霊天皇)の7年に徐福がこの地に上陸したと書いてあり、この神社は徐福を祀っているらしいのです。

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この項で前述しましたが、その頃この地に上陸したのは 先ほどの王子神社の主祭神 「稲飯と三毛入り」で

彼らが大和入りしたので 徐福の孫の天の村雲に始まる海部王朝(あまべおうちょう)第七代フトニ大王

(のちほど考霊と贈り名をつけられた)は大和の国から吉備の国へ逃げ 更に出雲王国の伯耆の国へ進出して 

出雲王家と第一次出雲戦争を引き起こしたのです。支那の歴史書に書かれた「和国大乱」の一つです。

 

つまり西暦170年頃に 熊野に上陸したのは徐福ではなくて 徐福の子孫たち「稲飯と三毛入り」のことを  

この神社では 「徐福が上陸した」と書き換えて ついでに徐福を祀っているのです。 

このあたりの神社は 先ほどの浜王子神社のように 歴史も非常に古く その由緒を読むと大変面白いのです。

その由緒は全くのでたらめではなくて 何らかの根拠があり、とても面白いのです。

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以上熊野古道を歩いた時に出会った 二つの徐福上陸地をご紹介しました。

探せばまだまだあると思います。

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今回の北九州で古代出雲を訪ねる旅の最後に徐福二度目の和国上陸地の浮盃(ぶばい)を訪ねました。

どんな場所なのか 昔から気になっていた場所でした。

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BC219年に始皇帝からたくさんの資金と海童たちをもらい 河北省秦皇島を出発して石見海岸の五十猛に上陸した

徐福とその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司の祖先)は 出雲王家の主王と副王を同時に殺しても 

徐福は出雲の王にはなれませんでした。出雲王国の組織が強く出来上がっていたのでしょう。

 

そこで徐福は いったん秦国に帰り始皇帝から更なる資金と海童たちをもらい不老不死の薬を探すふりをして

和国の王になるべくBC210年に今度は浙江省寧波(にんぽー)を出航し佐賀の浮杯に上陸しますが 今度も和国の王に

なれませんでした。

徐福の次男、穂穂出見が九州物部王家を作り 更にその約450年後にその子孫たちが出雲王国や磯城王朝を倒して大和入りし、 

やっとイクメ大王が 徐福由来の物部王朝を作ったのです。

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浮盃4-3へ続く

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九州北部の古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて その4 浮盃 4-1 2022年4月1日

2022-07-23 00:11:07 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その4-1 浮杯(ぶばい)

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徐福の上陸伝説は日本各地にあるようです。しかしその大半は徐福本人ではなく、徐福が連れてきた

海童だったり 徐福の子孫の九州物部王朝の皇子だったりだと思います。

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私もかつて世界文化遺産熊野古道のトレッキングをしているときに2度、徐福上陸地点と言われる場所に遭遇しました。

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※地図は メイツ出版 熊野古道より

世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のうち「熊野古道中辺路」は紀伊田辺をスタートして山に入り、熊野本宮大社、

熊野那智大社、そして熊野速玉大社の熊野三山へ詣でる参詣道です。

またブルーの道が伊勢路です。伊勢神宮より熊野本宮大社へ至る参詣道が伊勢路です。

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その1 「世界文化遺産熊野古道伊勢路」 の徐福の里

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波田須の道の地図です。ピンクの部分を歩きました。

案内図の茶色の部分だけが石畳であとのグリーンの道はアスファルト道路です。

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石畳道を降りて国道わきのこの「徐福茶屋」のわきから下へ降ります。

この茶店はここの御主人が徐福の名前を付けたもので 徐福の言われとは関係ありません。

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眼下に熊野灘を見ながら道を降ります。アスファルトの道ですが伊勢路です。

正面の大きな楠木が「徐福の宮」で波田須集落の真ん中にあります。

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波田須集落の中程にあるこのお宮さんが 徐福の宮です。

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徐福がこの地に上陸したと書いてあります。それは間違いで徐福ではなく、徐福の子孫か(九州物部が

東征の時に上陸したのか、)または徐福が連れてきたたくさんの海童たちの子孫が上陸したものでしょう。

波田須集落の人たちは このお社を大切に守り続けてこられたのだそうです。

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集落を抜けて駅へ向かいます。

この道も伊勢路だと書いてあります。

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ちなみに これが波田須駅です。駅舎はありません。ホームがあるだけです。

この駅がアニメ映画「凪のあすから」で舞台のひとつになり たくさんのアニメファンの聖地になったそうです。

休日にはたくさんのアニメファンが全国からこの駅にやってくるそうです。

私はこのアニメを見ていないので どんな場面にこのホームが登場するのか分かりませんが。

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その2 世界文化遺産熊野古道中辺路の徐福上陸地点

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熊野古道中辺路は 熊野那智大社、そして世界遺産補陀洛山寺を過ぎてしばらく歩くと熊野灘の海岸を歩きます。

潮騒を聞き、潮の香りをかぎながら歩く気持ちの良いコースです。

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渚の道を約2キロ歩くと浜道が終わり 浜王子神社に来ます。

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こじんまりしたお社にお参りして その傍らの神社由緒書きを読むとびっくり仰天しました。

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この神社の主祭神は 稲飯(いないい)と三毛入(みけいり)だと書いてあります。

この二人は記紀には絶対に出てこない名前ですね。

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4-2へ続く

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて九州北部へ その3伊都国 3-3 2022年4月1日

2022-07-20 23:17:49 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
 

伊都国 3-3

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出雲の銅鐸のレプリカがありました。鳴らしてみたら 不思議な音色でした。

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現在の糸島市の地図です。赤い丸はこの博物館の場所で 伊都国の中心部だったそうです。

伊都国の港の場所を 学芸員の方にお聞きすると 「糸島半島の東側(右側)は海が浅く、西側のほうが深いので

おそらく西側の海だと思われますが、記録や出土品がないので断定はできませんが」と

おっしゃっていました。青い丸は私が書きました。

「港からこの中心部へ 広い道路がまっすぐに通っていたはずなのですが、残念ながらその間は

ほとんどが田んぼで、発掘できないでいます。道路が発掘できればいいのですが」とおっしゃっていました。

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博物館のすぐ裏手(南側)は背振り山です。あの山の向こうが吉野ケ里です。

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徐福が生涯を過ごしたと伝わる吉野ケ里です。

その奥の山が背振り山で 山の向こうが伊都国です。

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伊都国の海です。本当は伊都国の海も見たかったのですが、この後佐賀の浮杯へ向かうので時間が無くなり

残念ながら海は見れませんでした。

この写真は糸島市観光協会のホームページからお借りした伊都国の海です。

この海を越えて 朝鮮半島の帯方郡へ幾多の船が行き来したのですね。

機会があれば この海を将来ぜひ見てみたいものです。

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と言うことで 豊玉姫女王と同様に伊都国も記紀では完全に無視されています。

だって「渡来人徐福の子孫の九州王国が二度も大和へ攻め入り、挙句にヤマトの王国や、出雲王国を

血で血を洗う戦で責め滅ぼして新しい征服王朝を打ち立てた」なんてことは絶対に書けませんから。

持統、不比等らの 「自分たちの祖先は天から降りて来て出雲の国を譲ってもらい、その後万世一系の

王家である」という嘘がバレルので 絶対に無視せざるを得ないのです。

それに 伊都国のことを詳しく書けば 和国が魏の属国だった事実がばれて またも万世一系が

崩れるのです。

 

さすがに徐福は無視することができず、素戔嗚(すさのお)と名前を変えて記紀に登場させますが

ヒミコや豊玉姫など触れてはならないのです。もちろん伊都国にも。

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面白そうな本を伊都国歴史博物館で見つけました。

即購入しましたので 内容は後日載せようと思います。

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次は徐福2回目の和国上陸地の浮盃(ぶばい)です。

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて九州北部へ その3伊都国 3-2 2022年4月1日

2022-07-17 22:13:07 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
 

伊都国 3-2

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展示物の説明です。

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左が装飾品、真ん中が鉄製武器、右が鉄製農具です。

※展示物はフラッシュをたかなければ 撮影オーケーでした。

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イヤリングです。今みたいに男の人(貴人)もつけたのでしょうか。

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ネックレスやブレスレットなどの装身具です。

出雲の四隅突出墳丘墓や巻向の古墳からもよく似たものが出土していますね。

詳しい違いは分かりませんが。

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伊都国の女王の着物だそうです。

女王がいたということは 伊都国は 豊物部連合国の一員だったのでしょうか。

豊玉姫もこのような姿をしていたのでしょうか。素晴らしく高貴な印象ですね。

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地元の人は伊都国の周りをこのような船で移動していたのでしょうか。

朝鮮や支那へは もっと大きな船だと思いますが。

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伊都国 3-3へ続く

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