アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」 穂高神社 2013年9月23日 (再編集しました。)

2019-04-26 10:04:31 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
穂高神社 
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以前山旅の途中で訪れた 穂高神社の再編集です。長野県安曇野市 穂高町  2013年9月23日
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神社入口です。
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手水から湯気が上がっていました。お湯なのでしょう。

諏訪大社のたくさんある社のどこかにも温泉のお湯の手水がありました。
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社務所、拝殿など一連の建物は 新しい建物でした。最近 建替えられたのでしょう。
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広い境内には沢山の人が いらっしゃいます。地域の人の信仰を集めているようです。

中央は舞殿でしょうか。
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神社の説明看板です。
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神社の由緒書きです。
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これによりますと この神社は海の神様を祀っているそうです。

海神(わたつみ)は御伽噺の「海彦、山彦」に出てくる山幸彦が尋ねた竜宮に住んでいるという

豊玉姫の父神ですね。

穂高見の神は綿津見の神の子供と書いてあるので つまり山幸彦の系統を祭っているという事です。
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ここで海幸彦(兄)と山幸彦(弟)について

兄の海幸彦は 徐福の長男 五十猛が起こした海部(あまべ)家をいい、弟の山幸彦は 徐福の次男

穂穂出見が起こした九州物部家を言います。

紀元前3世紀末に 石見の五十猛海岸に 沢山の海童(青年男女)たちを引き連れて上陸したのは

秦国人徐福でした。事前に忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司の祖先)を出雲王家に使わして

上陸許可を取るという 周到な準備のもとに実行されました。徐福は自分が和国の王になるつもりでした。

徐福は和名をホアカリと名乗り 出雲王家第七代主王天の冬衣の姫、高照姫を娶り長男「五十猛」をもうけます。

その後部下の矛卑(ほひ)や海童達に命じて 出雲王家の主王八千矛や副王八重波津身を相次いで

幽閉殺害しますが、結局王にはなれず 一旦秦国に帰国して始皇帝に更なる資金と海童達を貰い

二度目の上陸を佐賀の浮杯に果たします。そして和名を饒速日(にぎはやひ、ににぎね ともいいう)と名乗り 

出雲王家の分家九州宗像家の市杵島姫 を娶り次男穂穂出見と長女穂屋姫をもうけます。

穂穂出見が九州物部家の始祖です。

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一方長男五十猛は 成長して丹波に移住して「海の香語山(あまのかごやま)」と名乗り海部家を名乗ります。

その後大和葛城地方に移住します。徐福に殺された八千矛や八重波津身の皇子たちは既に大勢の出雲族

とともに葛城地方へ移住開拓して 大きな地盤を築いていましたが 遅れてきた香語山は大勢の海童達を

引き連れていたので 出雲王家の皇子の 味鋤高彦や奇日方は 香語山を大和の王と認め味鋤高彦の姫大屋姫を

嫁がせます。生まれた皇子が高倉下です。

一方香語山は 異母兄妹の穂屋姫を九州物部家から呼び寄せて妃として海の村雲(発音が同じなので後に天の村雲とかかれます)

をもうけて 天の村雲が 出雲族(磯城家、高鴨家)の支持を受けて 初代大和大王となります。

これが山幸彦のモデルです。
 
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一方九州物部家は 180年頃に東征し熊野に上陸するも 大和側の抵抗で北上できず熊野川河口の中州で

立ち往生していました。(その跡地に熊野本宮大社が建てられましたが 明治の大洪水で流されて

現在は山の中腹に移転されました)

そこで 当時大王家の力が衰えて豪族達の争いで混乱している大和に密使を送り 富家の加茂建津之身の誘導で

ようやく富家の地盤の磐余の地に入ります。物部稲飯、三毛入兄弟は 「磐余彦」と呼ばれます。

記紀の編集者はこの名を利用して 初代大王の名を神大和磐余彦と作り変えてしかも時代を

古代出雲王朝の始まりの 紀元前6世紀頃まで引き上げたので 嘘が嘘を呼び つじつまがあわなくなり

190歳くらいの大王が何人も作られました。

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その後物部王家は 三代続けて登美家(磯城家)から妃を向かえ 直ぐに磯城王家に飲み込まれてしまいます。

そこで約80年後の232年に 九州物部王家のイ二エ王は再び東征を開始して南下します。

南下して薩摩の阿多津姫との間にイクメ皇子をもうけます。さらに当時の豊王国の豊玉姫を

妃として迎え 物部豊連合王国を造り 東征の準備を始め 豊玉姫との間に豊彦、豊姫をもうけます。

御伽噺のなかで 竜宮城の姫が 豊玉姫とかかれ、その父が海神(わたつみ)とかかれました。

釣り針を兄の海幸彦に返しに行く山幸彦を送って海辺まで来たとき 山幸彦の子を

急に産気ずき 山幸彦が産小屋の屋根をウガヤで葺き終わらないうちに豊玉姫はワニ(出雲では鮫をワニ

と呼びます)の姿になり豊彦を産みます。それで豊彦は「渚建ウガヤ葺きアエズ」と名付けられました。

ちなみに物部彦渚建とは 第一次東征の張本人の王の名前で 第一次東征時紀ノ川の河口で戦死した

物部五瀬や熊野から大和入りした稲飯、三毛入たちの父王です。

豊玉姫が ワニの姿に変身したという事は 宇佐豊玉姫が出雲族の血を引いているという事を示唆しています。

宗像家に始まる宇佐王家は 出雲王家の分家ですから。イズモ族はワニを崇拝していました。

ちなみに 第二次東征で大和入りして 大和大王となったイクメ大王は 後の贈り名を垂仁となづけられました。

そして一度も九州を出ずに亡くなったイ二エ王は 記紀の作り話では 崇神大王と 大和の大王にでっち上げられました。

嘘が嘘を呼び 宮内庁は磯城家の古墳を崇神大王稜として管理しています。馬鹿ですね。

豊彦、豊姫(魏書で台与トヨと書かれました)は大和では 豊来入彦、豊来入姫と呼ばれますが

豊来(とよき)では 征服王朝と言うのがばれてしまうので 記紀では 豊鍬(とよすき)入彦、豊鍬入姫と書き換えられました。

一度嘘をつくと永遠に嘘をつき続けなければバレますからね。
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一方 天の(海の)香語山に始まる海部家の分家として 尾張家が別れます。

これは 高尾張邑を地盤としたからそう呼ばれます。現在のダイヤモンドトレイルの岩橋山の東側で

天の香語山の皇子高倉下が母親で出雲の姫多や姫と共に住み 「大屋」の地名が付いたあたりと思います。

この地域は 竹の内峠の東側でイズモ式の銅鐸の発見された名柄を中心とした地域より少し北の地域と思われます。

また海部家の分家として 阿曇(安曇)連家ができます。

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ということで 前置きが長くなりましたが この神社で祀られているのは「海の神様」ではなくて 海部家なのです。

海の幸と山の幸の両方の神得があるというのは 海幸彦と山幸彦の両方の父親が

饒速日(徐福)だからでしょう。物部系の神社では 饒速日(にぎはやひ)やニニギ、そしてホアカリはすべて徐福の和名です。

主祭神 はニニギノ尊と書いてありますね。

海部家は海の民(うみんちゅ)ではなくて 徐福と出雲王家から生まれた大王家なのです。

穂高見の命は神武の叔父とかいてあり、小説の記紀の中の神武は架空の人物なので それまでの地元の神を記紀が出来た後から

記紀にあわせて リメイクして作られた神なのでしょう。ワタツミノ神も御伽噺の中の神で

アマテラスも古代出雲王国国教の幸の神三神の佐毘売の命をモデルに記紀で作られたので

徐福(ニギハヤヒ、ニニギ)以外は すべて記紀にあわせていますね。

当たり前ですね。時の最高権力者右大臣の不比等には誰も逆らえませんでしたから。
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境内に神馬社がありました。
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神馬のモデルは木曾馬だそうです。
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拝殿の奥に 本殿が見えていますが、本殿の建物は見れませんでした。
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安曇連比羅夫の像です。
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阿曇連比羅夫の説明です。

山背国(やましろのくに)は かつて日本の地方行政区分だった令制国の1つである山城国の別名です。

残念ながらこの注釈は 間違いです。大阪府南河内郡河南町にも そのお隣の太子町にも

ヤマシロ と言う地名はありません。現在の京都府南部で木津川の北の地域です。
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これも少し補足説明が必要です。

660年7月 新羅が唐の援軍を得て百済を攻めます。
    10月 百済が占領されて沢山の百済人が和国に逃れてきて 助けを求めます。

661年5月 斎明女帝が新羅討伐に出発します。
    7月 斎明女帝は筑前朝倉宮で死亡
    8月 海部家の分家 阿曇連比羅夫が将軍となり百済援護に出発
       その後多臣薦敷(太安万侶の祖父)の妹を百済王子豊暲の妻として与え
       百済へ送り届けた。

662年8月 上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)を将軍として新羅討伐に向うも
       白村江の海戦で大敗し百済の民を乗せて敗走帰国

665年   間人皇太后難波宮で死亡
667年   大津京遷都
668年   天智大王即位
671年   天智大王死亡
672年6月 壬申の乱  
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壬申の乱の吉野側の大海人の皇子は海部家ではなくて 摂津の国住吉神社の社家の津守連大海の妻が
宝姫(皇極女帝)の産んだ皇子の姥になったので 大海人彦と呼ばれたのです。

吉野側についた豪族達は 多の臣品治(安万呂の父)、山辺の君安麻呂(太安万侶)、大伴吹負
忌部子人、そして阿曇の連稲敷たちでした。

阿曇連一族は古代史で大変活躍したひとたちです。

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境内には舟の骨組みがありました。
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秋祭りで毎年この舟が使われるそうです。
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例祭のポスターが張ってありました。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」はこちらから入れます。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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参考文献 斎木雲州著 大元出版  飛鳥文化と宗教争乱、古事記の編集室、御伽噺とそのモデル、
                 出雲と蘇我王国

     勝 友彦  大元出版  親魏和王の都
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