その3-1 出雲に赴任した上之宮太子の皇子たち 日置王と財王
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上之宮太子は用明大王と穴穂部間人皇后の皇子です。
用明大王は もともと推古女帝が 自らの皇子の竹田皇子を大王にする前の ワンポイントの
大王のはずでした。
推古女帝は 兄の子供の上之宮太子に我が娘(貝蛸皇女)を嫁に行かせるほど一時はかわいがっていたようです。
貝蛸皇女の息子が 額田部の財王と日置王です。お二人は出雲で活躍されました。
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その2の冒頭で書きましたが 587年見4月に物部守屋と中臣勝海は用明大王を殺害します。
用明大王の皇子の上之宮太子は当時16歳でしたが 復讐心にもえて 石川臣麻古とともに 崇仏派を結集して
7月に当時守屋が隠れていた 河内渋川(今の大阪府八尾市渋川付近)の守屋を襲い殺します。
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八尾市の渋川神社です。今は渋川町ではなく 植中町にあります。洪水で流されて16世紀に
移転したと書いてあります。物部氏の神社なので もちろん徐福(饒速日にぎはやひ)を祀っています。
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上之宮太子は戦勝祈願に 信貴山朝護孫子寺を訪れて祈ったとされています。
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朝護孫子寺です。信貴山山中にあり とても大きな古刹です。
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太子がこのあたりを通りかかると 毘沙門天が現れて 太子に必勝法を授けたそうです。
それが寅年、虎の日、虎の時刻だったそうで 境内いたるところに虎がおいてあります。
神様が人を殺す方法を教えてくれたなんて、ほんまかいな!
朝護孫子寺訪問記はこちらです。
https://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-koyotazune2015/e/03620c9fbac23be3bcb1a9e5d620a862
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上之宮太子は 16歳と未だ若かったので炊屋姫太后は初瀬部ノ皇子(炊屋姫の父ヒロニワ大王と母堅塩姫の姉の石川小姉君との間の皇子)
を大王に指名します。588年8月に初瀬部ノ皇子は大王に即位します。(後の贈り名は崇峻)
その4年後の592年に竹田皇子が暗殺されます。犯人はなかなか分からなかったそうですが
竹田皇子が亡くなれば 自分の子を次の大王に狙っていた 崇峻大王の后の小手子妃らしいと分かり
朝廷の正式な儀式の席で 崇峻大王が惨殺されるという前代未聞の事件が起こった。
犯人は東漢(やまとのあや)真駒で 犯人は口封じの為に即刻 石川麻古大臣により処刑されました。
太后の役職では自分の子供さえ守れないと考えた 炊屋姫太后は 未だ年若い尾治皇子を大君にするまでと
姫自身が大王になります。
593年12月に完成した豊浦大宮で即位式を行い 豊浦大王となります。(後の贈り名を推古)
そして上之宮太子を次の大王にすると約束して 大王補佐役とします。(摂政と記紀は表記)
しかし上之宮太子の人気が高まるにつれて 豊浦大王はわが子尾治の皇子の事が心配になり
上之宮太子の勢力を削ぐ為 太子の妻で娘の貝蛸皇女を豊浦大宮に引き上げさせ 貝蛸皇女の産んだ孫の
財王と日置王を遠い出雲の地に赴任させます。
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603年10月に小治田大宮が完成して尾治皇子が入居しますが上之宮太子に遠慮して 自分を東宮(皇太子)
と称します。
その年の11月に 完成した斑鳩大宮で上之宮太子は 沢山の重鎮達を集めて大王就任宣言をします。
それに驚いた 豊浦大王と尾治皇子は息長連系の重鎮達を集めて対策を練った。
そしてすべての官吏を12の階級に分けて 冠の色で階級を表して授けると発表した。
これは 大変効果があり 12月にすべての重鎮達が集まり、官位十二階の授与式がありました。
また官吏に対し 訓戒10条を定めた。これは奈良時代になり聖徳太子が定めた十七条憲法と
書き換えられた。
604年元旦に 尾治皇子は大王に就任し 尾治大王と称した。地方の国造も次々に小治田大宮に集めて
各国の領地の一部を大王家に寄進させて屯倉を造った。
斑鳩大宮の上之宮大王は孤立し 大王の名は有名無実になった。
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暇になった法王(大王になれなかった上之宮太子を後の僧侶や親族は法王と呼んだ)は仏典の勉強や国史
の作成に打ち込んだ。
当時中宮に住む太子の妃の一人伊那部橘婦人が たまたま斑鳩宮を尋ねてきたときに その国史を読むと
推古女帝の次の大王は上之宮大王と書いてあり 自分の父親の尾治大王の名前はどこにもなかったという。
日ごろから 上之宮太子の態度(大王の娘である自分を 妃と呼ばずに橘夫人と皆に呼ばせたり
太子の母の穴穂部間人前皇太后と同居させたり その他もろもろ)に不満を持ち続けていたのが
一度に爆発して 殺意を生んだという。
621年末に穴穂部間人前皇太后が突然倒れた。見舞いに訪れた太子に 母は「橘夫人に毒を盛られた」
と言ったという。それ以後太子は斑鳩宮では食事をやめて妃の膳部姫の飽波宮で過ごしたという。
それで橘婦人はますます太子を憎むようになったという。
太子の母は その年12月に亡くなった。翌年1月22日 母君のひと月の法要が中宮で行われ 参加した太子と
膳部姫が食事後に相次いで倒れて亡くなった。
当時出雲に赴任していて葬儀に参列した太子の息子の 額田部財王は 兄で喪主の山背王に毒殺事件を聞いて
出雲に帰ってきて 出雲旧王家の富家にそのことを伝えたという。
額田部財王も日置王も 都に帰る気を無くし 出雲の地で生涯を終えました。
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出雲の日置王
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イズモに赴任した日置王は 当初都では日奉王と称していました。当時出雲には 欽明大王の時代に
欽明大王の指示で 日置の伴部が派遣されて 欽明大王の父オホド大王の故郷出雲に 古墳を作り続けていました。
都では次第に 朝鮮系の息長家が勢いを強めていたので 日奉王は 朝鮮系からの迫害を恐れて
朝鮮系の名前の日置としたのです。
日置王は 額田部大王から母の貝蛸皇女を通じて引き継いだ 豊富な財力を生かし 大王の希望する
日御碕神社の建設に没頭します。官邸から馬に乗り冠をつけて川へ向い船で日御碕へ向う毎日だったそうです。
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日御碕神社の全景です。沢山の宮があります。
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これはその一つで 日沈みの宮です。夕日に向って建てられています。
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敏達大王が設置して 額田部大王から 日置王(日奉王)が引き継いだ日奉部は 太陽信仰でも
特に夕日を拝むといわれます。それで夕日に向って建てられたのでしょう。
日御碕神社の完成を聞いて 額田部大王は大そう喜ばれたそうです。
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この写真は出雲市の斎谷に多数築かれた 出雲西王家神門臣家の王家の墓 四隅突出墳丘墓の一つです。
日置王は ご自分で造営された 上塩冶築山古墳に葬られました。
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これがその日置王の古墳から発掘された品々です。このほか黄金の太刀や多数のブレスレットとネックレスもあります。
当時勾玉やネックレスなどの装飾品は王族しか身に付けることを許されませんでした。
「出雲弥生の森博物館」見学記はこのブログの 2014年6月18日の記事にあります。
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これが復元された日置王の写真です。博物館のパンフに載せてあります。
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出雲の財王(たからおう)
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一方兄の 額田部財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。
出雲国意宇(おう ー今の松江市阿太加夜神社付近 )郡 舎人郷の正倉役として赴任されていました。
そして同じく豊富な財力で弟の建てた日御碕神社の分社を建てられました。(安来市月坂144番地 今もあるそうですがまだ行っていません)
そして当時としては珍しかった五重塔のある 大寺院の教昊寺(安来市野方町)を建てました。しかし今は建物はなく
芯楚のあとがあるのみです。
そして財王も この地で生涯を終えられました。
そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。
岡田山1号古墳から発掘された黄金の太刀には「額田部の臣」と言う文字が読めて発見当時大きな話題となりました。
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岡田山1号古墳です。財王のお墓です。
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発掘された太刀です。その古墳の発掘物は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
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風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。
※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。
岡田山1号墳は 以前訪ねた「山代双子塚古墳」のすぐ近くに、しかもすぐ後に造られた。
富家の伝承では 富家の王陵の隣に額田部の臣の王が葬られたという。
それは当時 都から赴任していた 額田部財王であります。出雲王家の太彦殿が分家の越前蘇我本家、振姫に養子に行かれ
家業を発展させて 人望を集められ 都に迎えられたのが オホド大王(継体)で その息子ヒロニワ大王(欽明)
の娘が 額田部大王(推古)です。
額田部大王の兄、豊日大王(用明)の息子が 上之宮太子(聖徳太子)でその息子が 額田部の臣財王です。
財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。 出雲国意宇郡舎人郷の正倉役として
赴任されていて この地で生涯を終えられました。
そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。
古墳埋蔵品は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。
※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。
穂日の子孫は 九州物部王家の第二次東征時に東征軍の別動隊(朝鮮人ヒボコの子孫田道間守などの軍)
を 出雲軍の警備の手薄な場所を 案内して出雲王家の滅亡に活躍し、その功績で出雲国造家に
してもらいました。
イクメ王が大和入りしてついに大和の大王となったあと、攻め滅ぼした出雲の進駐軍司令官兼出雲国造として
物部の十千根が派遣されて 旧東王家の王宮に着任します。今の松江市神魂(かもす)神社です。
自分が出雲国造になれるとばかり期待していた 矛卑の子孫の果安はイクメ大王に自分の果たした実績を連綿と
訴えて 自分こそ出雲王国を倒した第一人者だと懸命に訴えて やっと出雲国造にしてもらったということです。
(※そのあたりは 「古事記の編集室、親魏和王の都、出雲と蘇我王国などを参照してください。)
松江市教育委員会は馬鹿ですねえ。徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫が 自分たちの祖先が殺した
出雲王家の富家(向家)のお墓群の中に 自分達のお墓を作るわけがありませんよねえ。
その案内人の叔父さんには 斎木雲州先生の本を読んで もっと勉強しなさいといっておきました。きょとんとしていました。
ちなみに矛卑の子孫が今の出雲大社の宮司です。
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太子町 その3-2 叡福寺へ続く
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