アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 大阪府太子町その3-2 上之宮法王(聖徳太子)陵の叡福寺 2019年3月12日

2019-04-24 12:05:41 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

その3-2 上之宮法王(聖徳太子)陵の叡福寺 2019年3月12日
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叡福寺門前の駐車場です。
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大きな朱塗りの山門を潜ります。
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広い境内です。
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建物がたくさんありますが、これが本堂なのでしょうか。
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寺の縁起です。これを読むと この墓所には 上之宮法王の生母 穴穂部間人皇后、上之宮法王、
そして法王の后の膳部大郎女の御三方のお骨が埋葬されているそうです。
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広い境内を歩いて 太子陵へ進みます。
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太子陵の入口にも 山門があり
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左右それぞれに
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仁王様がいらっしゃいます。
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門を潜ると墓所です。
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ここは境内ではなくて 宮内庁の管理のお墓だそうです。
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大王は陵と書かれていますが 太子は陵と書かれていなくて 「墓所」と読めます。
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これが納骨堂なのでしょうか。
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望遠で覗くと三人の仏様が掘り込んであります。御三方の墓所だからなのでしょうか。
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太子陵から境内を見下ろしたところです。
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金剛葛城の峰々も すぐそこに見えます。
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毎月11日が 太子の命日で縁日の法要があるそうです。
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造られた聖徳太子像
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様々な陰湿な謀略で 下級役人から上へ成り上がった藤原鎌足の息子が不比等です。

藤原氏への反感から壬申の乱では破れて 天武期には不比等は 渡来系の田辺家に隠れていました。
そのときに「孫子」を読み権謀術算を学びます。

持統期に次第に頭角を現し 刑部省の判事になり 政敵を次々と陥れて抹殺します。
そして奈良時代には 右大臣となり 記紀の編纂を始めます。そして千年以上天皇家と天皇制を利用して
私腹を肥やす 藤原家の基礎を造ります。

不比等は太安万侶と柿本人麻呂をむ監禁し秘密裏に記紀を書かせます。(斎木雲州著 万葉歌の天才、古事記の編集室 参照)

その中で出雲王朝始祖の菅之八井耳(八井耳神)をまねて 上之宮太子を 豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)と名付けて
一度に沢山の人の話を聞き分けたとか 唐時既に伝えられていたキリストのまねをして 馬屋の戸口で生まれたとして
厩戸皇子(うまやどのみこ)と名付けました。また尾治大王の官吏10条の教訓を 17条憲法として太子の業績とみせかけた。

また不比等は 大友の皇子の曾孫 近江淡海を大学頭兼文章博士に採用し 歴代の大王の名を漢字二文字で表記させた。
ですから このときに、それ以前の大王の名は すべて漢字二文字に書き換えられたのです。

不比等は 大王家つまり天皇家を神格化して皇国史観を創り上げて 自分が徹底的にそれを利用して
私腹を肥やすことの仕組みを創り上げて 以後千年以上に渡り 皇室を利用し続けて 藤原家は二条家、一条家、近衛家、
鷹司家 などに別れたものの 一貫して皇室を食い物にして連綿と続くのです。

つまり日本の歴史をゆがめて 己の都合の良いように 書換えたのが 不比等です。

今も沢山の人が記紀の呪縛に取り付かれています。私の山仲間のFさんの奥様もその一人で 我が家の裏山の岩湧山で
会うたびに 私のこのブログに敵意を抱き いつも攻撃的なコメントを寄せられます。

記紀の呪縛に完全に飲み込まれていらっしゃいますので 他人の意見を聞く耳を完全に塞いでいらっしゃいます。
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上之宮太子を祀る 斑鳩寺が放火されて消失し 多くの僧侶達が各地に散りました。今まで斑鳩寺が日本仏教の
始まりだと 自負していた僧侶達は 上之宮太子を偶像化して名前を広めたいと考えます。

そして太子ゆかりの四天王寺などでも 太子の像を作り拝み始めます。そして太子の聡明さ、天才振りを示す説話
が次々に作られて広められます。

太子の死後129年経ち 751年に懐風藻のなかで ついに「聖徳太子」と言う言葉が出て 仏教開祖の菩薩とされました。

この聖徳太子は 上之宮太子、山背大兄、太子の父の用明大王の三社を合体した菩薩といえます。

廃仏派の物部守屋に焼き殺されて殉教した用明大王は仏教を公認した最初の大王であり、山背大兄は斑鳩寺や
中宮寺を建て仏教に尽くしました。つまりこの三者の実績をまとめて聖徳太子としたのです。
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太安万侶について
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多家は日本有数の由緒ある家系です。

初代ヤマト大王「天の村雲」は磯城家のタタラ五十鈴姫(事代主と玉依り姫の姫)と結婚し、その皇子
「沼川耳(ぬなかわみみ)」が二代目大王となります。沼川耳はタタラ五十鈴姫の妹「五十鈴依り姫」と結婚し
玉手看(たまてみ)と八井耳の皇子が生まれます。

王位を継いだのは 弟の玉手看(たまてみ)で 八井耳は「多臣家」の始祖となり、その家系が連綿と続き
今も奈良県田原本の多神社の社家をされています。もともと臣は出雲王族を現す家系です。
そして記紀製作者の太安万侶は 多家の子孫で 多神社に祀られています。

多神社訪問記は 当ブログの2015年12月26日の記事に載せています。

太安万侶は 記紀を書き上げたあと、記紀の秘密を守るため 人麻呂と共に不比等により幽閉されます。
太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 出雲王家東王家の向家の領地に幽閉されます。

太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 多臣家の末裔で
山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と伝えたと言われます。

そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲王家を代表して
お礼を述べたと伝わっているそうです。

太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社
(あだかやじんじゃ)が建てられています。

阿太加夜神社訪問記は 2014年4月10日の記事に載せています。
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この項は 斎木雲州著 飛鳥文化と宗教騒乱  大元出版  に基づいて書きました。

またその他の歴史は 御伽噺とモデル、万葉歌の天才、幸の神と竜、出雲と蘇我王国、古事記の編集室、

親魏和王の都、出雲と大和のあけぼの 以上いずれも大元出版に基づきました。また神社などの訪問記は

すべて私が実際に 尋ねた記録です。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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