アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 大阪府太子町その2-1 用明大王稜、敏達大王陵 2019年3月12日

2019-04-17 19:32:26 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
太子町 その2-1
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用明大王稜
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先に述べたように 用命大王は額田部皇后が わが子竹田皇子を大王にするまでのワンポイントの大王として
自分の兄の豊日大兄王を 大王にしたのである。

用明大王は 祭祀の席で 官人たちに「朕は三宝に帰依する」と仏教を採用する事を宣言した最初の大王です。
それにたいして 物部守屋と中臣勝海が「なぜ 自国の神に背き 外国の神を敬うのか」と抗議して退席したといわれます。

このことがのちの宗教騒乱を招きます。

また彼は祖父の継体大王を尊敬していたから 祖父の故郷出雲から 古墳技術者を呼び寄せて
池辺宮の南に 寿陵(生前に造営する陵)の桃原陵を築いた。それは出雲式の正方形の陵といわれています。

ちなみにこの桃原陵は のちに推古太后により土が取り除かれて 石室がむき出しに取り残されます。
それが石舞台古墳です。
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物部守屋は物部家の統領であり 第二次東征で大和入りして 石上神社で政治を行った物部イクメ大王の子孫です。
そして石上神社の社家として 宮中祭祀をつかさどっていました。

そして中臣家も宮中祭祀を執り行う家系なので 二人は 仏教が盛んになれば自家の権利が失われると
仏教に強行に反対したのです。

また用明大王が強大になり その皇子の上之宮大兄(聖徳太子)が次の大王になれば
自分の息子の竹田皇子は大王になれないと 額田部皇后は 危惧しました。
 
そこで皇后は 物部守屋と中臣勝海を密かに呼び 用明大王を襲う事を二人に指示したのです。

二人は穴穂部皇子と宅部皇子も引き入れて 私兵を引き連れて池辺の宮を襲い 用明大王を殺害しました。

ちなみに 記紀では587年に用明大王は病死したように見せかけていますが 記紀を作成させた
最高権力者の右大臣藤原不比等が自分の祖先の悪事を書かせるはずはありませんよね。
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用明大王の強大化をおそれた額田部皇后が 我が娘の貝蛸皇女と上之宮大兄王のあいだの皇子の
額田部財王(たからおう)と額田部日置王を出雲に赴任させて遠ざけていました。

それでお二人から旧出雲王家の富家に そのあたりの情報は逐一知らされていたそうです。

上之宮大兄王は 後に父親の復讐にもえて 物部守屋を河内渋川の守屋邸で守屋を攻め滅ぼします。
後で述べます。

※ちなみにこの本の著者斎木雲州先生は 富家の末裔の方です。
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正面奥の丘が用明陵です。駐車場のバイクはわが愛車です。
このあたりは道が狭く 駐車スペースも無い為 バイクでしか行けません。
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駐車場を左に行くと 陵が見えてきます。
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正面です。この日はたまたま宮内庁職員の方が清掃と剪定をされていました。
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宮内庁の看板です。
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石碑名盤が建ててありますが これも最近の物でしょう。
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背後の岡の雑木は 伐採できないものなのでしょうか。もともとの古墳には木など生えていなかったのに。
出雲の古墳は ほとんどが当初の姿に復元されていますが。頭の固い宮内庁は 
なにか特別のルールでもあるのでしょう。
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敏達(びだつ)大王陵
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欽明大王と石姫との間の皇子が太玉敷皇子です。
石姫は宣下大王と橘仲姫(息長家)の皇女ですので 太玉敷皇子は出雲王家の血とともに朝鮮人卑矛
(ひぼこ)の血もひいています。

太玉敷皇子は11歳で父広庭大王(欽明)のあと大王に就任し敏達となります。
そして15歳になると 母の里の息長家から広姫を迎えて皇后とします。

額田部の皇女は太玉敷皇子の后になりたかったので 広姫を大いに恨んだといわれます。

これで大王家はますます朝鮮系の血が濃くなります。

広姫は長男息長彦人大兄(田村王、のちの舒明大王の父)を産み さらに長女橘姫
(後の尾治大王おわりおおきみ の皇后)を生みます。

そして磯津貝姫を産んだ後 何故か急死されます。

その直後に額田部皇女が后となり 竹田皇子(後に暗殺されます)、尾張皇子(後の尾治大王)を産みます。

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敏達大王は仏教を好まず 読書を好んだといわれます。
そして585年8月に病没されます。即位が572年なので13年の治世です。

11歳で即位して24歳で亡くなられた 非常に短命の方です。
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敏達陵はとても分かりにくい場所でした。同じ場所を何回もグルグル回りました。案内看板が
とても分かりづらく、たまたま散歩中の叔父さんに尋ねると「ああ、敏達さんはねえ」と教えてくださいました。
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畑の中を歩いていきます。
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やがて正面に陵が見えてきました。
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広い陵ですがここも雑木に覆われていました。
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宮内庁の看板ですが 別におかしな事は見当たりません。宮内庁の看板には時々間違いを書いていますが。
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太子町 2-2へ続く
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コメント
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