アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

ヒミコについてのまとめ モモソ姫 その2 「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」 

2021-05-29 09:55:14 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

モモソ姫 その2

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親戚である出雲王家が 突然卑ボコ子孫勢に吉備、播磨を占領され、出雲王家の救援要請に

動かなかったくせに、フトニ大王は今度は突然吉備播磨に攻め入り、卑ボコ子孫勢を追い出して 

自分がその後釜に座りました。フトニ大王は それほど吉備の鉄が欲しかったのでしょうか。

それとも物部の東征情報を聞いて ヤマトから逃げ出したのでしょうか。

多分後者だと思われますが。

鉄が欲しいだけでは 大王自ら出陣しないとおもいますが。

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「真がね吹く」が吉備の枕詞になったのはそこで良質の鉄が取れて 盛んに野踏鞴(のだたら)で鉄が生産されたからです。

ちなみに「かね」とは出雲族の祖先ドラビダ族の言葉のドラビダ語で鉄を現し、「たたら」

とはドラビダ語で激しく燃える炎を現すそうです。また出雲国教幸ノ神三神のうち 皇子神の

サルタ彦大神のサルタとはドラビダ語で「鼻が長い、鼻が大きい」意味で つまりインドの

象神「ガネーシャ」のことです。

時代が下ると猿田彦と表現されますが 猿の神ではありません。

また鼻が大きいので 男性器の象徴とされ、子孫繁栄の生殖の神とされました。

建御名方(古代出雲王朝第八代副王八重波津身ー記紀では事代主と変えられたーと沼川姫との皇子)

が開拓した信濃諏訪地方では サルタヒコは子孫繁栄の生殖の神、夫婦和合の神とされ 今も道祖神として 

たくさん残っています。

※「諏訪地方を開拓した出雲族」については このブログの2019年12月21日の記事をご覧ください。

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信州白馬村の田頭という場所の手握り夫婦神像です。
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こちらは出雲王朝第六代大名持の臣津野を祀る、出雲市長浜神社の幸ノ神三つ鳥居の手握り夫婦神像です。

上の白馬村の手握り夫婦神像とそっくりですね。
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こちらは白馬村佐野中村という場所の祝言夫婦像です。
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こちらが 白馬村の道祖神です。
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石像は手を取り合っているように見えます。つまり手握り夫婦神像です。
それと直立した男根をもつ木の像がいくつか 奉納されていました。
これはまさしく猿田彦ですね。
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ということで 信濃の国には出雲族の風習文化が 色濃く残っていることを説明しました。

そのほかにも御柱の共通点とか、詳しくはこのブログの2019年12月21日の記事をご覧ください。
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そのころ九州物部王家は物部五瀬(いつせ)を大将として 第一次東征を決行し 紀ノ川河口から大和入り

しようとしますが 高倉下(たかくらじー徐福の長男五十猛と出雲王家大屋姫との皇子で初代ヤマト大王天の村雲の

腹違いの弟、)の子孫の豪族 名草の戸畔(なぐさのとべ)に撃退されて五瀬は戦死します。

 

五瀬の弟の物部稲飯、三毛入りたちは 熊野へ転進し 熊野川沿いに大和入りしようとしますが

磯城家の兵隊のゲリラ戦法で身動きが取れず 物部の大軍は熊野川の中州に留まり続けます。

その地が後に 熊野本宮大社になります。(今の場所ではなくて 明治の大水害で流された大斎原(おおゆのはら)です)

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竈山神社   五瀬は和歌山の竈山神社に祀られて その訪問記は2015年9月8日に載せています。

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大斎原 熊野川河口近くにあり かつてこの地に熊野本宮大社がありましたが

明治の大洪水で流失し、今は鳥居だけが建てられています。

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困り果てた稲飯と三毛入りは ひそかに登美家へ使者を送り大和へ 物部軍をひそかに案内してくれるように頼みます。

登美家当主の賀茂建津之身(かもたてつのみ)は戦乱の続く大和を物部とともに平定しようと考えて 物部軍を案内して

熊野川沿いに北上、磐余(いわれ)の地(登美家の領地)に案内します。これが第一次東征で 物部軍は加茂建津之身に大いに

感謝して彼を「八咫烏(やたがらすー支那の神話に出てくる太陽の中に住むカラス)」と呼び 各地に八咫烏神社を建てます。

※記紀の制作者は三毛入りと稲飯のどちらが物部軍の大将か分からないので 物部ウマシマジなる人物を作り上げて

そいつを磐余彦と名付けました。そして初代大和の大王「天の村雲」を消してその磐余彦と名付けられた

物部ウマシマジを初代大和の大王、神武大王としました。

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浜王子神社 説明看板を読むと 物部三毛入りと稲飯の二人を祀っています。

記紀では絶対に出てこない名前の二人です。

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八咫烏神社 奈良県宇陀市榛原

登美家当主 加茂建津之身に感謝した物部軍は各地に八咫烏神社を建てました。

これはその一つです。

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ヤタガラス神社の由緒書きです。


熊野に上陸した九州物部軍を磐余の地へ導いた、加茂建津之身(賀茂建角身)を祀っているとかかれています。


そして賀茂建角身は山代の加茂族の祖と書いてある。かなり正確です。

まあ記紀に迎合したところは 少しあるが、神社の由緒書きの中ではかなり上出来のほうです。
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記紀制作者たちにとり、困ったことに古代出雲王朝の存在を「なかったことに」しなくては 大王家が

万世一系の王朝とはならないのです。

記紀編纂者は不比等の指示で 前後100年近く離れた2回にわたる物部の東征を一つにまとめて神武東征

としました。そしてその東征を古代出雲王朝の最初の紀元前5世紀までさかのぼらせたので 数百年も

歴史が引き延ばされました。そのために 大王の在位期間が200年近い人が何人も出てきました。

そして足りない大王を補うために 九州を一度も出たことのないイニエ王(第二次東征を始めた九州物部の王)を

大和の大王にしてしまい ご丁寧にのちに贈り名を崇神とつけてしまい、ついでに嘘の上塗りで ヤマトにたくさんある

登美家の墓の一つを崇神陵としてしまいました。

また三韓征伐で有名な息長帯比売(神功皇后)の家来の豊前中津彦を 大王に格上げして大王を増やしました。

後の贈り名は仲哀です。そうしないとつじつまがあわないからです。一度嘘をつき始めると 嘘を嘘で上塗りしないと

自分で自分の首を絞めることになるのです。宮内庁の存在も記紀の内容そのものに 基づいているので

そうしないといけないのです。

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しかし三韓征伐の第一の立役者の日向襲津彦大王を記紀では大王にしていません。大王が足りないのに。

記紀では 魏書を読んだ和国民に 息長帯比売ー神功皇后を「ひみこ」と思わせるために 立役者の

襲津彦大王の存在を消して 息長姫が一人で活躍したように見せかけたのかもしれません。

私個人の考えですが。不比等のような陰険なやつは何を考えていたか分かりませんが。

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伯耆の国で出雲王国軍と戦争をしていた磯城王朝のフトニ大王はこの時点で ヤマトの大王ではなくなり

伯耆の国の王となりました。フトニ王軍と出雲王国軍とは自然に休戦状態になり、フトニ王は

皇后の細(くわし)姫を追い出して 地元の愛人と余生を送ります。

彼が住んだ土地の山は のちに彼の贈り名をとり 孝霊山と名付けられました。

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孝霊山山頂から弓ヶ浜半島の先に美保関がみえます。事代主の后の一人沼川姫が住まれたところです。

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高杉神社の「ウワナリ打ち神事」斉木雲州先生の「古事記の編集室より」

フトニ王亡き後このあたりで大飢饉が発生したそうです。人々はこれはてっきり フトニ王が

地元の愛人におぼれて追い出した本妻の細姫(くわしひめ)の祟りだと言って、付近に住む後家さんたちを集めて

棒で叩いて 細姫の恨みを晴らしたところ 飢饉は収まったそうで 以後毎年これを高杉神社の神事として

行うようになったということだそうです。「ウワナリ」とはこの地方で 後妻さんという意味だそうです。

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※孝霊山登山記録はホームページの「その他の山」からはいり「アウトドア日記」の2016年

11月22日の記録に載せています。

愛人と住んだその住居跡に建てられたのが 高杉神社です。2016年11月22日の記事に載せています。

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磐余の地に落ち着いた物部は態度を豹変させて 登美家や尾張家を迫害し始めます。

さすが秦国人徐福の血を引く 恩知らずの集団ですね。

伯耆の国へ去ったフトニ大王(のちの贈り名は孝霊)には 細姫以外に別の姫との間にクニクル皇子がいて 

クニクルが磯城王朝の第八代大王になります。

クニクル(のちの贈り名は孝元)は登美家のクニアレ姫との間に 大彦皇子、モモソ姫をもうけ、

物部の姫(ウツシコメ姫)をも迎え入れて その姫との間には 大日々皇子がいました。

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クニアレ姫は登美山の登美の霊畤で太陽の女神を祀る姫巫女でした。その娘のモモソ姫も信仰心厚く

クニアレ姫に続いて登美の霊畤の姫巫女に推挙されます。姫巫女は登美家か磯城家の姫しかなれませんでした。

モモソ姫の兄の大彦は 徹底した物部嫌いで 最後まで物部と戦い続けました。

戦闘の神「フツの御霊」を祀る物部と 銅鐸を吊り 農耕神を祀る大王家や尾張家との宗教戦争でした。

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モモソ姫 その3へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲秀先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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ヒミコについてのまとめ モモソ姫 その1 「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」 

2021-05-27 10:05:16 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

第一のヒミコ モモソ姫 その1

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支那の歴史書には「ヒミコ」なる人物が 何人か登場します。

しかし記紀では徹底して ヒミコを無視しています。

記紀を書かせた持統女帝や時の最高権力者の不比等らの祖先について 支那の歴史書には

都合の悪いことが書かれているのでしょう。

それらのヒミコについてや、時の権力者にとって 都合の悪いことをまとめていきたいと思います。

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そもそもヒミコとはなんでしょう。

もともと支那人は中華思想におぼれているので(今でもそうですが)支那の周りの国や、

民族を人間扱いしていなかったようです。

卑字、蔑字(卑しんだり蔑んだりする表現の文字)を使ったり、動物の字を当てたりします。

鮮卑、匈奴など汚い表現が凄すぎますね。和国や和人なども卑字で表現されています。

その点朝鮮人は偉かったですね。支那人が蔑んだ名前を付ける前に自分たちの国は「朝鮮」つまり

朝日の当たる鮮やかな国だと 支那人に伝えたから 卑字で呼ばれることがなかったのです。

もちろん我が国の「ヒミコ」も卑字蔑字で書かれています。

 

いまだにその卑字をありがたがって使っている馬鹿な歴史学者がたくさんいます。

あいつらに日本人としての誇りはないのでしょうか。

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江戸幕府に朝鮮通商使節が訪ねてきたときに 将軍あての親書に 和国の文字に卑字が

使われていたので 幕府が怒り親書を投げつけて返し 書き直させたという逸話もあります。

昔の人は日本に誇りを持っていたのに いまだに卑字蔑字をありがたがっているなんて

どうかしてますね。いまでも支那人に遠慮しているのでしょうか。

それとも日本人が支那人に馬鹿にされているのに気が付いていない 大馬鹿なんでしょうね。

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こんなものを並べてはいけません。私は馬鹿ですと言っているのと同じです。

内容は正しいです。桜井市は昔は大和の大豪族で、出雲王家の分家の登美家の地盤でした。

ヒミコの活躍した 鳥見山(登美山)や三輪山があり ヒミコの祭礼やヒミコの司祭する大祭に参集した

各地の豪族たちの宿舎のあった巻向もあり、登美家や大王家の古墳もたくさんあり、まさに古代史の舞台でした。

しかし支那人が日本人を馬鹿にして蔑んだこんな卑字をいまだにありがたがった使っているなんて馬鹿丸出しです。

はやく撤去しましょう。良識ある日本人として 気分悪いから。

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支那人は自分たちの周りの国の人間は みな野蛮人と思っていました。

野蛮な国の名や野蛮人の名前なぞ適当に表記したり、卑字蔑字や動物の文字を当てはめました。

ヤマトの磯城王朝第六代大王国押人(くにおしひとー後の贈り名は孝安)は107年に後漢の安帝に

自ら朝献に行っていますが(記紀では隠しています。大和国の代表として大王が 支那の皇帝に臣下の礼を取ったのが

許せなかったのでしょうが、歴史的事実で支那の歴史書に書いてあります) 支那人は彼の6文字の内2字だけ表記して

「師飛しひ」と記録しました。

おまけに ご丁寧に 役人が転記するとき写し間違うて「師升」となっています。

省略するわ、名前を間違えるわ 要は支那人以外はヒトと思っていないからいい加減なのです。

そのほか魏に出掛けて行った 物部豊連合王国の使節の田道間守(たじまもり)、八坂入り彦(やさ

かいりひこ)、武内の宿祢(たけしうちのすくね)、イクメ王(幼名をイサチ、後の贈り名を垂仁)

などまともに記録されている人はいません。

すべて省略した上に間違えて記録されています。日本人みたいな野蛮人の名前なんて

どうだっていいのです。卑字蔑字で適当に表現すれば。

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話は初めに戻りますが ヒミコとは姫皇女 もしくは姫巫女なのです。つまり「ひめみこ」

なのです。

後漢や魏に直接出向いた和人から聞いた人の名や身分の名前を 適当に省略して記録したのでしょう。

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それでは 姫巫女とはなんでしょうか。

今の桜井市の鳥見山(とみやま)は ヤマトの磯城王朝当時では 登美山(とびやま)と呼ばれて

その山頂は 登美の霊畤(とびのれいじ)と呼ばれる祀りの広場でありました。

登美家は当時のヤマトの大豪族で出雲王家の分家です。

 

登美の霊畤と呼ばれる祀りの広場からは 三輪山に祀られている 太陽の女神(出雲王国国教の

幸ノ神三神の母神、佐比賣の命(さひめのみこと))を遥拝する大切な場所であり、春と秋の大祭に

は 大和はおろか遠方から地方の豪族たちが集まり 大祭に参加しました。

それが祭政一致と呼ばれるものです。

 

その祭りの司祭者は 出雲系の登美家の姫が選ばれて 姫巫女(ひめみこ)と呼ばれていました。

支那人はこの「ひめみこ」を省略して「ひみこ」としたのでしょう。

 

※このブログでは ヒミコ、ひみこ、和国、和人と表記しています。

支那人が書いた 日本人を蔑んだ 蔑字卑字は気分が悪いので つかいません。

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登美の霊畤の入り口です。等彌神社境内から登ります。この神社も昔は富神社 もしくは

登美神社と言ったのでしょう。かつて登美家の地盤だった桜井市には「とび」という地名があちこちにありますが

みな字が違います。「外」という地名も「とび」と発音します。

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しばらく登るとこの広場に出ます。ここか゛登美の霊畤です。

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今は雑木の間から三輪山が見えますが 昔はもっとすっきりと見えたのでしょう。

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※登美の霊畤訪問記は 2015年12月26日の記事です。

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話は初めに戻りますが 三国志、魏書、和人の項に出てくる「ヒミコ」が第一のヒミコで

「モモソ姫」です。

「その女が女王に立つと長かった和国の戦乱が収まり、平和が訪れた」と書かれた第一のヒミコです。

 

モモソ姫が姫巫女になる前は 和国は戦乱が続いていました。

後漢書東夷伝によると「後漢桓帝、霊帝の頃(146~189)は和国は大いに乱れて定まった王が

いなかった」と書かれています。もちろん記紀はひた隠しにしています。

だって万世一系の嘘を押し通していますから。

神武なる架空の大王が天上から降りて来て、九州から大和へ東征して以来和国には争いごとは

全くなかったことにしていますから。

戦いに敗れて ヤマトから逃げた大王も 新しい大王が 地方に派遣した将軍ということにされた大王が何人もいます。

 

実際に何度もあった血で血を洗う政権交代なんて 決してあってはならないのです。

それに自分たちが 渡来人の征服王朝だなんて、絶対に隠しておかなければなりません。

自分たちは天から降りてきた人たちの子孫なのです。つまり天上の神様の子孫なのです。

日本最古の出雲王朝は 戦争で倒したのではありません。

出雲王家から国を譲ってもらったのですから。

そういう事にしとかないと 渡来人の征服王朝のいう事なんて 国民は誰も言うことを聞きませんよね。

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その当時の和国大乱の争いは主に三つあります。

1.大和内部の豪族たちの争い

2.播磨、吉備に侵入した朝鮮人卑ボコの子孫たちと出雲王国の争い。

 そして続いて播磨吉備に侵入したフトニ大王とその皇子の吉備津彦たちと 出雲王国とのし烈な戦争

 (出雲王国では第一次出雲戦争と記録されています)

3.九州物部王国の第一次東征による大和入りとその後のヤマト内の内乱

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1.まず大和国内の豪族たちの争いについて

記紀では 大王家が大和全体および和国全体を掌握していたように見せかけていますが

実際に大王家が強力だったのは 3代目までで(天の村雲(徐福と出雲高照姫との間の長男五十猛と徐福と

宗像家市杵嶋姫との間の長女穂屋姫との間に生まれた皇子ですが 記紀では架空の大王神武にすり替えられました)、

沼川耳(ぬなかわみみ、のちの贈り名をスイゼイー天の村雲と出雲王家踏鞴五十鈴姫との皇子)、玉手看(たまてみ、

のちの贈り名を安寧 沼川耳と登美家五十鈴依姫との皇子)まで)で 4代目(スキトモ、のちの贈り名をイトク

ー玉手看と出雲王家沼底中姫との皇子)以降は力が衰えて、大和は主に三家の豪族が覇権を争う状況になっていました。

大王家の磯城家、出雲系の登美家、それに天の村雲の出身母体の尾張家です。

 

尾張家は徐福の長男五十猛の子孫を中心とした家系で 奈良県葛城市の高尾張村が地盤だった

ことから尾張家と呼ばれました。

のちにイクメ王に追われて東海地方に逃げたので 東海地方が 尾張の地名になりました。

 

※ちなみに大王を天皇と呼ぶのは天武からで このころは大王(おおきみ)です。

大王の名前を漢字二文字に書き換えたのは 右大臣不比等が大友皇子の曾孫、近江淡海を文書博士

に任命して書き換えさせたものです。

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2.播磨、吉備の戦争について

1世紀後半に渡来した朝鮮人卑ボコ(辰韓の王子)の子孫たち(以後卑ボコ子孫勢という)は 150年

頃丹波で豪族になっていました。そして突如播磨へ侵攻します。

そこは出雲王国の領土でしたが突然の侵攻に大した反撃もできないまま播磨は卑ボコ子孫勢に

乗っ取られてしまいます。出雲王家は親戚の磯城家に援軍を頼みますがフトニ大王は動きません

でした。

出雲とヤマトはその中央で 卑ボコ子孫勢により、分断されました。

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160年ごろフトニ大王は皇子の吉備津彦、若武吉備津彦を 突然播磨に出兵させて卑ボコ子孫勢

を打ち破り淡路島へ追いやります。

そしてフトニ大王も自ら出陣して吉備から伯耆へ侵攻し、出雲軍と戦争になります。

出雲王家にとり、親戚の磯城家の突然の侵攻にあわてた出雲王家は 必死に反撃し、

激しい戦争になり双方におびただしい戦死者が出たと言われます。第一次出雲戦争です。

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楽々福(ささふく)神社神門です。

この神社は吉備津彦、若武吉備津彦の兄弟と その母親の細姫(くわしひめ)

が住んだ住居跡に建てられました。フトニ王(もうこの時点では物部軍が大和の磐余に入り

フトニ大王は 大王ではなくなりました)は地元の若い美人と孝霊山の麓に住み奥方の細姫を

追い出したので 細姫は息子たちとここに住んだのです。

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楽々福神社拝殿と 左奥に本殿です。

本殿は千木は出雲仕切り縦削ぎですが 造りは出雲式の大社造りではなく

桁行方向に柱が4本立っていました。近寄れなかったのでよく観察できませんでした。

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楽楽福神社から国道183号線を南へ行くと 島根県奥出雲町横田へ行く道があります。


フトニ王の吉備王国軍は この道を奥出雲へ怒涛のように侵入したといわれます。
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ここの分岐は船通山へ向かう道です。

徐福が大勢の海童を連れて 秦国から大型船で石見の五十猛海岸へ上陸したことは 

出雲王国民なら皆が知っていました。しかし徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の

果安たちは 物部第二次東征で.出雲王国軍の手薄な場所を熟知していて 物部軍が出雲へ侵入す

るのを助けて出雲王国が負けるのに大いに貢献しました。この時の激戦で 出雲王国の大切な霊畤(祀りの式場)

の田和山神殿が破壊され、西、東の出雲王家は降伏し、五百年以上続いた和国最初の王朝は 秦国人徐福の

末裔の渡来人集団、物部王家により倒されたのです。出雲王家に記録されている第二次出雲戦争です。

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物部王家第二次東征で 物部軍を手引きして 大活躍したと自負していた果安は イクメ大王に直談判して 

出雲国造が物部十千根に決まっていたのをひっくり返して出雲国造にしてもらいました。

そして記紀制作時、神武東征を出雲王国の初期にまでさかのぼらせたり、出雲戦争を隠して国譲りの話に

置き換えさせたのもみな果安らの仕組んだことだと言われます。

素戔嗚(徐福)が船通山に天から降りてきたと記紀にかかせたのも 果安です。

このため 徐福が五十猛海岸に上陸したことを知っている出雲王国民は 徐福が空からこの山に

下りてきたという話を聞いて あきれて「ほんなら 徐福は船に乗って この山に下りてきたのだべ」

と冷ややかにこの山を船通山と名付けたといわれます。

 

※徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫が今の出雲大社の宮司です。

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この道をこのまま進むと奥出雲、横田、三成、木次など奥出雲タタラ製鉄の中心部です。

そこから更にもう少し行くと出雲王国南部に出て 西出雲王家神門臣家、東出雲王家向家

などの 出雲王国の心臓部です。


出雲軍が必死に反撃に出たのも分かります。

このあたりで死闘が繰り広げられて双方に沢山の死者が出たと伝えられます。
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モモソ姫 その2へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲秀先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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ツツジ満開の大和葛城山 その2 2021年5月11日

2021-05-27 10:03:40 | ダイトレ、紀泉山脈を歩く

ツツジの大和葛城山 その2

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カタクリの花はすでに枯れていて

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実をつけているのもありました。

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これも実ですね。

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しばらく歩いてダイトレに出て 山頂方面へ戻ります。

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キャンプ場のわきを通り

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山頂到着です。

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「危ないから登るな」と書いてあるのに、わざわざ上るやつの頭の中はどうなっているのでしょうか。

理解不能です。

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すぐ南隣の金剛山は 黄砂で霞んでいます。

真ん中が葛木岳で その左が湧出岳です。大日岳は葛木岳の手前に重なっています。

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中央奥が我が家の裏山の岩湧山ですが、黄砂で霞んでいるため 望遠で写してコントラストを増大させて

やっと姿が浮かんできました。

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ツツジ広場のほうへ向かいます。

毎年この時期には猿回しが来て観光客を楽しませています。ということは今年はゴンドラがうごいているのですね。

道理で 登山着姿の人よりも 普段着姿の人が多いはずです。

 

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ツツジが見えてきました。

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黄砂のせいなのか 今年は鮮やかさが少ないように思います。

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ツツジを見ながらダイトレを降りていきます。

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下まで降りてきました。

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先ほどまで見下ろしていた山頂を見上げます。

なんか鮮やかさが少ないような気がするけどなあ。

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ツツジの下にも何本かカタクリが咲いているのですが、今年はもう終わっていて

実を着けていました。

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ハンググライダー広場へ寄ってみると大和盆地は数んでいて 正面の高見山は全然見えません。

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ダイトレを駆け降ります。背中のリュックはお昼ご飯とデザートを食べたせいで

17㌔からいつもの15㌔に減り、軽快です。

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額空木があちこちで咲いていました。

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正面の大日岳も霞んでいます。ここまで降りたらもうすぐ水越峠です。

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ここに出ます。あとは 旧国道を歩いて駐車場へ戻ります。

旧国道は6年前の台風で崩れてこの峠で奈良県へは通行止めのままです。下の大阪府へは行けます。

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「ダイトレ、紀泉山脈を歩く」トップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kongodaitore/index.html

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ツツジ満開の大和葛城山 その1 2021年5月11日

2021-05-18 22:00:44 | ダイトレ、紀泉山脈を歩く

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大和葛城山のつつじ その1

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駐車場がスタートアンドゴールです。

往路は天狗谷道で復路はダイヤモンドトレイルです。

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山頂とツツジを見る前に自然探索路を歩きました。

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スタートは10時半で帰着は5時まえでした。お昼休みが1時間なので歩行時間は5時間半でした。

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水越川公共駐車場に行きましたが満車だったので 一番端に留めました。

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歩き出してふと見ると 駐車場入り口はバリケードで閉鎖されていました。武漢ウイルスの緊急事態宣言が

出ているから閉鎖されたのです。しかし誰かがバリケードをずらして止めたらみんなが真似して車があふれていました。

私も真似をしてしまいました。ごめんなさい。

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国道309号線の旧道は下の分岐点から上の水越峠バス停までびっしりと片側が駐車車両で

塞がっていました。おそろしいことです。何が緊急事態なのでしょうか。

まあ私は地元なので許してもらえるとしても、ほとんどがよそ者ナンバーです。

たまに和泉ナンバーがあるくらいで、ほとんどが大阪、なにわ、堺で中には京都、岐阜、神戸、

和歌山、滋賀なんてのもありました。地元民としては複雑ですね。

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藤の花満開の道を歩きます。

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道の両サイドに姫女苑が満開です。

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天狗谷道は5,6年前の台風でずたずたになりましたが う回路がすっかり踏み固められました。

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川筋の道も踏み跡がしっかりしています。

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紀泉ダイトレで唯一の鎖場を過ぎます。ここは昔のままです。

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沢筋を離れて 丸太階段の急登は昔の儘の道です。

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急登を終えて尾根道に出ても 山頂はあのピークのまだ向こうです。

歩き出して1時間半です。

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山頂直下で分岐して 先に自然探索路へ入ります。

カタクリが少しでも残っていたらいいのですが。

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ここは2年前の台風で 倒木が道を塞いでいて私が倒木を一人でギコギコ切っていたら

通りかかったおじさん連中が4人ほどで手分けして手伝ってくれて あっという間に6本近い倒木が

取り除けました。今もその時のままです。

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白花猩猩袴はもう花びらを落としていました。

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珍しく上向きの奴もいました。

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稚児百合や

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雪笹が咲き始めていましたが、肝心のカタクリは

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その2へ続く

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岩湧の森の欄を見に千石谷へ 2021年41月28日

2021-05-18 22:00:31 | 岩湧の森の四季の風景

千石谷へ海老根を見に行きました。きれいに咲き始めていました。

帰りは初めての「リンドウ尾根道」を登りました。

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歩いた記録です。岩湧寺前にバイクを止めて歩き出しました。

いわわきの道から千石谷林道へ下りて 帰路は初めてのリンドウ尾根道を登り返しました。

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岩湧山を2回登った感じです。

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海老根は咲き始めていました。

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きれいですね。

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花のアップです。

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この前は一輪草は見当たりませんでしたが 今回は二つ三つ咲いていました。

以前は一面に真っ白になるほど咲いていましたが 年々減り続けています。

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羅生門カズラも咲いていました。

渡辺の綱が羅生門で切り落とした鬼の女の腕ににているという恐ろしい花です。

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雪笹が咲き始めました。本格的な春の季節で きれいですね。

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リンドウ尾根道のいたるところで稚児百合も咲いていました。

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丸太を打ち込んだ堰堤の向かって左横から リンドウ尾根道は登ります。

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マルク囲んだ木に標識があります。Nishiharさんの仕事です。

山仕事の連中が外しませんように。

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私は初めてで 道に迷ったり枝打ちが忙しく、テープもかなり頻繁にぶら下げたので

2時間弱かかりました。

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最初の内は道はよいのですが 時々ヘアピンUターンするので そのまままっすぐ行くと

行き止まりになります。ジグザグUターンのポイントに注意してください。テープを見ていればわかります。

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ここが一番の難所でした。倒木の下をくぐります。

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Nishiharさんが取り付けた標識です。かなり上のほうにありました。

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上のほうはもう道や踏み跡 は不明瞭で テープを頼りに登ります。

私もかなり頻繁にテープを付けました。

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前方が明るくなれもう山頂間近です。一気に直登です。

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山頂広場のこの標識の左下の作業道に出ました。

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下山して岩湧寺に行くと 石楠花が満開でした。

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海老根は無事でしたが、小恵欄の盗掘はとても残念でした。

窃盗団に気が付かれないように海老根周辺を枯れ木の枝で隠しました。

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