アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 夕陽を拝む 日御碕神社  その2 2020年9月10日

2020-10-27 11:01:01 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

夕陽を拝む 日御碕神社  その2

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西側のきれいな回廊を出ると

 

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こちらにも小さいけれど 立派なお社がありました。

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近寄ると「宗像神社」とあり、田心姫(たごりひめ)が祭神でした。

田心姫は出雲王朝第七代主王の雨の冬衣に嫁がれた九州の宗像家の三姉妹の長女の方です。

そして田心姫が生まれた高照姫が徐福に嫁がれて 五十猛を御生みになったのです。

 

宗像家は 出雲王家第六代主王の臣津野(おみつぬー国引き王として有名です)の皇子の吾田片隅が九州へ移住して

開かれた出雲王家の分家です。

ちなみに宗像三姉妹の次女の多岐津姫は第八代主王八千矛(徐福に幽閉殺害されました)に嫁がれました。

徐福がいったん申告へ帰国して始皇帝から更なる資金と多数の海童たちをもらい 二度目に佐賀の浮盃に

上陸したあと 宗像家からめとった姫が末娘の市杵嶋姫(いちきしまひめ)で市杵嶋姫は 徐福の次男

穂穂出見 と長女穂屋姫を御生みになりました。

 

穂穂出見が九州物部家を興しその子孫が二度にわた之東征して 大和王家を倒すのです。

穂屋姫は徐福の長男五十猛と結婚し天の村雲を御生みになり天の村雲が 初代大和王家の王となるのですが

徐福の次男の子孫の東征で倒されるのです。おとぎ話の海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩のモデルです。

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ということで 日置王が豊富な財力で建設した神社は 徳川幕府により跡形もなく作り替えられ

家康を祀る日光東照宮のようなキラキラしたものになり 個人的には好きになれませんでしたが

観光客が誰も見ようとしない ひっそりとした韓国神社や宗像神社にこそ 出雲王家の痕跡が

残されていて ここを訪ねた甲斐がありました。

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神社を西へ出て歩くと すぐに日御碕漁港があり

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すぐ右手に経島(ふみしま)がありました。日沈みの宮はもともとこちらにあったとされています。

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帰路に県道を走っていると遠くに砂浜が見えてきました。

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徐福やその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社の宮司の祖先)立により 日御碕神社のもう少し東側の

日本海に面した「猪目洞窟(いなめどうくつ)」で幽閉殺害された後 不比等らによる記紀では

この稲佐の浜で 大国主(八千矛王)は国譲りをした後 小舟をひっくり返してその中へ

御隠れになりました。と殺害を隠された砂浜です。

 

またこの砂浜は 毎年神在月(出雲以外では神無月)に全国の神々がこの砂浜に上陸されて

出雲大社へ向かわれるという作り話も作られました。

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初代日御碕神社を建てられた日置王について

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推古女帝の兄「用明大王」と推古の姫皇女「貝蛸(かいたこ)姫皇女」との間に生まれた皇子は

二人で 長男が財王(たからおう) 次男が日置王です。

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日御碕神社は 御食炊屋姫(みけかしきやひめ)大王(推古)の指示で出雲の国に配属された日置王が

推古女帝の希望に沿い 建設したものです。

 

フトタマジキ大王(敏達)の指示で設立された 日奉部(ひまつりべ)は太陽信仰の部署です。

古代出雲王家やその大和分家の登美家、磯城家は三輪山で太陽の女神を信仰しました。

それは日の出を拝むものでした。それに対して日奉部は夕陽を拝むとされています。

 

日置王はその日奉部を敏達、推古から受け継ぎ 日奉王と称していました。

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一方出雲では 広庭大王(欽明)の時代に広庭大王により 日置の伴部(へきのともべ)らが派遣されて

出雲の王家の谷に広庭大王の指示で 旧東出雲王家神門臣家のために次々と巨大古墳が増築されました。

広庭の父君が男大迹(おほど)大王(継体)で この方は東出雲王家の男大迹の君ですから、当たり前のことですけど。

 

※その辺のことはこのブログの男大迹大王を越前に尋ねる旅(2018年4月5日)を見てください。

※また日置王や財王が出雲に配属された理由などはこのブログの2019年3月19日の記事をお読みください。

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日奉王が出雲に配属されたころは すでに日置の伴部らが方四隅突出墓をたくさん作っていました。

日置氏はもともと朝鮮系の氏族です。その頃都では朝鮮系の息長氏(おきなが)系の勢いが次第に

強力になっていました。そこで日奉王は 朝鮮系の迫害を避けるために 日置の名を継いで

日置王と名乗るようになりました。

日御碕神社の完成を聞いて 額田部大王(推古)は大そう喜ばれたそうです。
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この写真は出雲市の斎谷に多数築かれた 出雲西王家神門臣家の王家の墓 四隅突出墳丘墓の一つです。
日置王は ご自分で造営された 上塩冶築山古墳に葬られました。
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これがその日置王の古墳から発掘された品々です。このほか黄金の太刀や多数のブレスレットとネックレスもあります。

当時勾玉やネックレスなどの装飾品は王族しか身に付けることを許されませんでした。

「出雲弥生の森博物館」見学記はこのブログの 2014年6月18日の記事にあります。
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これが復元された日置王の写真です。博物館のパンフに載せてあります。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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※このブログの内容は 大元出版の斉木雲州先生他すべての本の内容によりました。

また先生のご了解は頂いております。

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古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 夕陽を拝む 日御碕神社  その1 2020年9月10日

2020-10-24 09:57:06 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

夕陽を拝む 日御碕神社  その1 

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日御碕神社は 出雲大社の北、島根半島の西端にあります。

その地は 日本海に沈む夕陽を拝むのに適した場所です。

この地に夕陽を拝む「日御碕神社」を建てたのは 日置王です。

日置王は上の宮法王(いわゆる聖徳太子)の皇子です。

このあたりの事情は後ほど詳しく説明します。

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出雲市から県道を車で走ると やがて山間に神社の建物群がみえてきます。

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大きな石の鳥居をくぐります。

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いきなり主祭神が大きく書かれた看板がお出迎えです。

天照大神は太陽の女神で 古代出雲王家の「佐比賣の命」が大和王朝でアマテラスと書き換えられたもので

太陽の女神を祀るのはわかるのですが なぜ素戔嗚つまり徐福なのでしょうか。

徐福が紀元前3世紀末に五十猛海岸へやってきて 出雲王家の主王ほ八千矛や副王八重波津身を

あいついで幽閉殺害して、自分が出雲王国の王になろうとして、街道たちを出雲国内で

大暴れさせた大事件はまだこのころ(推古帝)は都の貴族たちも記憶していたと思いますが。

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説明看板によれば この神社全体が 徳川幕府により 全面的に建て替えられていて

その時に主祭神が替えられたか 追加されたかしたのではないでしょうか。

この地方を支配していた 尼子氏が毛利に敗れ、毛利が秀吉に下りさらに徳川になった初めのころ

ですから もうこの地でも徐福の悪行に対する嫌悪感がかなりうすれていたのでしょう。

徐福を祀ることで 喜ぶのは出雲大社の宮司の家系だけですから。

だって出雲大社宮司は矛卑(ほひー徐福の忠実な部下で徐福とともに出雲国内で暴れた)の子孫ですから。

 

ちなみに全国の天皇陵なるものも 今の姿が初めからあったわけではなく、徳川後期の公武合体以後

徳川が巨額の費用を出して ほとんどの天皇陵を作り替えています。

ついでに実在しない天皇の陵を造ったりやりたい放題ですが。

 

※架空の大王や皇子の神武、ヤマトタケルの陵、九州から出たことのないイニエ王(崇神)の陵

モモソ姫と大和姫という時代の全く違う二人の姫皇女(いわゆるヒミコ)をくっつけて一つの陵としたり。

なんのこっちゃといいたいですね。

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立派な神門です。

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神門をくぐり境内に入ります。

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正面が「日沈みの宮」です。アマテラスが祀られていますが 朝日の方向を向いています。

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拝殿です。なんかきらびやかですね。

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内部もきらびやかです。

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こちらは本殿を真横から見たところです。境内はすべて「権現造り」なので、本殿も

大社造りとは似ても似つかない建物になっています。左の拝殿との間に別の建物が挟まれています。

「石の間」と呼ぶ建物でしょうか。

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こちらは神の宮で、夕日の沈む方向を向いて建てられています。

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神の宮拝殿です。

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拝殿内部で先ほどの 日沈みの宮の拝殿と似ています。

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左が本殿で右の拝殿より少し大きいようです。

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神の宮から日沈みの宮を見ると ちょうどその奥に夕陽が見えました。

ということで これらの建物はすべて権現造りと呼ばれる建物で 徳川幕府が日光東照宮を作った

大工たちを連れてきて 造営したものでしょう。

私個人的には 出雲の風土になじまないなあと思いました。それに素戔嗚を主祭神とするのは

徐福の子孫で秦国人の末裔たちで、京都の松尾大社、八坂神社などがそうです。

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境内の裏にひっそりと小さな祠があるので近づくと「韓国(からくに)神社」と書いてありました。

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祭神は素戔嗚つまり徐福は当たり前ですが ここには徐福に嫁入りした出雲王家第七代主王

「天の冬衣」の姫皇女が生んだ徐福の長男「五十猛(いそたけーのちの香語山)」も祀られていました。

 

神社の由緒書きに この神社の宮司の遠祖が「天の冬衣」だと書かれていたのですが ありえませんね。

出雲王家の主王副王を同時に殺害して 自分が王になろうとした奴を出雲王家の子孫が

祀るなんてありえないことですから。有名な天の冬衣王を自分の祖先だと偽って箔をつけたかった

のでしょう。

 

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日御碕神社 その2へ続く

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松江の四季 和鋼街道を行く たたらと鍛冶と刀のふるさと街道を行く  その2 2020年9月9日

2020-10-21 17:28:51 | 松江の四季

和鋼街道を行く たたらと鍛冶と刀のふるさとの鉄街道を行く  

その2 奥出雲町

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奥出雲町も踏鞴と刀の町です。

日刀保(にっとうほ)たたらは 戦前戦中の「靖国たたら」が敗戦のためアメリカ軍に刀の製造を禁止されたため

廃炉になりました。しかし戦後 美術刀剣(日本刀)の製造のために 日本美術刀剣保存協会が復元再開

させたもので 日本刀の材料の玉鋼はほとんどここで生産されたものです。

中には有名な刀匠は自分の踏鞴を持っている方もいるそうですが。

 

「日刀保踏鞴」、「踏鞴と刀剣館」はまだ訪れていません。次回に行こうと思います。

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元 松江藩鉄師頭取 絲原家」

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島根県観光案内の絲原家の説明です。



 絲原家は中世武家の一門で、初代 善左衛門が江戸時代初期に備後国(広島県)から郡内大馬木村に移住。

帰農して間もなくたたら製鉄も始め、江戸時代中期に9代忠三郎が現在地にたたらの主力工場である高殿(鉄穴鈩)

と居宅を移し、今日に至っています。


 藩政期には松江藩の5鉄師の一人に任ぜられ、鉄師頭取も務めました。大正時代後期に、洋式製鉄の普及により

約280年間燃やし続けて来たたたらの火を消し、家業を山林業に転換しました。

その間、12・13代武太郎は貴族院議員として国政に参画し、国鉄木次線(現JR)の開通に尽力しました。

また14代義隆は半世紀にわたり地方自治にたずさわりました。約400年の歴史をもつ絲原家です。

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絲原家の門です。

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玄関です。この衝立の絵画も相当なものなのでしょうね。

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奥座敷です。もちろん上がれませんが 玄関先からのぞけます。

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天井が無く 屋根を支える梁がみえるばしょもあります。江戸時代のものらしいです。

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梁には 駕籠(かご)が吊るされていました。この駕籠に乗って当主が踏鞴をみまわったのでしょうか。

殿様ですね。

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ダイニングルームです。時代はわかりませんが、江戸末期か明治初期でしょうか。

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この辺りまでは見学できるのですが、向こうの木製ドアから先は 今も住んでらっしゃる生活の場

です。娘さんが たしか高校が私と同級だったような気がしますが、定かではありません。

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巨大な蔵です。すごいお宝が 収められているでしょうね。

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蔵の横には 御成り門があり、藩主、皇族が出入りするそうです。

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広い庭園です。見学の順路まで書いてあります。

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絲原家の茶室 「庭玉軒」です。本家は京都紫野の大徳寺にありますが それと同名で

全く同じものが建てられています。そういう事は普通の人にはできませんが ある人の仲介です。

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あの 近衛文麿がここに遊びに来た時に 口利きしたそうです。

近衛文麿と言えば 天皇制を千年にわたり利用して 政敵を抹殺し、ひたすら私腹を肥やし続けた

あのずるがしこい不比等に始まる藤原家の末裔です。

 

近衛文麿は自分たちの始めた戦争の戦況報告を昭和天皇に奏上するときに 足を組んで説明したそうですね。

天皇制を利用しまくって太ってきた奴が 天皇に対して 完全に上から目線ですね。

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敷地内には 鉧(けら)が安置されていました。製鉄王の家ですから、当たり前ですが。

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御屋敷の隣には「絲原記念館」がありましたが 残念ながら時間切れになり

次回のお楽しみに取っておきます。

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松江の四季 トップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kisetsu/index.html

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松江の四季 和鋼街道を行く たたらと鍛冶と刀のふるさと街道を行く  その1 2020年9月9日

2020-10-17 10:07:47 | 松江の四季

和鋼街道を行く たたらと鍛冶と刀のふるさと街道を行く  

その1 広瀬町(広瀬町は現在は島根県安来市広瀬町となっています)

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広瀬町では月山富田城に登った後 広瀬町役場(安来市役所広瀬支所)にお邪魔して いろいろ鉄に関するお話を伺いました。

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月山富田城七曲りから見た 広瀬町の町並みです。

 

実は私のご先祖で 私の十七代前の人が 月山富田城に勤めていた 勘定方のお侍で 尼子の殿様に仕えて

毎日富田城へ通勤して、給金を頂き家族を養っていました。

そのおかげで 今の私があるのですが 生きているうちに一度そのご先祖様の通勤した道を歩いてみたいと

思い続けてきました。

そして今日あるいたのです。詳しくは

「島根の山を歩く」に載せています。http://yochanh.sakura.ne.jp/shimanenoyama/shimaneyama1.html

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富田城の本丸から二の丸越しに 広瀬町の町並みを見たところです。

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広瀬町のまちから月山富田城をみたところです。

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話は変わりますが我が家に伝わる日本刀です。

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警察の許可証更新時に 島根県教育委員会の鑑定があり、教育委員会の人が

「広瀬町に住んでいた 雲秀という刀匠が昭和の初期に作った刀で、これは郷土の宝です。

大切にしてください」とおっしゃいました。

 

そこでいつかは広瀬町に行き 雲秀の事を聞きたいと思っていました。

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この後 下山してから広瀬町役場へお邪魔して要件を言うと

文化財課へ通されて 主査の方がご親切にいろいろと教えてくださいました。

 

その方は 元和鋼博物館の学芸員をされていた方で 道理で鉄に詳して方でした。

突然訪ねた旅行者にご親切に説明していただきありがとうございました。

このあと その方に教えて頂いた 鉄の道を走り踏鞴の町奥出雲町へ向かいます。

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刀剣の町 広瀬町

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戦前は 広瀬町に刀剣製作工場が2社あったそうです。

一つは「出雲刀剣株式会社」でこれは帝国陸軍が創設したもので もう一社は

「村上刀剣株式会社」でこれは 帝国海軍が設立したものだそうです。

陸軍と海軍は仲が悪かったので 別々の工場を作ったそうです。

 

そして雲秀さんの事もいろいろと教えて頂きました。

広瀬町は今も有名な鍛冶屋さんが何軒かあるそうです。

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これは広瀬町にある 有名な「鍛冶工房 弘光」さんのホームページです。

今もいろいろと刃物を製造されています。こちらが そのサイトです。

https://kaji-hiromitsu.com/

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広瀬町西比田 金屋子神社へ

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広瀬町の町並みを出るときれいな棚田が続きます。奥出雲の亀嵩「かめだけー松本清張の

砂の器の舞台となったところです」へ向かう道です。

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たたらと鋼の神様が シラサギに乗りこの地の桂の木に降り立ち この地にたたら技術を広めたとされています。

踏鞴(たたら)には 火災から高殿を守る神、炉に風を送る神、方位を守る神、と「たたら製鉄」には多くの

神様たちが参加したと言われています。

 

この神様が一緒だと質の良い鉄が産み出される、と「たたら師」たちの間に金屋子信仰が起こり、たたら場には必ず

金屋子神が祀られ、「桂の木」が植えられました。


 その後、たたら集団の拡散と共に全国に広まり、現在では1200社を数える金屋子神社の総本山だそうです。

春秋の大祭には、鉄工関係業者をはじめ県内外の参詣人が多く訪れているそうです。

 

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金屋子神社の神門をくぐります。

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正面に立派な拝殿があります。

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本殿はさすがに「大社造り」です。

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建物の説明看板です。

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神社に奉納された 踏鞴から出た 鉧(けら)です。

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金屋子神社の隣には 金屋子神話館があります。

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金屋子神にまつわる神話をいろいろと説明するモデルがあります。

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金屋子神はシラサギに乗ってこの地の桂の木に降り立ちました。

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踏鞴の説明看板がありました。

踏鞴だけでも20~30人以上の人が働き、そのほかに砂鉄を採取する人、運ぶ人、木炭を作る人、運ぶ人

などを入れると大きな経済体ですね。

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その2へ続く

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私のご先祖様が毎日通勤で歩いた安来市月山富田城への道を歩く その2 2020年9月9日

2020-10-07 19:53:00 | 島根の山を歩く

月山富田城 その2

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登るにつれて次第に高くなるのがわかります。先ほどの山中御殿もあんなに小さくなりました。

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あの先から急登が始まるようです。

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七曲りと呼ばれる急階段がジグザグに続きます。

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七曲りを抜けると広場に出ました。三の丸広場です。

正面の石垣は二の丸です。

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振り返ると七曲りの向こうに広瀬町の町並みが見えます。

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しばらく進むと本丸が見えてきました。

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本丸に到着です。

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何やら石碑がありますが文字が風化して読めません。

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本丸の後に神社が建っています。

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神社の説明看板です。さすが 出雲の国だけあって 大国主つまり古代出雲王朝

第八代大名持の八千矛王が祀られています。富田城の守り神と書いてあります。

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この神社がいつ頃作られたのか不明ですが、簡素な造りでしかも大社造りではありません。

さすがに千木は出雲式の縦削ぎですが。

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今はやりの疫病退散つまり武漢チャンコロウイルス退散の旗が建っています。

毛利の大軍よりも武漢チャンコロウイルスのほうが強敵のようです。

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本丸広場にはほかの石碑もありました。左は山中鹿介と読めますが右は全く読めません。

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本丸から二の丸を見下ろしたところです。

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このころになって お城マニアの人々が次々に登ってきました。私が赤い日傘をさして歩いているのを下から見て

「なんや、女の人でも登れる簡単な山道や」と安心して足元もつっかけのまま登ったり飲み水も持たずに登り

みなさん ヒーヒー言いながら登ってこられ 私を見て「なんや、男かいなあ、道理で早いと思った。

女やと思い、安心してて手ぶらで登ってきたらエライ急坂なのでほんま息切れしたわ。

あまりの暑さに熱中症で倒れるかと思ったわ」と口々に赤い日傘をさした私がお叱りを受けました。

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二の丸の右手には広瀬町の町並みが広がっていました。

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目の前の高い山は京羅木山(473m)で、毛利の大軍が押し寄せたときに

毛利の本陣が置かれた場所です。

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本丸広場には毛利の大軍の配置が描かれていました。

この難攻不落の山城を毛利はどうしても落とせず

長期間兵糧攻めにしてようやく落城させたということです。

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それからご先祖様の通勤道を 感慨深くゆっくりと降りていたら名古屋から来られた

お城マニアの方が私に 今までどんなお城へ行ったのかいろいろと質問されるので

実は私の17代前のご先祖様が毎日歩いた通勤道を歩きたくて大阪から来たのだというと

びっくりされていました。

 

下山して飯梨川の河原から富田城を見上げたところです。

山中御殿の石垣や本丸の石垣が見えます。

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島根の山歩きトップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/shimanenoyama/shimaneyama1.html

山歩きのトップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/yamatabi/index.html

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