太子町 その2-2
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孝徳陵
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前述の敏達大王と息長連広姫の皇子が息長彦人大兄王でその皇子が田村王です。後の舒明大王です。
当時の大王は石川臣系が続いていました。それに対して朝鮮系の息長家は大いに危機感をもっていました。
そこで息長系の田村王は親しかった 中臣御食子に相談しました。
中臣家は鹿島神宮の神官の分家で 豊後に移住して中津彦(記紀では仲哀とかかれ大王扱いですが
息長姫の部下で 三韓征伐を断り 長姫とは別れています。)の側近となり
息長帯姫の時代から宮中祭祀の役をもつ家柄となりました。
御食子は まず石川臣の主だった人を一人ずつ誅殺していく事。そして既に石川臣家へ嫁いでいた
息長系の宝姫を離婚させて 田村王と結婚し 息長系の結集を図ることを進言しました。
宝姫は既に 大海人の皇子を産んでいましたが 石川の臣武蔵と別れて田村王と結婚します。
病弱で寝込んでいた 尾治大王のもとへ 御食子の進言で見舞いに訪れた田村王に 尾治大王は
次の大王を譲ったと 大臣の石川雄正に伝えます。
驚いた雄正の弟の境部麻理勢は あくまで大兄である山背大兄が次の大王だと言い張ります。
御食子は それは尾治大王の意思に背く事だと 官兵を集めて 麻理勢を誅殺します。
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629年に田村王は即位し 舒明大王となります。そして630年に宝姫を皇后とします。
宝姫は舒明との間に 葛城の皇子(後の中大兄)を産みます。
その葛城の皇子と中臣鎌子の軍勢が 641年3月に突如 大臣石川雄正の豊浦の邸宅を取り囲み
誅殺します。大豪族石川臣家があっけなく 不意打ちにより倒されてしまいます。鎌子の画策です。
葛城の皇子は雄正誅殺の功績で 大兄に指名されて 中大兄を名乗ります。
その年の10月に舒明大王は没します。しかし中大兄と古人大兄という二人の大兄が居るので跡継ぎが決まりません。
そこで643年に宝姫皇后は 自ら即位して 皇極女帝となります。
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宝姫皇后は中大兄を次の大王にしたいと思いますが 舒明大王には先妻との間に 古人大兄がいます。
そこで 未だ若い中大兄を次の大王にする前に 弟の軽王をワンポイントの大王にしようと思います。
推古がたくらんだ兄用明を利用した方法と同じですね。
軽王を呼びつけて「古人大兄を出家させたら お前を大君にする」と持ちかけます。
軽王は はかりごとをして古人大兄を出家させて吉野へ追いやりますが 古人大兄は最終的に
誅殺されます。
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645年に軽王は即位して 孝徳大王となります。しかし政敵を次々に誅殺したりしたので 人心が離れ
政権が不安定になります。自身も暗殺をおそれて 難波の各地を点々としたり 有馬温泉に逃避したり
しますが 649年に難波豊崎宮が完成し そこに移ります。
その後 年号を白雉に変え 唐からの帰国僧 高向玄理や南渕請安らの意見を入れて中央集権化を
進めていったとされます。
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そして孝徳大王はわが子 有馬の皇子を次の大王にしようと画策を始めます。
このままでは危ないと感じた中大兄と中臣鎌子は654年に「都を飛鳥に移す」と宣言して 孝徳大王の皇后の
間人皇后とともに飛鳥に移った。
間人皇后は 孝徳に誅殺された古人大兄の妹で 兄と その子供達が 全員孝徳に誅殺されたのを恨んでいたと言う。
難波豊崎宮にとりのこされた 孝徳大王は 急激に政治力が衰えて 寝込むようになります。
654年の暮れに寝込んだ大王の見舞いに 間人皇后が 難波の宮へ見舞いますが その時何故か
大王は急死します。
翌年の655年に間人皇后は大王就任を宣言します。
と言うことで 孝徳大王も女帝に操られ、女帝に利用され、中臣の鎌子のどす黒い謀略にかかって死んだ
哀れな大王の一人です。
ちなみにこのどす黒い欲望の中臣の鎌子は 後の世に自分の名前が残るのを嫌い 中臣の鎌足と改名し
その後朝廷から 数々の陰謀のご褒美に藤原性を貰い その後千年以上朝廷を食い物にして藤原家は生き延びます。
明治時代の近衛文麿もこの鎌子の子孫です。
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この時代 毒を相手の食事に与えて 死亡させるというのは 普通におこなわれていたのですね。
「何故か急死します」と書いたのも怪しいですね。
例えば イクメ王が第二次東征で 大和入りしても部下の田道間守(朝鮮人卑矛の子孫)が進軍駐留した大和葛城地方で
勢力を広げて大王のように振る舞います。その地はタジマがなまって タイマ(當麻)といわれます。
困った 生目(いくめ)王(後の贈り名は垂仁)は 旧出雲王家の富太田彦に出兵を頼みます。
太田彦は野見と名前を変えて大和入りして 田道間守の軍勢を蹴散らします。
この事件は 当麻蹶速(たいまのけはや)と野見の宿禰 (のみのすくね)の相撲の試合と言う話に置き換えられて
相撲の始まりだと 記紀に書かれました。
まったく 持統、不比等はとんでもなく 和国の歴史を捻じ曲げたのですね。
この後イクメ王は磯城王家を倒し 名実共に和国の大王となります。
その功績で野見太田彦は イクメ大王から 大和の磯城、磐余の富家の領地を回復され、また宿禰の称号を貰います。
そして 野見の宿禰 としてイズモへ帰宅する途中にたまたま立ち寄った辰野の地(今の兵庫県龍野市)で受けた接待で
毒を盛られて 急死させられました。後でわかったのですが その家は 朝鮮人卑矛の子孫と言うことだったのです。
卑矛は最初和国に来たときにイズモに上陸しようとしますが 出雲の掟を守るか と聞かれて
イヤだと答え 上陸を拒否されます。
その後出雲王国内を転々としますが 人のすめない由良川の中洲湿地帯に上陸を許可されますが
人が住めるように干拓したり 排水工事が大変だったと 長いこと出雲王国を憎んでいたと言います。
何百年もたった子孫が その仕返しをするなんて 朝鮮人の子孫はこわいですねえ。
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ここは孝徳陵の駐車場です。後の丘が陵です。
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玉石の敷き詰められた参道を歩いていきます。
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通常はここまでしか入れません。
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少し横に入れたので 正面を見せてもらいましたが特に普通でした。
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昔の石工が手彫りで彫ったような味のある字体ですね。
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孝徳陵は竹之内街道に面しています。
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竹之内街道は昔の官道で国の役人しか歩けませんでした。
難波の宮から近つ飛鳥を通り遠つ飛鳥へ至る道路で道幅も広かったといわれています。
この写真の道は旧道といわれるもので 今は国道166号線になり 幹線道路です。
世界遺産熊野古道の小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路などとと同様に 昔の歴史道はアスファルトの
道路でズタズタにされています。このようにきれいに維持されているのはほんの一部です。
この竹之内街道や熊野古道、町石道などを歩くと悲しくなります。昔の石畳道はごくごく一部で
ほとんどが アスファルトの国道や地方道、林道で破壊されています。中には高野町石道のように
ゴルフ場の中を歩かせるという 非常識な 世界遺産の参詣道もあります。
日本の役人のレベルの低さ、頭の悪さを現していますね。
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次は 太子町その3 上之宮太子の墓のある叡福寺です。
太子の子息達の出雲での足跡も載せました。
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孝徳陵
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前述の敏達大王と息長連広姫の皇子が息長彦人大兄王でその皇子が田村王です。後の舒明大王です。
当時の大王は石川臣系が続いていました。それに対して朝鮮系の息長家は大いに危機感をもっていました。
そこで息長系の田村王は親しかった 中臣御食子に相談しました。
中臣家は鹿島神宮の神官の分家で 豊後に移住して中津彦(記紀では仲哀とかかれ大王扱いですが
息長姫の部下で 三韓征伐を断り 長姫とは別れています。)の側近となり
息長帯姫の時代から宮中祭祀の役をもつ家柄となりました。
御食子は まず石川臣の主だった人を一人ずつ誅殺していく事。そして既に石川臣家へ嫁いでいた
息長系の宝姫を離婚させて 田村王と結婚し 息長系の結集を図ることを進言しました。
宝姫は既に 大海人の皇子を産んでいましたが 石川の臣武蔵と別れて田村王と結婚します。
病弱で寝込んでいた 尾治大王のもとへ 御食子の進言で見舞いに訪れた田村王に 尾治大王は
次の大王を譲ったと 大臣の石川雄正に伝えます。
驚いた雄正の弟の境部麻理勢は あくまで大兄である山背大兄が次の大王だと言い張ります。
御食子は それは尾治大王の意思に背く事だと 官兵を集めて 麻理勢を誅殺します。
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629年に田村王は即位し 舒明大王となります。そして630年に宝姫を皇后とします。
宝姫は舒明との間に 葛城の皇子(後の中大兄)を産みます。
その葛城の皇子と中臣鎌子の軍勢が 641年3月に突如 大臣石川雄正の豊浦の邸宅を取り囲み
誅殺します。大豪族石川臣家があっけなく 不意打ちにより倒されてしまいます。鎌子の画策です。
葛城の皇子は雄正誅殺の功績で 大兄に指名されて 中大兄を名乗ります。
その年の10月に舒明大王は没します。しかし中大兄と古人大兄という二人の大兄が居るので跡継ぎが決まりません。
そこで643年に宝姫皇后は 自ら即位して 皇極女帝となります。
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宝姫皇后は中大兄を次の大王にしたいと思いますが 舒明大王には先妻との間に 古人大兄がいます。
そこで 未だ若い中大兄を次の大王にする前に 弟の軽王をワンポイントの大王にしようと思います。
推古がたくらんだ兄用明を利用した方法と同じですね。
軽王を呼びつけて「古人大兄を出家させたら お前を大君にする」と持ちかけます。
軽王は はかりごとをして古人大兄を出家させて吉野へ追いやりますが 古人大兄は最終的に
誅殺されます。
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645年に軽王は即位して 孝徳大王となります。しかし政敵を次々に誅殺したりしたので 人心が離れ
政権が不安定になります。自身も暗殺をおそれて 難波の各地を点々としたり 有馬温泉に逃避したり
しますが 649年に難波豊崎宮が完成し そこに移ります。
その後 年号を白雉に変え 唐からの帰国僧 高向玄理や南渕請安らの意見を入れて中央集権化を
進めていったとされます。
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そして孝徳大王はわが子 有馬の皇子を次の大王にしようと画策を始めます。
このままでは危ないと感じた中大兄と中臣鎌子は654年に「都を飛鳥に移す」と宣言して 孝徳大王の皇后の
間人皇后とともに飛鳥に移った。
間人皇后は 孝徳に誅殺された古人大兄の妹で 兄と その子供達が 全員孝徳に誅殺されたのを恨んでいたと言う。
難波豊崎宮にとりのこされた 孝徳大王は 急激に政治力が衰えて 寝込むようになります。
654年の暮れに寝込んだ大王の見舞いに 間人皇后が 難波の宮へ見舞いますが その時何故か
大王は急死します。
翌年の655年に間人皇后は大王就任を宣言します。
と言うことで 孝徳大王も女帝に操られ、女帝に利用され、中臣の鎌子のどす黒い謀略にかかって死んだ
哀れな大王の一人です。
ちなみにこのどす黒い欲望の中臣の鎌子は 後の世に自分の名前が残るのを嫌い 中臣の鎌足と改名し
その後朝廷から 数々の陰謀のご褒美に藤原性を貰い その後千年以上朝廷を食い物にして藤原家は生き延びます。
明治時代の近衛文麿もこの鎌子の子孫です。
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この時代 毒を相手の食事に与えて 死亡させるというのは 普通におこなわれていたのですね。
「何故か急死します」と書いたのも怪しいですね。
例えば イクメ王が第二次東征で 大和入りしても部下の田道間守(朝鮮人卑矛の子孫)が進軍駐留した大和葛城地方で
勢力を広げて大王のように振る舞います。その地はタジマがなまって タイマ(當麻)といわれます。
困った 生目(いくめ)王(後の贈り名は垂仁)は 旧出雲王家の富太田彦に出兵を頼みます。
太田彦は野見と名前を変えて大和入りして 田道間守の軍勢を蹴散らします。
この事件は 当麻蹶速(たいまのけはや)と野見の宿禰 (のみのすくね)の相撲の試合と言う話に置き換えられて
相撲の始まりだと 記紀に書かれました。
まったく 持統、不比等はとんでもなく 和国の歴史を捻じ曲げたのですね。
この後イクメ王は磯城王家を倒し 名実共に和国の大王となります。
その功績で野見太田彦は イクメ大王から 大和の磯城、磐余の富家の領地を回復され、また宿禰の称号を貰います。
そして 野見の宿禰 としてイズモへ帰宅する途中にたまたま立ち寄った辰野の地(今の兵庫県龍野市)で受けた接待で
毒を盛られて 急死させられました。後でわかったのですが その家は 朝鮮人卑矛の子孫と言うことだったのです。
卑矛は最初和国に来たときにイズモに上陸しようとしますが 出雲の掟を守るか と聞かれて
イヤだと答え 上陸を拒否されます。
その後出雲王国内を転々としますが 人のすめない由良川の中洲湿地帯に上陸を許可されますが
人が住めるように干拓したり 排水工事が大変だったと 長いこと出雲王国を憎んでいたと言います。
何百年もたった子孫が その仕返しをするなんて 朝鮮人の子孫はこわいですねえ。
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ここは孝徳陵の駐車場です。後の丘が陵です。
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玉石の敷き詰められた参道を歩いていきます。
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通常はここまでしか入れません。
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少し横に入れたので 正面を見せてもらいましたが特に普通でした。
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昔の石工が手彫りで彫ったような味のある字体ですね。
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孝徳陵は竹之内街道に面しています。
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竹之内街道は昔の官道で国の役人しか歩けませんでした。
難波の宮から近つ飛鳥を通り遠つ飛鳥へ至る道路で道幅も広かったといわれています。
この写真の道は旧道といわれるもので 今は国道166号線になり 幹線道路です。
世界遺産熊野古道の小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路などとと同様に 昔の歴史道はアスファルトの
道路でズタズタにされています。このようにきれいに維持されているのはほんの一部です。
この竹之内街道や熊野古道、町石道などを歩くと悲しくなります。昔の石畳道はごくごく一部で
ほとんどが アスファルトの国道や地方道、林道で破壊されています。中には高野町石道のように
ゴルフ場の中を歩かせるという 非常識な 世界遺産の参詣道もあります。
日本の役人のレベルの低さ、頭の悪さを現していますね。
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次は 太子町その3 上之宮太子の墓のある叡福寺です。
太子の子息達の出雲での足跡も載せました。
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