熊澤良尊の将棋駒三昧

只今、生涯2冊目の本「駒と歩む」。只今、配本中。
駒に関心ある方、コメントでどうぞ。

追加発掘された「興福寺・酔象の駒」に関して

2024-02-16 23:39:15 | 文章

この記事は10年前、2013年10月にアップしたものです。
内容は、すっかり忘れていたものですが、たまたま眼に留まってアップすることにしました。
手紙の主は、堀井寿郎さんです。
堀井寿郎さんは、既にお亡くなりになっていますが、今回の本「駒と歩む」では、第8章の読み下しをなさっている方です。
以下、10年前のブログを、ここに再現しておきます。

10月29日(火)、晴れ。
好天気が続きます。
昨日、ある方から先日発掘された駒の記事とともに、手紙を貰いました。


手紙の主は、小生より一回り以上年上の歴史学者でもある堀井寿郎さん。
専門は、江戸時代の大和郡山藩史、あるいは幕末の志士・伴林光平の研究。
将棋好きで、25年来、親しくさせてもらっています。

その方の手紙で指摘されているポイントは、
  今回の駒も、駒の姿形、文字もよろしくない。
  出土駒は、安っぽい駒しか出てこないのはどうしてなんだろう。
  平安時代の貴族がこのような駒を好むはずは無い。
  そのあたりの突っ込みが、記事として不足している。
など、でした。

その部分の抜粋です。


これに関して小生も、ほぼおっしゃる通りの見方であると、次のようなことを電話で伝えましたので、要約しておきます。
1、今回は、前回16~7枚の駒が出土したものと比べて、4~50年後のも
  ののようではある。

2、今回出土した駒は、文字は稚拙、材料もあり合わせの檜・椹など針葉樹の
  へぎの類で、駒の形も稚拙。
  「このような駒を平安時代の貴族が満足するはずはない」という見方には
  同感。
  貴族の持ちものなら、もっと洗練されたものであったと思う。
  
3、出土した場所からして、恐らくは中層以下の庶民レベルの僧侶が自給自足
  した駒であり、稚拙な文字は、そのためであろう。
  出土した4枚は、酔象のほか、歩兵・桂馬ともう1枚の種類は不明。
  他の新聞には、それぞれ写真付きでもう少し詳しく載っている。

4、駒の大きさのバラつき、あるいは大きさの逆転からして、大中小、数種類
  の将棋で使われた駒であろう。
  中でも、「酔象の駒」は、桂馬や歩兵と比べると小さい。
  駒の枚数が多い将棋の駒の一枚一枚のサイズは、自ずと小さくなる。
  従って、例えば当時の「大将棋」などに使われた駒であったと思う。

5、適材適所と言う言葉があるように、平安時代でも、上等の駒には適材の
  「黄楊」が使われたと思っている。
  しかし、この時代の出土駒に黄楊の駒が出てこない。
  理由はあって、それは、黄楊が雨水とか腐敗菌に非常に弱い。
  伝世品なら耐久性を発揮するが、土中なら十年とか数十年でボロボロにな
  ってしまう。
  平安時代の遺跡では朽ちてしまうので、黄楊の駒が出てくることは考えら
  れない。

6、ところが4世紀とか5世紀の遺跡から「櫛」が発見されている例がある。
  資料には「材は黄楊」という説明があるものも複数ある。
  これについては間違いに気が付かず、発掘担当者が思い込みだけで、吟味
  しないまま、記したからであろう。
  発掘調査は、発掘は専門であっても、樹種鑑定の専門家でもない。
  しっかり調べ直せば、他の樹種と分かるはず。  

7、いずれにしても、前回と今回の奈良・興福寺旧境内からの発掘は、将棋と
  将棋駒の歴史を知る上で貴重。
  前回は、将棋の好きで将棋史も研究している人であったのは、ラッキー。
  しかし、前回の発掘主任と今回の発掘主任とは違う人。
  今回、発表内容のコメントに根本的な疑義があり、将棋史の知識、二人の
  連携がどうであったか。
  報道陣も発表内容をそのまま書いているだけの感があり、突っ込み不足。

  以上。

  なお興福寺は、そもそもは春日大社と同じく、藤原家の安康のための
  寺社であります。 
  
    

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