朝から寒い北風。それが午後になって冬の嵐に変わり、雪も降りだしました。予報では明日も、10年に一度の大寒波とか。
野外の水道栓には、凍結対策も怠りませんように。
さて、先ほど、鈴木様より次のような問いかけをいただきましたので、私なりの解釈を述べさせていただきます。
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(前略)書き駒から盛上げ駒のお話は、解り易くこま駒作りに理解が深まりました。
駒作りの変遷の中で、疑問なのは、書き駒から彫駒に変化した発想は、どのようにして起こったのか?
ということです。
文化文明の歴史の中で、後世に残すために石に彫られる碑文などがあります。
つまり、書いた文字はいずれ消えますが、彫れば消えないで長く残ると、連想したのでしょうか?
彫るというのは、書くとは別の技術が必要です。そして、彫られた駒を手にしてみて「これは、良いアイデアだ!」となったのでしょう。
江戸時代には、版画があり、版画の印刷技術もありました。字母を印刷して、文字の通り彫るのは容易だったと想像されます。
如何でしょうか?
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そうですね。おっしゃるように、碑文は後世に残すためのものですから、何百年も残るように、石に彫って残すという発想で作られたことに間違いはないと思います。
対して、「駒」(彫り駒)の方は、違った別の発想と要因で生まれたと思っています。
元々、遊びの道具は作るのが簡単だったり、入手が容易だったりすることが肝要です。
将棋の駒も同様で、外国では貝殻とか石、あるいは木片を加工したものが使われていました。
一方、日本の将棋駒は、元々から身近にあった木片を方向性のある5角形に加工し、文字を墨で書かれていたわけですが、いずれも身近な素材と道具を使って、各自が自給自足していたという歴史があります。
やがて、その道に得意な人が現れると、その人の作った駒は上等品としてもてはやされました。その一つが400年前に一世を風靡した「水無瀬駒」でありました。
ところで「彫り駒」は何時、どのように表れたのでしょうか。
現時点で確認できる最古の彫り駒は、福井県下の朝倉遺跡から発見された177枚ほどの中に、墨書文字をなぞって彫った跡がある駒があって、確か、それは1枚だったと記憶しています。
しかし、それは本格的な彫り駒というよりも、「そういう駒もあった」と見るべきではないかと考えています。
ここまで書いてきましたが、またまた長くなりました。この続きは、また後日にて、今日はこの辺で失礼します。