12月19日(木)、曇り。
一日を通して、雲いっぱい、薄暗くさみしい空でした。
今日は、盛り上げ駒と肉筆の書き駒についてです。
現今では「盛り上げ駒が最上品で、書き駒は安い下級品」だという認識が常識のようになっています。果たしてそうなのかです。
「駒」については、世間で誤って伝えられたり、間違った認識だったりすることは結構多い。その一つが、盛り上げ駒と書き駒の関係で、私に言わせえば「盛り上げ駒は、昔の能筆家が書いた駒の代用品に過ぎない」ということです。
将棋の駒は400年前の安土桃山時代から江戸初期の頃、水無瀬兼成という公卿に代表される能筆家が、その端正で優美な筆跡で駒を書いた時代がありました。その駒は庶民はもてあそぶことすらはばかられ、天皇、公家衆、高名な武将はじめ、寺社あるいは裕福な堺の商人などが、主なユーザーであり、ことに徳川家康は関ケ原の戦いの前後に、53組の水無瀬駒(水無瀬兼成が書いた駒)をゲットして、周りの人々(敵を含む周りの武将たち)に振舞ったと推定される記録が残っています。
その後、時代が進み、将棋が庶民にも多く普及するようになると、職業として駒づくりの職人(駒師)が派生します。しかし、そのような職人たちは、公卿のような立派で品格ある文字が書けるわけでもなく、職人としての技として、大阪の彫り駒や、天童のような特殊で、まとまもな文字とは言い難い駒が多く作られるようになり、それが定着します。
一方、それまでのような公家(能筆家)による駒づくりが衰退。やがて明治時代中期の頃、知恵ある駒師は、「職人技で昔の公卿が書いたような立派な文字で駒を作れないか」との思いで考え出したのが「盛り上げ駒」です。
能筆家の筆跡を写した紙(これを字母紙という)を駒に貼って文字を彫る。そのあとを漆で埋め戻して浮かび上がった文字を、塗り絵のごとく漆の筆でなぞる。この職人技によれば、文字が上手に書けなくても、あたかも能筆家が書いたような立派な文字で駒ができる。
つまり「盛り上げ駒は、昔の能筆家が書いた立派な文字の駒を、明治の職人技で再現しようとして生まれた駒」なのです。
私はある時、水無瀬神宮に残された400年前の水無瀬駒を実見することで、これに気が付きました。それから40年余り。以来、その肉筆で書かれた水無瀬駒を目標にしてきましたが、到達はまだまだではあります。