A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

エリントンの組曲物の演奏はなかなかライブで聴けないが・・・

2014-03-13 | MY FAVORITE ALBUM
Such Sweet Thunder / Duke Ellington and His Orchestra

先日のマイク・プライスビッグバンドのライブのオープニングはサドメルのThree in One
であった。

オリジナルはサドメルのデビューアルバムで聴ける。サド・ジョーンズとペッパー・アダムスのユニゾンからサックスのソリ、それからアダムスのソロへと続く。今回はマイクと竹村直哉のコンビであったが、久々にこの曲を聴いて気分よくスタートした。
これはサド・ジョーンズのオリジナル曲だが、初演は1958年のジョーンズ兄弟のアルバムで、そしてオーケストラだけでなく、晩年のアルバムでもこの曲を演奏している。サド・ジョーンズ自身もこの曲はお気に入りであったのだろう。

マイクのビッグバンドは西海岸のアレンジャーの曲も多く、バディー・リッチ、スタンケントンなどのレパートリーからの曲が続いた。バディー・リッチビッグバンドからはポピュラーなグリーンスリーブスであったが、この曲はアルバム”Body and Soul”に入っている。実はこのアルバムのメンバーにマイクプライスが加わっていた。1969年の演奏なので、マイクにとっては50年近く経っての再演であった。

後半ではギル・エバンスやエリントンナンバーも加わったが、エリントンは最近よく演奏しているSuch Sweet Thunderからの曲。A列車やサテンドール、インナメロウトーンなどポピュラーなエリントンナンバーを演奏するオーケストラは多いが、このようなエリントンの組曲物に取り組むオーケストラは少ない。

このオリジナルアルバムは、1956年から57年にかけて録音された大作。カナダで開催されたシェイクスピアフェスティバル用に作曲されたものだそうだが、このようにアルバムとしても記録に残されている。エリントンオーケストラの特徴はエリントンとビリーストレイホーンコンビの曲作り。この組曲も2人でシェークスピアのロメオとジュリエットを素材にした共作だ。

2人はこの曲を多忙な3週間で書き上げたそうだ。エリントンの場合は作曲に専念するわけではなく、ライブをこなし乍らの曲作りなので、超人ぶりがうかがえる。特に組曲の場合は、繰り返しや延々と続くソロパートも無いためにクラシックのような譜面づくりも大変だと思う。片腕としてのストレイホーンが不可欠であったのだろう。2人のコンビというと、昨今話題の偽作曲家が思い浮かぶが、彼らの譜面には2人で書き込んでいった物も残っているようだ。

1957年といえば、有名な1956年のニューポートのライブの翌年。56年のニューポートの直後から録音は始まり、翌年完成している。最初のライブ公演は1957年4月28日のタウンホールでのコンサートだったと記録されているが、ここでは11曲で行われる。

このアルバムの目玉は、ホッジスをフューチャーしたThe Star-Crossed Loversだが、実はこの曲は別の企画で作られていた”Pretty Girl”という曲の看板を書き換えて、最後の録音でこのアルバムに加えられ全12曲に仕上がったようだ。

今回のライブでは、タイトル曲のSuch Sweet ThunderとThe Star・・・が演奏されたが、アルバムで全曲を通して聴くと、役者揃いのメンバー達の得意技がソロ、アンサンブルに随所に散りばめられていて曲全体のイメージが否が応でも伝わってくる。マイクのビッグバンドも素晴らしいが、テリー、ホッジス、ハーリーカーネイなどの個性あるプレーはワン&オンリーだ。やはり、この曲を完全に再現できるのは当時のエリントンオーケストラのメンバーが不可欠なように思う。

57年のライブ "Duke Ellington: 'Such Sweet Thunder' Unissued Live at Ravinia Festival '57" での演奏はこちらで。
同じアレンジだが、ライブはやはり一段といい。

Such Sweet Thuder [Music by Duke Ellington & Billy Strayhorn]. Unissued world première (on radio) of the "Shakespearean Suite"!
CBS broadcast from concert at Ravinia Park Festival, Highland Park, IL. July 1, 1957.
0:00 Such Sweet Thunder
1:48 Sonnet For Sister Kate [solo: Quentin Jackson]
4:53 Up And Down. Up And Down [solo: Clark Terry]
8:04 Star-Crossed Lovers [solo: Johnny Hodges]
12:38 Madness In Great Ones [solo: Cat Anderson]
16:25 Half The Fun [solo: Johnny Hodges]
20:42 Circle Of Fourths [solo: Paul Gonsalves]

23:23 Jam With Sam [solos: Willie Cook, Paul Gonsalves, Britt Woodman, Russell Procope, Cat Anderson]

Cat Anderson, Willie Cook, Clark Terry, t; Ray Nance, t, vn; Quentin Jackson, Britt Woodman, tb; John Sanders, vtb; Jimmy Hamilton, cl, ts; Russell Procope, cl, as; Johnny Hodges, as; Paul Gonsalves, ts; Harry Carney, bcl, cl; Duke Ellington, Billy Strayhorn, p; Jimmy Woode, b; Sam Woodyard, d.



1. Such Sweet Thunder
2. Sonnet for Caesar
3. Sonnet to Hank Cinq
4. Lady Mac
5. Sonnet in Search of a Moor
6. The Telecasters
7. Up and Down, Up and Down (I Will Lead Them Up and Down)
8. Sonnet for Sister Kate
9. The Star-Crossed Lovers
10. Madness in Great Ones
11. Half the Fun
12. Circle of Fourths

Duke Ellington & His Orchestra

Clark Terry (tp)
Ray Nance (tp)
Willie Cook (tp)
Cat Anderson (tp)
Quentin Jackson (tb)
Britt Woodman (btb)
John Sanders (tb)
Johnny Hodges (as)
Russell Procope (as,cl)
Paul Gonsalves (ts)
Jimmy Hamilton (ts,cl)
Harry Carney (bs)
Duke Ellington (p)
Jimmy Woode (b)
Sam Woodyard (ds)

Composed by Duke Ellington & Billy Strayhorn

Recorded on August 7 1956
on April 15,24 & May 3 1957
at COLUMBIA's30th Street Studios in New York


Such Sweet Thunder
クリエーター情報なし
Sony Jazz

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3 コメント

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マジョリティに必要な教育とは (コーラス好き)
2014-03-16 00:33:24
YAN様、こんばんは。丁寧なコメントを賜り恐れいります。いつも嬉しく拝読しております。

さて、今朝の読売新聞の一面で詳細に報じられていた小保方さんのSTAP細胞の件には正直、参ったなという印象です。小生が取り上げなければYAN様も話題にされることはなかったのではと申し訳なく思います。背景にはips細胞を巡る研究者どうしのドロドロとした政治的背景があったという記事を読みましたが、これで日本の研究に対する世界からの信頼が大きく毀損されてしまいました。日本分子生物学会もSTAP細胞論文への厳正な対応求めるとともに、当初は「リケジョ」などと舞い上がっていた同学会理事長の大隅典子さんが「STAP細胞顛末」という総括を寄せられています。
http://blogos.com/article/82144/

それから先日の小生のコメント後にあった脳科学者・茂木健一郎さんの「偏差値」批判ツイートがものすごい反響を呼んだようです。以下J-castニュースのリンクです。~“有名受験予備校を名指しで「つぶれろ!」 茂木健一郎氏の偏差値入試批判がネットで物議”
http://www.j-cast.com/2014/03/10198807.html?p=all

表現はともかく、茂木氏の気持ちは痛いほどわかるので共感の輪が広がるかと思いきや、茂木氏の真意を踏まえない上っ面な批判ばかりが目につき、中でも「人を測る尺度として偏差値こそがもっとも“平等”なのだ」という社会主義的見解には、新自由主義(市場原理主義)の牙城シカゴ大学経済学部校舎に貼られているというプレートの「経済とは測定である」という言葉を思い出し、暗澹とさせられました。総じて近代教養主義教育による知性至上主義の洗脳が見事に功を奏した証左を見せつけられる思いで暗澹としておりましたら、東大法学部卒(がホントは嬉しくて仕方がない)城繁幸さんがBlogosで真っ当な見解を述べられていてホッとしました。

“「偏差値なんか無くなってしまえ!」と思った時に読む話”
http://blogos.com/article/82237/

以下ポイントを抜粋します。先日小生が申し上げたことと重なります。

「実は偏差値には恐ろしいデメリットもあります。共通テストという物差しに固執することで、本当は花開いていたかもしれない天賦の才能が受験で消費しつくされているかもしれません。こうした弊害は直接的な被害の自覚がない分、あまり意識はされないでしょうが、実はボディブローのように日本社会の活力を奪っているかもしれません。筆者が茂木氏のスタンスに同意する理由です。」「茂木氏の意見に賛成するのは、やはり今のままではダメだろうと感じているからです。現在の日本の教育システムは、明治の富国強兵時代に“効率的に国民の教育水準を引き上げる”ことを目的にしたもので、まあ先進国に追いつけ追い越せの高度成長期にはそれなりに機能したのでしょうが、新興国に追い立てられている現在、明らかに時代遅れの面が否めません。ワンクリックでコピペ出来る時代、平均の高さよりも飛び抜けた才能をいかに育てるかのほうが重要なのは明らかです。」

ただ、次の一節はつまらぬ論点ずらしです。

「少子化による定員不足とも相まって、既に「受験戦争のせいで本来伸ばせる才能が押しつぶされている」というのは(絶対国立大!とかこだわらない限りは)既にフィクションとなっていると言うのが筆者の意見です。本当に意欲と能力があるのなら、それを伸ばしつつ高等教育機関に入学するくらい、今の日本ではそれほど難しいことではないでしょう。」

そもそも勉強など向いていないマジョリティにとって、はたして現行の教育が相応しいものなのかということこそが論じられてしかるべきであって、知性に偏った「教養」概念を、生活に即したものに刷新する意識変革が必要なのです。

思うに今の「義務」教育は、体制を支えるべき末端の国民に目覚めてもらっては困る為政者の都合で(無意識にせよ)なされているものと考えるのが妥当です。国家に奉仕すべき国民が自分の頭で考え行動しだしたら為政者の地位は脅かされます。それなら役に立たない学問にでも精を出してもらうのが無難です。それができる従順な人間だけを体制側に引き上げてあげる。だとすれば根が深く容易に改まるわけがありません。YAN様の仰る「愚民政策」ではありませんが、そこには「知能の低い連中はどうせ単純労働に従事するのだからお仕着せの教育なり報道で充分」とする傲慢な姿勢が見え隠れしています。「マジョリティにとって善い教育とは何か」を希求せずに近代教養主義に凭れるばかりの今の教育者は、文科省であれ日教組であれ国民の自発的な思考力や生きていくためのスキルの育成を阻む既得権者にすぎず怠惰の誹りは免れません。左右どちらも所詮は「近代」という掌の上で諍うばかりの同じ穴のムジナにすぎないのです。(申し訳ありませんがコメントが長くなりますので2回に分けて送信させて頂きます)
返信する
そして“全体主義”の起源 (コーラス好き)
2014-03-16 00:47:13
さて、本日の第3回将棋「電王戦」初戦、将来を嘱望される菅井五段が将棋ソフト「習甦」に完敗しました。小生も20年以上前ですがアマ五段でしたのである程度は手が読めるのですが、ソフトの意表をつく指し回しには改めて(諦めの)溜息がでました。「習甦」は昨年ソフト側で唯一プロ棋士(阿部光瑠四段)に負けたので、吉田栄作似のソフト開発者の方が「阿部先生が弱いソフトに負けたのではなく、強いソフトに勝ったのだということを分かってもらうためにも、失礼にならないように勝ちたい」といった趣旨のことを仰っていましたが、見事に雪辱を果たしました。昨年は奨励会初段の方がソフトの代指しをしていたのですが、今年はデンソーが開発した「電王手くん」なるロボットアームが指していました。デンソーにも将棋ファンが多いそうできっと嬉々として造り上げたのでしょう、世界に誇る日本の産業用ロボットアームのミニチュア版という感じで微笑ましかったです。

本日の電王戦初戦を見るにつけましても人間がしていた仕事はどんどん機械に奪われていくと感じます。人間でなくてはできないこと、そして自分にしかできないことを持てるか否かが各人の死命を決することになります。何でもソコソコ出来る人は要らなくなりますが、何かひとつでも秀でたものがあれば飯は食えます。そんなプロフェッショナルを育成するにはやはり現行教育制度では無理があります。技術も伝承されず消えゆくばかりです。

ところで先日のコメントで近代教養主義に立脚した戦後教育を「古臭い教育」と呼んだのですが、温故知新の保守主義に好意を寄せる(そしてジャズ好きでもある)小生としましてはいささか後味の悪い表現でした。真正保守を標榜される西部邁さんが主宰される月刊誌『表現者』3月号のテーマは「全体主義」。実は民主主義こそがファシズムを生むという逆説的な側面を弁えていると思われる保守系論客らによる座談会がメインですが、今の時代の不穏な空気を読み解くうえでとても参考になります。

表現者2014年3月号 “保守論客が説く「全体主義」の本質”
http://www.amazon.co.jp/%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E8%80%85-2014%E5%B9%B4-03%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00I81B9QC/ref=pd_rhf_cr_p_t_2_PG8Z

他にも、教養とは配慮のことであると喝破された福田恆存先生の研究者として知られる浜崎洋介さんが、昨年公開の自伝映画が反響を呼び口コミで上映館数が広がったというハンナ・アーレント絡みで“アーレントと福田恆存「全体主義(totalitarianism)」と「全体(wholeness)」”なる論文を載せています。ここの所をキチンと言葉にしてくれる人を心待ちにしていたのです。萱野稔人さんの名著『ナショナリズムは悪なのか』(NHK新書)208頁「反ナショナリズムの限界」という一節にこうあります。

「まず、国民国家は必ずしもナショナリズムに向かうわけではないということである。特定の経済的条件と経済政策が要因となって国民国家はファシズムに向かう。したがって、国民国家とファシズムを同列にならべて「国民国家はファシズムをもたらしたから否定すべきだ」と考えることはできない。そうして同列視は、国民国家をファシズムにむかわせる要因を無視し、ファシズムの原因をいかに取り除くかという課題を見誤らせるのである。」
「したがって国民国家がファシズムへと向かわないようにするためには、国外市場の拡大を重視することで国内経済の脆弱化を放置ないしは加速させてしまう経済政策を進めないようにすることが必要となる。つまり、国内経済を保全するというナショナルな経済政策が、国民国家をファシズムに向かわせないためには不可欠なのだ。」

このあたり先の『表現者』座談会にも参加されている佐伯啓思門下の気鋭の保守論客、柴山啓太さんがグローバリズムを批判的に論じた『静かなる大恐慌』(集英社新書)の議論とも重なるところです。柴山は最近ダニ・ロドリックの『グローバリゼーション・パラドックス・世界経済の未来を決める三つの道』を訳しています。下記amazonの好レビューにもありますように「(1)グローバリゼーション、(2)国家主権、(3)民主主義、のどれか一つを制限しなくちゃいけないよ」というトリレンマを説明しており、「バブルとクラッシュを繰り返す現状の資本主義メカニズムを的確にあぶり出すだけでなく、グローバリゼーションと民主主義が両立できると素朴に考える日本の世論に冷水を浴びせかけるのは間違いない」必読書かと存じます。YAN様には原書のほうが読みやすいかもしれませんが。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560082766/ujikenorio-22/ref=nosim/

これまでインターナショナリズムという名の全体主義を是として疑わなかった我々ですが、金融工学に象徴される工学的発想に基づく効率至上主義を人間の生き方にまで持ち込むことが果たして善いことなのか・・それによって失われたものは何だったのか。本書を読みながら思いを馳せずにはいられませんでした。
返信する
コーラス好きさんありがとうございます。 (YAN)
2014-03-18 23:53:34
情報提供を兼ねたコメントを頂きありがとうございます。

さて、小保方さんの件にしても、マレーシアの飛行機の行方不明の件にしても、最近不可解な出来事が多いように思います。これらは、単なる偶然ではなく、何か意図的な物を感じます。
このような不可解な事が起こった時は、「それによって誰が利益を得るか」を考えるのが定石と聞いています。いずれにしても、ミステリー小説より面白いことが現実に起こる時代になったということでしょう。

いや、今までも起こっていたのかもしれないのですが、これまではニュースに取り上げられないと一般人の知る処には至らなかったのです。ニュースを扱うマスメディアは、その成り立ちから体制側の広報手段として使われてきました。したがって、真実が伝えられているとは限りません。意図的なマインドコントロールに使われるだけでなく、不都合な事が起こると他の話題の陰で重要な記事が小さく扱われ、さらには記事が外されるというということも行われます

ところが、昨今のネット時代では、どこかから情報が流れてくるようになりました。情報公開で過去の事実が明らかになり、ウィキリークスのように隠れた事実を明らかにするのを憚らない時代です。色々な出来事に謀略説が語られることが多くなりましたが、「火のない所に煙は立たぬ」と言われるように、意図的な事の裏には謀があるとみるのが世の常でしょう。それは世の中の一般常識とはかけ離れた次元で仕組まれていると思います。

今回のSTAP細胞騒ぎも細かくはフォローしていませんが、論文の不備やコピペ話は大きく騒がれていますが、発見の本質が虚偽であったという論調はあまり聞きません。とすると、小久保さんは単なる騒ぎの当事者に祀り上げられているだけで、狙いは別の所にあるというという話もまんざら戯言ではないかもしれません。

現役時代、コンサルティングもどきの仕事を多くやっていましたが、問題点を整理するときに「目的」と「狙い」を区分けしないと課題の抽出の本質を見誤るということをいつも心掛けていました。問題点が明らかになると、目的(目標)を達成するための方策、アイディアは山ほどみつかります。ところが、それは何のためにやるのかということをいつのまにか忘れてしまい、「出来上がった物は一体何のため」ということがよく起こります。
一昔前の、箱物行政はその最たるものでしょう。この建物は一体何のために作ったのか?という代物がたくさんあります。

原子力開発も、原爆にしろ、原発にしてもそれを物理的に作り上げることが目的になり、それを何のために使うのかというのが本来の狙いです。皮肉なことに、本来の「狙い」とは反対に、武器として作ったはずの原爆が抑止力として機能して大きな戦争を回避して平和をもたらし、平和目的で作ったはずの原発が、実は人類を危機に陥れるものであったというのも皮肉な結果です。「狙い」には、その上位概念が必ずあるということかもしれません。
それ故、大きな謀の本質が凡人にはなかなか見えにくいというのは仕方がないことです。

先日、京大の学長を国際公募するという記事がありました。これはまた新しい展開です。
日本の企業で外国人をトップに迎えた所が何社もあります。
結果はどうであったか? 上手くいかなかったり、会社の名前は変わらないものの、資本を含め実質的に外資に乗っ取られている企業も多くあります。日本の企業文化を十分に理解して企業経営にあたっている外国人トップというのは稀ではないでしょうか。

今回の京大の話が、自己改革ができないので単に外の血を入れる程度の話であれば、これまで企業が経験したのと同じであり、きっとうまくはいかないと思います。
ジャパノロジーという言葉に象徴される日本研究は、実は日本よりも外国の方が進んでいるという話も聞きます。本当の日本の伝統・文化を理解している外国人が日本の教育の先頭に立つというのであればこれは面白い展開になるかもしれません。

教育といえば、景気が幾らかよくなったとはいえ、大学卒の就職率は一向に上がらず就職難が続いています。一方で、現場の仕事は人手不足が益々顕在化しています。建設関連だけでなく、IT業界でも、ますます色々な業界に広がっていきそうです。
このミスマッチはどこに原因があるのか?国民全体の教育(育成)を考えれば、この基本的な現状にメスを入れればよいと思うのですが。

今、不足している人材は、いわゆる「職人」といわれる人だと思います。長い現場経験を経て代々親方から引き継がれていく技術がいわゆる職人芸です。何もモノづくりの世界だけでなく、農業から文化・芸能の世界まであらゆる業種に共通しているのが職人芸です。
世の中ホワイトカラー全盛の時代ですが、オフィスのデスクワークでも、昔は女性の大ベテランが事務所全体を取り仕切っていました。今の派遣社員中心の体制では育ってきません。

多くの大企業は、本業以外はアウトソーシングの大方針の元に、この職人芸の達人を外部化してしまったのでいつの間にか足腰が弱ってきたというのが現実ではないでしょうか。

残念ながらこの職人芸は学校教育でも学べません。IT化、機械化ではこの職人芸を真似ることはできないと思います。何故ならば、職人芸の伝承には創意工夫があるからです。相違工夫ができる人間を育てるのが、教えの原点のような気がします。よく怒ると叱るは違うといわれます。何事においても、叱られえれば2度と叱られないように考えるものです。

「コーラス好きさん」のコメントにあるデンソーという会社は、以前一緒に仕事をしたことがありますが、実に堅実な会社です。トヨタでも日産でも自動車会社の技術を支えているのは、このデンソーをはじめとした多くの部品メーカーであるのは衆知の事実です。車の世界もIT化が進み、昔の機械工学系の物づくりの技術は製品づくりで不要になってしまったものが多くあります。しかし、デンソーは社内に学校まで作ってそれまで築き上げた技術を絶やさないようにしているそうです。職人芸の伝承を企業としても重要だと認識しているからでしょう。まさに、ロボットなどはこのモノづくりの技術が無ければ作れないものです。

今回、最後は国家論の話までに至っていますが、自分のような不勉強者にとっては少し荷が重いテーマなので論客の方々のコメントはなかなかできません、勉強のための材料を頂いたという事で預からせていただきます。

国といえば、その要素は、領土、その自然環境、そこで生活する民族、そして国民が日々生活していくための文化、そしてそこを統治する者に分かれると思います。
日本の場合、それが一体化されて独立国として長年続いてきました。今話題のクリミアのように、人が一生を終える間に何度もその枠組みが変わってしまう国とは基本が違います。

もし日本の本当の良さというものが、この一体化された国家観に根差したものであるのであれば、今世界を席巻しているグローバリゼーション(覇権主義の手段)は、それだけで従来の秩序を乱す不快な物になってしまうのは止むを得ないと思います。
古くは鎖国からの開国、昨今のTPP交渉に至る一連の近代化の動きに、自分ももろ手を挙げて共感できないのはその辺りかもしれません。

多少、問題意識を持って少し頭の中を整理してみます。



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