「燃ゆる希望にいのち生き 高き理想の道をゆく~ ああPL PL とわの学園 とわの学園・・・」真夏の海岸、ビーチパラソルの下でポケットウィスキーを呑みながら、ラジオから流れてくる甲子園の高校野球の放送にあわせて校歌を唄ったら、近くにいた中学生ぐらいの坊やが驚いたような顔で私を見た。PLのOBとでも思ったのだろう。 高校野球が大好きなので、強豪校の校歌をいくつか憶えてしまった(池田、横浜、早実、東海・・・など)。 おもしろいのが愛媛の済美で、「やれば出来るは魔法の合言葉」という1行がある。校歌にまほうという言葉が出てくるのは他にはないのではないだろうか。 私がよく思うのが、静岡の小中高のすべての校歌に、富士(霊峰、芙蓉の高嶺など)が用いられているのではないかということで、もし富士抜きの校歌があったら教えていただきたい。 慶應義塾には小学校(幼稚舎)から大学まで共通する塾歌があって、章の終わりは「ああ我が義塾 慶應 慶應 慶應」であり、他の応援歌(若き血、慶應賛歌、踊る太陽・・・など)もケイオーを3連呼するものが多い。一方、早大校歌『都の西北』は、ワセダ、ワセダ~を7回連呼する。この歌で好きなのは、第3章の「集まり散じて 人は替われど 仰ぐは同じき理想の光~」の部分で、これは塾歌の第3章「生きんかな この丘に 高く新たに生きんかな~」とも同じで、古臭く泥臭いところに伝統がある気がする。 「六甲の山脈(むこのやまなみ)背に負いて ちぬ(大阪湾のこと)の浦風おだやかに~」、私が4年間学んだ兵庫県芦屋市立岩園小学校の校歌であり、その続きに、「我ら学徒 イワゾノの~」とあった。 学徒は戦中用語であって、校歌にも、その辺の配慮があったのだと思う(それにしてもイヤな言葉だ。もちろん、現在は、我らが母校 と直されている)。 もう1ツ、叔母が通っていた芦屋高等女学校の校歌が懐かしい。「晴れ渡る日に照りにおう おのずから海の色~」、叔母は8歳上で、戦中は女子挺身隊として学校へは行かず縫製工場で勤労奉仕をしていて、晴れ渡る日どころではなかった。私がこの歌を憶えているのは、たぶん叔母が家で唄っていたからだろう。 あなたにとって青春の歌は?なんて、テレビなどでよくやっているが、たとえば、舟木一夫さんの『高校三年生』よりは、母校の校歌の方が懐かしくはないか。
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