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これもクイズで?

2021-04-18 11:08:36 | 日記
巨人ー中日戦を観た。日本テレビだったと思う。眠る前の午後8時頃で、私のベッドからは細かいところまでは見えないが、6-1で巨人がリードしていた。プロ野球には熱心でないのでよくわからないが、今年は阪神と巨人が強いらしいから、5点差あればもう勝負は決まったようなものなのか、7回表だった。プロ野球ファンは昔より増えているのか、減っているのか。中学生では野球部とサッカー部の入部希望者が同数ぐらいだと何かで読んだような気がするけれど。

テレビで奇妙なことをやっているのに気が付いた。解説者が4人いる。私が知っているのは江川卓さんと川上憲伸さんだけで、あとの2人はわからない。その4人がクイズのようなものをやっている。投手が次に投げる球の種類を当てるものだ。たとえば打者Aのカウントが2ボール2ストライクになったとする。さて投手は次に何を選ぶか。ストレートかフォークかスライダーか、それを解説者4人が当てる競争をしているのだ。だからアナウンスがやたらと騒がしい。うるさい。前記の2-2のカウントで江川さん、川上さんの見解を訊くのならまだわかるのだが、そうでもない(なんでもない)場面でも4人の当てっこが続く。しかも採点法まであって、川上さん10ポイント獲得などと大声で言ったりする。解説の1人が、次の投球は裏の裏を狙ってストレート、なんていう説明をする。山口瞳さんの、「ウラのウラはオモテ」という言葉を思い出す。今の若いファンや子供は、こういう解説がおもしろいのだろうか。とにかく、なんでもクイズ方式にするのが好まれるのか。テレビを観ながら、自分で投手の次の投球を予測する方が楽しくはないのだろうか。

女性が多いと

2021-04-18 10:59:44 | 日記
「女性が多い会議は時間が長くなる。1人が喋ると、我も我もと発言したがるからだ」と言った森喜朗さんの言葉が差別発言と指摘され、結果として森さんは東京オリンピック組織委員長の座を追われた。女性の多い会議は本当に長くなるのだろうか。

随筆同好会の合評会も女性が多い。まずベテランの山中クリさんが、「今月の作品の中では、田中ヨネさんのものが一番よかったと思います」と言い、みんなの顔を見る。自作を褒められたヨネさんは顔を赤くしながら、「いいえ、私のなんて・・・」と恐縮しながらも喜びを隠せない。クリさんは会員中トップの年齢で70を越えている。ヨネさんも70の2つ3つ下か。「そうです。私も賛成です。ヨネさんの文は若々しいですわ」と、森野トリさんが追随する。トリさんに続くのが庭野ハナさんで、トリさんとハナさんは60歳前後に見える。男性会員は黙っている。というより、口を挟む機会がないのだ。とにかくヨネ作品が秀逸であることが一段落しないと、先へ進まないのだ。10分か15分経つと、弁士は最初のクリさんに戻る。「書き出しが自然だ。ひとつひとつの描写が細かい。わかりやすい。形容に工夫があり、読者をその場で見ているような気持ちにさせてくれる」なんていうことを並べ立てる。クリさんは自分の解説に酔っているかのようだ。また10分が経ち15分が過ぎる。

クリさん推奨のヨネさん作品は平凡な紀行文だった。つまり、50歳の私にとっては退屈なものだった。しかし、そんなことは発言できない。クリさんは同人会の古株であり、ヨネさんもトリさんもハナさんも作文大好き人間なのだ。誌は月刊だったから、今月の自分の作品に対する評判は生甲斐でもある。女性の多い会議は長くなるという森喜朗氏の言葉を聞いて、私は、30余年前の随筆同人会のことを思い出した。

2021-04-18 10:49:37 | 日記
娘は生霊を見たことがある。その日娘は横浜での仕事が遅くまであって、タクシーで帰ることにした。鎌倉霊園の近くの道を走っているとき、少し離れたところを男が一人歩いていた。男はリュックサックを背負っていた。変なことがあった。男の身体を通して、その向こう側が見えたのだ。つまり、男の身体は透明だったのだ。タクシーから降りるとき、「さっき、男の人がいましたよね?見ましたか?」と娘が運転手に訊いた。運転者が否と応えたので、娘は見た通りのことを話した。「やめてください!」、運転手は震えあがった。「今から、この道をまた通って帰るんです」と言った。娘が見たのは生霊(いきりょう)であって、墓地の近くによく現れる。それを見たという人は少なくない。私は子供のころから何人もの人から似たような話を聞いている。そして、その人達の話は決して人を怖がらせようとして作り話をしているのではないという点で共通する。

いつもの時間に、いつもと同じところを歩いていて、いつもの場所に向かっていた私が、何の気なしに見慣れたトウモロコシ畑の庭を眺めた。それが無かったら私は9歳で人生を終えていた。この話は何度も書いた。そのとき私の足を止めたのは先祖の霊であると私は信じているし、それ以外は説明がつかない。

昭和45年11月15日。三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷庁舎に楯の会会員とともに行き、益田兼利総監を縛り上げ、バルコニーに出て隊員相手に決起を促す演説を試みるが、無視され、結果、自害して果てる。このことについて、美輪明宏さんは、三島さんは2.26事件の首謀者の一人の栗原中尉の霊に取りつかれていると説明しているが、私はこの説にうなずく。三島が、自衛隊決起の可能性を信じるとは考えにくいからだ。三島事件についてはいろいろな人が諸説を述べている。もう書けなくなったからだという意見も少なくなかった。そんな中で、私は美輪説が正しいと思っている。その説明がいちばん納得できるような気がしている。

雀荘

2021-04-18 10:41:19 | 日記
昨年の1月だったか2月だったか、とにかくコロナ騒動の初め頃、デイケアサロンから連絡があった。「通常通り開いております。ただし麻雀ゲームのみ行っておりません」。サロンではクイズ組、散歩組、合唱組といろいろなグループがあって、メンバーはそのどれかに入っている。私はもちろん麻雀組だから、以後の1年余りを欠席している。麻雀はマスクをかけても密である。アクリル板で仕切ることも不可能だ。そのことから考えて、全国にある町の雀荘は閉店に追い込まれたところも少なくないだろうと想像する。麻雀好きはどうしているのか。土日だけ開催している中央競馬に転向したか。

午後2時ぐらいから大学生の4人組がやって来る。5時を過ぎると、近くの会社、役所、商店勤めのサラリーマン達が、これも多くは4人組だ。5時、6時になると、個人メンバーが1人、2人と集まって来る。職業はさまざまだ。ヤクザ、保険の勧誘員、商店主、廃品回収業、職業不詳、プロ雀士らしき人物・・・その個人がいつの間にか、気の合った4人組になったりする。プロらしい人物といっても連勝するわけではない。麻雀は技ではなく運に左右されることもある。もうひとつは財布だ。懐のさびしいときは打ち方も弱くなる。小さくなる。そうなると勝負には勝てない。

私の学生時代、東横線・日吉駅の周辺には雀荘が多かった。たとえば、ちょっと大きな個人宅が応接間を利用して雀卓を並べたりしていた。ちゃんと営業許可を取っているのか、怪しげなところもあった。現在と言うより、もう昭和の終わり頃でも、大学の近所に雀荘はあまり見かけなくなったようだ。町の事情に詳しい重田名人に訊いてみても、雀荘はあまり見かけないと言う。

青春の城下町

2021-04-18 10:31:36 | 日記
<流れる雲や城山に登れば見える君の家~ああ青春の思い出は わがふるさとの城下町>。昭和30年代に流行した『青春の城下町』の第一章である。唄ったのは梶光夫さんだ。第二章<白壁 坂道 武家屋敷 初めて触れた細い指 ひとつ違いの君だけど 矢羽根の袂がかわいくて~>と続く。

茨城県竜ヶ崎市城下町、10歳から6年間、私が住んだ茨城の家の所番地である。梶さんの歌はジョウカマチだが、我が家はシロシタだった。たしかに小さな山の裾にあったが、山の上に城は無く、あったのは県立竜ヶ崎第2高校だった。

シロシタ町は町はずれにあった。家の近くに川(用水路)があって、川傍に朝鮮があって、同級生のH君の家があった。H君の父親がの長だった。ではドブロクを造り、せんべいを焼き、肉店に売る豚を飼育していた。私はよくそこへ遊びに行っていた。せんべい作りの仕事を手伝うこともあった。手伝うと、出来の悪いせんべいが食べられたから、初めてのアルバイトだったと言えると思う。時々ドブロクも飲めた。ドブロク造りは当然に酒税法違反だが昭和20年代の初め頃の朝鮮は治外法権だった。ドブロクを飲むと体が熱くなり、顔が赤くなった。しかし不味くはなかった。

ひとつ違いの女の子が隣家に居た。白壁の家も武家屋敷もなかったが、2人で夜の映画へ行くことがあった。彼女の父親は近隣の村の小学校の校長先生だった。「ヤボなら、いかっぺ(いいだろう)」と言ってくれていたそうだから、私は校長先生に認められていたことになる。竜ヶ崎市城下町の名は現在でもそのままあるのではないだろうか。今はどんな人が住んでいるのか、わがフルサトの城下町。