昭和27年5月2日の午後、私は福島県白河から東京に帰って来た。茨城から上京して1カ月だった。私立高校の2学年に編入学してすぐに親しくなったA君に誘われた。彼の家が白河で牧場をやっていて、そこに招待された形だった。初めて飲む搾りたての牛乳、牛乳風呂、もちろん上等な肉もご馳走になった。
家は世田谷にあったから、上野から山手線で渋谷へ向かう。ふと気づいたのが、車内がなんとなく静かであることだった。しーんとしている感じがあった。少し不思議な雰囲気だった。帰宅して祖父に話を聞いた。前日のメーデーに皇居前広場で行われたデモの集会で若者たちと警官隊が衝突し、数名の死者も出たということだった。これがのちに血のメーデーと呼ばれることになる。テレビのない時代である。新聞とラジオで知るだけでも大事件と言えた。電車の中の人々の沈黙の理由もそこにあったのだとわかった。
昭和30年代の中ごろから皇居前広場はデートの名所となる。ところどころに置いてあるベンチでアベックが抱き合う。唇を寄せ合う。他人の眼は気にしない。みんな、お互い様なのだ。それを覗き見する輩もいた。広場は暗い。しかし真っ暗闇ではない。つまりは、絶妙の暗さだった。石原裕次郎さんの歌の一節を借りれば、『夜霧よ今夜も有難う』である。
現在のあの広場はどうなっているのだろう。メーデーの集会は行われなくなったらしいが、アベックじゃないカップルが、暗くなると手をつないでやって来るのだろうか。それとも、いまの若者達はもっと明るい場所で逢瀬を愉しむのだろうか。
家は世田谷にあったから、上野から山手線で渋谷へ向かう。ふと気づいたのが、車内がなんとなく静かであることだった。しーんとしている感じがあった。少し不思議な雰囲気だった。帰宅して祖父に話を聞いた。前日のメーデーに皇居前広場で行われたデモの集会で若者たちと警官隊が衝突し、数名の死者も出たということだった。これがのちに血のメーデーと呼ばれることになる。テレビのない時代である。新聞とラジオで知るだけでも大事件と言えた。電車の中の人々の沈黙の理由もそこにあったのだとわかった。
昭和30年代の中ごろから皇居前広場はデートの名所となる。ところどころに置いてあるベンチでアベックが抱き合う。唇を寄せ合う。他人の眼は気にしない。みんな、お互い様なのだ。それを覗き見する輩もいた。広場は暗い。しかし真っ暗闇ではない。つまりは、絶妙の暗さだった。石原裕次郎さんの歌の一節を借りれば、『夜霧よ今夜も有難う』である。
現在のあの広場はどうなっているのだろう。メーデーの集会は行われなくなったらしいが、アベックじゃないカップルが、暗くなると手をつないでやって来るのだろうか。それとも、いまの若者達はもっと明るい場所で逢瀬を愉しむのだろうか。