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成長

2011-04-28 21:56:57 | 日記
4年前か5年前になるか、テレビ朝日のワイドショー番組の司会が、渡辺宣嗣さんから赤江珠緒さんに交替したときは、大丈夫かな?と思った。 この種の司会者の仕事はあらかじめ準備できていることが大半だろうが、中には速報的なものもある。次にコメンテーターやゲストなどの出演者とのやりとりがあって、このことは、タイミング(呼吸)が主となるから、経験という名の勉強が要る。 そして赤江さんは見事にそれらの壁を乗り越え、いまや充分な余裕さえ感じられるようになった。 TBSの『みのもんたの朝ズバッ!』の天気予報を担当していた根本美緒ちゃんは気取りのない美人で、素敵な笑顔の持ち主であり、いかにもテキパキとした仕事ぶりだったから、その後を継いだ美馬玲子ちゃん(名前もいい)は大変だったと思うが、彼女もまた見事なウェザーガールになった。まだ2年ほどかと思うが、かりに彼女の表情を毎日1枚ずつ撮り続けたとすれば、1枚目と730枚目とでは別人のように写っているはずだ。 むろん年齢的なこともあるが、それとは別の、端的に言えば、女性としての魅力が3倍にも5倍にもなっている。みのもんた氏の不人気で『朝ズバッ!』の視聴率は下落しているそうだが、美馬玲子嬢の笑顔は、雨の日でも気分が晴れる。 A子は19歳のときに私の課に配属されてきた。最初の仕事は当然に雑用的になるが、次第に課内のみんながA子にアレコレの仕事を頼むことが増えるようになった。彼女の前任者(寿退社していた)も優秀だったが、2人の共通点はカンのよさだった。たとえば、部長、課長、係長の3人から仕事を頼まれたとき(男性社員なら役職順に引き受けようとするが)それを重要順に並べ替える判断力があった。
部長からの依頼より係長の依頼を優先するには、一種の度胸が必要だが、そこのところの直感も冴えていた。 私は彼女に何度も助けられた。 赤江さん、美馬さん、A子さんに言えるのが人間としての急成長である。彼女達を短時間で成長させたものは何だろうか。もってうまれた直感力だろうか。それもあるし、それが大きいとも言えるけれど、もう1ツは、やりがいと責任感であるだろう。赤江さん、美馬さん、A子にも優れた前任者がいた。その先輩を超えようではなく、せめてその名(ポスト)を汚さないようにしようという責任感、そして、この仕事は私に合っているからやってやろうじゃない!という気持ちが、成長のもとになったことは間違いないだろう。

誤読と誤用

2011-04-28 00:42:02 | 日記
「私はマクマにセリフを確認するので忙しいんです」と女優(高畑淳子さん演)が言い、「マクマをお邪魔して申し訳ありません」と、警部(水谷豊さん演)が頭を下げる。 ドラマ『相棒』(これのDVDを娘が全巻持っていて、午前の足踏み運動のときに、よく観ている)の1シーンである。 マクマは幕間(まくあい)の誤読であって、高畑さんは完全なミスである。水谷さんは、もしかすると正しい読み方を知っていながら相手に恥をかかせないように、故意にマクマと言ったのかどうか、その辺はわからない。私がフシギに思うのは、ちょっとした演技の失敗でもすぐにカット(ストップ)の声がかかるのに、この場合、なぜ声がかからなかったのかということだ。 その時点なら、高畑さんがちょっと顔を赤らめるだけで(表に出さずに)済んだはずだ。 また同じ話の中で、杉下(水谷)警部が、何度も「お食べになりました」という言葉を使うが、杉下警部は全巻を通して、なんでも知っている知識人の設定であり、「召し上がりました」を「お食べになりました」と言うのは不自然である。 ごく普通の社会で、「お食べになる」という言い方をする人はほとんどいないのではないか。 ドラマ作りの工程の中に、セリフの読み合わせのような勉強時間はないのだろうか。もちろん誰にだって誤読はあるだろうし、私もいいかげんなものだ。しかし、大勢の人が観るものには、歴史モノにある時代考証のように言語考証があるといいと思う。15才の少女が、これぞいい言葉だと思って「お食べになりましたか?」と使われるのは困るし、彼女が40歳になってもそう言い続けるのも困る。

声の遺言

2011-04-28 00:32:05 | 日記
「あれは辛かった」と、全く別の幼児で電話をかけてきたA子さんが言った。一昨日行われた元キャンディーズの田中好子さんの告別式で流れた、故人の声の遺言とでも言うべきテープのことである。 もちろん、旅立つ人の最期の声を家族などが聴くということはいくらでもある。しかし、田中さんの場合は少し違って、テープが録音されたのは死の26日前(3月29日)であって、私もテレビを通して聴いたが、いかにも弱々しく、それがA子さんの言う「あれは辛い」ということなのだ。たとえば、ある歌手が亡くなったとして、その葬儀には彼(彼女)が元気だった頃のヒット曲が流れるのが通例であり、また自然でもあるから、一昨日の場合は異例と言えるし、それに感動する人もあるだろうし、A子さんのように?マークをつける人もある。 平成4年に49歳で逝った家人の妹の声が(ウチの娘達との会話で)残っているが、私も家人も、それを聴くことはないし、むしろ聴きたくない気持ちが先立つ。 声は文字、写真、肩身などと較べて生々しいということもあるが、声というものは、動作と同じように、想い出の中にしまっておきたいという気持ちが働くからだ。 写真、肩身、文字は有形だが、声は無形遺産だから、少なくとも歌手の場合は、ベストのときのものを~とするA子さんの考えに私も賛同する。 田中好子さんの終わりのメッセージ、「息苦しくなってきました」はA子さんの言うように、辛さだけが残ってしまう。