由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

いじめは青春だ!?

2021年08月29日 | 教育
 平成7年のTVCM

 上の画像で女装している小山田圭吾という人が、オリンピック開会式の作曲担当者の一人に選ばれたばかりに、過去のいじめ語りがクローズアップされてしまったのは皆様ご存知の通り。私は、田舎者で、お洒落な渋カジ(って何?)になどなんの興味も、従って知識もなかったのだが、おかげでいろんな話を聞き、自分でもインターネット上の言説を漫然と眺めるぐらいはした。
 中に、最初の主なきっかけである、「いじめ紀行 第1回ゲスト 小山田圭吾の巻」(『Quick Japan 95年3号』所収)を全文アップしてくれた人がいた。読むと、これはけっこう興味深い文書だった。いじめの記録と言っていいかどうか、小山田本人もよくわからない、と漏らしている。ただ、「ひどいこと」はした、という自覚はある。不謹慎に聞こえるかも知れないが、そういう道徳的な裁断だけでは、子ども達の中に(大人と同様に)ある猥雑で陰湿な要素は隠されてしまうばかりだ。そんなものは見たくないし、見る必要もない、と言う人は沢山いる。しかし、見なくても、それは、ある。
 それでやっぱり、断っておかねばならないだろうが、私は、「いじめ」そのものはもちろん、小山田を初めとしたこの記事関係者を弁護する気は毛頭ない。それに、ここに書かれていることが文字通り事実だったかどうかもわからない。10%から90%ぐらいの幅で、話が「盛られている」可能性はある。たとえ100%フィクション(作り話)であるとしても、話を作る作者たちの心性はそこにこめられているはずだ。小説と同じこと。そう思って読むと。
 語り手・小山田の話に最初に登場する沢田くん(仮名)は、体が大きくて、「怒らすと怖い」と思われている人で、普通ならいじめられないタイプなのだが、非常に目立つ言動があった。小五のとき人気のないクラブ(いわゆる「必修クラブ」のことか)でいっしょになって、活動場所が体育館だったので、語り手(小山田)を含めて五、六人で、沢田くんをマットでぐるぐる巻きにして……、などした。これは「実験」だと言われている。沢田くんは喜んではいないだろうが、さほどいやがるそぶりも見せず、妙なことを口走ったりするのがウケて、「実験」は続いた。
 こういう関係性自体は子どもの世界にはそんなに珍しくないと思うが、これをどう名付けていいかはわからない。小山田は高校時代には沢田くんの「ファン」だったと述懐する。同じクラスで席が隣同士になり、また二人ともクラス内には友だちがいなかったこともあって、仲良くなった……というのとはやはり違っていて、小山田は「オマエ、バカの世界って、どんな感じなの?」と、ストレートに訊いたわけではないが、そういう興味で彼を見ていたのだった。因みに、沢田くんのほうではどうだったのか、『Quick Japan』のスタッフが調べると、記事の時点でますます人と関わることはなくなっていたが、「小山田さんとは、仲良かったですか?」という問いには、「ウン」と応えたという。ただし、小山田との対談の話はお母さんを通して断っている。

 話はまだまだ続き、後の二例は、よりはっきりした「いじめ」になる。それを紹介する気にはならない。今までのところで私が言いたいことはおおよそ二点。
 第一に、話の舞台となった小学校から大学まで繋がったW学園(イニシャルを使う必要はないだろうが、この学校自体を批判したいわけではないので)の、インクルーシブ教育について。いわゆる障害のある子も、そうでない子と一緒に同じ教室で学ばせようという、統合教育の発展系とも言われるが、実際は、きれい事をヴァージョン・アップさせただけだ。
 実践レベルで言うなら、私も、高等学校しか知らないが、中学校までは支援級にいた子が入った普通クラスを担当したことならたくさんある。当然、その子の性格にもよるのだが、多くの場合、他のクラス・メートに溶け込み、まずまず楽しく学校生活を送る場合も多かった。この事件をきっかけにして、W学園出身者からのSNSへの投稿でも、小学校から高校まで、差別なんてことは全くなく、皆で楽しくやった、というのもあり、それは嘘ではないだろう。
 しかし一方、次のようなツイッターの投稿もあった。

 ここからは取り止めもない回想になります。/学園の空気が伝われば幸いです。/ある知的障害を持つ子が同じ学年にいた時、その障害について先生が説明したことがありました。/その説明は十分なものだったと今でも思います。/ですが次の日から始まったのは、その障害名を呼んで囃し立てるいじめでした。/正しい理解があればいじめをしない、というわけではないのに、/障害を持つ生徒を手薄なフォローで受け入れることがどれだけ残酷なのか、と思います。/(私自身、その子とうまく付き合えませんでしたし、大分酷い対応もしたとは思います。一応、公平のため付け加えておきます)

 ここにも全く嘘はない、と感じる。似たようなことなら、体験したし。
 子どもは本来純真か、それとも残酷か、なんて話をしてもしかたない。ここには、同年齢の者だけが集まった同質性の高い集団では、多少とも異質なものはひどく目立つし、それとの関わりは誰にとっても、もちろん大人にとっても、難しい、ということが端的に現れている。思い遣りをもって、などと言うが、具体的にどうしたらいいのか。それは一定の社会の中でしか学べない。
 本人たちがどう思っていようと、小学校時代の小山田たちが沢田くんにやったことは「いじめ」、いや明確に「暴行」なのであって、そのように扱われねばならない。そうでなければ社会は保たない。
 自分の体験で言うと、しつこいからかい、と思えることをしていた生徒を叱責した場面を覚えている。この子が、下やら脇やら、あらぬ方を見て、こちらと視点を合わせないのはいつものことだが、いかにも、「何を言われているのかわからない」様子だった。その他、途切れ途切れに言われた問答をまとめると。
 生徒「俺なんかもっとひどくからかわれてる」私「それがいやだったのか?」生徒「……別に、いやじゃない」私「何をいやと思うかは人によって違う。少なくとも、いやだと言われたら、やめるべきだ」生徒「……」。
 これで何かが「解決」したろうか? 少なくとも私の目に映じた範囲では、大事は出来しなかったが、それは、少し前の定時制高校という、60代の人もいる、同質性があまり高くないクラスのできごとだという状況に拠るところが大きい。
 それから、もう気づいた人もいるだろうが、「少なくとも、いやだと言われたら……」という私の言葉には問題がある。じゃあ、言われなければ、いいのか? ということになるから。無論、そうではない。ただ、「ふざけっこ」と「いじめ」の境目は必ずしもはっきりはしない。大人の目から見て、だけではなく、当人たちにとっても。
 それでも、ではなく、それだからこそ、自分たちのやっていることは外部社会からはどう見られるか、わからせる「指導」は必須なのである。学校に、いや、社会に出来る「フォロー」はそれしかない。「理解」ではなく、「強制」。その必要性を認めないなら、インクルーシブ教育は、時に必然的に悲惨を招く。

 これから第二。小山田へのインタビューを中心にこの記事をまとめた村上清は、いじめに関する新しい語り方を打ち出そうとしたようだ。「いじめはエンターテインメントだ」と。彼自身も学生時分に短い期間だがいじめられたことはあったから、いじめられっ子に感情移入することはできると、その上で、「いじめスプラッターには、イージーなヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティヴさを感じる」と言う。
 スプラッター映画に厳密な定義はあるのかどうかは知らないが、例えばブライアン・デ・パルマ監督「キャリー」(1976年)などは真正面からいじめを描いた青春残酷映画である。ザラついた不安によって物語が運ばれ、最後の大破壊のカタストロフに至る(最後の最後にもう一段ドッキリが仕掛けられているのはこの際度外視)。日常生活にこんなのがあるわけはないが、いじめは、いくらかそれに近いような気がする。とりあえず、他のごっこ遊びとは違って、いじめられるほうは本気で苦しんだり痛がったりするのだから、切迫感はある。
 そして、背徳感のスパイス。
 理解していない、というより、理解したくない人がけっこういるようだが、いじめは悪いことだとわかっていないからなくならないのではない。悪いことだから、それがわかっているから、魅力的なのだ。近代の若者の多くは、大人社会への反抗を経て、アイデンティティを獲得する。いわゆる第二次反抗期。大人に禁じられていることを敢えてやるのは、スマートに(賢く、カッコよく)やりさえすれば、英雄的な行為のようにもみなされる。
 元来『Quick Japan』とは、サブカルチャーの専門誌だった。そしてサブカルチャーとは、60~70年代の荒れる若者の系譜を継いでいる。既成権威の悪に反逆するという、一見政治的で真面目な衣が剥がれた後の、遊びの形をした反抗。ただ、大人たちの偽善には我慢ならないという感情は相変わらず根強い。起源をたどればもっと古く、石原慎太郎「太陽の季節」(昭和30年)あたりで形になっている(当時は、「アプレ」と言われた若者像)。これがつまり、戦後社会に大量発生した「青年」と呼ばれる存在の、中心核なのであろう。村上は言う。

 去年の一二月頃、新聞やテレビでは、いじめ連鎖自殺が何度も報道されていた。「コメンテーター」とか「キャスター」とか呼ばれる人達が「頑張って下さい」とか「死ぬのだけはやめろ」とか、無責任な言葉を垂れ流していた。嘘臭くて吐き気がした。

 だからどうしようと言うのか。子どもの世界の外側から、通り一遍のヒューマニズムを振りかざしてマウンティングしてくる大人の偽善に吐き気を催しながら、内側にいて、どんな責任を負ったのか。結局の所、自分たちは子どもなのだから、少々の逸脱は許されるはずだという甘えしか、見えてこない。ぎりぎり煮詰めたら、彼らを突き動かしたのは、薄汚い既成権威とやらが作り上げた消費社会の中で肥大した自意識の、「平凡な大人にはなりたくない」という我が儘な感情だ(と、他人事として言いましたが、私もそうだったから忸怩たる思いはあります)。
 それもこれも、高度経済成長社会の必然的ななりゆきだったと言えるかも知れない。それでも見逃せないのは、かつての、既成権威の悪に反逆するという一事をもって、自分たちは悪を免れていると思いみなす脳天気だ。「政治の季節」が終わると、正義を気取る偽善はなくなったが、悪と言えばどこか遠いところにいるバルタン星人やショッカーのようなものであって、自分の身内には感じないお気楽さは残ってしまった。そんな暗くてダサいこと考えてたんじゃ、そうでなくても退屈なこの世界が、ますますつまらなくなるばかりでしょ、とばかりに。
 しかしいじめとは、どう見ても、支配する者とされる者が固定された権力ごっこに他ならない。その基本構造に敢えてだか無意識にだか目をつぶる結果、自分たちや自分たちの先輩たちが最も忌避し、反逆したはずの権力欲が、彼らの中で無傷で、それも、パロディーの、グロテスクな純粋形で、生き延びてしまう。
 いじめを肯定する、と言って、この悪をも引き受けよう、というなら、それも一つの思想的な態度なのかも知れない。しかし、小山田にも村上にもそんな気概はない。SNSで大々的に叩かれたら、殊勝に「反省」して見せるばかり。やっぱり、すべては甘えだったのですね。やんぬるかな。
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