小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

談合否定という過てる思想

2020年01月22日 22時01分46秒 | 思想


あるフェイスブック友だちAさんが、今から5年半前の2014年7月にYou Tubeにアップされた藤井聡氏の「土木を語る 第7回」という動画を再現してくれました。
https://www.youtube.com/watch?v=Q_I5fQJOwbA&fbclid=IwAR1NKNS0t1Zsmh-Y6wbbvFYVLkAvoKhGHTb30cP0-ur8Jx1px15-s8NhZGA
第二次安倍内閣官房参与に任命されてまだ1年半ほど経った頃のものです(いまよりだいぶお若いですね・笑)
30分ほどの短い動画ですが、ここで藤井氏はじつに為になる話を語っています。
さっそく筆者もシェアしたのですが、このブログの読者で未見の方がいたらぜひ見てもらいたいと思って本稿で取り上げました。
ここで語られているのは、明治以降の建設業界が、公共調達についての談合や入札を巡って二転三転してきた複雑な歴史の流れです。
Aさんが概要を手際よくまとめているので、それをちょっと無断拝借して補足します。。

明治政府の公共調達が始まる(業者を随意契約によって直接指名)。
このころ役所には土木建設に詳しく設計ができる技術者が直接勤務していたので、それが可能だった。

会計法ができて、一番安く建設する業者を指定すべしと決められる。

民間業者が増えたので、指名競争入札が始まる。

ダンピングが横行し、粗悪な業者の受注が増える。

最低価格制度ができる(インフラの特殊性にかんがみ、勅令で、杓子定規な会計法の例外を認める)。

談合が始まる。数社で順繰りに受注するルール。

談合の際に際限のない受注額つり上げを防止するために、政府は発注額の見積もりを自前で作ってそれを大幅に超えた入札結果については発注しないことを法で定める。
政府部内に優秀な技術者がいたから、それが可能だった。

談合に裏切者が現れて共謀して約束を破る(X社が100万円で受注できる約束だったのに、Y社、Z社……などが、99万円や98万円で入札)。

談合屋(反社会勢力)が企業に雇われ、他社を脅迫し、一時的に談合の秩序が保たれる。

談合屋が調子に乗って超高額の手数料を要求。
100万円で受注した公共調達が、実質50万円の建設費しか投資できず、粗悪なインフラしかできなくなる。

政府の監査付きの業界組合が出来て反社会的勢力を締め出す。
同時に、サービスの品格・雇用安定の仕組みが出来る。
つまり政府と組合との間の協同のおかげで、価格の上限と下限についての適切な幅が決められる。

大東亜戦争に敗北。

GHQ「談合なんて古臭い仕組みあかん! ちゃんと一般競争入札やるのが公正なんや!」。
独禁法が制定され、公取委発足(1947年)。

明治初期に逆戻り。

明治初期からと概ね同じサイクルにのり、今度は談合屋の代わりに政治家・族議員が談合を仕切る。

「いい談合」と「悪い談合」の区別を政府のガイドラインによって決める(1984年)。
これは、独禁法の内部に「いい談合OK」としてちゃんと位置付けられていた。

ところが90年ごろからアメリカの圧力が強まり、日米構造協議で独禁法が強化され、会計法に従った一般競争入札を強いられる。

またダンピングが横行し、弱い業者はどんどん潰れていく。
地方の中堅業者も受注できなくなり、大手ゼネコンの寡占状態に。

そこへ、東日本大震災で、供給不足が一気に露呈。

以上が明治以来、国情に合わせて苦労して作り上げた日本のインフラ整備のシステムが、アメリカン・グローバリズムによって二度も壊されていく過程です。
藤井氏は、いまの日本のインフラ未整備、劣化修復の困難の原因は、財務省の公共事業削減ももちろん重要だが、見落としてはならないのは談合を単純に悪と決めつけるアメリカ式の考え方が大きいと説いています。

筆者は昔から、なぜ談合はいけないのかという疑問を持っていました。
そこには、日本的な話し合いや共存や相互扶助の原理がうまく働いているのではないか、と。
このたび、藤井氏の話を聞いて、「いい談合」であればまったく問題ないことが確信できました。

もう一つ疑問に思っていたのは、東日本大震災の復旧、復興がなぜこんなに時間がかかるのかという点でした。
技術力も資金力も今よりはるかに劣っていたはずの関東大震災のほうが、復旧・復興が早かったのではないか。
ある知識人の集まる会合でこの疑問を口にしたら、誰も明快に答えられなかったのを覚えています。

今回この動画を見て、事情をよく知った地元の中堅業者が「談合禁止」という新自由主義的な圧力のために、分業と協力の体制を作り上げることが難しかったのではないかという感想を持ちました。
もし「談合禁止」の圧力がここまで高まっていなかったら、地元の業者はそれぞれの得意技を分け持ちながら、すり合わせを繰り返すことで、迅速に協力体制の達成に至ったのではないか。

得意技といえば、2017年のリニア新幹線談合事件で、大手四社が東京地検特捜部に摘発されました。
しかしこれだけのビッグプロジェクトで、それぞれの企業が自分の得意技を活かす必要から、受注調整のための相談をするのは当然でしょう。
しかもリニア新幹線プロジェクトの事業主体は、国から財政投融資を受けているとはいえ、JRという民間企業です。
違法性は限りなくゼロに近いというべきです。
東京地検特捜部には当然公取委が肩入れしているでしょうし、そのバックにはアメリカの自由競争至上主義が何らかの形でかかわっていると推定されます。
もちろん証拠をつかんでいるわけではないので、アメリカが日本の最先端技術を牽制するために、意識的に関与したとまでは言いません。
ただ、思想的なレベルで、戦後ずっとアメリカが押し付けてきた「談合否定」の考え方に、公取委や東京地検特捜部が洗脳されていたとまでは言えるでしょう。

藤井氏の話は応用が可能です。
終身雇用の否定、非正規社員の増加、シェアエコ、ギグエコ、ひとり親方などに見られる、企業組織から個人事業へという近年の傾向は、まさに圧倒的多数をバラバラな個人へと解体して窮乏と不安定に追い込み、元締めである少数の勝ち組だけを利する流れになっています。
談合否定という考え方は、この新自由主義的な流れと軌を一にするものでしょう。

「自由」を倫理的価値として絶対視し、長い慣習によって培われてきた「まとまり」の感覚を否定するこの流れは、その美名のもとに、じつは日本独特の資本主義的発展のあり方を阻害する以外の何ものでもありません。
始末に悪いのは、こうした組織解体の流れが、主観的には、「自由な個人選択」によるものだという幻想に支配されていることです。
多くの若者が、近年の雇用形態の変質を、経済主権を握った少数者による社会構造の変質と見ずに、「自由でよい」ものだと思っています。月収15万円しか稼げないのに。

アメリカの現実事情は地域や民族によって複雑で、よくわからないところがありますが、企業はそんなに自由競争を至上のものとするイデオロギーに毒されているのでしょうか。
一般競争入札がそんなに徹底されているのでしょうか。
もしそうだとすれば、アメリカの超格差社会は、このイデオロギーによってこそ作りだされているという論理が成り立ちそうに思えます。
私たちは、もういいかげんにいわゆるアメリカ的なものの考え方、個の自由を至上のものとする極端な考え方から脱却し、まだ残されている日本的な価値観を見直すべきではないでしょうか。


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「江戸幕府はペリーに脅され開国した」 という嘘

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「インテリ愚民」を撃退せよ!

2019年12月25日 23時50分21秒 | 経済


年明けに刊行予定の拙著『大日本貧困帝国 新しい学問のすゝめ』(仮)で、筆者は「インテリ愚民」という用語を使っています。
「愚民」という言葉は、福沢諭吉が当時の一般民衆を指してしきりに使った言葉ですが、これは差別用語ではありません。
当時の民衆の実態を正確にとらえたもので、福沢は、愚民が何とか少しでも愚民でなくなってくれるように願って、自主独立の精神を説いたのでした。
しかし筆者は、「インテリ愚民」という用語をあえて差別的に用います。
彼らが愚民でなくなる可能性がゼロだからです。

折から、財務省のポチである元東大教授・吉川洋氏の後任として東京大学大学院経済学研究科教授を務めている福田慎一氏が、ロイターのインタビューに応えた記事を読みました(2019年12月18日)。
ここで彼が言っていることは、間違いだらけであるだけでなく、臆病犬のつぶやきに満ちています。
まさに東大の経済学研究科というところは、「インテリ愚民」の生産工場で、その再生産能力には恐るべきものがあります。
以下、記事を引用します(太字は引用者)

福田教授は、人口減少などの構造問題を抱えている日本において、ポリシーミックスで経済成長に向けた対策をいくら打っても、その有効性には疑問があると指摘。課題は少子化を食い止めることにあり、それに応える政策が打ち出されていないと言う。さらに、ポリシーミックスで本格的に景気浮揚が図れたとしても、その時には金利も同時に上昇しているはずで、財政悪化は急速に進むと指摘する。
今回の大型経済対策は災害対策など国土強靭化に向けた多額の財政出動を盛り込んだものだが、財源が限られる中で大規模自然災害に大型歳出で備えることはどの程度意味があるのか、あるいは成長につながるのか、といった視点も必要との立場を示す。(中略)
このため同教授は「金利ゼロ・低成長という時代に同じようにポリシーミックスを行うことで、どの程度の効果が生まれるのか。歴史的に初めてのことだ」として、効果不明ながらも壮大な社会的実験を行っているに等しいと指摘する。(中略)
福田教授は効果に2つの疑問を呈する。
「一つには、財政の持続可能性の問題がある。ポリシーミックスは成功すると経済が上向き、通常は金利も上昇する。そうなると成長率よりも金利が高くなり、財政赤字の拡大要因となる。財政再建は難しい状況に陥る」と指摘。
もう一つは、「そもそもポリシーミックスを実施しても経済自体が構造問題を抱えていれば、本格回復はできない。日本がまさにそうで、デフレ構造の本質は、人口減少や老後不安で将来が見通せず、物価や賃金が上がりにくいということだ」という。
安倍政権は今月、事業規模26兆円の総合経済対策を閣議決定した。そこには、日銀による強力な金融緩和継続のもとで思い切った財政政策を講ずることが可能との考え方が盛り込まれている。
福田教授は、こうした今回の大型対策について、「ポリシーミックスは、財政の使途が成長に資する内容かどうかが重要だ」と指摘。「日本では少子高齢化対策が本丸のはず。しかし、これまでそれに応える政策はやっていないし、結果として出生率の低下には歯止めがかかっていない」と厳しい見方を示す。
またこのところ、大規模な自然災害が相次いでいるため国土強靭化に巨額の財政をつぎ込む姿が目立つが、「老朽化インフラの補修は必要とはいえ、災害対策は成長に寄与するとはいい難い。自然災害にお金で対抗するには無理があり、成長には結びつかない」と主張。


まず福田教授は、今回の安倍政権の来年度予算についての閣議決定が、「大型経済対策」であるという、基本的な勘違いをしています。
26兆円の財政出動というマスコミが喧伝した数字にコロリとだまされているのですね。
26兆円の内訳をよく見てください。
半分の13兆円は民間事業です。
残りは財政支出ですが、うち、国・地方の歳出は9.4兆円程度、財政投融資3.8兆円程度。今年度補正予算で4.3兆円、予備費で0.1兆円を確保するとともに、来年度当初予算の臨時・特別の措置で1.8兆円。
国・地方・財政投融資の合計が13.2兆円で、国の予算としては、計6.2兆円に過ぎません。
しかも補正予算はたったの4.3兆円です。
この程度の増額は、毎年行われている額に災害対策費、社会保障費などを少しばかり上積みしただけのことです。
しかもこれは単年度だけの話で、長期的な計画のもとに割り出されているわけではないので、次の年度には、元に戻ってしまうでしょう。

朝日から産経まで大マスコミは、102兆円の大型予算を組んでだいじょうぶなのかなどと、さかんに騒いでいます。
恐ろしいのは、見かけだけ大きな金額を示すことで、実際にデフレ脱却できなかった場合に(できっこないのですが)、「それみろ、大胆に財政出動したのに効果がなかったじゃないか」という口実を財務省に与えてしまうことです。
福田教授は、こういうことも見抜けない「インテリ愚民」なのです。
前期記事の教授のご心配は、ポリシーミックス(金融緩和と積極財政との二刀流のことでしょう)などと恰好をつけていますが、マスコミが流す「大型予算で大丈夫か」という毎年繰り返される心配をただなぞっただけのものです。

もし本当に長中期も視野に入れた「大型経済対策」が実施されてデフレから脱却できれば、そこそこ金利が上昇するのは当然ですが、どうしてそれが「財政悪化は急速に進む」結果を導くのか。
この判断には、金利の高騰や高インフレが起きるのがただの自然現象で、政府がそれを何もコントロールできないといった、まことに冷ややかな経済観が反映しています。
政府・日銀が金利高騰や高インフレに対して何も対策を打てないなどというはずはなく、それはこれまでの緊縮路線を見れば明らかです。
何しろ財務省はデフレ期にインフレ対策を打っているくらいなのですから!
また、「ポリシーミックスは成功すると経済が上向き、通常は金利も上昇する。そうなると成長率よりも金利が高くなり、財政赤字の拡大要因となる。財政再建は難しい状況に陥る」と述べているところから見て、福田教授が何を気にしているかは明らかです。
国民経済の回復や国民生活の豊かさのことなど全く考えておらず、財務省べったりの緊縮路線のことしか頭にないのです。
経済が上向きになるなら、それは大いに結構なことで、それこそデフレ30年で苦しんできた国民にとって朗報ではありませんか。
またマイルドなインフレによって金利が適切な水準を維持できれば、ゼロ金利や手持ちの国債不足で苦境に陥っている銀行業界は、息を吹き返すはずです。
その意味からも、国債発行による財政出動が今こそ必要とされるときはありません。
ところが、頭の空っぽなこの経済学者は、それが直ちに「成長率よりも金利が高くな」ると、ひどい短絡思考に走っています。
学者なら、どれくらいの財政出動によってどれくらいの成長率が期待でき、それがどれくらいの金利上昇に結びつくのか、予測でもいいですから、それを数字で示す責任があるのではありませんか。
また「財政赤字の拡大要因となる」と、財政赤字を極度に恐れているようですが、残念ながら、財政赤字は、そのまま民間の黒字を意味することが、MMTによって証明されています。

また教授は、「デフレ構造の本質は、人口減少や老後不安で将来が見通せず、物価や賃金が上がりにくいということだ」などともっともらしい口を利いていますが、物価や賃金が上がりにくくなっているのは、デフレ構造の「本質」ではなく、政府が誤った経済政策を続けてきた結果生じた「現象」です。
最近、何かというと社会問題の原因を「人口減少」に帰する論客が跡を絶ちませんが、人口減少という抽象的なマジックワードを使いさえすれば、ことの「本質」を説明したかのような気になるのは困ったものです。
「デフレ構造」の主因は、財務省が長年とってきた緊縮財政のために、内需がさっぱり伸びないところに求められます。
ゼロ金利に至るまで金融緩和を行なっても、企業が借金によって投資に踏み切らない事態は、儲かる見込みがないほどデフレマインドが染みついているからです。
そのことがまたいっそう内需の拡大を抑制します。
実体経済市場がこうした悪循環に陥っている時に、政府が何の刺激も与えない状態を何年も続けているので、ますますデフレは促進されます。
この下降スパイラル構造こそが「デフレ構造の本質」なのです。

教授はまた、財政出動に対して、「効果不明ながらも壮大な社会的実験を行っているに等しい」などと大げさに恐怖をあおっています。
「効果」とは何の効果なのか、抽象的で何の説明もありません。
教授の頭は混乱していて、それが整理できないのでしょう。
教授の期待している「財政健全化」の効果と、景気を回復させる効果とでは、その意味がまったく異なります。
前者を目的として緊縮財政を行なえば行うほど、後者の効果は阻害されます。
その関係がわからないということは、政府と民間との区別がついていないことを意味します。

また教授は、政府が少子高齢化対策をやっていないとし、その「結果として出生率の低下には歯止めがかかっていない」と指摘しています。
しかし一応断っておくと、政府はこれまで「少子高齢化対策」と称して巨費を投じてきました。
ところが出生率の低下に歯止めがかかっていない。
それは、少子高齢化対策をやっていないからではありません。
やってはいるのですが、特に少子化対策として不適切な手しか打っていないからです(たとえば子ども手当など――子ども手当は子どもを産める比較的ゆとりのある家庭をしか潤しません)。
それだけではありません。
もっと大きな理由があります。
少子化に歯止めがかからないのは、若者が貧困化していて、結婚したくても結婚できないからです。
それは、政府が適切な景気刺激対策を打ってこなかったためです。
月収15万円稼ぐのがやっとな非正規労働者が、どうして結婚できるでしょうか。
つまりここにも財務省の緊縮財政路線が悪影響を与えているのです。
積極的な財政出動によって景気が回復すれば、無駄な少子化対策などにお金を使わなくても、自然に結婚率が高まり、少子化も解決の方向に向かうでしょう。
教授は、少子化の原因を完全にはき違えています
少子化が止まらないのは、政府が少子化対策を打ってこなかったからではなく、ゆとりをもって結婚でき子どもを産めるような経済環境を政府が作ってこなかったからです。

さらに教授は、これほど災害で人々が命を落としているのに、インフラにお金を投じることに否定的です。
とんでもない話です。
「災害対策は成長に寄与するとはいい難い。自然災害にお金で対抗するには無理があり、成長には結びつかない」
何というバカな言いぐさでしょうか。
どうして災害対策(この場合、主としてハードな対策)が成長に寄与しないのか。
堤防一つかさ上げするだけで、どれだけの命が救えるか。
人が死んでしまっては、成長もくそもありません。
防災施設が完備していればこそ、安心して経済活動もできるのだし、インフラの整備という投資自体が内需拡大に寄与しますし、それがまた次なる投資を生み出していく。
こういう当たり前の理屈を打ち消して平気でいられる経済学者なる存在の神経を疑います。
「自然災害にお金で対抗するには無理があり」に至っては、開いた口が塞がりません。
お金で対抗する以外、公共体として、どうやって大規模自然災害に備えるのでしょうか。
しかも教授は、この最後の部分で、「成長」という言葉を2度繰り返しています。
あれ? 初めの方で、景気浮揚(つまり成長)すると金利が上がって財政再建を達成できないからという理由で、景気浮揚(成長)には反対の立場をとっていたんじゃなかったっけ。
支離滅裂とはこれを言います。
財政再建を果たしながら、大規模災害対策にお金も使わず、どうやって「景気浮揚」を達成するのか。
福田東大教授にぜひその深遠な教えを請いたいものです。

いやいや、この人、じつは何にも考えていないんだよね。
どなたかが言ってましたが、小難しそうな顔をしてただ疑問を呈するだけで、東大教授が務まる。
「財源が限られる中で大規模自然災害に大型歳出で備えることはどの程度意味があるのか、あるいは成長につながるのか、といった視点も必要」だってさ。
その「成長につながる視点」て、どうすれば持てるんですか。
「ザイゲン、ザイゲン」と、財務省の口癖をオウムのように繰り返しているだけのように見えますが。
教授、MMTをしっかり勉強してください
通貨発行権を持つ政府は、財源の心配をする必要がない、ということがすぐわかるはずですから。
もっともちゃんと聞く耳を持てばの話ですが。

要するにあれですね。
あの吉川洋東京大学名誉教授の後釜に座って、財務省御用達の学者の地位を見事に受け継いだということですね。
知性の退廃、つまりは、「インテリ愚民」がまた一人、この日本国に誕生しました
めでたし、めでたし。


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和親条約も修好通商条約も不平等条約ではなかった――中級官僚の粘りと努力――

2019年12月15日 01時03分08秒 | 思想



仕事の関係で、幕末の外交史を調べる機会がありました。
従来の通説では、このときの日米条約が不平等条約だったという理解がまかり通っています。
どの教科書も、領事裁判権(治外法権)を認めたこと、関税自主権がなかったことの二点を挙げて、その不平等性を説明しています。

しかし条約締結時には、領事裁判権は押し付けられたのではなく、むしろ幕府のほうで望んだのです。
なぜなら、外国人の犯罪を当時の幕府の法で裁くことにすると、列強がその法そのものに強力に介入し、彼らの思うがままに変更されてしまう恐れがあったからです。
また、領事裁判権を規定した条文では、同時に、日本人が外国人に対して犯罪を犯した場合には、日本の法律によって裁くとされています。
つまり開国を認める以上は領事を置くことを認めなくてはなりませんから、それを承認した上での条文の規定としては、公平で対等の考えに立っているわけです。

関税自主権については、当時の幕府にはそもそもそういう概念がありませんでした。
修好通商条約では、ハリスとの交渉の結果、輸入税20%、輸出税(国内品の輸出の際、こちらが価格を上積みできる)5%と決まりました。
清とイギリスとの条約では、輸入税5%ですから、これと比べると、いかに有利な関税率を獲得していたかがわかります。
しかも日本の場合は従価税、中国は従量税です。
従量税では、国内がインフレになった時、適切な対応ができません。
もちろん、アヘン輸入禁止の条項も明記されています。

後にこの二つを不平等であるとして、陸奥宗光や小村寿太郎がたいへんな努力を重ねて改正交渉に当たったのは事実です。
しかしそれは、日本がしだいに国力をつけるに及んで、欧米における国際慣行の知識を取り入れ、列強に伍するために「不平等の解消」という目的意識を定めるようになったからなのです。

そのほか、両条約をよく読んでみると、ごく一部を除き、公正な条項に満ちていることがわかります。
ごく一部とは、片務的最恵国待遇を認めたこと、通貨の交換レートを同質同量によって決めるとされてしまったことの二つです(後者については後述)。
いま条文のそれぞれについて詳しい言及は避けますが、特筆すべきなのは、列強の脅威に取り巻かれる中でよくもこれだけ対等な条約を結ぶことができたな、という点です。

そこには、最初の交渉相手が新興国のアメリカであったこと、当時の覇権国イギリスが、アロー戦争やセポイの反乱で日本を攻略する余裕がなかったことなどの外的な要因が働いていたでしょう。
しかし見逃してはならないのは、直接の応接に当たった幕府の中級官僚たちの高度な国防意識と交渉能力、不当な要求に対しては一歩も引かないという強い気概です。
林復斎、水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)、川路聖謨(としあきら)、永井尚志(なおゆき)と言った人たちです。

ここでは、ペリーとの交渉の全権を務めた林復斎の毅然たる態度と、通商条約調印のわずか10日余り前に外国奉行に着任した水野忠徳の、通貨交換レートについての必死の努力について述べましょう。

林復斎とぺりーの交渉は、すったもんだの末、横浜村に決まりました。
林は、薪水食糧、石炭の供与、漂流民救助は了承しましたが、交易は拒否しました。
ペリーがモリソン号事件を引き合いに出し、また漂流民に対する日本の非人道的振舞いを非難したのに対し、林は、「日本が三百年にわたって平和を守ってきたのは人命尊重の証拠である、大洋で救助できなかったのは大船が建造できないためであり、近海での難船は救助してきた、また漂流民は長崎に送り丁重に扱って本国に送還している」と反論します。
*ちなみに、日本の漂流民を乗せたモリソン号を追い払ったのは、文政年間に定められた「外国船打払い令」が効力を持っていた時代のことで、その後、アヘン戦争によって危機感を募らせた幕府は、天保薪水給与令を出して、外国船への態度を寛容なものに戻します。
さて、ペリーが交易の利を説き、貴国はなぜ交易に応じないかと迫ったのに対して、林は、「我が国は、交易をせずとも自国の産品で事足りている、貴官の目的は人命の尊重と難船の救助であろう、交易はこの目的と関係ない」とやり返します。
これで、ペリーは交易の件を引っ込めるのです。
また、林が儒者たる倫理観を見せて、漂流民の救助、扶養に要した費用は弁済する必要はないと説くと、
今度はぺりーのほうから、「お礼をしないわけにはいかない」と申し出ます。
林は「お礼なら受け取る」と答え、金銀の形をとることになります。
当時は、商品の授受のほうが、交易に結びつきやすいと考えられたようです。
またペリーの「お礼」の申し出も、それをきっかけに通商の道を開こうとしたのではないかと想定されます。
「お礼」が金銀の形で決着したので、通貨の交換レートを決める必要が生じるのですが、ペリーが同質同量を主張したのに対し、林らはこれを拒否します。
ペリーはなぜ拒否するのかわからなかったようで、後に派遣する使節と話し合ってもらいたいと答え、この件はペンディングとなります。
なおペリーはここで「使節」と言っているので、「領事」とは言っていません。
また、ペリーが役人(領事)を一人置きたいと要求すると、林は「応じかねる」と答えています。
さらに、条約書の交換に際して、林は「外国語のいかなる文書にも署名しない」ときっぱり宣言します。
最後に、ペリーが、「1年後、自分が来られるとは限らないので、下田で細目を決めたい」と言い、林が50日後に下田に赴くと答えます。
するとペリーは、「その間に箱館を視察したい」と言って、横浜での会合は終わります。

漂流民についても双務性が貫かれています。
アメリカ草案では、「アメリカ人漂流民救助の経費はアメリカが支払う」とだけなっていたのですが、「アメリカ人及び日本人が、いずれの国の海岸に漂着した場合でも救助され、これに要する経費は互いに支払わなくてよい」ことになりました。
これも、対等性を日本が強調した証拠でしょう。また通商(自由貿易)につながることを警戒したとも考えられます。

横浜での交渉で、下田におけるアメリカ人の遊歩距離は7里以内と決められました。
下田に帰ったペリーに、応接係は、7里よりも狭い範囲に関門が設けられており、また外出には付添人をつけると説明します。
ペリーが条約違反だと抗議すると、関門は自由に通過してよいし、付添人は監視ではなく、アメリカ人を護衛するためだと答えます。
監視の意味もあったと思いますが、このあたり、なかなか巧妙なやり取りですね。
ペリーはしぶしぶ了解します。

さてここからが面白いのです。
ペリーは箱館に「視察だけしてくる」と言ったのに、じつは松前藩と細かく交渉しており、遊歩距離10里あるいは7里(下田なみ)で納得させていました。
林らはこのペリーのウソを見破ります。
松前藩ではペリーとの交渉記録「箱館対話書」が書かれており、それがペリーの下田帰還よりも前に下田に届いていたのです。
ペリーは狼狽を隠せず、こんな短期間にどうしてわかったのかと聞きます。
林らは、飛脚の仕組みを説明しペリーを驚かせます。
林は、「1里程度の範囲なら、この場の交渉で決めてもよい」と畳みかけます。
結局、箱館は5里で決着しました。
この遊歩距離の取り決めは、蝦夷地への侵入を阻止するとともに、後の通商条約で、外国人の進出を阻み国内市場を防衛したという、大きな意味を持ったのです。

次に、ハリスとの交渉における、金銀の交換比率についての水野忠徳の必死の努力について。
先に述べたようにペリーもこれについて「同質同量」を主張しましたが、ハリスも同じことを、もっと強く主張しました。
彼らにとって、それは当然のことと思われたのです。
しかし水野らはこれと違う主張を繰り返します。
結果的にこれは成功せず、ハリスの剣幕に押し切られてしまうのですが、水野らの主張のほうが正しかったことが後に判明します。
これについて述べる前に、締結されてしまった修好通商条約の5条を掲げておきましょう。

条約5条:外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用とする。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。ただし、日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(従って両替を認める)

問題の本質はどこにあったのでしょうか。
当時日本の通貨は金と銀。その名目上のレートは一分銀4枚で一両小判。
しかし寛政以降、1分銀は幕府の財政を補うために改鋳を重ねて質を落とし、幕末に流通していた天保一分銀は、銀の含有量が三分の一に減らされていました(出目)。
つまり銀とは言っても、実際には紙幣と同じように一種の「管理通貨」だったのです。
これは幕府と国民との信用関係によって成り立っていました。
そこで水野は、日本は金本位制であると断り、一分銀は名目上の価値しか持っていないことを説いたうえで、1分=1ドルのレートを主張しました。これなら、1メキシコドル4枚=1分銀4枚の交換となり、それを一両小判と兌換すればよいので、公正さが維持できるはずです。
ところがハリスはこれをまったく受け入れず、金銀の交換比率を同質同量にもとづくことをあくまで主張し、通商条約第5条にそれが盛り込まれてしまいました。
同質同量とすると、銀地金に等しい1メキシコドル銀貨は、天保一分銀3枚の重さに相当します。
したがって、ハリスにとっては、交換レートは1メキシコドル=3分ということになり、それ以外の公正な取引は考えられなかったのです。
しかし、もしたとえば1000円と書かれた紙幣と10ドル銀貨(などというものはありませんが、仮にあるとして)とを同じ重さで交換するとすれば、1000円札を何枚積み上げなくてはならないでしょうか。
同じように、純銀の3分の1しか銀を含んでいない一分銀を同量のメキシコドル1枚と交換するために3枚の1分銀を手渡すことは、日本側にとっては不当以外の何ものでもありません。
正確な意味での同質同量ではなく、3枚合わせて1メキシコドルの3分の1しか銀を含んでいないいからです。
しかしハリスや後に着任するイギリス公使オールコックは、1分銀が国内では名目価値しか持たないことを理解しませんでした。これは、金属主義の弊害と言えるでしょう。

ところでアメリカ人(またはイギリス人)Aが通商条約に従って4枚のメキシコドル(=4ドル)を一分銀と交換すれば、彼は4×3=12枚の一分銀を手にします。
そこで、Aがそれを日本国内の金銀両替所にもっていけば、4分=1両ですから、3枚の一両小判を手にすることになります。
一両小判の地金としての価値は4ドルに相当します。
したがって、これを海外に持ち出し、金地金に変えて売却すれば、3×4=12ドルを得ることになります。つまり、ほとんど労せずして、原価の3倍の売り上げを得ることになります。



これを繰り返せば、もうけは莫大となるでしょう。
利にさとい外国商人がこのからくりを知ったため、連日両替所に長蛇の列ができました。
このため金貨が大量に流出したのです。
しかし経験的に「もうかる」と知っていることと、「名目価値と実質価値の違い」を理解することとはまた別です。
実際、ハリス自身もこのからくりを利用して、ひそかに小判をため込み利殖に走っていました。

水野忠徳は、長崎奉行時代にオランダ人との取引を見て、天保一分銀が名目だけでしか通用していないこと(1分銀=1ドル)を知りました。
彼はハリスの同質同量交換説に対して、執拗に反論します。
しかしハリスは聞く耳を持ちませんでした。
そのため、安政二朱銀の発行を献策し、開港した地域に限って通用させて金の流失を防ごうとしました。(一朱の名目価値は4枚で一分)
安政二朱銀は、銀の実質的な量目(重さ)が1ドル銀貨の約半分で、これ2枚で一分銀1枚に相当します。
したがってこれ8枚とメキシコドル4枚とが両替可能となれば、一分銀4枚と同等になり、1ドル=1分という思惑通りのレートが実現することになります。
これは、量目においてメキシコドルと釣り合っているのですから、正当な交換です。
ただ1分銀の名目的価値だけが今までどおり国内で通用するという違いがあるだけです。
しかしこの試みは、諸外国の外交官から条約違反だと猛抗議を受け、わずか22日間で通用を停止させられます。

いっぽう、当時の日本の金銀比価は約5:1、欧米では約15:1だったので、ハリスは、国際基準に合わせて小判の価値を3倍にすることを提案します。
しかしそんなことをすれば、物価が3倍に跳ね上がるとして、今度は水野らが猛反対します。
一般に国内で通用している銀貨の価値が相対的に三分の一に下がってしまいますから。
しかし幕閣もハリスも、マクロ経済に暗く、結局勢いに押されてハリスの提案を受け入れます。
そのため実際に国内物価は3倍以上に高騰してしまいました。

水野はワシントンでの条約批准(1860年・万延元年)の際には、閑職に左遷されていたので、使節の一人、小栗忠順(ただまさ)に交換レートの件を託します。
しかし小栗は国務長官に相手にされませんでした。
ただしその後訪ねた造幣局では、金の秤量についての正しさを認めてもらったのです。
しかし時すでに遅し。
また、イギリス公使オールコックも本国に帰ってから、大蔵省の役人の説明により、水野の主張の正しさを認めます。
執筆中だった『大君の都』の最終章に、前段との矛盾を顧みず、その事実をきちんと記しているそうです。
経験的にではありましたが、水野のほうが、ハリスやオールコックよりも、通貨の本質を理解していたのです。
つまり、政府と国民との間で信用さえ成り立っていれば、それが不純な銀だろうが紙幣だろうが、何でも構わないのだ、という本質を。
列強の威力と幕府上層部の経済的な無知に負けてしまった水野は、さぞ悔し涙を飲んだことでしょう。

ところで、最後に本稿のテーマとは直接関係のない疑問を一つ。
安政期の金の流出について、どの歴史教科書にも次のように書いてあります。

当時、金の銀に対する交換比率は、日本では1:5、外国では1:15であったため、外国人は銀貨を日本に持ち込み、金貨(小判)に換えて持ち出した。その結果、大量の金が流出した。

この論理は、それだけとしては、理解できます。
日本では、5グラムの銀が1グラムの金に相当し、外国では15グラムの銀が1グラムの金に相当します。
そこで、15グラムの銀を日本で金と両替すれば、外国の3倍、つまり3グラムの金が手に入ります。
だから外国商人たちは、大量の銀を日本に持ち込んで金に換え、それを持ち帰って原価の3倍の売り上げを手にできたというのですね。

しかしこの話は、先ほど長々と説明してきた、条約による「同質同量の交換」に基づく「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という話とは直接つながりませんね。
一方は金と銀との交換比率の内外での違いの問題、他方は銀と銀との交換レートの問題。
教科書には、後者の問題が記述されていません。

もし両方とも正しいのだとすれば、筆者の考えでは、両者を組み合わせることで、驚くべきことになります。
というか、金の流出は、想像をはるかに超えたものだったという話になるはずなのです。
いま、簡単のために、1ドル銀貨1枚が1グラムだったとしましょう。
すると、銀貨4枚は4グラムですね。
これを条約に従って日本で金貨(小判)と両替すれば、3枚の小判(金貨)を得ます(上図参照)。
3枚分の金貨は、外国での金と銀の交換比率に従えば、1グラムの金を15グラムの銀と交換できます。
そうすると、3×15=45枚の銀貨、すなわち45グラムの銀を得ます。
つまり、4グラムの銀が、45グラムの銀に化けたことになります。
言い換えると、4ドル⇒45ドルとなります。
何と3倍に化けるのではなく、45÷4=11.25倍になる理屈ではないでしょうか。

こんなオイシイ話はない。
もちろん、運送などの必要経費、小判を金地金に変える時に伴う目減り、金から小判自体を鋳造する時の含有比率や歩留まりなどはあるでしょう。
それにしても、大量の銀貨を持ち込めば持ち込むほど、そうしたコストの割合は少なくなります。

正直なところ、筆者はこの考えが正しいのか間違っているのか、自信がありません。
どなたか、専門的な方のご教示を仰げれば幸いです。

*参考文献
加藤祐三『幕末外交と開国』
井上勝生『幕末・維新』
佐藤雅美『大君の通貨』


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「エリート愚民」を駆除せよ

2019年12月10日 16時49分43秒 | 思想



●以下の文章は、近々出版予定の拙著の序文からの抜粋です。

日本は、この20年間ですごく衰えました。
そのことに気づいている人はたくさんいるでしょう。
しかし多くは面倒なので、気づいていないことにしている。
気づいていないということにする――このことが、日本の衰えをよけい加速しています。

これは、経済力だけではありません。
政治力、知的判断力、技術力、生産力、外国との交渉力、説得力、気力、コミュニケーション力など、すべてにわたって言えることです。
要するに日本人は、やる気がなくなっています。
これを放っておくと、日本は間違いなく滅びます
日本が滅ぶというのは、私たち日本国民の生活や精神が完全に自立性を失うこと。

それはどんな形で表れているでしょうか。
国際的な面では、アメリカや中国などの大国の動向に常に翻弄されています。
彼らの顔色をうかがわなくては、国がもたなくなっている。
国内的な面では、政治が求心力を欠き、為政者だけでなく、みんながバラバラに行動して、国としてのまとまりが取れなくなっています。
しかもそれを自由の実現と勘違いしています。
そしてこれらのことをきちんと問題にするために必要とされる総合的な視野を失って、思考停止に陥っています。

たとえば、次のようなバカなことを言う人がいます。
2040年ごろには「高齢者世代の生活保護率は4倍増で1割を超える」から、これに対処するために「消費税率を13%にする必要がある」というのです。

この記事を書いた人は誰でも知っている有名な経済学者で、東大教授を務めたこともあります。
この記事の他の部分も二重、三重の意味で間違っているひどい記事なのですが、そこまで突っ込む必要もありません。
小学生でも気づく間違いがあります。
消費税率をあげて一番苦しむのは、低所得の高齢者世代ですから、そんなことをすれば生活保護に頼らなくてはならない高齢者がますます増えることになります。
これはほとんど落語です。
こういうバカなことを一流(?)と見なされている経済学者が平気で言うのです。
しかも誰も反論しません。
日本は知性を失った、そういう国になり下がったのです。

いったいどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
とりあえず、いちばん大きな社会的枠組みで考えてみましょう。

二つ考えられます。

一つは、75年前の敗戦によってアメリカに魂を抜かれてしまい、その状態がいまだに続いていること。
もう一つは、いったん近代の豊かさを知ってしまったために、だれもが、もうこれでいい」「このまま安眠を妨げないでほしいとどこかで思っていること。

でも本当は、アメリカの洗脳や日本近代が達成した豊かさは、実際には、いずれも過去に起きたことの記憶のなかにしかありません。
ところがその記憶がいつまでも惰性として残っているのです。
アメリカには相変わらず奴隷のように依存しています。
政治的にも経済的にも、属国の位置に甘んじています。

また前回のブログで示した通り、日本はもう豊かではなく貧困国に転落しつつあります。
それなのに、一度経験した豊かさが邪魔をして、そうした現実を現実として見る目を曇らせているのですね。
感覚の麻痺です。

どうすればよいのか。
みんなが学問に目覚めることです。

え? いまさら? とあなたは耳を疑ったかもしれません。
学問なら十分に確立し、発達している、とあなたは思うでしょうか。
たしかに全国には大学が800もあり、さまざまな研究機関は腐るほどあります。
ノーベル賞受賞者は毎年のように出ています。

でも私の言う「学問」は、アカデミズムが提供する難しい専門的な知識や、大学など教育機関で行われている研究のことではありません。
ここで言う「学問」とは、特に、現実に立ち向かう一つの「態度」であり、思考力を作動させる「構え」のことを指しています。
いっときの情報に惑わされず、あることが何を意味しているのかについて、徹底的に脳細胞を駆使して考えることです。
そしてある結論に到達したら、それを公表し、他の人たちの考えと突き合わせて、理性的な議論を積み重ねることです。
これは広い意味で、「思想」と言い換えても同じでしょう。

福沢諭吉が『学問のすゝめ』を書いたころには、まだ思想という言葉はありませんでした。
それで学問という言葉を使ったのでしょう。
でも筆者は、彼が学問という言葉に込めた思いは、いまなら「思想」と呼ぶべき概念にぴったり合っていると確信しています。

もちろん、この態度や構えが実際に生きるために、一定の知識や情報はぜひ必要です。
しかしそれらは思考力をはたらかせるためのツールに過ぎません。
私たち自身がこれらのツールを活用しなかったら、それらは死物に過ぎません。
これは言ってみれば当たり前のことです。
ところが私たち日本人は、いつしか、この「当たり前」を放棄してしまいました。
毎日洪水のように押し寄せる知識・情報を無気力に受け入れ、それを疑うことをやめてしまいました。
あるいは、SNSなどの手軽さをよいことに、感情的、衝動的な反応を返すのみです。
誰もが自分の考えを持っているつもりになっていますが、ほとんどの場合、それはどこかで得た情報を受け売りしているだけです。
情報選択能力とそれについての判断能力を失ってしまったのです。
それらに疑いを持って自分なりの考えを固め、その考えについて人と真剣に議論する習慣を私たちは棄てたのです。
この習慣を取り戻さない限り、日本に未来はないでしょう。

今から約140年前に、福沢諭吉は『学問のすゝめ』を書きました。
西洋文明の圧倒的な襲来を前にして、彼は、それを排斥するのでもなく、盲信するのでもないという態度を貫きました。
その文明や制度の優れた点をいち早く自家(じか)薬(やく)籠中(ろうちゅう)のものとすることによって、西洋の政治・外交の圧力に対抗するという戦略を彼は徹底させたのです。
敵に立ち向かうには何よりもまず敵をよく知ること、孫氏の兵法にもある、よく言われる言い習わしですね。
そうしなければ、日本を独立国家として立国することができず、早晩、西洋の植民地主義に飲み込まれてしまったでしょう。
他のアジア諸国がそうであったように。

福沢諭吉と聞くと、誰もが思い浮かべるのが、「天は人の上に人を造らす、人の下に人を造らず」というセリフですね。
近代的な平等精神を日本で初めてはっきり宣言したものとして知られています。
彼の故郷・中津にある福沢記念館にも、この言葉が大きく掲げられています。
でも福沢はそんなことを言っていません

え? 何だって。『学問のすゝめ』の冒頭にそう書いてあるじゃないか、とあなたは思ったかもしれません。
しかしよく読み直してみてください。
正しくは、「天は人の上に人を造らす、人の下に人を造らずと言えり」なのです。
この「言えり」をほとんどの人が見逃しています。
「言えり」とは「世間ではそう言われている」という意味です。
世間ではそう言われているが、世の実態はそうなっていない。
それはなぜか。
それは日本の牢固たる身分制度、門閥制度が幅を利かせて、一人一人の自主独立の精神を阻んでいるからだ。
この自主独立の精神を養うことこそが、いま求められている。
つまりまず知識・情報を蓄積し、次にその知識・情報を活用して現実に起きていることを正しく認識すること、そうして得た広い視野を、社会をよりよくするために役立てること、それが彼の言う「学問」だったのです。

もちろん彼は、それが当時のすべての民衆に可能だとは考えていませんでした。
彼はこの書や他の書の随所で、一般民衆を「愚民」と呼んでいます。
無原則な平等主義者ではなかったのです。
しかしまた、彼は愚民が愚民のままでよいとも考えていませんでした。
なるべく日本の一般民衆が自主独立の精神を学んで、愚民でなくなってほしい。
それが彼の願いでした。
一身独立し、一国独立す」という有名な言葉は、その彼の願いを端的に表しています。
福沢の時代に差し迫った課題は、欧米列強の進出に対していかに日本の独立を守るかということでした。
そのためには、「愚民」がこれまで身につけてしまった卑屈さからできるだけ脱し、自立した気概と精神を身につけることが不可欠だ――そう彼は考え、その実現を目指して「学問」の必要を説いたのです。

ではいまの日本の課題は何でしょうか。
筆者は、福沢の時代と同じだと思います。
言い換えると、現代日本は彼の時代から140年経った現代でも、「一身独立し、一国独立す」が果たせていないのです。
いまグローバリズムの大波が日本に押し寄せています。
欧米ではすでにグローバリズムに対する反省が沸き起こっているのに、日本のいまの政権は、愚かにもこの大波を積極的に受け入れています。
これは政権ばかりではありません。
学者や政治家や財界の大物やジャーナリズムが率先してそのお先棒担ぎをやっているのです。
その態度は、グローバリズムへの批判意識を持たずにただ追随しているという意味で、まさに「卑屈」そのものという他はありません。

こうして現代の「愚民」は、一般民衆であるよりは、むしろエリートたちだと言えるでしょう。
しかも始末に悪いことに、彼らは世俗の権威を手にしているので、その権威を傘に着て、自分たちの誤った信念を一般民衆に押し付けています。
日本のエリートたちの多くは、国策にかかわる部分で、この誤った信念に固執しています。
それで、国民はその被害をさんざんにこうむってきました。
ですから、いまの日本にとって最重要な課題は、むしろこうした「エリート愚民」の精神の腐敗をいかに駆除するかという点にあります。
この課題を果たせずに、グローバリズムの浸食から国民生活を守ることはできません。
じつを言えば、これはもう手遅れなほどに、深く浸食されてしまっているのです。
時間はもうあまり許されていません。
まずなすべきこと――自ら考える力を取り戻し、日本にはびこる害虫「エリート愚民」を見つけ出して、即刻駆除せよ!


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貧困化した日本

2019年11月26日 15時01分53秒 | 経済



筆者が勤務している大学のゼミで、「運転免許を持っている人」と聞いてみたら、20人のうち2人しか手を挙げませんでした。
持っていない学生に理由を聞いてみると、「別に必要を感じないから」と答えます。
なるほど首都圏に住んでいれば、交通には不便を感じません。
しかしそこにお金の問題がからんでいることは明白です。
免許取得には20万円以上かかりますし、車を持とうと思ったらさらに相当の出費を覚悟しなくてはなりません。

筆者の学生時代(半世紀前)は、大学に入ったら運転免許を取る、というのが当たり前の目標になっていました。
いつまでとはっきり言えませんが、少なくともバブルがはじけるまでは学生が免許を持つことは当然の現象だったでしょう。
また、中古車でもいいから自分の車を持つというのも多くの若者が目指したところでしょう。
車はデートの恰好のツールでしたし、行動意欲に燃えた若者にとって各地に車で行楽に出かけることは、青春を謳歌するまたとない機会だったはずです。

ところで先日、情報戦略アナリスト・山岡鉄秀氏の次のような記事に接しました。
山岡氏は、ある団体から青年向けの講演を依頼された折、「日本の国力が驚くほど低下してしまったと思う人、手を挙げてください」と呼びかけたそうです。
すると会場の半分ぐらいの人しか手を挙げないので、衝撃を受け、次にこう聞きました。
「日本の国力はずっと変わっていないと思う人、手を挙げてください」
するとなんと、残りの半分の人たちが手を挙げているではありませんか。
彼らは皆若く、20代、30代、といった感じです。
なるほどいまの30代の人たちが物心ついた頃、既にバブルは崩壊していて、20代ともなれば低空飛行が当たり前。
だから、彼らの目には、日本は変わっていない、
今の20代、30代の若者には元気だった頃の日本のイメージを共有できないというのです。
しかし、この30年間の国力(特に経済力)の推移を少しでも調べてみれば、あらゆる面でガタ落ちになっていることは明瞭です。
そしてこのガタ落ち傾向は、いまもなお進行中です。

この傾向を大方の若者が目の前で確認できないのは無理もありません。
「変化」の実感がないのですから。
しかし筆者はやはり、これからの日本をしょって立つ若い人たちに、貧困化した日本という事実を客観的な形で知ってほしいと思います。
いま、急いで根本的な手を打たない限り、若い人たちのこれからの人生に、いまよりもさらに悲惨な状況が待ち受けていることは確実だからです。

貧困化を示す指標は、いくつもあります。

・OECD加盟国34か国のなかで、日本の相対的貧困率は29位です(2015年)。



・実質賃金は、この20年間で約13%下がっています。



・世帯収入の中央値は、1995年に550万円だったのが、2017年には423万円に下がって
います。



どの所得階層が一番多いかを示す最頻値になると500万円台から300万円台に落ちています。

・収入が平均値以下の世帯は、62.4%です。

・年収200万以下のワーキングプアは、1996年には800万人だったのが、その後急上昇し、安倍内閣が発足した2013年からは1100万人を突破、現在もそのまま高止まりしています。



・生活保護世帯は、1995年ころには約60万世帯だったのが、やはりその後急上昇し、安倍内閣発足後は、ずっと160万世帯をキープしています。



ちなみに、厚労省が定めている生活保護の対象となる「最低生活基準」以下の所得しかない人は、なんと3000万人弱に達します。
https://www.youtube.com/watch?v=VDhLCDYSrMk&feature=share&fbclid=IwAR0s-tZc_TXumw9B0hMkBxlyp6tzdAOFpoh4OzQUmyRzSwxGx3tIrU03rgI
食べていけないほどの低賃金なのに曲がりなりにも働いているために、生活保護を受けていない人のほうが圧倒的に多いわけです。

・高齢者は5人に1人が貧困層(2015年では、可処分所得が122万円未満)に属します。
なかでも単身高齢者は、男性で約4割、女性では5割を超えます
(上記URL)

・金融資産ゼロの世帯は、3割を超えています(グラフには「貯蓄ゼロ」とありますが、正確には「金融資産ゼロ」です)。



一方では、個人金融資産の総額は1800兆円という巨大な額に及びます。
これはいかに一部の富裕層に資産が偏っているかを示しています。

・非正規雇用は90年代には2割程度だったのが、ここ数年4割近くと倍増し、その平均年収は正規雇用の65%にしか達しません。

・地方公務員の非正規雇用は11年間で4割増加し、全体の3分の1近くになっています。
正規の地方公務員の年収は平均660万円であるのに対し、フルタイムの非正規公務員は207万円程度、つまり三分の一未満です。
ワーキングプアすれすれですね。
もちろん昇給もボーナスもありません。
また、産休、看護休暇、交通費も認められない自治体が数多くあります。
https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2019/02/0210.html

・地方の疲弊はここのところ顕著で、2019年だけで、百貨店の閉店が約10店舗にも及びます。

・国内の子どもの6~7人に1人が貧困状態にあるとされています。
こども食堂は、こうした子どもを対象に2012年ごろから始まりましたが、2019年調査では、16年時点の319カ所に比べると、わずか3年で12倍近い3700ヵ所以上に開設されています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46629900X20C19A6CR0000/

・子どもの貧困率は、OECD諸国中、下から数えて10位以内に入っており、ひとり親家庭(主として母子家庭でしょう)となるとダントツ1位です。





・日銀短観の2019年9月調査では、大企業・製造業の景況感を示す業況判断指数(DI)は3期連続で悪化しています。
実は途中横ばいの時期が一期だけあったものの、2017年12月調査から見て、7期連続悪化しているのです。
これは2013年6月調査以来の低水準です。

・GDP名目成長率の国際比較によれば、1990年を100として、欧米諸国はどの国も200から300の伸びを示しているのに、日本だけがまったく伸びていません。

・1人当たりGDPは、1996年には世界3位だったのに、2019年には26位に落ち込んでいます。

・1995年には、世界の名目GDPに占める日本のシェアは17%に達していたのに、2018年には6%以下に落ち込んでいます。

このくらいで十分でしょう。
こうした数字はすぐにでも調べられるのに、政府関係者は、「景気は底堅い」などとウソ八百を言い続けてきました。
御用学者や政治家や財界人やマスコミも、この種の悲惨ともいうべき実態をほとんど問題にしません。
それは、自分たちに都合が悪いことを隠しておきたいからです。
「臭いものには蓋」というヤツですね。

また、デフレが続く理由は、日本はモノがあり余っているので、もう経済成長する必要がないからだなどという人が、未だにけっこういます。
とんでもない話です。
そういう人は、自分が余裕のある暮らしをしているので、いま多くの人たちが貧困に落ち込んでいることに想像力が及ばないのです。
彼らは、貯金もほとんどなく、子どもに高等教育を受けさせることもできず、毎日のやりくりに追われています。

なぜこんなに貧困化が進んだのか、その理由は、間違った政治運営にあることは明らかです。
今さら言うまでもありませんが、財務省の緊縮路線竹中平蔵率いる構造改革路線との見事なコンビネーションです。
消費増税、「自由と効率化」の名目で打ち出された雇用システム、株主配当や自社株買いのための人件費削減、財政出動に対する狂気じみた禁圧、デフレマインドによる投資の差し控え等々、すべてが、上の二つの路線の原因であり結果です。
つまり、この二つの路線を楕円の焦点として、すべてが激しい下降スパイラルをなしています。

これらのことは、おそらくこのブログの読者にとってはほとんどが自明の基礎情報に属するでしょう。
しかし筆者は、一般の若い人たちに、少しでも日本全体の経済実態について知ってほしいのです。
そうすることで、運転免許を取らなかったり結婚しなかったりすることが、単に個人の自由意志ではなく、社会構造的な原因に根差しているのだということに気づいてほしいのです。
また、このブログ読者の方たちには、こうした基礎情報が、必ずしも多くの若者の共通認識になっていないこと、それどころか、ほとんどが共有されていないことに、もっと危機感を持ってほしいのです。


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マクロ経済はなぜ関心を持たれないのか

2019年11月17日 15時24分18秒 | 思想


日本が凋落の一途をたどっている今日、これを食い止めるには、どんな考え方が必要でしょうか。
凋落の原因が財務省の緊縮路線竹中平蔵氏らの規制緩和路線にあることは、心ある人々の間では、すでに明らかになっています。
しかし心ある人々がいくらこれらの路線を批判したり、関係者(官僚、政治家、財界人、学者、マスコミ)に働きかけたりしても、彼らは一向に聞く耳を持とうとしません。
それぞれのポジションで、頭がかちんかちんになっているのですね。

そこで筆者は、せめても、と思って、次のようなことを考えました。
これは、日本人の知性が劣化して、ごく広い意味での「学問」が受け入れられなくなっている事態だ、と。

しかし、社会科学系に限って言うなら、学問には、やはり「よい学問」と「悪い学問」があります。
「よい学問」とは何か。
これはきわめて明瞭です。
ふつうの生活者の安寧(あんねい)と仕合せを保証してくれる考え方を提供するのが、「よい学問」です。
ふつうの人々が、物質的・精神的な豊かさとゆとりを維持するにはどうすればよいかを教えてくれる考え方と言い換えてもよい。
そうした考え方に直結しなくても、ある専門知をそこにつなげられる道筋をつけてみせることができるなら、それは「よい学問」です。

「よい学問」の定義は簡単ですが、「悪い学問」の定義は難しい。
なぜなら、「悪い学問」には、まさに学問を悪くしてしまうさまざまな個人的・組織的な感情や動機がからんでいるからです。
それらは、学問という体裁のために、その悪い要素が見えにくくなっているのです。
一般に、次のような人たちが学問をしている場合、それは悪い学問です。

・自分(たち)だけの利益のために都合よく屁理屈を用いる者
・自説が間違っていたことが明らかなのに、いつまでもそれを認めようとしない者
・自説に固執して、他人の意見を聞き入れようとしない者
・肩書などの権威主義に居直る者
・権威主義に額づく者
・金銭目当てに自説を立てる者
・現実をよく見ずに整合性や純粋性にこだわり、現実と乖離(かいり)してしまう者
・清廉潔白なだけの思想を学問と勘違いしている者
・いたずらに難解さを気取ってそれ自体が価値であるかのごとく思い込む者
・公共性への配慮がまったくなく、ただのオタク趣味に耽る者

どうでしょう。
いまの日本の「学問」で、これらのどれかに的中するものがいっぱいあるのではありませんか。
では、「よい学問」がそのよさを保つためには、どんな条件が必要でしょうか。
以下に列挙してみましょう。

①現実の危機を深く自覚する
②既成の権威に阿(おもね)らない
③右顧左眄(うこさべん)せず、自分の考えをしっかり固める
④間違った考えを徹底的に糺(ただ)す
⑤自分が間違った時には率直に認め、自説やそれに基づく言動を改める
⑥流布されている「常識」を疑う
⑦自分の考えをわかりやすく公表し、その拡張に絶えず努める
⑧批判者、反論者を恐れず、彼らと堂々と議論する
⑨危機克服のための処方をデザインし、できればそれを自ら実践に移す


これほど日本が衰退の一途をたどっている以上、いまこそ上記のような条件を満たす新しい「学問」の構えが必要です。
「家貧しくして孝子顕(あら)わる」と言います。
これをもじって言うなら、「国貧しくして賢者顕わる」ということができます。
実際、いま日本は、戦後最大の危機にあります。
この局面にあって、いま、上記のような条件を満たす「よい学問」が切に求められています。
ところが、MMTのように、せっかくよい学問が紹介されて、根付きそうな気配があるのに、ほとんどの人は、これをまともに相手にしようとしません。
これはいったいなぜでしょうか。

それは、「経済」という領域が持っている特性にかかわっているのではないか。
エコノミーの語源はオイコノミアです。
これは「家政」を意味する古代ギリシャ語です。
古代ギリシャでは哲学、幾何学、自然学、天文学など、多彩な「学問」が花開きました。
それらは、もっぱら自由市民男子によって担われました。
しかし「家政」は学問の対象になりませんでした。
それが女や奴隷の手に任されていたからです。
そもそもオイコノミアがきちんとしていなければ、学問など「暇なこと(スコラ)」に手を出せないはずなのです。
にもかかわらず、担い手が女や奴隷だというだけで、それは軽侮のまなざしで見られていました。
オイコノミアは私的な領域の問題であり、公共性にかかわらないと考えられていたのです。

近代になって、人々の私生活上の動きが全体としては、重要な公共的意味を持つことに気づかれました。
それにもかかわらず、オイコノミアに対するこの軽侮の念はいまだに残されています。
人々は一般に、経済について考えることに対する軽侮、ではないまでも、ある種の敬遠の意識を抱いています。
これに比べて、一見経済とは自立した政治問題(ポリティカ)に関しては、昔から多くの人が関心を持ち、時には興奮した感情をあらわにして意見を述べたりします。
いまでもそうですね。
たとえば韓国が反日感情をむき出しにした振舞いに及んだとか、アメリカがISの指導者を死に追いやったとか、安倍内閣の閣僚の失言と辞任が相次いだとか。

いっぽう、人々は、金儲けにからむミクロ経済には強い関心を示します。
それなのに、公共性にからむマクロ経済にはあまり関心を示しません。
こうしたみんなの無関心が、間違った「経済学」を平気で呼び込んでしまうような気がします。
その無関心のうちには、歴史的に培われてきたオイコノミアに対する軽侮・敬遠の念が無意識に作用していないでしょうか。
近代以降は、ポリティクスのなかに不可避的にマクロ・エコノミーが組み込まれているのですが、それでも相変わらず、それは人々の関心から遠ざけられる傾向のうちにあるようです。

次のようなことも考えられます。
政治現象は見えやすく、毎日のニュース報道として直接耳目を刺激します。
これに対して、経済現象、特にマクロ経済は、「誰それが何々をした」というような物語としては現れません
それは、力も意志も異なる世界の膨大な人々の複雑な思惑や活動の乱反射状態としてしか現れません。
つまり眼前にはっきり像を結ばないのです。
それは画然とした物語性を持たず、いわば無人称・無人格の水面下の蠢(うごめ)きとしてしかとらえられません。
だから、マクロ経済のからくりを視野に収めようと思ったら、いったん身辺の関心事を離れる必要があります。
そのうえで、直線的な因果関係論理(「こうであればこうなる」)だけを武器にして、人々の活動の乱反射状態の中に突入していかなくてはなりません。
生活を根底のところで規定しているのが経済であることは疑い得ない事実です。
にもかかわらず、その全体のからくりについて考えることから手を引いてしまいがちなのは、そうした像の結びにくさをまるごと引き受けて論理的に把握しなくてはならない手続き上の面倒くささに原因の一端があるでしょう。

経済現象を学問的に解明しようとする人たちは、この像の結びにくさを十分わきまえずに、人間活動に対するある仮説を立て、自然科学が見出したのと同じようにこの現象のうちに普遍法則を発見しようとします。
しかしその初めの仮説が幼稚なものであったり間違ったものであれば、元も子もありません。
ここでは詳しく述べませんが、いわゆる主流派経済学は、この部類に属する学問です。
それは、どの人間も利益最大化を目指して生きているという仮説に依拠しています。
また、どの人間も同時刻に等しい経済情報を手にしているという仮説にも依拠しています。
この幼稚な人間仮説への固執が主流派経済学を生んだようです。
その固執を捨てないことにおいて、主流派経済学は「悪い学問」です。

そこでまず、経済について考えることに対する敬遠の意識を拭い去ることにしましょう。
また主流派経済学が植え付けた間違った仮説から自由になりましょう。
そして経済についての「よい学問」(よい思想の構え)を貫くことにしましょう。


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災害対策、防災対策にMMTを!

2019年11月07日 23時08分21秒 | 政治


台風大雨被害からの復旧や復興が遅れています。
直接の理由はお分かりと思います。
わずか1か月余りの短期間に台風15号、19号、東日本の大雨と、これだけ押し寄せてくれば、被害の重なった地域ではライフラインの復旧すらままなりません。
しかし必ずしもダブル、トリプルの被害を受けずにそれぞれ個別に被災した地域に限っても、関東甲信越東北の被災地全般を見渡せば、ため息の出るほど復旧・復興に手間がかかることが想定されます。
倒れた高圧電線や電柱による停電、土砂災害による寸断された道路や倒壊家屋、各河川の堤防決壊や氾濫が引き起こした水害による鉄道や橋の崩落、浸水で使えなくなった家屋・家財、田畑の被害など、後始末だけでも大きな人手とコストを要します。
まして被害に遭った人たちの生活や産業の再建には莫大な労力と費用が掛かるでしょう。
一説によると、総被害額は5000億円に上ると言われています。

この復旧・復興の遅れは、昨年7月の西日本豪雨、9月の大阪地震の際にも指摘されました。
一つの大きな理由は、長年にわたる公共事業の削減によって、中小の建設業者が倒産・廃業に追い込まれたためです。
復旧しようにも人手が不足し、高い生産技術があっても、うまく使いこなせる人がいません。
おまけに昨年から今年にかけての場合、東京五輪準備のために多くの建設業者が取られ、とても対応することができないのです。
昨年の12月には、こんな報告もなされています。

広島県では工事が必要な被災箇所は約7千件に上ると見込んでおり、山間部で重機が入れないケースなど難易度が高い現場も多い。人手不足で人件費が高騰する傾向がみられ、業者からは「経費がかかる分、利益が圧縮される。コストに見合わない」「発注が多すぎて、人繰りがつかない」という声が上がっている。岡山県と愛媛県では不調の発生率は10%以下に抑えられているが、今後も工事が増えていく中で危機感は強い。両県では、多くの業者が入札しやすいように設計金額の要件を緩和。人手不足に対応するため近隣の工事をまとめて発注し、1人の技術責任者が複数の現場を同時に監督するのを認めている。》(太字は引用者)

一般に、戦争や大災害があると、需要が伸びます。
戦争の場合は、それ自体が莫大な費用を必要としますし、日本のように敗戦の痛手を受けたケースでは、復興需要が発生します。
また大災害の場合でも大きな潜在的需要が生まれるので、それに応えられる供給力さえあれば、皮肉なことに経済成長のきっかけになることが多いのです。
ところが近年うち続く大災害の場合、復旧・復興のための供給力が決定的に不足しています。

もちろん、被害に遭った各家庭や企業に十分すぎるほどの経済力があれば、もしかしたら復興需要を満たすだけの供給力が創出されるかもしれません。
建設業者の経営者が従業員にうんと高い給料を払うことにして、高度人材を集め、生産性の高い技術を駆使するとか。
それだけの資金を提供できるだけの消費者(被災者)がいさえすれば、の話です。
しかし、それにはどう考えても限界があります。
貧困化している今の日本で、そんなお金持ちばかりがいるはずがありません。
また、橋や道路は地方自治体が復興に当たらなくてはなりませんが、地方自治体はただでさえ財政難で悩んでいます。
そこにこの度の連続災害に遭遇したことは、まさに「泣きっ面にハチ」でした。

さてどうしたらいいでしょう。
もちろん、中央政府の支援に頼るほかありません。
その中央政府は何と言っているでしょうか。

首相は「必要があれば補正予算も含めてしっかりと財政措置を講じていく」と表明した。政府は今年度当初予算で確保した予備費5千億円のうち、すでに使途が決まっている230億円を除いた部分を活用した上で、補正予算案の編成に着手する。自治体への普通交付税について首相は「繰り上げ交付を迅速に実施するように」とも述べた。https://www.sankei.com/politics/news/191015/plt1910150047-n1.html

一見、やる気満々のようです。
ところがです。
昨年の西日本豪雨災害の後、次のようなことが確認されました。

厚生労働省は、2018年9月に公共施設や病院などにつながる全国の主要な浄水場3521カ所を調査。その結果、22%に当たる758カ所が浸水想定区域にあり、そのうち76%の578カ所は入り口のかさ上げや防水扉の設置などの対策がされていなかった。土砂災害警戒区域にも542カ所あるが、うち496カ所が未対策だという。

さて1年経ちました。
今年の台風19号による水害では、次のような、同じ数字が報告されています。

河川の氾濫(はんらん)などで浸水する恐れがある場所に設置されながら、浸水対策がされていない浄水場は全国で578カ所にのぼっている。台風19号の大雨では、福島県いわき市の平(たいら)浄水場が水没し、最大で約4万5千戸が断水した。災害からの復旧を支えるインフラの備えが遅れている。

これは、1年たっても、問題の浄水場に対して新たな整備が行われていないことを示しています。
こんな調子では、意気込みだけ表明されても信用できません。
しかも「必要なら」と仮定を置いているだけですし、補正予算もどこまで組めるのかおぼつきません。
なにしろ、鉄壁の緊縮財政というこれまでの「実績」がありますから。

エコノミストの斎藤満氏は、次のように述べています。
政府は遅ればせながら、にわかに復興支援に積極的な姿勢を見せ始めました。日銀が支援融資を検討するほか、政府はこれを機に積極財政に転換した模様です。(中略)幸い財務省は、このところの超低金利を利用して、18年度中に52.5兆円も国債を前倒し発行し、その資金をある程度プールしています。財政資金はいつでも活用できる状況にあります。これで災害復旧が進めば、それなりに生産やGDPが増えるはずです。https://wezz-y.com/archives/70280?utm_source=onesignal&utm_medium=button&utm_campaign=push

しかし国債を災害対策にどこまで充てるのか、まったく怪しいものです。
というのも、使える資金はあると言ったその舌の根も乾かないうちに、斎藤氏は、次のようなことを言っているからです。

政府が支援のために財政支出を拡大するとしても、国にお金があるわけではないので、それは国民の税金や、将来世代からの借金によって賄えることになります。》(同前、太字引用者)

要するに政府の支援金は国民の税金から拠出し、不足分は国債(いわゆる国の借金)で賄うと言っているわけです。
「国にお金があるわけではない」という言葉がそれをよく表していますね。
これは、彼が財政支出の仕組みをわかっていないことを表しています。
しかし何も斎藤氏だけが悪いわけではありません。
日本国民のほとんどが、いまだに財政支出の主たる部分は税金で賄い、足りない分はやむなく国債を発行して間に合わせると思いこんでいます。
つまり公共事業や社会福祉事業、災害対策費などを捻出するのに、国民からカネを集めて行うと信じているのです。
国債もこんなに残高が積み重なっているから、「孫子の代に迷惑がかからないように」できるだけ節約をして、などと誰もが考えるのでしょう。

しかしMMT(現代貨幣理論)によれば、財政支出のためのカネは、政府がキーストロークだけでいくらでも創出できるのです。
そこにはインフレ率以外の制約はありません。
これは政策判断以前の、単なる会計上の事実です。
なにしろ政府には通貨発行権があるのですから。
「国にお金があるわけではない」などというのは、例によって、財政を家計の財布に例えるトリックを使った財務省に騙されているにすぎないのです。

さてここに、激甚な災害に見舞われている国民がいて、財政難のためにその対策ができずに悩んでいる地方自治体があります。
非常時です。
政府は支援のために5000億円取ってあるだの、補正予算を組むだのと大げさに騒いでいます。
おそらく補正予算なるものも、緊縮財政の枠をはみ出さないようにセコイセコイ金額しか積まないのでしょう。
どうせそうに決まっています。
国会議員たちもほとんどが騙されているのですから。
しかしこれは、あそこにいくらあるからあれを使って、というような話ではありません。
非常時ですよ。
中央政府にだけ許された通貨発行権を大いに行使して、復旧・復興のために、必要十分な数字をはじき出し、それを直ちに特別予算として組めばよいだけの話です。
けっして税収から何とか、などと考えてはなりません。
人手不足が問題なら、国が自ら中小企業に潤沢な補助金を提供して、企業はそれを人材登用に充てればよい。
こういうことをしたって、何も高インフレになどなるわけがありません。
欠損してしまったものを埋めるだけなのですから。
ちなみに東日本大震災というあれほどの非常時に、政府はいくらでもできるはずの財政出動をせずに、あろうことか、国民から(それも被災者まで含めて!)復興税を徴収したのです!

ところで、災害大国ニッポン。
このような危険は、これからも年を追うごとに増大していくことが予想されます。
こういう国土から逃げるわけにいかない以上、私たちは、永遠にそれに対する備えをしていかなくてはならないのです。
「今受けた被害のために」だけではなく、「これからの子どもたちが被害に遭わないように」財政支出をし続ける必要があります。
単に、災害が起きた後の場当たり的な応急処置で済ませてはなりません。
今年度は災害対策のためにこれだけ使いました、来年度は未定だからわかりません、では、いつまでたっても国土強靭化が果たせません。
単年度会計のしくみから改めていく必要があるでしょうね。

これを機会に、財務省もいいかげんに「狂気の緊縮路線」をすっぱり捨て、今後に備えて地方インフラ、防災インフラなどハード面の充実のために、長期計画を立てておおらかにキーストロークを叩きましょう。



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社会主義はそんなに悪いか

2019年10月31日 13時16分48秒 | 思想


*この論考は、1年前掲載した記事を改稿して再録したものです。

「社会主義」といっても、中共やかつてのソ連を肯定しようなどという話ではありません。

一部で悪評判の高い新自由主義イデオロギーは、以下の諸項目を教義としています。

(1)小さな政府
(2)自由貿易主義
(3)規制緩和
(4)自己責任
(5)ヒト、モノ、カネの移動の自由(グローバリズム)
(6)なんでも民営化
(7)競争至上主義


これらは互いに絡み合い、影響を与え合ってある一つの潮流へと収斂していきます。
その潮流とは、巨額のカネをうまく動かす者、国際ルールを無視する者、国家秩序を破壊する者が勝利するという露骨な潮流です。
(1)の「小さな政府」論者は、(3)の「規制緩和」を無条件にいいことと考え、(6)の「なんでも民営化」を推進し、(7)の競争至上主義を肯定します。
その結果、過当競争が高まり、世界は優勝劣敗の状態となります。
敗者はすべて(4)の「自己責任」ということになり、誰も救済の手を差し伸べません。
また、(2)の「自由貿易主義」は、経済力の拮抗している国どうしであれば、激しい駆け引きの場となります。
しかしふつうは強弱がだいたい決まっているので、強国の「自由」が弱小国の「不自由」として現れます。
こうして(5)のグローバリズムが猛威を奮い、資本移動の自由が金融資本を肥大化させ、実体経済は、国境を超えた金融取引に奉仕するようになります。
中間層は脱落し、労働者の賃金は抑制され、貧富の格差は拡大の一途をたどり、産業資本家は絶えず金融投資家(大株主など)の顔色を窺うようになります。
ケインズが、産業資本家階級と、金主である投資家階級とを同一視しなかった理由もここにあります。

ところで、社会主義国家を標榜していたソ連が崩壊してからというもの、社会主義とか共産主義と聞けば、大失敗の実験であったかのような感覚が世界中に広まりました。
その反動として「自由」を至上の経済理念とする気風が支配的となり、反対に社会主義思想はすべてダメだといった「社会主義アレルギー」が当たり前のように定着してしまいました。
この感覚が、経済における新自由主義の諸悪の延命に一役買っています。

次々に批判勢力を「粛清」して全体主義国家を成立させたのはスターリンであり、その基礎となるロシア革命を起こしたのはレーニンであり、そのレーニンはマルクスの思想にもとづいて社会主義政権を樹立した、だから、スターリン→レーニン→マルクスと連想をはたらかせて、諸悪の根源はマルクスの社会主義思想にこそある、という話になってしまいました。
しかし社会主義を経済理念として見た場合、本当にダメなのでしょうか。
こういう連想ゲームで物事を判断するのは、歴史の実相を見ようとしない、あまりにナイーブな思考回路ではないでしょうか。

筆者は、恐ろしく変転する世界史を、個人と個人をつなぐ連想ゲーム的な思考で解釈する方法には、大きな誤解がある、と長年考えてきました。
ソ連は、なぜ崩壊したのか。
最も大きな理由は、「共産主義」というイデオロギーを掲げた官僚制独裁権力が中枢に居座り、人々の経済活動への意欲を喪失させたからです。
1956年、フルシチョフがスターリン批判を行なったにもかかわらず、彼の失脚後、この官僚的硬直はかえって深まりました。
つまりこの歴史の動きは、創始者の経済思想の誤りにその根源を持つというよりは、ある特定のイデオロギーを「神の柱」とした政治権力の体質にこそあるとみるのが妥当なのです。

筆者は、特にマルクスを聖別するわけではありません。
彼の思想と行動の中には、十九世紀的な(いまは通用しない)過激な理想が確かにありました。
その大きなものは二つあります。
国家の廃絶私有財産制の否定です。
その人性をわきまえない政治革命至上主義をとうてい肯定するわけにはいきません。
しかし、社会主義勢力の現実的な系譜をたどってみるといくつもの飛躍があることがわかります。
それを踏まえずに、創始者がどんな現実認識と基本構想を持っていたかに目隠しをすることは、思想的には許されません。

マルクスは、主たる活動の舞台を、当時日の出の勢いで覇権国家としての地位を確立しつつあったイギリスの首都・ロンドンに置いていました。
そこで彼が見たものは、年少の子どもたちまでも過酷な労働に追いやる政治経済体制のいびつな姿であり、同時に大量生産によって驚くべき生産力を実現させる資本主義の力でした。
マルクスの頭を占めていたのは、前者の過酷な事態を何とかしなければならないというテーマでしたが、他方では、後者の巨大な生産力を否定することでこの課題を解決すべきだとはけっして考えませんでした。
この巨大な生産力の秘密である資本主義の成長の構造を否定することは、原始生活への回帰か、せいぜいが牧歌的な中世への逆戻りを意味します。
彼はこう考えました。
資本主義の生産力は人類が作り上げた富の遺産であり、これをさらに発展させて、生産手段を一握りの資本家に占有させず、より多くの人々に分配することこそが、問題の解決に結びつく、と。
マルクスは、資本主義を否定したのではなく、資本主義が生んだ大きな
遺産を万人にとってのものにするにはどうすればよいかに頭を悩ませたのです。
そして労働者階級が生み出した価値を資本家階級が搾取する構造を解明しました。
生産手段を労働者主体の手に。
つまり我々一人一人を経済的な主権者に。
その構想を実現するための政治的手段として、無産者階級の団結と、欺瞞的なブルジョア国家の止揚を呼びかけたわけです。
この構想が熟するためには、彼が、ロンドンという当時の世界経済の最先端で、その明暗の両面を観察するという条件が必要でした。

さて世界初の「社会主義革命」を実現させたとされるロシアは、当時どのような状態に置かれていたでしょうか。
ツァーリの圧制のもとに、大多数の無学な農奴たちが社会意識に目覚めることもなく、ただ貧困のうちに眠り込んでいたのです。
産業はほとんど発展していず、マルクスが革命の必須条件と考えていた資本主義的な生産様式はほとんど実現していませんでした。
マルクスは、ロシアを遅れた国として軽蔑していましたし、その国で彼の構想する社会主義革命が起きるなどとは夢にも思っていませんでした。

遅れて登場したレーニンは、まれに見るインテリでしたし、ロシアの現状をとびきり憂えていました。
この国を少しでも良くするには、組織的な暴力革命を起こすしかない、と彼は考えました。
その時彼の目に、これこそ使えると映ったのが、マルクスの社会主義理論でした。
しかしロシアの現状は相変わらずで、マルクスが社会主義実現の必須条件としていた資本主義の高度な発展という段階には至っていなかったのです。
レーニンは、その社会条件のギャップを無視しました。
気づいていなかったはずはなかったと思われますが、政治的動機の衝迫が、そのギャップについての認識を抑え込んでしまったのでしょう。

つまりロシア革命とは、資本主義がまだ熟していなかったロシアという風土における特殊な革命、というよりはクーデターと言ってもよいものです。
世界のインテリたちは、このクーデターに衝撃を受け、支配層は深刻な動揺に陥りました。
労働者階級はここに大きな希望を見出し、資本家階級は大きな狼狽を隠せませんでした。
彼らは当時のロシアの実態をきちんと分析せず、一様に、世界初の社会主義革命が実現した、と錯覚したのです。
その証拠に、眠りこけた農民たちは、革命後もなんだかわからないままに、交替した新しい権力に服従しただけです。
またレーニンの死後、権力を握ったスターリンは、一国社会主義を掲げ、西欧の資本主義諸国に一刻も早く追いつこうと、全体主義的な政治体制の下に、次々に強引な産業計画を進めていきます。
反対者の大量の粛清、強制労働、強制収容所などの汚点は、こうして生まれたのです。
結局、ロシア革命とは、遅れた社会体制を打ち壊して、近代資本主義国家を建設するためのものだったので、マルクスの構想とははっきり区別されるべきものなのです。
これを「ロシア・マルクス主義」という特殊な名で呼びます。

さてこう考えてくると、長く続いた米ソ対立が、その見かけとは違って、自由主義VS社会主義というイデオロギー対立ではなく、また経済体制の違いをめぐる抗争でもなく、むしろ、両大戦間に覇権国となったアメリカと、独裁政治によって急速に力を伸ばした新興資本主義国ソ連との、単なる政治的な覇権競争であるという実態が見えてくるでしょう。

これは何かに似ていませんか。
そう、現代の米中覇権戦争ですね。

いま問題となっている米中貿易戦争も、資本主義国家どうしの力と力の激突に過ぎないと見なす必要があります。
鄧小平が中国に市場経済を取り入れて以来、この国は、建前だけは社会主義を掲げながら、政治的には中華王朝時代と同じ独裁体制を採りつつ、経済的には最先端と言ってもよい資本主義体制を採っています。
レーニンが打ち倒す対象と考えた「国家独占資本主義」をまさに地で行っているわけです。

では、冒頭に掲げた新自由主義の諸悪は、どうすれば抑えられるのでしょうか。
それには、二つの方法が考えられます。

一つは、有力国家群が協議して、野放図な経済的「自由」を規制するルールを作ることです。
資本主義を否定するのではなく、市場の自由や知財の移動や為替についての共通ルールをもっと厳格にするのです。
しかしこれは、多極化している国際社会の現状や、グローバリズムに乗っかって帝国主義を強引に進めている中国のことを考えると、合意を得るのが極めて難しいでしょう。
すると当面、もう一つの方法に頼らざるを得ません。
それは、それぞれの国家が、自国の経済の能力と限界をよく分析し、各自それに見合った形で、野放図な経済的「自由」の侵略に対する防波堤となることです。

かつて日本は冗談半分に「一種の社会主義国だ」と言われていました。
それは、必要に応じて、政府が適切な関与をし、また基幹産業は国有企業(公社)だったからです。
いまの政権がそれをほとんどなくしつつある状態は、国家としての自殺行為と言えるでしょう。
経済がこれほど衰退し、国全体の凋落が歴然としているいま、さまざまな分野での公共投資を積極的に増やす必要がありますし、政府がバランスあるコントロールをとっていく必要があります。
そのために貧困や失業をなくし格差を是正するという、社会主義がもともと持っていた基本動機のいいところを見直す必要があるのではないでしょうか。
これは、最近話題のMMTにもかなうものだと筆者は確信しています。

*参考:拙著『13人の誤解された思想家』


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マスコミはなぜ懲りないのか

2019年10月19日 00時24分15秒 | 思想


台風19号が残した水害の惨禍が広がっています。
10月17日午後11時現在、死者77名、堤防決壊箇所は、全国68河川で128か所に及んでいます。
まさにそのさなか、日本経済新聞の久保田啓介という編集委員が書いた10月14日付の記事があまりにひどいので、一部で批判の的になっています。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO50958710T11C19A0MM8000/

とにかくまず、久保田某の論説の一部をここに書き出してみましょう(太字は引用者)。

2011年の東日本大震災は津波で多数の死傷者を出し、防潮堤などハードに頼る対策の限界を見せつけた。
堤防の増強が議論になるだろうが、公共工事の安易な積み増しは慎むべきだ。台風の強大化や豪雨の頻発は地球温暖化との関連が疑われ、堤防をかさ上げしても水害を防げる保証はない人口減少が続くなか、費用対効果の面でも疑問が多い
西日本豪雨を受け、中央防災会議の有識者会議がまとめた報告は、行政主導の対策はハード・ソフト両面で限界があるとし、「自らの命は自ら守る意識を持つべきだ」と発想の転換を促した


遅まきながら筆者も、この久保田某をやっつけておきましょう。
これは何が言いたいかというと、要するに、防災のために公共事業費を費やしても無駄だから、それに頼るのは諦めて、自分で命を守る工夫をしろと言っているわけです。
ハードに頼る対策の限界」「公共工事の安易な積み増しは慎むべきだ」というところに端的にそれが出ていますね。
この提言が、財務省の緊縮財政路線べったりであることは、火を見るよりも明らかです。
国民の命よりも「健全財政」のほうが大事だ、国はあんたの命など守ってあげるために国土を強靭化するお金の余裕はないよと、平然と言ってのけているのですね。
「安易な」と形容詞をつけることでソフトに見せかけたつもりでしょうが、長年にわたって公共事業削減を続けてきた歴代政権の失政を認めずに、ひたすらヨイショしていることは見え見えです(公共事業費は。現在97年ピーク時の5分の2。安倍政権になってからも全然増えていません)。

堤防をかさ上げしても水害を防げる保証はない」とは何たる恐ろしいレトリックか。
少しでもかさ上げできれば、それだけ人命を救う可能性が増すにきまってるでしょう。
幼稚園児でもわかりますよね。
この一文を、今回の堤防決壊の実態に当てはめてみてください。
お前が決壊した水に浸かって一番先に死ねよ、と言いたくなりませんか。
ちなみにこのたび、堤防決壊とは別に、ダムの放流が何か所かで予告されましたが、竹村公太郎氏が常々説いている通り、ダムのかさ上げ工事をしておけば、わずかな高さでこれまでよりも圧倒的に多くの水量をキープできたのです。
しかも単純なコンクリート工事ですから、コストはそんなにかかりません。
これをやっておけば、今回のように、下流の住民を危険と不安にさらす必要はなかったのです。

人口減少が続くなか、」――最近、何かというと社会問題(たとえば少子高齢化問題)を論ずる論客が「人口減少」を合言葉みたいに持ち出して、危機を煽ったり言い訳に使ったりします。
人口減少そのものは、推計を信じるとしても、たいへんゆるいカーブであり、差し迫った危機ではありません。少子高齢化問題の要は、人口減少カーブと生産年齢人口減少カーブとのギャップにこそあります。
それよりなにより、国土強靭化の費用をケチるために、なんで人口減少を持ち出すのか。
何の関係もないではありませんか。
自然的な人口減少よりも、この災害大国で、久保田某のような公共事業悪玉論の横行のために失われる命のほうが多いかもしれないのですよ。
費用対効果の面でも疑問が多い」とエラそうにのたまっていますが、彼は、これだけの費用をこういう事業にかけたらこれだけの効果があるという試算でもしてみたのか。
自分でできないなら、専門家の考えを聞くのでもいい。
おそらくこの種のことなど、一度もしたことがないのでしょう。
無責任極まる発言というべきです。

行政主導の対策はハード・ソフト両面で限界があるとし、『自らの命は自ら守る意識を持つべきだ』と発想の転換を促した」――これはウソです。
「令和ピボットニュース」がこのウソを見事に暴いています。
この(中央防災会議の)報告は、西日本豪雨の際に、行政からの情報提供にもかかわらず危機意識が不足していて逃げ遅れた人が多く存在したことを受けて、「住民が『自らの命は自らが守る』意識を持って自らの判断で避難行動をとり、行政はそれを全力で支援する」ことが必要だと訴えるもので、堤防への投資が不要などという話とは全く関係ないのです。
https://reiwapivot.jp/libraries/pivotnews_20191016/

さて、こうしたマスコミの盗人猛々しい論調は、うち続く災害の中にあっても、なぜ変わらないのでしょうか。
こうしたひどさに対しては、「相手にもできない」「頭がおかしい」「バカ丸出し」「狂気の沙汰」など、いろいろな罵倒の言葉を投げかけることができるでしょう。
しかし一方、ただ罵倒で終わらせずに、次のように考える必要もあります。
日経や朝日など大方の大マスコミの劣悪さは、「今に始まったことじゃないさ」と突き放すことができるでしょう。
もともと新聞という媒体は、その発祥からして「社会の公器」ではなく、好奇心を掻き立てる見聞(噂話)を広く知らせて儲けるビジネスでした。
江戸時代の瓦版など、さぞかしガセネタが多かったことでしょう。
19世紀アメリカではイエロージャーナリズムが一気に部数を伸ばしましたし、日本の明治時代にも、このたぐいが大流行りでした。
また、特に公正性などを持ち合わせているわけでもなく、社是としての私的な主張をもっともらしく「公論」として見せかける術にたけているだけです。
そしていつのころからか、彼らが勝手に「公器」を自称するようになったのです。
ですから、国民は、新聞の言っていることなど、まともに信じてはなりません
以前、藤井聡氏がFBにアップしていましたが、主要先進国の国民が、新聞・雑誌をどれくらい信頼しているかを比較したデータがありました(2005年。単位%)。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/3963.html
それによりますと、イギリス13.4(!)、アメリカ23.1、イタリア24.7、ドイツ28.7、フランス38.5、
そして日本72.5(!)。

もちろん、いまの大新聞は、さすがに事実報道という面では、頼りになる面があります。
始末に悪いのは、社説とか、その社が発する論説といったたぐいの文章です。
これは久保田某や、朝日新聞の原真人など、編集委員、論説委員と呼ばれる「エラくなった人」が書きます。
彼らは細かい現場事情に触れる必要がなく、具体性の乏しい抽象的な文章を書くことが許されています。
言葉が抽象的であること自体は、必ずしも悪いことばかりとは言えませんが、庶民感覚、現場感覚をきちんと包み込むことが困難になることはたしかでしょう。
そういう危うさを抱えたところに、頑迷な「社是」や「理念」が取りつくと、現実から遊離した文章が出現するわけです。
社是や理念があらかじめ決まっているので、何か書くのに、いちいちエビデンスを取る必要もありません。
だから、乱暴に言えば、新聞社では、エラくなればなるほど、アホな文章が出やすくなります。
彼らは高給を取って、高い社内的地位に甘んじて、それに見合わない見当違いの文章を平気で書くことができます。
高級な考えを書いているという自己満足感と共に。
これは言ってみれば、「権威主義」という組織構造的な問題でもあります。
社内に開かれた議論の空間が確保されていて、それをボトムアップできるシステムがあればいいのですが、いまの新聞社にそれを期待することは無理でしょうね。
政界、学界の構造とも似ているでしょう。

私たちは、こうした事実をよくよく踏まえ、批判精神を大切にして、お人好し的国民性から脱しなくてはなりません。
イギリス13.4%というのがちょっと羨ましいですね。


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本対談では、日本人の病むこころから、それを生み出している社会病理に至るまで、広い視野のもとにその背景を探り、適切な処方箋を見出していきます。
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エリートたちの思考停止

2019年10月11日 13時34分38秒 | 思想



2019年10月8日、遠藤金融庁長官が、厳しい経営環境が続く地銀について「他力本願的だ」と指摘し、主体的な改革推進を求めました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191008-00000013-jij-pol&fbclid=IwAR0cYwfhmTgvK_gBb10SJlrX8IlWIOouMyF6T6Qzuwmq1dlKAUNVwCMnFMo
 遠藤長官は、地銀の収益改善策について「顧客と中長期的な信頼関係を結ぶビジネスを真剣に考えれば資金利益は確保できる」と強調しました。
また、預金口座の維持手数料を利用者から徴収する議論が浮上していることに対しては「サービスが変わらないまま、収益向上のためだけに手数料を取るのであれば顧客が納得しない」と指摘し、利便性を高めるなど、現行取引に付加価値を加えることが大事だと語りました。
一見正しいことを言っているように見えます。

しかし地銀の経営が厳しさを増している背景には、安倍政権のデフレ政策の誤りがあります。
そしてその根源には、金融緩和さえやればOKというリフレ派の考え方があったのです。
日銀は、いまだにこれを続けています。
この政策のために金利が極端に低下し、銀行はいま青息吐息です。

銀行の主な利益は、貸出金利と預金金利の差額、それに取引に伴う手数料です。
しかし肝心の金利がこんなに低くなってしまっては、経営が圧迫されるのは当然でしょう。
おまけに需要が冷え込んでいる地方企業が、銀行からお金を借りて投資に踏み出そうとしません。
それは、このデフレ状況では、将来的に儲かる見込みが立たないからです。
そういうわけで、地銀はどこも断崖に立たされています。
島根銀行が一番に破綻しましたね。
この状況は、政府が大胆なデフレ対策を打たない限り、解決不可能です。

そんなことは一目瞭然なのに、金融庁長官はその根本原因に言及する代わりに、地銀に対して、効果のないスポ根型精神論をひたすら押し付けているわけです。
知っていながら知らないふりをしているのか、マクロ経済に蓋をして、ミクロ経済の問題にスリカエているのですね。
間違った前提をそのまま受け入れて、自分の役職の範囲内でしかものを考えたり発言したりしないのです。
ここには、全体的な流れやプロセスを見ようとしない思考停止の典型が現れています。

しかもこれには後日談があります。
信頼できる筋からの情報ですが、今度は、自民党の金融調査会で、国会議員が同じ論調で当の金融庁を責めていたそうです。「金融庁の指導が足りない」「地銀はもっとニーズに合ったサービスをしないからダメなんだ」という具合に。
真相から目を背ける人々の、見苦しい「罪のなすり合い」ですね。

このように、手を汚さないで済むエリートや財界人たちのなかで、いま思考停止による無責任な言動が横行しています。

もう一つ例を挙げておきましょう。

一日後の10月9日、ファーストリテイリング会長の柳井正氏が日経ビジネスのインタビューに答えています。
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/depth/00357/?fbclid=IwAR0q2FElDohYtgGKOwaZE4OykqTNXOKN70joIMZ7zM0ypMj-U4AftKtixUk
このインタビューで、柳井氏は、日本はこのままでは滅びるから、大改革が必要だというのです。
ではその大改革とは何かといえば、次のようなトンデモ政策です。

まずは国の歳出を半分にして、公務員などの人員数も半分にする。それを2年間で実行するぐらいの荒療治をしないと。今の延長線上では、この国は滅びます。
 参議院も衆議院も機能していないので、一院制にした方がいい。もっと言えば、国会議員もあんなに必要ないでしょう。町会議員とか村会議員もそう。選挙制度から何から全部改革しないと、とんでもない国になります。


これは、維新が掲げている政策と酷似していますね。
アメリカで盛ん(だった)「小さな政府」論への盲従です。

柳井氏は、日本の公務員が人口比で世界一少ないということも知らないらしい。
これ以上公務員を減らしたら、公共サービスの劣化はますます進むでしょう。
災害時などの繁忙期に、公務員がいかに心身をすり減らして死にたくなるまで働いているか、氏は想像したことがあるのか。
公務員は少なくとも、いまの2割は増やさなくてはならないのです。
また、歳出を半分にして、デフレ脱却、社会福祉の充実、インフラ整備、教育、医療、防災、国防その他、いま日本にとってぜひ必要とされる案件をどうやって解決しようというのか。
何よりも、こういう「大改革」をすれば、どうして「滅びゆく日本」を少しでも食い止めることができるのか、その理路がまったく立っていません。
いまの日本の衰退のおおきな原因が、柳井氏のアイデアとは真逆の、緊縮財政路線にあるということも、彼はまるで分っていないようです。
要するに、ふだんから、「小さな政府」を実現して、自分たちのビジネス領域を拡大しようとしか考えていないので、何の根拠もない思い付きをフカしているだけなのです。

儲けることに専念して(それはそれで結構なことですが)経営に成功してきた者が、ちょいと偉くなって政治に口出しなど始めると、バカなことしか言えない、その無残な例がここに現れています。
日本の衰退を政治的に問題にするなら、もう少し政治について勉強してはどうでしょうか。
あなたのような人がいるから、日本は滅ぶのだと言いたい。

御用学者のたぐいにも無知をさらしている人はたくさんいますが、それはこのブログで何度も取り上げてきましたので、今日は控えておきましょう。
いずれにしても、これら著名人の発言が、じつは私的利害や主観的信念や自己保身のためだけなのに、公共的な体裁のもとになされている例が氾濫しています。
こういう無責任な言論状況が積み重なることもまた、「滅びゆく日本」をいっそう前に進めるでしょう。
一国が滅んでゆく最大の原因は、その国の国民が、自国の滅亡過程を自覚しないことです


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リベラリズムの退廃

2019年10月02日 11時41分11秒 | 思想



9月27日、「チャンネル桜」放送、我那覇真子氏の「おおきなわ」で、ジェイソン・モーガン氏が「アメリカン・バカデミズム」(育鵬社、9月10日発売)という自著について紹介していました。
https://www.youtube.com/watch?v=HNITQkAwlis&t=136s
筆者はこの本は未読ですが、内容を聞いてびっくりしました。
いまアメリカのリベラル系の大学では(すべてではないでしょうが)、アイデンティティ・ポリティクスが大流行で、氏によれば、個人のアイデンティティが100以上あるそうです。
アリゾナ州立大学大学院の博士課程の院生が「私はカバです」とか「私は犬です」などと大真面目に主張していて、犬を自分のアイデンティティにしている人は、実際にお椀で食べたり犬のベッドで寝たりしているとか。
木と結婚するとか、石と関係するなどということも実践されているらしい。
メンタルの病にかかっているとしか考えられません。
「そりやいくら何でもバカバカしいよ」などと言おうものなら、直ちに差別として告発されます。
代名詞もheとshe以外にいくつもあり、ニューヨーク州では、ある人を間違った代名詞で呼ぶと罰金を取られるという法律が堂々と成立しているそうです。

モーガン氏は、リベラル色濃厚なウィスコンシン州立大学に論戦を挑むべく、あえて歴史学部に入学したのですが、まったくこちらの議論に耳を貸してくれませんでした。
ある時、全学生に州知事に反対するデモに参加せよとのメーリングリストが回ってきて、そのスローガンが「州知事は皇帝ネロだ」というものでした。
氏は、学問の府を政治の舞台にするのはどうかと思い、一人で全員に反論メールを出しましたが、無視されました。
また氏は、慰安婦問題について秦郁彦氏や平川祐弘氏に学び、韓国が間違っているとの確信を得て、それを歴史学会のニューズレターに投稿したところ、反論者はたったの一人でした。
しかしその背後で、500人もの人が「日本が悪い、安倍(首相)は韓国に謝れ」といったお祭り騒ぎを演じました。
氏の指導教授は、他教授と「モーガンが大騒ぎの張本人だ」というメール交換をする一方、氏に対しては、「超多忙」を理由に何にも取り合ってくれなかったそうです。
どうやら韓国からの裏金が動いていたらしい。
そうした事実をもっと日本人に知ってもらいたくて、『アメリカン・バカデミズム』を書いたと、モーガン氏は述べていました。

この話を詳しく紹介したのには、2つの理由があります。

一つは、徴用工問題、韓国への輸出規制、韓国のGSOMIA破棄など、最近の一連の日韓関係の悪化について、日本の一部保守派の反応を見ていると、対韓国との関係で「ざまあみろ、自業自得だ、日本の勝ちだ」といった感情的な炎上が少なからず見られる点に疑問を持つからです。
といっても、筆者は、この関係の悪化はまずいことだから、何とか仲直りする道を探すべきだなどと言いたいのではありません。
問題は、日本の一部保守派が、韓国一国との関係だけで一喜一憂している点です。

周知のように、現代の戦争は、ドンパチだけではなく(むしろそれは少なくなっており)、情報戦、経済戦の様相が色濃くなっています。
日本は、韓国および中国とは、すでに長いこと情報戦と経済戦を戦っているのです。
そしてことに情報戦において、日本は中韓に大差をつけられています。
それは、国連や欧米諸国で、中国のいわゆる「南京大虐殺」や韓国のいわゆる「従軍慰安婦」などの問題が当たり前のこととして受け取られている事実を見ればわかります。
彼らは、国際的な情報戦に勝つために、膨大なエネルギーを注いできました。
しかし日本は、一部有志の努力があったものの、外務省をはじめとして、この問題を、国連や欧米諸国で日本がどう受け止められるかという地球規模の問題として扱ってきませんでした。
現在のところ、勝敗は決したも同然で、このままほおっておけば、「日本の悪」が国際的な正史として定着してしまうでしょう。
覇権戦争のさなかにある米中は、日本の主張の正当性をけっして認めないという意味では、皮肉なことに、かつての「戦勝国」として連携していると言えるのです。
モーガン氏の話は、そのことを象徴しています。

もう一つは、モーガン氏の話が、アメリカのリベラル左翼がいかに硬直したイデオロギーに染まっているかを示しているという点です。
個人のアイデンティティを当の個人が勝手に決めて、それを笑ったりバカにしたりしたら差別だというのは、リベラリズムが行きつく退廃の極をあらわしています。
その点で、日本の左翼のほうがまだしも健全な常識の範囲内にあると言えますが、しかしここには、左翼がたどる、笑うだけでは済まされない一つの道筋がくっきりと示されています。
日本の左翼も、現在、LGBT、アイヌ、女性、障害者など、特殊性を持った「記号としての弱者」のカテゴリーをあらかじめ決めておく傾向が顕著です。
そしてその傾向に少しでも違和をあらわす言動がなされると、すぐ差別とか人権蹂躙とか排外主義と言ったレッテルを貼りつける風潮が目立ちます。
これは、左翼が本来の任務を放棄している証拠なのです。

左翼の本来の任務とは、中央政府が一般国民の生活の豊かさと安定を保証せず、かえってないがしろにする方向に走っている時に、その事実を指摘して改めさせるような政治行動を起こすことです。
その基盤にあるのが、ふつうの労働者のための組合運動ですが、80年代くらいからそれがすっかり鳴りを潜めてしまいました。
しかし現実には、いまの日本の政権は、グローバリズムに完全にいかれてしまった結果、ふつうの国民生活をさんざんに苦しめています。
日本国民が貧困化している証拠は山ほどあります。
つまり労働組合や左翼政党が活躍すべき条件が十分に復活しているのです。
にもかかわらず、一部の突出した人気政治家を除いて、その条件を活かす兆候は見られません。

このところ、行き過ぎた金融資本の自由化を是正し、政府の財政政策を積極的に肯定しようとする新しい経済学の理論が盛り上がっています。
その潮流の担い手の一人である経済学者を日本に招聘しようと努力していた人(Aさんとしましょう)が、思わぬ苦労を経験しました。
Aさんは一応保守派を標榜しているのですが、現政権の経済政策のとんでもない誤りを少しでも日本国民に知らしめるべくその経済学者を呼ぼうとしたのです。
ところが一部の左翼勢力が、Aさんの主宰するメルマガに掲載されたある人の論考を探り出して内容をその経済学者に知らせたそうです。
その論考は、モーガン氏が論戦を挑んだのと同じように、いわゆる「従軍慰安婦」問題や「徴用工」問題や「南京大虐殺」問題についての日本の主張の正しさに触れたものでした。
同時にこれらの情報戦における、日本の対応のふがいなさにも触れています。
これを知った経済学者は、その論考を削除しなければ訪日しない旨を伝えてきたそうです。
Aさんは、イデオロギーで人を入れたり切ったりすることを嫌うプラグマティストですから、粘り強く経済学者を説得して、訪日OKにまでこぎつけました。
もちろん、削除要求に対しては拒否しました。
左右イデオロギーを超えて、正しい理論を少しでも広めることができるのですから、それはそれで大変よいことだったと思います。

以上の経緯が示していることは何でしょうか。
筆者は、正直なところ、この経済学者の対応に驚きました。
英語圏では、学者までもが、かくも特定イデオロギーに染まってしまっているのですね。
日本の憲法学者や御用学者などを見ていると、人のことは言えた義理ではありませんが、学問や言論の自由を最大限尊重する英語圏の学者なら、まさかそんなことはないだろうという幻想を筆者も持っていたのです。
筆者はそこに、モーガン氏が経験したのと同じリベラリズム全体の政治的偏向と退廃を見る思いがしました。
もう一つ、残念なのは、やはり先に述べたように、英語圏の人たちの多くは、東アジアのもつれた関係についてよく知らないのに、「悪いのは日本だ」と信じ込んでいるらしいことです。
ここにも中韓の情報戦の圧倒的な勝利の証拠を見ることができます。
韓国のほうだけを見て一喜一憂している場合ではないのです。
筆者もモーガン氏にならって、世界では「悪いのは日本」が常識になってしまっているという事実を知ってもらいたくて、これを書きました。
くだんの経済学者個人を批判したくて書いたのではないことをお断りしておきます。


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自由と個人化のつけ

2019年09月22日 20時16分59秒 | 思想



ある人に教えられて、御田寺圭氏の『矛盾社会序説』を読みました。
その人に、20年前に書いた拙著『弱者とはだれか』との共通点を指摘されました。
筆者は御田寺氏の本を、2018年11月に出版されてからまもなく買ったのですが、一年近く積読になっていました。
それで、急いで読んでみたのです。
なるほど拙著の問題意識と一部共通点を持ちつつも、それをさらに現代のシーンにふさわしく洗練させ、思想的に鮮明化させているという印象です。
気づかせてくれた「ある人」に感謝です。

御田寺氏はまだ30そこそこと想像されますが、ネット上では前から有名だったようです。
たいへん鋭い分析力と繊細な感性を持ち合わせた人です。
氏は社会学的知見を駆使しながら、表通りの「正しさ」や公認された「弱者」マークによって、かえってそのために見えなくされているいろいろな人たちにスポットを当て、その不可視化、透明化が、私たちの社会で疑い得ない価値とされている「自由」から生まれてきていると指摘します。
そこには「かわいそうランキング」が成立していて、その上位者だけが脚光を浴びる仕組みになっているというわけです。
不可視化、透明化された対象は、孤独死する独居老人(特に男性)、ワーキングプア、結婚できない男たち、非モテ、地方に拘束される若者、ひきこもり、失業者としてカウントされない「ミッシングワーカー」などです。

「助ける対象を自由に選べる社会」とは「助けない対象を自由に排除できる社会」と同時発生的である。
否が応でも周囲に気を配ったり、親切にすることを求められていたような時代は終わり、個人がそれぞれに関心のある、または肩入れしたいものごとに対してのみ力を注いでよい時代を迎えた。それはつまり、自分がかかわりたくないもの、ごめんこうむりたいものに対する「拒否権」が拡大した時代となったともいえる。》(太字は、原文では傍点)
《(相模原障害者施設殺傷事件の――引用者注)被告が殺害しようとしていた対象(被告がいうところの「無価値」な人間)には、彼の言葉を共感的に見ていた人びと自身も大なり小なり当てはまってしまっているのではないだろうか。

「~への自由」と「~からの自由」とを区別し、前者を肯定しなかったのはバーリンです。
先進社会が普遍的価値として押し出す「自由」という抽象語には、たしかにこのアンビバレンツが含まれ、前者が強調されると、御田寺氏の言うように、「助けない対象を自由に排除できる自由」を必然的に抱えることになります。
「自由な社会」が抱える矛盾は、共同体が成り立たず「個人化」が進んできた傾向と不可分です。

ちなみに、ここで「個人主義化」と呼ばず、あえて「個人化」と呼ぶのは、次のような理由からです。
個人主義という用語は、それぞれの人の生き方のモットーを指すために使われ、それは保守派の一部からしばしば「エゴイズム」と混同されて批判の的とされます。
しかし生き方のモットーとしての個人主義は、他人の生き方をも尊重し、互いの生活にむやみに干渉しないという意味合いを含むので、それ自体はけっして悪いニュアンスではありません。
近代、特に都市社会では、これはなくてはならないマナーの一部となっています。
メールが栄えて、電話による声の迷惑を控えるようになったのなどは、いいことですね。
これに対して「個人化」とは、よくも悪しくも家族や社会の紐帯が崩れ、生活の協同が成り立たなくなった全体的な傾向を指します。
ですから、これは「主義」の問題ではなく、そこに抽象的な「自由」理念がイデオロギーとして深く浸透してしまった事態と呼応関係にある、いわば全社会的な構造の問題なのです。
そして厄介なのは、この構造的な問題が、誰から強制されたわけでもなく、私たちみんなで選んできた結果なのだという点です。

これを少し政治的な文脈に置き直してみましょう。
かつては、国民のほとんどに共通する経済社会的不公正があると、労働組合がその課題を集約し、それを支持基盤とした政党が、野党として相当の勢力を示して中央政府に対峙していました。
それは広範な国民大衆に共通する「明日の暮らしをどうするか」を中心課題としていたからです。
実際、中央政府もこれを無視するわけにはいきませんでした。

しかし評論家の中野剛志氏が指摘するように、70年代後半から80年代にかけて、「労働者の暮らしを豊かにすること」を中心課題とする労働組合のこの結束は衰退し解体していきました。
これは、直接には、日本が豊かになり、一億総中流などと呼ばれた時代を反映しています。
山崎正和氏の『柔らかい個人主義の誕生』がベストセラーになったのが84年です。
この情勢をそのまま受けて、野党は、「国民生活の豊かさを保証する」という課題を喪失し(放棄し)、代わって、その政策課題を「差別」「人権侵害」「排外主義」など、特定集団が被っているとされる「被害」の撤廃に集中させるようになりました。
ポリティカル・コレクトネスなる概念が世界中を覆い、わが国でもそれが中央政権に立ち向かうための根拠となったのです。

中央政権もこの口当たりのよい「正義」概念に面と向かって逆らうことはできなくなりました。
この概念の仲間に入れてもらうためには、LGBT、移民、アイヌ、女性など、特殊なマークを持つことが必要とされます。
生活者一般の苦労、困窮という見えにくい指標は、特定の個人のアイデンティティという見えやすい指標に取って代わられたのです。
「すべての人に自由と平等を」「一億総活躍社会」「すべての女性が輝く社会」――そんなことが無理なのは大人なら誰でもわかるはずなのですが、そういうあたりさわりのない標語を中央政権も、臆面もなくかざすようになりました。
反権力的な勢力の政治課題がこのように転換したことは、結果的に政府にとって都合のよいことだったかもしれません。
というのは、特定の個人のアイデンティティを政治課題の中心に据えることは、その影で、どんな間違った経済政策を採ろうが、野党がそれを見逃してくれることになるからです。

さて中央政府の経済政策の致命的な失敗によりデフレが20年以上も続き、いまや実質賃金は下がり続け、格差は開き、中間層は脱落し、年収200万円以下のワーキングプアは1100万人超、貯蓄なしの世帯は半数近くに達し、生活保護世帯は安倍政権発足以来ずっと160万世帯で高止まりしています。
10月からは消費税が10%に増税され、国民にとっては「踏んだり蹴ったり」の状態が実現されようとしています。
かつての労働組合が担っていた課題は、いま確実に復活しているのです。
にもかかわらず、消費増税にはろくな反対運動も起きていませんし、政府の経済政策のひどさを根底から批判する政治勢力はほとんど力を蓄えていません。
ごく少数の人たちが、さすがにいまの日本の危機状態を訴えていますが、いまいち「笛吹けど踊らず」の感があります。
増税されても文句を言わずに我慢する「自由」が浸透しているからです。
個人化の深まりが、当然なされるべき結束の動きを阻んでいるのです。

豊かさの実現が、人々をして「自由」を普遍的価値と思いこませ、個人化の傾向を促進させたのですが、その豊かさが消え去っても、いったん出来上がった意識はなかなか元に戻りません。
足元で苦しい生活に耐えながら、それでも人々の意識は、これらの欺瞞的な価値と傾向から抜け出すことができないのです。
危機待望論ではないですが、おそらくもっと事態がひどくならなければ、この意識は変わらないでしょう。

御田寺氏の著書のまなざしは、主として「かわいそうランキング」の下に位置するがゆえに、不可視化され透明化されてしまった人々に注がれています。
それはそれで「自由」という価値が持つ矛盾と欺瞞性を見事に照らし出すものでした。
しかしいまや、一見、別に「かわいそうランキング」にランクされていないような「ふつうの人々」のふつうの忍耐の日常の中に、不可視化と透明化の核心が存在するような時代になったのではないでしょうか。


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MMTの就業保障プログラム vs ベーシックインカム

2019年09月18日 22時52分11秒 | 思想



現代貨幣理論(MMT)を体系的に論じたランダル・レイ氏の『MMT現代貨幣理論入門』には、政府が雇用の安定と貧困の解決を目的として提供する「就業保障プログラム(JGP)」というアイデアがやや詳しく紹介されています。
これは簡単に言えば、政府自らが最低賃金を決めて労働者を雇い入れ、不況時に失業者が増大しないようにするシステムです。
政府の提供する仕事は、インフラの整備や社会福祉事業など、公共性の高いものが中心となるでしょう。
しかしそれだけではなく、ふだん民間が行なっているさまざまなプロジェクトについても、不況時には政府もタッチして、失業者に就業機会を提供することになります。
世界恐慌時代のニューディール政策がそのモデルの一つです。

こういうと、いわゆる「小さな政府」論者は、すぐクラウディングアウト(金利高騰による民間需要の圧迫)を心配するでしょう。
しかしJGPはあくまでその時々の最低賃金で雇用することが条件ですから、もし少しでも景気が回復して、それよりも高い賃金で雇う企業が現れれば、労働者はそちらに自動的に移っていきます。
そしてまた景気が悪化すれば、政府が財政支出を行なって、失業者を吸収するわけです。
いわばJGPは、景気循環の波をできるだけ抑えて完全雇用の実現を目指すための労働者のプールなのです。

このアイデアは、いくつかの点で優れている、と筆者は思います。
レイ氏の説明に従って、その利点を挙げてみましょう。

一つは、このアイデアが、「小さな政府」がよいのか「大きな政府」がよいのかといったイデオロギー的な対立の不毛さから自由な、柔軟なシステムだという点です。
JGPの雇用は、景気後退時に増加し、景気拡大時に縮小します。
景気過熱時にはインフレ圧力を弱め、不況時にはデフレ圧力を弱めます。
つまり景気後退時には、「大きな政府」になり、景気拡大時には「小さな政府」になるわけです。
その意味で、アメリカで言えば、民主党だけではなく共和党にも受け入れられる要素を持っています。

また、これは政府が直接雇用しますから、医療、育児、社会保障、病気休暇など、きちんと整った福利厚生とセットになっています。
ここに属する労働者は、パートタイム労働や季節労働を含め、その期間、一種の公務員になるわけですね。

次に最低賃金ですから、民間の雇用者は、これより少しでも高い賃金を支払えば労働者を引き抜くことができるので、雇用者どうしの低賃金競争を制限することができます。
また一般企業は、福利厚生や労働条件の面でも、少なくともこのプログラムと同程度の水準を提示しなければならなくなります。
ブラックな扱いを受けている労働者は、そこから逃れてJGPを選択することができるわけです。

為替レートとの関係ではどうでしょうか。
貧困層に所得をもたらすと、消費が増え、その結果輸入が増えるので、輸入物価が上昇して通貨安となり、インフレが加速することを心配する向きもあるでしょう。
しかしこの心配は、フィリップス曲線を盲信した主流派経済学の一部からくるものです。
フィリップス曲線では、失業とインフレとがトレードオフの関係になりますから、一国の経済の安定のためには、ある程度の失業やむなしという考え方になります。
しかしレイ氏はこれに対して、次のように答えます。
物価と為替レートの安定を達成するための主要な政策手段として貧困と失業を利用することに対しては、強い倫理上の反対論がある。》
また、《むしろ、就業保障プログラムは国内外における通貨価値に(最低賃金という――引用者注)土台を提供するがゆえに安定させ、実際にはマクロ経済の安定性を高める
為替レートへの圧力が万一強まって、それを最小化したいのであれば、国は貿易政策、輸入代替政策、ぜいたく税、資本規制、金利政策、取引高税などを依然として利用することができる
つまり、貿易赤字の増加を解決するために、貧困層や失業者にすべての負担を押し付けるのはおかしいということですね。

このアイデアに対しては、このほか二つの批判があるようです。

一つは、政府の雇用の増減の幅が大きくなりすぎて、制御不能になるのではないかというもの。
不況時に多くの雇用を創出したのに、好況になったらそれがみんな民間の雇用に流れてしまうのでは、多くのプロジェクトを中止しなくてはならなくなるのではないか。
これはもっともな心配です。
しかし、アメリカでは、労働者プールにおける雇用の一般的な増減幅は、好況時の800万人から不況時の1200万人までの400万人と推定されており、好況時でもほとんどのプロジェクトが継続できるように、労働者プールに十分な数の労働者を確保しておくことは可能であろうと、レイ氏は述べています。

もう一つは、例によって「財源」をどうするのかという議論です。
政府が福利厚生とセットで賃金を払って労働者を直接雇用するとすれば、当然、相当の財政出動を覚悟しなくてはならないからです。
しかし、MMTをよく知る人なら、この議論は「うんざり」でしょう。
というのも、MMTは、自国通貨を発行できる国では、財源を税収に求めることを認めていないからです。
原則としてインフレ率以外に財政支出には制約がなく、債務の累積によって財政破綻することはありえないというのがMMTの最も重要な指摘です。
債務残高は、過去の財政支出のうち、税金で取り戻せなかった分の記録に過ぎず、それはそっくり民間の貯蓄になっています。

また、税の機能は、歳出を賄う点にあるのではありません
それは、国民経済を安定化(インフレ、デフレのコントロール)させること、所得の再分配によって極端な格差をなくすこと、自国通貨納税によって一国の経済活動に信用をもたらすこと、公共性を害する経済活動を処罰することの四つです。

さらに進んで、中央政府は、中央銀行の準備預金口座に必要金額を電子記録として書きつけるだけで財政支出が可能となるので(つまり貨幣の創造)、MMTでは、利払いを伴う国債の発行すら、あまり思わしくないとされています。
国債とは、準備預金口座に必要な支出を書き込む作業の代替機能に過ぎないのです。
「ザイゲン、ザイゲン」と騒ぐ人たち(ほとんどの行政関係者、政治家、エコノミスト、マスコミがこれに当たりますが)は、これらのことをまったく理解していません。

さて、MMTの就業保障プログラムとは別に、ベーシックインカムというアイデアが一部で盛んに議論されています。
これは、個人単位で、全国民に一定額を支給するというものです。
働いている人も働いていない人も、子どもも高齢者も、富裕層も貧困層も、ハンディのある人もない人も、一律同じ金額が支給されます。
政府が、生活できるだけの最低保障をするから、あとは自由に生活設計をしろというわけですね。

この考えはどうでしょうか。

メリットとして、貧困対策、少子化対策、地方の活性化(地方のほうが物価が安いので)、多様な生き方の実現、非正規雇用問題の緩和、社会保障制度の簡素化、行政コストの削減、などが挙げられていますが、どれも説得力がありません。

まず、真剣に貧困対策を考えるなら、富裕層にも支給するというアイデアはおかしいですね。
また、子どもにも支給されれば結婚や出産へのハードルが外されるというもっともらしい理屈は、これまでの子ども手当などの対策が一向に効果を上げていないことで反証済みです。

地方の活性化は、インフラの整備というポジティブな政策によってこそ実現するので、物価が安いぶんだけ活性化につながるなどというのは、なんとも屁理屈めいています。
物価の安さは、同時に生産活動の沈滞をも表しています。

また、多様な生き方といえば聞こえはいいですが、引きこもりやニートもその一つということになりますから、そういう生き方を助長してしまうでしょう。

非正規雇用やワーキングプアの問題は、デフレのために雇用者が人件費を削減する動機から出ているので、デフレを前提とした上で、ベーシックインカムがその緩和に役立つという発想は、本末転倒です。
支給された金額が消費に使われずに貯金されてしまったら、デフレ脱却はいっそう遠のくでしょう。

社会保障制度の簡素化と行政コストの削減。じつを言えば、これがベーシックインカムという発想が出てくる本音の部分をあらわしています。
というのは、このアイデアは、もともと社会保障を極小にせよという新自由主義的な考え(小さな政府)から来ていて、高齢者、障碍者、病者など、特殊条件を抱えた人々に対するきめ細かな対応をやめて一本化してしまえばよいという粗雑な発想に基づいています(左派系の人たちは、一応社会保障制度との抱き合わせを主張しているようですが)。
ミルトン・フリードマンの「ヘリコプター・マネー」と共通していますね。
貧困? 失業? カネをばらまきゃいいじゃないか、というわけです。
じっさいフリードマンは、「負の所得税」という言い方で、ベーシックインカムとよく似たことを提案しています。
それぞれに特別な条件を抱えていて、ベーシックインカムではとても足りないという人はどうすればいいのでしょうか。
新自由主義得意の、「あとは自己責任で」というのでしょうか。
また、行政コスト云々については、MMTがそれを心配する必要がないことを証明してしまったのですから、何らメリットにはなりません。

ベーシックインカムのメリットとして、ブラック企業の抑止効果を唱える人もいるようですが、おいおい、それは反対だろう、と言いたいですね。
「お前は最低限食っていけるんだから、ウチじゃあ、そんなに給料出す必要はねえ。それでも働きてえなら、こんだけの仕事をいついつまでにこなせ」と考えるのが、ふつうの雇用者心理ではないでしょうか。

このアイデアの最もまずい点は、人々の勤労意欲を殺ぐことです。
楽をしたがるのが人性というもの。
もし働かなくても最低生活が保障されるなら、好き好んでつらい労働に従事する人はいなくなるでしょう。
ローマ時代末期の「パンとサーカス」と同じような状態が出現します。
筆者は、楽をすることが道徳的によくない(「働かざるものは食うべからず」)と言いたいのではありません。
働かなくても食っていけるのなら、多くの人が生産現場から手を引き、当然、社会全体の生産力、生産性は低下します
つまりかえって貧困化が進み、亡国への道を早めるでしょう。

MMTの提唱する就業保障プログラムと、ベーシックインカムとの決定的な違いは、前者が必ず政府による雇用を条件としているのに対して、後者が、働くか働かないかを問題にしていない点です
もちろん、どれか一つの政策に固執する必要はないので、状況に応じて、複合的に組み合わせて用いることは可能であり、それを許容する寛容さを持ち合わせることは大事なことです。
たとえば、給付型奨学金制度などは、ベーシックインカムの部分的な適用と見なすことができますから、大いに推奨されるべきでしょう。

ただ、思想として見た場合、どちらが優れているかといえば、就労を条件とするJGPのほうが、人間的自由の獲得の条件としてやはり立ち勝っていると言えるでしょう。
ベーシックインカムは、かつて救貧のために方法を見出せなかった時代の、富裕層による上からの慈善事業の現代ヴァージョンです。
もし誰もが勤労の対価を受け取り、それによって社会に参加しているという実感を抱けるなら、それが結果的に一人一人の誇りを維持する一番の早道と言えるのではないでしょうか。

昔の偉い思想家も、次のように述べています。
各人が自分の欲求を満たすという主観的な動機にもとづいておこなった労働の投与が、全体としては、たがいに他人の欲求をも満たす相互依存の生産機構を作り出す。これは、「共同の財産」である。もしそういう共同の財産のネットワークが市民社会にきちんと整っているなら、それによって、だれもが自分の労働を通じて社会から一人前であるとして承認される。それは、慈善や憐憫に頼るような奴隷的なあり方とはちがった、人間的な自立と自由とを実感できる道である。》(ヘーゲル『法哲学講義』――ただし一部筆者改訂)
人生の要訣はただ働くにあり》(福沢諭吉『民間経済録』


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横浜のカジノ誘致に反対すべき本当の理由

2019年09月05日 21時08分52秒 | 政治



横浜市が8月22日、山下埠頭へのIR(カジノを含む統合型リゾート)誘致を表明しました。
また9月3日の横浜市議会で、市はIR誘致に向けた34億円の補正予算案を提出しました。
林文子市長は質疑で「横浜の将来への危機感からIR誘致を決断した」と言及し、観光や地域経済をけん引する事業だ」とし、市独自の調査を進めると語りました。

これに対しては、すでに様々なニュースが流れています。

最も目立ったのは、横浜港運協会会長で「ハマのドン」と異名をとる藤木幸夫氏が「顔に泥を塗られた」と怒りをあらわにしたことです。
藤木氏が会長を務める横浜港ハーバーリゾート協会は、カジノはいらないとして、国際展示場、F1、ディズニークルーズの拠点化計画を提出しています。

これだけ聞くと、地域を巡る利権争いのように見えますが、ことはそれにとどまりません。

もともとIRの候補地は3か所に絞ることになっていて、これまでに大阪市(府)、和歌山市、佐世保市で首長による誘致の正式決定が発表されていました。
ところが、これに加えて、苫小牧市、岩沼市、千葉市、東京都、常滑市、北九州市などが誘致に前向きで、それに横浜市が加わったわけです。
3か所に対して10都市ですから、これから誘致競争はますます激しさを加えるでしょう。
しかし、横浜が名乗りを上げたとなると、首都圏内の伝統ある大港町ということで、大いに有力視される可能性が高いでしょう。

じつは横浜が有力視されるのには、そうした表面的な理由とは別に、次のような背後事情があると言われています。

地元有力企業のトップであり、故小此木彦三郎元建設相ら政治家との太いパイプで知られた同氏(藤木氏)への配慮が市当局の決断を阻んでいた。
それが一転したのは、横浜選出の菅義偉官房長官が誘致にゴーサインを出したからだとされる。小此木氏の秘書経験が、菅氏の政治家としての原点であり、藤木氏もまた長年にわたる支援者でもあった。
今や大官房長官である菅氏は、藤木氏との決別も辞さずの決断をしたというのだ。この決断が林市長の背中を押したのではないか。

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190827/pol1908270003-n2.html

また、次のような記事もあります。

横浜へのカジノ誘致の仕掛け人をあげるとするなら、菅官房長官ということになろう。週刊新潮 2015年ゴールデンウイーク特大号に以下の記述がある。

 昨年夏前、東京・永田町からほど近いホテル内の日本料理屋で数人の政界関係者による会合が催されていた。
 座の主役は、2012年12月以来、安倍内閣において官房長官の重責を担い続ける菅義偉氏だ。(中略)
 その場にいた政界関係者の1人によれば、会合の途中、雑談の流れの中で「統合型リゾート整備推進法案(カジノ法案)」の話になった。
 「やっぱり、候補地はお台場が有力なんですかね?」政界関係者の問いに、菅氏は顔色を変えずに応じた。
 「お台場はダメだよ。何しろ土地が狭すぎる」(中略)「横浜ならできるんだよ」

この会合が開かれたのが2014年の夏。ちょうど同じ年の8月16日の日経新聞に以下の記事が載ったのは偶然ではないだろう。
京浜急行電鉄は15日、カジノやホテルなどで構成する統合型リゾート(IR)を整備する構想を正式発表した。横浜市の山下埠頭を最有力の候補地と考えているもようで、実現すれば数千~1万人単位の雇用が生まれそうだという。

https://www.mag2.com/p/news/412835/2

そういえば、この9月17日から、京浜急行電鉄は、品川から横浜のみなとみらい地区に「京急グループ」として本社が移転します。
横浜を貫いて走る京急なら当然と思うかもしれませんが、拠点を横浜に置くことが、IRに重点を置くことと無関係とは言えないでしょう。
そしてこの移転に、横浜に縁の深い菅官房長官の息がかかっているという推測も成り立ちます。

さらに、菅官房長官のすぐそばには安倍首相とトランプ大統領との関係が控えています。

非営利・独立系の米メディア「プロパブリカ」が報じたところでは、2017年2月、ワシントンにおける日米首脳会談で、トランプ大統領から安倍首相にカジノを日本につくるよう要請があった。
ラスベガス・サンズを経営するカジノ王、シェルドン・アデルソン氏も同じ業界のCEO二人とともにこの首脳会談にあわせてワシントン入りし、安倍首相と朝食をともにしていた。(中略)
カジノ会社にとって日本は、世界で最も魅力的な「未開拓市場」の一つである。アデルソン氏は2014年5月にサンズ社が運営するシンガポールのカジノへのツアーを安倍首相のために手配するなど、日本政府に働きかけを続けてきた。

https://www.mag2.com/p/news/412835

林横浜市長は、こうした事情を聞かされて自分でも乗り気だったに違いありません。
しかし2017年の市長選挙の時は、選挙に勝つために「カジノは白紙撤回」と訴えました。
ところが、2年後の今年、手の平を返したように、住民の意向を無視して、平然とIR誘致を決定したのです。
じつは2018年に出された横浜市中期4か年計画には、すでにIR誘致の可能性が言及されていました。
筋書きはすでに出来上がっていたのですね。

ライターで編集者の石田雅彦氏は、次のように語ります。

そうした市の姿勢に対し、市民の間には不信感が募る。中期計画に関するパブリックコメントの約2割がIRに関する内容で、その94%がカジノを含むIRや市民の声を無視したIR計画推進に否定的なものになった。
横浜市はその後、IR誘致の情報収集や業者選定と委託などを行い始める。5月にはIR検討調査報告書を公表した。林市長は7月上旬、政府のIR整備の政令発表と同市の報告書の結果を受けた形で、もし仮に横浜にIRを誘致した場合、カジノを含むのは当然のこととし、誘致に関する住民投票で賛否を問うことはないと明言する。

https://news.yahoo.co.jp/byline/ishidamasahiko/20190831-00140545/

筆者は、横浜市の西区で生まれ育ちました。
北部に移ったいまも横浜在住者です。
IRの候補地とされている山下埠頭の周辺に小さいころから何度も行ったことがあります。
周辺には、山下公園や港の見える丘公園、元町商店街や山手の丘など、懐かしい場所がたくさんあります。
ですから、一市民としても、このよくなじんだ地域に富裕層をカモにした公認のカジノ(賭場)が出来て、依存症が増えたり、反社会的な勢力との結びつきが育つのを座視しているわけにはいきません。
市長は住民投票をやる気はないと言っているのですから、そう言い張る限り、リコール運動に一票を投じるつもりです。

しかし筆者は、そうした愛郷心から出た行動もさることながら、本当に問題とすべきはそこではないと思っています。
言い換えると、横浜にカジノが出来さえしなければいいのか、他なら構わないのかと問うべきなのです。
依存症が増える危険とか、反社会的勢力と結びつく危険といった問題点は、どこにカジノを置こうが転がっています。
またこれまでも、パチンコ、競輪、競馬、競艇など、およそギャンブルと名の付くものには、そうした危険がいつもつきまとっていました。

この問題の本質は、日本政府が、緊縮財政に固執して国内供給に見合う需要を作り出すことに失敗し、諸規制の緩和によって、あらゆる種類の外資を参入させてしまったことにあります。
つまり国内産業を健全に育てることを怠ってきたために、ガイジン様の資本やインバウンドに頼らざるを得なくなった情けない後進国状態を象徴しているのです。
これはIR法だけではなく、水道民営化法、移民法、種子法廃止……など、みな同じです。

カジノは、そのあがりの7割を営業主体であるカジノ経営者(ラスベガスのサンズ社など)が取り、15%を国が、残りの15%を自治体が取る、という約束になっています。
またも国富(国民の稼ぎ)が外国資本にチューチューと吸い取られていくさまがありありと見えるようですね。
15%のおすそ分けに与って、横浜市は財政難を克服できるのか!
また他国の例を見ても、水道民営化と同じように、カジノ経営は失敗する可能性がある。
その場合でも、外資はさっさと逃げ出すでしょう。
コストパフォーマンスのつけは、自治体がもっぱら背負うことになるでしょう。

林さん(菅さんと言った方がいいのかな)、きらびやかに「ミナトヨコハマ」を飾り立てることばかり考えず、地道に投資や消費を伸ばすことを考えたらどうでしょうか。
聞けば山下埠頭の向こう側の本牧埠頭では、今年の5月、2年10か月ぶりに、世界最大のコンテナ船が寄港して荷役を行なったそうです。
こちらの方の港湾整備にもっともっと力を入れてほしいですね。



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