小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

拙著『倫理の起源』が発売になりました。

2019年04月20日 12時05分12秒 | お知らせ


拙著『倫理の起源』が発売になりました!

●長年にわたって、当ブログで連載してきた原稿をまとめたものです。
西欧の倫理学の発想を根底から覆した著作です。満を持して世に問います。
少し高いですが、なにとぞお買い求めください。

目次

第Ⅰ部 道徳はどのように立ち上がるか
 第一章 良心の発生
 第二章 善とは何か

第Ⅱ部 西洋倫理学批判
 第三章 プラトンの詐術
 第四章 イデアという倒錯
 第五章 カントの道徳原理主義
 第六章 ニーチェの道徳批判
 第七章 J・S・ミルの功利主義

第Ⅲ部 人倫がもつ矛盾をどう克服するか
 第八章 和辻哲郎の共同体主義
 第九章 人間関係の基本モード(1)性愛・友情・家族
 第十章 人間関係の基本モード(2)職業・個体生命・公共性

●アマゾン通販情報
https://www.amazon.co.jp/%E5%80%AB%E7%90%86%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E5%B0%8F%E6%B5%9C-%E9%80%B8%E9%83%8E/dp/486642009X/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E5%80%AB%E7%90%86%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90&qid=1555729428&s=books&sr=1-1

●なお、これを記念いたしまして、以下の要領で、ジュンク堂池袋本店にて、トークイベントを開催いたします。
買った人もまだ買ってない人も、読んだ人もまだ読んでない人も、どうぞお気軽にご参加ください。

*当日、当該書籍を販売することはもちろんですが、それ以外に、版元のポット出版からこれまで出版してきた小浜逸郎の本のサイン入り半額セールを行います。(『倫理の起源』は定価どおりです。念のため・笑)

★2019年5月11日(土)19:30~★

小浜逸郎『倫理の起源』刊行記念トークイベント「倫理はどこからやってきたのか」

講師:小浜 逸郎(批評家)

私たちが「善」や「道徳」と呼んでいるものは、いかなる理由によって根拠づけられているのか。
『倫理の起源』の著者・小浜逸郎が解き明かします。

【講師紹介】
小浜逸郎(コハマ イツオ)
1947年、横浜市生まれ。批評家、国士舘大学客員教授。
『日本の七大思想家』(幻冬舎)、『13人の誤解された思想家』(PHP研究所)、
『時の黙示』(學藝書林)、『大人への条件』(ちくま新書)、『日本語は哲学
する言語である』
(徳間書店)など著書多数。
自身のブログ「ことばの闘い」においても、思想、哲学など幅広く批評活動を展
開している。(https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo)

■入場料はドリンク付きで1000円です。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いくだ
さいませ。
※事前のご予約が必要です。1階サービスコーナーもしくはお電話にてご予約承り
ます。
※トークは特には整理券、ご予約のお控え等をお渡ししておりません。
※ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願い致します。(電話:03-5956-6111) 

■イベントに関するお問い合わせ、ご予約は下記へお願いいたします。
ジュンク堂書店池袋本店
TEL 03-5956-6111
東京都豊島区南池袋2-15-5
※こちらのメールのご返信でのトーク受付は承っておりません。ご了承ください。
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優れた民間人のほうが主流派経済学者などよりずっとマシ

2019年04月16日 22時51分53秒 | 経済

ステファニー・ケルトン教授



すでに三橋貴明氏が紹介していますが、WEZZYのWEBマガジンで、地蔵重樹氏というライターが、「令和は平成以上に国民が貧困にあえぐ時代に? MMTは日本経済の低迷を救うか」という、素晴らしい記事を書いています。
https://wezz-y.com/archives/64990
こういう炯眼の士が出てきたことは、まことにありがたいことです。
未読の方は、ぜひお読みください。

この記事は、いまアメリカで評判のMMT(現代貨幣理論)を、肯定的にとらえて紹介したものです。
合わせて、日本政府の財政破綻論にもとづく緊縮財政や、これを支持してきた政治家、主流派経済学者、マスコミが、いかに間違っているかを、わかりやすく説明しています。
全文、その通り! と合いの手を入れたくなります。

まず、政府批判の部分を引用します。

政府はアベノミクスでデフレ脱却を目指しながらも、緊縮財政、規制緩和、増税などのインフレ対策(アベコベノミクス?)を行ってしまった。風邪をひいている病人に氷水を浴びせてこじらせてしまったようなものだろう。しかも、ついには公式統計までごまかし出す始末。名目賃金が誤差程度に上昇したことを鬼の首を取ったかのように主張しているが、実質賃金は下がっている
おまけに、相も変わらず政府の借金を国の借金と言い換えて、1100兆円を国民一人当たり885万円の借金だというレトリックで存在しない財政破綻危機を煽り、増税の口実にしている。


次に、地蔵氏は、MMTの骨子を、次のようにまとめています。

 《●自国通貨を発行できる政府は財政的な予算制約を受けることはない。たとえば日本や米国、英国が該当する。一方、自国通貨を持たず発行もできないユーロ圏の国々は該当しない。
  ●経済と政府には、生産と消費に関する実物的な限界と環境上の限界がある。これは、政府には消費を拡大したり減税したりすることでインフレを起こすことができるという意味だ。
  ●政府の赤字は他の人たちの黒字となる。これは誰かの赤字は必ず誰かの黒字になるという単純な法則だ。


2番目の「経済と政府には、生産と消費に関する実物的な限界と環境上の限界がある」という表現は、ややわかりにくいですが、その理由は「限界=margin」という独特の経済学用語にあるようです。
この訳語は、日本語では、ネガティブなニュアンスを持ちますから、ちょっと不適切で、「余裕」とか「可能性」と意訳すべきでしょう。
「そこまでできる」という感じですね。
そうすると、後段との間がスムーズにつながります。

さて、すでに多くの人(といっても少数派ですが)が指摘しているように、自国通貨建てで国債を発行できる国、アメリカ、イギリス、日本、スイスなどは、原則的に、国債をいくら発行しても、財政破綻することができません。
それが、自国通貨を持たないユーロ加盟諸国との決定的な違いです。
MMTは、そのことをはっきり謳っています。
ユーロ加盟諸国は、金融政策をECB(欧州中央銀行)に握られているので、自国の財政状態が苦しい時には、増税するか、ユーロで借金して、それを返済するために緊縮財政にシフトせざるを得ません。
そうすると国内景気はますます悪化して、財政破綻の危機が現実的となります。
そのためにまた借金をして、というように悪循環に陥ります。
いずれにしても、国民を苦しめる結果になっているわけです。
経済だけでなく、政治的な意味でも、EUモデルはすでに破綻しているのです。

しかし日本は、その可能性はゼロです。
にもかかわらず、財務省や御用学者は、マクロ経済がわかっていなくて(笑)、PB(基礎的財政収支)を黒字化しないと財政破綻すると狂信しています。

MMT理論の提唱者、ケルトン教授は、自国通貨を持つ国の政府がけっして財政破綻しない好例として、GDPの2倍を超える負債を抱えている日本を挙げています。
これを聞くと、何となくうれしい気持ちになりますが、その事実を一向に認めようとしない、当の日本の財政担当者の体たらくを見ていると、逆に、「馬鹿に付ける薬はない」と、情けなくなります。
ケルトン教授は、もちろんその馬鹿さ加減を知っているでしょうが、はっきり指摘してはいないようなので、ぜひ指摘してほしいと思います。
ケルトン教授を日本に招請することはできないのかな。
これも情けないことに、アチラの権威筋の指摘がないと、日本は動きませんから。

また、地蔵氏の次の指摘は、たいへん重要です。

 《とはいえ、いくらMMTでも、政府が野放図に支出しても良いとは言っていない。あくまで適度なインフレが保たれる範囲でとしている。つまり、極度な需要過剰(供給不足)でインフレが過熱しないように調整は必要だというのだ。

この指摘がなぜ重要か。
それは、MMTに反論するために、その論理を意図的に誤解して、自国通貨を持つ国は無限に財政出動してもかまわないと言っているかのような印象操作をする手合いが必ず出てくるからです。
しかし皮肉なことに、財務省や日銀は、インフレが過熱しそうになったら、それを抑制する技にかけては、超一級です。
デフレ期に倒錯した手法を取ってきた、まさにその手法を使って、増税や緊縮に乗り出せばよいからです。

要するに、デフレ期とインフレ期には、それぞれの時期に見合った適切な調整方法があるので、その適切さの感覚を喪失して、真逆のことをやっているのが、いまの財務省です。
デフレ期に財政赤字などまったく問題にする必要がないことは、MMTでも指摘されています。
むしろ反対に、政府が赤字を増やすこと、つまり国債を増発して積極財政に打って出ることこそが、デフレ脱却の唯一の方法なのです。

地蔵氏はまた、中野剛志氏や三橋貴明氏が盛んに説いてきた、「信用創造」の原理についても、的確な指摘をしています。

 《銀行が企業などに融資する場合、なんとなく預金で集めたお金を貸し出していると思ってしまう。しかし現実には、銀行は実際に持っている以上のお金を貸し出すことができるという魔法を持っている。
  たとえば銀行がある企業に10億円を貸し出すとする。その時、銀行はどこかにとっておいた10億円を持ってきて貸し出すのではない。単純に、貸出先企業の口座に10億円記帳するだけなのだ。(中略)
  つまり銀行という制度は、理論的には相手が返済能力さえあれば、際限なくお金を貸し出せることになっている。(後略)


中野氏は『富国と強兵』の67ページで、イングランド銀行の2014年の季刊誌にはこの「信用創造」の原理がきちんと解説されていると述べています。
この原理は、当然、政府が国債を発行して、日銀当座預金から資金を借り入れる(ただそう記帳するだけですが)場合にも当てはまります。
したがって、企業がデフレマインドのために投資に手を出さず、銀行の貸し出しが伸びない場合には、政府こそが、大胆な「借金」に踏み切るべきだということになります。
それが公共体として、国民生活に福利をもたらす政府の責任であると言えましょう。

「誰か(A)の負債は他の誰か(B)の貸与」、また「Aの赤字はBの黒字」です。
Aを政府、Bを民間市場に当てはめると、Aが借金して仕事を発注すれば、少なくともそのぶんだけ実体市場にお金が回り、Bの経済活動が活発化することは自明ですね。
しかも、政府の負債の実態は預金(日銀当座預金に書き込まれた数字)ですから、特に紙幣の増発を考える必要もありません。
国債発行として預金通帳に書き込むだけで、政府の投資が成立したことになる。
何の投資目的もなく政府が国債を発行するはずがないですからね。

このリクツがなかなかピンと来ないのは(私自身も、エラそうに書いてるほど、ピンとは来ていないのですが)、個々の生活者にとって、やはり「お金」というと、現金だけを思い浮かべてしまうからでしょう。
でも、「あなた、銀行に預金あるでしょ、あれ、お金じゃないの?」 と突っ込みを入れていきながら、徐々に、現金紙幣だけじゃなく、銀行預金も、小切手も(もちろん政府小切手も)、国債も、じつはみんな広い意味での「お金=借用証書=債務と債権の記録」に他ならないことを理解していただく、という順序でいけば、何とかわかってもらえるのではないでしょうか。

たぶん、このリクツが浸透しない根底には、金属主義の残滓が私たちの頭にあるために、貨幣とは、一定の「モノ」ではなく、経済人と経済人の信用関係の表現だ、という原理が呑み込めないためではないかと思います。
MMTなどを大いに活用しながら、粘り強く進めていきましょう。

地蔵氏は、最後に次のように述べています。

 《私は経済学者ではない。そのため、MMTについて誤った解釈をしている可能性もある。それでも本稿を投稿したのは、MMTの議論が盛り上がれば日本経済にプラスになると考えたためだ。

たいへん謙虚な語り口で、好感が持てます。
同時に、「経済学者」なんかじゃなくたって、こうした正しい認識を持てるんだということの一つの証明にもなっています。
筆者も地蔵氏とともに、MMTの盛り上がりを祈りたいと思います。
そのためにも、すでにMMTを政策の中に盛り込んだ「令和の政策ピボット」に、ぜひご賛同
いただければ幸いです。

令和の政策ピボット
https://reiwapivot.jp
/


【小浜逸郎からのお知らせ】
●私と由紀草一氏が主宰する「思想塾・日曜会」の体制が
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一度、以下のURLにアクセスしてみてください。
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●『倫理の起源』4月15日ポット出版より刊行!


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・「日本の自死」の心理的背景
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・性差、人権、LGBT
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・消費税制度そのものが金融資本主義の歪んだ姿
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・消費増税に関するフェイクニュースを許すな
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・先生は「働き方改革」の視野の外
https://38news.jp/economy/12617
・水道民営化に見る安倍政権の正体
https://38news.jp/economy/12751
・みぎひだりで政治を判断する時代の終わり
https://38news.jp/default/12904
・急激な格差社会化が進んだ平成時代
https://38news.jp/economy/12983
・給料が上がらない理由
https://38news.jp/economy/13053
・「自由」は価値ではない
https://38news.jp/economy/13224
・日経記事に見る思考停止のパターン
https://38news.jp/economy/13382
●『Voice』2019年2月号
「国民生活を脅かす水道民営化」

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『倫理の起源』15日発売!

2019年04月06日 21時19分44秒 | お知らせ


当ブログで、長年にわたって連載してきました『倫理の起源』が、4月20日にポット出版から刊行されます。

書店には15日より並ぶ予定です。
Amazonでは、すでに予約を受け付けています。

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この著作は、倫理や道徳はどこからやってくるのかという問題について、プラトンに始まる西洋倫理学の発想を、根底から覆した作品です。

本著作の冒頭、「この本を手に取ってくださった皆さんへ」を、以下に引用します。

《長年かかって書き継いできた論考を、いま世に送ります。
 ただご覧のように、この本は少し分厚すぎるかもしれません。それに中身もそうわかりやすいものとは言えません。
 特に第二部の「西洋倫理学批判」の部分は、全体の45%を占めています。ここで扱われている思想家は、プラトン、カント、ニーチェ、J・S・ミルのたった四人です。
 著者がこの四人にこだわったのには、それなりに理由があります。それは、この四人が西洋という文化風土の中で、倫理や道徳の問題について彼らなりに考えつくしており、しかもこの四人の説くところにある連続性が認められるからです。
 とはいえ、とりわけプラトンに対する著者の批判的な執着は、自分で言うのもなんですが、異常といってもいいかもしれません。彼についての言及は全体の五分の一近くに及んでいます。そして彼の思想の核心に関する批判の部分は、繰り返しも多くなっています。
 しかし二千年以上も前にこの思想家が残した足跡は巨大という他はなく、「西洋の全哲学史はプラトンの注釈に過ぎない」という言葉もあるくらいですから、それは許していただくことにしましょう。
 ただ、読者の皆さんからすれば、うんざりして途中で投げ出したくなってしまうのではないかということを著者は恐れます。それで、西洋倫理学に格別の関心を持たない人は、プラトンの部分あるいは第二部全体を飛ばしていただいてもけっこうです。
 しかし、第三部では、和辻哲郎の『倫理学』を批判的に継承しながら、著者なりの倫理思想を展開していますので、ここはぜひ読んでください。ここを読んでいただくと、著者がなぜ西洋の倫理思想、とりわけプラトンのそれに執着したのかが、逆に照らし出される仕組みになっています。 
 それを読んでいただいた上で、第二部に取りかかっていただくのもいいかもしれません。》


なお、これを記念いたしまして、ジュンク堂池袋本店にて、トークショーを開催いたします。
要領は以下のとおりです。

●タイトル『倫理はどこからやってきたのか』
●内容:私たちが「善」や「道徳」と呼んでいるものは、いかなる理由によって根拠づけられているのか。『倫理の起源』の著者・小浜逸郎が解き明かします。
●日時:5月11日(土) 午後7:00開場 7:30開演
●会場:ジュンク堂池袋本店
*会費等については、追ってお知らせいたします。
コメント (3)

「令和の政策ピボット」にご賛同ください!

2019年04月03日 15時45分51秒 | 政治


新しい御代、令和を迎えるにあたり、三橋貴明氏、藤井聡氏を中心に、政策集団「令和の政策ピボット」が誕生しました。
https://reiwapivot.jp/
できるだけ多くの方に賛同者になっていただくことを望みます。

このプロジェクトに参画した者のひとりとして、掲げられている政策について感想を述べさせていただきます。

このプロジェクトで、特に大切なのは、「1.財政・金融政策」です。
この政策が実現されない限り、以下の経済政策、真・地方創生、食糧安全保障、エネルギー安全保障、科学技術、外交・領土問題などの諸政策は、一つも実現されないと言っても過言ではありません。

この財政・金融政策は、この間、しつこく遂行されてきた財務省の狂気の緊縮財政を否定するものです。
日本がこんなに衰退してしまったのも、国民生活の貧困化がこれほど進んでしまったのも、ひとえに、この緊縮財政の固執によるものです。
何をやるのも「先立つものは金」という当たり前の常識を政府が取り戻さなければ、日本は滅びます。

さてその財政・金融政策では、まず、財務省改革として、「安定的な経済成長の達成」を謳っています。

これは、財務省設置法第三条にある「健全な財政の確保」が、事実上、PBの黒字化目標という誤った政策実現手段にすり替えられ、これが、諸外国でふつうに達成できている経済成長を阻み、これまで二十数年も続いてきたデフレの元凶をなしているからです。

PB黒字化目標に代えるに、政府の負債対GDP比率という正しい健全財政の概念を用いて積極財政に転じれば、デフレから脱却でき、消費増税はおろか、消費税そのものも必要なくなります。
なぜなら、積極財政によって民間経済の活性化を促し、GDPの増大が達成できさえすれば、分母が大きくなるわけですから、政府の負債の比率は相対的に縮小し、健全財政が実現でき、そうすれば国民からわざわざ血税を搾り取る意味がなくなるからです。

また、財政法第四条、第五条は、もともとGHQが日本に軍事予算を組ませないために、国債の発行を禁じたものです。
この時代錯誤な条項がいまだに残存しているために、国債増発による積極財政にブレーキがかかっていて、必要な支出拡大が阻まれています。

ここで必要な支出拡大とは、単年度予算におけるそれではなく、具体的には、国土強靭化、公共インフラの整備、防衛力強化、科学技術振興、教育充実、医療・介護サービスの拡充、地方経済再生などの中長期的な投資系支出を意味します。
これによって、数年のうちに、日本は、まともな経済成長を成し遂げ、さまざまな意味の安全保障が達成され、地方の疲弊も克服できるでしょう。

ちなみに、財源は、言うまでもなく新規国債の増発によって賄います。この政策の実行を長い間妨げてきたのが、財務省が国家財政と家計の同一視というトリックによって政治家、マスコミ、ほとんどの国民を騙してきた「財政破綻の危機」なる大ウソです。

三ツ橋氏や藤井氏や中野剛志氏が何千回も繰り返してきたように、100%自国通貨建ての国債では、財政破綻はあり得ません。
日本に財政問題は存在しないのです。
これは、最近、アメリカで評判になっているMMT(現代貨幣理論)によっても証明されています。
https://toyokeizai.net/articles/-/271977?fbclid=IwAR02G9QUgeMG1SfwUrLYnHvfcf7nZDdowR4Fj3XpFFAsED5UqkmdOHSgDEI

日本で狂った財政政策が続行され、それが生み出した長年の危機(というか、多大な犠牲)を、危機とも犠牲とも思わず受け入れてきたわが国民のノーテンキぶりが、例のごとくアチラの理論の輸入によって修正されるとすれば、それ自体は、まことに情けないことですが、しかし、背に腹は代えられません。
この際、誤りを正すのに役立つなら、活用できるものは何でも活用することにしましょう。

さらに、移民法、水道民営化、IR法、高プロ制度、種子法廃止、農業競争力強化法、生物特許制度、遺伝子組み換え食品表示義務の緩和、労働者派遣法改正、発送電分離など、安倍政権のもとで矢継ぎ早に行われた(行われつつある)政策は、すべて、グローバル企業の利益拡大を目的とした竹中平蔵一派による規制緩和政策です。

これらが、日本国民の豊かさや安全を阻害し、国論の分裂と内ゲバ(古い言葉が出ました)、労働者賃金の低下、主権喪失と外資による侵略を招くものであることは論を待ちません。
令和ピボットでは、この竹中構造改革という売国政策を徹底的に打ち砕いていきます。

また、原発問題と基地問題は、これまで、いわゆる「左右対立」を激化させてきた二つの大きな論点ですが、令和ピボットでは、次のような立場を採っています。

原発が大きな危険をはらむ発電方式であることは言うまでもありません。
もし現時点で、これに代わって、十分な安定供給を保証する発電方式があれば、原発廃止もやぶさかではありません。
しかし昨年9月の北海道胆振東部地震における全道ブラックアウトに見られるように、原発をすべて停止した状態では、今後の電力需要を満たすには、はなはだ不十分です。

また、再生可能エネルギーも、太陽光や風力は、供給がきわめて不安定です。
ことに太陽光は、広大な土地を必要とするため、自然環境を無残に破壊します。
またこれは、レントシーカーたちの恰好の餌食となってきました(固定価格買い取り制度はその典型です)。

中小水力、ダムのかさ上げ、地熱その他は、可能性が期待できますが、実用化には相当の時間が必要とされます。

火力発電への過度の依存も、発電施設の劣化、国際関係の悪化に伴う資源確保の困難など、多くの不安定要因を抱えています。

そこで、原発ゼロを将来的な目標とし、いまのところは、最大の安全確認のもとにベースロード電源として位置づけ、順次再稼働に踏み切っていくのが現実的と考えます。

基地問題については、米軍基地にこれだけの広大な土地を取られ、付近住民は、危険や騒音の悩みを抱えています。
しかも日米地位協定によって、治外法権に等しい状態が続いている事実を、このままにしておくわけにはいきません。

民間航空機が頻繁に飛び交う今日、本土の空域の大きな部分が米軍に占領されているという事実は、きわめて危険な状態であることを意味します。

こんな国は、わが国以外、どこにもありません。
米軍には早く撤退してもらいたいと思うのは、沖縄住民ならずとも、日本国民全体のひそかな願いでもあるでしょう。

しかし、今日、中国の覇権主義をはじめとして。東アジアの国際関係は、きわめて不安定な状態にあります。
戦後、憲法九条の制約もあり、事実上は、ほとんど武装解除された状態にあると言ってもよいわが国は、米軍撤退後の空白をどのように埋めたらよいのでしょうか。

この問題の解決には、自主防衛力の充実を迅速に図るべきですが、長きにわたる習慣のため、いまの日本国民の大部分は、その気概を喪失しています。
まずは自分の国は自分で守るという気概を取り戻す必要があります。
また、物理的にもすぐに満足な防衛力を身につけるためには、膨大なコストと、国際社会の合意を取り付けるための外交努力とを覚悟しなければなりません。
その間にも中国は着々と軍事予算を増大させ、現在すでに日本の5倍の軍事費を計上していると言われています。

したがって、当面は、不本意ながらも、アメリカの軍事力に依存し、その片方で、自主防衛力の拡充にできるだけ速やかに努めていくという両面作戦を取らざるを得ません。

以上、「令和の政策ピボット」の、特に政策部分について思うところを述べてきました。
賛同していただける方は、ぜひ、今すぐにでも、HPのご案内に従って賛同手続きを行ってください。
よろしくお願いいたします!


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一度、以下のURLにアクセスしてみてください。
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●『表現者クライテリオン』2018年11月号
「安倍政権の『新自由主義』をどう超えるか」
●『別冊クライテリオン 消費増税を凍結せよ』(2018年11月14日発売)
「消費増税の是非を問う世論調査を実行せよ」
●『クライテリオンメルマガ』
・なぜ間違った知と権力がまかり通るのか
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20181221/
・「日本の自死」の心理的背景
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190201/
・性差、人権、LGBT
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190302/
●『「新」経世済民新聞』
・消費税制度そのものが金融資本主義の歪んだ姿
https://38news.jp/economy/12512
・消費増税に関するフェイクニュースを許すな
https://38news.jp/economy/12559
・先生は「働き方改革」の視野の外
https://38news.jp/economy/12617
・水道民営化に見る安倍政権の正体
https://38news.jp/economy/12751
・みぎひだりで政治を判断する時代の終わり
https://38news.jp/default/12904
・急激な格差社会化が進んだ平成時代
https://38news.jp/economy/12983
・給料が上がらない理由
https://38news.jp/economy/13053
・「自由」は価値ではない
https://38news.jp/economy/13224
・日経記事に見る思考停止のパターン
https://38news.jp/economy/13382
●『Voice』2019年2月号
「国民生活を脅かす水道民営化」


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「令和の政策ピボット」にご参加ください!

2019年04月01日 19時18分43秒 | お知らせ



新しい御代、令和を迎えるにあたって、お知らせがあります。


令和――とてもいい元号だと思います。

しかしながら、ご承知の通り、いま、日本は、平成グローバリズム政治の結果として、国力の著しい衰退、国民生活の貧困化と格差の拡大、足元を見た隣国の傍若無人な振る舞いなど、大きな危機を抱えております。

私はこの間、三橋貴明氏、藤井聡氏、中野剛志氏らとともに、現在のグローバリズム政権に反対する声を何とか結集する方策はないものかと、討議を重ねてまいりました。

その結果、このたび、「令和の政策ピボット」なる政策集団を立ち上げることになりました。
この企画は、党派を超えて、平成のグローバリズム政治に終止符を打ち、デフレ脱却を実現し、反緊縮、反グローバリズム、反構造改革を三本の柱として、幅広く国民からの賛同者を集める運動です。
ことに、日本経済に壊滅的な打撃を与える2019年10月の消費増税については、断固阻止したい考えです。

最終的には、いまの自民党政治でも既成野党でもない、健全なナショナリズム(国民)政党の立ち上げを目指しております。何年先になるかわかりませんが。

イタリアの五つ星運動も、二人の元・老コメディアンが始めて、7年を経たのち、いまや国民政党として政権の一角を占めるまでに成長しました。見習いたいものです。

「令和の政策ピボット」の宣言および、政策、賛同者としての参加方法などについては、以下をご覧ください。
https://reiwapivot.jp/
*なお、このブログ画面から上記URLへリンクしようとしても、なぜかつながりません(リンク用の手続きは、原稿段階でちゃんと踏んでいるのですが)。まことにお手数ですが、上記URLをワードなどにコピペしてから、リンクしてください。

「令和の政策ピボット」の趣旨をご理解いただき、なにとぞ、賛同者として応募していただくことを切に願う次第です(お名前は公表されません。ハンドルネームや組織名でもけっこうです)。

また、賛同していただいた方は、お知り合いの方、SNSなどにて拡散していただけると幸いに存じます。

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ポリティカル・コレクトネスという全体主義

2019年03月28日 22時58分07秒 | 思想



少し古い話ですが、これからも論議を呼びそうなので、ここで問題にしておきます。
2018年の12月に、滋賀県大津市で、住民票申請書に性別欄を記入しなくてもよいという決定がなされました。
LGBTというマイノリティに対する公共機関の配慮です。
その2か月前には、福岡県教育委員会が、高校の入学願書の性別欄をなくすという発表をしました。

ポリティカル・コレクトネスはいま世界の潮流のようですが、皆さんに違和感はありませんか。
筆者は、マイノリティに対する過剰な配慮ではないかという疑念が消えません。

はじめの住民票申請書の場合、申請書に性別を記入しなくても、住民票の基本台帳には、性別が記載されているわけですから、受け取るコピーには性別が出てしまいます。

住民票が必要な場合とは、どんな場合でしょうか。
一般的には、行政や企業がそれを要求した時です。
具体的には、転居する時、不動産を契約する時、免許証を取る時、車を買う時、通帳などを作る時、携帯電話を契約する時、住宅ローン控除制度を受ける時、就職する時などがこれにあたります。
いずれも、提出する住民票そのものには、性別が書かれているわけです。

また、あとの高校受験の場合、これまで入学願書には本人が性別を記入していたわけですが、本人が性別を記入する必要から免れても、学校が提出する内申書には、性別が書かれます。

すると、大津市や福岡県教委などの配慮は、要するに、ただ単に「記入したくない」という本人の感情に対する忖度だということになります。
性別を記入しなくても、彼または彼女がLGBTである事実には変わりません。

人間は、したくなくてもしなければならないことがいっぱいありますね。
人生はそんなことばかりと言っても過言ではありません。
性的マイノリティの心情がどんなに切実なものかは、筆者にはわかりませんが、世の中には、いわゆる「普通の人」で、もっと切実な悩みを抱えた人がたくさんいることはたしかでしょう。

では、なぜ性的マイノリティというカテゴリーに属する人に限って、これほどの配慮がなされるのか。
それは、「人権」や「差別」という概念に適合しやすいからでしょう。
普通の人の悩み苦しみは、どんなに深くても、なかなか「人権」や「差別」という概念に当てはまりにくい。
多数者と少数者という識別が難しいからです。
これに対して、障害者や人種なども、この識別がしやすいので、「人権」や「差別」という概念でとらえることが容易にできます。

そこで、この識別しやすさという特徴を狙って、左翼的な思想の持ち主が、これらを政治問題化するのですね。
お役所は、公正や平等をたてまえとしていますから、この種の政治的な批判に対して、きわめて脆弱な構造を持っています。
それで、糾弾されるとすぐそのまま言うことを聞いて、行政措置に踏み出すのです。
でも、本当に、LGBTの人たちの感情問題に、そこまで忖度する必要があるのでしょうか。

さて、この潮流がもっとエスカレートしていくと、住民票の基本台帳や、入学試験の内申書からも性別欄が抹消されるという事態に発展しかねません。
すると、住民票や入試資料を受け取る側にとって、現実的に困る事態が発生するのではないでしょうか。
たとえば、部屋を借りる人が男か女かわからない、免許証保持者が男か女かわからない、など、まずくないですか。

でも、何といっても、いちばん困るのは、企業が新入社員を採用する時ですね。
仕事の配分で男女差をなくそうという「平等」理想を掲げても、現実には、職業の性別適役というものがあります。
個人に職業選択の自由があるように、企業の側にも、その職種によって、採用男女割合を決定する自由があるはずです。
また、企業は、継続的集中的な戦力を必要としますから、妊娠した女性の長期休業や退職を本音では喜ばないでしょう。
こうした企業の論理は、もっともというべきです。

学校が入学生徒を採用する時も、男女の区別なしに試験を受けさせたら、女子のほうが成績がいいので、ふたを開けてみると、大部分が女子ばかりになってしまったなんてことにもなりかねません。

さらにさかのぼりますが、『新潮45』の2018年8月号に、杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」という論文が載り、大炎上を巻き起こしました。
「LGBTには生産性がない」という部分だけが切り取られて、左翼陣営から人権侵害だと大騒ぎされましたが、これは、子どもが作れないことを「生産性がない」と表現したまでです。
杉田論文の要旨は、少子化の解決に貢献しない彼らに格別の政治的・法的な支援や税金の投入をする必要があるのかと問題提起しているだけでした。
ただ、ここで、税金の投入というのが何を意味しているのかがあいまいでしたけれど。

また、彼女は、LGBとTとを分けていて、T(トランスジェンダー)は性的な指向というより、むしろ「障害」として位置づけられるので、そのつらさを救うための制度的支援(社会福祉)はありえてもよいという意味のことを述べています。
これはごくまともな見解でしょう。

さらに、LGBT当事者にとってつらいのは社会的な差別よりも、親が理解してくれないことだと指摘しています。
親が自分の子どもは普通に結婚して子どもを産んでくれると信じているのに、それができないことを知ったらすごくショックを感じるだろう、だからなかなか告白できずに悩み続けてしまうというのです。
これは、筆者がLGBTの若い人に実際に聞いてみたところと一致しています。

つまり杉田論文は、エロス問題を政治的・制度的に解決することの困難さを指摘しているのです。
そしてそれが、LGBTという性的マイノリティを政治課題としてことさら前面に押し出す勢力に対する鋭い反論になっていたわけです。
筆者には、あるゲイの友人がいますが、その人は、ゲイであることを政治問題に結びつけることを嫌っていました。
そういう人のほうが多いかもしれません。
あるカテゴリーに属するとされた人々が、日常生活の中で、実際にどれくらいの差別を被っているのか、その実態を調べずに、LGBTだから差別されているはずだ、と決めつけるのはおかしなことです。

さて杉田論文にいきり立った左翼人権主義者たちは、自分たちのイデオロギーに反する考えを頭から否定しようとしました。否定しないと、同和問題と同じで、自分たちの反権力的な政治思想に利用できるネタがなくなってしまうからでしょう。

ただ、杉田論文には、荒っぽいところもありました。
たとえば、何でも多様性を認めて、結婚相手にだれを選んでもいいとなったら、ペットや機械と結婚させろなどという要求さえ出てくる。そうなると常識や社会秩序は崩壊してしまう。LGBTを取り上げる報道はそうした傾向を助長しかねないと述べているくだりです。

実際にそういう要求をする人がいるというのは事実でしょう。
しかし、それはごく特異例で、あったとしても、そんな要求が認められるはずがありません。
法制度というのは、人間のさまざまな欲望をどこまで容認し、どこまで規制するかを決めるところに意義があります。
そして、エロス欲望に関する限り、それはあくまで人間どうしの関係のあり方にかかわっています。
自分はネコちゃんと夫婦ですと思うのは自由ですが、社会がそれを制度的に公認するかどうかとはまったく別問題です。

それはともかく、杉田氏が、「何でも多様性がいい」「何でも自由がいい」という左翼リベラルのイデオロギーを攻撃する気持ちの中には、「変えよう、壊そう」とする勢力に対する健全な常識感覚が読み取れます。
「自由」などと理想を掲げてみても、実際にはこの世は困難と制約だらけです。
そのただ中をかいくぐることによってしか、自由は実感できません。
そしてそれはこれからも変わらないでしょう。

最近、こんなことがありました。
税務署に税務申告に行ったとき、裏に20台以上止まれる駐車場があり、半分ほどが埋まっていました。
そこに車を入れようとしたら、工事現場用のフェンスでふさいであり、係員が出てきて、「ここは身障者用です」と言います。
私は、「あの駐車している車の主はみんな身障者の方なんですか」と聞いてみました。
すると黙ってフェンスを取り外してくれました。
一応断らなくてはならないお役目らしい。
ご苦労なことだと思いました。
建物の表側には数台しか止める場所がなく、しかも人で混雑しているので、駐車禁止。
「あなたに言ってもしょうがないけど、これってバカらしいと思いませんか?」と柔らかく聞いてみました。
係員は面倒くさそうに、「そういうことは上のほうの人に言ってください」と、予想通りの答えを返してきました。
「上のほうの人」の愚かな判断のために、せっかくの広い駐車場を、ほとんどいるはずのない「身障者」専用にしています。
ほんの一部用意しておけば済むことなのに。
しかも「ここはすべて身障者用」と命じられた係員の人は、いちいち断ってはフェンスを開けたり閉めたりしなくてはなりません。
「社会的弱者にウチはこんなに配慮しています」という表看板のために、係員の人は、不条理と知りながら、毎日空しい仕事を続けているのです。
この人のほうがよっぽど弱者だ、と思いました。

何ごともバランスが大事です。
平等原理主義というポリティカル・コレクトネスに固執することが、普通の庶民を苦しめていないかどうか、それが新たな全体主義を生んでいないかどうか、わたしたちは、この世界の潮流に対して、注意の目を光らせることにしましょう。


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・なぜ間違った知と権力がまかり通るのか
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・「日本の自死」の心理的背景
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・性差、人権、LGBT
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●『「新」経世済民新聞』
・消費税制度そのものが金融資本主義の歪んだ姿
https://38news.jp/economy/12512
・消費増税に関するフェイクニュースを許すな
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・先生は「働き方改革」の視野の外
https://38news.jp/economy/12617
・水道民営化に見る安倍政権の正体
https://38news.jp/economy/12751
・みぎひだりで政治を判断する時代の終わり
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・急激な格差社会化が進んだ平成時代
https://38news.jp/economy/12983
・給料が上がらない理由
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・「自由」は価値ではない
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・日経記事に見る思考停止のパターン
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日経記事に見る思考停止のパターン

2019年03月20日 13時39分58秒 | 経済


日経新聞もたまにはいいことを書くなあ、とひとまずは思いました。
3月19日の次のような記事に接したからです。
もっとも、「いいこと」と言っても、希望が持てるという意味ではなく、むしろ絶望的な現実をそれなりに見つめているという意味です。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42616170Y9A310C1MM8000/?n_cid=NMAIL007
経済協力開発機構(OECD)は残業代を含めた民間部門の総収入について、働き手1人の1時間あたりの金額をはじいた。国際比較が可能な17年と97年と比べると20年間で日本は9%下落した。主要国で唯一のマイナスだ。英国は87%、米国は76%、フランスは66%、ドイツは55%も増えた。韓国は2.5倍。日本の平均年収は米国を3割も下回っている。





この後、同記事には、賃金の値上げをきちんと行ってこなかったために、労働者一人当たりの生産性が上昇せず、生産性が上昇しないためにますます賃金の上昇が抑制されるという悪循環に陥ってきた、という指摘があります。
低賃金を温存するから、(特に3K分野などでの)生産性の低い仕事の自動化・効率化が実施されず、付加価値の高い仕事へのシフトが進まず、結果的に、生産性も賃金も上がらない「貧者のサイクル」に日本は陥っているというわけです。
言っていることは、ここまでは、まあ間違っていません。

たとえば、介護現場を見てみましょう。
この現場では、低賃金できつい労働に耐えなくてはならないため、大量の有資格者が転職してしまいます。
介護福祉士の平均月収は、全産業の平均月収に比べて、9万円から10万円近く低いというデータがあります。
https://www.minnanokaigo.com/news/kaigogaku/no89/
これでは、せっかく資格を持っていても、離職したくなるのは当然と言えましょう。
また、この仕事では、年齢に伴う昇給が見られません
その主因は、介護報酬が公定価格であり上限が決まっているところにあります。
さらに、離職率は、小規模施設ほど高くなっています。
給料の低さに反比例しているわけです。

では、離職した人たちの穴埋めをどうするか。
もちろん、一部は求職してきた有資格者を新規採用するのですが、採用率はたいへん低くなっています。
これは、労働需要が高く、供給がそれに追いつかない状態を意味しますから、数字上は、有効求人倍率の高さとして表れます。
有効求人倍率が高い(つまり人手不足)と聞くと、一見いいことのように聞こえますが、その主たる理由も、給料が低いからです。
労働需要が高ければ、その結果として給料は上がるはずだ、というのは、一般的な市場原理ですが、事実はそうなっていません。
むしろ因果関係は逆で、給料があまりに低いので、求人しても人が集まらず、結果的に人手不足となるのです。
こうして、無資格の失業者や、コミュニケーション能力に限界のある移民が雇われることになります。
はなはだしい場合には、ホームレスまでが雇用されることもあります。
2009年に、厚生労働省は失業者を対象とした「重点分野雇用創造事業」を行い、失業者やホームレスまで介護職に送り込むプロジェクトを大々的に繰り広げました。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47873?page=4
要介護レベルの高い後期高齢者がホームレスに介護される――なんだか、廃墟の町と化したビルの谷間か何かで、希望を失った貧困者がお互いをいたわりあっているような、惨めなイメージですね。
これで、福祉政策が行なわれていると言えるのでしょうか。

こう見てくると、初めの日経の記事には、言われていないことや間違った認識が含まれていることがわかります。
この記事の最後に、「働き手の意欲を高め、優れた人材を引きつける賃金の変革をテコに、付加価値の高い仕事にシフトしていく潮流をつくり出すことが不可欠だ」と書かれています。
モノの生産やサービスの現場にAIやハイテク機器を導入し、生産性を高めることには異議がありません。
それによって、現場の苦労が少しでも軽減され、その職業の付加価値が高まり、給料も上がることが期待されるからです。
しかし、「働き手の意欲を高め」るのは何によってなのか。
どうすれば、「賃金の変革」が起きるのか。
それを阻んでいる犯人は誰なのか。
「付加価値の高い仕事にシフトしていく」と言っても、きつい肉体労働を強いられる業界(たとえば介護業界や運送業界や建設業界など)がなくなるわけではありません。
もちろん、個人が、より付加価値の高い仕事に「シフト」していくのを抑えることはできないでしょう。
しかし「シフト」されてしまった業界で、もし生産性を高めるような処置がなされず、これまで通りの低賃金・重労働の実態が残されたら、どうなるのか。
ホームレスや移民が雇われて、奴隷労働のような状況が続くのでしょうね。

日経記者は、いまの日本のマクロな経済情勢を見て、その無残な有様を指摘しています。
しかし、それがなぜ起こってきているのかについては、民間企業が賃金を上げてこなかったからだという理由を挙げるだけで、思考停止しているのです。
つまり、このデフレ不況がなぜ続いているかについては、口をつぐんでいます。
介護報酬はなぜ上がらないか。
介護報酬のような公定価格だけでなく、一般企業の給料も人材投資に踏み込めません。
一般企業、特に中小企業は、人手不足なのに、なぜ給料を上げられないのか。
それは、安倍政権が緊縮財政を取ってきたために、デフレを終わらせることができないからです。
そこには、ちゃんと政治的な理由がある。

日経のようなマスメディアに限らず、さまざまな領域で、問題が提起されます。
しかし、どれを聞いても、その問題の真犯人が緊縮財政という根本的に間違った「経済政策」にあるというところまで話が発展しないのです。

虐待が話題になっています。
児童相談所が、家族への介入(親からの子どもの隔離)の役割に集中しがちだったこれまでの仕事を、養育に問題を抱えた家族を支援する本来の役割に戻すために、医師や弁護士などの専門家と連携を取ることが決まったそうです。
また、この役割を果たすために児童相談所の所員を増員するそうです。
たいへん結構なことですが、その予算をどうやって捻出するのか。
財務省という狂信集団がPB黒字化にこだわって、緊縮財政を取っていては、それもかなわないでしょう。
この狂信集団の考え方に従っている限り、他の予算がそのぶんだけ削られるだけです。
さまざまな領域のさまざまな問題。
解決の最終的なカギは、すべて、十分なお金を回すところにあります。
話を個別領域の個別問題の把握に終わらせずに、ある社会問題について考える時には、この当たり前の一歩にまで、考えを巡らせるようにしましょう。


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・給料が上がらない理由
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・「自由」は価値ではない
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思想塾・日曜会のお知らせ

2019年03月12日 18時23分07秒 | お知らせ


春が本格的にやってきました。
ちょっと浮き浮き、ですね。
でも花粉症の方にはつらい季節ですね。どうぞご辛抱ください。

当ブログでは、各記事の巻末に、由紀草一氏と私が主催している「思想塾・日曜会」HPのURLをご紹介しておりますが、
この画面で、改めて直近の三つの催しについてご案内いたします。
詳しくは、以下をご覧ください。
https://kohamaitsuo.wixsite.com/mysite-3
なお、いずれの会も事前予約は必要ありません。
当日、ふらりといらしてください。
会費はその時に集めさせていただきます。


①シネクラブ黄昏

次回は後藤隆浩さんに上映者をお願いして、以下の要領で行います。
どうぞお気軽にご参加ください。

●日時:2019年3月17日(日) 15~18時
●店名:Sutekina (0422-72-7262) http://sutekina.me/  
●アクセス:http://sutekina.me/access
●会費:1000円

※会費とは別に飲み物を注文することもできます。ワンドリンク500円

 ********************

◇初めてこの会のご案内をご覧になった方へ◇

この会は、小浜の呼びかけで始まり、もう10年以上続いています。
ルールと言うほどのこともありませんが、次のようなお約束で進みます。
各会、上映者がDVDを持参し、みんなでそれを鑑賞した後に、
上映作品について楽しく語り合います。

・上映者は、前回の上映者の指名によって決まります。
・上映者は、事前に何を上映するか、誰にも知らせてはなりません。
・みんながすでに見たと思われる映画であっても、そのことを気にする
 必要はまったくありません。二度、三度見ると、前に見た時とはまた
 違った感想が得られるものです。
・上映者は、鑑賞後に、なぜこのフィルムをみなさんに見てもらいたいと
 思ったのか、その思いの丈を存分に語ってください。五分でも三十分でも
 かまいません。
・そのお話が終わった後、みんなで自由に感想を語り合います。
・映画であれば、実写、アニメ、無声映画、なんでも結構です。
・二次会もあります。


②文学カフェ・浮雲

この会は、これまで主として近代文学批評を扱ってきましたが、
これからはもう少し多くの方に取りつきやすいものにしようとの考えから、
よく知られた文学作品を選び、みんなで感想を話し合うという方針で行くことにいたしました。
どうぞお気軽にご参加ください。

次回は、カフカの『変身』を取り上げます。

●テキスト:フランツ・カフカ、山下肇訳「変身」(岩波文庫『変身・断食芸人』所収)
●日時:4月13日(土)午後3時~7時
(日曜会は原則として日曜日開催ですが、今回は会場の都合により土曜日となります。ご注意ください。)
●場所:四谷ルノアール3階会議室A
●アクセス:https://www.ginza-renoir.co.jp/myspace/booking/shops/view/%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E5%BA%97
●レポーター:兵頭新児さん
●会費:会場費+飲み物代を参加者人数で割ります(高くても1500円程度です)。

※当日何かありましたら兵頭さんまでお電話ください(090-1763-6702)


③言語哲学研究会

次回は、日本文法への斬り込みが一段落しましたので、
古典に帰って『日本書紀』を扱うことにします。
『古事記』は以前取り上げたのですが、その際、
日本神話の公式版である『紀』のほうにも手を伸ばすべきだったにもかかわらず、
そのままになっていました。
現代語訳をテキストとしますので、専門的な深さには
到達できませんが、その代わり、素人でも気楽に
その概要と味わいを知ることができます。
どうぞふるってご参加ください。

●日時:2019年4月28日(日) 午後3時~7時
●会場:ルノアール四谷店 マイスペース3B室
●アクセス:https://www.ginza-renoir.co.jp/myspace/booking/shops/view/%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E5%BA%97
●テキスト:福永武彦訳『現代語訳 日本書紀』(河出文庫・本体800円)
●レポーター:河田容英さん
●参加費:会場費+飲み物代を人数割します(参加人数によりますが、1300円程度です)。
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結婚が危ない!

2019年03月07日 17時28分08秒 | 社会評論
厚労省の統計詐欺が国会で問題になっていますが、今回の記事では、厚労省が出しているデータのお世話になるしかありません。
皆さんは、現在、成人男性の四人に一人が一生結婚できないという話をご存知ですか。
この話については、のちほど詳しく述べます。
まず、婚姻件数(婚姻率、人口10万人対)の推移を見てみましょう。



棒グラフが件数(左目盛り)、赤い折れ線が婚姻率(右目盛り)です。
いずれも今世紀に入ってから減少の一途ですね。
少子化が言われてから久しく、すでに若者の絶対数が減っているので、これはある意味では当然でしょう。

では次に離婚件数(離婚率、同前)の推移を見てみましょう。



離婚全盛期には急激に増えていたのに、今世紀に入ってからピークを過ぎて今度はかなりの勢いで減っていることがわかります。
一見、喜ばしいことのように思えますが、これも、そもそも婚姻数が少なくなっているのですから、絶対数も対人口割合も減るのが当然でしょう。ただ、婚姻率の減少に比べれば、離婚率の減少がやや少なくなっていることはたしかです(違うグラフなので、カーブの緩急に惑わされないようにしてください)。
また、ここには掲げませんが、再婚率も少しずつ増えていますので、婚姻している世帯がそんな急激に少なくなっているわけではありません。

ちょっとややこしい話をしますが、どうかお付き合いください。
よくアメリカでは二組に一組が離婚し、日本もそれに近づいて三組に一組(60万組対20万組)が離婚するようになったなどと言われますが、この言い方は正確ではありません。
まるで、これまで結婚していた夫婦の三分の一がみんな離婚してしまう印象を与え、たいへん誤解を招く言い方です。
この3対1という比は、あくまで、ある年の結婚数と離婚数とを並べて比較したものです。
実際には、それまでに離婚しないできた夫婦がたくさんいるわけですから、累積夫婦数に対して離婚する夫婦の割合がどれくらいかを年次別に見なければ、正確な趨勢はわからないのです。
そこで、次のグラフと先の離婚のグラフとを大ざっぱに比べてみましょう。



このグラフで、②③⑤が、ほぼ夫婦数の推移を表していると考えられます(厳密には、⑤の中には、片親二世代と未婚の子どもという形態が含まれますが、これはそんなにいないでしょう)。
平成13年(2001年)の全世帯数が約4500万世帯、そのうち64%弱が夫婦世帯ですから、約2800万世帯、一方、平成25年(2013年)の全世帯数が約5000万世帯、そのうち60%弱が夫婦世帯なので、約2900万世帯となります。
各年の離婚数 対 夫婦数の割合を求めてみると、2001年が約1%、2013年が約0.8%です。
すると、近年の離婚数(率)の減少が夫婦世帯数の増加に反映している可能性があります。

家族を大切に、と思っている人は、なんだ、問題ないじゃないかと感じたかもしれません。
しかし、問題は別にあるのです。

たとえば離婚数の減少の理由は何でしょうか。
これは推測になりますが、貧困家庭が増え、女性の経済力が落ちたために、離婚したくてもできない人が増えたためではないかと思われます。

もう一つの深刻な問題は、やはり少子高齢化です。

出生率には、合計特殊出生率(一人の女性が出産可能とされる15歳から49歳までに産む子供の数の平均)と、有配偶出生率(結婚した女性が何人子どもを産んだかの平均)があります。
前者は、年齢を見てもわかる通り、現代では不自然です。
それでも統計の連続性の確保のために、これを使って、減った増えたと一喜一憂しているわけです。
本当は、後者の推移を見て、かつ、晩婚化の傾向とを合わせて、それらが何を意味するかを考えなくてはならないのです。



右目盛りで、結婚している女性は、2.5人くらいは産んでいることになります。
では未婚率のほうを見てみましょう。





この両グラフを見ると、女性では30代後半で24%、男性では、なんと35%の人たちが未婚です。女性も30代前半だと35%近くが未婚なのです。
まず押さえておくべきなのは、日本が欧米と違う大きな点として、婚外子を非常に嫌う傾向があるということです。
子どもを作るなら、ちゃんと法的に婚姻関係を結んで、というのが日本の伝統なのですね。
だからこそ、「できちゃった婚」というのもかなりあるわけです。

そうすると、有配偶出生率がいくら高くても、生まれる子どもの数が少なくなってしまうことは当然だと言えるでしょう。
一つは、晩婚化それ自体のため、もう一つは、高齢出産には危険が伴うので、たくさんは産めないためです。
有配偶出生率のグラフで、一人の女性が2.5人くらい産んでいると言いましたが、これは現代の若い女性ばかりでなく、昔、子どもを産んだ中高年女性も含まれています。
ですから、現代の若い奥さんは、たいてい子どもがいないか、いても一人か二人です。

では、どうしてこんなに急速に晩婚少子化が進んでしまったのでしょうか。
理由はいろいろあるのですが、ここでは特に経済的な理由を強調しておきます。
ほとんどの若者は、将来結婚したいと考えていて、その割合はそんなに減っていません。
ところが所得が低いために結婚できないのです。
特に非正規社員は、正規社員との間に、大きな賃金格差があります(男性)。



そして、両者の間には、未婚率にも大きな差があります(女性の場合は逆転していますが、これは家計の主たる収入を男性に依存することができるためでしょう)。



男性30歳代の非正規社員では、何と四人に三人が結婚できていないことになります。
40歳代でも半分近いですね。

さて、はじめに「成人男性の四人に一人が一生結婚できない」と言いました。
一生結婚できないのかどうか、それはわかりませんが、統計上は、50代まで一度も結婚したことのない人の率を「生涯未婚率」と呼ぶことになっています。
データで示しましょう。



ご覧のように、男性の「生涯未婚率」はうなぎ上りで、2015年にはついに23.4%に達したのです。

しかし考えてみれば、「生涯未婚率」とは、ふざけた言葉ですね。
いまや平均寿命は男性でも80歳に近づき、人生100年時代とさえ言われています。
本気になれば、50歳を超えても結婚のチャンスはいくらでもあります。
一生涯結婚できないかどうか、それは50歳を超えてみなければわからないのです。
これもまた、合計特殊出生率と同じで、昔の感覚で概念を決めているのですね。
ですから、初めの「成人男性の四人に一人が一生結婚できない」という文句は、ちょっとショックを与えようと思ってわざと書いたので、本当はそんなことはありません。
50歳以上の未婚の方、どうもすみませんでした。

ただ、未婚化・少子化が今後も進むことは明らかなので、結婚したいなら、積極的に「婚活」しなくてはなりません。
しかし個人の婚活努力など実を結ぶかどうか、ほとんど当てになりません。
本当は、結婚できるだけの経済的余裕をみんなが持てるような社会にしなくてはならないのです。
そういう社会にすることを阻んでいるのは、言うまでもなく、安倍政権の緊縮財政です。

少子高齢社会の問題点はいくつもありますが、何と言っても、数少なくなってゆく現役世代が、当分生き残るであろう高齢世代を、細腕で支えていかなくてはならないという点です。
その意味でも、私たちは、一刻も早く、緊縮財政の過ちを改めさせるように、働きかけていかなくてはならないのです。

先に、全世帯数が増えていることを示しましたが、これは、単身者世帯が増えていることと、子どもが自立したのちの高齢者夫婦が増えていることが主な理由です。
そして、単身者世帯の増加も、若者が実家から自立したというのではなく、独り暮らしの高齢者(特に女性)が増えているためです。
高齢者(65歳以上)世帯のものすごい増え方を見てください。



グラフから上に述べたことが読み取れると思います。
この人たちは、多く年金暮らしや生活保護を強いられており、低所得者層に属するはずです。

安倍政権は、その社会保障費も削減する政策を取っています。
財務省が国債償還という、不必要な、何のためにもならない財政政策のために巨額のお金を使い、社会保障費を削っているためです(藤井聡氏の記事https://38news.jp/economy/13285参照)。
消費税の増税分は全額社会保障に回すという真っ赤なウソを平然とつきながら。
繰り返しますが、私たちは、この緊縮財政というとんでもない悪政をやめさせるよう、あらゆる手段を使って、政治に働きかけなくてはなりません。


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・水道民営化に見る安倍政権の正体
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・みぎひだりで政治を判断する時代の終わり
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・急激な格差社会化が進んだ平成時代
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・給料が上がらない理由
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・「自由」は価値ではない
https://38news.jp/economy/13224
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「国民生活を脅かす水道民営化」
コメント

性差、人権、LGBT

2019年03月01日 21時11分40秒 | 思想


You Tubeで、三島由紀夫が、高校生の男女二人のインタビューを受けているおもしろい番組があります。
https://www.youtube.com/watch?v=Xy502F3slDo
上記URLは全体のインタビューの一部で、わずか7分程度に構成されていますが、当時の高校生のレベルの高さと、それに真剣に答える三島の誠意が伝わってきて、たいへん好感が持てます。
最初に三島が女子高生に「あなたのような若いお嬢さんが僕の小説読んでいやらしいと思う?」と聞くと、女子高生は、「いえ、そんなことはありません。ただ女の人のもつ弱さがそのまんま肯定されている気がするので、みんなでもうちょっと強いわよねって話してます」と答えます。
そのあと、「よろめき」(『美徳のよろめき』――引用者注)の女主人公は僕にとって理想の女主人公みたいに書いてるけど、女流批評家にさんざん叩かれたという三島の言葉があり、それに対して、「彼女の生き方って考える前に行動しちゃってる」という女子高生の言葉が続きます。うん、うんとうなずく三島。
すると男子高生が「女って、考えるのかしら」。
三島「ハハハ……大問題が出てきた」。
女子高生「女なりに考えるんじゃない?」
男子高生「だけどもともと、女性って考える能力に欠けてるから、それでいいっていう考え方があるのかなあ」
三島「僕もどっちかっていうとそれに近い考えだけどね、つまり男が考えるっていうのと女が考えるっていうのと全然違うんじゃないか」
このあと、女は大地や自然に近い考え方で、男の考えは一見論理的で整理されているようだが、大地や自然から遊離しちゃってる考え方だ、と三島がまとめます。

いかがですか。
いまこんなことを公式的に言ったら、三島だけでなく、男子高生も含めて、どこかから袋叩きに会いそうですね。
でも半世紀以上前には、こういうことが堂々と言えたのです。
とてもおおらかで、いい雰囲気です。
筆者自身、三島のこのとらえ方は正しいと思います。
30年近く前、そういう意味のことを書いたこともあります。
筆者が書いたときは、これよりだいぶ後なので、周囲に相当気を遣いました。
というか、フェミニズムやジェンダーフリー的な傾向にとても違和感を覚えたので、それに抵抗するつもりで書いたのです。
今はどうでしょう。
もっとずっと息苦しくなってますね。
性差について何か言うごとに「ポリコレ、ジンケン、サベツ!」のつぶてが飛んでくるのではないか、と絶えずおびえていなければならない。
でも、これらのつぶては、「人間は法的社会的な人格としてはあくまで平等だ」という近代の原理だけで人間生活のすべてを押さえられると思いこんでいる人たちによって投げられるのです。
法的社会的な人格として平等――福沢諭吉の言う「権理通義」において平等というやつですね。
もちろん筆者もこの近代の原理を正しいと思います。
でも、人間生活には、この近代社会のたてまえに当てはまらない領域がたくさんあります。
私たちはみんな近代に生きているのに、そんな領域があるのか、と思うかもしれません。

あります。
男と女が私的にかかわりあう領域、つまりエロスの領域です。
もっと広く言えば、親子関係、友人関係なんかもそうですね。
特に、エロスの領域での営みは、そもそも平等か平等でないか、という議論の観点そのものを受け付けないようにできています。
というのも、この領域では、「性差」を媒介にしてこそ交流が成り立つからです。
それは人々が幸福をつかむ重要な契機でもあります。
それが時として「差別」とされるのは、外からの社会的な文脈にもとづく解釈の視点が介入するためです。
本来、この領域で人と人とが個人として具体的にかかわる時には、対立関係とか、権力関係とか、平等不平等といった概念自体が役に立たないのです。
代わって役に立つのは、親和とか、融合とか、懸想とか、愛憎とか、葛藤とか、忌避といった概念です。

でも最近は、ポリコレ、ジンケン、サベツといった政治的概念が、エロスの領域にまで侵入し、猛威を奮っています。
何でも対立関係や権力関係で人間をとらえようとしているのですね。
こういうやり方で人間理解を済ませようとすると、文学も育たなくなるでしょう。
ある一流企業に勤める男性職員が、職場では「女は腫物」と言われているとぼやいていました。
親和的な気持ちで何か言おうとすると、セクハラ! と告発されるのではないかというので、若い男性職員たちは委縮してしまって、めったに声もかけられないというのです。
その結果、出会いの空間はいくらでもあるのに、個人対個人の本当の出会いが成立しにくくなっています。
少子化を政治的に解決するのではなく、政治的な概念の横行が少子化を助長していると言えるでしょう。

先のインタビューで、三島は、女は愛の天才であり、男にとって何かをくみ取る泉のようなもので、人間を作るのが女だ、だから良妻賢母こそ女の本当の生き方としか自分には言えないと述べています。男は夾雑物にからめとられて愛にすべてを込めるなど、絶対にできないのだ、とも。
現代は共働きが当たり前の世の中、男性にも育児休暇が求められる時代です。
なので、良妻賢母という言い方に、いかにも古臭いものを感じる人も多いでしょう。
男性が育児参加するというのは、私も大賛成です。
父親には父親としての大切な役割があるからです。
しかしどうしても育児期の任務と負担は女性に大きくかかります。
これを何とかするには、男と女を「平等」に近づけることが理想だ、そういう環境を整備することが急務だという考え方がいまでは当然と考えられています。
しかし何か肝心なことを見落としていないでしょうか。

まずここには、女性が労働市場に出て働くことが絶対の「善」であるという前提があります。
この前提をいったん認めてしまうと、ほとんどの家庭では共働きをしないと食べていけないからやむを得ずそうしているという現実が忘れられます。
また、女性の賃金は男性に比べて低いので、その構造を変えずに低賃金労働者が市場に参加することは、財界にとってたいへん都合がいい。
そういうからくりがあることも忘れられるのです。

多くの女性は、余裕さえあれば、せめて子どもが小さい間は、子どものそばにいて手厚く面倒を見てあげたいと感じています。
ですから、重要なのは、女性の労働市場参加を「絶対善」と考えるのでなく、大切な子育て期に無理をして働きに出ずゆとりをもって子どもを育てられるような経済的余裕を、どの家庭もが確保することなのです。
そしてこういう状態を実現させることこそ、政治の役割です。
ところが、いまの日本の経済政策は、多国籍企業の利益だけを考えて、こうした国民生活の豊かさの確保に逆行することばかりやっていますね。

欧米では共働きが当たり前という話をよく聞きます。
この話は、それがあたかも理想であり、日本も早くそうなるべきだといった文脈で語られます。
ところが、ここに次のようなデータがあります。

イギリスの民間保険会社BUPAと美容・健康雑誌「トップサンテ」が5000人の女性を対象に行なったアンケートでは、(中略)、金銭的な問題さえなければ、専業主婦や無職でいたいという女性がほとんどで、仕事をすること自体に意味を見出していた人は二割に満たない。オーストラリアでも、十八歳~六十五歳の女性を対象に同じような調査が行なわれている。人生で大事なことを順番に答えてもらうと、仕事を第一位に持ってきた人は5%だけで、母親であること、という答えが断然多かった。回答者の年齢を三十一~三十九歳に狭めると、仕事を重視する人は2%に落ちる》(『話を聞かない男、地図が読めない女』)

この本が出版されたのは、2000年で、少し古いですが、20年近く経った今の欧米女性が一転して、「働くことは素晴らしい」と考えるようになったとは到底思えません。
欧米の一般家庭の経済情勢も、格差社会化のためにますます厳しくなっているからです。
欧米に比べて日本人の労働意識や男女観は遅れているなどという把握が成り立たないことがわかるでしょう。
三島の言う「良妻賢母」は、古くなってもいなければ、間違ってもいないのです。

三島はまた、男子高生に、先生は同性愛を扱った作品を書かれているが、自分などは同性愛に生理的な嫌悪感を抱くので、その辺はどうなんでしょうかと聞かれて、次のようなことを答えています。

文学は、社会に公認された愛を描くよりは、近松のように、ばれたら死罪になるような愛、社会に受け入れられないような愛であればあるほど、そのなかに純粋さを見出そうとする。同性愛もそういう一つだ、と思っていたんだけれど、最近は、あんまりそう思えなくなっている。同性愛もけっこう普遍的になってきたので(市民権を得てきたので――引用者注)、そこにも不純なものが混じり込んできた。同性愛の人たちにとってはそれはいいことだけれど、文学としてはおもしろくない。

これも真相を穿っていますね。
というか、半世紀前にこういうことをすでに言ったのは、まるで今を予言しているようです。

周知のように、LGBT論議が盛んです。
LGBTという言葉は、90年代半ばから欧米で一般化したらしいですが、これが差別撤廃の動機を潜ませていたことは明らかでしょう。
日本にも上陸して、左翼陣営にとっては反差別運動の恰好の材料とされています。
2018年の初夏、杉田水脈議員が、「生産性」がないのに税金投入するのはおかしくないかと問題提起し、一気に炎上しました。
この「税金」というのが何を意味するのか、明確でないのが杉田論文の難点の一つですが、冷静に読めば、杉田氏がLGBTをかなりよく理解している(たとえばLGBとTとの違いについて)ことがわかります。
また後述しますが、いくつか勇み足はあるものの、彼女が何を問題視しているのかも納得できます。
その後いろいろありましたが、長くなるので委細は省きましょう。
ここで押さえておきたいのは、次の諸点です。
(1)LGBTは、性的な「対象」にかかわる生まれつきの「指向」であって、SMとかフェティシズム、痴漢や窃視癖、スカトロジーなどの性欲求満足の「方法」にかかわる「嗜好(嗜癖)」とは異なること。
(2)レズカップルやゲイカップルの入籍を認める自治体が少しずつ増えてきたが、彼らのすべてが法的な婚姻を望んでいるわけではないこと。自治体の承認によって、あたかもそうであるかのようなイメージが広がってしまったのは困った現象であること。
(3)昔はLGBTであること自体に悩む人が多かったが、いまでは、親にどうやって理解してもらうかについて悩んだり、逆にそれを知った親が悩んだりするケースが多くなっていること。つまり、通常の意味でカミングアウトするかしないかは、あまり問題にならないこと。
(4)日本では昔から、同性愛を禁じる宗教、法律のたぐいがないため、異性愛者と同性愛者は棲み分けが成立していて、さほど緊張した差別関係は見られないこと(ただし、学校でのいじめの材料にはされる)。

以上を踏まえると、LGBT差別を政治問題として言挙げしたのは、このカテゴリーに属する人たち自身であるよりは、むしろ政権に対する攻撃材料を探し求める左翼勢力であることがわかります。
杉田議員は、保守的な立場から、それを問題視したのでしょう。
こうした左翼の「材料探し」は、障碍者問題や、同和問題、古くはアイヌ問題などと同型です。
言うまでもなく、生きにくさを抱えているのは、別にLGBTの人たちだけではありません。
安倍政権の誤った経済政策(デフレ脱却不作為、消費増税、移民政策、派遣法改悪その他)のために、膨大な人たちが低賃金や高額医療や介護離職や派遣切りなどで苦しんでいます。
左翼野党は、こういう人たちの抱える問題をこそ掬い上げて、安倍政権の経済政策を批判すべきなのに、一向にそれをしません。
代わりに、社会問題としてはマイナーでしかないLGBTなどをエサに、人権問題を中核に据えて騒ぎ立てています。それは、彼らが現実課題に頬かむりをして、「反差別」イデオロギーに金縛りになっているからです。
これは日本だけでなく、先進国全体に見られる荒廃現象です。

三島が指摘しているように、同性愛者がある程度市民権を得て、同性愛者であることそのものにさほど特殊性の印を認める必要がなくなったのなら、政治はその対象を、普通の苦しむ人々に向けるべきでしょう。
それだけではありません。
文学もまた、ことさら公認された特殊例の中にその素材を絞るべきではなく、むしろ、一見特殊な印を刻み込まれているのではない人々の中に、固有の実存がはらむ問題の在りかを探り当てて、それを深く掘り下げるべきでしょう。
それは必ず見つかるはずです。


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コメント (7)

「自由」は価値ではない

2019年02月21日 00時00分48秒 | 思想


『表現者クライテリオン』2019年3月号の特集「移民政策で日本はさらに衰退する」の座談会(出席者 施光恒氏、黒宮一太氏、柴山桂太氏、川端祐一郎氏)を読んで、触発されました。
「自由」という言葉について、少しきちんと考えてみようと思ったのです。

ドイツが先頭に立ったEUの「移民受け入れ政策」が、2015年に至ってどれほどヨーロッパ各地を荒れ回ったかは、よくご存じのとおりです。
昨年出版・翻訳されたダグラス・マレーの『西洋の自死』が、その惨状を余すところなく描いています。

イタリアはサハラ以南のアフリカ難民・移民たちであふれ、それ以前に、地中海を渡ろうとする多くの難民・移民が海の藻屑と消えました。
リビアのカダフィが暗殺された後、民主的な国家建設は少しも根付かず、かえって渡船ブローカーの暗躍する無秩序が支配したのです。

フランスのパリではテロ防止の非常事態宣言が出され、カレーの街にはドーバー海峡を渡ろうとする人々がキャンプを作ってひしめきました。

ロンドンはいまや45%が移民を占め、スウェーデンは世界第三位の犯罪国家になってしまったそうです。
そしてドイツは、ケルンで大晦日の日に大規模な女性暴行事件が起きて、500件を超す被害届が出されました。

オーストリアをはじめ、東欧諸国は、もはや移民受け入れを拒む姿勢に出ており、域内移動の自由を保障するEUのシェンゲン協定や、難民が最初に入国した国が難民を受け入れるダブリン規約は、実質上機能していません。

イギリスは、ブレグジットを強行せざるを得なくなり、アメリカでは、トランプ大統領がメキシコ国境の壁建設を強行しようと、非常事態宣言を出して、国論を分裂させています。

欧米におけるヒトの移動の「自由」は、理念の麗しさと現実とが乖離して、ほとんど全く生かされなくなったと言えるでしょう。

言うまでもなく、日本は、愚かにも、そういう現実を見ているはずなのに、何週か遅れで今年の4月から、何の準備態勢も整わないままに、移民を大幅に増加しようとしています。

関税の壁を削減・撤廃する貿易の「自由」は、ある産業に強い国にとってのみの「自由」であり、それはそのまま弱い国にとっては「不自由」を意味します。

アメリカ抜きTPP11は一部発効、日欧EPAはすでに発効しました。
日米FTA(Free Trade Agreement)は昨年12月にアメリカのほうから目標ペーパーが出ています。
これから恐ろしい交渉になりそうです。

日本はこれまた愚かなことに、自国の弱い産業について平気で関税障壁を下げています。
たとえば、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランドなど、酪農の強い国によって、日本の酪農家は壊滅的打撃を受けるでしょう。
さらに愚かなことに、テレビ・マスコミは、消費者ばかり連れてきて、「これからおいしいチーズが安く食べられるなんて嬉しいわ!」などとやっています。
こうして「自由」貿易が北海道その他の酪農家を殺しているのです。

さて、欧米やわが国などいわゆる「自由主義諸国」では、「自由」という言葉は、何よりも守らなくてはならない「価値」であるかのように信じられています。
言論の自由、職業選択の自由、居住移転の自由、経済の自由、学問の自由、宗教の自由エトセトラ。

しかし、こうした固形化した言葉よりももっと前に、自由という言葉が日常どのように使われるかを考えてみると、それは、私たちの身体が、いまある状態から別の状態に「移ることができる」という意味であることがわかります。
たとえば、「ここは自由に散歩してよい」とか、「今日はこれから自由な時間だ」というように。
つまり、自由というのはもともと、「身体が運動できる」という状態の形容としてあったのです。

その場合、大事なことは、一人の人間が何にも存在しない状態へ移ることをあらわすのではなく、必ず、ある制約条件から別の制約条件への運動の感覚を表すものにすぎなかったということです。
ある制約条件から解放されて「自由になる」ということは、別の制約条件を引き受けることでもあります。
何にもしないでぼーっと過ごすというのも、ある制約条件に他なりません。
とても退屈してしまうかもしれないのですから。

つまり、自由とは、そもそも単に運動を可能にするための意思の発動手段であって、けっしてそれ自体が目的でもなければ価値なのでもありません。
それは、本来、形容詞的、副詞的な使われ方をする言葉なのです。

ところがこれがいったん固形化して、名詞として扱われるようになると、だんだん事態が変わってきます。

プラトンは、2という数には2という「イデア」、3という数には3という「イデア」がある、と考えました。
こんな考え方は、リンゴを二つ、三つと数えている時は思い浮かびませんね。
ところが、「数」という概念が、数えられていた「もの=リンゴ」から自立して成立すると、こういう考えが浮かんでくるのです。

これと同じように、「自由に(気楽に)」遊んでいた子ども、「自由な(くつろいだ)」気分で手足を伸ばしていた人、などから自立して、「自由」という概念が、名詞として成立すると、そういう「実体」が、まるで遊ぶことや手足を伸ばすことからまったく独立に存在するかのような気がしてくるのです。
これがプラトンの言う「イデア」です。
つまり「自由」とは、言葉が固形化して出来上がった「理念(観念、アイデア)」なのです。

一旦この固形化の方向が定まると、それはどんどん人々の間で広がります。
そして、まるで、「自由」という実体が確固としてあり、しかもそれが、他の拘束された状態よりも一段優れた神様であるかのような「価値」として現れてくるのです。

つまり、「自由」というのは、それが抽象的で、しかも実体であるかのような様相を示すので、どこに当てはめても使えるという錯覚を呼び起こします。
実際、この言葉ほど便利な概念はないので、先に挙げた言論、学問、職業、居住、宗教など、近代の法では、至る所に使われ、国民の言動をきわめて寛容に受け入れているかのように見えます。
そもそも近代というのが、「自由」というイデア=イデオロギーが支配した時代なのです。

しかしこの「自由」イデオロギーがかたくなに守っているただ一つの非寛容があります。
それは、「非寛容な信念や行動を許さない」という非寛容です。
でもそのことに、「自由」イデオロギー信者たちは気づきませんでした。

誰もが、その生まれ育った土地の文化や伝統を背負っている。
そこから「自由」になることなどできません。
もし完全自由になったとしたら、その人は、故郷と人間関係を亡くした裸の無名者です。
でもヨーロッパ人たちは、自分たちが大きな文化や伝統を背負っていながら、それから「自由」になれると錯覚したのです。

すべてのヨーロッパ人が、といっては、失礼ですね。
特に知識人や政治家と呼ばれるエリートの人たちです。

別に文化や伝統などと大きなものを持ち出さなくとも、日々汗水流して働いている普通の人たちのことを思い浮かべればすぐわかることですが、彼らは、「何ものからも自由な自分」などを実感するところから遠いところにいて、ほとんどの時間を具体的な制約から次の具体的な制約へと体を移しているだけです。

エリートたちは、普通の人に比べて、相対的により広い、さまざまな対象に気を移すことができるので、そのため、普通の人よりはあの抽象的な固形物としての「自由」を実感しやすいだけなのです。

そうして、彼らはその「自由」を用いて失敗しました。
まさか自分たちが寛容であったために、イスラム教徒のような非寛容な信念をもった人々や、自分たちの文化にけっして溶け込まない人々が、どっと押し寄せてくるとは!

気づいた時にはもう遅く、自分たちの周囲にまだら模様を作って異邦人たちが居を占め、そしてけっして「自由な」対話など成立させようとはしないようになっていました。
自分たちの土地の何分の一かを、戦争よりは少しばかり静かに侵略していくことによって。

でもヨーロッパのエリートたちは、まだその深刻な事態に気づかないふりを決め込んでいるようです。
「多文化共生」という、成り立ちようもない美辞麗句にひたすらかじりつくことによって。

何がこのインヴェージョンから自分たちを守るのか。
もちろん、まずは「自由」イデオロギーの呪縛から醒め、その醒めた目をもって、国民国家という枠組みの重要さにいったんは差し戻すことです。
東欧諸国がすでにそれを実行しているように。

「自由」は普遍的価値でも何でもありません。
このイデオロギーには、何々を通して、何を実現させるのか、という具体的な問いが欠けているのです。

以上、ヨーロッパについて述べてきたことは、おせっかいではなく、もちろん、日本自身への警告です。
まだ遅くない、まだ遅くないと言っているうちに、移民国家・日本もたちまち手遅れになります。
その日は近いのです。

最後にまとめとして、自由についての定式を3つ挙げておきましょう。
(1)自由は、状態を変える意思の発動手段であって、目指すべき目的でもなければ価値でもない
(2)自由には、もともと自由を許さない非寛容を受け入れるほどの寛容さはない。
(3)自由は、現実的な拘束や制約を通してしか実現されないし、実感されない。


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・「日本の自死の心理的背景」
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コメント (2)

前記事についてのFさんのコメントに対する返答

2019年02月09日 20時26分56秒 | 思想


F様

2月6日付の拙ブログに対して、真摯なコメント、ありがとうございます。
また2月3日には、有意義な発表をしていただき、感謝しております。
お返事が遅くなり、申し訳ありません。
じつはここ数日、野暮用に追われていたのと、一度出来上がったコメントを、掲載時の操作ミスで飛ばしてしまったので、今頃になってしまいました。
なお、初めはコメント欄にお返事を書こうと思ったのですが、書き込み欄が小さくて書きにくいのと、重要な議論なのでできるだけ多くの人の目に触れた方がよいと考え、ブログのメイン画面に掲載することにいたしました。
諒とされんことを望みます。

さて、刑法適用年齢を18歳以上に下げるべきだという私のブログの文章に対するFさんの反論は多岐にわたっているので、こちらからも一つ一つ反論を試みます。
その前に、Fさんが反論対象としている私の文章の該当部分を再現しておきます。

この現代版通過儀礼としての学校は、成績の良い子、勉強意欲のある子にはそれなりに意味をもちますが、そういうモチベーションをもたない子には、通過儀礼として機能しません。しかし一方、現代日本の社会制度は、高校を通過しなければほとんど社会人として承認してもらえないことになっています。必ずしも違法行為に走らなくても、生き方が定まらずあてどなくさまよう若者は、現代日本には溢れかえっています。
 ですから勉強に向かない子には、早く何らかの制度的、システム的な大人化への道をあてがったほうがよいのです。高校全入などはやめて、勉強嫌いな子には職業訓練を施したり、実際に仕事に就かせて稼ぐことの意味を覚えさせる。
 少年法を改正して法的な「成人」年齢を引き下げるというのも、大人化への道を明確化させる工夫の一つです。君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです。有り余る力があるのにぶらぶらさせておくのは、国民経済的見地からいってももったいない。
 現在、選挙権年齢を18歳に引き下げるという流れが固まりつつありますが、この流れとの絡みも重要です。これはたんに形式上の統一を図るという意味にとどまりません。大人としての権利や自由を獲得することは、同時にそれに伴う義務や責任を引き受けることでもあります。運転免許取得可能年齢(18歳)のことを考えればわかりやすいでしょう。車を運転する自由の獲得は、同時に道路交通法を遵守する義務と責任を身に負うということです。


さて私からの反論です。

まず、「法律はその制定の目的に沿って個々に適応年齢を決めるべきだ」というFさんの意見についてですが、これには原則的に賛成します。
ですから私は、飲酒喫煙解除年齢が20歳以上になっていることには反対しません。
また原付免許年齢が16歳以上になっていることも諸般の事情から見て妥当だと思います。
私は、これらの形式的な不整合を一致させるべきだと主張しているのではありません。
しかし、本文中にも触れましたが、個人の生命・身体・財産を守るという重大事案の場合には法理として事情が異なります。
以下、釈迦に説法の教科書的な言い方になって申し訳ありません。
近代法治国家の法理は、個人が政治に参加できるなどの様々な権理(この表記は福沢諭吉が用いた表記を踏襲します)を得られると同時に、その権理が他人を侵害してはならず、それを犯した場合には相応の義務と責任を負うというコインの裏表のような不可分の関係として構成されています。
参政権適用年齢と刑法適用年齢とは、このコインの裏表がまさしくそのまま現実への反映として現れたものと解釈できます。

ちなみに私は、参政権年齢の18歳引き下げの議論が起きた時、公的な場で考えを述べたことはありませんが、いろいろな理由でこれに反対でした。
いまそれについてはここで言及しません。
しかしそう決まってしまった以上、上に書いた理由からして、刑法適用年齢もそれに合わせるべきだということになります。

次に、Fさんは、「国民全員に国政参加の権利を与える選挙法の場合」と、「恵まれない環境で一般の少年よりも精神的成長が遅れてしまった」ために「ごく一部でしかない非行を犯した少年を対象として健全育成をはかる少年法とではその目的が異なる」と述べています。
これについて反論します。
「恵まれない環境で精神的成長が遅れたために非行を犯したごく一部の少年を対象とする」ということが少年法のどこに書かれているのですか。
たとえ実態の大部分がそうであったとしても、少年法の目的はあくまで「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」(第1条)ところにあります。
この目的に照らせば、この法には、たとえば金持ちのドラ息子が凶悪犯罪を犯すケースも包含されています。
現に酒鬼薔薇事件の犯人や佐世保の女子中学生殺人事件の犯人の家庭は、どちらかと言えば裕福な家庭の子女でした。
また、有名大学の売春あっせんグループや「スーパーフリー」のようなチームの事件も、当事者が18歳か19歳なら、本来この法律の対象になるはずですね。
それに、現在「恵まれない少年たち」が少年院の中核を占めるからと言って、今後もそうだとは言い切れません。
たとえば、移民の大量受け入れを決めてしまった日本では、今後の情勢次第で治安の悪化が進むということも大いにあり得ます。
ヨーロッパでは現にそうなっていますね。
ちなみに、かつて高福祉国家として日本人の憧れの的だったスウェーデンは、あっという間に世界第三位の犯罪大国になってしまいました。

さらに、もともと私の当該部分の記述は、少年法に引っかかってしまった少年たちの「実態」がどうかについて述べたものではありません。
文脈からわかる通り、これは、学校で勉強する意欲を持てない中高生(大ざっぱに言って意欲を持ているのは3割に満たないでしょう)、「悪友」とつきあうことにしか学校に通う意味を見出せなくなった少年たち、親が敷いた生活規範に素直に従わなくなった少年たち(これはこの年齢であれば当然ですが)、街に出てあまり感心できない遊びに集団で熱中する少年たち、学校から社会へ、という具体的な連続性を喪失している少年たち、家出少年たち、そして引きこもりなど、こうした若者の大量発生に、社会としてどのように対処すべきかについて述べたものです。
ですから前段で、高校全入の廃止と、それに代えて勉強意欲のない者たちには、むしろ早くから手に職をつける道を用意すべきではないかと述べています。
つまりここの部分は、文明社会全般の爛熟に伴って起きた学校幻想の崩壊による、「だらしない若者群」問題一般を論じているので、その一環として、刑法適用年齢の引き下げも、「工夫の一つ」として挙げているにすぎません。
いわば法に触れて検挙された「非行少年」を的にしているというよりは、あえて言えば、大量の「非行予備軍」への対処について考えたもので、Fさんが的を絞っている「少年院での実態」とは、その問題意識のありどころがまるで違います。

次に、Fさんは、「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです」という私の言葉を引いて、これを、非現実的な願望だとしています。
しかしここでもFさんは、現に「非行に嵌ってしまう」少年だけを拙論の対象として考えているようです。
ここでの「非行少年」という概念は、文脈からして、やはり違法行為を犯して検挙された少年という意味に受け取れるからです。
しかし、そもそも扱っている対象に大きなずれがあるのですから、私の提案の有効性如何に関しても食い違いが生ずるのは当然ですね。
そのことを踏まえた上で、「非現実的な願望」に過ぎないかどうかを検討してみましょう。
もとより、おっしゃる通り、「非行に嵌ってしまう少年」に対して、「君は今日から大人である」と言うことで責任意識が芽生えるなんてことはありえないでしょう。
しかし、私の提案は、若者一般に対する一種の象徴効果を狙ったもので、それは成人式と似たようなものです。
成人式は形骸化が叫ばれて久しいですが、一部の狼藉者は別として、大多数の当人たちにしてみると、そうでもないようですよ。
ですから、この「工夫の一つ」も、ある程度の効果はあるのではないか。
ただしその場合には、参政権が広く認知されたのと同じ程度に、大々的に認知させる必要があるでしょう。
また、これだけではたいして意味がないので、学校制度の根本的な見直しやこれに接続する社会組織のあり方、少年の逸脱行為をなるべく少なくするような環境の整備などと連動させるのでなくてはならないでしょう。
もちろんこの提案に効果があるかどうかは、死刑に犯罪抑止効果があるかどうか実証できないのと同じように、実証できません。
刑法適用年齢を現行のままにした場合と下げた場合との比較ができませんからね。
ただし、やってみるだけの値打ちはあると私は思っています。
というのも、学校を中心とする現行の社会制度は、その設計思想があまりに時代遅れとなっていて、制度疲労を起こしているからです。

次に、Fさんは、成人の事件の場合、起訴されて実刑判決を受ける容疑者・被告の割合の少なさについて具体的な数字を挙げて、これを18歳、19歳の「少年」に適用すれば、少年院での適切な教育(更生プログラム)を受けられないままに放任されてしまうと警告されています。
ここの部分は、一見とても説得力があって、最も強力な反論に思えます。
しかし私の疑問は払拭されません。

一つは、少年院でどのような教育を受けているかについて知らないので、果たしてその効果がどれほどあるのかどうかについて確証が得られないということがあります。
一般に教育と称するものは、そういうものです。
これは、少年院の院長や教官から「こういう教育をしている」というサジェッションを受けたとしても、現場をちょっとばかり見学しても同じです。
だからサジェッションや見学によって、その効果を実感しろと言われても、あまり納得はしないと思います。
というのは、組織の管理者は、どこでも自分の仕事の問題点を赤裸々に暴露するはずがないからです。
そこで、効果を測定するには、少年院を出てからの再犯率がどれくらいかという数字に頼るほかはありません。
ちなみに、次のようなデータはいかがですか。
これは、平成7年(1995年)から平成26年(2014年)までの少年一般刑法犯検挙人員中の再非行率
(茶色の線)です。

検挙人員が激減しているのは、成人の場合も同様(あるいはそれ以上に激減)ですから、少年院での教育の成果と見ることはできません。
しかし再非行少年率(ある年の全体に対する「再犯者」率であり、個人の「再犯」率ではない)が、34.9%と高い数字を見せて漸増しており、検挙人員程には減少していないのを見ると、少年院での教育成果に対して疑問を抱きたくなります。
ただし、これは検挙人員のグラフなので、このうちどれだけが少年院に送致されたのかはわかりません。
そこで少し古いですが、次のようなデータはいかがでしょう。
少年院出身者の25歳までの「再犯」率は約4割
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0903L_R11C11A1000000/
刑務所出所者の再犯率(たとえば20歳で出所してから5年間)については、正確なデータを見つけられませんでしたが、刑務所に再び戻ってくる率については、次の記事が参考になります。
出所5年以内に刑務所に戻る確率
https://www.news-postseven.com/archives/20180903_751528.html
この記事では、初めの「綾瀬コンクリート詰め殺人事件」についての記述はおくとして、次の記述に注目してください。
『犯罪白書』(平成28年版)によれば、出所から5年以内に刑務所に戻る確率は、覚せい剤49.4%、窃盗45.7%、傷害・暴行36.1%に達する。強姦・強制わいせつ(24.1%)や殺人(10.3%)という凶悪犯罪でも、1~2割は刑務所に戻ってくるのだ。
これを見ると、刑務所出所者の再犯率の高さを強調している文章になってはいますが、数字を追えば、前述「少年院出身者の25歳までの『再犯』率は約4割」と大して変わらない印象を受けるでしょう。
以上、再犯と言っても、それぞれどんな犯罪を犯したのか明らかでなく、また、少年院出身者の再犯者が果たして少年院または刑務所に戻ったのかどうかも明らかではないので、厳密な比較はできません。
しかしFさんが言うように、少年院が「うまく機能していた」とはとても結論づけられないことだけは確かでしょう。
もしFさんが、少年院がうまく機能していることについての厳密なデータをお持ちでしたら、どうぞご教示ください。
ただし、煩雑な図書を提示されても、すっきりとわかることはあまりなく、また初めに結論ありきの本は巷に溢れていますので、数字を用いて簡潔に提示していただければ幸いです。

次です。
Fさんは、ある学者の発言を引きながら、次のように決めつけています。
「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まる」という主張は、私には上述の「困った問題を個人の責任にして無理やり決着をつけようとする」態度にしか見えません。
どうしてこんな解釈が成り立つのか、理解に苦しみます。
先に述べたように、私は、若者の成熟困難という一般的問題を、特定の個人の問題としてでなく、彼らを取り巻く制度的、社会的なシステムの機能不全としてとらえています。
しかも「ラベル貼り」は、その機能不全を少しでも克服するために、いくらかは効果が見込めるのではないかといった程度のニュアンスで書いたつもりです。
そう受け取っていただけないとすれば、それは4年前の私の筆の至らぬところでしょう。
ですので、改めてこのことを強調しておきます。

最後です。
Fさんは、次のように述べています。
私は小浜さんがその著書『13人の誤解された思想家』の中で、カントを「痩せた人間認識に基づく道徳主義者」と評している箇所を読んでなるほどと思いましたが、小浜さんの「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まる」という主張の背景には、どのような人間認識、さらに現状分析があるのでしょうか?
カントと比較していただいて光栄ですが、カントの道徳論の根本的欠陥は、彼が人間の傾向を「自愛」に与する者と「他愛」に与する者とに単純に二分割して、前者を否定し、もっぱら後者を称揚している点にあります。
これに対して私は、人間を徹底的に関係存在としてとらえます。
純粋な「自愛」も純粋な「他愛」もこの世には存在しません。
ある自愛が、彼自身を形成している周囲の関係性に他愛として波及することもあれば、逆もまた真です。
社会的なラベルは、日々、お互いに貼られています。それがこの社会の中で生きる関係存在としての人間の宿命です。
だからこそ、一般の未熟な若者に自立心と責任意識を芽生えさせるためには、年長者が若者に適切な関与をするしかないのではありませんか。
もしこの年長者から若者に対する関与の仕方の一つが、若者に対してうまく働く場合には、社会にとって好都合であるばかりでなく、彼ら自身の人生にとっても生きやすさにつながるのではないでしょうか。
もっとも言うは易く行うは難しで、私の「ラベル貼り」提案がどこまでも正しいと固執するつもりはありません。
また、現状分析については、これまで述べたところで十分だと思います。

なお、これ以上、このサイト上で議論を続けると、あまりにしつこくなり、ローカルな話題と化し、読者の方をうんざりさせてしまう危険が無きにしも非ずです。
申し訳ありませんが、もし再反論のご意思がある場合には、別の場所、別の機会に譲ることを提案したいと思います。
悪しからずご了承ください。

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四年前の川崎中一殺人事件について考える(その2)

2019年02月06日 00時02分07秒 | 思想


 また、平均寿命が延び、そのぶんだけ大人になるのに時間がかかるようになったということがよくいわれます。もしこれが事実なら、法的な「成年」年齢を下げることは、一見時代の流れに逆行するように思われます。

 たしかに大人になるのに時間がかかるようになったというのは、ある意味で本当ですが、それは、平均寿命が延びたからではありません。そもそも何をもって大人になったというのか、あるいは何が人を大人にするのかというように考えていくと、これは社会的動物である人間の場合、単純ではないことがわかります。

 私は「大人」概念を、生理的大人、心理的大人、社会的大人の三つに分けています(詳しくは拙著『正しい大人化計画』ちくま新書)。
 これらは相互に絡み合う関係にありますが、文明が進めば進むほど、生理的大人と社会的大人とが乖離していきます。つまり生理的には思春期を通過すればすぐ大人になってしまうのですが、社会の仕組みが複雑になるにしたがって、学習期間が延び、親から経済的・精神的に自立するのに時間がかかるようになるのです。また、職業人や家庭人としての責任を果たせるようになるのにも長い期間が必要とされます。

 この事実は何を意味しているでしょうか。人間の成熟には、社会のシステムや制度のあり方に応じて時間がかかったり、逆に早まったりする可能性があるということです。

 さてこのことを、先の法的な「少年」と「成人」の境をどこに置くかという問題に当てはめてみましょう。くだんの少年は、「札付きのワル」であったことは間違いないようですが、それは生理的には立派な大人になっているのに、社会的な意味で大人として見なされていなかった、または大人になる気がなかった、ということと重なり合うのではないでしょうか。
 よく暴走族のOBなどが、後輩に向かって「いつまでもガキやってんじゃねえよ!」などと説教する例がありますが、この少年も、生理的な大人でありながら、社会的には「ガキ」でしかなかった、そのギャップがあまりに大きかったといえそうです。つまり、学校という間延びした現代版通過儀礼の場所と時間帯にまったくなじめなかったために、社会的な大人になるきっかけを失っていたのです。

 この現代版通過儀礼としての学校は、成績の良い子、勉強意欲のある子にはそれなりに意味をもちますが、そういうモチベーションをもたない子には、通過儀礼として機能しません。しかし一方、現代日本の社会制度は、高校を通過しなければほとんど社会人として承認してもらえないことになっています。必ずしも違法行為に走らなくても、生き方が定まらずあてどなくさまよう若者は、現代日本には溢れかえっています。
 ですから勉強に向かない子には、早く何らかの制度的、システム的な大人化への道をあてがったほうがよいのです。高校全入などはやめて、勉強嫌いな子には職業訓練を施したり、実際に仕事に就かせて稼ぐことの意味を覚えさせる。
 少年法を改正して法的な「成人」年齢を引き下げるというのも、大人化への道を明確化させる工夫の一つです。君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです。有り余る力があるのにぶらぶらさせておくのは、国民経済的見地からいってももったいない。

 現在、選挙権年齢を18歳に引き下げるという流れが固まりつつありますが、この流れとの絡みも重要です。これはたんに形式上の統一を図るという意味にとどまりません。大人としての権利や自由を獲得することは、同時にそれに伴う義務や責任を引き受けることでもあります。運転免許取得可能年齢(18歳)のことを考えればわかりやすいでしょう。車を運転する自由の獲得は、同時に道路交通法を遵守する義務と責任を身に負うということです。

 以上が、少年法適用年齢を18歳にまで引き下げたほうがいいと考える理由です。


 (2)のネット情報の氾濫の問題についてですが、いまさらこの流れを押し戻すことはできないでしょう。しかもインターネットの普及のおかげで助かることがずいぶんあります。現にいまこの原稿を書いている私は、依頼があるまで今回の事件のディテールやそれがどう語られているかについてほとんど知りませんでしたが、知人が送ってくれたいくつものサイトによってその全貌をほぼ知ることができました。

 「知る権利」などという言葉はあまり使いたくありませんが(この抽象的な言葉をタテにとって悪用する人もいるので)、何かをより深く正確に知る必要がある場合に、紙による情報だけでは限界があり、時間や手間やお金もかかるので、信頼のおけそうなネット情報に頼らざるをえないというのは否定できない事実です。これを強く規制している国がどんな国かを思い浮かべてみれば、その恩恵の面を無視することはできません。

 独裁国家や巨大マスコミが意図的に、または意図的ではなくともその体質上、情報の操作や選択をして、真実が隠されたり捏造されたりするということはいくらでもあることですね。そういう疑いのあるとき、信頼のおけるネット情報はたいへん役に立ちます。

 しかしもちろん、ネットによるこの情報獲得能力の民主化には、よくない面もあります。
 1つは冒頭で述べたように、事件と直接関連のない不必要なプライベート情報がすぐに出回ってしまい、迷惑をこうむる人がたくさん出る可能性があることです。今回の事件でも、容疑者が逮捕される前に、「あいつがやったんじゃないか」という憶測情報が広く出回ったそうです。捜査に協力するという明確な意思をもって、警察に極秘にヒントを知らせるというのならいいですが、まったくそうではないので、たいへん困ったことです。これは一般に、風評被害の可能性が格段に高まったことを意味します。

 もう1つは、誰もが何かについての感想・意見・主張を瞬間的に発信できるので、問題をよく考えもしない感情的な表現がやたらと出回ることです。これは二重の意味でよくありません。
 第一に、発信者自身に冷静に考える習慣や母国語をきちんと使いこなす能力が身に付かず、その結果、精神的成熟が妨げられること。
 第二に、物事に対する単純化された把握がまかり通って、それが一種の「党派性」を形成し、異論に対して聴く耳をもたない非寛容がはびこることです。これが高ずると、全体主義的な権力にまで発展しかねません。歴史上、悪名高い全体主義というのは、皆こうした大衆社会の空気を基盤として生まれています。このほかにも、よくいわれるように、匿名性を利用してある人を集中的に誹謗中傷することができるという点も挙げられます。

 ではどうすれば、こうしたネット環境の悪い面を防ぐことができるか。これはたいへん難しい問題ですが、要するに発信主体、受信主体がそれぞれの立場で公共心を高めていく以外にないでしょう。それはある場合には、自主規制のかたちをとり、ある場合には発信者に対する批判や啓蒙のかたちをとることになります。しかしその場合でも、ネット環境で何が起きているかを知らないで済ませるというわけにはいきません。

 私たちはいま、情報倫理学ともいうべき分野を構築する必要に迫られているのですが、そのためにはやはりネットを大いに活用して現実感覚を高めなくてはなりません。これは、交通事故を減らす有効な手立てを考案するためには車の運転に慣れる必要があるのと同じです。
 今回の事件でもネット空間にずいぶん感情的・衝動的な表現が乱舞しましたが、あくまでもこれらの「敵」の姿をよく知ることを通して、ネット環境に対する成熟した理性的な態度を養うべきだと思います。
コメント (5)

四年前の川崎中一殺人事件について考える(その1)

2019年02月04日 14時37分56秒 | 思想


以下に掲げるのは、ちょうど4年前に起きた川崎中一殺人事件について、筆者が雑誌『Voice』に寄せた論考です。
たまたま先日、由紀草一氏が主催する「しょ~と・ぴ~すの会」で、家庭裁判所調査官を長年務めてこられたF氏の、「秋葉原殺人事件」についての発表があり、筆者も参加しました。
しかし時間の関係で議論が十分できなかった事情もあり、少年法や死刑などにかかわる筆者の考え方をこの際、自身のブログの場で発表しておく必要があると感じました。
古い話で恐縮ですが、ここに書かれていることは、いまも有効だと思っています。

ちなみに「しょ~と・ぴ~すの会」は、由紀氏と筆者が主催する「思想塾・日曜会」の一環として行われているイベントです。
https://kohamaitsuo.wixsite.com/mysite-3

なお、以下の論考の文中、「私は死刑存置論者です」とありますが、筆者の死刑存置論の詳しい根拠を知りたい方は、当ブログの以下のURLにアクセスしてみてください。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/5a9abcb8cf4635ba313d2009fd1c33f7
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/d68796636f3cdc1ab4767b404206075e

また、こうした事件をマスコミが報道するたびに、厳罰化の声が高まりますが、少年(20歳未満)の犯罪はここ数年、明らかな減少傾向にあります。
本文でも触れていますが、減少しているからこそ、凶悪犯罪が「ニュース」として大々的に報じられるのであり、そのことを普遍化することで、厳罰化を正当化することはできません。
しかし、筆者は、刑法適用年齢を18歳以上に引き下げることについては賛成です。
これは厳罰化とは矛盾しません。
賛成の理由は、本文に書かれていること以外に、参政権年齢が18歳以上に引き下げられたことと対の関係で考えるべきだと思うからです(本稿が書かれた時点では、まだ18歳参政権は与えられていませんでした)。
つまり、大人としての権利の獲得は、同時に大人としての責任を引き受ける義務を伴わなくてはなりません。
政治に参加する権利を得た者は、その裏側で、他人の生命や財産を毀損した場合、大人が服するのと同じ法に従う義務を課されるべきでしょう。


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 2月に起きた川崎市の中学1年生殺害事件で、世論が沸き返りました。さんざん報道されてきたので、事件の概要については、ここであらためて述べるまでもありますまい。主犯格の少年(18)は、まったく高校に通っていず、どうやら札付きの非行少年だったようです。新聞やテレビでは少年法61条遵守の観点から実名、顔写真などを報道していませんが、週刊誌やネットでは、虚実取り混ぜて過熱した情報が思うさま飛び交っています。しかしこうした情報公開をめぐる媒体間のギャップは、べつにいまに始まったことではありません。

 18年前に起きたいわゆる「酒鬼薔薇事件」では、残虐極まる犯行手口だけでなく、警察やマスコミを手の込んだかたちで嘲弄した犯人が14歳であった事実に世間が驚愕し、逮捕後、某出版社の2つの週刊誌がいち早く実名と写真を公開しました。この出版社は当時、法務省の回収勧告にも頑として応じませんでした。

 もちろん売らんかなの週刊誌のことですから、私たち誰もがいくらかはもっている下卑た野次馬根性や好奇心を当て込んでの目論見であったのは事実です。しかし公平に見てこのときは、この出版社の編集方針に、加害者の人権には過剰なほど配慮するのに被害者遺族の心情を考慮しない当時の空気に対する義憤のようなものが働いていたことも確かだと思われます。一種の確信犯的な試みで、支持者もけっこう多かったようです。

 今回の場合は、18年前に比べてインターネットの飛躍的な普及という情報環境の変化があり、そのため、SNSやブログなどを通して、やたらとプライベートな情報が全国、いや全世界に露出し、物事を慎重に考えないコメントや画像が氾濫する結果となっています。しかも、もうそんなことは当たり前だという雰囲気が共有されており、マスコミの自粛などほとんど何の意味ももたないといってもいい。これはまたこれで行き過ぎの感が否めません。かの「イスラム国」も、こうした情報環境を巧みに利用したといえるでしょう。

 本稿では、これらの情報洪水のなかから聞こえてくる声のうち、次の二つの問題点をあぶり出し、それについて少し掘り下げてみようと思います。この問題点は、じつはいま述べた某出版社の「決断」の意思のうちに孕まれていたものと同じです。

 (1)未成年(少年法で規定された20歳未満)だからといって、残虐な犯行を犯した者をかばうような扱いはおかしいのではないか、実名や顔写真を公表することによって、加害者に社会的な制裁を受けさせるべきではないかという議論。

 (2)何か大きな事件があったときに、そのディテールを知りたいという好奇心は人間の本能的な感情であり欲望であって、それを抑えることは不可能だから、技術的に可能な限りでやってしまえばよいという感覚。

 (1)の議論は、推し進めていくと、いまの少年法の年齢規定を18歳未満にまで下げるべきだという主張に連続していきます。この主張の是非について考えてみましょう。

 結論からいうと、私は、この主張にほぼ賛成です。ただしそれは、被害者への同情心とか、被害者になり代わって応報や復讐や制裁をしてやりたいといった感情的な理由からではありません。また、札付きのワルには厳罰を科してやらなくては更生できっこないのだ、といった単純な厳罰主義から出た考えでもありません。

 まず国家の法というものは、被害者の報復感情の代行をするためにあるのではありません。それは、いかにして社会の公正な秩序を維持し、すべての国民に安寧を保障するかというところに眼目が置かれています。だからそれぞれの法律には独自の趣旨というものがあり、それらが組み合わされて、総体としてその眼目を満たしうるような体系性を具えていなければなりません(実態はそううまくできてはいませんが)。

 少年法の趣旨はといえば、非行少年に対して性格の矯正と環境の調整のために「保護処分」を行なうというところにあります(1条)。これと対になるかたちで、刑法41条の「14歳に満たない者の行為は罰しない」という規定があるので、14歳以上20歳未満の「少年」は、明らかに刑罰の対象になります。しかし同時にその目的は成年と異なり、懲戒よりはむしろ矯正に重きが置かれるというように、バランスがとられているわけです。「少年」は「成年」に比べて未熟だからこそ可塑性を残しているという考えに立つものでしょう。この考え方は基本的には妥当なものですから、「少年法など廃止してしまえ」などと乱暴なことを言ってはいけません。

 しかし一方、この年齢は肉体的には大人顔負けの力をもち、性的にも成熟しており、しかも家族による庇護・管理からの自立途上にあって精神的に不安定な時期に当たります。社会人としての責任意識は十分に身に付いていず、親や教師の目を逃れていくらでも悪いこと(社会規範に反すること)、粗暴なことに手を出す可能性のうちに置かれています。血気にはやるのは昔から若者の常です。まして今回の事件のように、学校という囲いからすっかりはみ出てしまっていて、早くから勉強に興味も抱かず仕事にも就かず、親もその事態にお手上げ状態になっているような「少年」の場合には、そういう可能性がもともと大きかったといえるでしょう。


 さて問題は、「少年」と「成年」との法的な境目をどこに置くかということなのですが、これを考えるには、いくつかの問題を押さえておくポイントがあります。

 まずこうした少年事件が起きるたびに厳罰化の声が上がるのですが、少年の凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)は減り続けているという事実に皆が気付かなくてはなりません。たとえば、平成24年における少年凶悪犯の検挙人数は135人、25年では77人、殺人に至っては、24年8人、25年はわずか3人です(警視庁生活安全部資料 
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/toukei/hikou/hikou25.pdf)。

 最近はだいぶこの事実が気付かれ始めているようですが、たまにマスコミでこの種の事件が大々的に報じられると、これを見た人はすぐに感情的反応を示して、「増えている」と思い込んでしまいます。むしろ事態は逆で、めったにないからニュースとして大きく取り上げられるのです。ですから、ある個別の事件があったからといって、それを根拠に厳罰化しろというのは短絡的思考です。

 次に、厳罰化には犯罪の抑止効果があるという考え方がありますが、これは実証されていません。原田隆之氏の『入門 犯罪心理学』(ちくま新書)にはそのことが詳しく書かれています。また私も以前、『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)という本の「死刑は廃止すべきか」という章で、その実証不可能性を論じたことがあります。私は死刑存置論者ですが、その立場を取るのは死刑に抑止効果があるからではありません。

(つづく)
コメント (1)

日本の自死の心理的背景

2019年02月01日 19時12分45秒 | 思想


昨年九月に、このブログで、稀勢の里と大坂なおみ選手を比べながら、ルーツやアイデンティティの異なる有名人を無理やり日本人にしたがる日本の習性のおかしさについて述べました。
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20180928/

その後4か月、ほぼ同時期に、稀勢の里は引退、大坂選手は見事に全豪オープンで優勝し、世界ランキング一位を獲得しました。
明暗がくっきり分かれたわけです。
前記事における筆者の論理からすれば、これは極めて情けない事態だということになります。
それ見たことかとまでは言いませんが、稀勢の里の引退には横綱を続けるだけの実力がないことが証明されたのです。
一方、大坂選手は、ルーツもアイデンティティも日本人ではないのに(だからこそ?)、21歳でテニス界の女王に輝いたのです。

ところが、日本のマスメディアは、こぞって強引にも彼女を日本人として遇し、このたびの栄冠を、あたかも日本人の名誉であるかのごとくに扱いました。
NHKなどは、レギュラー番組を中止してまで、全試合を放送したのです(じつは筆者も、ほんの少しは彼女を応援したい気持ちがあったので、一部見たのですが)。

ところで、1月31日付で書かれた窪田順生氏というノンフィクションライターの、次のようなネット記事を見つけました。
https://diamond.jp/articles/-/192484

この人が書いていることの「思想」にはまったく共鳴できませんが(事の困難を見ない単純な多文化共生主義なので)、指摘されている「事実」には信頼がおけます。
ことの発端は、日清食品のCMのイラストです。
このCMは、人気漫画『テニスの王子様』にもとづいており、この漫画に登場する「アメリカ代表候補のC・リデル」が、大坂選手と同じような褐色の肌で描かれているのに、大坂選手のほうは、錦織選手と同じ白色で描かれているというのです。
ニューヨーク・タイムズが「ホワイト・ウォッシュ」ではないかという批判記事を載せて、大騒ぎになりました。
https://www.j-cast.com/2019/01/23348707.html?p=all

いかにもNYタイムズがつつきそうなネタです。
日清食品は、「多様性に配慮が足りなかった」として謝罪し、CMを削除しました。

その後、時事通信が、「なぜ多くの人が騒いでいるのかわからない」という大坂選手のコメントを載せた記事を配信し、朝日新聞もそれに追随するような発言内容を載せたそうです。
ところが窪田氏によると、これは「デマ」だったということです。
時事通信も朝日も、その後訂正記事を載せました。
窪田氏の記事から引用しましょう。

 《例えば、先ほどの「なぜ多くの人が騒いでいるのか分からない」というのは、訂正後は「このことで心を乱される人たちのことも理解はできる」と、180度逆の意味になってしまっているのだ。
  しかも、時事通信とほぼ同じ内容の報道をした朝日新聞の「訂正して、お詫びします」という記事を見ると、先ほどの言葉の後に、「この件についてはあまり気にしてこなかった。答えるのはきちんと調べてからにしたい」と述べている。気にしないどころか、これを契機にホワイトウォッシュや差別という問題について意識をすると述べているのだ。ちなみに当初、朝日ではこのコメントを「この件についてはあまり関心が無いし、悪く言いたく無い」と「誤訳」していた。


この後、窪田氏は、こうした現象の背後に、悪意はなくとも、大坂選手のアイデンティティや心情を無視して、勝手にこちらが望むように「日本人化」していく日本人の無意識の意図があると指摘します。
次の記述を見ると、そのことを示す「事実」の指摘にいっそう賛同できます。

 《幼い頃からアメリカで育って日本語に不慣れな大坂さんにとって、自分の気持ちを正確かつストレートに伝えるのには英語がもっとも適していることは言うまでもない。しかし、日本のメディアはこんな質問を繰り返した。
「今の気持ちを日本語で表現するとしたらどんな気持ちですか」
「クビトバ選手、左利きの選手だった。大変だったと思うんですけど対応が。まずは日本語でどれぐらい大変で難しかったかって一言、お気持ちどうでしたか」
 大坂さんに一言でも二言でもポロッと日本語で語ってもらい、それで「出ました!なおみ節」という日本の伝統芸能のような大騒ぎをしたいというメディア側の事情もよくわかるが、どう考えてもやりすぎだ。実際、「大坂さんは英語で言わせていただく」と拒否している。


大坂選手の「拒否」は、複雑なことを日本語で言えない以上、当然のことで、「日本人化」を強いる記者たちのアホぶりが目立ちます。

ところで窪田氏は、同記事の中で、このような「日本人化」を強いることは、「非常に恐ろしいことだ」と述べています。
なぜ「非常に恐ろしいこと」なのかというと、多様性を無視した日本人中心主義がそうさせているからだというのがその理由のようです。
しかし、筆者はこれには全然同意できません
窪田氏に限らず、いま日本の知識人、政治家、マスコミは、「ナショナリスト」とか「人種差別主義者」とかレッテルを張られるのを極度に恐れており、その怖れに目を塞ぐために、「多様性の尊重」という欧州由来の新しいイデオロギーに、あっという間に洗脳されてしまったのです。
しかし「多様性の尊重」という態度が原理主義と化した結果、欧州がどんな惨状を呈しているかは、かの地域の移民・難民問題を見れば一目瞭然です。
日本は、まだ欧州ほど移民・難民問題が深刻化していないので(一部ではしていますが)、「多様性の尊重」とか「多文化共生」といったイデオロギーをのんきに受け入れていられるのです。

先のブログで、筆者(小浜)は、次のように述べています。

筆者が気になるのは、日本で起きている「なおみフィーバー」では、彼女が人種的に中米系の血が濃厚であり、育ちがアメリカであり、母語が英語であり、二重国籍者であり、現在もアメリカ在住者であるという事実をまったく気に留めず、ひたすら日本人としてしか扱っていないという点なのです。
つまり、そこに、はしゃいでいる日本人たちの強引さを感じるわけです。
このフィーバーの背景には、彼女は何が何でも根っからの日本人、と思いたがっている日本人たちの深層心理が作用してはいないか。
(中略)
この傾向は、自国の文化や存在感が世界にあまり認めてもらえないので、無理にでも国際的日本人を作り出そうとする、一種の「弱さのナショナリズム」ではないでしょうか。
またこれは、日本人力士を、その実力のほども正確に見積もらずに、彼がただ日本人であるという「観念」だけで異様なほどに応援する心理と背中合わせではないでしょうか。


引用でわかる通り、筆者は、窪田氏とは違って、日本人が「多様性」や「多文化共生主義」を認めないから、大坂選手に対する日本人の態度に違和感を持つのではありません。
逆に、ちょっとでも日本人にかかわりがあれば、その人を日本人と思いたがってしまう安易な傾向のうちに、対世界コンプレックスと、健全でない、弱さのナショナリズムを見出すからなのです。
これは、その大きな弊害も問わず、管理体制も整わず、ろくな審議もせずに、移民法(出入国管理法案)を安易に国会通過させてしまう集団心理と表裏一体です。
なぜなら、このたびの移民法案の国会通過を許してしまった事態のなかには、「日本に来さえすれば、四分の一か五分の一くらいは日本人になるのだから、とにかくあとは来てから何とかしましょう」といった、何の国家戦略もない、安直極まる空気が感じられるからです。
そんなに甘いものではないことは、いま欧州の例で述べたとおりです。
つまり、国際社会に対峙する時の、ものの見方が根本的に甘いのです。

遅ればせながらダグラス・マレー氏の『西洋の自死』を読みました。
西欧近代のイデオロギーである「人権と自由と平等と寛容さ」が、イスラム系の人たちを中心とした移民・難民の急激な増大を許しました。
この本では、これによって、いかに自分たちの実存とアイデンティティを根底から侵されつつあるか、その恐るべき実態が、これでもかこれでもかと言わんばかりにリアルに表現されています。
つまりそれは、EU委員会やメルケル独首相をはじめとする西欧のエリートたちが、「多文化共生」という麗しい名目に隠れて、真実を隠蔽し、何らの有効策も打たないままに安手の人道主義という欺瞞を続けてきたツケなのです。

日清食品のCMを批判のまな板に乗せたNYタイムズは、西欧ではなく、アメリカの新聞ですが、その批判の思想的な基盤は、西欧の移民・難民の無際限の受け入れを可能にしたものと同じです。
つまり、褐色の肌を白い肌に置き換えて表現することは、たとえ何気なくそうしたことでも、その差別性を糾弾されなくてはならないのであり、ポリティカル・コレクトネスに違反することなのです。
この非妥協的な原理主義が、いま欧米先進諸国を後戻り不可能なほどに荒れ狂っています。
これに異議を唱えることはおろか、疑問を持つことさえ許されていません。
要するに、人権や平等や自由という名の全体主義が支配しているのです。
もちろん、この支配に対する抵抗と逆襲がヨーロッパ各国で起きてはいますが、その行く末は混沌としています。

日本は、こうした恐ろしい事態を「他山の石」として学ぶのではなく、反対に、いつもの「出羽守」によって、見習おうとしています。
なおみフィーバーによって大坂選手を是が非でも「日本人」にしたがる日本人の心理は、裏を返せば、大量移民受け入れが何をもたらすのかについて、何の危機感も抱いていないことの一つの証左なのです。


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