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由紀草一の一読三陳

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啓蒙思想の賜物

2025年06月21日 | 倫理

メインテキスト:アイザイア・バーリン/松元礼二編『反啓蒙思想』(所収論文の原発表年は、「反啓蒙思想」1973、「ジョゼフ・ド・メストルとファシズムの起源」1990、「ジョージ・ソレル」1974。岩波文庫令和3年)

サブテキスト①:ミシュレ/桑原武夫、多田道太郎、樋口謹一訳「フランス革命史」(原著の出版年は1847-1853。中央公論社昭和43『世界の名著37』)

サブテキスト②:ロジェ・カイヨワ、秋枝茂夫訳『戦争論 われわれのうちにひそむ女神ベローナ』(原著の出版年は1963年、法政大学出版局昭和49年)

Ⅰ 啓蒙の表裏

 啓蒙思想は、平等の理念や合理主義、進歩思想など、近代社会の公理(あたりまえ)となっているものの起源と言ってよい。5月25日の日曜会で『反啓蒙主義』をテキストにして発表してくれた藤田貴也さんの狙いは、アクチャアルな問題の大元を考えるために、初期の段階で、この思想傾向を批判した言説を検討するのは意義がある、というもので、私も賛成した。今もまちがいだとは思わないが、バーリンの紹介から見るだけでも、この頃(18~19世紀)の主な思想言説は、どのサイドからのも非常にラディカル(根源的にして過激)で、今のリベラルや保守派などの、表面的なものとは直接結びつきそうにない。

 そもそも、思想、とは? この言葉を今言おうとすると、何やら恥ずかしい気分になる。どうやらすっかり時代遅れになってしまったようで。哲学ならまだしも、お勉強の題材として、細々とした需要があるけれど。「思想ってなんだよ?」と訊かれると、どう答えるか。シソーノーローみたいな、当人は痛いし、まわりは臭くて、厄介なもののことか?

 そういうところもなくはない。しかし元々は、人間の生き方とか、人間世界の在り方を問うことである。人間、あるいは世界とは何か、何であり得るのか、何であるべきなのか、という具合に。

 この種の問いは、自分からというより、周囲への、広くは時代状況と呼ばれものへ抱く違和感の形でまず訪れる。もとより、本来個人のものである思想が世の中を多少とも変える、などということは殆どない。思想のある部分が多くの人に共有されると、それ自体が時代状況と呼ばれ得るものになるが、そのとき、奇妙なことが起こるのである。

 その最大の実例は「啓蒙」(enlightenment)にまつわるものだ。古いと言えば思想よりこっちのほうが明らかに上だ。古いも何も、世界史や倫理社会(って教科が今もあれば)の教科書でしか見かけなくないか? このタイプの言説と態度は意識高い系とかwokeとか言ったり言われたりしている人々に受け継がれているが、名称変更には、欺瞞とまでは言わなくても、現実にあった、そして今もある或る面を敢えて見まいとする、遠慮という言葉が似合いそうな気遣いがありそう。

  lightとは理性ということだ。それに照らされて因習からくる迷妄を脱しさえすれば、人の世は自ずとうまくいくはずだった。自然科学は確かに多くの文明の利器をもたらし、例えば今の人は19世紀の人より一般にずっと長生きするようになった。しかし一方で科学は原子爆弾を初めとする大量破壊兵器をも産んだ。そんなことは誰でも知っている。

  進歩は必ずしも人間を幸福にしない、なんて言葉も、言い古されて、近頃ではもう目にしなくなった。それだけ浸透した結果か、例えば、近未来を描くエンタメは、ディストピアものなのがごく普通だろう。そこには破滅を楽しむというデカダンスもあるのは確かだが、それも含めて啓蒙のアイロニカルなパロディに違いない。

 社会科学的なものとしては、共産主義が20世紀中に終わったことがなんと言っても大きい。私が若い頃には、思想と言えばほぼ必ずどこかでそれと結びついていた。いや、思想としてはまだ終わっていない、本当の共産主義が地上で実現したことはないのだから、などと言う人は今もいるが、今までにないものならこれからもありそうにない。共産主義は理論としてまちがっているからではなく、正しいところのためにこそ実現しないだろう。人は結局のところ、全き正しさになど、耐えられないのだから。

 すると絶望? なんでそうなるのかなあ。この世界を一気に変える理想とかいう傲慢ないし短絡がないと、人は前に進めない? 得に若者の気分を高揚させる観念の肥大をもたらしたものこそenlightenmentの最大の欠陥であり、我々はその清算、ではなくても抑制をも視野に入れて、前よりは多少はよくなることを期して歩んでいくべきではないか。

 そこで改めて啓蒙≒進歩思想の効能とその限界を瞥見してみます。

 第一に、啓蒙思想の根元にある「普遍的な人間(性)」の概念、そして信念。バーリンによるとそれは「あらゆる時代におけるあらゆる人間の窮極的目的は、要するに同一であるという」こと。その窮極的目的は、「証明可能、検証可能な一連の法則と概念の論理的結合からなる一つの認識体系を構築」できさえすれば自ずと明らかになる。明らかになりさえすれば、無知や迷信、とりわけ、各時代の社会の支配者によって擁護されてきた「利害関係に引きずられる誤謬」は一掃できる、と。

 この最後のフレーズの意味はやや曖昧だが、支配する側に都合のいい言動が即ち支配される側の利益になり、逆もまた真なので、そこで間違いが起こりがちになる、ということらしい。それが「とりわけ」で、人間社会を悪くする筆頭に挙げられているところから、自由・平等が進歩派にそれこそ共通する政治的な目標になるわけだ。

 それはいい。自由・平等が社会の原理とされることに異論はない。しかしいつのどんな社会でもやっかいなのは、いかなる原理でも完全には覆い尽くせない現実の支配―被支配、つまり権力関係のありかたである。

 啓蒙思想が導いたとされる歴史上最大の事件であるフランス革命からは、理性あるいは理想と呼ばれるものが社会に全面的に出現したときの迷走の跡がたどれそうに思う。いくつかの側面をとりあげてみる。

 まず、批判的な立場の言説を紹介する。『反啓蒙思想』のうち最長の、「ジョゼフ・ド・メストルとファシズムの起源」は、題名の通り、主に十九世紀初頭に活躍した政治家・著述家のド・メストル(以下、ドメさん、と略記する)の説くところに、ファシズムの端緒を見出している。

 なるほど、彼の矯激な言説は、20世紀に顕現した左右両翼の全体主義の根底にある暗い思考と感情を見事に言葉にしている。それからしたら、ヒトラーやムッソリーニやフランコが実現したものは、むしろ中途半端に感じてしまう。まあ現実はいつも、頭で考えたり口でいったりするほど徹底したことはできないものではあるが(徹底したら人間はたぶん死滅する)。

 ドメさんの考えは以下だ。彼は啓蒙のもたらす明るい未来など、楽観的な夢想に過ぎない、と嗤う。人間は他の動物と同じく、根本的に愚昧で、一人では何をしたらいいかわからず、無理にやればろくでもないことをしでかすしかない存在だ。それを救うには人々を一定の方向に向かわせる権威・権力がなければならぬ。それが有効に機能するためには、従わない者に容赦なく刑罰を、極刑なら死刑を、遅疑なく与えねばならない。この厳格さこそ、権威・権力を根拠づける。根拠のついた権威・権力に心から屈従し、すべてを捧げ尽くして、例えば司令官の命令一下、命を投げ出して敵勢に突撃する兵士の姿ほど、「人間的」に美しいものがあるだろうか……。

 というわけで、この世で最も大事なのは強力な権威なのである。権威は即正しいのであって、権威の正しさ・なんのための権威か、などというものを求めるのが間違いの元。正当化のうまい理屈が見つかるものなら、それは不当だとする理屈だって必ず見つかるのだから。

 この理想(に、違いない)が近い形で実現されたのは、中世のキリスト教会による異端審問(魔女狩り、など)だろう。実際この考えは、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」中の挿話に出てくる大審問官のものによく似ている。

 フランス革命時だと、ドメさんなどを単なる反動だとみなしていた革命家達、特にジャコバン派によって行われたいわゆる恐怖政治がとても近い。自由と平等という革命の理想を成就するために、多少とも反革命的な、疑わしいだけの者でも、片っ端からギロチンで首を刎ねるという。【因みにギロチンは、フランス革命から使われるようになった、絞首刑よりは死刑囚の苦痛を軽減できる「人道的」な装置である。】

 最も熾烈な歴史の転換点であった1793年(ヴィクトル・ユゴーの小説の題名になっている)、ジロンド派のロラン夫人は、死の直前、断頭台付近の自由の女神像に、「おお、自由よ、汝の名においてなんと多くの犯罪が犯されたことよ!」と呼びかけたと言われる。

 これ以前の自由を重んじた啓蒙思想家たちが思いも及ばなかったこの事態はなぜ起きたか。ドメさんが指摘した通り、「ために」があったところは大きいだろう。処刑していた側の人間が「自由と平等のために」に反していたとみなされると、同じ目に合ってしまう。殺戮回路の進行を止める手段は容易に見つからなかった。これは今なお重い課題として我々に突きつけられている。

 話をドメさん自身にもどすと、正式な名前はジョゼフ・マリー・ド・メストル伯爵。1753年、サルデーニャ王国領サヴォワ公国(現在はフランス領)のシャンベリに生まれた。若い頃はむしろ自由主義的な傾向が強かったと言われている。革命前の5年間サヴォワの元老院議員を務め、1792年、シャンベリが革命軍に侵攻されてからは、亡命者としてローザンヌやヴェネチアに滞在し、最終的にはカリアリの、サルデーニャ王国の宮廷に仕えた。1802年には王の公使としてロシアに派遣されて、この国で15年間過ごすうちに、主著「サンクト・ペテルブルク夜話」を書き上げている。

 レフ・トルストイ「戦争と平和」の最初のほうにちょっと出てくる、フランスからの亡命貴族のモデルがドメさんだということはバーリンのおかげで今回初めて知った。彼は優雅で人当たりがよく、話もうまいので、当時のロシアの首都サンクト・ペテルブルクの社交界で花形になったとある。そういう人こそ、上述のような冷厳な世界観を抱くのに相応しい、とすぐに納得できるのは、私がそれとはおよそ正反対の人柄だからでしょうかね?

【トルストイはドメさんの死後7年経った1828年の生まれだが、歴史的大作を書くために、当時のドメさんの手紙や記録を資料の一部として活用したものらしい。】

 ドメさんはもちろんサルデーニャ王の忠実な家臣であり、それだけにまた、ロシアの、アレクサンドルⅠ世に楯突こうなどとは思いもよらなかったろう。当時はそれで矛盾はなかった。この王国は1853年からのクリミア戦争ではオスマン帝国側について出兵し、ロシアと戦い、フランスやイギリスの歓心を買って、そのおかげもあって1861年からはイタリア全土の王となる。それはもちろんドメさんが知るはずもない話。

 直接関係したことだと、ドメさんは敬虔なカトリック教徒で、ロシアはギリシャ正教の国だ。そこで、革命を逃れてフランスから亡命してきたイエズス会の修道士を庇護する活動に従事し、また、彼の影響で何人かの有力貴族がカトリックに改宗した。これが正教会を怒らせたからだろう、1817年にアレクサンドルⅠ世から突然退去を命じられて、ロシアを後にせざるを得なくなった。

 キリスト教はもちろん、ヨーロッパの精神界では大権威である。ドメさんがそれを疑うなんて、あるはずもなかった。しかし、集団が大きくなって時間も経つと、ほとんど自然に、内部にいくつかの小権威ができてしまう。そのうちどれがより正しいか、なんて考えることは、ドメさんの思想からは出てこない。いや、はっきり禁じている。すると、当人の主観(つもり)には関わらず、どちらかへの忠誠が、どちらかへの反逆になることがある。その場合、彼は、忠誠を讃えられるべきか、反逆を咎められるべきか、結局どちらが勝ったかで決まるしかない。これは無論、国家などの、権威ある他の集団でも、現実によくあることだ。

 つまり、権威と忠誠という原理だけでこの世を治めようとしても、原理の内部に解決不能な問題が出てきてしまう。人間及び人間世界とは、そのように面倒なものなのである。

Ⅱ 理性が神様だ、崇めよ

 次に啓蒙が価値とする理性や自由それ自体を権威としようとした試みについて述べよう。

 1793年6月、フランス革命政府指導層の一部であるモンタニャール(山岳派)は、パリの急進的なサン・キュロット(下層階級。貴族の象徴だった半ズボン=キュロットがない、を意味する呼称)を蜂起させて、穏健派のジロンド派を国民公会から逐うことに成功し、10月には王妃マリー・アントワネットを断頭台に送った(夫のルイ16世はこの年の1月に処刑されている)。いわゆる恐怖政治を主導したことで知られるこの派の内部はかなり複雑なのだが、中でジャーナリスト出身のジャック・ルネ・エベールを中心とした一派が「理性の祭典」を企画執行している。

 これは要するに、古い因習の中枢たるカトリックを廃して理性を最高存在として崇めようとする新式の宗教、いや宗教もどきの儀式だった。フランス中の教会の祭壇が理性を祀るものに変えられ、カトリックを棄教した司祭や神父も少なくなかった。

 最大の祭典はこの年の11月、パリのノートルダム寺院において、エベールと一味のアントワーヌ・フランソワ・モモロ(革命のモットー「自由、平等、博愛、しからずんば死」の考案者として知られる)の監督で執り行われた。中央に神殿が築かれ、その中には薄衣を纏った理性を象徴する女神がいて、ローマ風の衣装に、後にフランス国旗の意匠となるトリコロールのサッシュを巻いた娘たちが花を投げ入れる。挑発的な格好の女神に扮したのはモモロの妻で女優のソフィーだった。会衆は革命詩人アンドレ・マリー・シェニエの頌歌を歌う。「来たれ、聖なる自由よ。この寺院に宿り、フランス人民の女神となれ」。その後山車に乗った女神が街を練り歩いた。

 真面目な催しだったのだろうか? 主宰者や参加者の真意までは理解できないが、キリスト教の寺院で、人間の属性である理性や人間の状態である自由を神聖化して拝むという発想自体が、パロディ以外の何物でもない。これによって、宗教的な儀式全般、ひいては宗教そのものを貶めようとする意図だったとすれば、なかなかのもの……でもないか。

【因みにパリ2024オリンピック開会式の悪趣味なパフォーマンスに、これの遠い残響が聞こえるように感じたのは、もちろん私の主観だが、SNSを見たら他にもけっこういる。】

 理性や自由を嘲笑うつもりはないことだけは明らかであろう。それらは神聖ではないとしても、たいそう魅力的なものである。そうでなければならない。美しい女性の肢体のように。そういえばウジェーヌ・ドラクロワ描くところの、民衆を導く自由の女神も胸をはだけている。これをイヤらしい目で見るのは違うだろうが、それでも、理性の働きには直接関係ないのは確かだ。理性で、それだけで、多くの人々を動かすことはどうしてもできないのである。

 やがてモンタニャールの中でも最も過激な、マクシミリヤン・ロベスピエール(以下「ロベさん」と略称する)率いる前述のジャコバン派が国民公会と革命裁判所の実権を握ると、エベールやモモロをも片っ端から断頭台に送った。

 艶福家であり、軍に自分の新聞を定期購読させて一財産築いていたエベールと違って、ロベさんはたいへん身辺のきれいな堅物だった。そういう人物が自由や平等などの理念に取り憑かれ、権力を握ってそれを社会で貫徹しようとしたら、最も恐るべき圧制者になるのではないかと思うが、エベール派の粛正は、それより宗教的な理由のほうが大きかったようだ。

 ロベさんは旧来のカトリック教会は認めない。しかし、無神論を好ましく思っていたわけでもなかった。「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と、実際に言ったかどうかはわからないが、国民道徳の涵養と確立ためには、理性だけでなく、何かしら人間を超えた存在への感覚が必要だと、そこはけっこう理性的(でしょう?)に、考えていた。

 政敵を葬る仕事が完了した後の1794年6月、理性の祭典に代って「最高存在の祭典」が挙行された。その最高存在とは何か、よくわからない。わかる必要も認めなかったようだ。このへんも、ロベさんとドメさんはよく似ている。

 祭典の日にはロベさんを先頭に、薔薇の花を持った女たちと柏の枝を持った男たちがパリの街を行進した。途中ロベさんの演説があったが、何しろ拡声器もなかった時代に、広い場所で大群衆に向かって語るのだから、内容は、「我々は今後も暴君と戦う」ぐらいが切れ切れに聞こえてくるぐらいだった。

 そして、直前に法が改正、いや改悪されて、革命裁判所がほとんど手続きなしで被告に判決を下し、また直ちに刑が執行できるようになっていた。人々の間に、ロベさんこそ暴君になろうとしているのではないか、という疑いが生じ、急速に広がった。

 この二ヶ月後、上の法律に基づいてロベさん自身が断頭台に送られた。その僅か3日前、現在ではウンベルト・ジョルダーノ作曲のオペラ「アンドレア・シェニエ」の主人公のモデルとして知られているシェニエが刑死している。彼はエベール派ではなく、ダントン派など他のロベさんの敵対勢力とも関係なかったが、以前新聞にロベさんの批判文を書いたことがあり、それが祟ったのではないかという話もある。

Ⅲ 戦争が近代を作った

 結局のところ、大勢の人を動かし、社会を変えるのはいつでも理性より感情であるわけだが、大勢の感情を一つにまとめるためにはある種の理念が必要になる。ただその場合でも理屈だけではなく、たとえ無理矢理でも、イメージと結びつけたほうがよい、と考えられている。かくて、自由と理性のシンボルにセクシーな女性が使われたりする。「あらゆる人間の窮極的目的」である非常に広遠たる、そのぶん抽象的な理念は、そうなりがちだ。

 そこからしても、啓蒙思想のもたらすものはひどく空漠たる観念にも見える。ドメさんはそれを、次のように皮肉っている。

1795年の憲法【フランスで、前年の恐怖政治崩壊後の政治を収拾するために制定されたもので、際立った権力分立が特徴】は、先行の諸憲法とまったく同じように、人間のためにつくられた。ところが人間というようなものはこの世に存在しない。私はこれまで生きてきた間にフランス人、イタリア人、ロシア人などを見たことがある。モンテスキューのおかげでペルシャ人ということもあり得ると知っている。だが人間について言えば、はっきり言って私は生まれてこのかたまだ出会ったことがない。

 何人(なにじん)でもない、国や民族とは全く関わらない抽象的な「人間」など存在しない、というわけだ。まあそうだな、と一応は思える。

 が、ここは突っ込むことが可能だ。フランス人、イタリア人、ロシア人、ペルシャ人、それから、ドメさんは殆ど知らなかったろうが、日本人というようなものは存在するのか? 私は亀吉とか保男とか愛子とかいう名前の人に会ったことはある。手塚治虫の漫画「グリンゴ」(スペイン語で「よそ者」の意味)に日本人(ひのもとひとし)という男は出てくるが、日本人(にほんじん)は、私は見たことも会ったこともない。

 要するに、言葉とは、どのみち、個々の具体的な事物を抽象した観念に付けられる名辞である。それでも、「人間」よりは「日本人」のほうが具体的な存在のように思えるのは、「果物」よりは「りんご」がそうであるように、より狭い範囲のものを指すから、だけではなく、観念Aは、非Aすなわち「観念Aではないもの」との対比によってイメージが明瞭になるからだ。

 「人間」の対比物を考えると、神とか、他の生物ということになると思うが、どちらもあまりに遠く、比較なんて無意味だと感じられるだろう。これが日本人だと、アメリカ人、チャイナ人、ベトナム人など、同じ生物種に属していることは明らかだが、同時に身体的特徴や文化・習慣、何よりも言語が全く違う存在がいることも、実際には会っていなくても、TVなどですぐにわかる。すると、「そうではないもの」としての、「日本人」もまた、私やあなたみたいに実在する存在であるように思われがちなのである。

 そのうえ、革命期のフランスは、「フランス人」であることの必要性がかつてなく高まった。言うまでもなく、対外戦争のために。

 中世ヨーロッパでは、戦争は王侯貴族とその従僕たち、あるいは戦争のプロ即ち傭兵がやるものだった。フランス革命は、何しろ自由・平等を目指すんだから、旧上流階級の特権を奪うことは当然である。戦争もまた特権の一つだ。だから、今後はその担い手は庶民からcitoyen(市民と訳されるが、公民、のほうが適当)に観念上立場が上昇した者たちの担うものになった。

 ここに、観念は観念でも、自由や平等より量的にも質的にもはるかに多くの感情をひきつけるもの、ナショナリズム即ち国民が生まれる。それは革命以上に戦争を通じて人々の中に根を下ろし、これを土台にして近代国民国家、そして民主主義も築かれた。本稿の最後に、その最初期の様相をみておこう。

 1792年4月、フランス立法議会は、革命が自国へ飛び火することを恐れて干渉してくる諸外国のうち、まずオーストリアに宣戦布告した。しかし当時はまだ君主の拒否権を有する仏王がいて、その妃の実家はオーストリアである。その後告発されたように、内通していたというのはどの程度にだったにもせよ、こちらが負けた方が王政復古のためにはつごうがいいぐらいには考えていたろう。そして仏軍にも、特に上層部は、貴族や王党派が多く、まともに戦う気はなかった。

 かくしてフランスの敗北が続く中で、同年7月、「祖国は危機にあり」という公民たちへの呼びかけが全国に布告された。「最も大切なものを守るために最初に行進する名誉を得る人々は、自分たちがフランス人であり、自由人であることを常に銘記しよう」と。これに応じて集まった義勇兵(志願兵、「連盟兵」と呼ばれた)のうち、マルセイユ部隊の若い大尉が作った歌が後に「ラ・マルセイユーズ」と呼ばれ、フランス国歌となった。ここでは「祖国への神聖な愛」と「貴重な自由」とは同列、というよりはほぼ同一として扱われ、そのために命懸けで戦うことが力強く謳われている。

 その後そのマルセイユ軍を先頭にしたサン・キュロットの群衆が王のいるテュイルリー宮殿を襲撃して、王権は停止、ジロンド派も政権を退いた。9月21日、普通選挙(男性のみ)によって選出された国民公会が発足し、翌日フランス第一共和政が正式に成立した。

 1793年2月、革命戦争がヨーロッパ中に拡大したことに応じて、兵員の増強と確保のための三十万募兵の法律ができ、8月23日には国民総徴兵法が成立。18~25歳の男子に兵役の義務を課した。ただし、独身男性に限られた。それにこの時の徴兵の眼目は、あくまでさしせまった外国に対抗する臨時的なものだと考えられていた。

 本当の意味で近代軍制の始まりは、1798年9月に成立したジュールダン・デルブレル法(法案の起草に携わった二人の将軍の名からつけられた)。第一条に「フランス人男子はすべて兵士であり、祖国の防衛に就く義務を負う」と謳い、まず20歳か25歳までの男が集められて、訓練を受けた。それが終わっても召集されたら直ちに応じなければならず、例外は認められない。兵役を逃れた者は、公民権も財産の相続権も失い、国内を移動する自由さえない。

 この制度の権力側から見た最大の長所は、何しろ国民の成人男性すべてを自由に駆り出せるので、兵員の補充がそれまでの感覚からしたら無限に利くところにある。一方徴兵される側からしたら、特に農家など、一家の主要な働き手が奪われるのだから、当初はヴァンデーの叛乱などの反対運動も起きた。しかし、二年もせずに鎮圧された。これは明治時代初期の日本で起きたこととほぼ同じで、近代国家の強力さの証である

 やがてナポレオンが兵役の対象を二十歳未満にまで引き下げ、ヨーロッパ制覇を目指して戦線を拡大するに及んで、対手側も同じような軍制を敷くようになった。ここに及んで戦争は大規模な全体戦争・国歌総力戦となり、兵器の発達(もちろん近代科学がもたらしたものだ)と相俟って、抜き差しならない苛烈なものになった。

 面白いことに、冷徹な支配こそよしとしたはずのドメさんが、このような傾向には眉を顰めている。これまでの戦争は「兵士と兵士だけが戦った」ものであり、「ある国民が別のある国民を打ち負かすということは、まったくなかった」のである。もっとも紀元前149年の第三次ポエニ戦争では、勝者ローマは敗者カルタゴの住民のうち九割を殺し、残り一割は奴隷にしたという話もあり、この教養豊かな外交官にして忘れていたか等閑視した可能性はある。

 ともかく、1800年前後のヨーロッパの貴族にとって、この時期に現出した戦争は常識外れであり、共和政体が、知られている限りの如何なる王国より大きな犠牲を国民に強いたのは、驚きの他はなかった(因みに、ポエニ戦争時のローマも共和制だった)。

 では、共和政フランスが追求したはずの自由と平等はどこへ行ったのだろう? 消えてしまったのか。とんでもない、ちゃんと実現していたのである。

 まず自由。せっかく革命によって獲得した公民の自由を奪おうとする者は、確実に、国の内外に、存在する。向こうが武力を使ってくる限り、こちらも武力で対抗するしかない。自由を守るために。その戦いから逃げ出す自由は認められない。当然ではないか!

 平等は? 軍隊内部の位階秩序は厳としてあるが、むしろその結果それ以外の出身階層や貧富の差などは無視される。これはこの上なく実際的な要請である。指揮官の号令のもと、すべての兵士が一体となって動かなければ、近代的軍隊の体を成さず、戦争に勝つことはできないのだから。

 以上は近代のアイロニーと言ってよい。それでも、現代まで続く悲惨な戦争は、近代思想が生み出した鬼っ子ではない。恐怖政治はあるいはそうかも知れないが、戦争は正系の子だ。そう銘記すべきである。

 それだから、廃絶はすぐにはできないが、少しずつ凶暴さを減らす方向にもっていくためにこそ、我々はできるだけ合理性を、合理だけでは人は動かないことまで勘定に入れた合理精神を発揮すべきなのだろう。平凡な私にはそんなことしか言えない。

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福田恆存に関するいくつかの疑問 13(保守とは何でないか)

2025年05月17日 | 文学

浜崎洋介編/福田恆存『保守とは何か』(文春学藝ライブラリー平成25年)

 

 近頃主にSNS上で、「保守とは何か」をめぐる話題を散見するようになった。「あれは本当の保守ではない」とか。面白い現象だ。私の若い頃なら、「保守」がブランドになるなんて考えられなかった。少なくとも学生の間では、「あいつは保守派だor保守的だ」と言えば、「あいつはバカだor悪人だ」と同意だったのだ。

 一応自分のことを言うと、保守ということは特に意識しなかったが、反左翼だった。臍曲りだったんで。それで、同じく臍曲りで有名な福田恆存のファンになった。それだけの話だが、「保守とは何か」について、保守派の一部には神様扱いされているという福田に即して、少し考えてみたくなった。

 私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者だとは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきでないと思ふからだ。(「私の保守主義観」初出は『読書人』昭和34年6月19日)

 ここはもっと強めて言えると思う。保守主義なんてものは本来ない。保守は主義(principle)ではないし、なり得ない。

 他の主義を考えると、自由主義は自由を、平等主義は平等を、平和主義は平和を、一番大事だと思っているのだろう。それから、共産主義とは平等主義をより具体的にして、そのための、共産党による独裁体制こそ、人々が完全に平等な理想状態に到達するまでは、唯一正しい道だ、と考えることだし、日本主義、と時々言われるのは、(その人が思っている)日本的なものがいいんだ、とする思想態度のことだろう。

 保守と言った場合、何を保ち守るのか、その意味で何を一番大事だと思っているのか、判然としない(だからまずこの点で、「お前は保守ではない」と言い争う余地が生じる)。もっともそれは「革新主義、または改革主義」にも言えるわけだが、それはしばらく措いて。

 実際上の問題になるのは、例えば自由なら自由というか原則(やはりprincipleだね)は大切だ、と漠然とでも思っている人が、「あれ、これはその原則に反しているのでは?」と思った時。では、そこを正すために何かしよう、と言ったり行動したりすると、その人は自由主義者と呼ばれ得る者になる。

 今漠然とでも、と言ったが、普通に日常生活を過ごしている分には、人はあまりそういうことを考えないものだ。ある種の危機、というか、現実の何かを「正しくない」「よくない」と感じたときに、あるprincipleが大事だと感じられる。

 もとより、自由や平等や平和は大事である。それが失われている状態は、不正であり不善であると言うしかない。正さねばならぬ。社会の一部だけではなく、全体にわたってそうなら、社会全体の変革が必要になる。そう信じて、同じ信念(こころざし)の者が集まり、変革のための社会運動を始めると、自他共に認めるくっきりとした主義者の出現となる。

 そんな彼らにとって、変革そのものが価値あるものなので、福田の文中にあった「改革主義」というのも、そんなに違和感がなくなる。それに対して「保守主義」なんてものを立てようとするな、と彼は言ったわけだが、その深意の一部は以下であろうと思う。

 「~主義」全般の危険なところは、「理念先行型」になりがちなところである。自由・平等・平和、などの理念はよいことに違いない。しかしそれをあらゆる時に、あらゆる場所で、完全に実現しようとするにしては、現実は、というか人間は、あまりに種々雑多でいい加減でありすぎる。

 正しいだけでは生きられないのだ。

 それを、理念が不徹底なのだから、やはり不正・不善であるとして、どこまでも変革を迫るなら(「総括」とかね)、必ず現実の人間に犠牲を強いるものとなる。具体例は、歴史上の革命(最大級の変革)や革命運動の中にたくさん見つけることができる。

 そして実際のところ、理念が完全な状態でこの世に実現することなどあり得ないのだから、この態度はついには人間を滅ぼすものになるだろう。

 そこで保守というのは、政治的には、現にある人間を第一に考え、急激で徹底した変革には反対するところにその神髄がある。けっこう、いい加減に見える、だけではなくて、実際にいい加減なところが当然ある。従って、これだけでもこの世はやっていけない。過ぎたるは猶及ばざるが如し、である。

 ここでは政治を離れて、より根源的な問題を考えたい。

 この国で保守というと、日本の伝統や文化を大切にして、守る、という言葉がよくついてくる。それは具体的にはどういう意味なのか、少し深掘りしてみよう。

 文化とは何か。T.S.エリオット「文化の定義のための覚書き」によると、文化の中心核とは、人間の生き方そのものであり、「これが英国の/日本の文化です」と取り出して見せられるようなものでは本来ない。そんなことをしたそれは、客観物として自分から切り離すことになってしまうから。「目的として示しえぬもの、意識的に追求しえぬもの、合理的に説明しえぬもの」(後出「伝統にたいする心構」から引用)が文化なのだ。

 福田恆存の、文章ではなく、直に聴いた言葉(講演中だったか、座談だったかは忘れた)として最も感銘深かったのは、

「私が自分を日本人だと一番感じるのは、外国で英語がうまく通じなかった時だ」

というものだ。

 それから、最近物故した鈴木邦男さんがいくつかの対談で次のような思い出を語っている。学生時分に民族派の運動に加わって、何人かの保守派とされる学者や言論人と面会し、「これからは日本主義でいきます」と言うと、皆、「若いのに感心だ」などと褒めてくれたが、というよりお世辞を言ってくれたが、福田恆存だけは違っていた。

「日本主義なんて言うけど、君たちは畳に座るより椅子に座ったほうがカンファタブルなんだろう? 徒歩の旅行より新幹線のほうがカンファタブルなんだろう?」(前の座談中の言葉同様、記憶で引用)

 鈴木さんは既に大家であった福田が、自分たちのような学生を、あしらうのではなく、真剣に相手してくれたことに感謝している。確かに、このような、大人げなくも野暮にも見える生真面目さは福田の身上の一部であったと言えそうだ。

 それはともかく、ここで福田は、「日本的」なるものを「日本的だから」という理由で重要視しようとする、つまり、「主義」の如くしようとすることに疑問を呈している。

 本人は、平屋で畳敷きのお宅(もとは「生きてゐる小平次」の劇作家・鈴木泉三郎の実家だったものが後に旅館になったのを福田が買ったらしい、と鈴木のお孫さんにうかがったことがあるが、福田はそもそも鈴木の名前も知らなかった)に住み、そのお宅では和服で過ごされ、書道については書家としても一家を成せるほどのお腕前で、それから、こちらはあまりお上手ではなかったという証言もあるが、ずっと弓を嗜んでおられた。つまり、とても日本的な暮らしぶりだったのだが、日本人であることに過度に意識的になりたくはない、ということである。

 「日本文化の再評価」については「伝統にたいする心構」(初出は昭和35年9月新潮社『日本文化研究』第八巻、全集五巻所収、以下「心構」と略称する)でこう言われている。

 一つは必ず江戸時代以前の過去に対する回顧の形をとること、もう一つは西洋の文明にたいして日本の文化を、ことに美術や文学の価値を強調すること(中略)言ふまでもなく、日本も捨てたものではないといふのがその結論になります。つまり、関心は優劣にあり、西洋との背くらべにあるのです。が、背くらべを思ひつくといふことそれ自体が劣等感、およびそれからくる自意識過剰の現われではないか。

(中略)

 回顧の形をとるといふのは、自分の外にあるものとしてとらへるといふことです。それは、本質的には自分のものではないもの、自分にとつて失はれたものだからです。

 文化という、人間の生き方に直結するものと、文明という外部的なものを比較するのはおかしいし、「日本的」と言っても、過去から探し出してこなければならないものだったら意味ないじゃないか、というわけだ。現在の自分の中に生きているのでなければ、本当の文化とは言えなくなるから。

【こういうことについての、「国粋主義者」だった三島由紀夫との争論については、以前にここ書きましたので、ご覧下さい。】

 ただ、しかしそれでは「過去」はどうでもいいのか、となると、そういうわけでもない。ここがひどく微妙で、正直、面倒なところだ。

 それにつけてもやはりはっきりさせておくべきだろう。福田恆存は「保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである」などとは言っていない。これは昨年物故した福田和也の遺著の表題なのだが、彼が福田恆存についていいかげんなことを言うのはこれで二度目である。

 「心構」中にあるのは以下のエピソードだ。

 大空襲の被害にあった後の、東京下町に、焼け残った一画があり、そこのみすぼらしいそば屋の建物に深い愛着を覚えた。その時は、法隆寺や桂離宮のような立派な「文化財」よりも、そのそば屋が失われるほうがさみしく感じられたろう、と。

 それはこういうわけだろう、と福田は自ら分析して語る。そば屋の家屋は自分自身の生活の延長線上にある。たとえその場所へ行くのが初めてで、従ってその店を以前に見たことがなかったとしても、そこには自分と同質の「生活」があることはただちに実感できる。それが失われると言うことは、自己の一部が失われることと同等だ。

 しかし話はこれで終わらない。「心構」が発表された昭和35年頃、福田は年に一度か二度は京都や奈良を訪れてそこの自然や風物に接し、神社仏閣を見て廻らねば気が済まないようになっている、と言う。その気分は、以前のそば屋と同様、ある種の喪失感、より正確には喪失の予感からきているらしい。

 この場合、失われるのは神社仏閣のほうではない。法隆寺や桂離宮は、公的機関に保護されている。もっとも、それを取り巻く光景は変わるので、完全に同一というわけにはいかないが【いやそれ以前に、飛鳥時代に建立された寺が、今も当初と同じ木材でできあがっているわけはない、などの問題はこの際度外視します】、それでも街角のお店よりは長い年月を越えて屹立している。今後も、一個人の身の丈と比べたら永遠と言ってもよい時の果てにも、今と変わらぬ姿を見せているのだろう、と予想される。

 変化は、人間の、心中に起きる。昭和30年代の日本は高度経済成長期まっただ中で、特に東京は目覚ましい発展を遂げたのだが、それはまた、古くから人々の意識の底に根付いていた生活の「型」が失われていく時代でもあった。ふと気がつくと自分は、時間的にも空間的にも奥行きのない存在になっていた。そこからくる不安が、過去の風物を、自分の外側にある美としてではなく、身内の文化として再発見させたのだろう、と。

 そもそも、どのように洗練された文化財だろうと、その時代の美意識と技能の粋を集めて作られたに違いないのだし、それらはまた、その時代の生活と無関係に存在しているわけはない。そして、生活様式は時の流れとともに変わるにしても、不変な部分はある。

 というか、我々は大人になれば過去として回顧される一時期に成長して人となるので、「そんな古いやり方や考え方はいらない」などと言うことはあるが、そう言う「自分」もまた、過去の産物なのである。第一そうでなければ、言葉はどのような他者にも伝わらないから、もはや言葉ではなくなっしまう道理だ。

 ここをもう少し掘り下げる前に、ふと心に浮かんだ思いつきを少し書きつけます。

 自分がどんな文化の中で生きているかの気づきは、あちら側(建造物、など客観物)かこちら側(人間の心、主観)のどちらかが、喪失の危機にあると感じられるときであるときに訪れやすいのは、我々の感性の、決して日本独自だとは思わないが、この国では文芸上にもよく現れる(「もののあはれ」など)一部をよく伝えていると思う。

 ある同質の時や場所を共にしたことから生じる「馴染み」の感覚こそ、文化や伝統の重要な部分であることは、浜崎洋介氏の夙に指摘するところではあるが、その馴染み、言い換えるとある人や事物への愛着は、その関係がいつかは失われるという悲哀と諦念(無常観)を一方で抱えているものだろう。

 先述の福田和也が「過ぎ去るものへの哀惜の念を基調とするがゆえに、保守は敗北を宿命づけられている」とどこかに書いていたのは、印象深くて(わかっているのに、なんで? という思いもあって)、覚えている。敗北、と名付けていいかどうかには少し疑問が残るけれど、このような「敗北」を生きることは、人間の基本的な条件の一部であろう。上に述べたようなわけで、人は精神異常でない限り、必ず幾分かは保守的なのである。

 一応結論めいたことを言いますと。

 上で「時の流れとともに変わるにしても、不変な部分はある」と書いた。不易と流行、という言葉は昔からある。しかしよくよく考えると、これはけっこう複雑なことではないだろうか。【時間意識と「私」の関係は以前にここに書きましたので、御参照下さい。】

 我々が目にする世界は刻々と生々流転する。それが「時間」という観念の中身である。しかし、本当にすべてが一変するものなら、「変わった」という認識自体が生じないはずではないか。何かしらは持続している、という意識があるから、そこからみた変化もわかり、またその変化を一連のストーリーとして捉えられるのだ。ここに、他の動物にはない、少なくともごく稀薄な、「人間的なもの」≒文化すべての起源がある。

 そこで起きていることをもう少し細かく分析すると、

①この過程は広義の(1分1秒前であっても)過去を広義の(イメージを含む)言葉によって捉えようとする心の運動である。このストーリー中に、失われていくものへの悲哀や、やがて来るものへの期待や不安の感情が籠もる。

②それ自体が変化していく他(人以外も含む)との関わりがなければ、いかなるストーリーも生じない。そこでそれは他者ともある程度は共有可能なものとなるので、人は正気を保って生きていける(一貫したストーリーがある人生を過ごせる)。

 後の方の、共有可能なストーリーの型は、時と場所に応じていくつかの種類に分類できる。これが通常、日本文化とか室町文化などなどと名付けられる「~文化」である。

 つまり、人はいかにも過去や、外界の環境などによって形作られると言ってよい。しかしその形成された個人としての「私」が思惟し行為するところにしか、生きものとしての文化は現れようがない。

 こうしてみると、今生きている「私」こそが、良きにつけ悪しきにつけ、文化の精髄、と言ってよいようだ。もちろんそれは、繰り返すが、人とそれ以外を含めた他者との関わりから生まれ、その関係性を担う存在としての「私」である。

 福田恆存と三島由紀夫の対談「文武両道と死の哲学」(『論争ジャーナル』昭和42年11月号。先に挙げたブログ中で論じた『現代日本人の思想』での、福田・三島の争論の2ヶ月前になる)で、三島は「「文化を守る」といふことは、「おれを守る」といふことだよ」と言っている。福田は「さう、おれが文化だもの」とそれに賛成しながら、以下のように付け加えることを忘れなかった。

いま言つたとほり、文化を守るといふのは自分を守るといふことだといふのはね、多少とも文化が自分の中に浸み込んでゐるからなんで、さうでなければ、自分を守るといふのはただ自分の生命を守るといふことだけになつちやふんだ。

 我々が保持し、できれば後代にも伝えていきたいものは、愛国心や公共精神などより以前に、過去と現在(この二つは実は同じもの。人が「現在は~」と言った次の瞬間にその現在は過去になっているのだから)の関係性の、ある一定の結果としての「自己」ではないだろうか。

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弱者男性という問題がある

2025年04月27日 | 近現代史

風流間唯人の女災対策的読書・第64回 ジェンダー大戦「男性差別」→「弱者男性」→「男性復権」

メインテキスト:赤木智弘『若者を見殺しにする国』(双風社平成19年。加筆訂正した朝日文庫平成23年) 

 J.D.ヴァンス/関根光宏・山田文訳『ヒルビリー・エレジー~アメリカの繁栄から取り残された白人たち~』(原著は2016年刊。光文社未来ライブラリー平成29年)

 

 私一個の都合でだいぶ遅れましたが、本年3月23日の言語哲学研究会の折、兵頭新児さんの発表で採り上げた「弱者男性」の問題について、私の見地からまとめておこうと思います。

 まずずいぶん昔の話のように感じられる、赤木智弘が思い出された。赤木はこの国で、最初ではないかも知れないが、最初のうちに「弱者男性」を術語として使った人物の一人だ。

 強者男性・弱者男性・強者女性・弱者女性、の四象限の中の一つで、安定した職や収入がなく、しかもその状態が改善される見込みもない、いわゆる社会的弱者としての男性、という意味である。

 彼のメジャーデビュー作「『丸山真男』をひっぱたきたい ー 三一歳フリーター。希望は、戦争。」は朝日新聞社が出していた月刊誌『論座』平成19(2007)年1月号に出た。

 それまでちょこちょこ文章を投稿していた赤木に編集者の一人が声をかけて実現したとのこと。一応は話題となり、「赤木問題」とまで言われたのだから、うまく当てた企画と言ってよい。

 ポイントの第一はもちろん戦争。大東亜戦争後日本の最高の国是は反戦平和である。これだけは公然と疑ってはならないはずだった。

 それが、戦争によって最も酷い目に合うはずの一般庶民、それも底辺と言える人が、日本を代表する論壇誌(それも左派の)の一つで、「希望だ」と言ってのけたのだ。

 左翼人士としては、実際はどれくらいの衝撃を受けたかはともかく、訊かれたら無関心に「知らねえよ」と言うわけにはいかないわけだ。

 赤木の主張は。

 かつての日本企業は高度成長期からバブル期まで、日本型とも呼ばれる終身雇用制度でやってきた。それも経済成長が目に見えて右肩上がりだったからで、それが鈍った結果、既に社会に出ている旧世代の既得権益としての生活の安全(できれば収入が年々上がること、最悪でも困窮を感じるほど下がらないこと)を守るために、以前ほどの稼ぎは期待できなくなった企業をスリム化することにした。

 具体的には、人件費を削るのが一番てっとり早い。しかし現社員は守られねばならない。勢い、新入社員を絞るので、結果としてその被害は若い世代に負わせることになる。

 かくして、1990年代半ばから就職氷河期を迎え、そのための応急措置として非正規雇用が促進された。昭和60(1985)年に成立した労働者派遣法が改正(改悪?)され、それまで特殊技能を要する少数業種に限られていた派遣対象を、逆に少数の業種以外は受け入れ可能としたのが平成11(1999)年、小渕内閣の時。

 これによって、赤木のように、高校を不登校で中退し、中卒の学歴しかない者が安定した正社員の職に就くことは絶望的になった。

 それはつまり、バブル経済を現出して崩壊させた旧世代の尻拭いをさせられている、ということではないか。それなのに、年長者たちは、「近頃の若者は、勤労意欲やら組織への忠誠心が足りない」だの、「指示待ちだ、ゆとりだ」のと、すべての責任をこちらに押しつけようとする。卑劣としか言いようがない、と。

 それでどうして戦争なのかというと、このような欺瞞的な社会構造を根本的に変える可能性があるからだ。

 大東亜戦争の最中、丸山真男は三十歳で召集され、二等兵として送られた平壌で旧制中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にいじめられたという。こういう際でなければ、丸山のような超エリートを最底辺の庶民がひっぱたくなどあり得ないことだ。

 持てる者にとってこそ戦争は最悪の厄災以外ではないが、持たざる者には希望があるかも知れない。後のほうは思い違いだとしても、失うものなどどうせ何もないのだ。

 このような赤木の言は、暴論ではあっても妄説ではない。平和で安定した時代には、先進国では富裕層と貧困層が交代することは原則として、ない。そしてその差は開く一方である。

 20世紀前半には変動が見られたが、それは二度の世界大戦に依る。戦争だけが、社会の富をめぐる競争をある程度初期状態に戻すことができると言ってよい。これがトマ・ピケティが膨大なデータを整理して『21世紀の資本』で実証したことである。

 赤木言説への左翼人士達の対応は、同じ『論座』4月号にまとめられた。

 だいたいは、戦争になれば赤木のような弱い立場の者が真っ先に犠牲になり、命を失うのに、そんなことも知らないとは、哀れなもんだ、というような調子だった。

 これに対する再反論。なるほど、そうかも知れない。しかし、今の平和が続いたところで、自分はバイトで月10万ぐらいしか稼げないし、今後この現状を変える方途も見つからない。今は実家にいるからなんとかなっているが、やがて親も死ねば、ホームレスになるか首をくくるしかない。

 それはこの世の誰も知らない、興味も持たれない死だ。ならば、戦争で死んで「名誉の戦死」とされたほうがまだましではないか、と。

 個人的に一番面白かったのは、「こんな世の中にした現体制に対して、一緒に戦いましょう」という福島みずほへの返しだ。

 戦うって、例えばデモ行進か。よろしい、日当をくれるなら、参加しよう。警官隊や右翼とぶつかった場合の危険手当と、交通費を含めて、一日一万円くれ、と。

 懐かしのフレーズ「同情するなら金をくれ!」が思い出される。いや、冗談ではない。バイトで日銭を稼いで生活している者にとって、政府への抗議活動のために何日か仕事を休むことは、死活問題に直結する。

 それは福島たち革新側も知らないわけはない。知っているからこその抗議行動なのだと言うだろう。しかし、それによって悪化する底辺の者たちの現在はどうする?

 そう訊かれても……だろう。もともと革新の目指すものは「未来」なのだ。「現在」のケアは現在の政府の仕事だ。

 これが、革新派が現政権になかなか勝てない理由なのである。現在が救われないのに、輝かしい未来なんてあるわけがない。だいたい、それが来る前に死んでしまうじゃないか!?

「いやいや、それは話がおかしい。今の政府がちゃんとしているなら、もともと、そんな『最底辺』は生じなかったはずじゃないか」とおっしゃいますか。

 まあ、その通りでしょう。しかしとりあえず現政府は、「現在」について責任があるとされ、だから非難もされる。

 「明日」を見ている反体制の革新には、そんな責任はない、感じていない。むしろ、社会全体の未来のために、個々人の現在は犠牲にするヒロイズムが暗黙の前提になっているようだ。だから「そう訊かれても……」なのだ。

 このように、自分たち弱者男性の現状を、誰もちゃんとは見ていない。それが問題の核心だ、と赤木は言う。

何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、世間がまったく理解してくれないことだ。

 空前の人手不足だと言われ、人材派遣会社自体に人が集まらないので次々と倒産している令和の現在でも、この無理解は構造としては続いている。それも、日本だけの話ではない。

 たとえば私の父は、懸命に働くことの価値をけっして否定するような人ではなかったが、それでも、生活を向上させるはっきりとした道のいくつかを信用していなかった。私がイェール大学のロースクールに進学すると知ったとき、父は私に、「黒人かリベラルのふりをしたのか」と言ったものだった。白人労働者の将来に対する期待値は、これほどまでに低いのである。こうした態度が広まっていることを考えれば、生活をよくするために働こうという人が少なくなっても、なんら不思議ではない。

 以上は現米国副大統領J.D.ヴァンスが32歳のときに出版した自伝の一節である。

 彼の家族は白人だがWASP(White Angro-Saxon Protestant。最も早く英国から移り住んだ人種で、ほぼ米国の支配階層と同義)ではなく、18世紀に東海岸の、カナダから米国に跨がるアパラチア山脈周辺に住み着いたアイルランド系移民の子孫で、彼自身はオハイオ州のラストベルト(錆びついた工業地帯)に属する町で育った。

 そこの白人男性たちの一般的な意識は、上の引用文のようなものだ。しかし、そこから脱出し、今時珍しくアメリカン・ドリームを実現したヴァンスは、赤木智弘と違って、それを外部のせいだけにはしない。

 彼の同輩達は確かに怠け者と呼ばれるに相応しかった。学校ではこつこつ勉強するなんて女々しいなんて思い込みが支配的で(日本の田舎でも、私の子ども時分にはそういう雰囲気があった)、仕事では簡単で比較的恵まれている職場でも長続きせず、人生のごく早い段階でセックスに耽り、時には麻薬に手を出す。うまく生活保護を受給できるようになると、自分や自分の生活を向上させるための一切の努力を放棄し、ますます自堕落な生活を送る。

 彼らに対する社会のケアが足りないのか、彼らのほうがケアに値しないのか、はそれこそ卵―鶏関係だ。確かに言えるのは、期待されないから努力しない←→努力しないから期待しない、の悪循環が果てしなく繰り替えされ、出口が見えないということである。

 そこでヴァンスの父の言葉だが、黒人やリベラルのほうが恵まれているかどうかは知らない。ただ、彼らは、他人や公的・半公的(NPOなど)機関に気にかけてもらえる度合いが高い。少なくともその思い込みはある。

 黒人、とは少し前の時代の、社会的少数者・弱者の象徴である。そこに現在、米国国内の少数民族、LGBTQ+、ハンディキャップ、そして女性、が急速に加わった。Diversity(多様性)の尊重の名の下に、彼らの救済を叫ぶのがリベラルの存在価値になっている。

 健康な白人男性への救済措置はない、それ以前に存在が認められていない。少なくともその思い込みはある。

 いや、実際より主観的な思い込みのほうが強いとしても、この分断は深刻だろう。差別というのは、黒人なら黒人が目の前にいて、そこで感情が動くことから始まる。目の前にいないなら、あるいはいても少しも感情が動かず、無視してしまえるなら、それは差別であると気づかれることもない。だから、問題視されることも、反省されることもない。

 例えば昨年の9月、人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」を模した民主党のイベントで、ゲストのメリル・ストリープがハリス(当時)副大統領に「ハリス大統領」と呼びかけ、そのあとわざとらしく「あっ、ごめんなさい」と続けたパフォーマンスは、会場を湧かせた。それを報じた日本のTVでも、大統領選でのハリスの優勢を伝えた。

 ただしあくまで東西海岸の知識層、大手メディア、ハリウッドのスターたち、などの間では、とは言われなかった。実際に気づいていなかったのだろう。

 一方大統領選挙後のネット上の記事CNN business11月6日は、ある大手TV局幹部の言葉として、「国民の半分がトランプが大統領になる資格があると決断したのなら、彼らはこのようなメディアは全然読んでいないということだ。そして我々はこのような視聴者を完全に失ったのだ」というのを伝えている。

 民主党の政治家も、彼らを支持する大手マスコミも、インフレや不法移民や行きすぎたポリコレに苦しむ一般民衆の姿を、ほとんど見ていなかった。だから彼らの報道には民衆は登場しない。

 民衆の側では、そんな報道は読まないし、見ないし、そこで立派なことを言うだけは言っている政治家を全く信用しない。それが米国のトランプ現象と呼ばれるものの底流にあり、またヨーロッパの、マスコミには「極右」などと呼ばれる保守勢力の台頭をももたらしたものだろう。

 もう言われ尽くしたことだが、カマラ・ハリス候補は女性でアフリカ系というだけで、ポリコレの目指すequality(平等)の象徴として相応しい人物だ。これに対して弱者男性の視点は、現在の国民意識の深い断絶を測る指標になりそうだ。

 どうして弱者男性が無視されがちなのか? 答えはもう出ているように感じられるのだが、どうですか?

 男は弱者であることが許されないからだ。「俺は弱者だ」なんぞと自認して、そういう観点から世間の注目やら同情やらを買おうとする男は、許しがたい裏切り者なのだ。

 つまり、男とは最も広い意味の外部からの脅威から、女・子どもを守るべき存在だ。あるいは、守るようなふりをして、女・子どもを圧迫し、支配しようとする存在だ。それ以外であっては困る。

 社会の多くの人が実際にそう思っているのか、そう思われているだろうと思う男が多いので自分の首を絞めているのか、などと考えるのは無駄である。それは卵鶏関係でもない、同じものの表裏の関係なのだから。

 社会的弱者の明確なしるしのない所謂普通の男は、苦境に陥ってもなかなかそうとは認めてもらえないし、自分の方でも認めてもらいたくない様子をしていることが多い。

 フェミニズムから派生した男性学は、そのような従来からの男女の役割分担、そこを言語化した「男らしさ・女らしさ」の規範は、女性のみならず、男性をも不自由で不幸にしているのだから、できるだけ軽減して、もっと個々別に「自分らしく」、自由に生きることを勧めている。

 しかしもちろん、そう簡単にはいかない。自分一人の生き方や考え方を変えるだけでなんとかなることではないからだ。他人にとって自分がどういう存在であるかが、決定的に大きい領域の話なのである。たぶんそんなことはフェミニストも百も承知で、自分たちの運動を進めるための便法として「男性にも理解を示す」だけなのだろう。

 例えば専業主夫の存在。

 政府の取り組みもあって、戦後一貫して女性の社会進出は進んだ。今は女性も、少なくとも一時期は働くのが当り前である。男女の賃金格差は依然としてあるが、それはマスコミで「是正されるべき」だという社会問題扱いされている。

 一方で金を稼がず、専ら家事に従事している専業主婦は、減っているとは言え、全世帯の三割ぐらいはいる。その役を男性が引き受けようとすると。

 赤木智弘は、著書『若者を見殺しにする国』の第二章を「私は主夫になりたい」とした。女性も働くのが当り前の世の中になっても、専業主婦の存在が許されているなら、専業主夫がいてもいいはずなのだ。しかし彼が調べた厚生年金第3号被保険者(会社員や公務員の配偶者として扶養されている人々)のうち、男性の割合は1%に過ぎなかった。

 因みに、厚労省が発表した令和5年度の資料から筆者が計算したところでは、この割合は1.9%になっていた。赤木の時代から15年ほど経て、倍増したわけだ。ここに人々の意識の変化が見られる……わけはないか。

 また因みに、著書『若者を見殺しにする国』で、赤木智弘は自分のウェッブサイト(ホームページか?)で自分を主夫として養ってくれる女性を募集したそうだ。女性からは非難と批判しか浴びなかったそうで、まあそうだろうな、とすぐに思えてしまうところが一番問題のような……いや、配偶者をネットで公募するのは、どちらにしろ非常識ではあるんだけどね。

 それでもまあ、尋常な婚活をしたところで、赤木のような弱者男性は、国と同様、女性も救ってはくれないことは確かなようである。

 と言うと、では女性は救われると言うのか? と詰問されそうだが、そこは我が国では傾向としてはっきりした相違が認められる。

 だいたい、働かなくても/働けなくても、専業主婦になる道はまだ残っている。結婚せず、生業にもつかずに「家事手伝い」で、四十代を過ぎてもずっと実家で暮らしている女性、ネットスラングで言う「こどおば」←「子ども部屋おばさん」は、「こどおじ」よりずっと多い。

 この状態の者に対する家人及び世間からの風当たりは、男性のほうがずっと強いからだ。

 などなどの結果、自殺者のうち男性の数は女性の二倍近くになり、男性ホームレスの割合は女性のざっと二〇倍近くにのぼるとも言われる。

 いやそれは、路上生活者になった場合、女性のほうが軽く二〇倍は危険な目に合う可能性が高いだろうから、そこに社会的なケアが働くのは当然だと言える。そのこと自体は。

 問題は、ここを進めて、男性対女性の構図を描き、それを強引に進める勢力があることだ。男性は加害者で女性は被害者、もっと言えば男性は悪。こう唱えるフェミニズムこそ、今日最も強力に男女差を際立たせ、両性の協力関係を妨げているのは見やすい事実である。

 ここのところを突っ込んで、「弱者男性はフェミが作ったのだ」などと論じているのが兵頭新児さんなので、これ以上の考察は冒頭に紹介したものを初めとする彼の動画シリーズ「風流間唯人の女災対策的読書」をご覧下さい。

 申し訳ない話ながら、私にはここでどういう解決策が有効かわかっていない、だけではなく、一般的な解決策なんてあるのかどうかもわからない。社会風潮は強力であるにしても、結局は個々の男女がどれくらい満足し、幸福になれるかが一番重要なのだから、その積み重ねで、言わば民主的に、世の中が動いていくことが一番いいのであろう。

 そのためにも、何しろ、弱者男性という「問題」が、現代社会にも存在する、目をそらすのはまずい。この理解をすすめるのが先決だ、というだけで、今はお許し願うしかありません。

【ロン・ハワード監督「ヒルビリー・エレジー」(1920)は、ヴァンスの原作を、ヤク中の母親中心に編集した脚本だからそう思えるわけなんでしょうけど、彼は少年期から青年期にかけてずっと女性に支えられてきていて、それだけでもラッキーだし、おかげで弱者男性にならなくてすんだのだな、自然に納得されます。肝っ玉母さんのおばあちゃん(演:「危険な情事」の不死身の女グレン・クローズ)に、聡明なお姉さんに、優しい秀才であるインド系の恋人。お母さん(演:「魔法にかけられて」のこちら側のお姫様エイミー・アダムス)だけが困りもののようですが、この人に可愛がられたり殺されかかったりしながらJ.D.の自我が形成されていったわけでして。その後彼女が薬物を絶って立ち直り、少なくともこの映画の発表時には健在だったっていうのは救いになります。】

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悲劇論ノート 第8回(神の不在証明による存在証明)

2025年03月11日 | 


福田恆存/村田元史演出「カクテル・パーティ」劇団昴公演 昭和56年 三百人劇場

 一昨年の9月に続き、今年の2月16日、日本演出者協会主催の「日本の戯曲研修セミナー」に招かれ、福田恆存「龍を撫でた男」について話をしました。この戯曲については以前に当ブログでも触れたことありましたがあらためて、正面から本格的に、となるとなかなか難解であることが実感されます。
 最初に、福田による「作者のことば」を挙げておきます。これはこの戯曲が発表された『演劇』昭和27年新年号に掲載されたもので、その後の自作解説に比べて、執筆直後の、一番素直な気持が出てゐるやうに感じられます。また、福田の各種の全集や評論集には未収録なやうですので、全文を示す価値があるでせう。

 この芝居にはじつは三つの下敷があります。それは三つの作品のシチュエイションをまねたといふことです。翻案とすべきかもしれませんが、それではわたくしの良心が許しません。あんまり種あかしをすると、作者のオリジナリティーを疑はれる心配があるので、こゝにはそのうち、いちばん罪の軽いやつを申しあげることにします。みなさんのうちにはエリオットの「カクテル・パーティー」の幕切をおぼえてゐるかたがあるかもしれませんが、わたくしは「龍を撫でた男」の第一幕をそこからはじめたらどうなるだらうかと思つて筆をとりました。もちろん、日本はクリスト教国ではありませんので、登場人物の性格や役割は当然ちがつてまゐります。わたくしはライリー卿とエドワードとを同一物(ママ)にしてしまひましたし、殉教者シーリアを喜劇化してしまひました。「カクテル・パーティー」の精神病医は落ちついたものですが、「龍を撫でた男」のそれは、最後に気が狂つてしまひます。どうも困つたことですが、やむをえませんでした。わたくしにはこれをまともな演劇の形式美にまで高める力がないよう(ママ)です。

 私はここで言はれてゐる「三つの下敷」にこだはつてみました。一つは「カクテル・パーティ」であることは作者本人が明らかにしてゐますが、あとの二つのうちの一つは、ルイジ・ピランデッロ「エンリーコ四世」(「ヘンリー四世」の名で、昭和42年、劇団雲によって上演された)ではないか、といふのが私の昔からの思ひ込みでした。
 それは本記事では触れません。発表のために、「龍を撫でた男」を通じて「カクテル・パーティ」を再読・再考して、前の記事にも書いた現代的な信仰の問題がここで深く追求されてゐることを納得できるやうに思ひました。これを土台として現代劇を作らうといふのは、宗教的感情=超越的なものに関する感覚が失はれてゐることを劇にする、といふことで、いはば裏側から悲劇を創造する試みと言へさうです。
 以下ではこの見地から「カクテル・パーティ」を分析し、さらにその問題意識を日本的に受け継がうとした「龍を撫でた男」についても少し考へます。

 T.S.エリオットの三幕の詩劇「カクテル・パーティ」(1949年初演)は典型的な家庭劇のやうだが、エウリピデス「アルケスティス」(B.C.438)から想を得た、といふ作者の言葉がある。前作「一族再会」は、アイスキュロス「オレステイア三部作」、特にその二作目の「供養する女たち」を踏まえて作られてゐることは、登場人物が突然ユニゾンで、コーラス(コロス)として詩の朗唱のやうなことをしたり、この世のものではない妖女エウメニデス(復讐の女神)の幻影を見る、などのキーポイントがあるが、「カクテル・パーティ」とエウリピデスの関係は、本人が言はなければ誰にも気づかれなかつたらう。

 「アルケスティス」の概要は以下。
 かつてアポロンはテッサリア地方ペライの領主アドメトスの世話になり、その恩返しのために、アドメトスの命に危険が迫つたとき、代りに死ぬ者がゐたら、助かるやうに取り扱ふ。その時が来て、アドメトスの老親は身代りを拒むが、まだ若い妻アルケスティスは受け入れる。そのときちようど訪問してゐた遠縁のヘラクレスが、事情を知つて、墓所に潜み、アルケスティスを連れに来た死神の使ひと格闘して撃退し、彼女を取り戻す。

 古代の劇らしく、大らかなものだ。ハッピーエンディングの悲劇。もつともこれはサチュロス劇(能楽の番組中の狂言みたいなもの)扱ひだつたらしいが、何しろ、劇とはこれでいいのではないかと思へてくる。
 見せ場はあるのだから。アルケスティスとアドメトス(と彼らの息子)の別れの愁嘆場。→アドメトスと、結果としてアルケスティスを死なせることにした父ペレスとの諍い。→ヘラクレスが助けたアルケスティスを、アドメトスは最初妻とはわからず、館に入れることを拒む取り違へのおかしみ、が最後に付け加わる。
 このうち特に真ん中の、アドメトス「あなたはもう充分に生きたのに、なぜ息子のために死んでくれないのだ」vs.ペレス「いくら生きても命は惜しい。他の者のために死ぬ気にはなれん」、といふ言ひ争ひは、現在読んでも非常に生彩がある。エウリピデスは討論の場面が得意で、恐らく理の勝つた人だつたのだらう。それでニーチェは彼を嫌ったのだが。それはともかく、観客は場面ごとの、俳優の所作や朗唱される詩句の美しさを愉しめばいいのであらう。
 しかし近代になると、観客の中でも、一部かも知れないが、全体の辻褄がどうたらかうたら言ひ出す人も出てくる。この話の発端は、アポロンがタナトス(死神)に頼み込んで交した約束事である。その変更には、なんらかのもつともらしい理屈付けがあつて然るべきではないか。ヘラクレスの武勇で、力尽くで破るとは、神たるアポロンに相応しい行ひとはとうてい思へない、云々かんぬん。
 もう少し文芸批評風に言ひ直すと、この作の中心であるはずの犠牲のテーマにきちんとした決着がつかず、無理矢理救はれて犠牲ではなくなるだけなので、肩透かしを食らはされたやうな気になるのだ。かういふものを今書けば、「お前はバカか?」と言はれかねないので、書けない。

 夫婦の和合と犠牲のテーマを並び立たせるためには、犠牲者は夫婦のどちらかであつてはならないのはもちろん、夫婦以外の誰かが彼らのために犠牲になるのもいけない。たとへ一見さう見えるとしても。
 すると結局どこかで肩透かしを食わせる必要が出てくる。問題は、その肩透かし自体にもつともらしい理屈をつけられるかどうかだ。

 「カクテル・パーティ」の七人の主要登場人物は明白に二つのグループに分かれる。劇が起こるのはエドワード+ラヴィーニアのチェイムバイレン夫妻+シーリア+ピーターの恋愛(か?)関係、特に前三者による三角関係の中でだ。もう一方の、ジューリア+アレグザンダ+ライリー卿の三人は、最後まで正体不明だが(と言ふか、「正体」は問題にされない)、狂言回し兼道化として要所要所に顔を出し、軽快に劇を進め、全体としてチェイムバイレン夫妻の不和を解消する働きをするやうだ。

 舞台はチェイムバイレン家のカクテル・パーティ(飲み物主体の簡易な立食パーティ)から始まる。招待状を出して客を呼んだのに、この家の主婦のラヴィーニアがゐない。田舎の伯母さんから病気の報せがあつて、と夫のエドワードは言ひ訳するのだが、客(上記の五人)は誰も信用してをらず、要するに嘘であることは一見気軽な会話のやり取りからわかるやうになつてゐる。
 やがて四人が帰り、ライリー卿(この時は「見知らぬ客」と表記されている)だけが残ると、ホストのエドワードは初対面の彼に現在の夫婦の問題を聴かせたいといふ誘惑を押さえきれない。ラヴィーニアはパーティの準備を済ますと、短い手紙を置いて家を出て行ってしまったのだ。エドワードは彼女に戻つてきてほしいと思つてゐる。しかし、それはなぜか? と問はれると、答へは見つからない。そんな彼にライリーが言ふ。

これでもう階段が終つたとおもふ、するとあなたの予測に反してもう一段のこつてゐたりしますね。さあ、あなたはどうなりますか、たちまちぐらつとくるでせう。まさにその瞬間、あなたは、そのいぢの悪い階段のおもひのまゝどうにでもなる一箇の客体と化してしまつたわけだ。

 階段の思ひのままといふより重力の、と言つたはうがいいやうに感じるが、何しろ、それまで自由に主体的に動いてゐるとばかり信じ込んでゐたものが、当然あると思つてゐたものがない、ただそれだけで、その「自分自身」は失はれてしまふ。
 考へてみれば、我々はいつどこで生まれて死ぬかについて、自分の意思など関係ない、現代では偶然としか言ひやうのないものに従つてゐるだけの存在なのだ。そんなものが、自分自身に対しても、他者に対しても、どのやうな「責任」が持てるのか?

 最後にライリーはラヴィーニアはやがて戻ってくる、とだけ告げて去る。すると帰つたはずの連中が、忘れ物をしたとかなんとかの口実で次々に戻つて来る。
 シーモアは、エドワードと特別な関係だつたので、彼に対する口実はいらない。しかしその関係はもう終はりにしなければならないやうだ。エドワードは彼なりのやり方でシーモアを愛してゐるが、結局彼女の望むやうな者にはなれないし、彼女の望むものを与へることはできない。それが今やはつきりしたからだ。
 次の日、ラヴィーニアは帰宅する。彼女の不満、といふか不安は、エドワードが自分を理解しない、いや、理解するに足るほどの価値を認めてゐないのではないか、といふところにある。そんな女と一緒に暮らしてゐるのは結局彼の不幸ではないか。それ以前のエドワードは、「ほんたうの自分」であり得たはずだ、と。
 これに対してエドワードは、「きみは相変らずぼくのためにひとつの人物像をでつてあげ、そのあげく、ぼくをぼく自身から遠ざけようとしてゐるだけ」だと断ずる。ラヴィ-ニアの言う「ほんたうの自分」など、あつてもなくても、欲しくはないのだ。自分自身とは彼にとって牢獄だ。エドワードは言う。

なぜぼくは自分の牢獄から出られないのだらう? 地獄とはなにか? 地獄とは自我のことだ。地獄とはひとりぼつちのことだ、そこには他人はたんなる影としてしか映つてゐない。なにから逃げだし、なににむかつて逃げていかうといふのか、なにもありはしない。はじめからひとりぼつちなんだからねえ。

 これをラヴィーニアは理解しないのだが、エドワードが嘘をついてゐるわけではないことがわかつただけでも、一つの収穫である。彼にとつて他人は「影」にすぎないとすれば、シーモアが特別であるわけではない。嫉妬するには及ばないのだ。
 第二幕になつて精神科医であることが明らかになつたライリーは、彼らは「似たもの夫婦」なのだと評する。「自分のことを愛する能力なしとおもひこんでゐる男と、自分はいかなる男にも愛されないだらうとおもひこんでゐる女」だから。帰するところは「おなじ孤独」。
 お互いに相手をすっかり理解できないことだけは理解し、許しかつ諦めること。お互いの中に自分と同じ孤独を感じ取ればそれでよしとする。それで人間は、人間同士も、なんとかやっていける、とライリーは言う。

日常生活の軌道に乗つて着実に自己を維持し、過剰な期待をしりぞける習慣を身につけ、自分にも他人にも寛容になるのです。つまり、常識的な行動に即して、あるものだけを与へ、あるものだけを取るといふわけです。(中略)おたがひに理解しあへぬことを知つてゐる二人の人間が、朝に別れ、夕にはふたゝび相寄つて暖炉の火を眺めながらとりとめない会話を交はし、自分たちが理解できず、また自分たちを理解できぬ子供を育てていくことに、すつかり満足してゐる

 よく考へれば、人間にできる「まともな道」はそんなものだらう、と納得できる。しかし、かういふ言ひ方は、「よく考へ」させるところが問題なのである。そんなのは畢竟ごまかしでしかない、人間にとつて本当の価値ではない、といふ声がどこからか挙がることを予感させるところが。
 現にシーモアはさう言ふ。「それはあたしの心を凍らせるでせう」と。「いまさらだれかと馴れあひの生活をはじめるなんて、あたしのばあひ、どう考へても不誠実としかおもはれませんわ!」と。自分は病気なのかも知れない。しかしその自分はかつて何か夢を見た。それを忘れたくない。「それを胸のうちに温めてゐることさへできれば、ほかにはなにも要りませんし、どんなことにも堪へていけます」。
 かつて彼女はその夢をエドワードにかけた。しかしそんなものに応へるのは生身の人間には土台無理なことだつた。彼がもつと大胆な、身の程知らずの男であつたとして、シーモアとの関係を維持しさらに発展していかうとすれば、その果てには破滅しかない。人は通常絶対の次元では生きられないからだ。
 ライリーは彼女には次のやうに語る。前に述べた「炉辺の幸福」に至るのとは違ふ「第二の道」がある。あるいは、彼女が求めるものが見つかるかも知れない道が。しかしその道は「だれもこれを知るものがない、だからこそ信仰が必要なのだーー絶望から生まれる信仰がね」。
 シーモアは第二の道を進む。その後の彼女の運命は最終幕で明らかにされる。戒律の厳しい教団に入つて、衛生状態も政情も最悪な東洋のある島へ赴いて、現地の病人の看護をする奉仕活動に従事してゐた。内乱が起こり、教団の他の者も逃げ出す中で、瀕死の病人を見捨てずに踏み止まり、最後には十字架に架けられて亡くなった。
 それはシーモアの宿命だつた。彼女が庇つた病人もすぐに亡くなつたのだから、その献身は無駄だつたやうにも思へる。しかしそれは妥協のない勝利の生涯だつた。他人はその勝利になんら手を貸してゐないのと同様に、その悲惨に対してなんの責任もない。これがライリーの最後のご託宣である。

 福田恆存は昭和26年に「カクテル・パーティ」の飜訳を刊行すると、そこに精密な解説を付した(『福田恆存全集 第二巻』に収録)。そこでは原著者の意図は、「それは(精神≒神の)存在証明ではあつても、あくまで不在証明を方法としてゐる」とされてゐる。「愛と精神と神とのみごとなアリバイをつくるために、エリオットには一分の隙もない巧緻な構成が必要だつた」と。
 ある危機的な状況で、「自分とは何か」といふ問ひが立ち上がる。それで「自分」の中を覗くと、そこには何もないことに気づいて、愕然とする。自分が自分であることの根拠も意味も、見つからない。それでも、生きてゐる以上、何かをしたり言つたりせずにはゐられないのだ。
 突然家を飛び出して、多分、離婚といふ危機を招いたラヴィーニアは次のやうに述懐してゐる。

あたしはなにかの機械に手をつけてしまつた。それがいまも動いてゐるんだわ。あたしにはとめることができない。いゝえ、機械とはちがふわーー機械だとしてもそれを動かしてゐるものがほかにゐる。でも、だれでせう? だれかの手がいつも感じられるの……、あたしは自由ぢやない……、でも、けつきよく、あたしが動かしてしまつたんだわ。

 情況、つまりドラマを、動かす本当の作因は舞台の外にある。自我といふ牢獄に閉込められた人間には、それが見えない。我々近代人は、畢竟空つぽな人間(hollow men)にがらくたを詰め込んだやうなものなのだ。確かなものを見出さうとして、ぬるま湯のやうな日常から離れて困難な道を歩むとしても、その先に「絶対」があるのかどうか、それは誰にもわからない。
 しかし、近代人にとつてなんとか受け入れられさうな信仰の可能性は、ここを通るしかない。自己の矮小さを知り、その反対側に、すべてを動かすものの手を感じ取ること。自己とは、その手に操られる人形のやうなものであることを敢えて自認して生きること。福田は後にこれを演戯と呼んだ(「人間、この劇的なるもの」)。

 以上は、歴史的に絶対者の観念とは無縁だつた日本ではどういふことになるのか。その実験が、「カクテル・パーティ」訳出の翌年に書かれた「龍を撫でた男」になる。
 見やうによつては、ここでライリーは、意地悪な質問を突きつけられたやうなものだ。「他人事だから、偉さうなことを言つたり、有益なことができたやうに見えるが、これが自分の身の上に起きたことだとしたらどうだ? 果たして、どれくらゐのことができるのかね?」と。

 エドワード+ライリーはここでは佐田家則といふ精神科医である。妻帯者だが、かつて事故で子どもを亡くしてゐる。義母は心神喪失状態となり、義弟は戦争から復員して以来、何もせずにぶらぶらしてゐる。家則はそんな妻の血族と同居して、養ふ。彼らを理解するのではなく、非常な寛容をもって臨み、支えようとする。何も要求せず、決して責めず、すべてを受け入れる感じで。
 危険は二つある。第一に、すべてを受け入れ、認めるのは、相手に対する全くの無関心と見分けがつかない。第二に、すべてを認めるなど、人間にできることではない。
 家則は実は、絶望から夢想へと激しく気分の変わる妻に最初から苛立つてゐて、それを押さへてゐることが示される。妻のはうでは、自分たちが家則なしでは一日も生きていけないことはわかつてゐるが、そのやうな惨めな状態に対する不満を、時に夫にぶつける。要するに甘えなのだが、それもまた、家則は受け入れるだらう。受け入れねばならぬはずだ、と、甘えの上で生きてゐる妻とその弟はなんとなく思ひ込んでゐる。
 かういふ家族に、劇作家とその妹の女優が絡む。前者は妻の、後者は家則の誘惑者として。このうちの女優がシーモアに当るわけだが、現実の生活など退屈なだけでなんの価値も意味も認められない、と言ふところだけが共通してゐて、絶対の、永遠のものを冀求してゐるわけではない。狙つた男をモノにする恋愛ゲームに耽るだけで、それからどうするかなど考へてをらず、空騒ぎするだけの、喜劇的な存在で終わるしかない。

 主人公に戻ると、家則は一見エドワードより悲劇のヒーローに近い。頑張つて一つの世界を支えてをり、やがて敗北してそれができなくなることまで予感してゐる。「ぼくだけは気ちがひにならないとでもいふんだね……」というのが、全二幕のうちの第一幕の幕切れの科白である。
 それでもここにゐるのはヒーローのパロディーでしかない。家則は「炉辺の幸福」にそれほどの価値を見出してゐるとは思へない。ただ、妻が憧れ、劇作家が唆す「情熱的な生き方」など、その場限りの迷妄に過ぎない、といふ醒めた目を持ち、概ね同じことの繰り返しである生活に耐えるために寛容であらうとする。帰するところは自分を守るため、それ以外にはない。
 つまり、我が国では、寛容を支える精神性はどこにも見つからないだけではなく、「どこにもない」ことに気づく契機もないやうなのだ。「どうにも困つたこと」だが、このやうな内面性の中で自我とそれを支える全体性・絶対性を求めることが、評論家で演劇家であつた福田恆存の生涯の仕事になつた。

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神様はいてもいなくても

2025年02月21日 | 倫理

Silence, 2016, directed by Martin Charles Scorsese

メインテキスト:Ernest Gellner, ‘Postmodernism, Reason and Religion’(Routledge, 1992)
サブテキスト: 遠藤周作「沈黙」(新潮社昭和41年、新潮文庫昭和56年より引用)

 以下は昨年11月24日に開催したしょ~と・ぴ~すの会の報告です。
 ある日本人女性の、たいへん独特のキリスト教体験をうかがいました。それプラス、そのお話から発展した議論の摘要を、あくまで私の興味の方向で、まとめたいと思います。
 なお、「神様はいてもいなくても」は、この女性が申し出た発表タイトルです。今となってはたいへん秀逸なものだとわかりますが、このときは彼女と他の会員は初対面に近く、いきなりこう言われたのでは戸惑いが大きくなるのではないかと私が心配して、「教会の思い出 ~神様が居ても居なくても~」として皆様にはお伝えしました。

 まず体験談。
 三歳の頃近所の教会へ連れて行かれた。そこは普通の農家の作りであり、集まった人たちは畳に座ってお祈りをし、賛美歌を歌い、聖書の引用に基づいた牧師の説教を聴いた。その間約一時間。彼女の家庭はキリスト教ではなく、目的は幼稚園の代わりに日曜毎にそこへ通わせ、英語を習わせようとするものだった。
 牧師夫妻はヨーロッパ系のアメリカ人だったが、もちろん英語を教えるために来日したわけではないので、この申し出は断わられたが、教会通いはずっと継続した。その体験を通じて、神はただ一人であること、即ち、アダムとイブを創ったのも、アブラハムに我が子を犠牲に捧げるように命じながら直前で止めたのも、モーゼに十戒を授けたのも、十字架上のイエスが「何故私を見捨て給うた」と呼びかけたのも、すべて同じ、今自分が祈りを捧げているこの神であることは自然に理解した。
 教会の活動のうち、「日曜日毎に教会へ来ること」「祈ること(呼吸をするように祈る)」、「聖書を読むこと(三度の食事のように読む)」、「献金すること(中学生までは一回十円、高校生以降はお小遣いの一割)」はなんの苦もなくできたが、もう一つ「お友達を教会へ連れてくること(即ち、伝道する)」は、非常に苦痛であった。
 無理をして同級生を連れて行っても、農家を見て「何、これ、教会なの?」と呆れられる。学校で「ぼっち」をしている人に目をつけて誘っても、クリスマスまで。この日には教会ではお菓子が配られる。それをもらったらもう終わり。
 因みに牧師がアメリカ人だったときには近くの大学の教授夫人方などがけっこう来たのだが、彼らの任期が終わり、日本人の牧師に変ると覿面に減った。友達には、教会に加えて、「あの人、本当に牧師さんなの?」と言われた。
 要するに、日本でキリスト教と言えば、「西洋的」でお洒落なイメージ、大概の人にとって、それで終わりである。この話の語り手の女性のように、自分の内面の問題として抱えるケースはごく稀であろう。
 転機は中学校から高校の変わり目あたりにきた。最初の農家の教会が都市部の大きなところに吸収されると、そこの牧師が精力的な人で、熱心に洗礼をすすめた。「この人間を含む広大にして複雑霊妙な世界は偶然にできあがったものか、それとも誰かが創ったものか、どちらが自然に信じられるか」などと言われて、彼女は心服したのだった。
 そこで洗礼ということになると、両親には大反対された。しかし不思議に教会通いは禁じられなかった。それで、よほど熱が出たとか、学校の用事がない限り、日曜日には必ず出席した。高校に入って、留学生の試験に受かってから、牧師の勧誘がいっそう熱心になり、アメリカへ行く直前に、ついに洗礼を受けた。
 そしてアメリカ。ここはキリスト教国であるはず。それなのに、ホームステイ先の家族は、教会へ行かないし、お祈りもしない。近所の教会は教えてもらったが、そこへ行ってもあまり相手にされない。
 9月になって学校が始まると、チャイナ系の学生からチャイニーズ・バプテスト教会へ誘われ、しばらくそこへ通い、英語で聖書を読んだ。その学生たちはチャイナ系のアメリカ人で、学校や職場では英語を使うが、家庭では母国語で会話する。ESL(English as second language)の生徒として高校で彼女と同じクラスになったのだ。それが英語の聖書をどれくらい理解できるのか?
 ひるがえって、日本語で聖書を読んできた自分はどうか。言語が違えば文化が違い、文化が違えばものの感じ方が違う。「神は愛なり」と言われた場合の愛はloveと同じものと言えるか。一番似たものをもってきただけではないか。
 ここまでくると泥沼に陥る。たとえ英語で聖書を読みこなせたとしても、聖書の原語は英語ではない。旧約はヘブライ語、新約はギリシャ語だ。さらに言うと、イエスがギリシャ語で民衆に説法したとは考えづらいので、彼の言葉は正確にはほとんど残っていないことになる。
 すると、唯一絶対神の絶対の真実はどこにある? この重すぎる問いを、16歳の少女が一心に祈り、考えた。答えは見つからなかった。
 それから彼女は教会通いをやめた。同時に、生き方の中心軸を失い、どんな時も自分の考えを強く主張することはできないように感じられた。

 発表者の女性から事前にレジュメをいただくと、そこには参考文献として遠藤周作「沈黙」とイザや・ベンダサン「日本人とユダヤ人」からの引用がありました。それを見て、由紀草一から発表者に送ったメールの一部を、最小の註付きで挙げておきます。

【ここ(「沈黙」)に、徳川時代の、キリスト教禁圧についてどの程度に歴史的な事実が記されているかわかりませんが、そんなに外れたことはないでしょう。
 日本人が「絶対」に出会った。これは日本、というか、東洋的なものの考え方ではない、とはよく言われるのですが、必ずしも国民性・民族性でもない。
 どれほど責められようと、殺されようと、決して信仰を捨てない人々が、この時代に、少数ながらいたわけですから。
 この前の(読書会のテキストに取り上げた)福田恆存著「私の幸福論」にひきつけて言えば、およそ希望のない生活に、「人間や歴史よりもっと大いなるもの」即ち現実を超えた絶対者を、救いを、意味を、与えてくれたからでしょう。
 しかし一方、絶対者=神のほうは、なぜこれほど忠実で、弱い信者が、言語を絶する苦しみを受けているというのに、何も言ってくださらないのか。
 「沈黙」は、たぶんキリスト教のみならず宗教全般で最も重いこの問いを、日本人でありながら(あるから?)言葉にした稀有の文学ですね。
 主人公のパードレは踏絵を踏む瞬間に「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている」という声を聴きます。それは自己欺瞞ではなかったかどうか。たぶん確答はこの世の中にはないでしょう。
 これほど痛烈な体験をする人は、日本人でも西洋人でも滅多にいないわけですが、さほど痛烈ではなくても、
個人として生きていくうえでは、人間はどうしても、このように言ってくれるもの、窮極において自分を許し、救い、認めてくれる何かを望んでいる、そうせざるを得ないのが人間だ
と福田恆存は言ったわけです。】

 これに対するお返事は、「由紀様が書いてきて下さったようなことを、まさに、皆様からお聞きしたい」というものでした。
 改めて、彼女が引用した箇所は、「沈黙」最大のクライマックスである、Ⅸ章の最後、主人公のポーランド人司祭がついに踏み絵を踏む場面。

お前が転ばぬ限り(棄教しない限り)、既に転ぶと言った日本農民の信徒たちへの拷問は終わらない」と言われ、悩み抜いて、神に問いかける。「主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない」。
 答えはもらえない。その代り、と言えるかどうか、「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」と、かつての修道院の師には言われた。この師は、先に来日していて、消息が途絶え、その安否を尋ねることが主人公たちが日本へ潜入した大きな理由の一つだった。
 長崎奉行所で再会したとき、師は既に転んでいた。主人公の若き司祭も、ついに転ぶ決意をする。
 こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

 神は、17世紀の日本に来た司祭(パーデレ)に何も言わなかったように、「何が真実か」に悩む現代日本の女性にも何も答えなかった。もっとも、前者については、神は最後の最後に彼の心の中に語りかけた、とさりげなく記されているのだが、ここは著者である遠藤周作がせめて縋りたがった微かな希望であろう。
 発表者の力点はむしろ、最後の文「鶏が遠くで鳴いた」に置かれていました。これは「ペテロの否認」と呼ばれる、新約聖書中の有名なエピソードを踏まえたものです。
 福音書によって細かいところは違うのを、まとめて概要を記すと。
 十二人の弟子たちとした「最後の晩餐」のとき、イエスは、この中に一人裏切り者がいること、他の者も、結局は「躓く(自分を見捨てる)」であろうと告げる。一番弟子で直情径行型のペテロが、「私は決してそんなことをしません」と言うのに、

イエス「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう
ペテロ「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは申しません

 やがてペテロはイエスを捕えに来た大祭司(ユダヤ教の最高聖職者)の下僕に剣を抜いて立ち向かい、その片耳を切り落とすほどだったが、イエスに「剣を取る者は剣で滅びる」と言われ、抵抗を止める。
 そして遠巻きの群衆に紛れて様子を見ているうちに、「あなたはあのナザレのイエスと一緒だったろう」と三度尋ねられた。それに対して「そんな人は知らない」と答えて三度目、鶏が鳴いた(つまり、夜が明けた)。
 その後のペテロは熱心な布教活動に余生を捧げ、ネロ皇帝治下のローマ帝国で、十字架に逆さ磔にされ、殉教する。そして、カトリックでは初代教皇とされる。
 一度は他の弟子たちと同様、イエスを見捨てた人の、壮烈な死との間には何が生じていたのか、ずっと考えている、と発表者の女性は言いました。

 彼女は、アメリカから帰国後、それまでずっと続けてきた日曜毎の協会通いはやめたが、神への信仰心まですっかりなくしたわけではなかった。ただし、自分の中の箍が外れ、善悪の基準は失われたように感じた。残りの高校時代には、お洒落をするようになり、親に反抗もした。
 それ以上に、「結局どちらでも同じだ」と思えば、自分の中のこだわりの、大きな部分が消えてしまった。
 例えば、高校の教員になってから、鞄を持ってこない生徒は帰すように言われた。それが「指導」なのだと。しかしそれはその間授業に出さないことを意味する。本当にそれでいいのか、と思ったが、学校とは、教師とは、そういうことを教えるものだと言われると、反対することはできなかった。
 すべてが真実で、価値の差などないのだとすれば、何かにこだわって肯定したり否定したりする要もないわけだから。
 この宙ぶらりんの状態からの転機は、40代になってから、スペインの知人の家で起きた。そこで一冊の本に出会ったのだ。アーネスト・ゲルナー『ポストモダニズム、理性、宗教』(未邦訳)。
 この中で『民族とナショナリズム』で知られる社会人類学者のゲルナーは、現代の宗教的な(というより、イデオロギー上の)傾向を三つに分けている。

① 真理はあるし、自分たちはそれを保持しているとする原理主義(Fundamentalism)
② 不変の真理という考えを放棄し、各文化や社会に即応したヴィジョンをとりあえずの真実とみなすのだとする相対主義(Relativism)。最近では、ポストモダニズムと呼ばれる思想傾向がその典型である。
③ 著者がいささか信奉しているという啓蒙合理主義的原理主義(Enlightenment Rationalist Fundamentalism)

 当然この最後のものが最も肝心なのだが、また最も難解である。この女性の読解と私の解釈を混ぜて、祖述してみる。

 絶対の真理はある、と信じる点では原理主義的だが、それを自分が保持しているとは思わない点では相対主義的。逆に言うと、真理は何か、自分にはわからないにしても、それはあることは信じる。特定の宗教が奉じる絶対、即ち神に帰依することは拒否するが、そこに至る探求の道(procedural rules)は絶対的なものとして、ある。
 古代の例として、4世紀頃の、キリスト教初期の隠者たち(hermits)がいる。彼らが求めたのは純粋な、個人的な救い(salvation)であり、313年のミラノ勅令によってそれまで対立を続けてきたローマ帝国との妥協が成立し、やがて帝王までキリスト教徒になって、世界宗教への第一歩を踏み出したことなど、彼らにはなんの関係もないことであって、荒野で孤独な宗教的生活を続けた。
 彼女はこのエピソードから、神を各個人の内部に求める生き方が、神が居るか居ないかがわからなくなった人間にはよく馴染む、また、不思議なくらい仏教の禅と共通点があると感じたそうです。
 ここから私が、個人的に思いついたことを最後に記します。「神を各自個人の内部に求める生き方」の果てに何が見出されたのかは問題ではない。我々が人として生きるうえでは、折に触れて自分なりの絶対に至る探求の道を気にかけずにはいられないのであり、それ自体が、そしてそれだけが、人間に、個人に、意味を与える。
 現代では、宗教の問題は、「神はあるかないか」の形で問うべきではないのでしょう。それはどちらにしても、人間に証明できるようなことではないのですから。
 そうではなく、神、という名ではなくても、何かしら超越的・絶対的なものを求めたい、もっと言うと、それは探してもどうしても見つからない、そこで人間存在の不完全に思い至れば、それこそが宗教的な感覚の第一である。
 「それがなんだ」と言う人に返す言葉はありませんが、あくまで私から見て、この感覚が欠けた人間観・世界観は、どうしても「精神性」を欠いた薄いものです。これを多少とも説得的に展開できるように、今後頑張っていきたいと念願しています。
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