由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

物語作者としての宮澤賢治 上(風の又三郎)

2024年03月22日 | 文学


メインテキスト:宮澤賢治「風の又三郎」
        同「風野又三郎」
        同「ざしき童子のはなし」
サブテキスト:天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』(丸善ライブラリー平成3年)

 別役実さんは、宮澤賢治関連だと、NHK少年ドラマシリーズ「風の又三郎」(昭和51年、上図の引用元)や杉井ギサブロー監督のアニメ映画「銀河鉄道の夜」(昭和60年)のシナリオを手がけています。その彼が、短いエッセイの中で、あるとき「宮澤賢治ってハイカラなんだよね」とふと知人に洩らした話しを書いています。知人からは、怪訝な顔で、「だけど、それだけじゃないよ」と返された、と。そりゃあそうで、そんなことが言いたいわけではないよ、でも、じゃあ、何? というのは言い難い、というところで終わっています(『イーハトーボゆき軽便鉄道』記憶で引用)。

 私もこれは気にかかります。賢治自身は岩手を離れたことはほとんどないのに、明確にこの地を舞台にした童話はほとんどない。それどころか、日本でもない場合が多い。例えばジョバンニとかカンパネルラとかは、イタリア人名です。が、では「銀河鉄道の夜」の舞台はイタリアなのかといえば、どうもそうではない。ケンタウルス祭なんてお祭りは、実際にはどこにもない。
 賢治は、外国かぶれなんてものではないのはもちろんですが、身近な生活感覚を直接描くことは、いくつかの例外を除いて、あまり喜ばなかったようだ。「頭の中でこしらえた観念なんて、しょせんはニセモノだ」なんて信仰が強かった日本では、これ自体が珍しい。

 では、賢治の頭の中にあった場所は? 地名としては、何語ともわからない「イーハトーブ」(あるいはイーハトーボ、イーハトヴ)が有名です。その正体は、『イーハトヴ童話集 注文の多い料理店』(大正13年出版)の広告文の中で「実にこれは著者の心象中にこの様な状景(アリスの辿った鏡の国など)をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である」と彼自身が打ち明けています。実在の岩手が基だが、そこを詩人の精神で転換した心象(イメージ)、しかし〈心象としては実在する〉世界なのだ、と。
 では、ジョバンニたちがいるのはイーハトーブか。銀河鉄道の旅だけならそう言えても、そこへ行くまでの学校やお店や川がある街は、どうも少し違うように感じます。このへん賢治の世界はあまりにも多様で多元的だ、と凡人の私には平凡そのもののことしか言えないのですが、その入口の一つかな、と思えるところを軽く述べてみます。

 例えば、民話という、ある地域の人々の集合無意識というか、むしろ意識上のかな、のイメージに対しても、このような転換は働くようなのです。

 「ざしき童子のはなし」は、賢治の生前に活字になった数少ない童話の一つ(尾形亀之助主催の雑誌『月曜』大正15年2月号に発表。童子はここでは「ぼっこ」と呼ばれます)で、岩手県に伝わる、しかしたぶん賢治のおかげもあって今や全国的に有名になった、童形の妖怪だか神だかのエピソードを四つ並べたものです。ごく短い作品ですが、不気味だったり悲しかったりユーモラスだったりと、賢治童話の様々なテイストを、端的に味わうことができます。

 因みに、賢治の故郷の花巻、現在の花巻市から山を一つ越すと遠野市になります。ここ出身の佐々木喜善(号は鏡石)が、故郷の民話を柳田國男に語ったものを柳田が文章にまとめた『遠野物語』(明治43年)は、現在民俗学の最初期の古典として知られています。この中にも座敷童子(あるいは、座敷童衆)の話は出てきますが、内容はほぼ同じ話でも、軽妙な語り口は賢治独自のものです。
 いや、軽妙と言っていいかどうかはわかりません。「遠野物語」のもの哀しい山人と、賢治童話のとぼけた味わいを備えた山男の違いのようなものがある、ということです。

【その後故郷に戻った佐々木喜善は、座敷童子関連の話を収拾する活動の一環として、賢治の童話に目をとめ、手紙を出し、そこから二人の交流が始まります。実際に宮澤家を訪れたのは昭和七年、賢治は既に病床にありましたが、その後数回会談しています。賢治は喜善より十歳年少で、喜善が信仰していた大本教を痛烈に批判したりしたのですが、喜善は「宮澤さんにはかなはない」「豪いですね、あの人は。全く豪いです」と言っていたそうで、彼は宮澤賢治のすごさを最も早いうちに認めた一人のようです。】

 話自体が際立って印象的なのは、前から二つ目のエピソードです。
 どこかの家のふるまい(お祝い事、でしょう)におよばれした子どもが十人、座敷で輪になってぐるぐる回って遊んでいた。それがいつのまにか十一人になっていた。「ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく」、それでも数えるとどうしても十一人。その増えた一人がざしきぼつこだ、と大人に言われて、「けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼつこでないと、一生けん命眼を張つて、きちんとすわつてをりました。/こんなのがざしきぼつこです」。

 ちょっとみると、子どもの悪戯の微笑ましさがありそうで、じっくり考えるととても怖い話です。のみならず、生きている者が神隠しにあったり、死んだ者がこの世に甦ってくる『遠野物語』の世界とは違う種類の不気味さを感じます。
 だいたいの感じだと、異界、あるいは異界の者がこちらに入り込むやりかたが、「ハイカラ」なんです。だからこれは宮澤賢治のオリジナルか、原型はあっても、日本のものではないのではないか、と思えるのですが、確信はなく、とんだ勘違いかも知れません。先行話がここにある、と御存知の方は、教えてください。

 天沢退二郎さんは、このざしきぼつここそ、「風の又三郎」に登場する謎の少年の前身ではないか、という説を述べたことがあるそうです。あるいはそうかも知れません。

 天沢さんは、入沢康夫さんと共に(二人とも仏文学者で詩人という共通点がある)、宮澤賢治の生原稿を徹底的に精査し、それまで刊行されていたテキストは賢治が書き残したものとはかなり違う場合があることを発見し、その成果から筑摩書房の『校本宮澤賢治全集』を編んだ人です。特に「銀河鉄道の夜」の、主に構成上の大変更は、私が大学生の時に遭遇した最大の文学的事件でした。これについては後で書きます。
 「銀河鉄道の夜」と並ぶ二大傑作と呼ぶべき「風の又三郎」(しかしこの二作のテイストはずいぶん違います)についても、新事実を教えてもらいました。

 まず、大正13(1924)年頃に完成したらしい原稿があって、そこには明らかに題名として「風野又三郎」と記されていた。冒頭に「どっどど どどうど どどうど」で始まる歌(これにはシンコペーションを使った洋風のかっこいい曲をつけることを、賢治は希望していたそうです)が置かれ、「谷川の岸に小さな四角な学校がありました」(『四角の』は後に削除)と書き出される。夏休みが終わった九月一日、小学生たち(全学年の児童が同じ教室で学ぶ)が登校して外から教室の中を見ると、そこに奇妙な子どもが座っている。これが物語の導入部です。
 この後の部分は、昭和6~8年頃に大改訂された、というより、新たに書かれたとしか言いようのないものになりました。ただし題名は、原稿でも作品について記された各種のメモでも、一貫して「風野又三郎」なのですが、賢治の死後に出版された文圓堂版全集で初めて活字になった時、編集者の考えで「風の又三郎」とされ、以後それが踏襲されているのです。

 最初期の「風野又三郎」も、これはこれでなかなか魅力的ですので、「風の又三郎〈異稿〉」などとされてある程度は知られていたものが、『校本宮澤賢治全集』以来、「風野又三郎」の題で、各種の全集・童話集に収録されています。本稿でもこの名称に従います。

 「風野又三郎」をあと少したどりますと、このとき教室の中にぽつんと一人で座っていた子どもは「をかしな赤い髪」で、「変てこな鼠いろのマントを着て水晶かガラスか、とにかくきれいなすきとほつた沓をはいてゐました」と、実に怪しい。そして教室内に入った小学生が話しかけても何も応えないので、「外国人だな」とも言われます。ガラスの靴って、シンデレラのあれですかね? まあ、この子は、怪しいだけでなく、〈ハイカラ〉なんです。
 その後原稿が何枚か欠けていて、はっきりとはわからないのですが、どうもこの子どもは先生など、大人には見えないらしい。そして、いつの間にか教室から消えている。あれはなんだったのか? と子どもたちが飽きるほど考えていると、次の日の放課後、そのうちの二人が山で再び巡り会う。そして、「汝(うな)ぁ誰だ」と訊かれて、「風野又三郎」と応える。「ああ風の又三郎だ」とこちらは納得する。

 このやりとりから、〈風の又三郎〉はコロボックルとかドワーフとかホビットとか座敷童子とかいう種族あるいは一族名だと推察されます。実際、新潟から東北にかけて、風三郎・風の三郎・風の又三郎などと呼ばれる風の神を祀る信仰は広く認められるそうで。一方〈風野又三郎〉は、おそらくは大正期の、岩手県の小村に現れた童形の者の固有名なのでしょう。
 もっとも、彼の兄も父も叔父も風野又三郎だと言うのですが……。ともかく、神霊という特別な者が人間の姿で現れるのは特別なことなので、特別に特別を重ねたものが風野又三郎なのです。因みに〈風野又三郎〉の表記は自分で名乗る時だけで、あとは子どもたちの言葉でも地の文でも、ただの〈又三郎〉でなければ〈風の又三郎〉表記です。

 風野又三郎は、前述のように、学校に現れたときには何も言わず、次の日に喋り出したときには、名前も正体も少しも隠しません。そして九月九日までの間、自分が風として世界中で体験したことを生き生きと語ります。活動場所は地球全部なので、扮装は洋風だというわけかな、と少し思いますが、それは語られないまま、十日の風の強い日には村を去って行きます。
 村の子どもたちは話を聴くだけで、自分からは何も行動しません。これは弱点ではなく、そういう作品だというだけです。しかし、では、風野又三郎はなぜ、最初小学校の教室に現れて、子どもたちを驚かせたのかなあ、と思うと、うまい回答は見つかりません。

 そのこともあって、だと思いますが、新版の「風の又三郎」だと、焦点の童形の者の正体は曖昧にされ、格好と標準語を話すところが少し変わっていますが、村の子どもたちといっしょに遊びます。
 登場したときには、元の「風野又三郎」と同じく、夏休み明けの教室に一人でぽつんと座っているのですが、格好は、やはり赤毛で「変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴」と、やはり怪しいけれど、マントはなくなり、また靴も変わっています。その理由は後でわかります。それでやっぱり話が通じず、「外国人だ」と言われ、やはりいつのまにかいなくなっている。

 しかし、その後、先生に連れられて再び姿を現し、お父さんの仕事の都合で「けふからみなさんのお友だちになる」高田三郎くんだ、と紹介される。だけでなく、いつの間にか「白いだぶだぶの麻服を着」た大人が教室の後にいて、学活が終わったとき先生に近づいて「何ぶんどうかよろしくおねがひいたします」と挨拶して、三郎を連れて帰ります。これは三郎のお父さんということで、つまりこの子は家庭まで含めて大人にも存在が認められている、普通の子どもなのです。
 それでも村の子どもたちの間では、少しの言い争いの後、あれは又三郎だということに一決し、以後ずっと「又三郎」と呼びます。当の本人はそう呼ばれても抗議もせず返事をしますが、それ以上自分が又三郎なのかそうでないかについては触れません。因みに地の文では〈三郎〉と表記され、〈風野又三郎〉表記はこちらでは一度も出てきません。

 この後三郎が、一見村の子どもたちと溶け込んで様々な活動するリアルな話が続きます。その筋の運びと描写の手腕は大したものです。しかし一番注目すべきなのは、普通の日常が、異界に接近し、重なる部分の手際のよさです。

 前半のヤマ場は、最初の日の二日後なので九月三日(「風野又三郎」では章題代わりに日付が記されているが、「風の又三郎」ではそれはすべて消えている)。馬が集められている場所へ子どもたちが入り、怖がる様子をからかわれた三郎が口惜しがって競馬をやろうと言い出す。馬は最初なかなか動かなかったが、走り出すと、そのうちの一頭が土手の切れているところから外へ逃げる。三郎と嘉助という少年がそれを追う。土手の向こうはすすきやたかあざみが生い茂って視界が悪く、崖にも接していて危険なので、立ち入りが禁じられている場所だった。嘉助はやがて三郎も馬も見失う。霧も出てきて帰り道がわからなくなり、嘉助はついに草の上の昏倒する。

 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまつて空を見あげてゐるのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。

(中略)
 又三郎は笑ひもしなければ物も言ひません。ただ小さなくちびるを強さうにきつと結んだまま黙つてそらを見てゐます。いきなり又三郎はひらつとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。

 この前の文に「嘉助はとうとう草の中に倒れてねむつてしまひました」と明らかに書いてあるのに、この時は嘉助は目を覚ますでもなく、まるで以前からそうだったように、又三郎になった三郎がいて、ガラスのマントを光らせて空へ昇ります。いやあ、お洒落ですねえ。

 この時は一人の少年の幻視ですが、やがて村の子どもたち全員の前で、異界が一瞬、口を開きます。

 嘉助は三郎といっしょに救出されて、無事に家に帰ることができ、次の日から普通に皆といっしょに外で遊びます。三郎も、負けん気の強さは折々見せるのですが、まずます無事にその集団に参加しています。その話が続いて最後に、川での〈鬼ごっこ〉の場面になります。
 三郎が〈鬼〉になると、嘉助にからわかれたこともあって、むきになって村の子を川につかまえ、「三郎の髪の毛が赤くてばしやばしやしてゐるのに、あんまり長く水につかつてくちびるもすこし紫いろなので、子どもらはすつかりこわがつてしまひました」と、文字通り〈鬼〉に近い様子になる。すると……、ここは長くなりますがやはり引用しなければならないでしょう。

 そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思ふと、まるで山つなみのやうな音がして、一ぺんに夕立がやつて来ました。風までひゆうひゆう吹きだしました。
 淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなつてしまひました。
 みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。すると三郎もなんだかはじめてこはくなつたと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいつてみんなのはうへ泳ぎだしました。
 すると、だれともなく、
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」と叫んだものがありました。
 みんなもすぐ声をそろへて叫びました。
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」
 三郎はまるであわてて、何かに足をひつぱられるやうにして淵からとびあがつて、一目散にみんなのところに走つて来て、がたがたふるへながら、
「いま叫んだのはおまへらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんないつしよに叫びました。
 ぺ吉がまた一人出て来て、
「そでない。」と言ひました。
 三郎は気味悪そうに川のほうを見てゐましたが、色のあせたくちびるを、いつものやうにきつとかんで、「なんだい。」と言ひましたが、からだはやはりがくがくふるへてゐました。


 物語「風の又三郎」はあと少し続き、余韻を残す終わりを迎えますが、転校生高田三郎はもはやどんな姿でも村の子どもたちの前に姿を現すことはなく、お母さんがいるという北海道へ戻ると言われます。

 この物語にはいくつかの解釈が可能ですが、一応自分のを言っておきましょう。
 高田三郎はまず普通の子どもですが、村の子に「風の又三郎だ」と言われ、どういう気持ちでだか、その役を演じているうちに、いつか本物の異界を呼び寄せてしまったのです。
 それは山村の人々の無意識と、一番奥底で繋がっていて、時々「遠野物語」に収められた各種の民話として現出するものです。詩人はこれをさらに〈心象としての実在〉として、地方色を脱したスマートに、しかしやはり怖いものとして、描き出すことに成功しました。
 やっぱり平凡なんですが、戦前の日本の田舎にいて、よくこんなものが書けたなあ、と驚嘆するばかりです。
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小浜逸郎論ノート その3(共同態・上)

2024年03月01日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『倫理の起源』(ポット出版プラス令和元年)

 初期の著作『男はどこにいるのか』からいきなり晩年の大著に移るのは、最近これについての勉強会を開催したからです。それで久しぶりに『倫理の起源』を読み返して驚いたのは、書かれていることの九割方に同意できること。それなのに、初読(小浜ブログ「ことばの闘い」の連載記事)の時から感じてきた違和感はなんだったのか、あらためていぶかしく思えました。今回はこれにこだわってみます。

Ⅰ.善の在りどころ
 小浜の最大の意図は明瞭で、西洋の大哲学者たちが、倫理の根拠を、善のイデアだの我が内なる道徳律だの、やたらに高いところや深いところにおいてきたものを、身近で具体的な人間関係の場に降ろそうということである。
 その中でも、あまりに卑近に感じられるからだろう、従来まともにとりあげられることもなかった男女の性愛関係に重きを置こうとする指向は、独創的と呼ばれてよいかも知れない。
 それ以外だと、一般的に、人間にとって最も重要なのは具体的な共同性であるのは当然すぎる話だ。人間は人間から生まれるだけではなく、普通は家庭という最小の共同体内で、人間に育てられなければ人間にはなれない。共同性(他者とのかかわり)以前に個人はない。倫理(人としての正しいふるまい)もまた、人の間にいればこそ必要なのである。

「善」とは、そもそも共同存在としての人間の生活を離れたところに自立的に成り立つような「観念」ではない。それは人間生活がうまく回っていることやうまく回そうと努力していることを示す「現実」の表現である。(P.077)

 ならば「善」は、なんら特別なことではなく、家庭も社会もひっくるめた共同体が無事に経営されている、それを支える日々のルーティンの中の「ひそやかで慎ましいもの」(p.079)であるはずなのだ。しかし、しばしばそれでは足りないと考えられて、それは簡単に錯覚だとは言えない。
 すると、むしろ問いは、なぜことさらに、共同性以外の人倫の根源を、特に西洋の思想家たち(東洋にもなくはない)が、探してきたか、という形にすべきではないだろうか。
 小浜が置いてくれた里程標を辿って、この問いに自分なりに向き合おう。
【実は、つい最近まで本当に忘れていたのですが、以下の記事は以前「倫理の起点」として書いたものと内容はかなり重なります。ただ今回は、ここから自分なりの一歩進めたいという意欲だけははっきり自覚しましたので、それに沿う形で編み直しました。】

Ⅱ. 国家の在り方
 近代国家は現在のところ最大の共同体だが、大きすぎて、全体を完全に把握することは誰にもできない。日本ぐらいの国になれば、国内でも、一度も行ったことのない土地のほうが多いだろうし、大部分の人とは一度も会っていないだろう。ごく普通の意味で(エロス的に)愛せるようなものではなく、「そこに属する住民の福祉と安寧とをいかに確保するかという機能的・合理的な目的意識によって支えられている」(p.418)ものなのだ。
 具体的には国家はどのような体制であるべきなのか。一見両極端が挙げられている。

(1)生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する(p.466)

 国家は国民の安寧秩序を守ることを第一の目的とすべきだ、ということなら、私を含めて、反対する人は現在少数だろう。ただ上の言葉を、個々人の幸福のためなら国家なんてどうでもいいんだ、というふうに取るなら、戦後の進歩主義と同じだということになる。小浜はそうではなかった。

(2)もし公共体としての国家が、外敵から己れを守るために個人の命を捨てることを要求する場合には、進んでそれに従わなければならない。(p.390)

 これはスイスの憲法の規定らしく、小浜自身が明らかに賛成しているわけではないが、反対はしていない。
 この二つはどのように両立するのか。

個体生命倫理そのものはなるべく貫かれるべきであるし、個々の個体生命の限界を超えて維持されるべきであるが、しかし絶対的ではない。いずれ誰もが死ぬということは、すべての人がよく知っているので、(中略)この倫理をただ何よりも優先されるべきものとして前面に押し出せば済むのではなく、ケースによっては死んでも仕方がないという諦念をいつも傍らに引き寄せておく必要がある。(p.393)

 「ケース」は、〈自分の属する共同体を守るために必要なら〉というのがすぐに頭に浮かび、だから(2)のような要求も出てくる。しかしこの要求が正当であり、従うしかないとすれば、「よりよい関係を築きながら強く生きる」のほうは損なわれる。これはアポリア(解き難い矛盾)とするしかないと思う。

(前略)公共性という概念そのものは厳として存在する。それは、もともと私的であることと一対の関係にある概念だから、抽象的であることを免れないのである。つまり、この種の関係概念は、ある事態(たとえば家族生活)が他方の事態(たとえば国家活動)に比べてより私的かより公的かという相対的な位置関係で把握するほかない概念である。言い換えると、私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない。 (p.395)

 それでも小浜は後のほうで、このアポリアを解くことはできるという考えを示した。そのモデルとして採り上げられたのが百田尚樹の小説「永遠の0」。これについては前にも述べたが、未読の人のために以下に粗筋を書いておく。
 主人公は宮部久蔵という大東亜戦争中の軍人であり、達人の域に達した戦闘機乗り。にもかかわらず、戦場にいて「生きて家族の元へ帰りたい」と公言して、物議をかもす。戦局が悪化し、彼が指導した若いパイロットたちが特攻によって散っていくことが重なるにつれて、罪の意識からの葛藤に追い詰められていく。最後には彼自身が特攻に志願するが、同時に進発する隊員の中にかつて宮部を庇おうとして無茶をした大石がいた。宮部は自分が乗る予定の機に不調があるのを知って、口実を作って大石の機と交換し、自分は無事(?)米艦に突撃して戦死する。大石は、エンジントラブルのために無人島に不時着し、帰還する。この場合に限って、特攻から生還することが認められていたのだ。そして終戦。大石は帰国し、宮部の妻と面会、やがてお互いに行為を抱くようになって結婚、彼女と子どもとを守る。宮部が家族とした約束は、このようにして、大石によって果たされた、とみなせる。
 感動的な話である。お伽話としては。「単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギー」と「その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向」という「戦後における二つの対立する戦争史観の矛盾を止揚・克服している」(以上p.445)とも言えるかも知れない。
 しかし、現実には。上の梗概の、「最後には彼自身が特攻に志願する」以下の部分の、偶然の連なりを考えれば、宝籤の特賞に連続して当るほどの確率だから、こんなことの実現はほぼ不可能だな、と自然に納得されるのではないだろうか。
 お伽話そのものも、ありがちなご都合主義も軽蔑はしない。そこには人間の時代や場所、さらには根本的な人間の条件をも超えたいとする切ない願望の現われである。それが傲慢な駄法螺にはならないのは、語るほうと聞くほうに、「世の中、そう都合良くはいかないがな」という諦念があればこそだ。
 結局、公と私とは、「互いに他方の「否定態」としてしか成立しない」のであれば、(イギリスの王家の紋章に描かれた王冠を支えるライオンと一角獣のように)、決して完全には相容れず、争い続けるまさにそのことによってこの世界を保っているということだ。
 ならばまた、個々の場面では、どちらかがどちらかのために犠牲になることを完全になくす術はない。この場合、弱い立場の私・個人のほうが、犠牲になるべく強いられることが圧倒的に多いのもごく自然であろう。
 できることは、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きる」ことこそ人間が望み得る最高の幸福であり、簡単に無視されたり毀損されることがないように心がけていく、ぐらいではないだろうか。これすら、けっこう難しいのだ。

Ⅲ. 自己を支えるもの
 戦後の日本は、「個人の命を捨てることを要求」することはないだろう。少なくとも、露骨には。(個人の)生命至上主義は、普段敢えて頭に上ることさえないぐらい我々の常識になっている。とりあえず、結構なことと思う。
 国民が命懸けで国のために尽くす場面の代表はなんといっても戦争、壮年男性であれば必ずそこに参加することを義務とする、つまり徴兵制は、現在の先進国ではたいてい、実質的になくなっている。しかし、軍隊はある。徴兵制に対して志願制で。日本でも(自衛隊は軍隊かそうでないか、なんぞという面倒な議論は置くとして)、以下のような誓約をしてから国防の任に就く。

事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

 つまり、国家から与えられた責務を完遂するためには一身を擲つこと、するとかなりの確率で「身近な者たち」の「よりよい関係」を失うことまで要求できるのは、事前に「それでいい」と約束した人だけになる。最初に個人の決断が必要とされている。
 いや、最初ではない、そもそもある個人がそのような決断に至るまでには、彼の過去の共同性に由来する価値観や、今後の共同性をうまく保っていくための配慮(だいたい、日本国憲法第九条がある以上、日本は戦争なんかしない、だから、兵士として危険な目に合うなんてことは実際はないんだ、と予想するような配慮まで含めて)が、決定的な働きをしているはずだ、と小浜的な立場からは言うだろう。
 それに間違いはないのだが、いずれにしろ個人の意向はあり、それは無視できない、というのは民主主義国家の重要な前提、いやタテマエである。
 そうでなくても、人生には選択がつきものである。人がある共同態の中でけっこう不満を抱えていようと、まずます幸福にすごしていようとも。その選択の基準もまた、共同体から得た価値観にあるが、個別具体的な事態は決して繰り返されることはないのだから、結果は完全な予測は不可能であり、『人間は時間の中でたえず新たな「決断」と「行為」をなしていく存在』(p.304)であるからこそ、人は絶えず不安を抱えずにはいられない存在である。
 本書には、妻が難産で苦しみこのまま出産を続ければ母体も危険である、と言われた場合が例にでている(p.388)。このように直接に生死に関わる問題以外に、介護が必要になった老親を施設に入れるか在宅介護にするか、いつどの相手と結婚するか、転職するかしないか、家を建てるかマンション住まいを続けるか、などなど。
 念のために言うと、その問題が各個人及び家族にとってどれほど重い問題であるか、まで含めて、よそからは窺い知れない。自己責任なる言葉は好きではないが、何かを選んで、何かを捨て、何かを為すのは、個人であるしかない。
 ただ、小浜はこここで、それでもやはり、共同体への信頼感(これこれをやれば、家族や知り合いに認められる、少なくとも非難はされない、といった)がなければ、人は何事も決断し得ず、何事もなし得ない。つまり、人は不安であるからこそ、共同体内部の信頼が必要となる、としている。ここは非常に微妙なポイントなので、後で改めて考える。
 いずれにしても、現に決断して、その結果を受け止めねばならないのは個人である。選択がうまくいかなかったと感じられたときには、であることによって、そのを物心両面にわたって産み出した共同性が実現されている、という幸福な一体感は揺れて、単独者としての私が顔を出す。
 大前提として、小浜は、身近な人間関係、即ち彼の言うエロス的関係以外は、国家も、自由で自立的した個人も、すべて人間社会を保つためのフィクション(人工物・仕組み・約束事)だと考えていた。私もそう思う。しかしそれがフィクションである以上、〈共同主観〉ではあっても、根拠が見失われたら雲散霧消してしまいかねない。その危険は常にある。

それでは、「個人の自由意志の結果としての行為」という、近代道徳の図式の基礎にあるフィクション性には何の根拠もないのかといえば、そうではない。そこにはフィクションを構成せざるを得なかったそれなりの理由がある。また私たちは、人と交わりつつ生活していくうえで、このフィクションを設定せずにはすまない。
 それは、簡単に言えば、私たちが関係を編みながら生活しているとさまざまな摩擦葛藤が生まれ、やがてそれが高じて取り返しのつかない不幸な事件や解決不能な不祥事が引き起こされることがあるからである。つまり自由意志から行為へという因果関係は、じつは逆なので、まず不幸や不祥事が起きた時に私たちの感情が混乱し、自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われるのだ。それを何とか収拾して未来に臨むために、私たちは、「ある個人の行為は、その人の自由で理性的な選択意志を原因としている」というフィクションを必要とするのである。
(P.193)

 問題は、不幸や不祥事だけではない。我々庶民が生涯のうちに何度か直面せざるを得ない選択もそうであることは前述の通り。だいたい、crisisの原義は「分岐点」なのだ。
 あらゆるものがそうであるように、共同性も時間の中にあり、変化する。親も自分も年老いるし、幸せな性愛関係を結んでいた相手もあるとき突然心変わりする。そこに肉親の扶養義務や、結婚という制度の枠を嵌めて、外側から、あまりに乱脈にしないようにするのは国家の役割だが、内面的に、既成の共同性を超えてを支えてくれる存在への冀求も生じる。そこにまた、自分を大きな存在と思いたい心性も相俟って、永遠に確固不動の超越者・絶対者の概念が、人間社会の中に広く長く見出されるようになる。
 我々東洋人、特に日本人は、伝統的に、「自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われ」ることが少なかったか、あるいは、それをことさらに問題視する心の習慣に乏しかったせいで、絶対なる観念とは縁遠かった。それは幸せなことと言ってよい。なぜなら、そんな観念が必要と感じられる共同体は、けっこう不幸なものだろうから。
 しかし、今後もその幸運が続き、例えば、私というフィクションを支えるための絶対者などの大フィクション(苦しいときに頼む神であっても)の必要が実感されないかどうか、そこまではわからない。
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小浜逸郎論ノート その2(男女関係論)

2024年02月05日 | 倫理


メインテキスト:小浜逸郎『男はどこにいるのか』(草思社平成2年→ちくま文芸文庫平成7年→ポット出版平成19年)

 前回の続きですが、表記の著作の主題である男性論・男女関係論について、特に興味を惹かれたところを、できるだけ咀嚼して自分の言葉にして述べてみます。地の文の〈  〉は強調、引用文中のは引用者の註記です。

Ⅱ.フェミニズム。すべての男女関係を権力関係として糾弾する。
 旧来の〈男らしさ・女らしさ〉、いわゆるジェンダー・アイデンティティに疑問符をつきつけたのは何よりもフェミニズム及びそれに近い人々だった。
 現在ではX(旧ツイッター)に蟠踞する通称ツイフェミや、各種NPO法人での活動が目立つが、30年前には上野千鶴子や江原由美子らの少壮の学者がマスコミによくとりあげられていた。彼らは歴史学や精神医学、さらには文化人類学からさまざまな知見を動員した言説を展開したが、この思想が世に広まった論理と心理は昔も今も変わらず、以下のように要約できる。
 「男性がこの世を支配し、女性が屈従に甘んじている」(P.262)。これは理不尽でもあれば不当である(論理)。ムカつく(心理)。
 まるっきりのデタラメではない。そう言ってもいい現実はあったし、ある。そして、このような論理と心理の最大の強みは、少なからぬ人が、多くは女性が、日頃抱きがちなルサンチマンに訴えることができる点だ。「自分が職場や家庭でうまくいかないのは、男性(中心)社会だからだ」という具合に。
 さらにルサンチマンは被害者感情を与え、そこからして、多少(でもないが)の無理には目を塞いで、単純化した見方をゴリ押しすることをも正当化する。①旧来の社会悪は、戦争も圧政もすべて男がやったことだ、とか、②いつも男は加害者で女は被害者だったのがから、補償を求めても当然、とか。たぶんここで得られる快感は、合法的に得られる範囲では、他にほとんどない。
 しかし、と小浜は言う。「現在の男と女の枠組みは「作られ」「仕組まれた」ものだというようなことを何べん声高に繰り返してみたところで、それは相も変わらぬ潜在的な不満や怒りを一定の水準にまで組織化できるだけであって、そこから先には一歩も進むことができない」(P.27)。
 大切なのは、個々の理論や社会観の正しさ以上に、一人の女性、と男性、の幸福に、いかに、どれくらい資するか、なのだ。このような穏健な考えでさえも、攻撃専用武器に特化したフェミニズムからは、旧来の、男性社会の、社会悪を防衛しようとする動機から出ているように見えてしまう。小浜もまた、そのような糾弾を浴びることがあった。
 それに社会運動でもあるフェミニズムは、一歩を進めたとも言えるようである。運動や思想内部では細かい相違もあるが、大きなところでは、〈男らしさ・女らしさ〉の枠をできるだけ緩やかにすること、いわゆるジェンダー・フリーが、大きな目標となった。それがSDGs十七の目標の一つに入ったのは、この運動の成果ではある。また日本ではフェミニズムがウーマンリブと呼ばれていた頃から、女性の社会進出の促進が叫ばれ、昭和47年の男女雇用機会均等法という成果を出した。
 それを踏まえて、改めて考えよう。男らしさ・女らしさは、長い間広い範囲で通用してきた価値観であり、それには個人を束縛する要素も必ずあるだろう。とりわけ、女性を家庭に縛りつけ、いわゆる社会の指導層に入ることを妨げてきたことはあるだろう。そのことは女性にとって、不幸なことばかりだったのだろうか。
正確に言えば、男を地位や権力を手放さないできたのではなく、勝ち負けや成功失敗がはっきりせずにはおかない、地位や権力をめぐるゲームに巻き込まれてきたのであって、女はそのゲームから外されてきた」(P.37)のが実情なら、女性もまたそのゲームに加わることが必ずよいなんてどうして言えるのか。権力と呼ばれる強制力が、ずっと人間社会で必要とされてきた事情が、女性が中心の座を占めたところで変わるものではない。それは、政治や経済の指導層に女性が多く就くようになったヨーロッパの国々の様子を見ても明らかであろう。
 個々の女性の立場からしても。このようなゲームでは、確実に、勝者より敗者のほうが多くなる。職場で実績を出して能力が認められ、輝いているキャリア・ウーマンはいるだろうが、それは少数。まず大抵は、若い女性が嫌うくたびれたサラリーマンおっさんの女版になるしかない。女性も社会で働くのがごく当り前になった現在だから、そのことも明らかになったのである。
 いや、それすらもう古いのかも。「男に頼らない自立した女性」を持ち上げた雑誌記事などを信じて未婚を選んだ女性たちの、その後の嘆きを描いた松原惇子『クロワッサン症候群』が出たのは、昭和最後の、1988年である(文藝春秋社刊)。
 結局のところ、この点で従来の社会風習の問題点としては、意欲も能力もあるのに、女性だからという理由でしかるべき地位に就けない場合は、本人にとっても社会にとっても不幸なのだから、できるだけ改めたほうがよい、ということに尽きるのである。

Ⅲ.家庭の変貌。「継ぐもの」から「創るもの」へ。その中の男。
 近代日本の「家」の変貌について、歴史的なことは小浜はあまり言っていないので、私が別の機会に調べたことを下に略記する。
① 家(父)長制。明治31年完成の旧民法では、家長(法文では戸主)が家産のすべてを受け継ぎ、家人はその許可がなければ転居も結婚もできなかった。その代わり老親など、家人を扶養保護する義務も専一にあった。次代の戸主は、可能な限り長男が継いだ。
② 江戸時代では人口の八割以上を占める農民は、歩いて行ける範囲の田畑を耕して生計を立てた。同一地域に住居と仕事場がある人々は、協力し合うことも多い村落共同体の中で生活していた。明治以後、産業の発展と共に、大都市の企業に勤めるサラリーマンは、郊外に家を持ち、30分から1時間以上かけて通勤する「職住分離」が代表的な勤務形態になった。同時に、妻は、多くの場合、夫の補助としてであれ、農作業に従事することが当り前だった立場から、夫が仕事中に「家を守る」専業主婦に変わった。
 両方合わせると、家庭は縦軸(家名・家督)からのも横軸(地域社会)の共同体からも独立を強め、一国一城の如きものとなった。男と女が、お互いに相手を探して結婚して家族となり、子どもを産んで育てて、その子が成長したらまた新たな家族を創る。それがサラリーマンが勤労者の九割近くを占めるようになった現在の、ごく普通の家族の在り方であり、小浜が最大の価値を置いたものである。
 旧制度は男というよりは、共同体の最小単位、いわば細胞であると同時に生産拠点でもあった家(農家)を守るためのものであった。しかし、男性中心・優位を当然としてはいる。新民法では、この前提は建前上消えて、男性の優位は「金を稼いでくる」以外にはない。小浜はこの点では全く守旧派ではなく、こう言い切っている。「しかし、いわゆる男の権威なるものが実態のない前世紀の遺物にすぎないならば、この〈男は家庭内では無力であるという〉自己暴露は進めば進むほどよい」(P.249)。
 また地域社会は、よい時には、労働時の協力以上に、セーフティ・ネットとして有効に機能したこともあった。母が病気で寝込んだとき、隣家の奥さんが食事を作って持ってきてくれる、なんぞというのは、昭和29年生まれで農村育ちの私が実際に経験したことである。また、男女ともにいい歳まで独身でいると、近所の世話焼きおばさんがお見合い話を持ってきてくれることも普通にあった。すべての男女が独力で結婚相手を見つけられるわけではないので、おかげで助かった人もいる。今は結婚相談所があり、各種の配達サービスや福祉施設のサポートなどで、そういうのはいわばアウトソーシングされている。ただし、けっこう充実している場合でも、大きな家族のような地域社会が持っていた直接性や即応性にはどうしても欠ける。
 それこそが温かい人間同士の結びつきなのに、日本社会が豊かになり都会化した結果すっかり失われた、なんぞという保守的な人々にありがちな嘆きは、ものごとのせいぜい半面しか見ていない。これは「半ば戦後大衆自らが個人生活の快活さを求めて進んだ道」(P.258)であって、「「核家族」という生活思想の枠組みは、けっして後戻りもできず、また後戻りすることがよいともいえないような、強固な現実的基盤としての意味」(下線部は原文では傍点部。P.259)がある、と小浜は言う。近所中が昔からの知り合いで、雨戸以外は障子一枚で外と仕切られた家では、プライバシーなどないも同様、それは不快だ、と多くの人が思わなかったら、今のような世の中にはなっていないはずだ。
 その上で考えるべきこと。「家庭が無条件に憩いの場であってほしいというのは、男が飽くことなく抱いてきた幻想」(P.246)だが、その構築と維持には現在特有の難しさがある。そもそも「家を守る」というが、家名なんぞというのは江戸時代には名字もなかった庶民にはもともと関係ない話なのだし、「位牌を守る」というのは、お盆の時の民族大移動的な故郷への墓参の形でまだ残っているとは言え、日常的にはすっかり薄れている。今の家が具体的に守るべきものは、子ども以外にはない。だから、家庭の中心課題は子ども、その「教育」になった。
養育時間の自立と、平等社会というイデオロギーと、親の職能伝授による成長促進の喪失。〈中略〉この三条件はよく考えてみると、すべて子どもが成人するまでの時間をいったん白紙の状態に置き、そこへ他者主導型の「教育」という過程を介入させる予備条件の意味を持っている。」(P.253)地域共同体という目に見える中間項が崩壊した状態で、子どもの将来の社会的な価値を測ろうとすると(測らないわけにはいかない)、国家大の一般的な尺度によらざるを得ない。偏差値とか、有名大学への入学とか。それを示すのは、学校とそれに付随する教育産業などの外部機関だ。核家族、なんぞという言葉がもう使われなくなったほど当り前になった現在では、仕方のないなりゆきではある。
 それでも、子どもの扱いに迷ったとき、外部の「専門家」に頼るまでは仕方がないとしても、それに家庭の内部事情まですっかり委ねるのは「グロテスク」(P.256)でしかない。一般社会と家庭は本質的に違う場所だし、そうであるべきなのだ。
 また、社会的な評価基準は、夫を測るためにも当然使われる。収入とか、企業内の地位とか。妻子から見てもそれが男の価値のすべてになったりしたら、実質的に家庭崩壊である。
 すべてひっくるめて、家庭というエロス的共同体であるべき場所もまた、タダで手に入るものではないことが明らかになった。男もより主体的に家庭に関わることが求められる。それは必ずしも家事や育児をもっと分担しろという意味ではなく、「男はおざなりに用意された空虚な権威性や古い枠組みに安住せず、家庭内における存在性を人間的実力によって獲得すべき」(P.260)なのだ。
 ただ、こう言うだけなら、単なる説教にしか過ぎない。それはもちろん小浜も気づいていて、「好むところでもなければ、得意とするところでもない」が、「ある望ましい心構えを私たちが形成することは、現在の社会体制のなかにある問題点を少しでも鮮明にすることに寄与するかもしれないと考えて、あえて慣れないことを試みた」(以上P.261)と付け加えている。
 また、後の著作では、父親像を「家父長型」「人まかせ型」「友だち型」の三タイプに分け、「一つの前提」として自分がどういう傾向に陥りやすいか、少しでも意識してほしい、「その後は、自分及び自分の家族にとって一番いい父親像とはどういうものかということを、各自で模索していくしかない」(『中年男性論』筑摩書房平成6年P.93)としている。一般的に言えるのは、これがせいぜいなところなのは、了解できる。

Ⅳ.セクシャリティー(性の在り方)について
(1)「見るー見られる」関係

男は女との出会いの瞬間から、女の直接的な身体性を性的信号として受け取っているが、その信号は、もともとエロス的な関係の全体性にむかって開かれてゆく可能性を持っている」(P.55)。その場合まず肝心なのは、見る側と見られる側を固定しないことである。固定されたら、それは正に権力の関係になる。秘密の裡に徹底的に監視されていて、ゆえに完全に管理されているG.オーウェル「1984」を思い浮かべるとよい。その関係が「全体性にむかって開かれてゆく」ためには、〈見返す〉眼差しが必要となる。
 倫理学の点で小浜が最も影響を受けた和辻哲郎の言葉を、以前にも引用したが、もう一度引いておこう。

間柄において「ある者」を見るときには、この見られた者はそれ自身また見るという働きをする者である。だからある者を「見る」という志向作用が逆に見られた者から見返される。このことは「見る」という働きが単なる志向作用ではなくして間柄における働き合いであることを意味している。(和辻哲郎『人間の学としての倫理学』)

 これを男女関係で考えると、「女は性的主体として受動的であることによって能動的である。彼女は自分の心と肉体を他者のまなざしにさらすことを通じて自分の性的主体性を確認してゆく。「見られる」ことは「見せる」ことでもある。」(P.70)
 〈見られる〉身体を〈見せる〉ものとして主体的に引き受ける時、〈見る〉者としての(普通は)男を引き受けるかどうかの決定権も得る。レイプとセックスは違うが、(普通は)男との行為が暴力であるかエロスの関係であるかは、女性の思い次第である。
【もちろん「不同意性交」などで罪に問われるとしたら、一応でも客観的な基準が必要になるが、それはあくまで社会的関係の次元の話。男性は、女性に認めてもらえなかったら、性交はできても、エロス的関係にはなれない、ということ。】
 上記の〈確認〉は生涯のかなり早い段階で起きる。「女の子は、性の目覚めを生活に連続するものとして受けとめるが、男の子は、一回ごとの行為〈ここは「行為」ではなく「欲望」では?〉に促されるものとして受け止めてしまい、自分に起こっている問題を自分の未来や具体的な他者につなげていくことに困難を見出す。そういう原基的な世界経験の差異というものが、言語とか思考とかの領域において、世界への向き合い方についてについてのある〈男女別の〉特定のスタイルを無意識に選び取ることに作用していないはずはない」(P.150)。
【ちょっと疑問なのは、女性は性自認において完璧に安定してるというラルフ・R・グリーンソン(マリリン・モンローが最晩年に頼った精神科医で、彼女との数十時間に及ぶ面談テープを遺したことで有名)の言葉を小浜は引用し(P.218)、賛同しているが、本当だろうか。男からすると、12歳前後に初潮を迎えてから女性の身体になっていき、それと同時かその後に〈見られる〉性であることを引き受ける心の過程はかなりドラマチックではないかと想像される。それを経た(のか?)女性は、なるほど、男性よりずっと落ち着いて見えるけれど。】

(2)哲学男と物語女
 「人間〈特に男〉は社会的動物である」という自己認識がいかに偏ったものであろうと、男は、他人の目にも見える形で、つまり自分の外側で、何かを達成してナンボ、という価値観は少なくとも当分は変わらないだろう。
 セックスもまた、男にとっては達成すべき事業の面がある。「それ〈男性にとっての性行動〉は、道具を用いて「一仕事やってのける」というイメージにたいへん近い。それは短時間で終結してしまう一回ごとの物語であり、彼(の意識)は、その終わりを「やれやれ」といって離れることができる」(P.120)。つまり、男にとっての性行為は、勃起(スタンドバイ)→挿入(過程)→射精(完成)と順序立てて進む作業であって、終わったら「ご苦労様」と、誰も言ってくれないが、自分で自分に言いたくなるイベントである。
 これに対して女性は、「一般にからだのいろいろな部分をさわられることに非常に敏感であり、〈中略〉しかも女性器は身体の内部につながる器官であり、膣にペニスを挿入されるという受け身的な経験は、それが本当に快楽を引き起こすなら、全身への拡張を容易にし、ちょうど体内の痛みが心の注意を強く引きつけるように、しかしそれとは逆の意味で、心的なはたらきを喚起する度合いが強いように思われる」(小浜『エロス身体論』平凡社新書平成16年p.170)。
 つまり女性の性体験は〈全人的〉であり、その相手である(普通は)男の、ペニスではなく、〈人間性〉はより大きな問題にならざるを得ない。また自分が単なる女(≒女性器)として扱われることには大きな屈辱を感じる。
 さらに、「〈子どもを産むポテンシャルのために〉自分の人生について彼女はあるイメージをもってしまい、自由で不安定な状態にとどまることの可能性が自然と狭められる。授乳と養育に駆りたてられるのは、単に機能的な必要性の観点からそうなるのではなく、彼女の心身そのものが大きな方向性を受けとってしまうからそうなるのである。彼女は、自分が主人公である長い物語を与えられた」(P.122)
 赤ん坊は女性にとって文字通り血肉を分けた分身なので、母親はそれに〈とっての〉存在であることはごく自然に受け取られ、それとのともに生きていく物語もまた自然に受け入れることができる。
 言い換えると、「女はエロスの神に正式採用されるが、男はいつも臨時雇いにすぎない」(P.123)ので、「一人の女とエロス的な時間を共有しようとするとき、男は自分のエロス的なものの欠損部分を、倫理的なものによって補償するしかない。愛と呼ばれるものは、男にとって半ばは倫理であり、愛そうとする意思である。」(P.150)。ヤッちまって孕ませちまったら女とガキが生きていけるように責任取るしかないよな、というような倫理と意思。この哲学を実践する自分はカッコいいぜ、という、またしても誰も言ってくれないが、自分で思うのは自由で、そんな快楽が男には大事なのである。
 一応の結論。「男は社会、女は家庭という分業形態は〈中略〉なかなかに変わり硬い人間的性差を根拠とした、一つの支配的な現象形態であった」(P.143)「蓋然的なことしかいえないのだが、要するに、この〈男女の分業上の〉違いは、原初的な性差と、それに基づく歴史的分業過程との合作」(P.144)なので、そんなに容易には変わらないし、無理に変えるべきものでもない。だからといって女性の社会化(社会進出)が進むこと自体がいけないわけではないが、その場合でもこれを視野に入れていたほうが、男女双方とも幸せになりやすいだろう。
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小浜逸郎論ノート その1(序)

2024年01月24日 | 倫理

Bronze statue of Eros sleeping, 3rd–2nd century BCE, Collection of the Metropolitan Museum of Art, New York

 昨年物故した小浜逸郎さんは、もしかしたら日本最後の思想家ではないかと思います。
 知識人や広い意味のジャーナリスティックな言論人なら今もいるし、これからも登場するでしょうが、思想家は。この言葉を見ただけで、何やら時代遅れのような、場違いのような気が少しするでしょう。思想を、今簡単に、〈言葉で、人間と人間世界の在り方を根源的に捉え、そこから可能な「あるべき姿」を探求しようとする試み〉だとすると、そもそも、言葉に対する信頼感がもうそんなにないんだよ、という気分に突き当たります。これには、いささか心が寒くならざるを得ません。
 それでは何ができるか? もちろん大したことはできせんが、とりあえずの試みの場として、我々には、小浜さんが著作以外に遺してくれた「日曜会」という勉強会があります(左側コラムの「ブックマーク」の一番上にHPのリンクがあります)。元は小浜さんが始めたのですが、30年ほど続くうちには、それなりにいろいろあって、今はかつて事務連絡を担当していた私が主催ということになっています。いままでにももちろん小浜著をテキストに採り上げたことはあったのですが、改めて、若い世代を中心に、小浜思想の検証を行えばどうだろう、と思いつき、その若い世代の賛同を得ることが出来ました。
 その最初として、昨年の11月12日、高校時代から小浜逸郎の著作に親しみ、最近全著作読破をなしとげたという若き哲学徒・Fさんに、小浜逸郎の全体像を概観する発表をしてもらいました。小浜は著作だけでも、新書本を含めて50冊以上あり、短い時間で語るのは至難の業なのですが、よくまとまった、しかも真摯な情熱が伝わってくる発表で、感心しました。
 発表のタイトルは「小浜逸郎 《生活者の思想》」(このときのレジュメ、というよりそれ自体立派な論攷は、なぜかここには直リンを貼れないのですが、左の「思想塾・日曜会」から「しょ~と・ぴ~すの会」GO⇒「現在までの記録」GOの順にクリックしてもらえると、全文アップしているページにたどりつきます)。これは、西洋哲学・思想を初めとする様々な理論を学び、現代社会に対する精緻な分析も示しながら、それを必ず、この世で実際に生きている人間=我々の場において検証することを忘れなかった、そこに小浜さんの最大の特質がある、ということです。そう言うと、けっこうありふれている評のようですが、もっとずっと掘り下げて考える値打ちがあります。
 今簡単に入口だけを言いますと、小浜の出発点であった初期三部作(『学校の現象学のために』『方法としての子ども』『可能性としての家族』)で展開した方法論があります。学校・子ども・家族は、誰にとっても身近な領域なので、改めて思想の対象にされることはそんなに多くはない。なっても、それはいわゆる上から目線の、学校は/家族はこうあるべき、といった「べき論」の立場からのものがむしろ普通です。
 別の言い方をすると理念先行型で、現にそこで生きている人々の実態・実感は二の次にされる。そのため、現実には不幸をもたらすことのほうが多いようにように思います。
 教育論という名の学校に関する言説には、特にこの傾向が強いです(『学校の現象学のために』は当ブログではここでとりあげました)。そこで小浜はまず、それらを「おこさま教」「おめでた教」「おなみだ教」等々とサンプリングして、その非現実的な、今で言うお花畑的な思考、というより、「~教」のネーミングからうかがえるように、例えば「子どものすばらしさ」は絶対の真理とする一種の宗教と言うべきもの、をぶった斬っていく(この論者の中には現役の教師もいる。現に生徒に接しているときと、論を述べる時には自然に別人格になるらしい)。 
 実のところ、「子どもは素晴らしい」「教育は偉大だ」と浮かれているだけならいい。困るのは、では、「すばらしいとは言えない現実はどうして生じたのか」に転じると、ただちに、「それは教育を与える主体たる教師が悪いからだ」になる。最初からこれが言いたかったとしか思えない言説者(評論家や行政者)も多く、教師は、一切の反論は許されず、まともに聴いたりしたら、無力感に苛まれるしかないような代物です。
 しかし見かけだけだと、理念先行型は、都合の悪い現実を些事あるいは夾雑物として最初から捨てているので、一見いかにも颯爽としていて、明快で、「覚悟がある」言いようになる。これは、特筆大書したいのですが、全くの錯覚です
 一方、現実の諸条件を踏まえている言論は「理念はかくかく、しかし現実はしかじか」という具合に揺れるので、どうしても「ああでもないこうでもない」(『男はどこにいるのか』初版の「あとがき」にある小浜の自認)の煮え切らない印象がつきまといがちになります。
 さらには、「それでいい/仕方ない」という意味での現状肯定の動機を秘めているようにも見えてしまいます。それもあって、小浜はやがて、保守的言論人の一人にカウントされるようになりました。

 本年1月に、Fさんの跡を継ぐ形で、私が、男性論、というか男女関係論を定点として、そこから見えてくる小浜思想の特質を考えましたが、このことに改めて気づく機会になりました。
 一つにはこれは、家族や学校より以上に身近過ぎて、本格的な思考の対象にしようなどとは滅多に思わないトピックだからです。誰もが性別のカテゴリーを無視して社会で生きることはできません。具体的な異性を意識することとは別に、男はどうたら女はこうたらいう話を、一度も言ったことも聞いたこともない大人は、たぶんいないでしょう。多くは、飲み会などの場で。たいへん一般的であると同時に、徹底して個人的(プライベート)な問題。非常にデリケートで感情が絡んでくるのは避けられない問題なので。
 逆に、何を言おうと、「そんなの、人それぞれじゃないか」という感想をもたれがちですし、「いろいろコムズカシイ理屈を並べているが、結論は当り前のことじゃないか」というのもあります。むしろこういうほうが多いかも知れませんね。小浜の著作は、そこでまた、読む人を選んでしまうのです。

 それでもこの主題は、小浜の文業の中では家族論→倫理論と(狭い意味の)エロス論、現代社会状況論にまたがっていて、その重要な一部を成しています。今回と次回の二回に分けて、発表のレジュメに基づき、ここで採り上げられている論点のいくつかを整理して、自分の感想を加えて、私の小浜逸郎論の最初にしたいと思います。
 テキストとしては、六冊目の単著、『男はどこにいるのか』(草思社平成2年→ちくま文芸文庫平成7年→ポット出版平成19年)を主に使用します。時に小浜逸郎は43歳。後にこのテーマは、『中年男性論』(筑摩書房平成6年)『中年男に恋はできるか』(佐藤幹夫との対話形式、洋泉新書y平成12年)『男という不安』(PHP新書平成22年)などで展開されるのですが、若い時代の文章は、やや硬いのですが、その分勢いがありますし、また目配りの広さも一番です。引用文末の頁数は断りがなければポット出版版『男はどこにいるのか』のものです。

Ⅰ.小浜の大テーマ・権力とエロス。人間関係の二原則。
 晩年の主著『倫理の起源』(ポット出版平成31年)にまで至る小浜の倫理観、小浜倫理学と言ってよいものは、その基本は人間同士の関係性を二大別するところから始まる。「人間はおおむね社会生活とエロス的生活という二つの生活軸を抱えて生きている」(P.251)
 この二つの中でも小浜にとって重要だったのはエロス(的生活)であったことにまちがいはない。エロスなる言葉については、いろいろなことが言われているのだが、小浜独自の定義と言えそうなものを同書の中から探すと、「自分が誰々に「とっての」存在であると同時に、その誰々も自分に「とっての」存在であるような生き方」(P.142)がそうだろう。つまり、その人間の存在自体が問題になる、真にかけがえのない者としてある関係性がそうなのだ。
 それならば、全人的な関係とか、人格的な結びつきとか、他にも言い方はあると思うのだが、なぜ誤解を招きやすい「エロス」に最後までこだわって使い続けたのか、今回『男はどこにいるのか』を久しぶりにじっくり読み返してみて、わかるような気がした。男女の性愛関係こそその典型だと考えていたのだ。これについては後述する。
 一方社会的な関係の場においては、権力が必要になってくる。権力とは「ばらばらな人間意思を、その個々のものの思惑や属性のいかんにかかわらず一つにしてしまう意思の実現」。従って、「この定義に関するかぎり、権力的であることは、非エロス的である。なぜならば、エロス的関係が本来的な意味で成り立つ場合には、まさに相手の個別性や思惑そのものを媒介として融合することがめざされている」(以上P.126。下線部は原文では傍点部)のだから。
 しかし、「「人間は社会的動物である」という偏った自己確認が、男のアイデンティティを圧倒的に支配してきたために、その領域における人間関係の基本的なポリシー(引用者註、権力関係、だろう)に基づいてエロス的な領域に向き合う傾きが、歴史的に習慣化してしまった」(P.127)。これは誤りであり、エロス的関係の場であるべき、普通は家庭を中心として、その安寧を守ることを外部の共同体、その最大のものは国家、の至上命題とするように編み変えるべきである。そこに、小浜倫理学の眼目があった。「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」(ブログ『小浜逸郎 ことばの闘い』中「倫理の起源61」2015年1月21日よりコピペ)
 以上の二区分は、純粋な理念、概念規定であって、軍隊の指揮官が大勢に号令するような場合は別として、個人に命令する場でも、いっしょに生活する場合でも、必ず幾分かはこの二つの感覚は認められる。企業のような利益共同体であっても、ある者の仕事の上での有能さとは別に、その者の人間性に関する上司や同僚からの好悪は必ず問題になるし、たとえ夫婦二人きりの最小の共同体であっても、社会は社会なのであり、時を過ごすうちに、二人の成員のうちのどちらかが、権力、と言って言葉が強すぎるなら、主導権を握るか、は自然に決まってくる。
 人間はさほど純粋な存在にはなり得ない、ということで、それぐらいは小浜にも当然分かっていた。

 それとは別に、上記について私の疑問があります。大別して二つ。両方とも小浜さんに直接訊く機会があり、うるさがられました。
(1)エロスそのものの中に、権力欲、に似た欲求が認められるのではないか。言い換えると、エロスと呼ばれ得る一個の人格そのものへの親密な感情の中には、その人のためを思う、というのとは逆向きな、完全に支配して、ついには破滅にまで至らせる淫猥な権力衝動が働いている場合があるのではないか。
 このことについての思い出は、このブログでトルストイの家出騒動(をめぐる正宗白鳥と小林秀雄の論争)について触れたとき、小浜さんが妙にのってきて、エロス(このときは、現在普通に使われているエロスの意味に近かった)について、いろいろ語ったことです。それはフェイスブックのメッセージでもらったのですが、どういうわけか今は消えています(たぶん、向こうが消したんでしょう)。それで私が調子に乗って、便乗する形で、ザッヘル・マゾッホと谷崎潤一郎を題材にしたエロスー権力論を↓に書いたら、それっきり何もお応えはなくなりました。
 権力はどんな味がするか その7(槌か鉄床か)

 もっとも、この点では小浜さんのほうがまともなのかも知れません。いずれにしろ、このテーマは、彼とは無縁なので、別途に考察していかねばならないでしょう。

(2)家族(的なものを含む)こそ最重要、そのためにこそ国家などのより大きな共同性は機能すべきだという考えは、革命的であり、あまりに理想的過ぎる。小浜はかなりの部分、その困難には敢えて目をつぶっているふしがある。第一、前記「生活を共有する身近な者たちが……限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」の部分は、これだけなら戦後日本の進歩主義者が言ってきたこととほんとんど変わらない。
 これは小浜倫理学の枢要に関わるので、今後できるだけこだわっていきたいと思います。今回は、参考までに、以前のブログ上のやりとりを以下に紹介するだけに止めます。
 まず『倫理の起源』の元、いわば初出である小浜ブログ『ことばの闘い』の連載記事の一つ。この時採り上げられた百田尚樹「永遠の0」を題材に、日曜会で討論したばかりだったので、それに基づき、私が長文のコメントを寄せました。
 「倫理の起源60」2015年1月15日

 ↑の私へのコメント返しの最後に、「そのうえでまたお話ししましょう」とおっしゃってくれたのを真に受けて、自分のブログで、小浜さんと、当時は日曜会の常連メンバーの一人だったW.H.という人を相手に(するつもりで)書いた拙ブログの記事。
 「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その1)」
 
 私の不躾さに戸惑いながらも応えていただいた小浜さんの文章を読み、掲載させていただいたうえで、さらにもう一度書いた記事。
 「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その2)」
 
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書評風に その6(夢野久作、スティーヴン・キング、アイラ・レヴィン)

2023年12月28日 | 文学
 極私的怪奇小説ベスト3を挙げます。今はホラーと言ったほうが普通なんでしょうが、後に「小説」をつけると、個人的には「怪奇」のほうがしっくりします。ともかく、超自然の要素(らしきもの、を含む)がある小説の中から、比較的強く記憶に残っている長編三作品、並べてみると、改めて、三作とも、作風というか、主題あるいは中心の思想というか、はまるで違うことがわかりました。そこがまた面白い、とこれまた個人的に思っています。ネタバレを含むことは了承してお読み下さい。

◎夢野久作「ドグラ・マグラ」

「ドグラ・マグラ」 松本俊夫監督 昭和63年

 おそらく世界一奇妙な小説です。わけがわからないということなら、私が若い頃文学オタクの間では流行っていたヌーボー・ロマンとか、たくさんあるんですけど、これは一応わけはわかるのに、奇妙なんです。読んだ人は気が狂う、と言われているようですが、私は(たぶん)大丈夫だったので、大丈夫でしょう。
 何が変なのかって、まず時間感覚。分量はドストエフスキー「罪と罰」と同じぐらい。こちらはエピロローグを除いて、作中で〈現在〉として進行する時間は二週間、そこに折々過去の回想がはさまる。「ドグラ・マグラ」の語り手は記憶喪失者で、彼が体験する〈現在〉は一晩、あるいは一瞬かも知れない。それでいて千年以上前の歴史も絡んでくる。それに、これだけ長い小説なのに、章立てがなく、時間は連続しているが、最初と最後はぴたりと重なって、円環を成す。
 ただし、中ほどには、変人の精神医学者・正木博士が、畢生の大論文「脳髄論」の内容をさまざまな形式で書き遺したという「絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず」など六種の文書が、〈私〉に示され、その中身が本作の三分の一ほどの部分を占める。ここで示される脳の機能論(脳はすべての細胞に貯蔵されている記憶をまとめる、オーケストラの指揮者の働きをする)も、全体の時間概念も、一度だけ名前が出てくるベルクソンを思わせるが、もちろん科学的な真相が問題であるわけはない。また、人間は胎児のうちに、細胞中の記憶を夢に見ている、というユングを思わせる説が、重要なプロットとして使われているが、ユングの名は登場せず、作者がどれくらい本気でこれを信じていたかも明らかではない。
 六種中の他の文書の中には、「ドグラ・マグラ」という題名の、大学の付属病院に入院していた学生(それが〈私〉であることは推測できるが、明確にされない)が書いたとされるものもあって、「超常識的な科学物語」か、などと評されている。中身はもちろんこの小説全体ということになるのだろう。こうして作品の〈内〉と〈外〉もメビウスの輪のようにつながっている。
 ここまで凝った構成なのに、〈私〉の語りは平易で、緊張の糸が途切れることなく持続していて、読み終ると、「とても長い短編小説」だな、という気がします。そこが一番すごい。テーマを一言で表現すると、「時間と記憶の鬼ごっこ」というところでしょうか。それがこんな構成を必要としたのだな、ともよく納得されます。
【↑の映画は、原作小説の一つの解釈を軸にして、迷宮のような世界をうまくまとめた名作です。この中で正木博士を好演した桂枝雀がその後鬱病で自殺したのは、多少因縁めいて感じます。】

◎スティーヴン・キング「It」

It, directed by Andy Muschiett, 2017

 一番根幹のはずの、怪物イット〈それ〉の設定が、ちょっとどうかなあ、と思えます。宇宙の誕生時に既にいた、悪の根源なんだとされるんですが、そんな究極的にすごいものが、アメリカの小さな田舎町の地下に潜んで、子どもの恐怖心を餌にしている、というのは、スケール感がちぐはぐじゃないか、と。
 だいたい、〈それ〉の本当に本当の正体なら、小説の最初の頃に、簡潔に言われている。「あいつはこの町そのものなのよ」と。至って平凡な町なのだが、その底には人々の集合無意識と呼ぶべき悪意が淀んでいる。七人の主人公たちは最初ローティーンとして登場し、虐待、喘息、肥満、などが原因で、それぞれトラウマがある。前々回述べたことだが、子どもにとって我が身に降りかかる悲惨は、不条理で、悪意そのもに見えるものだ。彼らが「負け組クラブ」を結成して、悪意の象徴である〈それ〉と戦うことでトラウマを乗り越えようとする、それが本作のプロット。
 しかし子どもの頃には〈それ〉を倒しきることはできず、27年後、町からは再び子どもが消えるようになる。かつての戦いを通じて固い絆で結ばれた七人は、黒人の子一人を除いて、町を出て皆けっこう社会的な成功者になっているのだが、このときの戦い後に交わした約束を思い出し、故郷に戻る。ただし、そのうちの一人は、おぞましい体験が再び甦ってくることに耐えきれず、自殺してしまう。残る六人が、町の不潔な地下道を辿り、再び〈それ〉と巡り会う。
 本作は成長物語です。大人になるためには、発達課題をクリアしなければならない。しかしそれが成し遂げられたとき、辛かったけれど懐かしくもある子ども時代は失われる。その端的な象徴として、成長した元「負け組クラブ」の誰にも子どもはいないし、〈それ〉の消滅とともに、幼い頃の記憶は失われる。後には達成感と裏腹な哀切感が残される。奇怪な冒険物語を借りて、そのような心の過程を痛切に描き出した、そこに本作の真価があります。
【最近できた映画は、けっこうヒットしたようですが、どうも少し……。主人公たちの子ども時代を描いた前編はいいのですが、後編の「End」は(原作では子ども時代編と大人編が交互に、ないまぜに進行するのですが、それを映画でやってはエンタメとしてはあるまじきほどにわかりづらくなるから、時代別に二つに分けた配慮は、しかたないことでしょう)。風船に結ばれて宙に浮いている子どもたちの画像は怖いですけど、ペニーワイズが蜘蛛の格好になって暴れるのは、「これが恐怖の本体だっていうなら、結局全部冗談かよ」という気分になってしまいました。】

◎アイラ・レヴィン「ローズマリーの赤ちゃん」

Rosemary's Baby, directed by Roman Polanski, 1968

 揺るぎない構成が冴え渡っています。題材は「悪魔の花嫁」とでも言うべき、いかにも古いゴシック・ロマンそのものなんですが、それを1960年代のアメリカに完全に生かしきっています。
 夫は駆け出しの俳優で妻は専業主婦の若夫婦が、ニューヨークの近代的なアパート(ジョン・レノンが住んでいて、その前で射殺されたダコタがモデルだという話を聞いたことがある。でもあれ、高級アパートのはずで、売れてない俳優の稼ぎだけで借りられるのか? と少し疑問)に引っ越すことになった夫婦の、日常的な生活の、トリビアに渉る描写から、周到に伏線をはりめぐらせていって、ついに完全に異常な世界にまで違和感を抱かせることなく話を運ぶ。そのために、話の途中で妊娠する(これがキー・ポイント)妻の不安定な心理状態も非常に効果的に使われていて、作者は男性なんですが、よく勉強しているなあ、と思えます。
 そしてまた、母性の強さによって、強大な悪と戦うヒロインの姿は、非常に感動的です。
【こちらの映画は、今日まで名画として知られていますね。ミア・ファローのスクリーン・デヴュー作で、若妻を初々しく演じているのも好感度が高いですし、原作の本質を生かして、さりげなく恐怖感を高めていく演出も見事です。先に小説を読まずに見たら、きっと怖い思いをしたでしょう。】
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