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中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

牛の鼻欠け坂(木曽路に向って登り坂道の始まり)(旧中山道を歩く 234)

2011年03月21日 11時56分00秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(謡坂の石畳)


(右御殿場)

(御嵩宿 2)
枯葉に覆われた謡坂の石畳を下ると、「右御殿場」の石標があり、
右に入る通路がある。
脇に

・撫し子や 人には見えぬ 笠の内  (子規)

の句碑がある。

また脇にマリア像の矢印もあるのでそちらへ行ってみる。
道路を出たところは、広い道路に面しており、脇に
マリア像が建立されている。
マリア像の裏側に、沢山の小さな五輪の塔が並んでいるが、
説明によると、道路工事中に発掘されたものと言う。
五輪の塔よりもその下にあった石に十字が書かれた石が多数発掘され、
これが十字架を表わし、キリシタン信仰の遺物と思われた。


(子規の歌碑)


(マリア像左の案内)


(マリア像を後から建立した)


(マリア像の後ろにある五輪の塔)


(マリア像の後ろにある五輪の塔2)

しかし、以前隠れキリシタンについて調べたことがあるが、
ハッキリした決め手に欠けることが判っている。
だから、これも隠れキリシタンの証拠となる決め手には、
どうも欠ける臭いがする。
だからかどうか分らないが御嶽町教育委員会が取り上げていない。
ただ観光のための
「隠れキリシタン」だと思っていたほうが話題性に富むので、
話をキリシタンにしたのだと思われる。

その証拠に教育委員会がキリシタンの説明をしていない。
説明をしているのは観光協会である。
(昭和59年三月謡坂地内で、道路工事中に、
たまたまキリシタン信仰の遺物が発掘されました。
その後の調査で 小原、西洞、謡坂地内で、
数多くの貴重な遺物が相次いで発見され、
この地に多くのキリシタン信者がいたことが判明し、
歴史上大きな資料となりました。
幕府の過酷な弾圧の中で発覚もせず、
ある期間信仰が続けられたのは、
奇跡であると思われます。――後略)(御嵩町観光協会)

その他、奈良井宿のマリア地蔵、
全国にあるキリシタン灯篭(織部灯篭)など、
どれもキリスト教の信仰としての確かな証拠はない。
話を隠れキリシタンにすると、確かに納得がいく面もあるが、
その道の専門家によれば、確かな証拠は無く、
すべてこじ付けであるという。


(謡坂石畳の終り)


(小さな橋を左折)

話は戻って、謡坂の石畳は終り、
渓流を越え、小さな橋を越えて広い道路に出る。
旧中山道の案内は、左をさしており左に向って坂を下る。
ぐんぐん坂を下ると右側の岩に張り付くようにして、
「耳神社」がある。

説明によれば、
(全国的に見ても珍しい耳の病気にご利益がある神社です。
平癒の願いをかけ、お供えのキリを一本かりて耳に当てます。
病気が平癒したらその人の歳の数だけキリをお供えしました。
キリは本物でなく竹で作ったものでも良く、――中略――
元治元年(1864)竹田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げて率いた水戸天狗党が中山道を通った時、
耳神社の幟を敵の布陣と思い、
刀を抜いて通ったと伝えられています。)(御嵩町 西洞)


(耳神社)

道路はさらに下るが、途中右に入る道があり案内もあるので右折する。
右折してしばらくすると、道はY字路となり右の方向に進む。
「牛の鼻欠け坂」と名づけられた坂に入っていく。
名前どおり歩く牛の鼻が地面に擦れて欠けてしまうほど急な坂道が続く。
江戸側からは少し登り、すぐ下り道になるが、その急なことは、
杖でもないと降りられないほどである。
京都側からは急な上り坂で、
「牛の鼻欠け坂」とは名づけて妙な名前の坂である。

御嵩町の面白おかしい説明によれば、
(「牛坊 牛坊 どこで鼻かいた 西洞(さいと)の坂で かいた」という言葉が残るように、
ここ西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、
荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な上り坂でした。――後略)

江戸方面から見れば、坂の降り口に一軒家が建っているが、
京都側から来れば、これから坂の始まりだぞ、
この先木曽路の坂が延々と続くから、
覚悟するようにと教えているように思われるが、
そう感じるのはボクだけであろうか・・・


(案内がある右折場所)


(綺麗なY字路を右側の道へ)


(心細くなるような枯葉の道)


(くだりの急な道)


(さらに下る道)


(坂の終りの一軒家)

その後道路はアスファルトの道路が続く。
広い通りに出たら左折、
しばらく行くと右折案内があるので、そこを右折する。
さらに左折案内にしたがって左へ行き、国道21号線にでる

国道21号線に出たら右折し、
少し行くと右手に石碑があり、
「右・中街道 中仙道大井驛へ達」と書いてあり、
 
「和泉式部廟所」右へ案内矢印がある。

(広い通りを右へ)


(中街道の石碑、後ろに和泉式部廟所の案内が見える)







謡坂(うとうざか)の石畳(旧中山道を歩く 233)

2011年03月13日 10時29分00秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(紅葉の下り道)


(竹薮を抜けて)

(御嵩宿)
ここから道路は下り道となる。
美しい紅葉や竹薮をみて、
「唄清水」の前を通る。
清らかな水が年中湧き出る「唄清水」は中山道を上下する旅人の疲れを癒した
であろうと想像される。

・馬子唄の 響きに浪たつ 清水かな (五歩)

と詠われた句碑が嘉永七年(1854)傍らに立っている。
(五歩とは、千村征重のことで、
久々利九人衆の一人・千村助右衛門重次の分家に当り、
日吉(瑞浪市)の南垣外(みなみがいと)
に住んでいました。)(御嵩町教育委員会)



(唄清水)


(広い通り、左手奥が「一呑の清水」)


(一呑の清水)

道路は下って広い舗装道路に出るが、
この左側に「一呑の清水」がある。
(清水は二つに仕切られ、中山道の旅人用が上に、
牛馬用が下に仕切られています。
文久元年(1861)皇女和宮が降下する際、
この清水を賞味され大変気に入ったといわれ、
後に多治見市の永保寺に滞在の際、
わざわざこの水を取り寄せて点茶されたと言います。)(御嵩町教育委員会)

広い道を、すこし下ると右手に「十本木立場跡」がある。
(宝暦五年(1756)刊の「木曽路安見絵図」にも記載あるこの十本木立場は、
もともと人夫が杖を立て、
駕籠や荷物を下ろして休憩した所から次第に茶屋などが設けられ、
発展したそうです。――後略)
この広い道を二十メートルもいくと左の脇道に入る道路が旧中山道で、
脇道に入ると紅葉が美しく見られる。


(十本木立場跡)


(美しい紅葉、この先に一里塚)


(謡坂の一里塚、南塚が林の中に見える)



(広重画 木曽海道69次之内「御嵩」)


(広重のモデルとなった木賃宿?)

道路は右に曲がっているが、その先に塚がある。
「謡坂の一里塚跡」である。
跡と書いたのは、この一里塚は復元されたものであるからだ。
その先に元旅籠と思われる家が建っている。
安藤広重は「木曽海道69次之内 御嶽」をここで描いたといわれている。

この先は道路が下りの石畳となり、
当時の馬子が鼻歌を歌って下る気楽な道になるので、
これを「謡坂(うとうさか)」といった。

また、別の解釈では、
(この坂の登りは急なため、
旅人たちが自ら歌を歌い苦しさを紛らわしたことから、
「うたうさか」と呼ばれ、
それが転じて「うとうざか=謡坂」になったのだとも言われる。
険しく続く山道、道の上を覆うような沢山の木々、
足元に生える草花など、
謡坂の風景は今も当時の中山道の風情を
色濃く残しています。)(御嶽町)

今でも石畳は残っており、

枯葉がその石畳を覆いつくしている。

(謡坂の石畳)





鴨乃巣(こうのす)の一里塚と見晴台(旧中山道を歩く 232)

2011年03月08日 10時24分08秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(曲がりくねった土の道)


(土の道)


(秋葉坂の三尊石窟)

(細久手宿 2)
枯葉がかぶった土の道は、
すぐ登りになり、左へ右へカーブしていく。
曲がり終えた途端、右手の一段高い所に観音様がある。
秋葉坂の三尊石屈である。

一体一体が横穴の奥にあり、
右の石窟には三面六臂の馬頭観音立像、
中央に一面六臂の観音座像、
左には風化の進んだ石造が安置され、
石窟の右端に残る石灯籠の棹には、
天保十一年(1840)の銘があります。
なおここは石窟の上に秋庭様が祀られている事から、
秋葉坂とも呼ばれています。


(三面六臂の観音立像)


(一面六臂の観音坐像)


(風化した石造)


(石灯篭)

石畳なのかごろ土なのか分からない道路を曲がりくねって行くと、
左に「鴨乃巣(こうのす)道の馬頭文字塚」があり、
林の中にそれと思われる石造物が、
さらに離れた先の左側に「鴨乃巣(こうのす)辻の道祖神」と
「右 鎌倉街道」の石標がある。

やがて右側に「鴨乃巣(こうのす)の一里塚」が見える。
この一里塚は地形の関係なのだろうか、
北塚と南塚の間が十六メートルほど離れている。
江戸から91番目の一里塚である。
ここから道路は下り坂になる。


(馬頭文字塚が林の中にうっすら見える)


(鎌倉街道の道標と後ろの馬頭観音)


(北側の鴨乃巣(こうのす)の一里塚)


(南側の一里塚、手前に見えるのが北塚)


(山内嘉助の屋敷跡)

くだりに下ってその途中、石垣脇に山内嘉助屋敷跡の石碑がある。
江戸時代造り酒屋を営み、諸大名の休憩場所とした山内嘉助の屋敷跡。
城壁のような石垣が残っている。
今から想像するに、それ相応の屋敷であったに違いない。

その先で中山道の石標を過ぎ、
民家の庭先を抜けるようにして出ると、
急に町の中に出てきたように感ずる。
家が沢山並んで、道路も土道でなく、アスファルトで進む。
昔は大いに役立ったであろう常夜灯も、
畑の中にポツンとあり、
今では役立たないで置物のように建っている。


(中山道の石碑と民家の庭先の中山道)


(民家の庭先の中山道)


(畑の中の常夜灯)

やや広い道路を横切り、坂を下って別の道路に流入する。
道路は曲がりくねって、津橋の公民館前に出るが、
その先にある「歴史の道 中山道」の案内に沿って進む。
次の変則五叉路を右から二番目の道を進むと、
右側に竹薮がありこの中に観音堂があるとの事であるが、
なるほど高い場所に向う階段があり、
疲れた足では登ることもままならず、
ここはパスして前に進む。


(広い通りを横切って車の左側の道を行く)


(坂を下って別の道に合流)


(津橋の公民館前)


(バス停前の変則五叉路右から二本目を行く)


(この上の竹薮の中の観音堂があるらしいが)

道路は登り坂で、右側に人が住んでいるのかどうか判らない破れ家を見て、
なお道路を登っていく。
さらにぐんぐん登っていくと、右側に馬の水のみ場がある。
説明によれば、
(ここは物見峠といって、
道路の両側に五軒の茶屋があり、
十三峠の前後の地であれば、
往来の馬もさぞ喉が渇いたであろう。
存分に飲みなさいと、
北側の三箇所に水飲み場があった。)とされる。
確かに馬がのどを潤したであろう大きな穴が二箇所開いていた。


(人が住んでいるかいないかの破れ家)


(馬の水飲み場の穴)


(馬頭観音像)

ここが諸の木峠で、右手その先に階段があり、
その上り口に馬頭観音像がひっそりと佇んでいる。

登った所が「御殿場」で格好の見晴台になっており、、
ここからは天気がよければ、
御嶽山もアルプスも見えるとのことだが、
生憎の曇り空で見ることができなかった。
皇女和宮が江戸へ御下向の時、休憩された場所であるが、
京都の方角を見やったとされます。

ここから道路はくだり坂になる。
ここはもう御嵩宿である。


(階段を登る)


(御殿場)


(生憎の曇りで山も見えない)


(道路は下る)





細久手の大黒屋(旧中山道を歩く 231)

2011年03月02日 11時11分05秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(細久手宿高札場跡、横の通路は観音堂への道)


(見あげると観音堂がある)

(細久手宿)
旗がひらめく場所に来ると、
道端に「細久手宿高札場跡」の表札が立っている。
もと高札があった場所に相違ない。
高札があったということは、
とりもなおさず此処が村に入る外れだということだ。
この地点から道路に人家が繋っている。

少し行くと左側に細久手公民館の前に出る。
細久手宿について説明によれば、
(標高約四百二十mにあって、江戸から48番目(距離92里)
京から二十二番目(距離約42里)に位置する宿場です。
中山道の開設当初、東の大久手宿から西の御嵩宿までの
道程が四里半(17.7km)もあったことから、
尾張藩によって設置されました。
慶長十一年(1606)の開宿当初は、
七軒家と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、
慶長十五年(1610)に正規の宿場として再整備されています。
――中略――
現在の街並みは安政の大火以降に形成されたものです。)とある。

この向かい側が、細久手宿の尾州家定本陣「大黒屋」がある。
名ばかり大々的に喧伝されてしまうので、
余ほど大きな旅館だろうと思ってしまう。
見るからに小さな旅籠でしかない。
しかし、古くからそのまま残っているらしく、
上段の間などが残っているとのこと。

普通本陣は一つの宿場に、一箇所あれば済むものであるが、
尾張藩の特別な宿泊所として扱われたものの様である。
安政六年(1859)に再建された古い建物は、
今は細久手宿に残る唯一の旅館となっている。
その格式をうかがうことが出来る古い旅館のようであった。


(細久手宿の町並み)


(細久手公民館)


(奥が「大黒屋」)


(大黒屋)

家が途切れる頃、右手に神社の鳥居が見える。
「村社 日吉・愛宕神社」とある。
入口に常夜灯があり、本殿は山奥にあるように見える。
入口の路上に沢山の猫が寝そべっていたのが印象に残る。
道路を進むと右手土手の上約4mの所に、「西坂の穴観音」がある。
階段があるので登ってみると、
なるほど穴の中に観音様が鎮座している。
九万九千日観音と呼ばれ、
縁日に拝むと九万九千回分のご利益があると伝えられ、
旅人からも進行を受けてきた。
さぞ多くの旅人の安全を祈願してきたことであろう。


(村社 日吉・愛宕神社)


(西坂の穴観音)


(穴の中の観音様)

すぐ先の右手に小さな社があり、「津島神社」とある。
その由来は、
(津島神社は、尾張津島神社、京都八坂神社、東京天王社の分社である。
十二世紀津島社として文献に、
また室町時代より牛頭天王社津島様と呼ばれる。
牛頭天王は朝鮮新羅の牛頭山の神、
インド祇園精舎の守護神、地獄の忿怒鬼神の変化等と考えられるが、
本来防疫の大神である。
牛頭天王が旅に飢え、金持ちの巨里将来に宿を乞うたが断られ、
弟の蘇民将来に迎えられて、
藁の布団にアワの飯をご馳走になる。
その礼に与え、
旅の災いと厄介が発生してもこれを持っているものは助かると告した。
以来この護符を「蘇民将来」と呼び,
厄病除けは勿論交通安全の護符として進行される。
「蘇民将来」の希望者は細久手宿の郵便局へ)と書いてある。


(津島神社)

回り道をしてしまった。
前に進むと道路は端に(旧中山道くじ場跡)の石碑が建っている。
これはその昔、富くじの抽選会場であった場所とのことである。
山の中の楽しみは、博打か富籤しかなかった様で、
ここがその籤の抽選場所であった。

道路は登り坂で左に(旧中山道)の案内看板を見て、
林の中を右回りに抜けていくと、
人家の多い場所に出てくる。
左からくる国道に合流し、見落としそうな橋、「平岩橋」を渡る。
橋げたに「中山道」と入っており、やっと中山道であることがわかる。
川は山の中のためか水が綺麗で、
流れはさほど無い。


(道路は直進する)


(中仙道くじ場跡)


(山の中の馬頭観音様)


(広い道路に合流する)


(見落としそうな平岩橋を過ぎると急な上り坂)

先に進むと急な上り坂でうねっているが、
少し進むと道路は右に曲がる。
曲がる入口に、「左 中仙道西の坂」の石碑が建っている。
旧中山道はここから曲がることを意味している。
右側に別のもう一つの石碑が建っている。
その石碑には、これから先の道路は、
昔の中山道のままで、
どこにも手を加えていない旨細々と刻まれている。


(左に折れる道)


(左に折れた右角に「中仙道西の坂」の碑)


(左側にあるもう一つの石碑)

落ち葉の積った道路は、
その表面が土なのか、ごろ石なのか、
あるいはよく整備された石畳なのか知ることが出来ない。

しかし歩くには楽しみな道路である。


(落ち葉の道路)

(落ち葉の道2)










弁財天の池(旧中山道を歩く 230)

2011年02月23日 10時35分32秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(弁財天の池)

(大湫宿 3)
焼坂の馬頭観音を右に見て、
次は左に「旧中山道 細くて宿」は直進の案内看板を見て、
道順が正しいことを知る。

やがて右手に大きな池が見えてくる。
「弁財天の池」である。
ひょうたん池のようになっており、
真ん中のくびれた部分に石橋が掛かっており、
その先に石祠がある。
弁財天の祠である。
石祠の中には、元文五年(1740)の彫られた弁財天が祀ってある。
池の水面には枯葉が落ちている。

(山上にありながら、いつも水をたたえているこの池は、
古くから旅人に愛されていました。
大田蜀山人も「左の方に小さな池あり、
杜若(カキツバタ)生い茂れり、
池の中に弁財天の宮あり」と旅日記に書いています。)と説明がある。

夏場には、花菖蒲が満開になると想像される枯れた茎が
一面に池の中に残っている。
普通、弁天さまは手に琵琶を持った天女像であるが、
ここでは八臂の立像が祀られている。
・(注)八臂=八本の手を言う。
八臂かどうか、わざわざ狭い橋を渡って確かめた。


(池の中央にある祠)


(祠の弁財天は八臂であった)

すこし歩くと左手に「女男松の碑」とあり、
少し先に枯葉にうずもれた石碑がある。
そしてその先に「奥乃田一里塚」が両端に建っており、
両塚ともほぼ元の姿を留めている。

山の中の道は、どこまでも同じような道が続いており、
馬頭観音や旧中山道の立て看板を見て広い道路に出る。


(女男松の碑跡)


(奥之田の一里塚)


(左右に一対ある一里塚)

正面に「日吉第二小学校跡」の新しい石碑がある。
道路の両側には、まばらに古い家が見えるが、
過疎の土地になったのは、何時のことだろうと、
思いやられる。

その先に旗がひらめき、馬頭観音堂が見られる。
ここから細久手宿である。


(この先細久手宿の看板)


(中央に日吉小学校の碑がある)


(日吉小の碑)


(馬頭観音堂の旗がひらめく)







琵琶峠の石畳(旧中山道を歩く 229) 

2011年02月16日 10時25分24秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(琵琶峠入口)


(琵琶峠の石畳)


(大湫宿 2)
左の大湫病院を過ぎると、右側に石畳の脇道がある。
脇道には「中山道 琵琶峠東上り口」の石碑がある。
ここにある琵琶峠の石畳の石は、大小さまざまで、
凸凹して歩くものにはとても歩きにくい。
これが本来の石畳だと言うことが良く判る。

十三峠を過ぎて、また峠があり、
中山道は本当に山の中である。

(大田蜀山人・壬戊紀行)のよれば、
(これより坂を下ること十町ばかり、山には幾つとなく、
長櫃(ながびつ)の如きもの俵の如きもの数を知らず)といわれたように、
この石畳に敷いてある石の大きさの差は甚だ大きい。

この石畳について(岐阜県教育委員会・瑞浪市教育委員会)の説明によれば、
(中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより
江戸時代当時の原状を残す所が少なくなっています。
こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる
約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているために開発されず、
よく原形を保っています。
特に琵琶峠を中心とする約1kmは、
八瀬沢の一里塚や馬頭観音などが現存し、
当時の面影を残しています。
昭和45年(1970)には500m以上にわたる石畳も確認され、
峠を開削したときのノミの跡を持つ岩や
土留め(どどめ)・側溝なども残されています。
歴史の道整備活用推進事業の一環として、
平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、
江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。)とある。

大きな石畳の上を歩く人にとって、歩きやすいのは背の高い人、
ボクのように短足の持ち主にとっては、歩き難いことこの上も無い。
石畳は標高558mある峠まであり、かなり苦しい。
やっと登った峠には峠の馬頭観音様と皇女和宮の歌碑が並んで建っている。
馬頭観音様は旅の安全を願って、街道の苦しい場所に置いてある。

和宮様の御歌は、

・住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび

と読める。

和宮様の歌は一貫して、ふるさとの京都を思い、
「江戸に下るのは国民のためで、私はいやいや行くのよ」と言う、
想いがにじみ出ている。


(杉林と石畳)


(落ち葉と石畳)


(石畳の頂上付近)


(琵琶峠頂上の観音様と和宮歌碑)


(八瀬沢の一里塚)

少し進むと石畳両側に一里塚が見えてくる。
八瀬沢の一里塚である。
東京から91番目の塚で、両側の塚はほぼ完全な形で残っている。

その先も歩きにくい石畳を下っていくと、アスファルトの道路にぶつかる。
手前左手に「お手洗い」が設置されているので、利用していこう。
アスファルト道路もこの石畳のあるところだけは、石畳を敷いてあり、
石畳はこの先も続いていることを示している。
先を覗けば、枯葉が覆いかぶさった道路が見えるが、
枯葉の下はごつごつした石が敷いてあるに違いない。
しばらく下ると先が開けてきて、坂の下に民家が見えてくる。
案内書では民家の前を過ぎてなどとあるように、
民家の庭先のような所を過ぎて、広い通りに出る。
出る手前に、「琵琶峠西上り口」の石碑があり、
琵琶峠はここで終わる。


(アスファルト道路も石畳の跡を残して)


(民家の庭先へ)


(庭先を通過して出たところに石碑がある)


(琵琶峠の石碑)

歩きやすいアスファルトの道を行くと、
すぐニワトリのオス・メスの鳴き声が聞こえてくる。
道路は登り坂になっているが、その途中右側に三棟の鶏舎がある。
卵採取が目的なのか、食肉専門の養鶏所なのか、分からない。
その先で道路は二手に分かれるが左手を行く。
登り坂を苦しみながら歩くと、
今度は犬の鳴き声が、しきりに聞こえてくる。
恐ろしいような鳴き声、甘えるような鳴き声、
空腹だから何かよこせとでもいうような、
入り混じった鳴声が身近に聞こえてくる。

左手に瀟洒な建物、右手に公園の入口のような建物が建っており、
「公認訓練所」、「株式会社 国際犬訓練所」の看板が目に入る。
金網に仕切られているが、大きな犬が今にも襲ってきそうな気配に、
動物嫌いのボクはわき目も振らず先を急ぐ。


(国際犬訓練所)

道路はどんどん登り坂で、やがて右手に、
雪国にありがちの屋根付きバス停が目に付く。
バス停の向こう側に大きな杉の木が生えており、
根元にお地蔵様が建っている。
バス停は「天神前」で、お地蔵さんは「天神辻の地蔵尊」という。
昔の人たちが、山の中の難儀な旅の安全を願って立てたのであろう。


(天神前バス停)


(天神辻の地蔵尊)


(紅葉真っ盛り)

道筋は、時あたかも紅葉の真っ盛りでとても美しい中を進んでいく。
まもなく、大きな養鶏場を左に見て進むと、焼き坂の馬頭様が右にあり、
登り坂をいくと右手に池が見えてくる。

「弁財天の池」である。


(大きな養鶏場入口)


(焼坂の馬頭様)


(旧中山道の案内)







母衣岩(ほろいわ)と烏帽子岩(えぼしいわ)(旧中山道を歩く 228)

2011年02月08日 10時39分11秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(宗昌禅寺の石塔)


(禅寺の本堂)


(寺坂の石仏群)

(大湫宿)
十三峠の山道が終り、
「中山道 大湫宿(おおくてじゅく)」と「宗昌禅寺」の石碑が左手にあり、
「大湫宿」に入ったことを教えてくれる。

「宗昌禅寺」の石塔のある道路を左に折れお寺に向うと、
登り坂になっており、もう一度左へ折れる。
つまり正四角形の二辺を行くのだから、さっき見た広場の左手に出る。
広場は中山道と今歩いている道に囲まれていることになり、
「寺坂の石仏群」を右手に見ると、
その反対側の左横にこの宗昌禅寺は立地しているのだ。
臨済宗妙心寺派のこの宗昌寺は慶長三年(1600)、
大湫宿を開いた保々宗昌が開基したと言われる。
大湫宿の脇本陣が「保々」(苗字)の表札がある所を見ると、
開基した保々宗昌の子孫の方かも知れない。

中山道を進むと突き当たりに小学校が一段高い所に見える。
道を左折すると右手に大湫公民館、コミュニティセンターがあり、
その裏手の高い所が小学校である。
ここが大湫宿本陣跡になり、
皇女和宮が文久元年(1861)将軍家茂に嫁ぐため江戸に向う途中、
一夜を明かされた場所になる。
学校に入るには坂道を登るが、校庭の隅に和宮様の歌碑が建っている。

・遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりける
 ・思いきや 雲井のたもと ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは

の二首が刻まれている。

旅立つ時に詠んだ歌が

・惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも

と詠んだ歌を考えると、御年15歳の皇女の想いが身に沁みる。


(大湫公民館)

 
(公民館上の小学校、本陣跡)


(校庭入口にある皇宮の女官像?三人官女?)


(校庭脇の和宮歌碑)

その先に産土の白山神社、大湫宿問屋場跡、脇本陣家が続いている。
脇本陣家のその屋敷は、門を初めとして、
長く風月に耐えたという感じが良く出た古色漂う建物であった。
今も子孫の方が居住されていると言うその家の門には、
「保々和男」の表札が掲げられていた。

その先には大湫宿のシンボルとなっている神明神社の大杉がある。
この杉は樹齢推定1200年で岐阜県の天然記念物になっている。
大湫宿の外れには、大湫観音堂があり、
大湫宿高札場跡が復元されている。


(白山神社)


(問屋場跡)


(問屋場跡から見た神明神社の大杉)


(脇本陣)


(脇本陣家の長屋門、表札に「保々」とある)


(神明神社と背景の大杉)


(樹齢1200年の大杉)


(観音堂)


(高札場跡)

宿場はこの高札場跡を最後に家並みは途絶え、
道路は二つに分かれるので右側に向う。
すぐ左側に「小坂の馬頭観音様」二体に、
道中の安全を祈ってもらいながら進むと、
道路先に小公園らしきものを発見。

道路はやや登り坂になっているが、
ここに「大湫宿大洞・小坂」の石碑が建っている。
ここから見た景色を広重が「木曽海道69次之内 大久手」を
画いた場所だろうと推定されている。


(小坂の馬頭観音二体)


(小公園で広重の浮世絵の場所とされる場所)


(広重画「木曽海道69次之内 大湫」)

その先に進むと、大湫の二つ岩なるものがある。
一つは母衣岩(ほろいわ)と言う。
母衣(ほろ)とは、戦国時代の絵巻物を見ると、
馬にまたがる鎧兜の武者の背に、
大きな袋状のものを着けているのがあるが、
この袋状のものを母衣(ほろ)と言う。
背後から弓矢が当らないようにした防御袋である。

この巨石には、真ん中にスジが入っており、
昔の人はこれを女性の性器に見立てた。
古来、男女の性器はこれを交合させることにより、
新たな生命を生み出す神秘で不思議なものと崇められてきた。
この地だけでなく、日本の各地、いや世界の各地で尊崇されてきた。

街道を進むと、もう一つの巨岩があって烏帽子岩(えぼしいわ)と呼び、
これは男性性器(どちらを向いているかは想像にお任せします。)を表わすと言い、
これで「二つ岩」とされた。
この二つの岩を、昔の人は信仰心を持って
眺めたものと思われる。


(母衣岩)


(烏帽子岩、左向きと見る?)

間もなく道路は左へカーブしていくが、左手の大湫病院を過ぎる頃に、
右手に入る旧道が見える。

琵琶峠の登り口で、坂の途中に

「中山道 琵琶峠東上り口」の石碑がある。

また、山の中だ。


(大湫病院)


(琵琶峠入口)


(琵琶峠東上り口)









観音坂と十三峠の終着地(旧中山道を歩く 227)

2011年02月01日 10時30分34秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(峠は十三以上ある)


(昇りの石畳、この上が峠?)


(三城峠)

(大井宿 7)
峠らしいところから石畳が始まる。
(三つ城峠)である。
土と落ち葉の道を下るとアスファルト道に出て、
登り坂になる。
この辺りで坂道にうんざりし出す。
(大久後の向茶屋跡)を抜けると、
草の上り道。(大久後の観音坂)というらしい。


(大久後の向茶屋跡)


(観音坂)


(観音坂の霊場巡拝碑、四箇所の岩場はあった)

瑞浪市の案内によれば、
(ここは「観音坂」と呼ばれ、瑞浪市の東の端、
釜戸町大久後地区に位置しています。
坂の途中の大岩の上には、道中の安全を願う馬頭観音像が立ち、
坂の西には天保二年(1841)銘の「四霊場巡拝記念碑」が建っています。
さらにその西に連なる権現山の山頂には、刈安神社が祀られ、
山麓には往時駕籠などを止めて休息した、
大久後・炭焼きの二つの立場跡が残っています。)(瑞浪市)とある。

しばらく進むと左手に「観音坂の霊場巡拝碑」があり、
ついで、右手に「中山道」の青色の案内看板が、
さらに左手に「灰くべ餅の出茶屋跡」と標柱を順次見ていくと、
少し開けた集落が左手に見える。


(灰くべ餅の出茶屋跡)


(大久後の観音堂と弘法様の標柱)


(心地よい杉林の山道)


(刈安神社の石柱)

さらに進むと、「大久後の観音堂と弘法様」の標柱があり、
観音堂とお手洗いがある。
その後の登り坂は「権現坂」で心地よい(?)杉林の道を登る。
やがて右側に「刈安神社」の石碑と石の階段がある。
少し登ると集落があり、昔の「炭焼き立場」跡の名残である。

瑞浪市の案内版によると、
(立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。
小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。
大田蜀山人が享和二年(1802)に表わした「壬戊紀行」には、
「俗に炭焼の五郎坂というを下れば炭焼の立場あり
左に近くみゆる山は権現の山なり。」という記述があります。
ここは眺望に恵まれていたので、
十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。)(瑞浪市)


(炭焼き立てばの集落)


(草道に入る)


(通行止め?道路中央は瓦礫がみえる。)

集落が切れると、舗装道路も切れ、土の草道の先の真ん中に、
杭を二本打ち、通行止めのようになっている。
他に脇道もなく、誰かに訊くにも、人っ子一人いない山道。
どうしたものか悩んだ挙句、進むことにした。

道は瓦礫の中を進む道で、急な上り坂である。
これが「中山道だろうか」と疑いながら瓦礫の急坂を進む。
頂上らしき所に出ると、右に石畳があり「山の中の中山道」の道に見えた。
「これでよし」と内心ホッとする。
石畳の道路の左手を見ると、道路は草道で下りになっていて、
ぐるっと半円を画いている。


(瓦礫の道を登りきった場所は石畳の中山道であった。)

つまり「杭で通行止め」になっていた所は、
「直進は通行止め」の意味だったのである。
ボクが歩いた直進の瓦礫の道は、中山道のショートカットで、
本来の中山道は、左に進みその後右にぐるっと半円を描いて、
曲がっていたのである。

石畳を進むとすぐ、
右手に(十三峠の内 中山道 樫の木坂)の石碑があり、
その後ろは小高い山になっている。
これが「権現山の一里塚」である。
一里塚は左右にあり、当時のまま原形を保っているようで、
江戸から90番目の一里塚である。


(樫の木坂の石碑)


(権現山の一里塚)


(権現山の一里塚、もう一方の塚)


(一対の一里塚)


(中山道を横切るゴルフ場の道路)

ここからは下り道。両側を山に挟まれて進む。
間もなくゴルフ場の道路を横切る。
左右でゴルフに興じる人を横目で見ながらなおも下る。
両脇の土手にはグリーンのネットが張ってある。
ゴルフボールが旅人にあたらないようにであろうが、
道路の隅に真新しいゴルフボールが何個も落ちている。
ボクの前に少なくも二組は通過しているから、
その後飛んできたものであろう。
ボールに当らないよう、なるべくネット際に沿って歩く。
それにしても、ゴルフボールは全部で6個拾ってきた。

しばらく下ると、右側に「中山道巡礼水」の石碑がある。

説明によれば、
(昔、巡礼が病み伏したが、この清水で助かる。
八月一日に水の切れた事が無い。)という。
ボクが通った時には水は出ていなかった。
本当に8月1日には出るのだろうか?
原爆に遭った人たちは「水、水・・・」
と言ったそうであるが・・・


(中山道巡礼水の碑)

その先へ下ると右手の岩屋の中に「三十三観音」が祀られている。
瑞浪市の案内看板によると、

(ここには、道中安全を祈って
天保十一年(1840)に建立された観音石窟があり、
馬頭三十三体の観音は、大湫宿内の馬持ち連中と
助郷にかかわる近隣の村々からの寄進です。――後略――)とある。
(瑞浪市)


(三十三観音の石窟)

0164
(三十三体の観音像)

(三十三体の観音像2)


(左手奥が尻冷やし地蔵尊)


(お尻を冷やしている地蔵さん)

さらに下ると今度は、「尻冷やしの地蔵尊」が
左手の道路からやや奥まった場所にある。
説明では、
(山の中では水は大変大切なものでした。
山坂の多い十三峠では特に貴重なものであった。
こんな清水に対して建てられたものですが、
ちょうど清水でお尻を冷やしているように見えることから、
こんな愛称で親しまれてきました。)(瑞浪市)


(舗装路の向こう側中山道は上り道)


(しゃれこ坂の名号碑)


(山ノ神坂の石碑)


(中山道十三峠 童子ヶ根の石碑)


(寺坂の石仏群)


(「是より東 十三峠」の碑)

その先で舗装路に出るが、これを反対側に渡ってのぼりの道を行くと、
「しゃれこ坂(八丁坂)」の名号石碑がある。
その先に(中山道 山ノ神坂)の石碑があり、
(童子ヶ根)の石碑を抜けると、
右手に「寺坂の石仏群」が、
左手に(是より東 十三峠)の石碑がある。
坂道は下りきっているわけでなく、
見渡すと街並みが一望できる所にいる。
まだ坂道は途中である。

その先に(中山道 大湫宿 右京へ 四十三里半)の石碑があり、
左手が広場になって、奥に「宗昌禅寺」がある。

ここから大湫宿に入る。

(「中山道 大湫宿 右京へ 四十三里半」の石碑)

(宗昌禅寺)





紅坂の一里塚と佐倉宗五郎大明神(十三峠中央)(旧中山道を歩く 226)

2011年01月26日 10時49分51秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(のどかな田園風景)

(大井宿 6)

乱れ橋を渡って、のどかな田園風景を見ながら、
ポツリポツリとある民家を見ながら歩く。
左手に公民館かと思われる立派な家がある。
庭も広い。
「中山道四ツ谷休憩所」である。
村で管理しているらしく、手入れが行き届いているが、
無人のようである。綺麗なお手洗いがあるので用を済まして置きたい。


(四ツ谷休憩所)

休憩所を出ると、今朝大井宿に向かって、
細久手宿から歩いてきた人に出会った。
聞くところによると、
今日はボクを含めて三組目の中山道を歩いている人に出会ったと言う。
前の二組は、細久手宿の大黒屋さんに宿泊されると聞いた。
ボクのこの足で、さらに十三峠が続くのでは、
細久手宿の手前、大湫宿止まりが良い所ですが、
交通の便が良くありませんのでどうしようかと思っていますと、言うと、
「大湫宿からタクシーでJR釜戸へ行くのがベストですな。」と言う。
その方は恵那市泊まりと言うことだ。
「十三峠はまだこれから大変ですよ。西行塚に着いたら終わりですが」
とボクが答えた。
「お互い気を付けていきましょう」と言って別れた。


(枯葉の山道)

のどかな田園風景はほんの僅かな目の保養で、すぐまた山の中である。
色づいた枯葉を踏む山道は、のんびりハイキングでもするのならば、
心地よいが、この先の山道が思いやられるようでは、
感慨にふけっていられない。
その点、山の中で和歌や俳句をひねっていられる、
先人の神経が羨ましく感じられた。


(木の根元に夫婦岩はあるが見えますでしょうか?)


(右手の紅坂の一里塚)


(左手の一里塚)


(街道を挟んで一対になっている一里塚)

やがて右手の夫婦岩なる看板を見つけたが、
写真の腕前が悪く岩の前の笹ばかり写って、
夫婦岩が見えないのはまことに残念。
その先に、一里塚が見えてきた。紅坂の一里塚である。
江戸から89番目の一里塚である。
山の草道は上りで、やがて数軒の民家が見えてくると、
今度は下りになる。


(山の中の民家)


(中山道 黒すくも坂の碑)


(素敵な眺望で向こうの山が権現山)

「黒すくも坂」というらしいが、辺りが開けて見晴らしが良い。
権現山を眺望することが出来る。
先に歩くと、やがて右手に「三社灯籠」があり、
左手に佐倉宗五郎大明神の碑がある場所に出る。
そもそも佐倉宗五郎は、千葉県佐倉市の出身で義民伝で有名なのに、
どうしてこんな所に「佐倉宗五郎」の碑があるのか不思議であった。

案内によれば、
「元禄年中(1700頃)岩村藩で農民騒動が起きそうになった。
竹折村庄屋田中さんは、将軍に直訴して村を救ったが、
その罪で首をはねられた。」
このことが佐倉宗五郎事件に似ているので、
まさか罪を犯した田中さんの碑を造ることもならず、
「佐倉宗五郎大明神」の碑を作ったという。
なかなか洒落たことをする農民たちだ。

佐倉宗五郎は手まり歌の一つ、
数え歌の中に出てくるくらいであるから、
当時の子供たちには、
よほどのことが無ければ知らない人がいないくらいだ。
ボクは男の癖に、この数え歌を良く知っている。

♪一番初めは一の宮、
 二は日光東照宮、
 三は佐倉の宗五郎、
 四は信濃の善光寺、・・・・♪
の三番名に出てくる。


(三社灯篭)


(佐倉宗五郎大明神の碑)


(深萱神社鳥居)


(ずらりと前後に並んだ句・歌碑。一番手前が芭蕉句碑)

この佐倉宗五郎大明神の碑から、
右手奥に入った所に深萱神明神社があるので寄ってみる。
神社の石の鳥居の向こうに、沢山の歌碑が並んでいる。
ボクが知っているのは、芭蕉の句しかない。

・山路きて なにやらゆかし すみれ草  (はせ越=芭蕉)

神社を出て中山道を進むと、
広い道路に出る前に橋を渡れとある。
向こう側に藤村高札場が見える。

案内書を見たとき、藤村高札場とは島崎藤村が高札に
揮毫でもしたものと思い込んでいた。
ところが現場へ来て、違っていることが判った。
この高札のある場所は、藤村(ふじむら)と言って、
藤(ふじ)という村の名前であった。
自分の無知を棚に上げて、(紛らわしいこと甚だしい)と、
腹を立てるなど、ボクもまだ気は若い。


(ガードレールに沿って右へ橋を渡り、すぐ左に折れると右手に高札場、写真中央に高札場が見える)


(藤村(ふじむら)高札場)


(深萱立場本陣跡(加納家)


(「深萱上」バス停)


(新設された新しい休憩所(昔流に言えば立場)とWC)

高札場の左隣に深萱立場本陣跡(加納家)の案内がある。
本陣跡の南側に(深萱上)のバス停があり、新しい休憩所とW.C.がある。
この休憩所でひとまず休み、お昼弁当にして、お手洗いを借りて出発。
大久後へ向う。
田んぼに囲まれた道はすぐ山の中に入っていく。

静かな物音一つしない林の中を進む。
途中通行止めと思われるような
道路に杭の打ってあるところに出るが、
構わず枯葉を敷き詰めた草道を進む。
(大久後)方面を目指す。


(草道を大久後へ向う)


(草道路の中央に杭が打ってあるので通行止め?と思ってしまう)







紅葉と石畳と乱れ橋(十三峠前半)(旧中山道を歩く 225)

2011年01月20日 10時28分40秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(十三峠入口の石碑)


(西行塚100mの案内)

(大井宿 5)
今回まで西行法師と縁が切れない。
十三峠の石碑を過ぎると、道路は石畳に変わる。
旧街道の臭いがしてくる。
そして西行塚までと西行の森までの
里程が記された中部北陸自然歩道の木の案内が旧街道らしさと、
「これから山登りだぞ」と覚悟させる表情を見せる。

(西行塚0.1km)の案内に、何処、何処と見渡す。
馬頭観音が藪の奥にひっそり立っている。
石畳を少し進むと「伝西行塚」右ですの案内と、
「五輪塔」「見晴台」右矢印の案内が急な階段と共に目に入る。


(石畳の道)


(馬頭観音)


(西行塚への急な階段)

見上げると急な階段は上のほうで左折しており、
行き先が見えない。階段は一定の歩幅に造られているので、
ボクのように短足だと歩幅が合わずに登り難いものだ。
どんな急な坂でも、どちらかと言うと階段でないほうが登りやすい。
歩幅を自分の足に合わせて進めることが出来るからだ。

三回くらい休憩して、やっと西行塚が見えるところまで来た。
西行の五輪の塔があるところまでは、さらに数段登らねばならない。

岐阜県の指定(史跡)になっている西行塚について、
(恵那市の市街地を一望できる小高い丘の上に築かれたこの塚は、
歌聖 西行法師の供養のために造られたと言われています。
小さな塚の上には、高さ約1.4mの五輪塔が立っており、
形式的には、室町時代末期のものと推定されます。
西行がこの地で入寂したと言う伝説は古くからあり、
慶長十九年(1614)に書写された当市大井町の長国寺に伝わる
「長国寺縁起」に終焉の様子が細かく記されています。
西行塚は、大田蜀山人の旅行記「壬戊紀行」(1802)や
秋里離島の「木曽路名所図会」(1805)など、
江戸時代の出版物に登場し、古くから中山道の名所として有名で、
今も大切に祀られています。)(恵那市教育委員会)


(伝西行塚)


(見晴台から見た恵那市)

西行の五輪塔の横には、恵那市が造った見晴台があり、
確かに恵那市が一望できる。
ここで晴れ渡った空の下で少し休む。
恵那市が訪れた人に署名と感想を記入するノートが置いてある。
開いてみると、4日前に訪れた横浜の方の名前が記入されていた。

考えてみると昨日追い越していった、
お揃いの赤いリュックを背負ったご夫婦が
ボクの前を歩いているはずである。
その方はただ中山道を歩いていらっしゃったので、
この西行塚には寄られなかったのであろうか・・・

その昔、ボクを追い越していった人は、
中山道を14日で踏破すると話しておられた。
ボクのようにキョロキョロ見ながら歩く人は少ないのであろうか?

話を戻して、西行塚を跡に今度は塚の反対側に降りていくと、
山の中にしては、立派なお手洗いがあり、
中山道の石畳に出る。
十三峠は、この先長いので用は済ませておきたい。
十三峠とは、峠が十三あるところから名が付いていると言う。
中山道で今まで一番辛かったのが碓氷峠であるが、
この度の十三峠は、かなりしんどかった。
ボクにとって、中山道一の難所に感じられた。


(石畳の中山道)


(途中の中山道の案内)


(槙ヶ根の一里塚)


(一対のもう一つの一里塚。松が植えてある)

その先は石畳の上り坂である。
登りきって開けた明るい場所に出ると、
そこが「槙ヶ根の一里塚」で両側に一対になって残り、
いずれも松の木が植えてある。
山の中で地形上、場所が上手く取れなかったのか、
左右で約10m位置がずれている。

この先が西行の森になっており、
西行が好んだ桜の木を100種類、
合計130本が植えられていると言う。
ボクが歩いた時期には、桜ならぬ紅葉が陽に映えて美しかった。


(西行の森、桜百選の園)


(紅葉が美しい)


(中山道の案内と枯葉)


(広い舗装路)

道路は山の中の枯葉の砂利道を,
シャンソンの「Autumn Leaves(枯葉)」を思い出し、
熊よけに丁度良いと、口ずさみながら音痴丸出しで進む。

(この音痴には、さぞや熊もびっくりしたに違いない。)

所々「中山道」や「東海北陸自然歩道」の案内に助けられ、
道路に誤りが無いことを確認しながら進む。

やがて広い舗装道路に出る。
道路の左右に、水戸屋茶屋跡、槙ヶ根茶屋跡、etc.などを通り、
右手にコンクリート生コンの工場を見たら、
右の脇道に入る。
「熊出没注意!」の看板がある。

(音痴に驚いて、熊は遠くに逃げているはず。)


(茶屋跡)


(茶屋水戸屋跡)


(コンクリート工場跡)


(熊出没注意)

しばらくして、やや広い場所に出ると、左手に石碑があり
「右 西京 大阪、 左 伊勢 名古屋、」道と書かれている。
京 大阪への道の中山道は上街道、伊勢 名古屋への道は下街道といい、
下街道への追分になっている。
下街道を行けば、名古屋へ出ることになる。


(立場茶屋の説明板)


(立場があったと思われる場所)


(かまど跡)


(柵のあるところが 井戸跡)


(下街道伊勢・名古屋への追分の道標)


(下街道への分かれ道、柱の前の道)


(下街道の枯葉道)

また槙ヶ根の立て場茶屋跡には、九軒の茶屋があったと言う。
そのかまど跡や古井戸跡が見受けられる。
なおも石畳道を登る。
やがて馬頭観音像のある地点の、
高い所に「姫御殿跡」の石碑が見える。
ここは祝い峠といい、
文久元年(1861)皇女和宮が通行された時、
仮小屋を立てて御小休みされた場所である。


(なお登る石畳道)


(路傍の馬頭観音)


(姫御殿跡)

その先左側に「首なし地蔵」が屋根付きで祀ってある。
宝暦六年(1756)地元の人たちが旅人の道中安全を願って建てたもの。
お地蔵様の首を刀で切り落としたと言う伝説が残っているそうだ。
途中、「下座切り座」の標柱があるが、村役人が裃(かみしも)を着て、
土下座して向えた場所であると言う。
その後道路は急な下り坂になり、
行列も乱れるほどの急坂であったことから、
「乱れ坂」といい、坂を下り終えた場所が右に曲がり橋を渡る。

大変小さな橋であるが、川は深く「乱れ川」と
昔は言ったほどの急流であったため、
この橋を渡るときは有料であったと言う。
今は静かな川である。


(首なし地蔵跡)


(首なしのお地蔵様)


(下座切座の碑)


(乱れ坂の急な下りの石畳、先を右に廻った所に橋がある。)


(乱れ坂の終りにある乱れ橋。3mほどの小さな橋だが川は深い)


(橋からのぞいた川面)