中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

岩屋観音堂(旧中山道を歩く 244)

2011年05月17日 10時07分41秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(岩屋観音堂入り口)


(岩屋観音堂へ行く道)



(太田宿5)
勝山の信号を過ぎて西に向う。
勝山とは、秀吉か家康が戦勝を記念して勝山と名づけたという。
どこまで本当の事か解らない。
国道21号線の右側の歩道を歩いていくと、
その右側に小さな空き地があり、(岩屋観音駐車場)とある。
その左手に細い土の路があり、
横から眺めると岩肌を自分の背丈より高く登っている。

いづれ先で国道と合流することは解っていたので、
土の道路を眺めて、
行こうか行くまいか思案して国道を少し進むと、
右手の土の路に道標らしきものが建っている。
見ると「西 鵜沼宿」とある。


(坂祝町 西鵜沼宿とある標識)

案内があるからには進むことが出来ると判断」して、
国道を戻り、土の岩屋観音参道に踏み込む。
5mほどで(坂祝町)の道標がある。
思い切って進むと、切り立った崖の脇道を進む。
足元の道路は、やっと人がすれ違えるほどのせまさで、
左に金網がなければ下の国道に落ちそうな路である。
右に岩肌、左に金網と道幅約100cmを少し登ると、
路は直角に右に曲がって、右角にお地蔵様が安置されている。


(崖の上のせまい道)


(曲がり角の地蔵様)

その曲がり角から、下の国道と平行して流れている木曽川の流れが見え、
見るからに美しい。
路は直角に折れ曲がり、まだ登っている。
登ってまた直角に今度は左に曲がっている。
急坂で足元が悪く、他を見る余裕がなかったが、
今度は下り坂である。
危ない石階段を足を滑らさないように降りて、見上げるとお堂がある。
「岩屋観音」と書かれている。


(右曲がり角で、ベンチにのぼり背伸びをして、手を挙げて撮った木曽川)


(足元が悪いくだりの階段)


(見上げたら見えた岩屋観音堂)


(岩屋観音堂)


(岩屋観音堂2)

案内書には高さ260mと随分高く書かれているが、
国道から20mほどの高さである。
260mとはどこを基準にした高さなのだろう。
木曽川の川底を基準にしても260mはない。
標高260mが正しいのかもしれない。

(岩屋観音)をお参りしてから今度はくだりの階段を降りる。
降り立った所が国道の歩道上である。
国道に沿って先に進むと、小さな公園になっており、
自転車の男女が随分接近して立っている。
大きな咳払いをしたら、
人がいるのに気が付いてそそくさと自転車で消えていった。
余計なことをしたようだ。


(下り階段)


(階段を降り切ると修復記念碑があった。修復後だから登れたに違いない)


(国道に出たところ)


(小公園)

国道右側の歩道を少し歩くと、
国道左手に街道沿いレストランが並んでる。
どれも営業をしている様子はない。
やがて左手にレストラン「ゆらぎ」がある。


(レストラン「ゆらぎ」)


(駐車場の穴へ)

案内書ではここの駐車場の穴を降りて、
国道と高山本線を潜り抜けて山道になるとある。
半信半疑で進むも、車の量が多くて道路を横断できない。
やっとの思いで道路を横断し、
レストラン「ゆらぎ」の駐車場の穴を探す。
レストランの建物を通り過ぎたところにある駐車場の端に、
降りる所はあった。

レストラン「ゆらぎ」は営業しているのか、
廃業しているのか解らないが、
いずれレストランが無くなった時のことを考えると、
レストランが目印では困る。

そこで何か目印がないか探すと、
(気をつけて
  お帰りください
    これより岐阜方面)
の看板の下に「中山道 左へ」と案内がある。
駐車場へ入ると前方に階段があり穴のように見える。
その位置が 「各務原市」の境界看板の真横であることが解った。


(中山道左の看板)


(各務原市の境界看板の下に降りる穴がある)


(降りる場所にある看板)

急な階段を降りると国道下にトンネルがあり、右手より水が流れている。
国道の右は山で、山から清水が流れ、
国道下のトンネルで木曽川に注ぎ込んでいるのだ。
トンネルを流れる清水の脇に人が通れる路が造ってある。
トンネルを覘くと向こう側に階段が見える。
後で解ったことだが、このトンネルの中の清水の流れる小川が、
各務原市と坂祝町との境界になっている。

トンネルを潜り抜け階段を登ると、
突き当たりに「うとう峠」左への看板がある。

本来の中山道は、
岩屋観音からまっすぐ「うとう峠」へ繋がっていたであろうと思われる。
あとから出来た線路と国道が旧街道を飲み込んでしまったようだ。

中山道最後の土の山道である、と案内書にある。


(下り階段)


(階段下のトンネル)


(トンネルを出た後の階段)











ロマンチック街道(旧中山道を歩く 243)

2011年05月12日 12時43分38秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(木曽川土手横のムクノキ)


(木曽川を望む)


(太田宿4)
太田小学校をあとに、
虚空蔵堂前を左に進むと木曽川の土手に出る。
虚空蔵堂裏手には、坪内逍遥ゆかりのムクノキが枝を広げている。
空は快晴で木曽川が美しい。

木曽川土手の旧中山道を進むと、右手土手下に芳寿寺があり、
続いて土手下の右手奥に深田神社がある。
木曽川土手上の道路は、
やがて茶色のカラー塗装道路に変わり、
道路上に、日本ラインロマンチック街道と大きく書かれている。


(芳寿寺)


(深田神社)


(ロマンチック街道)

ロマンチック街道といえば、
ドイツのノイシュバンシュタイン城へ通じる道路が有名である。
日本人観光客が勝手に「ロマンチック街道」と名づけた。
ドイツの道路なのに、
日本語で「ロマンチック街道」と道路わきに看板が出ている。
そこから持ってきて木曽川沿いのこの道も
「ロマンチック街道」と名づけたのであろうか?
あるいは、今歩いているこのロマンチック街道が先だったのだろうか?
いずれにせよ、このロマンチック街道は、
木曽川の「日本ライン」に沿って3.5kmに及ぶ道路を指している。

「太田の渡し」から鵜沼までの木曽川が
ドイツのライン川の景観に似ているとして
名づけられたのが「日本ライン」である。
どちらも日本人が名づけたものだ。

「日本ラインロマンチック街道」は「一色大橋」「行幸公園」「あずまや」「勝山入口」である。
茶色のカラー舗装の道路が快晴の中、風に吹かれて歩くのに気持ちよい。
散歩をする人、ジョギングをする人、サイクリングをする人、
乳母車に乳飲み子を乗せて散歩する人に出会う。
こんな場所で、すれ違う人には「こんにちは」と挨拶する事を思い出し、
声を掛けると、笑顔が返ってきて「良い天気ですね」という。


(茶色の舗装)


(ロマンチック街道の案内)


(一色大橋)


(行幸公園)


(日本ライン)

この先で土手の道路は、右下に国道21号線と平行して進むようになる。
土手の道路が終わり、併走している国道に下りると、
すぐ「勝山」の信号になる。
信号右角に珍しい屋根の家があり、
道路の右側に歩道があるので右側に渡る。

その先右頭上に岩屋観音があると案内書には書いてある。
前方の山の上の高~いところに建物らしいものが見えるが、
これが岩屋観音だとすると、とても登るだけの勇気が起きない。


(山の上の建物)


(勝山の信号)

案内書では、岩屋観音は岩の崩落が激しく通行できないとか、
高みにあるので登る勇気がないとか、書いてある。
しかし、岐阜県で作成された案内図によると、
旧中山道は、JR高山本線のトンネルの上を越え、
岩屋観音に出て行くようだ。

平成14年に書かれた案内書からは時間がたっているから、
その間に道路は改良されたり、新しく付け替えられたりする。
岐阜県で作成された案内地図は新しいからこれを信用して、
岩屋観音に向うことにする。

後で分ったことだが、山の上の建物は、猿ばみ城・展望台であることが解った。
(この展望台からは、恵那山・中央アルプス・御嶽山、
さらには伊勢湾・ナゴヤツインタワーまで望むことが出来る。
とりわけ眼下を流れる名勝木曽川は絶景である)(坂祝町)という。


(関市へは右折の案内、歩道は右になる)


(岩屋観音堂入り口)







名訳「弱きものよ、汝の名は女なり」(旧中山道を歩く 242)

2011年05月06日 10時56分32秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(美濃加茂市の太田小学校)


(坪内逍遥生誕地)

(太田宿3)
太田小学校は以前「尾張藩 太田代官所」があったところである。
そこの役人の子として坪内逍遥がいた。

代官所とは説明によると、
(尾張藩は天明年間になると、
藩政改革として領内の諸用地を一括支配する所付代官を配置しました。
太田代官所は天明2年(1782)に設置され、
初代の代官は井田忠右衛門でした。
慶応4年(1868)太田代官所は北地総管所
(ほくちそうかんじょ)と改名され、
田宮如雲が総管に任命されました。
このとき一緒に努めていたのが坪内逍遥の父 坪内平右衛門です。)
(美濃加茂市商工観光課)

その代官所の案内が、太田小学校の校舎裏のグラウンドの
カイヅカイブキの生垣の中にある。


(代官所跡の案内看板)

また、坪内逍遥の顕彰碑は太田小学校玄関脇の逍遥公園にあります。
そして逍遥ゆかりの妙見堂は、代官所跡の看板の道路を挟んで反対側にあり、
60歳になって故郷に帰り、家族と撮った写真の背景のムクノキは、
妙見堂の裏、虚空蔵堂うしろに大きな枝を伸ばしております。
さらに逍遥が好んだ椿に因んだ「山つばきの部屋」は、
太田小学校の校舎の中にあり、
逍遥に因んだ資料が展示してあります。
見学は無料です、静かにご見学願いたいと思います。


(逍遥公園)


(坪内逍遥顕彰碑)


(妙見堂)


(虚空蔵堂とムクノキ)


(山つばきの部屋)


坪内逍遥について知らない人はいないと思われますが、
美濃加茂市教育委員会による紹介を載せておきます。

(坪内逍遥は安政6年(1859)、尾張藩太田代官所の役人であった
父 平之進の十人兄弟の末子として生まれる。
その後、明治2年(1869)父の引退にともない、
太田を離れた逍遥は、
名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。

十八歳にして上京し、明治十六年(1883)東京大学を卒業すると、
文学論「小説真髄」や、
小説「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」などを発刊し、
明治新時代の先駆となりました。
また、早稲田大学教授として、
演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究に当たり、
近代日本文学の基を築きました。

逍遥の明治四十二年からの二十年間にわたる
「シェークスピア全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。)とある。
(美濃加茂市教育委員会)

今回の題名「弱きものよ、汝の名は女なり」は、
この坪内逍遥が翻訳した
シェークスピアの「ハムレット」の中の一文です。

ハムレットの母は、夫の死後、夫の弟と再婚するが、
当時(1600年代の頃)、
「夫婦は合体するとその血は二人に流れる」と信じられており、
配偶者の兄弟姉妹との再婚は、
近親相姦として固く禁じられる社会でもあった。
そんな中、ハムレットの母は近親相姦という社会的タブーを犯してまでも、
情欲に負け貞操を捨てて男(弟)に走ってしまう。
これを見て「女と言うものは、すぐに情欲に負けるもろいものだ」と言った。

英語では、
(Frailty thy name is woman)
であるが、
このfrailtyは 「もろい、こわれやすい、浮気しやすい(女心)」 を意味する。
しかし坪内逍遥は、これを

「もろき者よ、
 あるいは 情に弱き者よ、
 またあるいは、言い寄られればすぐに負けてセックスしてしまう女よ」
とせず、

「弱きものよ、汝の名は女なり」と訳したが、
なよやかな女性を考え合わせれば、女性を傷つけない、
これほどの名訳はない。

しかし、「弱きものよ」は確かに女性をさすが、
これも子供を授かるまでのことで、
オスを誘惑し、授かってしまえば、

「女は弱し、されど、母は強し」
(ヴィクトル・ユーゴ「レ・ミゼラブル」より)
になってしまう。


(ロメオとジュリエット翻訳、逍遥の自筆原稿)

逍遥は自作論文「小説真髄」の中で、
(小説で大切なことはまず人情を描くことで、
次に世の中の様子や風俗の描写である)
と論じているが、これにぴったりの名訳だと思う。

話がとんでもない所にそれてしまったが、
太田代官所跡の案内看板の前には、
虚空蔵堂があり、その前を通り西へ向うのが旧中山道である。

虚空蔵堂前を西のほうへ向う、木曽川べりである。


(虚空蔵堂とムクノキ。写真手前右下に、中山道左の案内もある)





太田宿脇本陣 林家(旧中山道を歩く 241)

2011年05月01日 10時12分24秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(太田宿脇本陣林家住宅)

(太田宿 2)
太田宿らしい古い町並みが続く。
その街並みの中の右側に造り酒屋の新旧混じった家があり、
左手に元太田脇本陣林家住宅とその隠居所がある。

前号で述べたが、日本アルプスの偉大な登山家であった播隆上人が
アルプスの帰り道、具合が悪くなり休んだ家が、この林家である。
残念なことに、この林家で播隆上人は人生を全うされる。
この旧脇本陣は今でもご子孫の方がお住まいで、
その隣の隠居所が公開されているので、見学しよう。

美濃加茂市によると、
(林家は、初代市左衛門が中山道太田宿の現在地に屋敷を構えて以来、
脇本陣のほか太田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達も勤めていました。
また、質屋や味噌醤油の製造販売も営んでいた旧家です。
往時には、東西25間の間口を持ち、
土蔵十棟、馬屋三棟、離れ座敷などをもつ壮大な構えでした。
主屋は、明和六年(1769)に建築された居室部と、
やや遅れて建てられた座敷部とからなり、
街道に北面して立っています。
切妻の両端には立派なウダツが設けられ、
この家の権威と格式を示しています。
――後略――)とある。


(隠居宅は右側の口のあいている所)

隠居所を見学したら、道路向かい側に旧太田宿本陣門があるので、
その門を見て、昔はその裏手に本陣の家屋敷があったことを想像してみよう。
この門は、文久元年(1861)時の天皇の御妹君、
皇女和宮が下向の際新築されたものである。
和宮は十月二十七日ここ太田宿で一夜を過ごされた。
今ではこの門は美濃加茂市の有形文化財に指定されている。
この斜め向かいに中山道会館があるので訪ねてみよう。


(旧本陣の門)


(中山道みたけ館)

街道沿いは古い昔を偲ばせる作りに工夫している。
駐車場の空き地を囲うのにも昔風な造りを考えている。
道路を西に進むと、右角に石標がある。
「右関 上有知道 左西京 伊勢道」とある。
往時はこの辺りに高札場があったという。
右奥を覘くと、「清流山 西福寺」の石碑が見える。

ここが西の枡形で、ここを左折し突き当たるまで進む。
ついで突き当りを右に進み、
国道41号線をくぐり、出たところ右手には小学校が見える。
太田小学校である。

この太田小学校に昔太田代官所が置かれていた。

そこの役人の息子が坪内逍遥である。

坪内逍遥って誰?と言われる方に補足して置きたい。

坪内逍遙:1859年(安政6年)- 1935年(昭和10年)は主に明治時代に活躍した
日本の小説家であり、評論家であり、翻訳家であり、劇作家。
代表作に『小説神髄』『当世書生気質』
およびシェイクスピア全集の翻訳がある。


(駐車場の囲い)


(石柱)


(「清流山 西福寺」の石碑)


(左折して突き当りまでの道)


(枡形)


(太田小学校)











祐泉寺(旧中山道を歩く 240)

2011年04月26日 11時37分46秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(祐泉寺)


(石造物)

(太田宿)
木曽川の土手に沿って歩くと、右下に石造物が並んでいる所があり、
秋葉神社、天満大社、御嶽神社、山神、水神様の碑があります。
さらに進むと、稲荷神社、祐泉寺の順で並んでいる。

祐泉寺には、幡隆上人と志賀重昂のお墓があるというので先に入る。
しかしここには坪内逍遥や北原白秋の歌碑、松尾芭蕉の句碑が残るのみで、
肝心の幡隆上人と志賀重昂のお墓は見当たらない。

坪内逍遥の歌碑には、山椿の歌二首が次のようにある。

・やま椿 さけると見れば いにしへを 幼きときを 神の代とおもう
 ・この木の実 ふりにし事の しのばれて 山椿はないと なつかしも


また、北原白秋の歌碑には、

・紅葉堅 秋雨ふれり うちみるや 石灯篭の あお苔のいろ 

さらに松尾芭蕉の句碑には、

・春なれや 名も無き山の 朝かすみ
とある。


(祐泉寺)


(北原白秋の歌碑)


(坪内逍遥の歌碑)


(芭蕉句碑)


(太田稲荷)

祐泉寺の境内を出て、隣の太田稲荷神社に行くと、
神殿の前には、お稲荷さんらしく赤い鳥居が幾重にも立っていて、
その隣に播隆上人と志賀重昂のお墓が並んである。

志賀重昂は地理学者で、
美濃太田から犬山にいたる木曽川の風景を、
ドイツのライン川と重ね合わせ、
「日本ライン」と名づけたことで知られる。
お墓は、東京の高井戸にある宗源寺と、
生まれ故郷の岡崎の世尊寺にある。
岡崎には矢矧川(やはぎがわ)が流れている。
そこで別名 矧川(しせん)魚長とも呼び、戒名にも使われている。

志賀重昂が、この辺りの木曽川を「日本ライン」と命名したご縁で、
この地にも戒名が刻まれた墓石が残っている。
戒名に「章光院矧川(しせん)日浄居士」とあり、
横に故志賀重昂先生の碑とある。

また、播隆上人は越中生まれの念仏僧で、
日本アルプス槍ヶ岳に初登頂した「アルピニスト」である。
しかし、播隆上人は天保十一年(1840)日本アルプスの帰り、
脇本陣(祐泉寺先にある)の林市左衛門宅で亡くなり、ここに埋葬された。
お墓には、暁道播隆大和上とある。


(志賀重昂の供養塔)


(奥に見える無縫塔が播隆上人の墓)

木曽川土手から祐泉寺に入ったが、旧中山道は祐泉寺を通り抜けた北側にあり、
道路へ出るとすぐ左に曲がり、またすぐ右に曲がる枡形である。
左側が「旧小松屋」の休憩所、その向かいが十六銀行太田支店跡で、
昭和58年(1983)までの40年間美濃太田市の発展に貢献してきた
建物で、土蔵造りでその風貌が伺える。

宿場らしい古い町並みが続く。


(枡形)


(枡形)


(小松屋)


(十六銀行の説明)


(十六銀行入口)











太田の渡し(旧中山道を歩く 239)

2011年04月20日 11時08分26秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(太田の渡し)

(伏見宿 2)
「木曽のかけはし、太田の渡し、うすい峠がなくばよい」
と詠まれた「太田の渡し」は中山道の三大難所の一つであった。

対岸の太田にあるので「太田の渡し」というが、
こちら側の現可児市今渡地区にある渡し場は、
「今渡(いまわたり)の渡し」という。

旧中山道の富士浅間神社の前を右折しないで直進する。
すぐ右手に「別格 今渡弘法大師 旧跡」
の石柱と幟旗がはためく参道がある。
この弘法大師は、今渡の渡し横にある大師様である。

さらに進むと、右手に津島神社があるので、その手前を右折する。
道路は木曽川に突き当たり、さらに右折すると石畳の竹薮の間を通る。
やがて竹薮が切れて、木曽川べりに出る。
ここが「今渡の渡し」で対岸に「太田の渡し」が見える。
右上にふれあいの里弘法堂があり、今渡弘法大師様の境内が見られ、
太田橋への近道へ入って行く。


(右に行かないで直進する)


(今渡弘法大師)


(津島神社)


(津島神社手前を右へ)


(木曽川に突き当たリ右へ)


(竹薮の道を抜けると「今渡の渡し」)


(今渡の渡し)


(船の乗り場?)


(今渡弘法様へ上がる道)


(今渡弘法様境内)


(ふれあいの里弘法堂)


(太田橋近道)


(太田橋)

出たところが国道21号線、太田橋である。
渡り終えた右側が、日本ラインの船くだりの乗船場であるが、
以前は立派な建物があったはずであるが、
今はテントだけしか残っていない。
見ると、川べりにいっそうの舟が横付けになっているものの、
乗客は一人もいない。
今日はウイークデイであるからなのか。

岐阜県太田から愛知県犬山あたりまでの木曽川を日本ラインという。
名づけ親は地理学者の志賀重昂(しがしげたか)である。
彼がこの辺りの景観を「ラインの縮図」と呼んだことによる。
志賀重昂のお墓は、この先の祐泉寺にある。


(右手の日本ライン乗船所)

太田橋を渡り終えて、交差点を左側に道をとり、河川敷に入って行く。
「太田の渡し」を見るためである。
飛騨木曽川国定公園の看板を見て、
青い芝生の中の道を行くと、石橋があり、渡り終えると石畳が現れ
「太田の渡し」に着く。
川岸に立って中をのぞくと、綺麗な水が緩やかに流れ、
川底が見えるが底は大きな岩が占めている。相当深そうである。


(国定公園の案内)


(石橋)


(石畳)


(太田の渡し)

浮世絵師 広重は「木曽海道69次之内 太田」をここから描いたと言う。
「木曽のかけはし、太田の渡し、うすい峠がなくばよい」
と俗謡に歌われた木曽川は、この絵を見る限り悠揚迫らぬ眺めである。
浮世絵は木曽山中で伐採された木材を運ぶ筏や、渡し舟が見える。
船着場の岸には、旅人たちがそれぞれ対岸を見やっている。


(広重画浮世絵 木曽海道69次の内「太田」)

現実に戻って旧中山道を歩く、道路は堤防に登り西に向けて進む。
やがて右下に美濃加茂市文化会館の裏手に一里塚跡の標柱が建っている。
「土田の一里塚跡」と案内書の説明にある。

文化会館というだけあり、一里塚跡の脇には奇妙な造形物がある。
これ以外にもこの手前でカブトムシではないだろうが、
虫の形をした造形物があった。

この一里塚跡の標柱の先にお手洗いがあるので、
用のある方はここでの利用をお勧めする。

これから太田宿に入って行く。

(土手の上の中山道)


(一里塚跡の標柱と造形物)


(昆虫の造形物)


(太田橋)










飯盛り女の塚(旧中山道を歩く 238)

2011年04月15日 12時57分13秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(伏見の信号)


(信号脇にある一本松公園)

(伏見宿)
次の交差点右側に一本松公園がある。
そこは街道を歩く人の休憩場所でもあり、
伏見宿の紹介場所でもある。
丁度お昼頃でもあり、包みを開いておにぎりを食べることにした。
見渡すと広い縁側の上に伏見宿の見所が掲げてある。

一つはラクダで、ラクダの飼い主が病気で倒れ、伏見宿で三日ほど寝込んだ。
そのとき近在の人々3000人がラクダ見たさに見物に来た、とある。

ボクは今、板橋宿を過ぎた志村一里塚近くに住んでいるが、
このラクダは、板橋宿の平尾脇本陣にも繋がれたことがある。
将軍家へ献上するためであるが、将軍に断られたので、
板橋宿脇本陣に繋がれていた。
珍しさに近隣から人が押しかけた記録が残っている。
そのラクダである。

二番目は名号碑で、播隆上人は日本アルプスの槍ヶ岳を初登頂した日本人として知られる。
その上人の残した「南無阿弥陀仏」の名号碑が、
宿場西の外れにある。
三つ目は、十返舎一九が書き残した「木曽海道膝栗毛」の中に、
伏見宿の旅籠主人の馬鹿げた話が載っていること。
四つ目、江戸時代に水運が盛んであった新村湊で働く人たちが病気にかかる時など、
平癒の神様として信仰された<小柳様>は,
伊勢湾台風の3年後に倒れたこと。etc.


(らくだ)


(播隆上人)


(弥次さん喜多さん道中)


(新村港の柳)

この一本松公園のある信号を左折する。左に学校を見て進むと、
道路は右にカーブする。
その曲がり角に「洞興禅寺」がある。
見ものは、その境内に子安観音と女郎塚があることであろう。

どの宿場もそうですが、
伏見宿にも飯盛り女と呼ばれる女郎が多くいたようである。
身寄りの無いまま病死した彼女らを弔うため、
伏見宿内にある子安観音の一角に女郎塚が作られ、
今もひっそり祀られています。

その昔、彼女らは家が貧しく、
食べるものにも困っていたので、
口減らしのため親が女の子供を売ったのである。
人身売買で、宿場に来て働いた女たちは、
お金を返済できれば自由になれたが、
その返済のために身を売って稼いだ。
多くは借金の返済が出来ずに命を落としていったと言われる。
雇い主から見れば、遊女は商品であるから、
死後の扱いを丁重にして、
生き残りの遊女たちの働きを期待したように思われる。
(ボクが考えるに、返済が出来なかったとは考えられない、
多分、ほとんどは返済完了し、
儲けの途中で命を落としたと思われる。
考えれば考えるほど、惨めな話である。)
品川宿、板橋宿などにも、
こうした遊女の墓が見られる。


(洞興禅寺)


(子安観音像)


(女郎塚)

国道21号に戻って西に向うと上恵土(かみえど)神社がある。
さらに進むと、国道は左にカーブして、その後右に曲がっているが、
歩行者は直進する。
右手に大きな建物があり、これはパチンコ店であるが、
その前の道路わきに一里塚跡の碑がある。
やがて「加茂公設市場」の交叉点に出ると、
道路は直進は自動車道専用道路になり、
信号を右折すると、
市街地へ出る道路と分かれる。
右手に公設市場の大きな建物が見えるところで、
市街地に出る道路に沿って歩道を進むと、
JR太田線の踏み切りがありこれを越える。


(宿場らしい建物)


(上恵土神社)


(ここは迷い易いが、直進する)


(一里塚跡の碑、後ろにパチンコ店が見える)


(加茂公設市場の信号)


(信号右折して市街地に入る道路となる)


(市街地へ入る道)


(市街地への道はJR太田線の踏み切りにすぐ出る)

どんどん市街地に入っていく。
左手に「光峰作」の可児人形店を見て、
歩道橋をくぐり大きな交叉点にでる。
ここを右折したくなるが、先は新太田橋で、
「太田の渡し」がある橋はもっと下流で道なりに進む。

道路を進むと右手にある「今渡神社」の参道を越え、
「今渡公民館南」の信号を渡り、金剛山龍洞寺の門前を過ぎると、
右に「富士浅間神社」の前で道路はY字路になり、
右に折れていくと太田橋で、
「太田の渡し」の無い現代はこの太田橋を渡る。

往時は通称「太田の渡し」で木曽川を渡ったので、
太田橋たもとの船着場に行くことにする。


(可児人形店)


(歩道橋をくぐり)


(今渡神社)


(龍洞寺)


(富士浅間神社)


(浅間神社前の信号、右は太田橋)


(太田橋)

















鬼の首塚(旧中山道を歩く 237)

2011年04月09日 10時15分28秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(鬼の首塚)

(御嵩宿 5)
国道21号線を西に向うと、白い幟旗がひらめく場所に出る。
白い幟旗には、「鬼の首塚」とあり、近づくと「鬼首塚遺跡」の石柱があり、
祠の中には「関ノ太郎 首塚」の石碑がある。
御嵩町の重要文化財に指定されている。

御嵩町の説明によれば、
(伝説によると、鎌倉時代の建久・正治の頃(1190~1200)、
すこぶる凶悪で悪業三昧の男が鬼岩の岩窟に住み着き、
乱暴狼藉を極め住民を大いに悩ませた。
この者は西美濃不破の関の生まれであったため、
住民はこれを「関の太郎」とか「鬼の太郎」と呼び恐れていました。
そこで正治元年(1199)、
人々はこの地の地頭 交告(こうけつ)源吾盛康にこの惨状を討え、
退治してもらうことにしましたが盛康は京の地にあり、
おいそれと帰ることが出来ませんでした。
そこで家臣四名に太郎の退治を頼み、御嵩の地に帰しました。
ところが、なかなか太郎を討つことが出来なかったため、
蟹薬師(願興寺)に祈願した所、
太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、
そのお告げの通り四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、
それを捕え首を切ることが出来ました。
四人の者は太郎の首を首桶に入れ、
検分のため都へ運ぼうとしましたが、
急に首桶が重くなり一歩も進むことが出来なくなりました。
すると首桶を縛っていた縄が切れ、中から首が転げ落ち、
落ちた首も動かすことが出来なくなったため、
それをこの地に埋めました。
これが「鬼の首塚」の由来と言われています。
首塚のある辺りを「桶縄手」と呼び、
木曽海道膝栗毛の十返舎一九も、
この地のことを詠んだ歌を残しています。

・桶縄手 今もその名を 朽ちさりき
           塩漬けにせし 鬼の首かも)
(御嵩町・御嵩町観光協会)とある。

つまり、ここは関の太郎のお墓であった。
この首塚の横に 子規が呼んだ歌碑が建てられている。

・草枕 むすぶまもなき うたたねの
          ゆめおどろかす 野路の夕立   (子規)


(子規の歌碑)

次の信号は県道83号線と交差する場所で、
信号角に御嵩神社がある。
信号を渡った先で、右の脇道に入るが、
脇道に入ってすぐ中山道の案内看板がり旧中山道であることが判る。
(右伏見宿、左御嵩宿)とあるので安心して進むが、
すぐに国道21号線に合流する。

しばらく国道21号線に沿って進む。
右手に「郷社 八幡神社」の石塔を見て、
また、左にある川の中にいる川鵜や鷺が、
のんびりえさを求める姿を見て前に進む。
のどかな気分である。


(県道83号線との交差点)


(信号かどの御嵩神社)


(その先の右に入る道)


(右脇道に入った所にある案内)


(八幡神社の石塔)


(川の鷺や川鵜)

間もなく左に入る道路の角に「比衣の一里塚」の石柱を見たら右の脇道に入る。
少しすると高速道路下をくぐるが、これは東海環状自動車道である。
のどかな田舎道を進むと、突き当たるが中山道の案内があり左へ行く。
また、国道に合流するので、国道の歩道を歩く。


(一里塚跡の碑)


(高速自動車道をくぐる)


(国道21号線に合流)

しばらく歩くと、右手に駐在所の交番があるので、この前を右に入る。
少し登り坂になるが、もう一度国道に合流すると、
左側が「御嵩町伏見公民館」の建物があり、
その庭先に二つの石碑がある。
一つは「伏見宿 本陣の跡」もう一つは「是より東 尾州領」である。

伏見宿には宿場らしきものが見られない。

次の交差点右側の(一本松公園)に伏見宿らしい面影が見える程度であろう。


(駐在所の前を右脇道に入る)


(国道21号線に合流した左手にある公民館)


(道路わきにある伏見宿本陣跡の碑)


(本陣跡の碑の右隣にある「是より東 尾州領」の石碑)


(伏見宿 一本松公園)















願興寺と愚渓寺(旧中山道を歩く 236)

2011年04月03日 11時29分45秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2
2011/3・11の東日本大震災で被災された方々にとって、
春はまだ遠いかもしれません。
避難生活をされている方々に、
 少しでもお役立てたらという願いを込めてお届けします。





(商家竹屋)


(本陣跡)


(中山道みたけ館)


(願興寺)

(御嵩宿 4)
2010/11月30日 ホテルを出て快晴の秋空のもと、
今日も一日絶好のハイキングの日である。
名古屋鉄道(通称 名鉄)「御嵩駅」を降りる。

道路を挟んで目の前が願興寺である。
お寺の向こう側が「中山道みたけ館」その隣が「御嵩宿本陣跡」。
そしてその横に「御嵩宿商家竹屋」がある。

残念ながら本日定休日の看板が掛かっている。
朝が早い所為だろうか? もう9時になっているのに・・・
そうだとすれば、昨日入っておくべきであった、と悔やまれる。

やむを得ず「大寺山 願興寺」に入る。
朝早いせいであろう、お寺はがらんとしている。

願興寺によれば、
(815年伝教大師(最澄)によって創建されたという天台宗の古刹である。
二度にわたる兵火により本堂等は消失。
幸いにも本尊・薬師如来像をはじめ諸仏像は焼失を免れた。
本堂も地頭・纐纈源吾盛康(こうけつげんごもりやす)によって再興され、
二度目の焼失後も近在の農民・玉置与次郎と市場左衛門太郎らの発願により、
素朴な造りであるものの、
板一枚、柱一本を持ち寄って見事再建される。
この辺りでは通称「蟹薬師」で呼ばれている。)(大寺山願興寺)

そのいわれは、その昔一条天皇の皇女である行智尼(ぎょうちに)が、
ここに庵を結んで間もなく庵の西南にある大池から、
蟹の背に乗った金色の薬師如来仏が池の面に浮かばれた。
これを薬師如来像の胎内に納めて、
本尊蟹薬師として願興寺を建立した、と言う。

願興寺には本堂を取り巻くように広い回廊があるが、
東山道を旅する人々に夜露をしのげる場所を与えたであろうと推定されている。
本堂は国の重要文化財に指定されており、
古刹とは言うものの、回廊は床が抜けそうに感じた。
また、鐘楼門は県の重要文化財に指定されていて、
周りの紅葉に囲まれて、見るからに荘重な鐘楼門であった。


(願興寺本堂の回廊)


(本堂の回廊2)


(本堂の回廊3)


(本堂の回廊4)


(紅葉に包まれた鐘楼門)

中山道は、願興寺が枡形の角になり、
道路は右にそしてすぐ左へと曲がる。
辺りは宿場らしい古式豊かな家が点在して、
すこし進むと突き当たる形となり右折する。
道路を郵便局があるところまで入ったら、
行き過ぎになるので引き返すこと。

ここが第二の枡形で、
次の信号で国道21号線を左折するのが旧中山道である。
しかし、京都の龍安寺の石庭のもととなった庭で知られる愚渓寺を訪ねるので、
この信号を右折する。


(願興寺の枡形)


(宿場らしい古い家)


(次の枡形)


(国道21号線の信号に出る手前右側に常夜灯がある)


(国道21号線を右折した最初の信号愚渓寺の案内が小学校の看板の下のほうに見える)

右折後最初の信号の角に、「御嵩小学校」の看板があり、
その下に小さく「大智山 愚渓寺」の案内があるので、
左折し急な坂を登ると、右手中腹に愚渓寺が見える。

石柱に「大智山 愚渓寺」と大書してある。
東海地方では名だたる名刹であるという。
この石柱の反対側には、大きな石灯籠があり威圧感を感じる入口である。
愚渓寺は大変美しいお寺で、手入れが行き届いていて、
沢山の参拝客があるらしく、
門前には駐車場があり、
その先に御嵩町が見渡せる。


(愚渓寺の入口)


(門前の駐車場から見た御嵩宿)

入口となる門の前にも二基の灯籠が控えている。
門の内側には、観音立像が手招きしているように待っている。
中に入ると、龍安寺の石庭の原形となった庭園(枯山水)が、
観るものの気を引き締める。
掃き清められた白い砂の中に、
九個の臥龍石が残されている。

この庭は一体何を表わしているのだろうか?
心が求める真理を表わしているのだろうか?
心を慰める豊かさを表わしているのだろうか?
あるいは極楽浄土を表わしているのだろうか?

石庭の横の庭に、菩提樹の木が植えられていたが、
お釈迦様が悟りを開いた菩提樹を意味するものであろう。
健康と安寧をお祈りして退出した。


(愚渓寺の山門)


(観音立像)

0060
(愚渓寺の臥龍石庭)

(菩提樹)

愚渓寺を出て、国道21号線をひたすら西に急ぐと、
右手に幟旗がひらめく場所に出る。

「鬼の首塚」である。


(鬼の首塚)




和泉式部廟所(旧中山道を歩く 235)

2011年03月29日 10時06分12秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(和泉式部廟所)

(御嵩宿 3)
「和泉式部廟所」右への案内に沿って進むと、
家の裏手すぐに、その廟所はある。

和泉式部は平安時代の三大女流作家の一人で、
第一は「源氏物語」を書いた紫式部、
もう一人は「枕草子」を著した清少納言である。
それでは和泉式部は何を書いたの?といわれると、
歴史にうといボクには思い出せない。

廟所には、
(和泉式部は、平安時代を代表する女流文学者の一人といわれ、
和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、
恋多き女性としても知られています。
波乱の人生を歩んだ彼女は、
心の趣くままに東山道をたどる途中、
御嵩の辺りで病に侵されてしまい、
鬼岩温泉で湯治していましたが、
寛仁3年(1019)とうとうこの地で没したといわれています。

廟所には、
・一人さへ 渡れば沈む 浮き橋に あとなる人は しばしとどまれ

と言う歌が刻まれています。)(御嵩町)とある。

先に書いた紫式部は、和泉式部について(恋文や和歌は素晴らしいが、
素行には感心できない)と紫式部日記に酷評している。
それに説明では、寛仁3年(1019)没となっているが、
万寿2年(1025)娘の古式部内侍が死去した折には生存していたことから、
寛仁3年(1019)死去は、どうも説明が付かない。

紫式部に素行は感心できないとまで評された和泉式部、
恋文や和歌は素晴らしい、といっている。
えてして文学者なるものは、
普通の人が体験できないような体験をするから、
他人には判らないような異次元の体験が出来るのかもしれない。

話は全く変わるが、
「夜明け前」の名作や「初恋」などの詩を書いた島崎藤村も、
残された資料や原稿を見ると、
非常にまじめで几帳面な性格の持ち主で、
倫理観もさぞ優れていると、
藤村の研究者は口をそろえて言うが、
教師の時代に教え子との間に起きた性的関係や、
藤村の兄 広助(妻籠本陣へ養子に入る)の娘との間に子供をもうけ、
妊娠を知るやフランスへ逃げてしまうような無責任な男で、
人間としてあるまじき事で、ボクは許すことが出来ない。
「初恋」の対象となった隣家の「おゆうさん」との間も、
その詩の奥を考えれば、世間に自慢できるものではない。
如何に良い優れた小説を書こうと、
人格的には、この男をボクは好きになれない。

話が変な所へ反れてしまったが、
ボクが言いたいことは、
一流の作家は別次元の感覚を持っており、
普通、人が感じ得ないことを感じているように思える。
しかし、それを肯定することが出来ないのが普通の人であろう。

そんな人が和泉式部という女性なのであろう。
しかし、これはこの時代の人の考えであるから、
現代人が和泉式部を見たら何だこの人はと、
良い意味で目を見張ったかもしれないのだ。

さて、話を戻すと、
三体の地蔵尊に見守られて、静かにたたずむ和泉式部は、
あの世から「好きなように解釈してよ」、
と微笑んでいるのかもしれない。

道路を西に進むと、
右手に「村社 八幡神社」の石柱が見える。
石柱のはるか奥には、石の鳥居が見えることから、
南無八幡大菩薩が鎮座していることがうかがえる。

さらに進むと左手に正一位稲荷神社の赤い鳥居を見て、
案内書どおり「丸山稲荷を見て左へ進む」の言葉どおり進むと、
大間違い、現在道路は工事中で21号線バイパスが、
左方向へ出来上がっているからである。


(和泉式部廟所)


(和泉式部廟所脇の三体の地蔵尊)


(八幡神社の石標)


(お稲荷さんの赤鳥居)

広い道路、国道21号線に出たら、道路右側を歩くことをお勧めする。
稲荷神社の赤い鳥居を左に見たら、そこで右手に入っていくのが正しい。
どちらかと言うと、バイパスに対して旧道を直進して進む形になるが、
これが正しい。

やがて左手に松ノ木が生えており、その陰に道標がたっている。
「右御嵩宿」「左細久手宿」とある場所を左折する。
よく見ると左折前方にも、左折した所にも「中山道」の矢印があるので、
見落とさないようにして欲しい。


(県道341号線の左側の松ノ木に隠れるように石標はある。)


(松ノ木に隠れるようにしてある石標)


(中山道の矢印を見落としてはならない)

道路は右にカーブし、次いで左へ、、そしてもう一度右にカーブする。
その左角にバス停(御嵩公民館)がある。
右に曲がったら突き当たるまで進もう。
突き当りが「御嵩駅」で、駅入口に「御嵩観光案内所」があり、
右側に、手前から「御嵩宿商家竹屋」、「御嵩宿本陣」、
「中山道みたけ館」、
「大寺山願興寺」が並んでいる。

しかし時間にして16時で、ボツボツ暗くなり始めたので、
今夜の宿泊場所、可児市(かにし)のホテルに向うことにする。
電車は16:29発 新可児駅(しんかにえき)着16:45 ホテル着17時。


本日(11/29)の歩行52163歩、約31kmであった。

(右に左に道路は曲がる)


(右折する左角にあるバス停)


(バス停は「御嵩公民館」)


(宿場らしい街並み)


(宿場らしい街並み2)


(願興寺の門前)