わまのミュージカルな毎日

主にミュージカルの観劇記を綴っています。リスクマネージャーとしての提言も少しずつ書いています。

雨物語り

2005年11月06日 | 観劇記
05年11月6日マチネ  銀座小劇場
劇団カントカークトの第三回公演「雨物語り」に、第二回公演に引き続き小鈴まさ記さんが出演なさるということで、観劇しました。

アングラが流行っていたとき、知人が劇団に入っていたので殆どの公演を観ていました。私もとても若かったし、華やかな舞台が好きな時期だったためもありましたが、あまり楽しい観劇ではありませんでした。そういうことを差し引いても、つまらなかった原因は、細かい設定は各公演で違うのですが、伝えたいことがいつも同じなのです。まあ、それがあの時代のアングラだったのかもしれませんが、途中まで観ると、最後の展開がわかってしまうのです。
作り手が同じだと、どうしても似たような展開になってしまうのは仕方がないとしても、どのような題材をどう味付けし、次の作品も楽しみと観客に思わせるのか、それがまず小劇場の劇団の課題だと思います。

前回のカントカクートさんは政治の話でした。とても原案がよかったので、今回も楽しみでした。そして、今回は「家族」にテーマが移り、親子の在り方を考えさせる内容になっていました。前回とはまったく違うテーマ、切り口でしたので、また次回が楽しみです。

あらすじを。
雨が降っている。
雨森幸介は27才。父親の幸太郎と2人で暮らしている。と思うと実は父親は幽霊。幸介にしか見えていない。一人暮らしの幸介を気遣い、幼馴染で、今は有名なニュース・キャスターとなっている花岡夏美が時々家にやってきては、世話を焼いている。幸介はもっぱらフリーター。そして、小説を書いている。しかし、発表するつもりはなく、夏美と幽霊の父にだけ読んでもらっている。
いつものように夏美が幸介の家に来ていると、夏美の婚約者だという五条もやってくる。幸太郎は幸介と夏美がうまくいくことを願っているので、姿が見えないことをいいことに五条に意地悪をする。
夏美が雨でびしょびしょになっていた高校生の巽一哉を幸介の家に連れてくる。この一哉の父は著名なジャーナリストで夏美の憧れの人だった。幸介の小説を通し、なんとなく息が合う幸介と一哉だが、ゆっくり話す間もなく五条が祈祷師を連れてやってくる。この家に悪霊がいるというのだ。この場は父の幽霊のことはばれずに済んだが、祈祷師が一哉のかばんの中に幸介の小説を入れてしまう。
一哉が自宅に戻ると、変な人がやってくる。一哉は麻薬の密売をしているのだ。父親の一義が戻ってくる。ギクシャクとしている2人。一義は小説を見つけ「お前が書いたのか?」と聞く。「そうだ。」と答えてしまう一哉。
幸介の家に一哉が来る。夏美もやって来る。そして、五条がまた祈祷師を連れてやってくる。祈祷師は塩をもって悪霊をやっつけるという。父の幽霊をかばう幸介。何しろ、塩に触るとこの世にはいられなくなってしまうからなのだ。そのため、皆に父親の幽霊がいることをばらしてしまう。祈祷師は、死んでから7年以上この世にとどまるとその霊は天国へは行かれなくなること、霊がこの世にとどまることはとても苦しいこと、それをしてもとどまるには余程の心残りがこの世にあること、を幸介に伝える。父親がいることに疑問を感じていなかったのか、幸介はとても驚く。
一哉がやってくる。父親との関係が上手く行っていないことを告白する。幸介はもう一度父親とやり直す努力をするべきだと伝える。
幸介は、幽霊の父親に「何が心残りで、この世にいるの?」と聞く。父親は、お母さんに合わせる顔がないから、と答えた。
巽一義のもとに、一哉の高校の担任が来た。登校日数が不足していること、麻薬の密売にからんでいることを伝えに来たのだ。一義は担任に一哉が書いたという小説を見せた。担任は「15年間の国語教師の面子にかけて、一哉君の書いたものではありません。」と一蹴する。担任が帰ったところへ一哉が帰宅する。何とか父親と話し合おうとする一哉だが、「嘘をつくな。」と一言残して父親は出て行ってしまう。
小説の本当の書き手が幸介だと知った一義は幸介の家を訪ねる。「是非、出版しよう。」と勧める。しかし、幸介は拒否する。なぜか・・・
幸介は、母親が交通事故で亡くなった日の話しをする。留守がちな父。その日も遊園地に行く約束をすっぽかされた幸介は、母親に八つ当たりをしてしまったのだ。「お母さんなんかどっか行っちゃえ。」と言った幸介の言葉に家を出た母親は、そのまま帰らぬ人となったのだった。幸介は自分のせいで母親が亡くなったと、自分を責め続けていたのだ。書くことでやっと心のバランスをとり、生きているのだ、と。だから、誰かに読んでもらいたいとか、有名になりたいとかではなく、生きながらえるために書いているのだと幸介は言う。
そこへ、刑事に追われ一哉が入ってくる。刑事は一哉を「屑だ」と決め付けた。その言葉に怒るのかと思われた一義だが、意外なことを告白する。
「大雨の日に、幸介君のお母さんを車で轢いたのは、私です。屑は私の方です。」と。
17年間わからなかった母親殺しの犯人がわかった。しかし、あんなに憎んでいたはずの犯人が目の前に現れても幸介は一義を憎む気にはなれなかった。それどころか、自分を責める気持ちが整理されたような気がしたのだ。
そのとき、神父様(神様か?)がやって来て、幸太郎に「もう、天国に行かれますね。」と言う。幸太郎は幸介に「自分の感じたまま生きていきなさい。」と言葉を残して、本当に旅立っていった。幸太郎を引き止めていたものは、幸介の自分を責める心だったのだ。
雨が上がった。幸介と夏美は幸せそうに、外へ出かけていった。

と、こんな感じでしょうか。一度しか観ていませんので、多少場面が前後しているかもしれません。申し訳ありません。

最後の場面は、本当に泣かされました。親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ち、どちらも強く美しいのです。でも、そのすれ違いも起こります。どうやって、解決しようか、焦れば焦るほど溝は大きくなるのです。本当に難しいですね。
また、人間の生きている意味や人を裁くのは誰か、など、次々と人間社会の永遠のテーマとも言える事柄について深く深く語っていました。
原案は角田裕志さんだそうですが、本当に素晴らしい発想です。幽霊という存在を作ることによってコメディの雰囲気も生まれますし、より深くいろいろなことに対して考えようとさせてくれるのです。
前回の「国会ランチ」以上に、人物のキャラクターもはっきりとしていて、まとまりのある脚本だったと思います。何しろ、私は「希望」があるお話が好きなので、涙しながらも、私もがんばろうと思いました。さらに、子供がいる私にとって、共感することもとても多かったです。そして、反省することも・・・(苦笑)。

何度も言いますが、俗に言う「本」(原案や脚本をまとめて)は、本当にとても素晴らしいのです。しかし、舞台の運びとなるとかなり辛口になってしまいます。演出ではどうにもならないであろうと想像してしまう演じ手の実力の差があまりにも大きいのです。
舞台は、現実であれば長い長い時の流れを、数時間に凝縮するわけです。ですから、無駄はないわけですし、無駄があっては困るのです。どんな短い台詞、時にはちょっとした動きだけで、観客に何かを伝えなければならないはずです。というか、そうして頂けないと、観客は演じ手とともにその場に生きていくことが出来ないのです。小劇場だからかもしれませんが、私には、無駄な動きが多いように思われました。そうなると、「ここ」というときがぼやけてしまうのです。
お芝居は「間」だ、と簡単に言ってしまいますが、言ってみれば呼吸の間隔ではないでしょうか。この「間」が、演じ手と観客とで一致してくると、劇場内の一体感がもっともっと増すと思います。あくまでも、観客を入れての公演なのですから、演じ手のペースではなく、観客のペースを考えて舞台を運んで頂きたいと思います。

さて、小鈴さんについてですが、今回は祈祷師、麻薬を買ったいかれた兄ちゃん、担任の先生、刑事、神父(神様?)と5役をこなされ、どの役も場面を転換させるという重要な役を受け持たれました。グハハハ・・・と、笑わずにいられない変な役から、小鈴さんってやっぱりビジュアルがステキとぐっと来る役まで、ファンを楽しませてくださいました。
台詞の明瞭さにとどまらず、何を伝えるのかがはっきりわかる台詞回しに、さすがだなぁと思いました。舞台美術も担当されたそうで、すっきりとしたステキな舞台を作っていらっしゃいました。が、もう少し、じっくりと役作りをしていただきたいのです。劇団のメンバーではなく、ゲストという形でのご出演ですから、こういう役になりやすいのは仕方のないことかもしれませんが、また、出演なさる機会がありましたら、是非、お願いしたいです。

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