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わまのミュージカルな毎日

主にミュージカルの観劇記を綴っています。リスクマネージャーとしての提言も少しずつ書いています。

エリザベート

2005年09月26日 | 観劇記
05年9月26日ソワレ
帝国劇場 1階6列目下手より

今更この作品のあらすじを書く必要はないですね。本当に多くの観客を魅了しているようです。
トートは山口祐一郎さん。フランツは鈴木綜馬さん。ルドルフは井上芳雄さんでした。
と一応報告してみましたが、特に俳優の皆様について感想を書くつもりはありません。
ただ、一言言うとすれば、たった一ヶ月公演であるにもかかわらず、あるいは一ヶ月公演だから突っ走ったのかもしれませんが、相当お疲れ?と感じる舞台でした。
キャストの皆さんのご予定からすると、致し方ないのかもしれませんが、ちょっとがっかりしました。

4月に宝塚版「エリザベート」を観ました。とても夢のある舞台でした。トートがエリザベートの心であることもとてもよくわかりました。本当に、宝塚にぴったりの作品だなぁと思いました。「死」がテーマであるにもかかわらず、暗くならない、不思議な華やかさのある舞台でした。

東宝版には、宝塚にはないリアルさがあります。それが魅力なのでしょうね。
そして、今回すごく感じたのは、「ホームドラマ」的な雰囲気でした。
「屋根の上のバイオリン弾き」もユダヤ民族にかかわるとても暗い政治的な話です。ところが娘4人を嫁に出すホームドラマのようなお話に置き換えて、観客が楽しむようになってから、家族そろって楽しめる舞台になっていった、とどこかで聞きました。
「エリザベート」にもそういう一面があるなぁと思いました。嫁と姑の争い、夫と妻のすれ違い、子供の教育問題、親子関係の難しさなど、「渡る世間は鬼ばかり」も真っ青という感じではありませんか!

多くの人々の心をつかんでいるのですから、とてもよい方向に作品は向かっているのだと思います。きっと、「屋根の上のバイオリン弾き」のように長く上演されていく作品となっていくと思います。

でも、私としてはちょっと寂しいですね。あの何とも不思議な音楽が、演歌のような雰囲気になってしまうのは。まあ、日本人が創って、日本人が楽しむのですから、そういう変化も正しい方向なのかもしれませんね。

新・青い鳥

2005年08月14日 | 観劇記
05年8月14日マチネ
東京厚生年金会館 15列目やや上手

「新・青い鳥 帝国歌劇団・花組 スーパー歌謡ショー・」が正式らしい。
10回を目標に毎年夏にやっているゲーム「サクラ大戦」のキャラクターが繰り広げるショーの第9回目。
第5回目から毎年観劇しているのですが、実は、ゲームは全く知らないというとても変わった観客だと思っています。今回は、ゲームの内容がかなり組み込まれていたようです。いつもは、花組は舞台をやっている、という印象が大きかった。しかし、今回はどうやって平和を守るかという点が大きく描かれていたのです。そのため、「新・青い鳥」という劇中劇はとても短くなってしまいました。でも、いろいろなメッセージが含まれていて、広井王子さんには、今回も脱帽です。

複雑なお話なのですが、あらすじは簡潔に。
米田一基氏(池田勝さん)は、陸軍には関与させず、帝都という都市の平和を守るという構想の下、帝国歌劇団(花組)を作った。退役した米田氏のもとに花組の副司令官である藤枝かえで(折笠愛さん)が尋ねてきた。かえではもともと軍人なのだから、陸軍に戻って平和のために尽くしたいと米田に告げる。
花組は、戦闘訓練のほか、気や集中力を高めるために舞台をやっている。今年は「青い鳥」の上演目指して稽古をしている。
しかし、陸軍の差し金でもあり、自分の怨念のためでもあるのか根来幻夜斎(嘉島典俊さん)一味が花組を襲う。いろいろな人の助けを受けながら、幻夜斎を倒した花組。
かえでは米田の「軍隊は小さくなくてはいけない。花組は都市防衛のためにあるのだ。」という言葉を理解し、これからも花組の副司令官としてがんばっていくことを心に誓うのだった。
「新・青い鳥」の最終幕が上演される。

いろいろなところに、いろいろな仕掛けがあって、3時間半があっ言う間でした。
シリーズものになると、マンネリ化が避けられないのですが、原作がしっかりしているのか、いつも楽しめます。
今回のテーマは、あらすじにも書きましたが、「平和」をどういう手段で守るか、だったと思います。軍隊が大きくなることがいかに危険なことであるかをさりげなく、でもきっぱりと語っていました。

大立ち回りの見せ場は、なかなかでした。

国本武春さんも02、03年に続き3度目のご登場。幻夜斎のことを浪曲で語って下さいましたし、どうやって盛り上げるかを面白く教えて下さいます。広井さんも観客が作る舞台を目指されているようですが、国本さんはとても具体的に教えてくださるので、観客はもうノリノリです。

園岡新太郎さんは「マドモアゼル・モーツァルト」にも出演中なので、二日間だけのゲスト出演でした。が、たくさん歌を聴くことが出来ました。ダンスもかっこよかったです。本当に伸びやかなお姿を拝見し、今年も「サクラ大戦」に来てよかったなぁと思いました。

続「ひめゆり」今さんお願い!

2005年08月08日 | 観劇記
「ひめゆり」という作品への思いは、本当に真面目な思いです。
作品への感想はちょっとした冗談まじりの話題も避けたいので、ここに分けました。
今拓哉さんの役は、ファンにとって相当辛いだろうと予想はついていました。
キミ役の島田歌穂さん、上原婦長の土居裕子さん、檜山上等兵の戸井勝海さんと豪華キャスト、また、「ルルドの奇跡」でも活躍なさっていた素晴らしいミュージカル座のメンバー、それぞれに本当にあの時代に、あの体験をしたのではと思うほど、素晴らしい活躍でした。
今さんも勿論そのお一人ではあるのですが、あまりにもリアル過ぎて、耐えられない場面があったのです。今さんのファンでなければ、ここまで心に重くのしかからないのかもしれませんが、ショックでした。
第一幕に「この身をかけて」という素晴らしいナンバーがあり、「鬼軍曹」とは言われるけれど、本当はいい人!と、ほっとしていたのですが、第二幕になると「鬼」を通り越して、「死神」のようになってしまうのです。本当にショックでした。

「風を結んで」に続き、ファンとしては大変な重圧の中の観劇が続きました。次はどうかとっても「いい人」でありますように。


ひめゆり

2005年08月07日 | 観劇記
05年8月7日マチネ
東京芸術劇場・中ホール  7列目下手

「ひめゆり」という作品は何年も前から観に行ってみようか、と思いながらなかなか決心がつきませんでした。またいつか、と延ばし延ばしになっていた作品です。
史実に基づいた作品は、いろいろ展開しても結末は史実と同じはずですから、ひめゆり学徒隊の悲劇をわかっているだけに、辛い思いをするために劇場へは行きたくないという思いがありました。
今回、今拓哉さんが出演なさると聞いてからも、相当迷いました。なにしろ、昨年の夏に沖縄に行き、「ひめゆり平和祈念資料館」でいろいろな資料を見てきたからです。壕の内部が再現されていました。病院だったとは信じられませんでした。手記がたくさん展示されていましたので、涙をこらえていくつも読みました。辛い事実を、そのことが起きてしまった現場で見ていたので、劇場でまた思い出したくはないという気持ちが強かったのです。
しかし、結局は観劇しようと思い立ったのです。その大きな理由は、私達の世代が戦争を体験した人たちから、直接に話を聞くことが出来る最後の世代だということを自覚したからです。
今年は戦後60年。様々な場で第二次世界大戦の体験を聞く機会がありました。お話してくださる方は80歳以上の方です。ぽつぽつと語られます。しかし、「戦争は絶対にしてはいけない。」「今語らなければ、もう、語り継ぐときはない。」ということをおっしゃるときは、力を振り絞り、声の限りに私達に訴えてくるのです。私達も今しか聞くことが出来ないと強く感じたのでした。
「ひめゆり」という作品がどれほど深く史実を語っているのか、観てみたい、また、私よりずっと若い観客がどう感じるのかを知りたいと思いました。これから私達がどう語り継いでいくべきなのかを知る一つの手がかりになるような気がしたからです。

舞台の場面を思い出すととても悲しくなってしまうので、あらすじは省略。特に語りたい場面だけを取り出して書いていますので、史実からどのあたりかを想像して下さい。

ひめゆり学徒隊は「学徒」という名の通り学生でした。17歳前後の少女です。昭和20年3月24日に組織されます。親元を離れての学生生活だったようですが、それにしても看護婦の心得もないのに、「お国のために」と全員が戦時要員となっていくことが私には信じられないことでした。作品の中では、行きたくないという少女もいたことが描かれていました。でも結局は「お国のために」という方向に流されてしまい、全員で参加することになるのです。教師はそれを望んでいました。
いよいよ、南原風陸軍病院が危険になり、南部へ退却していく途中、引率の教師は、自決を望む生徒達に言います。「自分達の教育は間違っていた。君達は生きなさい。」と伝えます。
考えさせられる場面はたくさんあります。でも、私はこの作品にこの場面があって本当に良かったと思います。私は、とてもとても不思議でした。「お国のために、死になさい。」と言われて疑問を持たなかった当時の日本人のことが。私は、ごくごく一部の人が権力を笠に着て、押し付けるので、多くの人は表面上仕方なくそう思っている振りをしていたのだと信じていました。しかし、いろいろ聞いてみると、「お国のために、死ぬ」と言うことが心の底から当たり前だと思っていた人が戦争中は殆どだったというのが事実のようです。それは、すべて教育によるものだそうです。小さい頃から、毎日そう聞かされると、それが正しいとなるそうです。本当に怖いことです。
ですから、教師が少女達に間違った教育を詫びると言うことは、現在の私達が考える以上に重大なことだったと思います。「死になさい」と教えてきたのに、「生きなさい」というのは、昼と夜が反対だったと言っているのと同じことなのですから。
作品の中で「教育」が人格や思想の形成にいかに大きな影響があるかをはっきりと描いて下さっていたことに、とても感動しました。

キャストの皆様はとても素晴らしかった。と申し上げたいのですが、それを感じる余裕が私にはありませんでした。舞台の緊迫感がもの凄く、この歌が、とか、この演技が、と取り出して語れないのです。逆に言えば、その緊迫感が削がれることなく持続するのは、キャストの演技、歌も充実していましたし、音楽も素晴らしかったのだと思います。音楽は本当に心に響き、残りました。忘れたいのに「美しい沖縄」という悲しげな歌が頭から離れません。

一幕が終わったとき、普通でしたら、客電がつくとすぐにザワつき、席を立つ人がいます。それが、今回は、一分ぐらい、しーん、としていました。舞台の緊迫感が観客にしっかりと伝わっていました。終演後も、涙、涙。でも、自分が伝えるべきメッセージをもらったような満足感も溢れていたようでした。
これからも、ずっと上演し続けて頂きたい作品です。
でも、上演の意味がなくなる本当の平和な日が来ることを、願ったほうがいいのかもしれません。

21C:マドモアゼル・モーツァルト

2005年07月30日 | 観劇記
2005年7月30日マチネ  PARCO劇場 4列目上手

音楽座の再スタート。私は、旧音楽座の作品は観ていません。ですが、ミュージカル・ファンとして、純粋に応援したいなぁと思っています。やはり、日本人(日本文化圏人)が作り上げる作品に期待しているからです。
そういう思いがありながらも、さらに良い作品を求め、ついつい言いたくなってしまうのがファン・・・いえ、私のわがままです。

一言で言ってしまえば、大風呂敷を広げ過ぎた作品だ、という感想です。

細かい感想等を書く前に、モーツァルトへの私の思いを書いてみたいと思います。
私が、音楽の道に進むかどうか悩んでいたとき、丁度レッスンしていたのがモーツァルトの曲でした。どうしても自分の作り出す音が納得できない。ため息交じりで、楽譜の上のほうを見ると。「26.Mai.1766」とあります。なんとその曲はモーツァルト10歳の時の曲。協奏曲ですよ!!!天才モーツァルトの曲とはいえ、自分の才能のなさを実感しました。
その後も人生の大きな転換期何度もモーツァルトの作品と向き合ってきました。それゆえにその作品を作った人間にもとてもとても興味があります。

そして、東宝でも現在「モーツァルト!」をやっていますね。また、映画「アマデウス」も有名ですよね。モーツァルトは音楽だけではなく、その人柄も多くの人に愛されているのだと感じます。

前置きが長くなりました。
あらすじです。
モーツァルト(新妻聖子さん)はエリーザという女として生まれた。が、その才能に気付いた父レオポルト(園岡新太郎さん)は女では活躍できないと男としてモーツァルトを育てていく。
ウィーンで人気を博す。それを疎ましく思うサリエリ(広田勇二さん)。しかし、心惹かれる。
モーツァルトはコンスタンツェ(中村桃花さん)と結婚するが女だと告白する。コンスタンツェは秘密を守るがモーツァルトの弟子フランツ(丹宗立峰さん)と浮気をする。
父レオポルトの死をきっかけに男として生きることに疑問を感じるモーツァルト。女に戻って、正体を隠しサリエリに会う。サリエリはモーツァルトと気付く、そしてその才能には嫉妬してしまう。
自分は音楽に生きていこうと決心するモーツァルト。しかし、死期は迫っていた。
大衆を相手にした作品「魔笛」を初演し、「楽しかった」との言葉を残し、モーツァルトは息を引き取った。

というのが大筋です。
ここに、戦争を絡めているのです。それも、現在の戦争なのです。
そして、劇中劇として、モーツァルトのオペラ「後宮からの逃走」「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「コン・ファン・トゥッテ」「魔笛」が短く紹介されます。

モーツァルトは確かに、大きな戦争や貴族社会から民衆社会へという時代の大きな流れの中に生きていました。ですから作品がその流れに影響されたことはあると思いますが、作品が時代を変えたということはなかったのではないかと思うのです。

オープニングとラスト近くで、死期が近い老いたサリエリや、モーツァルトが21世紀に生きている女の子を見ているとか、その子が銃弾に倒れるという場面があるのですが、モーツァルトの音楽とどういう関係があるのか、ちょっと不思議に思いました。モーツァルトの音楽に現代の私達は癒されるかもしれませんが、当時は、音楽はごく一部の上流階級の楽しみであり、戦いに明け暮れた民衆にまで届いていたとは思えないのです。
自由な、奇抜な発想は私も楽しめます。が受け入れ難いこともあるのは確かです。

逆に、モーツァルトは女だったのではという発想はとても面白かったですね。悪妻の代表コンスタンツェの弁明もこれなら十分ですね。
サリエリがモーツァルトの音楽に嫉妬しながら、惹かれていた理由も納得がいきますよね。サリエリはモーツァルトの子供を自分の子供のように可愛がっていたというエピソードももしかしたら・・・などと想像はいろいろ広がります。

なぜ、同じ自由で、奇抜な発想なのに、一つは受け入れられて、一つは受け入れられないのか?多分、私の身近にありそうなことだから(それも怖いけど、笑)です。
いろいろ舞台を観てとても感じることは、とても身近なことや、時代は違うけれどある個人の生き様を綿密に描いていて、自分がその人になったみたいで、その人の視点を借りることが出来る作品の方が、最初から大きなテーマをぶつけるより感動も出来るし、創り手が本当に伝えたかったことが伝わるということです。
時代劇で忍者が屋根裏に忍び込んで節穴から覗くと部屋全体を見渡すことが出来るけれど、広い部屋にいる人たちはその節穴の先の瞳をみることは出来ない現象に似ています。
音楽座として今回の作品で、モーツァルトの音楽や生き様を通して、これからの世界や子供達にどんな世界を作っていくべきなのかを観客に伝えたかったのかもしれません。しかしテーマが大き過ぎると感じました。そして、もしそれを伝えるのなら、人を愛するということはどういうことなのか、という恋愛や自分の子供に対する愛情、愛する人の子供に対する愛情に絞ったほうがよかったのではないかと思います。モーツァルトの音楽がこうして今に伝えられているのは、大衆に愛されていったという点もあると思いますが、きっとサリエリという個人が惚れ込んでいて、自分弟子に演奏させたのではないかなどと思ってしまいます。モーツァルトとサリエリを軸にした恋愛物語でも、大きなテーマにつなげられたのではないかと思うのは、私だけでしょうか。

音楽について一言。
先ほどモーツァルトを描いた作品として東宝ミュージカル「モーツァルト!」と映画「アマデウス」を挙げました。この両者の大きな違いは音楽。「アマデウス」は全編モーツァルトの曲が流れます。「モーツァルト!」も今回の作品も少しモーツァルトの作品が出てきます。この作品のほうがモーツァルトの作品の分量は多いですね。
はっきり言って、モーツァルトの曲とミュージカル楽曲との落差が大き過ぎます。耳に馴染んでいるモーツァルトの曲に軍配が上がるのは仕方ないとは思いますが、モーツァルトを題材とするミュージカルはもういいかな、と思わせてしまうほどの落差です。
テーマ曲のような「ラグナレク」はとてもとてもステキで、心が開放されるような感じです。しかし、ミュージカルのナンバーにはそぐわない気がしました。インステュルメンタルであれば、最上級の楽曲だなぁと思いました。
そして、日本語の歌詞に曲を付けている(逆だとしても)、翻訳劇ではないので、歌の中で一番大切な言葉をもっと歌い易い旋律に付けるべきだと思いました。
今でも人気のあるオペラは、歌い手にとってもとても感情を乗せ易い歌いを作曲家がつくっているのだそうです。歌い手がどんなに上手くても、一番大事な言葉が、その曲の一番低い音となっていたら酷です。話し言葉では強調されない単語内の音が、旋律の切れから、頭の音に当たってしまっている曲もありました。歌詞の並べ替えや、ちょっとしたリズムの変更で解決できる部分だと思いますので、本当に残念だと思いました。
(歌詞が書かれているチラシが配られたので、あれ?と思った歌詞を確認しました。)

劇場の大きさも作品のテーマ、音楽の広がりからすると小さいような気がしました。これが800人ぐらいの劇場で上演されていたら、私の印象もかなり変わっていたと思います。
ダンスシーンも多いのですが、ぶつかっているのを何度も見てしまいました。
舞台の狭さもあるのか、演出もとても画一的。去りかけて、振り向いて・・・役柄が違っても同じパターン。音楽の流れ方も、止まることがないのはいいのですが、ソロがあってもすぐに別のメロディに入ってしまうので、観客が(私が)その役の歌を噛み締める余韻がないのです。当然、拍手も起こらない、というか、そのタイミングがないのです。まるでサスペンス・ストレート・プレイを固唾を呑んで見ているような劇場の静けさです。心揺さぶる歌には、熱い拍手を送りたい・・・ミュージカル・ファンの心理です。それが積み重なって、舞台と観客が近くなるはずなのです。小さな空間なのに、舞台と客席の間には相当の距離があったように感じました。
このあたりは、回を重ねるうちに解決してくるかもしれませんが、地方公演では一回で移動ですから、もっと盛り上がる演出や曲の配置が必要なのかと思いました。

相当厳しいことを言いましたが、キャストの質の高さには本当に感動しました。オーディションをきちんとして、作品ごとにさらに座内オーディションをなさっているだけのことはあると思いました。これだけのキャストが集結しているのに、これ位の感動しかないなんて!!!、という思いが、辛口になった原因です。

新妻聖子さん。明るくて、楽しい舞台を作って下さいました。歌も伸びやかでよかったです。男でもない女でもない難しい役ですが、これが本当だったのかな、と思わせるほど自然体で演じられていたと思います。

中村桃花さん。本当の女の強さを感じさせて下さいました。実在のコンスタンツェとはかなり違った女性と描かれたと思いますが、一番共感できた役でした。

園岡新太郎さん。レオポルト役以外に、劇中劇の役、宮廷貴族などもなさっていました。相変わらずの美声、素晴らしいです。ですが、レオポルト役での活躍が少なくてちょっとがっかりでした。これも作品への不満なんですが、モーツァルトは「パパ」ってすごく慕っているのに、パパが亡くなったことで女に戻ろうとするほどなのに、その信頼関係が殆ど描かれていないのは残念でした。

広田勇二さん。サリエリ役とお聞きしたとき、本当に嬉しかったです。音楽座の再起をかけたこの作品で主演なさるにふさわしい実力の持ち主だと確信しているからです。広田さんをサリエリ役に登用して下さった音楽座は、本当に実力主義で、良い作品を作ろうとしているんだという心意気に、嬉しく、日本のミュージカルも変わっていくに違いないと期待したのでした。その思いは今も変わりはありません。
モーツァルトは女だった?という発想はどこから生まれたのかわかりませんが(原作の漫画を読んでいませんので)、サリエリの視点であると推測しています。また、映画「アマデウス」もサリエリの目からのモーツァルトが描かれているので、とても印象深いものになっていると思います。
モーツァルトの人物像に興味があると言いましたが、それは私自身が演奏家を志していたときのこと。年齢を重ね、またモーツァルトの楽曲を聴くことの楽しみの対象と出来るようになった今は、モーツァルトは音楽の神様に愛され、モーツァルト自身が音楽だったのだと思えるのです。ですから、人間像にあまり興味がありません。しかし、サリエリはどうでしょう。とても人間的です。自分と変わらないかもしれないと思える人物です。そのサリエリが、天才モーツァルトを人間としてどう見ていたのかということにはなぜかとても興味があります。モーツァルトは大き過ぎるから小さい部分を眺めることも出来ないし、その意味があるとは思えないのです。けれど、サリエリの目が天井の節穴の役割をしてくれると興味がまた湧いてきます。
サリエリがモーツァルトを愛していた?となれば、その嫉妬、愛憎の感情はどんなに激しかったことでしょう!とそれをサリエリに期待して観劇したので、私が勝手に想像していたサリエリ像とは、ちょっと方向性が違うなぁと思いました。確かに、これからの子供達への思いや世界観は大切です。でも、それは身近な人を愛し、大切にすることから始まるのではないかと思うのです。
広田さんの歌、演技は相変わらずとてもステキでした。役に対する真摯なお姿はいつもと変わらないです。でも、少し遠くを見過ぎかなぁと感じました。脚本からすると、確かに時空を超えなければならないのだと思いますが、その前に、もう少し深く傍にいるモーツァルトを嫉妬し、愛してほしいなぁと感じました。広田さんの歌を聴くたびに、「歌」は歌詞にある言葉だけではなく、もっと多くのことを伝えることが出来るのだと、歌の無限の可能性にいつも驚くのです。今回はちょっとそれが少ないかなぁと。歌の神様に愛されている広田さんのことですから、きっとこれからどんどん良くなると信じています。

モーツァルトへの思い入れが大きく、ミュージカル界への新風を期待した私にとって、「21C:マドモアゼル・モーツァルト」は作品としてはあまり好きではない結果しなってしまいましたが、音楽座の作品作りへの情熱や質の高い作品作りのためのシステムを素晴らしいと感じています。
これからも、音楽座の作品を楽しみにしていきたいと思っています。
「21C:マドモアゼル・モーツァルト」自体も、私が観劇したのはプレビュー公演を入れて5公演目。これからどんどん変化していくと思います。その変化も楽しみですね。

はあ~~~長くなりました。最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。

風を結んで

2005年06月27日 | 観劇記
2005年6月27日ソワレ
サンシャイン劇場 1階3列目下手

6月だというのに、猛烈に暑かったです。そして、湿気。和物の舞台ということで、和装で劇場へ行ったのです。夏の装いですから涼しいはずなのですが、やはり暑かったです。そして、舞台も熱かったですね。

あらすじ
時は明治9年。大政奉還、戊辰戦争、廃刀令と武士たちを取り巻く環境は大きく変化していた。武士たちはその日の食べ物を手に入れることさえ困難な状態に追い込まれていた。
そんな日々でも細々と道場が存在していた。その道場一の剣豪、橘右近(今拓哉さん)は仲間に疎んじられていた。その右近に試合でたまたま勝った片山平吾(坂元健児さん)は右近に果し状を叩きつけられる。廃刀令があるから大丈夫と田島郡兵衛(畠中洋さん)と加納弥助(川本昭彦さん)に言われ決闘の場に行く平吾。郡兵衛が連れてきた巡査のおかげで右近は去る。しかし、賄賂が払えず困っているところへ、アメリカ帰り轟由紀子(絵麻緒ゆうさん)が通りかかりお金を払ってくれる。が、由紀子は右近を仲間に入れて「本物の武士による“パフォーマンス”一座を結成したいと言うのだった。
由紀子の提案を伝えに、右近の屋敷へ行くと、妹の静江(風花舞さん)が身売りをすることが判明。静江を買い戻すために奔走する平吾。その姿を見て由紀子の従僕である捨吉(鈴木綜馬さん)は200円を貸してくれる。
そのお金を返すまでということで右近も由紀子の一座に加わる。
一座には、上記4人に加え、刀を振り回せるのならと加わった斎藤小弥太(幸村吉也さん)と新畑伝四郎(平野互さん)、行き倒れ寸前に助けられた栗山大輔(福永吉洋さん)、身投げ寸前に弥助に救われた佐々木誠一郎(武智健二)が加わっていた。武士道とパフォーマンスということで由紀子といざこざは絶えなかったが、何とか開幕した。評判になり、サンフランシスコでの公演の話が舞い込んできた。が、一座は割れていった。それは、今の世に疑問を持ったり、不満を持ったりする武士が日本各地で挙兵していることへ呼応する人間が現れたためだった。
佐々木は、日下ゲキという会津藩の生き残りを探すために一座へ潜り込んでいたのだった。栗山大輔は会津の人間だった。しかし日下ではない。右近は栗山に誘われ、この東京で事を起こそうと思案橋事件で命を落としてしまう。
鹿児島では西郷隆盛が兵を挙げるということが確実となる。それに加わるため斎藤と新畑は鹿児島へ行ってしまう。
右近や栗山のことがあり一座は解散。しかし、平吾は再開したいと考えていた。ある日捨吉に会う。平吾は捨吉が日下ではないかと聞く。捨吉は否定しない。そして、白虎隊の悲劇を語る。捨吉は政府への反乱を起こすために下準備をしていた。しかし、8年も経った今、白虎隊の悲劇を繰り返す意味があるのか、死ぬために戦う意味があるのかを考えているという。平吾の「生きていこう」という言葉に感動したため、軍資金の200円を差し出したのだと言う。
郡兵衛は新聞記者として鹿児島へ、弥助と佐々木は政府軍の兵士として鹿児島へ向かった。
平吾は、彼らを連れ戻し、また一座を開くために、鹿児島へと向かった。静江と生きて戻ってくると約束をして。

本当に「あらすじ」です。考えさせられる台詞がたくさんあり、目頭を押さえながらの観劇でした。
でも、全体としてはコメディ。畠中さんがとても面白いのです。本当にお調子者です。
坂元さんの演じる平吾は、時代に乗って、地に足をつけて生きているのです。
このお二人の強烈なキャラクターとともに、いつも行動している弥助の川本さんがまたとても素敵なのです。今回の舞台で一番印象に残る方でした。自分のことではなくても、自分のことのように喜び、悲しみ、怒る郡兵衛の陰に隠れてしまいそうで、隠れない。とても進歩的な平吾について行きそうで、やはり自分の生き方を見つめている、そんな弥助をさわやかに演じていらっしゃいました。

鈴木さんが演じられた捨吉の、最後の告白は本当に考えさせられる言葉でした。「8年経った今、また死ぬために戦うのか」というような言葉です。人間は、何年経ったら、何十年経ったら、過去の争いを許せるのでしょうか?戦いの結果、どちらかは官軍となります。しかし、戦って死を迎える人間は両軍にいます。戦いとはそういうものです。それを繰り返したくないという捨吉のような考えの人が増えてくれたら、この世から戦は無くなるはずなのですが・・・

しかしながら、「武士は、どう生きるかではなく、どう死ぬかなのだ。」という橘右近にもとても惹かれました。このことで由紀子と言い争います。今となっては、どう生きるかが正論だと思えるのですが、武士道とはそういうものだったのだと思います。そして、私の心のどこかにもその道が少しあるように思えます。どう死ぬかというのは大げさだとしても、よくスポーツの世界で「自分に勝つ」と言いますよね。あの気持ちはとてもよくわかります。西洋文化圏の人も「自分に勝つ」って言いますか?言わないような気がします。そのあたりが武士道を始め、いろいろな「道」、柔道、剣道、華道に茶道、「道」とは自分を見つめることなのではと思うのです。そんな、とても素晴らしい生き方が明治維新の西洋化によって失われてしまったような気がしてなりませんでした。

今さん、本当に素敵でした。時の流れに乗ってしまえば、どんなに楽なのかわかっているけれど、どうしてもそれが出来ない。不器用なのかもしれません。しかし、今さんにかかると、それが「勇気、美徳」に思えるのです。最期の思案橋で、巡査たちとの壮絶な戦いの中、自分の一生を歌い上げる場面は、涙なくして見られません。
感情を表さないのに、とても心の中が熱いと感じられる右近。本当にこんな武士がたくさんいたんだろうなあと思うのです。だからこそ西南戦争が起こったわけですしね。
今さんの舞台を観ると、背筋を伸ばし、居ずまいを整え、自分の生きるべき道を見つめ直そうと思うのです。本当に、理想を高く掲げ、その理想を貫こうとする役どころを演じられると輝かれる方です。一歩間違えば、「無理を承知でなんでそんなこと・・・」と思えてしまう役どころではありますが、今さんが演じると、「どうして周囲が理解してあげないんだろう。」と今さん中心に社会が回って欲しいと思えるからとても不思議です。

なんて、かっこいいこと言いましたが、とにかく素敵でした・・・本当に、素敵でした!

この作品についてはいろいろ考えさせられることがあります。幕末から明治初期にかけては史実についてとても興味があり、いろいろな小説や文献も読んでいます。また、時間がありましたら、作品と重ね合わせて書いてみたいと思います。

国会ランチ

2005年06月05日 | 観劇記
2005年6月5日マチネ  明石スタジオ

約一年ぶりの小鈴まさ記さんの小劇場登場。そして、ストレートプレーということで、ミュージカルとは違う一面を楽しみに出かけました。

あらすじを。
ホームレスになってしまった冠又三郎(辻本修作さん)としんいち(宮根耕平さん)は、公園で過ごしている。
一方、国会議員幸村行雄(宇通照洋さん)の秘書中野(核田裕史さん)は、できの良くない部下春恵(慎子さん)と水野健一(松坂龍馬さん)にイライラしながらもてきぱきと仕事をこなしていた。が、有名大学教授が応援演説に来るはずだったのにドタキャン。中野は「大学教授に見えそうな人を連れてきなさい。」と春恵と健一に命ずる。すると二人はこともあろうに、ホームレスの又三郎を連れてきてしまう。演台の上でおどおどする又三郎だか、「笑顔・・・」を手がかりにそれなりの演説をする。栄養失調で倒れた又三郎を中野は助け、事務所の秘書にする。そして、さらに議員にしてしまう。その生活に慣れきってしまう又三郎。官房長官にまで上り詰め、ホームレスを締め出す法案にも平然としている。しかし、しんいちは疑問を投げかける。そのしんいちの態度に又三郎も少し動揺する。
政治のいろいろなからくりを描きながら、それは議員ではなく、秘書の中野が仕切っていることであった。そして、幸村と対決する議員の秘書牧村(小鈴まさ記さん)も、中野と仲間である。その仲間とは人間ではなく吸血鬼という点で。そして、吸血鬼が人間を飼っているという。
仲良しの中野と牧村かと思うが、実は、牧村は幸村と2億円の取引をしている。それを知らない中野は幸村とって大きなマイナスの情報を流すように報道機関に言ってしまう。当然ながら、破滅する幸村一派。
吸血鬼界でも左遷があるらしく、中野は南の島へ。
又三郎も追われる身に。ホームレスに逆戻り。しんいちがカレー屋をやろうと持ちかける。春恵も健一も手伝うという。「でも、何か違う」という又三郎。にっこりする三人。又三郎の肩にラッパ型のマイク、三人の手には幟。もう一度、政治を良くするために四人は立ち上がったのだった。

こんなところでしょうか。
約一時間半のお芝居でした。政治の裏を本当によく描いているなぁと思いました。最後はホームレスに逆戻りでおしまいかと思ったら、また立ち上がる、そんな希望にあふれるラストだったので、すごくいいお話だと思いました。
政界の裏を描いているので、今まさに問題になっていることが取り上げられていましたし、切り口が面白いと思いました。
人間が吸血鬼に飼われているというのも、奇想天外のようで、真実を言い当てているような気がするのです。自分たちが主体的に事を動かしていると自負している人間達に対する痛烈な批判だと思いました。この批判を言って終わる作品が多いのですが、最後にもう一度挑戦するというところが、この作品の素晴らしいところだと私は感じました。
ややもすると、「諦め」が潔いという肯定的な面を持ち始めている現代にあって、「諦めない」という姿勢は大切にしていきたいからです。

俳優の皆様も、熱演でした。
おどおどしたホームレスから成り上がりの政治屋又三郎を演じた辻本さんは、そのときそのときの社会的立場をとても的確に演じていらっしゃいました。

幸村を演じた宇都さん。う~~~んいるいるこういう嫌なおやじ、でした。茶目っ気を出すときも、嫌なおやじのままで、本当にこんな方なのかしらと思ってしまいました。

特筆すべきは中野を演じた核田さんですね。最初の登場から、変な存在だなぁと思わせてくださいました。その一方、頭脳明晰という印象も与えてくれるのです。しかし、その明晰さがとても不自然なのです。吸血鬼とはっきりわかるのは、後半なのですが、その場面までの導入が演技も脚本も緻密でした。小鈴さんとの吸血鬼同士の会話も滑舌がすばらしくて、ますます嫌なやつに思えてしまうのでした(笑)。

小鈴さんの印象は、中野とワイワイやっているときと、幸村と取引するときの冷酷とも思えるどっしり感の切り替えがいいなぁ、でした。
ただ、小鈴さんが演じた松村のキャラクターが最初よくわからないんですよね。トランクスに靴下。首にはトランクスと同柄の星条旗のバンダナというお姿で登場します。アメリカ帰りという設定らしいのですが、幸村と対立する野党議員の秘書というのがよくわからないのです。とにかく「変!」というキャラクターなのです。幸村派が破滅し、吸血鬼の親分が「あとは松村がうまくやるだろう。」というのですから、もう少し政治手腕を描いてほしいと感じました。まあ、ファンとしては、小鈴さんのいろいろな面を見ることが出来て嬉しかったです。

と、少々批判ついでに。
全体として、とても面白い作品だという印象ではあったのです。が、幕開けの場面はちょっと退屈でした。こういう小劇場の場合、俳優と観客が近いですから、なんとなくお互い探り合っているところがあります。観客としても、俳優との関係も、また、観客同士も空気を読もうとしてしまうのです。つかみとして漫才のようなことをやるのもいいのですが、観客もどう対応していいかわからないところがあります。もう少しつかみに勢いがあったらよかったと思います。
もうひとつ。同じことの繰り返し、同じ状況が続くという場面がいくつかありました。それがちょっとしつこかったり、長かったりするのです。観ている側と演じている側の時間の流れは結構違います。ほんの10秒、5秒、ときには1秒で舞台の流れが変わってしまいます。舞台の中に入り込みそうになっているのに、その数秒でああ観客なんだと現実を感じてしまうのです。公演回数がもう少しあるとそのあたりが変わってくるのだと思います。とても興味深い舞台でしたので、また何かの機会に上演されたらいいなぁと思っています。

ジャベールを育てるのはファン

2005年05月01日 | 観劇記
これから書く文章を読んで下さる方がいらっしゃるとしたら、どうぞ二つのことを心の隅に置いて読み進めて下さい。
一つは、ここは公序良俗に反しない限り、私が自分の考えを自由に書く場であるということ。
もう一つは、正直言って苦手な(嫌い、とも言う)俳優のことは、書かないことにしているということ。つまり、ここに書くと言うことは、とても気になる、好きなだけにちょっといじめたくなる(すっかりおばさん、苦笑)、という点です。

昨日のブログに「レ・ミゼラブル」の登場人物のうち一番好きなのが「アンジョラス」と言いましたが、対極にあるのが「ジャベール」。原作を読んだときから、ずっとそう思っていたので、舞台を観るときもそれを引き摺ってしまうようです。

いろいろな方が演じるジャベールに出会ってきました。全員思い出せないというのもあるけれど、ちょっと今回のジャベ役の皆様にはいろいろ思い入れがあるので、3人の方のジャベについて語りたいと思います。

鈴木綜馬さん。今回は観劇していませんが、00-01年バージョンで拝見しています。
鈴木さんと言えば、二枚目をなさるために生まれていらっしゃったような方です。「エリザベート」のフランツ様を拝見し、私がシシィだったら絶対傍を離れたりしないのに!と何度思ったことでしょう。しかし、もっと印象に残っているのは「チャーリー・ガール」の放蕩息子役。確かに二枚目と言えなくもないけれど、あまりのキザさに呆れ果ててしまうのです。でもね、それがまた素敵で、笑えるし、こんな鈴木さんもいいなぁ。
しかし、ジャベールについては、ほとんど思い出せないのです。歌はうまいなぁと思って聴いていた記憶がかすかに・・・。

岡幸二郎さん。本舞台ではないので、こんなにいろいろ言うのは失礼かと思いつつも書いてしまいます。岡ジャベは04年12月千葉のコンサートで出会いました。すばらしい声量。しかし・・・
岡さんの舞台もいろいろ観ています。「キャンディード」のマキシミリアンで「美しすぎて」と手鏡を見る姿。大笑いでしたが、その気品と美しさゆえ妙に納得してしまいました(笑)。岡さんの舞台を拝見していると、とても幸せな気分になれます。それは岡さんが舞台の上でとても楽しんでいらっしゃることが私にストレートに伝わってくるからだと思います。作品として好きではなかった「クリスマス・ボックス」も岡さんのおかげで心の片隅にいい思い出として残っています。
しかし、ジャベールの歌はちょっと方向性が違うのでは、と感じざるを得ませんでした。

今拓哉さん。今回も、また03年は2回拝見しています。
今さんと言えば、しつこいようですが、アンジョルラス。劇場で号泣するなんて、恥ずかしいのはわかっているんです。でも、とどめなく涙が溢れましたね。今アンジョとなら、戦い敗れても、ともに死を選ぼう、とまで思いましたから。
今さんの出演作品を最近分は殆ど観ていると思いますが、どうしてもアンジョルラスが忘れられません。それもいけないのでしょう。しかし、ある面では今さん自身も「レ・ミッズ」を知り尽くされているわけですから、どんなジャベールを作り上げて下さるのかとても楽しみだったのです。
歌に関しては、ちょっとあとでまとめて話したいと思います。
今さんのジャベも私が知る限り、とても素敵です。しかし、素敵過ぎるんです。
警棒のさばき方が美し過ぎる。あまりに颯爽としている。などなど。
もっと、重々しい、嫌われるジャベールであって欲しいのです。

ついつい、今さんのジャベに深入りしてしまいました(苦笑)。
とにもかくにもこの3人の方たちは、二枚目を演じるのが似合っているし、鈴木さん、岡さんは線が細いです。そして何より、歌の音域がハイ・バリトンからテノールあたりなのです。

原作「レ・ミゼラブル」の中で、ジャン・バルジャンとジャベールはいろいろな点が対比として描かれています。それがミュージカルになったときにも、いろいろなところで伺われます。その大きな点が、バルジャンはテノールで歌われ、ジャベールはバリトンで歌われることです。
今アンジョにはまっていたときには、ミュージカル作品の流れを楽しむ域に達していなかったのですが、コンサートを含め何度かの観劇で冷静に全体の流れを感じ取るようになりました。楽曲の流れ、演出をいろいろ分析するとあまりの緻密さに、やられた!という思いが押し寄せ来ます。
そして、かなり乱暴な言い方になりますが、舞台の流れからして、プリンシパルにはとにかく「歌の力」が要求され、アンサンブルには「演技力」が要求されていると感じます。
すごく複雑に歌い継がれていくのに、バルジャンには3曲とジャベールには2曲のソロ曲があります。(他のプリンシパルは1曲です。)そして、さらに興味深いのは、このソロ曲のうち1曲はメロディが一緒です。バルジャンの「脱出」とジャベールの「自殺」です。
この曲をどう歌うか、歌い合う「対決」をどう歌うかで、ジャベールの印象は全然違ってくるような気がします。

印象の薄いジャベール(アンジョに全神経を注ぎすぎているのかもしれませんが)の存在を一転させ、ジャベールのありようを私に教えて下さったのは、04年夏のコンサートで佐山陽規さんのジャベールでした。
佐山さんはバリトンですから、ジャベールの歌のすべてを強く歌って下さいました。
これに対し、岡さんは意外なアプローチをします。「自殺」の旋律をバルジャンと同じようにオクターブ上で歌うのです。素晴らしい歌であることはわかります。しかし、ジャベールという役柄を考えると、ちょっと違うのではないかと思ってしまうのです。
今さんの歌声のすばらしさは十分知っています。しかし、ジャベールの歌を歌うときにはどうしても弱くなってしまう感じがします。
音階は一オクターブを12個に人為的に分けています。だから一音にもかなりの幅があります。佐山さんの歌は、音符の真ん中をバーンと打ち抜いていく感じがします。今さんもアンジョルラスの時にはそんな感じでした。が、ジャベールでは、音符の上っ面をなでているような感じです。鈴木さんも岡さんもハイ・バリトンなのでその傾向が強いように感じました。
音符の真ん中を打ち抜くと、「スターズ」の自分の進む道の正しさ、「自殺」の入りの「俺は法律なめるな」の歌詞の重さなど、ジャベールが大切にしていることがとても強く伝わってくるのです。それに私が共感できるかどうかは別としても、ジャベールの考え方はわかります。
しかし、音符の上をなでてしまうと、歌い手自身がジャベールの考えから逃げているような印象を受けてしまうのです。ますます、ジャベールを否定したくなる気持ちを私に与えてしまうようようでした。

目を閉じて、今さんのジャベールを思い出そうとすると、演技している姿しか浮かんでこないのです。歌声が聞こえてきません。
佐山さんは歌声がどんどん聞こえてきます。演技は印象が・・・あっ、観たのはコンサートでしたね(笑)。

出来ることなら、佐山さんにもまた本舞台をやって頂きたいのですが、新たな人材を見つけ出したいなぁとも思うのです。で、いろいろ思い浮かべてみるわけです。
ホニァ、クニャ、アレ、コレ、ニャニャ、ゴニャ・・・・
思い浮かばない!!!
なぜか?????
私が気になる俳優さんを全部思い浮かべて、わかりました。皆さん、ハイ・バリトンかテノール。そう、やや高めの甘い歌声が私は好きなんですよね。
でも、それは私に限った事ではないのではとも思います。オペラでは、テノールが二枚目、バリトンは悪役ということが多いので、ミュージカルにもその影響は大ですし、それが人間の耳の理にかなっているのかもしれません。まして、ミュージカルの場合、演技にも重きが置かれますから、ハイ・バリトンぐらいの方たちが演技で悪役を担当することが出来ます。それはそれでミュージカルの楽しみではあるのですが。
しかし、二枚目も三枚目や悪役がいてこそ引き立つわけです。演技で魅せるのも良いですが、やはり歌でもっともっと魅せて欲しいのです。ミュージカルのファンとしてバリトンの素晴らしい俳優さんに注目していかないと、この素晴らしい「レ・ミゼラブル」という作品も、何となくピリっとしない舞台が続いていってしまうような気がしています。

実は、密かに、小鈴さんはジャベールも似合うかなと思っています。しかし、歌については厳しいことを言うようですが、もっともっと身体全体で歌えるようにならないと、ジャベールの歌は歌いこなせないと思います。

いつか、ジャベールに惚れ込んで「レ・ミゼラブル」に通い詰める日を夢見て、まなざしは甘く優しく、口調はピリ辛で語ってしまいました。

レ・ミゼラブル

2005年04月30日 | 観劇記
2005年4月30日ソワレ
帝国劇場 1階L列サブセンター

ちょっとした心境の変化から、今年はリピートしないことにしたので「レ・ミゼラブル」もロングランであるけれど、今回一回だけの観劇となりました。その一回が「レ・ミゼラブル」ってこういうお話だったと改めて感じさせてくれる熱い舞台だったのです。本当に感激しました。
多少の入れ替わりはあったにせよ、03年バージョンとキャストが殆ど同じ、また短縮版ということも同じでした。あの03年は、正直言って、あまりに魅力的な舞台にはなっていませんでした。
しかし、この回は、本当に俳優の方一人一人が、その役として舞台の上で生きていると感じられました。感覚的にはこうなのですが、技術的に言えば、プリンシパルの方たちは歌の安定感が増しましたし、アンサンブルの方たちは演技がとてもとてもとっても細やかになっていました。おお、そこまで動くか、と驚きの連続でした。

心に残ったキャストの方たちへの感想を簡単に。

マリウスの藤岡正明さん。今年からの登場ですが、それがよかったのかもしれません。本当に初々しくて、自分に正直で、好感が持てました。そして、声がとてもよく出ていて、歌は非常に安定していました。

テナルディエのコング桑田さん。この方も今年からの登場だそうですが、歌が上手い。と言っても、テナルディエの歌を自分のものとして歌うってとても難しいと思うのです。ただ、美しく歌えばいいわけではありませんから。それなのに、まったくしょうがない親父だ、と共感してしまうのです。本当に、素晴らしいテナルディエでした。

ジャン・バルジャンは別所哲也さん。歌も安定してきました。ただ、何箇所か、そんな若い声で歌う場面かなぁと感じました。しかし、そんなことさえ忘れさせてくれる絶妙な演技。歌がなくても、バルジャンが何を考え、感じているのかがわかるほどの演技でした。

アンジョルラス。小鈴まさ記さんです。私は、「レ・ミッズ」の中で一番好きな役がこのアンジョルラスです。きっぱり言います。絶対に妥協できないのです。ビクトル・ユゴーの原作に、アンジョルラスは「花のように美しい」という下りがあります。原作では、政府軍に捕まり銃殺刑になるのですが、その刑を執行する人達が、引き金を引くことをためらうほど美しいという設定なのです。
「美しい」という言葉は、外見の美しさは勿論のこと、その内側から溢れ出す美しさがあってこそ、使われるのだと私は感じています。
ユゴーが思い描いたアンジョルラスに、私は昨年12月千葉での「レミコン」で久しぶりに出会ったのです。小鈴アンジョルラスは、仲間を見つめる視線の優しさ、マリウスを見つめる柔らかい視線、グランテールと交わす真の友情を悟った視線、すべてに美しさを感じていました。
そして、コンサートより演技が入るから、本舞台は小鈴さんがさらに輝くだろうと思っていました。その期待以上のアンジョルラスを拝見し、小鈴アンジョルラスが誕生したことを、我がことのように嬉しく思ったのでした。

ジャベールって役もあるんですよね。それに今拓哉さんが演じられたんですよね。語り尽くしたいので、また、今度じっくり書きます。

実は、この回の舞台はいろいろな方が帝劇での千秋楽を迎えられたのです。私は、小鈴さんがアンジョルラス役では最後の登場ということしか知りませんでした。それほど、「レ・ミゼラブル」という作品から距離を置いての観劇だったというわけです。
しかし、小鈴さんのファンですから、当然いろいろ気にはなっていました。私が千葉での小鈴アンジョを素晴らしいと思ったのだから、それ以上何をどうしろというのか、と言う気持ちがあるものの、やはりどうしても気になるものです。ですから、大体の雰囲気は察していました。
が、まさか小鈴さんご本人が、「自分は緊張に押しつぶされたりしないと思っていたのに、初日から3日ぐらいは、独りぼっちになった気がしました。でも、いろいろな人から支えて頂き、アンジョルラスも支えられるリーダーとして演じようと切り替えてからは、とても楽しく演じることができました。」と言うようなことをおっしゃるとは夢にも思っていませんでした。
私は、今さんのアンジョルラスが大好きで、もう他の人が演じるアンジョルラスなんて考えられませんでした。そんな中、小鈴コンブフェールを何度か観て、小鈴さんファンに「小鈴さんになら、アンジョルラス譲ってもいいよ。」と軽く冗談のように言っていました。小鈴さんのどこにそんなに惚れ込んでいるかといえば(こういいながら、結構冷静に見ている)、小鈴さんは自分の考えていることを、もれなく体現出来ますし、それを観客に伝えることが出来る点です。そんなの役者なら当たり前と思われるかもしれませんが、意外にそうでもないのです。笑いを取る場面で、観客が笑わない、なんてことはまさに、このことが出来ていない証拠ですからね。
小鈴さんなら、ユゴーの言う「美しいアンジョルラス」を外見だけではなく、内面から作り出せるし、その内面の美しさを観客に間違いなく伝えられると思ったのです。「譲ってもいいよ」と言いながら、もしWを組んだら、今さんでも食われちゃうかもという恐れを抱きつつ、良い舞台に接することが出来るはずだから、演って欲しいと心から思っていました。
小鈴さんは、当たり前のことを当たり前にやっていらした俳優だと思います。ですから、強い緊張の中でも、当たり前のことが出来る俳優さんのはずなのです。それなのに、ご自分で白状してしまうほどの緊張や孤独に襲われていたのですね。勿論、小鈴さんの中にも問題があったのかもしれませんが、いつもの小鈴さんを失わせてしまう原因は・・・?

でも、きちんと立て直して、こんな素晴らしいアンジョルラスを作り上げたのですから、終わり良ければすべて良し!!!
これからのご活躍が、ますます楽しみです。

サクラカフェ・ミニミニライブショウ11

2005年04月16日 | 観劇記
2005年4月16日午後1時開演  サクラカフェ(東京・池袋)

サクラ大戦はもともとセガのゲーム・ソフトですが、いろいろ発展があります。夏のゲームでの声優さんが舞台に登場しての劇場公演からスタートして、今では、お正月公演や春にも公演があったりします。私は、01年の夏公演以来、夏公演だけですが4回観劇しています。しかし、なんとゲームはやったことがないのです(苦笑)。
この劇場公演がさらに発展したのか、出演者が順番にミニミニライブをサクラカフェで開いています。このサクラカフェは、東京の池袋にあるセガのゲームセンターのビルの一角に常設されています。普段は、喫茶室として開放されているそうです。
次々声優の皆様のミニライブの噂を聞いてましたので、園岡さんのライブがまだかまだかと待ちわびていました。そして、ついに!
「園岡新太郎サクラをダンディに歌う(ふろく、西村陽一&武田滋裕)」という副題のライブが実現しました。

カフェは縦長で、舞台が見難いのではと思いましたが、そんな心配は無用でした。カフェ全体をお三人で、駆け回って、どこに座っても楽しめる企画になっていました。

全部で4回公演がありました。私は、一回目に行きました。
まず、公演の10分ほど前から新潟中越地震への義援金のためにオークションが行われました。この公演では3点がオークションにかけられました。私もCDのオークションに参加したのですが、落とせませんでした。というのも、園岡さんはあまり釣り上げないのです。ある程度で何人かになるとジャンケンでした。もっと釣り上げてもいいのになぁと思いながらも、園岡さんの優しいお人柄に触れたひと時でした。

定刻になり、サクラ大戦の中の曲を歌って下さいました。
「ダンディ」「輝く、銀座ストリート」「ラムネの歌」「赤ワニの歌」「バスは行く行く夢乗せて」ある一曲、最後は「ゲキテイ」で締め。
また、間に、替え歌でおどけたり、近況報告という新曲(?)があったり、笑ってばかりでした。
ダンディ団というぐらいですから、「ダンディ」のはずなんですが、劇場公演でもかなりお笑いを担当なさっています。ライブも同じように楽しい場面もたくさんありました。
こうやって歌を続けて聞いてみると、田中公平さんの曲っていろいろな曲想があるし、とても歌詞としっくりと溶け合っていると感じました。特にサビの部分がたまらないという曲が多いです。園岡さんのサビへのもっていきかたも心憎いんですけれどね。

上記のある一曲は、曲名をここで書いていいかわからないので、ちょっとした私の思い出話から、想像してみて下さい。
まさにダンディ団が日頃活躍している銀座に近いある劇場でのことです。休憩時間に2階の売店で何か食べるものを買おうとしていたときです。傍らに置いてあるCDプレーヤーから、ある曲が流れてきました。何度も聞いた曲なのに、今までにはない説得力に溢れた歌声・・・そして、どこかで聴いたことのある歌声・・・買い物を忘れ、私はCDプレーヤーの前に立ち尽くしてしまいました。この歌声は、そう、園岡さん!ああ、もしこの休憩が終わって、この歌声を聴くことが出来るなら・・・この思いは叶えられるはずもありませんでしたが、今日、園岡さんの生の歌声でこの歌を聴くことが出来ました。
素晴らしい歌声でした。ほかに言葉がみつかりません。

正味40分ほどの短い時間でしたが、大満足でした。

ルルドの奇跡

2005年04月09日 | 観劇記
2005年4月9日マチネ  東京芸術劇場・中ホール  前から5番目センター

以前は、観劇にあたり予習をするのが趣味だったのですが、たくさん観劇するようになってからは、観劇するかどうかを決めるにあたりチラシを見る程度になってしまいました。ということで、「ルルドの奇跡」もキリスト教に関係する話らしいという知識ぐらいで劇場に行っていました。
この公演は、月班と星班があり、Wキャストというか交替キャストというかが多く、両方観たかったのですが、私は月班しか観ることが出来ませんでした。

あらすじです。
オープニングの時代設定は現在。ルルドにたくさんの人々が訪れている様子が描かれ、今も、ルルドではベルナデット(伊東恵里さん)が慕われていることがわかります。
時代は、19世紀中頃へ。
ベルナデットの父フランソワ・スビルー(さけもとあきらさん)は、仕事がない、と歌います。町の人も家族も辛いときにも神に祈れば、きっといいことがあると言うが、フランソワは本当にそうだろうかとも思っている。家族そろって慎ましく夕食をとる一家。
翌朝、スビルー一家の3人の娘は薪拾いにマッサビエの洞窟に行く。体の弱いベルナデットは妹達が川を渡って、動物の骨を集めに行くのについて行けない。そのとき、洞窟に美しい女性が現れる。妹たちが戻り、その女性について話す。
家に戻り、妹たちが父母(川田真由美さん)にその話をする。すると、一家にいろいろと幸せがやってくる。
翌日から、ルルドの町はその話で持ちきりとなる。
ベルナデットに理解を示したり、疑ったりする人々が現れる。
小さな町にとって、大きな騒ぎとなっているので、市長(山形ユキオさん)をはじめ政府はそれを鎮めようとする。教会は自分たちの保身のために、このことを無視しようとする。
奇跡は、ベルナデットが掘った穴から、泉が湧き、その泉の水で目を洗ったブーリエットの目が見えるようになったことで始まる。
医者に見離されたひきつけを起こした子供を抱いた母親が泉に来た。半狂乱になりながら赤ん坊を泉につける。すると、元気な泣き声が!噂が広まり、遠くから人々がやってくる。
ベルナデットが見た美しい女性は自分が「無原罪の御宿り」であると伝える。14歳のベルナデットには何のことかわからないが、大人は聖母マリアであることに気づく。無視しようとした教会のベラマール神父(宝田明さん)もついにベルナデットを信じ、力を貸してくれる。教皇庁から呼び出され、ベルナデットの体験が認められる。
時の人となったベルナデット。あまりの騒ぎに、ルルドでは生活できないと、修道院行きを決意するベルナデット。家族との別れ。そして、いつもベルナデットを信じてくれたアントアン(佐野信輔さん)との別れ。
もともと病弱だったベルナデットは35歳の若さで天国へ旅立つ。聖母マリアに招かれるようにして。
最後に、オープニングと同じ現在のルルドが描かれる。

本当に、心洗われるお話でした。この奇跡が起こったのは19世紀半ばです。科学も発達していましたし、迷信からも脱却していたことが描かれています。そういう中でも、この奇跡が起こり、今もそれが続いていることに驚きました。また、劇中にも描かれるのですが、ベルナデットの遺体は埋葬後30年経って掘り返されましたが、腐っていなくて眠っているようだったそうです。そして、その姿を今もヌーベルのサンジルダール修道院で見ることが出来るそうです。
やはり、科学では証明できないことがこの世にはまだまだたくさんあるということですね。

あらすじには登場しませんでしたが、この科学では証明できないことに悩むのが戸井勝海さん演じるドズー医師です。ベルナデットの精神鑑定もしたりしますが、正常であると診断します。「最後に残るもの」と「見放された人々」で、自分が今まで信じてきた科学が覆され、迷い、でも、信仰にひどく傾倒するわけでもない、この時代の知識人、あるいは今の私達の姿を歌い上げて下さいます。というわけで、このドズー医師はとても難しい役だと思うのです。白黒はっきりした役ではないですからね。ややもすると、大きなテーマの中で埋没してしまいそうな役です。ところが、やはり歌の力というのはすごいですね。ドズー医師の悩みは、今の私たちの宗教や迷信に対する思いと近いと思うのです。その思いを代弁してくれているようで、とても心に残る役柄となりました。

このミュージカル作品が素晴らしいと思ったのは、このドズー医師の視点があるという点もそうですし、奇跡は素晴らしい、ということではなく、いろいろな視点がきちんと描かれているということでしょうか。
また、その視点を演じる俳優の皆様の演技、歌が素晴らしくて、共感できるものですから、いろいろな視点でベルナデットをそしてこの奇跡を考えることが出来るのです。

ベルナデットのまっすぐさに惹かれつつも、教会の保身のため、最初は冷たくするペラマール神父の宝田明さん。最初の冷たさも、後に、ベルナデットの強い味方になることに不自然さが全くありません。登場の場面が教会ということもあるのかもしれませんが、本当に大きな愛を漂わせていらっしゃいました。

アントアンの佐野信輔さんは、ベルナデットに思いを寄せる青年。いつも彼女を信じ、影で応援してくれます。歌声も伸びやかで、演技はさわやか。好感が持てました。
このアントアンやベルナデットを優しく見守るマダム・コロニー(片桐和美さん)は、地味な役ではありますが、なんとも心に残る役でした。

最初に奇跡を体験する、ブリーエット(高原達也さん)もいい味出してるなぁと思いました。奇跡を体験する直前に、教会の石切をしていて目を傷めた、と歌うのですが、すごくよかったですね。マリア様を信じたいけれど、信じられないと迷うその歌があるから、奇跡を体感した喜びが倍増されます。

全編歌ですが、そう思わせない感じです。やはり、オリジナルですから、きちんと歌詞が伝わる音楽の流れがあり、芝居の面がとても大切にされているなぁと思いました。そして、その創作の極意にきちんと応える俳優の方々の素晴らしさに、何だか、久しぶりにミュージカル作品を心から楽しんだ気がしました。

と、まとめに入ってはいけませんね。皆さん素晴らしかったのですが、やはり私の心に残る方と言えば、さけもとさんです。
私は、前から5番目に座っていましたので、オープニングのやや薄暗い照明でも、キャストの皆様のお顔がわかりました。ところが、その中にさけもとさんが見つからないのです。かなり遠目でも探し当てられる自信があったのに・・・。と自信喪失。
群集が袖にはけ、舞台後方にぼんやりと人影が。さけもとさんだ。
ああ、このソロのために、群集に入っていらっしゃらなかったんだ。私の目もまだ大丈夫だなあ、とすごくくだらないことを考えていたのですが、さけもとさんの太く力強い歌声にすぐに作品の中に引き込まれていきました。
「神に祈れば」のナンバーで仕事が見つからない焦り、神に祈れば報われるのかという迷いが伝わります。そして、ベルナデットの一家がそれほど敬虔なキリスト教徒ではないことがわかります。あの時代の普通の人々にしか過ぎなかったことが。
さけさもとさんのすごさは、つかみ、でしょうか。現在を描いていたオープニングから、19世紀中頃に時代をさかのぼるのですが、一瞬で19世紀と感じさせて下さいました。
また、歌は勿論、素晴らしいのですが、父親として洞窟でベルナデットのそばで座っているときの演技がいいですよね。家族への思いを感じました。別れの場面では、涙が止まりませんでした。
先程述べた、いろいろな視点がここにもあります。家族としての、親としての視点です。聖女として崇められるより、普通の女性としての幸せを願う父親としての視点が描かれていました。その視点を初父親役とは思えない素晴らし演技で伝えてくださいました。

さけもとさんは、星班ではジャコメ署長役でした。月班では林アキラさんがなさっていました。ちょっとコメディ・タッチの役です。こちらも良い役なので見なかったことをかなり後悔しています。

とか何とか、書きましたが、「神に祈れば」もう一度聴きたいです。もうめちゃくちゃ良かったんですから。本当に、惚れ惚れしました!!!

ダウンタウンフォーリーズvol.3

2005年04月02日 | 観劇記
2005年4月2日マチネ  アート・スフィア  1階13列目下手

島田歌穂さん、北村岳子さん、玉野和紀さん、吉野圭吾さんが繰り広げるコメディ・レビューでした。1、2回目を観ることが出来なかったので、とても楽しみに観に行きました。
全体として、笑いが一杯で、とても楽しかったのですが・・・

レビューという感じなので、いくつものテーマがあります。
最初は、タップでした。素晴らしいステップ!
難しい演劇論も、コント55号と変わらないという短い劇もありました。
私が気に入ったのは、「くるみ割り人形」の有名な組曲を新解釈で振付けて踊るという場面です。その中でも「こんぺいとうの踊り」を「泥棒の踊り」にしたのにはもう大爆笑。というのも、私もこの曲を聴いていつも泥棒の忍び足を思い描いていたからでした。同じことを考える人がいるんだなぁととても楽しかったのです。
しかし、ある場面は、こういう楽しいレビューには似つかわしくないのではと思える話の展開があり、ちょっとがっかりしてしまいました。

もう一つ気になったのは、いろいろな場面があるのですが、4人とも同じような役回りだったように感じました。新発見!という役柄がもっとあるといいなぁと思いました。
こういうレビューはやはり出演者に自分の特別なご贔屓がいてこそ楽しいのかもしれないですね。

デモクラシー

2005年03月29日 | 観劇記
2005年3月29日マチネ
レ・テアトル銀座  15列目下手

2月、3月抑え気味だった観劇をこの「デモクラシー」から再開。4月末までに6本ほど観劇予定です。花粉症には辛い時期です。特にストレート・プレーは緊張します。その緊張がまた逆効果で、くしゃみが・・・3回もしてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。

簡単なあらすじです。
1969年、西ドイツの首相となったヴィリー・ブラント(鹿賀丈史さん)。彼の就任演説で幕が上がります。首相の執務室にはエイムケ(近藤芳正さん)、ヴィルケ(石川禅さん)、ボディーガードのウーリー(小林正寛さん)らブラントを支える秘書たちや、ブラント内閣の重鎮ヴェイナー(藤木孝さん)とシュミット(三浦浩一さん)、内務大臣のゲンシャー(加藤満さん)とその部下ノラウ(温水洋一さん)らが出入りしている。ある日、エイムケは新内閣には一般市民の意見を取り込むべきと、平凡な党員のギョーム(市村正親さん)を秘書に抜擢する。しかしギョームは東ドイツのスパイだった。彼はボスのアルノ(今井朋彦さん)を通して西側の情報を流していた。そんな中、Gの頭文字がつくスパイが潜入しているという報告を得たヴェイナーは水面下で捜査を始める。
一方、初めはブラントに敬遠されていたギョームだったが、ブラントの遊説が決定し、同行することになる・・・。汽車で遊説地を回りながら、ブラントとギョームは信頼の度を深めていく。
ヴェイナーとノラウは、ギョームの正体を確信し、ブラントに伝える。そして、真実を解き明かそうと、ブラントの休暇にギョームの家族も招待する。ギョームの正体の確信がつかめぬまま一年が経つ。そして、逮捕の日がやってきた。ギョームの逮捕とともに、ブラントの不名誉な面が次々と暴かれていく。ギョームが告白したのか?ウーリーがばらしたのか?それとも・・・出所はどうであれ、ブラントは求心力を失い、シュミットに首相の場を奪われる。


1989年11月9日、ベルリンの壁に立つ群衆をテレビの映像で見ていました。私が生まれた時にはベルリンの壁があり、その壁は東側との精神的な壁でもありました。私が生きている間にその壁がなくなるなど、考えられる状況ではなかったと今でも記憶しています。
ところが、あっという間に壁は叩き壊され、東西ドイツは統一されました。
その頃の生々しい経過を知っているだけに、東西の分裂のために人生が大きく変わってしまった人々の一生を思うと、やりきれない思い、虚しい思いで、胸が締め付けられます。
とても考えさせられる作品に出会ったと感じています。

全員男優で、舞台も至って簡素。
鹿賀さんは、本当に首相!と言う感じでした。
市村さんは、普通の会話と、スパイのアルノへの報告とを同時進行的に台詞を言うのですが、それがきちんとわかるのです。さすがですね。そして、その報告を聞くアルノ役の今井さんは舞台のどこかにいるのですが、本当にいないみたいな雰囲気がありました。これは、舞台でのことなのですが、現実にもこういうスパイというのは、存在しているような、いないような、とても不思議な存在なのかもしれないと感じました。

今も、同じ民族でありながら対立が続く国々が一日も早く、平和的に和解することを心から願わずにいられない舞台でした。

NEVER GONNA DANCE

2005年02月08日 | 観劇記
05年02月8日マチネ公演を観劇。
東京国際フォーラム・Cホール 実質3列目やや上手寄り。

「ネバ・ゴナ・ダンス」を観てきました。
本当に楽しく、これぞミュージカルと、時の経つのを忘れました。本当に小粋な舞台でした。

ざっとあらすじを。結末を書いていますので、これからご覧になる方はご注意下さい。
時は1930年代、ペンシルヴァニア。ボードヴィルのスター、ラッキー・ガーネット(坂本昌行さん)は、結婚式の当日にもかかわらず、舞台に立っていた。しかし、これが最後のショーと決めていた。スター不在に不安を抱く仲間がラッキーの時計を遅らせていたため、ラッキーは結婚式に遅刻。待っていたのは花嫁のマーガレット(秋山エリサさん)とその父(前根忠博さん)。父親はかんかん。それに娘の生活にも不安を抱いていたので、結婚しなくてすむように、ラッキーにダンスを踊らずに2万5千ドル稼いで来い、という。ラッキーはそのままニューヨークへ。
ニューヨークで、多くの人と出会うラッキー。マーガレットと婚約しているのに、ダンス教師で、ダンス大会のパートナーであるペニー(紺野まひるさん)に心惹かれる。ペニーに惹かれるので、お金を儲けなくてもいいのに、ラッキー・コインを預けたモーガン(三田村邦彦さん)はどんどん稼いでしまう。ペニーを思うのはラッキーばかりではない。リカルド(赤坂泰彦さん)はプロポーズしていた。
ダンス大会はアマチュアが対象だったのに、ラッキーはプロ。また、一番の敵となったカップルも実はプロだった。ラッキーはそのことを主催者に伝える。そこへマーガレットも現れ、ペニーはラッキーの嘘が許せず、リカルドと結婚することにした。が、ラッキーはマーガレットが以前付き合っていたのがリカルドだと分る。この二人は愛し合っていたのに、父親が嘘をついて引き離していたのだった。
ラッキーとペニー、リカルドとマーガレット、そして、モーガンとメイベル(大浦みずきさん)と皆ハッピー。

なんと単純なストーリーでしょうか。それでも構わないと思うぐらい、舞台の流れや音楽、構成が素敵でした。
そして、ラッキーとペニーはお互い惹かれているけれど、お互いその気持ちをはっきり言わないのです。それは、相手のことを思いやってのこと。そのすれ違いが観ている側の心をほんわかさせてくれます。

モーガンとメイベルもとても不思議なカップル。ブローカーだったモーガンは大恐慌のため乞食に。毎日セントラル駅を通るメイベルの姿を見るのが楽しみだったのです。ラッキーについてきて、メイベルと接触が始まります。モーガンは金を儲け、また、ある程度の生活をし始めますが、メイベルはお金にではなく、モーガンの優しさに惚れこんでいます。まあ、現実はこうはいかないでしょうけれど、これまた理想のカップルです。
本当に、心が温かくなるお話でした。

まあ、どんなに作品が良くても、舞台の出来が悪ければ、つまらないのですが、とても良い舞台だったと思います。総勢25名のキャストが、素晴らしい場面を次々と作り上げて下さいました。構成も良かったですね。無駄がなくて、ぎゅっと絞り込んだ舞台でした。
そして、何より、音楽が素晴らしいです。知っている曲が多かったためもありますが、本当にステキな音楽が一杯。
そして、その素晴らしい音楽をさらに楽しませようと、ダンスに歌にとキャストの皆様が素晴らしかったのです。ただ、タップがすごい、というふれこみだったので、もう少し全体に織り込まれているといいのになあと思いました。最初に集中しているので、終わってみると、あれタップは?という感じになってしまうのです。

ラッキーの坂本さん。
「学校へ行こう」というテレビを子供と一緒に見ていますが、そのときの様子からして、実は、ほとんど期待していませんでした。何となく、爽やかさが感じられなかったのです。
が、その予想に反して、素敵なラッキーを演じて下さいました。とても歌もしっかりしていて、台詞との繋がりも自然でした。最後の方のすごく悩みながら、ペニーへの思いを表現する「NEVER GONNA DANCE」のナンバーはダンスの技だけでなく、すごく演技力が必要な場面だと思われます。それが、とても物悲しくも素敵で、最後のハッピー・エンドへの繋がりとなり、とても印象に残りました。
そして、坂本さんが間違いなく主演ですし、有名タレントでもあります。が、こういう俳優さんに特有の輝き過ぎ、もっと言えば浮いた感じがなく、舞台を本当に引っ張っていけるスターなのだと思いました。

ペニーの紺野まひるさん。
宝塚時代に数回観ていると思うのですが・・・。
坂本さんのところでも少し触れましたが、「NEVER GONNA DANCE」のダンスは本当に素晴らしかったです。もう、可愛らしくて、もてるはずだと感じました。

モーガンの三田村さん。
ステキです。もう、なんとも言えないボケ具合といい、ほんわかした歌といい、本当に素晴らしいのです。

と、全員やっているといつまでたっても終わらないので・・・
最初にも触れましたが、アンサンブルの方たちのがんばりは本当に素晴らしかったです。タップに歌に、舞台に華を添えます。そういう演出がまたいいですね。さすが、BWミュージカルだなぁと実感しました。その場面の主役をいかに美しく見せるかを知り尽くした構成だと思いました。

勿論、すべてが素晴らしいというわけではありません。
私は、身体的なことは変えられないことなので、その役に合っていないとしたら、それはキャスティングした人に落ち度があると思っています。例えば、病気を患っている役に健康そのもののやや太目の俳優を当てたり、身長差があって美しく見えるカップルという想定なのに、そういう二人を起用しない、などはキャストの問題ではなく、キャスティングしたスタッフの問題だと思います。
残念ながら、今回も、一人一人としては素晴らしいのかもしれませんが、カップルにしてしまうと互いの魅力を消しあってしまうカップルが・・・。敢えて、お名前は出しませんが、リードする男性の方の手が女性より短いというのはちょっと頂けませんでした。ダンスは足の長さより、手の長さかも。

そして、これはアメリカのお話にはどうしても必要なのかもしれませんが、ちょっと日本では不自然と思うのが、人種の違いです。「サタデー・ナイト・フィーバー」はとてもよく似た話です。このときも、主役のカップルのライバルが有色人種でした。踊りタイプが違うというだけでいいような気がするのです。日本の文化には、人種差別がありませんから、そういうところを強調する必要はないと思います。ダンスの内容や衣装での違いだけで、充分なのではないでしょうか。

さて、最後に、私がこの舞台を観に行くきっかけとなった治田敦さんのご活躍について書いておきたいと思います。
治田さんの役は、ペニーとメイベルが勤めるダンススタジオのオーナーか支配人のパングボーンです。ペニーとラッキーが初めて出会う重要な場面を構成するお一人です。
オカマの役ということで、もっと女々しいのかと思いましたが、私には普通の男の人に思えました。その重要な場面を、楽しく、印象深いものにするため、いろいろ笑わせてくださいました。が、結構遠慮がちな雰囲気かもしれませんね、治田さんにしては。それに、もう少し悪い奴という感じが表に出てもいいのではないかと思いました。何しろ、メイベルがペニーに「そんなことしていると首よ」って何回か言うのですから、冷血で、傲慢なおじさんを想像しますからね。治田さんのパングボーンって本当に理解ある上司という感じですね。二幕頭の場面があるから、優しいのかなあ。最後にマーガレットとリカルドの仲を嘘をついて引き裂いた父親に「最低な人間だ。」みたいな台詞を言うのですが、私としては、この台詞って「パングボーンに言われたくはない。」という位置づけではないのかと思いました。
かなり私の妄想です。優しさ漂うパングボーンもとても素敵です。
また、二幕の頭では、ちょっと踊ります。上手くないという設定なので、ダンスは楽しい!と思える下手なダンスをご披露下さいます。しかし、下手に踊るのも大変ですよね、もともとお上手な方が。

本当の意味で、この舞台が今年の初観劇舞台となりました。昨年の反省を活かし、今年はいろいろな舞台を観劇して行きたいと思っています。初観劇がとても楽しい舞台だったので、今年は春から縁起がいいなぁ!

舞台技術スタッフのための共通基盤研修

2005年01月25日 | 観劇記
今月は、自分の職業に関する研修が3件。趣味の舞台に関する研修が2件(先日の亜門さんのトーク・イベントも経験の伝承という意味では研修でしたので)。いや~~~充実した毎日です(笑)。

今日の「舞台技術スタッフのための共通基盤研修」への参加は、佐山陽規さんと広田勇二さんの歌を聴いてみたいという動機でした。午後6時半から新国立劇場・中劇場でとのことでしたので、軽い気持ちで「オブザーバー」資格で申し込みました。
本来のこの研修の狙いは、舞台創造に関わる技術者やプランナーで現場での経験が3年以上の方を対象にした技術向上です。オブザーバーは舞台技術に興味のある舞台芸術関係者ということでしたので、まあ資格があるとかなり拡大解釈して参加してみました。
本来の研修は24日と25日の二日間。一日目はパネルディスカッションと素舞台での場当たりがあったようです。二日目は、ストレートプレー「薔薇」、コンテンポラリーダンス、音楽劇「三文オペラ」の3つのプログラムの仕込み、場当たり、舞台稽古などを行い、最後に通してゲネプロという形での通し上演を行いました。
当初、私は最後のゲネプロの通し上演のみ観るつもりでしたが、仕事のやりくりがついたので、「三文オペラ」の仕込み、場当たり、舞台稽古の一部も見ました。
現職研修者にはイヤホンによる解説があるのですが、オブザーバーにはそれがありません。ただ、劇場内に響き渡る指示の声は当然聞こえるので、とても興味深いやりとりがあって勉強になりました。

お稽古場で舞台自体はかなり作り上げられているのだと思いますが、劇場に入ってみるまで予測不能のことがいろいろあるのだと実感しました。
舞台装置をセットして、セットのチェックをします。3人のミュージシャンが中央、上手、下手に配置されます。真ん中に白い、突起のある板があります。そしてミュージシャンと白い板の間に黒っぽい布がありました。幕は最初畳まれて床の上にあり、それを引き上げていくのですが、手動でやる上手と下手がバランスよく上がりません。何度も何度もやり直します。板と後ろの幕はコンピュータ制御。演出の伊藤和美さんが「3秒の設定を2秒にして」と指示を出すと、数分後には完了。やはり機械はすごい?
ミュージシャンの音響チェック。ドラムは楽器一つ一つに対してチェックをします。単調に叩いているのですが、音響がいろいろ操作すると全然違う楽器になったような音が聞こえてきて、不思議な気持ちでした。キーボード、ドラム、サックス&クラリネットの音響チェックが終わると、ミュージシャンだけで一部を演奏。ここから音楽監督の久米大作さんからいろいろ細かいチェックが飛びます。演奏だけのところはもっと派手に、という大雑把のものから、どこどこのフレーズはもっと軽く、など具体的なところまで。今回はたった3人のミュージシャンでも劇場という空間で音のバランスをとりながら、また、キャストの歌とのバランスを取りながら、細かい指示が繰り返されていくのです。これが大所帯になったら本当に大変ですよね。そうなると「指揮者」が間に入るのだと思いますが、気の遠くなるような作業が繰り返されるのでしょう。
ある程度、音が決まると、キャスト(佐山陽規さん、広田勇二さん、佐山真知子さん、三国由奈さん)の音響チェックです。これは結構あっさり終わりました。が多分、場当たりの途中で、いろいろチェックを入れていたと思います。聞こえ方がいろいろ変わったので。
場当たりが始まります。これが本当に大変。噂には聞いていましたが、劇場に入るまで、空間の大きさが分らないわけですから、本当に一つ一つ丁寧にやってきます。立ち位置、動き出しの位置は勿論、どこを見るかというのもチェックします。キャスト全員4人が揃って、具体的には登場しない人の姿を追いかける視線の位置などは、劇場のどこかを目標にするので、劇場に入らないと決まらないわけです。他にも、広田さんと三国さんが二人でどこかを見つめるという場面があって、伊藤さんから「もう少し上を」と指示が飛ぶと、キャストはどこか目標を探して二人で合わせます。ちょっとしたことですが、本当に雰囲気が違います。視線って大切なんだなぁと実感しました。
場当たりをしながら照明が入ってきます。立ち位置が決まると照明はそこに当たるのですが、かなりばらばら。照明ほど劇場に入らないとセットできない技術はないようです。ライトが当たるとキャストは見え方が違ってしまうようで、目標にしていたものがライトが強くて見えないこともあるようです。
少しずつ進みますが、やる度に最初の印象とは変わっていくので、とても面白かったですね。でも、やっている方は大変です。時間にかなりの制約があるという今回の特殊要因もあると思いますが、すごく細かい指示が一度にたくさん出て、短時間で対応しなければならないわけですから。でも観ている方は、ああ、かわったかわたったと楽しんでいました。
私は、あまり業界用語がわからないので、理解しきれないところもありました。が、ハプニングが起こっても、最善の作業をこなすスタッフの皆様。表舞台には決して登場しない、まさに縁の下の力持ちの方々のいろいろな姿を見て、感慨深いものがありました。

私は、この作業の最後までは見る事が出来なくて、半分はゲネで初見ということになりました。さて、かなり揉めていたドラムの音色はどんな風になったか、照明の出来上がりはどうか、白い板はどんな風に使われるのか、などなどいつもとはちょっと違う視点でゲネを楽しみにしました。

ゲネは3作品を通しました。どの作品も20分程度の上演なので、抜粋です。
最初がストレート・プレーの「薔薇」。場面が現在から過去へさかのぼり、また現在へ戻るという展開をします。その時空間をどう作るかがポイントの作品でした。衣装の上を脱ぐと、冬から夏へ。椅子と机の配置と、見せる舞台を小さくすることで、普通の家庭から夏の軽井沢へ。なかなかシンプルな中に時空間の飛躍がありました。ただ、軽井沢の場面で照明がもっと明るいほうが良かったと感じました。

次は、コンテンポラリーダンス。う~~~ん、理解を超えていました。私はバレエはたくさん観ますが、コンテンポラリーは初めて見ました。踊り手にスポットライトを当てないのが原則なの?と思ってしまいました。つまり、全体に暗い。また、私の感覚から言うと音楽と振りが合っていないような・・・。
上演が終わると質疑応答があります。で、私の疑問「舞台が暗いのでは?」という質問もありました。ほっ、私だけの感覚ではなかったんだ。コンテンポラリーはなかなか難しいですね。

最後が音楽劇。まあ、ミュージカルです。短くても、観たな、という充実感があるのがやはりミュージカルでしょうか。
見比べているというのもあるかもしれませんが、本当に照明が素晴らしいです。勝柴次朗さんという「エリザベート」も手がけられている方です。照明がよく入っていないときを見ていますので、照明がいかに舞台を立体的にしていくかがよく分りました。色の使い方も観客の想像力を掻き立てるような使い方です。
真ん中の白い板(と言っても、照明が常に当たっているので実際には白とは思えない)になぜ突起があるのかと思ったら、進行とともにかなり傾斜するのです。それが、マックの身の破滅を意味しているわけです。
この研修は舞台技術に対するものなので、こういう指摘はしてはいけないと思うのですが、ちょっと、と思うことが一つ。それは、歌詞。あまりにも詰め込み過ぎです。三国さんは初めて拝見しましたが、他の3人の方は何度も舞台を拝見しています。普段、とっても聞きやすい歌唱で、日本語はこう伝えよう!のお手本のような方たちです。でも、聞き取れない。内容がわかっているから大丈夫というところが多かったのです。勿論、演技も歌唱も相変わらずステキでした。
音響という点がミュージカルの場合かなり重要だと思うのですが、最後の場面で、マックに皆が迫る場面では、すごくエコーがかかり、今まで前からしか聞こえていなかった音が、劇場の全ての壁から出ているように感じました。それが照明とあいまって、舞台の臨場感を最大限に膨らませていたと思います。
やはり、ミュージカルは他の分野に比べると、ゴージャス。ということは、関係するスタッフの人数も、機材もとても多くなります。

最後になりましたが、オブザーバーは2階席からの見学でしたので、1階での見え方、聞こえ方はまた違っていたと思います。どの作品も、中劇場ではちょっと大き過ぎるという感じですが、多分いろいろな舞台技術を駆使するには向いていたのだと思います。あの恐ろしいほどの奥行きのある舞台は実際には使いませんでしたが、板の取替えのために見せていただきました。本当に贅沢な劇場です。

亜門さんのトーク・イベントと今回の研修とで、本当にいろいろ舞台を作り上げるまでの苦労はよ~~~くわかりました。とにかく、本当に時間がかかります。また、危険もとなり合わせです。それだけに、舞台技術の向上は、芸術としての高みの前に、安全性の確保という面からもしっかりとして行って欲しいと思います。今回は初めての試みだったようですが、続けていって欲しいと思います。

普段、言いたい放題なので、ちょっとお勉強して、同じ言いたい放題でも、的外れにならないようにしたいなぁ、と思っています。歌唱や演技についての技術的なお話はいろいろな場で触れることも多いのですが、舞台技術となるとなかなかその機会がありませんでした。今回はとても貴重な体験をさせて頂きました。